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COLUMN 1−D 1840
平成24年2月5日・記
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名古屋たまり場・農楽倶楽部
固形培養(ぼかし)づくり
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微生物を繁殖させ、無農薬・有機栽培にとり組むために「ぼかし」づくりをしました。
この時期気温が低いために、遠山郷藤原学校のスタッフが他の場所でボカシづくりをされておられますが、温度が上がらず苦労されているようです。
名古屋・農楽倶楽部のメンバーが倉庫を持っておられるのでそこで製造することとなりました。(この倉庫には昨年購入の農機具も置いてあります)

昨年収穫の稲藁を刻み、米糠を混ぜ、ベース菌、発酵鶏糞、糖蜜等を混ぜてシットリとした感触になるまでエナジー水を散布して掻き混ぜる。
当日・12時の倉庫内の気温は14度でしたが、カバーシートを被せ、更にお布団で覆い、夜間には暖房も入れるように用意されていました。
24時間後には40度くらいまでに温度が上がるのではないかと期待しています。 その後、適時攪拌して藁がポロポロになるまで仕込みます。
新たに加わったメンバーと共に、犬山・羽黒の資材置き場の使用ルールの打ち会わせ、まだどれほど収獲出来るのかもわからないのに、収獲物の
販売方法まで話が進みました。
倉庫に北海道より取り寄せた種ジャガイモが20Kgあり、既に1〜2センチ芽が出始めています。↓倉庫内の温度はボカシづくりに適していると思われます。

なお、本日も酒粕を持参し、トロトロの甘酒を作り振る舞いました。
COLUMN 1−D 1839
平成24年2月4日・記
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今年の新酒と酒粕
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1月中旬に贔屓にしている取り寄せ蔵元から、「お得意様」へのお年玉(?)の酒粕が初めて送られてきました。

↑左が送られてきた1Kg入り、注文した切り出し2Kgの酒粕。
何時も美味しいと思って飲んでいる基となる酒粕、初めて甘酒で飲んでみましたが成るほどという美味しさです。
そして、2月1日に本年初の新酒のパンフレットが届きました。
昨年末に届けられたお酒は後1日分した残っていませんでしたので、早速注文です。
そのパンフレットに別刷りで酒粕の紹介もありました。

↑NHKテレビ「ためしてガッテン」でも取り上げられたようです。
急ぎの配達を依頼しましたところ、昨日昼には到着しました。
本日は「波動の会」ですので、ボリビア産の糖蜜といっしょに酒粕も持参して、参加者に楽しんでもらおうと思っています。
お酒好きの私だけが美味しがっているだけなのかも知れませんが、皆さんどのような反応を示されるかこちらも楽しみです。
COLUMN 1−D 1838
平成24年2月3日・記
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ゴルフに誘われているのですが・・・
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1997年(平成10)でゴルフは止めました。
もう少し正確にいますと、その後今日まで14年間で3回グリーンに出かけました。 最後に行ったのはもう8〜9年前でしょうか。
その時も近くのゴルフ練習場に3回通い本番でした。 それでも110を切って廻ってきたと記憶しています。
ゴルグ大好きの友人が名古屋に行くからゴルフをしようと誘ってきたのですが、練習も全然していませんし、身体も固くなってきたことですので、さてどうしたものかと思案中です。

↑散歩コースのゴルフ練習場です。
ゴルフクラブは物置の隅に3セットありましたが、既に2セットは処分しました。残っているゴルフバックも埃をタップリかぶっています。
更にバックの中のクラブは既に年代物になっていることでしょう。
錆ついているのではないでしょうか。

↑マガホニーシャフト、柿の木のヘッドの「ウイルソン・ドライバー」
思い出して書斎のカーテンの桟の上を調べてみましたら、上記のゴルフクラブがありました。
シャフトのところに1982年11月、米国視察の帰りハワイにて購入と記録がありました。 当時既にクラシックゴルフクラブとして販売されていたものです。
購入当時面白がって一度使った事がりましたが、正確なショットでないと何処に飛んでゆくか分からない代物でした(当方の腕が悪いのですが・・)
親しかった 友人の誘いですので、どうしたものかと・・・。
ゴルフ場を芋畑にと10年以上前から、口にしている者として・・・。
COLUMN 1−D 1837
平成24年2月2日・記
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当地の積雪は3センチメートル
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日本海側はもちろんのこと、隣の岐阜県も飛騨地方では1メートル以上の様です。 名古屋市・平野部でも15センチ程のようでした。
風が冷たく、庭の雪が溶けるまでは家の中でした。
午後の3時過ぎにミカンを啄みに来たメジロに誘われて、撮影した置物。



↑吹き溜まりに置いてあったシダの雪はご覧のような積雪でした。
COLUMN 1−D 1836
平成24年2月1日・記
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沖縄からかえって翌日
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48時間の事ですが、暖かな光とおもてなしに触れた肌と心は、一際温度計のメモリが指し示すより冷たく感じました。
今朝は庭に投げ出された甕には、1センチ程の氷が張っており一層身を引き締めましたが、壁当てキャッチボールを終える頃には身体に温もりを感じました。

↑月替わりをしたためでしょうか、ロウバイも一層芳香を放ち、満開です。

↑福寿草も頭の先が色づき始めました。
COLUMN 1−D 1835
平成24年1月31日・記
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遠山郷(地元、藤原学校)と沖縄の方々の交流会
〜1月28〜30日 IN 沖縄〜
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1月28日
昨年、沖縄から3回団体で遠山郷へお越しいただいた。延べ50人強。
遠山郷藤原学校も12月から2月までは例年遠山郷のスタッフが集まる程度で休校です。 その機会を利用して沖縄に訪問することとなりました。
今年は暖冬ならず寒冬と言われ、1月28日の遠山郷の朝はもちろん零下の気温でした。
曇りか悪くすると雨もあると予報が出ていましたが、この3日間は最高気温が25度で日中は暑いほど、全体としては爽やかで気持ちの良いお天気に恵まれた交流会となりました。

↑沖縄空港の出迎えのお花
中部空港でセーター、コートを車に置いてきましたが、更に遠山から着てきました上着を脱ぐこととなりました。

↑佐喜真美術館
この美術館の屋上から普天間基地が見渡せました。 美術館の敷地は基地との緩衝となった緑地の隣です。
が、、美術館屋上から見える小学校の窓からは訓練中の戦闘機の操縦兵士の姿が見えるとのことでした。当日は土曜日で訓練もないのか静かでしたが、普段はやましく会話もままならないということです。

↑初日の夜、遠山郷の酒豪を迎え、「酒豪酒楽」の悪酔い防止薬準備。
この夜、早寝の私はベットでしたが、繰り出した方々は午前1時を回っていました。
1月29日 平和文化村 読谷めぐり
「やちむんの里」

↑読谷村は県内でも有数な窯どころで50以上の窯元があります。
人間国宝、故・金城次郎さんの窯もあります。

ここで、ガイドさんから面白いお話しを聴きました。 故・金城次郎さんが作成された湯呑茶碗が村役場で使われていました。
人間国宝となったと報道されたとたん、その湯呑茶碗がみんな消えてしまったという事です。

↑登り窯
「世界遺産 座喜味城跡」

↑沖縄の大地はサンゴ礁でできています。それ故に強度がありません。
そこで、15世紀初めに読谷村按司・護佐丸により築城された、切り石積みの連郭式の城で、アーチ方になっており、土台の天井幅が大変広く、一番広いところは5メートルはありました。

「残波岬」


↑その岬に「泰期像」があります。 彼は進貢使として琉球からは初めて中国に渡った人物。大交易時代を切り開いた。中国を指差している。

↑昼食時間まで時間があり、近くの琉球一の焼き物の前にて。
写真は取りやめますが、昼食時間まで待てなくて、ビール缶が開けられたことをメモしておきます。

↑昼食場所・残波ゴルフクラブの表示モニュメント
ここで藤原先生が午前9時から午後の5時まで、講演をされておられました。
「チビチリガマ」 「シムクガマ」

沖縄戦に置いて米軍の残酷な仕打ちを教え込まれていた避難者約140名に内83名が集団自決をした洞窟(ガマ)

↑ガイドさんの説明・解説に聞き入りました。

↑一方、シククガマに避難していた約1000名は、ハワイに移住していた経験者がおり英語が話せ、米軍の呼びかけに応じて全員が助かりました。

↑シムクガマに徒歩で行く途中、「不発弾調査中」の看板です。
沖縄は今でも戦争の跡が消えたわけではないことを、ここでも教えられました。
「サトウキビ収獲体験」

↑サトウキビの植え込みから収獲までを説明していただく。

↑独特のサトウキビ専用の鎌、鞘を剥きやすくなっています。

↑一日、一人で収獲出来る面積は約100坪とのことでした。
収入は政府の補助がなければ到底生活できません。 ここでも若者が跡を継がず後継者に困っておられました。
「琉球武家屋敷””謝名亭”にて交流会 うちなぁー宴会

↑敷地内の一角に「謝名亭」があります。

↑正装でお迎えいただきました。

↑これまた、正式(?)なお手前で琉球茶を頂く

↑大きな茶筅で泡を立てます。
うちなぁー伝統芸能
かぎやで風

↑慶び事はまずこの舞いから始まるとのこと。
空手演舞

↑琉球武道も披露されました↓(沖縄尚学・高校生)

↑学校で必修になっているかと尋ねましたが、「NO」でした。
うちなぁー式 にーびちー余興

↑打って代わって、オリジナル沖縄ダンシングチームです。↓
今回交流会参加のメンバーの方の中から選ばれた様です。
当日ご夫婦で参加されて居られる方もあり、4組ほどが紹介されました。
ここでも、沖縄の方の明るさと大らかさを実感しました。


↑「参った、参った」と藤原先生もおおはしゃぎ。

↑山崎校長もついつい腰を浮かして仲間入り。

↑やんや、やんやの盛り上がり
エイサー カチャーシー

↑そして、締めくくりはこれです。↓

↑沖縄は日本本土に出て行っても、再び戻ってくる人が多いと聞きます。
今回、「沖縄の若者と遠山郷の若者の交流会もしましょう」との提案を受けました。
60歳になっても「若い衆」と呼ばれる遠山・木沢地区ですが、旧南信濃村ならば、何とか20人程の若者が集められるか?

↑私の推測では今回の交流会の企画・運営を担当された「日本人事」のスタッフの面々です。
今回の交流会の参加メンバーは約70人、遠山郷にお出でになり顔見知りの方が約25人程でした。
「今年は行くからね」、あるいは「今年も行くからね」という有難い声が多く聞かれました。
遠山郷の地元の方は「こんな歓待をされては参ったな。今度来られた時にはどうしたものか」と言っておられました。
「沖縄には沖縄の明るく・大らかで・元気で情感こもる歓迎があり、遠山には遠山の飾らない・人情あふれる素朴な受け入れがある」。
両者を体験した私にはそれぞれに捨てがたい良さがあると改めて感じると同時に、それ故両者に何処かに惹きあうものがあるのかなと思いました。
1月30日

↑琉球王国最高の聖地、「斎場御嶽」(せーふぁ うたき)世界文化遺産

↑鍾乳石から聖水が滴る。↓其れを受ける金の壺。



↑三庫理(サングーイ)この奥が拝所(パワースポット)

↑三庫理の東側に琉球開びゃく伝説の島・久高島が望める。
「神の島」と呼ばれる久高島から白砂を運び込み敷き詰められた。

↑沖縄空港のお花ともお別れして・・

↑気温22度の沖縄から9度の中部空港へ

お疲れさまでした。
COLUMN 1−D 1834
平成24年1月27日・記
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明日から、沖縄に行ってきます。
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日本海側は大雪で大変な様子をテレビ報道が伝えています。
当地は朝方ウッスラと庭木を白くしていましたが、その後はチラチラ程度、午後には薄日も差して来ておりますが、気温は全く上がりません。
明日からは昨年沖縄から遠山郷へ団体で3度もお越しいただいた返礼も兼ねて藤原先生、地元の方、遠山藤原学校のスタッフの12名で沖縄に参ります。
昨年2度目の10月2日の時だったと記憶していますが、遠山郷・下栗の
熊谷さん宅で昼食を頂きました。 熊谷さんの親せきや御近状の方々総出で歓待していただきました。
その時の印象が余程強かっのでしょう、”おもてなしなら、沖縄の私たちが一番と思っていたが、それ以上であった”今度は其れに負けず劣らずの歓迎を予定していると情報が入ってきました。
どのような趣向でお迎えいただけるのか大変楽しみです。
ということで、このコラム数日お休みです。帰りましたら又報告します。
COLUMN 1−D 1833
平成24年1月26日・記
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藤原先生を囲んで「たまり場勉強会」
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2ヶ月に一度の藤原先生を囲んでの少人数による名古屋たまり場勉強会が本日午前9時半から開催された。
先生からの一方通行のお話しではなく、質問や疑問を交えてのラフな勉強会です。
冒頭先生からは世界中で色々なことが起こっている。 節分を境に更に起こるのではないか。それに対処するには「時間と気分の余裕を持つこと」が大切と語られた。
・これまでのデフレの時代は政府や大企業が有利であったが、輸入物価が上がり、コストが上昇する結果、政府・大企業は崩壊する。
代わって、中小零細企業が登場し、この10年間でユニークな商品が開発される初年度が今年ではないか。これからが勃興期である。
日本が10年かかって体験してきたことを欧米では今急激に発生し・混乱している情況。 崩れ・焼け野原になるのではないか。
お役所に近いところにいる方々が大変、年金生活者、補助を受けている農業、大学等が特に・・
ゴールドも一時的には暴落すのではないか。がそのまま持っていればよい。
・ラッキーなことはあるだろうが、王道はない。仕事があれば良い。
・極貧国の戦略は@核兵器を持って交渉力を持つか、Aサイバー戦争を仕掛けるか、B消耗戦に持ち込むか(相手を経済破綻に持ち込む)、Cおびき寄せて地上戦に持ち込み、籠城作戦をする。
・戦争・経済等は予測できても、自然災害(天災)は読めない。
〜「時間と気分の余裕を持つこと」と語られた。 物理的な時間の余裕はある。 今のところ特に慌てることもなく気分も落ち着いているつもり・・。
今朝、「今という時は、生きているだけで修行だ」と半夢の中で問答していた。
2月4日、後9日で立春、新しい年となる。
「明けましておめでとう」とは書かなかった、書けなかった今年の年賀状。
大寒の中、冷水摩擦で気合いを入れています。
COLUMN 1−D 1832
平成24年1月25日・記
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中部大学・聴講生で
「定年退官・鷲見教授を送る会」を開催した
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1月24日、春日井・勝川のホテルにて、ヨーロッパの歴史(西欧・フランス専門)担当の鷲見教授を送る会が開催されました。
このコラムでも数回紹介しましたが、絵画、映像、音楽を交えた文化・芸術色濃い講義でした。
文化・芸術、建築、オペラ等私にとってはこのような講義がなければ一生ご縁のない内容でしたが、そういうものかの一端は感じることが出来ました。

↑さて、このようなプライベートな催しものには、お世話していただける方がおられるもので、今回も昨年11月頃より様々な気配りで今回の開催に漕ぎつけていただいた立役者のSさんです。

↑ 乾杯をして

↑酔っ払う前に記念撮影をしましょうと・・・・
当初、先生を含め20人の予定でしたが、平均年齢70歳を超えておりまして、現在春日井市でもインフルエンザが流行しており、急遽2名の方が欠席でした。

↑女性の参加はやはり場が柔らかく・華やかにしてくれます。
↑中部大学のおいても人気教授でありましたが、東京に戻られからも継続して教鞭をとる要請が多く、また研究も続けられるとのことです。
このように聴講生が集まって、教授を送る会が開催されることは滅多にありません。人柄と講義にかける情熱とその準備時間が生半可なモノでないことが素人にも解ります。
ありがとうございました。
COLUMN 1−D 1831
平成24年1月24日・記
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友人・知人からのメール,手紙から・・
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「お前さん、急に歳を喰ったな〜」、とか、「あまり変なこと、色気のないこと書くな!」とか、「遂に、頭に血がのぼったか、先行き短いぞ!」というメールや手紙を頂きました。
今年に入っての私のこのコラムの内容がそれまでと少し違うと言うことを言っておられるようです。
私としては特に意識していることもなく、其の日に感じたこと、浮かんできたことをそのまま入力しているつもりですが、何処かに変化があるのでしょうか。
特に、このようなことを言いたいとか、訴えたいとかなどはなく、日常生活の中の一つの作業みたいなもので入力しています。
強いて、言うならば昔の事を思い出して書くと言うことはしないようにと思っていましたが、このところそのような制約をも課していませんので、其の結果でしょうか。

↑少年自然の家・定点観測地点の展望台より春日井から名古屋を望む↓

↑画面左上のビル群は、名古屋駅前です。
「狼爺」と言われてから早15年近く、リーマン・ショック以降は言われ方が少なくなりました。 そして、昨年の東日本大震災以降は全くありません。
やはり、皆さんこれからは、これまでの延長線上にはないと内心気づくと同時に少なからず恐れも抱いているように感じます。
とは言え、何とかなるのでは、そんなに恐れることはないのではという希望、思いで日々を過ごしているのではないかと頂いたメールや手紙から感じています。
各いう私は、悲観論者というよりは究極では楽観論者と認識していますが、それでもこれからは今までと同じような生活が続けられるかというと、かなり厳しい情況になるだろうと言い聞かせいています。
こんなことを書くと再び、どのような情況を予測しているのだ、そしてどのような心づもりと準備をしているのだとの問いかけがきそうです。
そこが、ええ加減。イイカゲン修行僧でして、其の時はその時とどのくらい腹くくりが出来るかと自問しているというのが実態です。

↑5メートルの展望台の真横にソヨゴの実↓

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