エッセイ A 「日々、身の回りのこと」
COLUMN 1−D NO528−7
平成18年5月22日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜8冊目から9冊目(1991年)発行、1996年有効〜
〜10冊目は1996年から2006年の10年間〜
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「11冊目のパスポートの申請へ」が、7回目となりました。 此処まで来ると限の良いところまで行かないと、収まらない性格です。
8冊目の発行地は「CONSULATE GENERAL OF JAPAN AT HONG KONG]です。 殆ど毎月、日本と香港を往復しておりましたので、、パスポートの余白がなくなり、9冊目が1991年7月19日に発行となっております。 この年の6月に帰国しておりますので、発行は東京・外務省です。
前回の香港の思い出のところに入れておくべきであったでしょうが、1987年の11月に香港から中国に直接入国しております。 香港を窓口としての輸出入の可能性はないかとの検討も兼ねて、日本からの担当者と合流しました。

万里の長城です。
この時、写真がなくて残念ですが上海でのことです。 案内してくれた女性の実に洗練された身のこなしと、服装でした。 それまで経験していた他の中国の地域とは比べようがありませんでした。 戦前から国際都市として栄えたところという意味を実感しました。
近時、中国、とりわけ上海の急成長経済のことが様々に取上げられていますが、改めて20年前の光景を思い出し、別に驚くべきことではないなと思っています。
この項を読んでいてくださる方からメールを戴きました。『君が香港に滞在しているというのに、家族のことが全然登場してこないが、どうなっているのだ』と。
1987年12月30日、名古屋から12時間かけて延着した家族を迎えました。

翌日はマカオとジュハイを案内しました。
その後も、1988年は女房の父親を連れて「桂林の船くだり」、1989年は家族でタイランド・パタヤへ。 1990年は再びお80何歳?の爺ちゃんと同伴で台湾へ、1991年は家族をマレーシア・コタキナバルへと案内しております。 そして、その年に帰国辞令がでましたので、インドネシア・バリ島へ女房と行ってきました。(ご心配をおかけしました、以上です)
1993年からは、サラリーマン最後のお勤めとなる”ミセス・ファッション専門店”への勤務となりました。 「髪結い亭主のビジネス」と名づけましたので、サービス精神旺盛な口八丁手八丁の日々で、オーストラリア、ハワイの優待ツアーや優秀社員ツアーの補助係を勤めました。

寅さんになったり モデルになったり サンタになったり
10冊目になってからは、2000年の上海、2002年のベトナム、2004年の船旅での上海、杭洲と隔年の海外旅行です。
その間2001年には歩きで43日かけて「四国88箇所遍路」。その年、高野山と紀伊半島
2002年,春には車旅で四国88箇所を回り、夏には北海道。
2003年の春は、九州を40数日かけて一周し、夏には東北と残っていた北海道を回る。
2004年の春は、山陰からまだ行ったことのない山陽路を回り、これで概ね日本一周を終えました。
昨年から放送大学と中部大学で世界各地の歴史・文化・社会を勉強中。
来年からは、再び世界遺産の旅に出掛けてみたいものだと考えているのですが・・・
歯の検査と修理。 高指血症・高血圧、腹回りが88センチメートルとシンボリック症候群の予備軍どころか、そのものであります。
11冊目のパスポートには何処の国の名が、どのように記載されるのでしょうか。
そして、何を体験し、発見し、感動し、イキイキ・ウキウキ・ワクワクの時となるのでしょうか。
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COLUMN 1−D NO528−6
平成18年5月22日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜第7冊目(1983(S58)年発行から、
第8冊目(1988(S63)年発行〜
<1986年から1991年の5年間、在香港>
香港での思い出の数々
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ついに、”11冊目のパスポートの申請へ”の項が、NO6になりました。 今回は「香港での思い出の数々」と題して、年月日は前後しますが、掲載します。
まず、私の住居はかって造船所のあったところで、そこに「太古城=CITY PLAZA ショッピング・プラザ」として開発がされた所です。 半径200メートルのところに、29階層のビルが50棟以上はあったでしょうか。 その29階に居ましたので、香港島と九龍半島を結ぶ第2海底トンネルの工事現場のほぼ真上で毎日見下ろしておりました。

1987年5月 1988年5月

1989年5月
予断ですが、かって海峡に「啓徳空港(カイタック空港)」がありました。 発着、離陸する飛行機を時に、いささかセンチな気持ちで眺めていたことを思い出します。
さて、この第二海底トンネルの完成を祝して、「東区海隊百萬行」(チャリテイー・ウオーク)が1989年8月27日に開催されることになりました。
可能な限り地域の行事には参加することを心がけていましたし、香港の従業員にとっても一生に一度のことであろうと声をかけてみましたら、参加するという声が聞こえてきました。
チャリテイー・ウオークというのは、自分が変わりに歩くから寄付をしてくださいと知人、友人に声をかけるのです。 集まった浄財は25273・50香港ドル(日本円に換算して約50万円)、彼らから揃いのユニファームを会社のほうで出して欲しいとの要望で、約18500香港ドルを出費しました。 休日ではありませんので、早番・遅番の調整をして約100人の参加者でした。


右は29階から、撮影したものです。
年に1度の行楽が実施されました。

1988年 9月4日
名前は忘れました。島に海水浴です。 日本人のスタッフの奥さん方も参加しました。

1989年7月、全員香港スタッフに囲まれて
社員表彰も心がけました。

地元の部長推薦、日本人スタッフが承認するという仕組みで選びました。
年に一度の棚卸の後の「船上パーテイー」は特に、盛り上がりました。

無料ではいけないとの意見があって、参加費10セント=約190円、これに刷り込まれたNOで、ラッキープレゼントがあり、これがまた盛り上がるでした。

日本人スタッフの出し物は喜ばれました

私も何のパフオーマンスだったのでしょうか。 思い出せません。 右の写真は普段警備担当者でしたが、当日、変装して私の真似をしました、大受けでした。

自宅にも呼んで、屋上でバーベキューをしたり、日本食を提供しておりました

販促関係の集まり

日本人と地元の幹部が集まりました

結婚式にも招待され、マージャンをしてシッカリ負けました
営業活動も兎に角、様々なことを実施しました。 これは他の日系企業と異なり、日本人スタッフが23人居たということで事で可能なことであったと思います。

タイ・FOODフェアー ドイツ FOOD フェアー

カナダ FOOD フェアー 韓国 FOOD フェアーの方々と

こんなイヴェントもありました
もちろん、「JAPANESE ウイークも開催した。


節句飾り
今は、今年から「日本昭和村」に寄贈し、展示されています。
「ジャパニズ・フェアー」として、日本の神輿と法被を取り寄せ、日本人スタッフのお子さんや、太古城に在住の日本人の方々と共にイベントを行ないました。 沢山写真を撮った覚えがありますし、皆さんに思い出として配った記憶もありますが、私の手元には一枚も写真がないのです。 何方かお手元にありましたなら教えてください。
子ども向けには、地元の絵画の先生にお願いして、「子どもの日絵画展」を開催。

「ミニレ−シング・カー大会」も開催、日本人の子どもと香港人が仲良く


三和銀行の自動現金引き出し機の設置もいち早く受け入れることにしました。
香港には当時日系の百貨店を初め、スーパーもあわせて、8社が出店しておりました。 「日本百貨店会?」という名称で、毎月ゴルフ大会が実施されておりました。

、
年に1度の東南アジアの商業視察ツアーも実施されていました。

確か、1989年のマレーシア・タイへのツアーのことでした。 左足・膝下の神経が鈍い感じです。 その時、疲れも手伝って車椅子で休んでいたのですが、帰国後も直らず、それから約1年半、様々な治療をすることになりました。

車い椅子で休む かって、上海で皇帝医であった子孫という方にも
結論から申し上げますと、病名的には頚椎症です。 左半身の神経が鈍く、常に痺れていました。
香港の中国医は「病気だということを忘れなさい、そうしないと貴方の神経が参ってしまいます」といい、日本の医者は「ま〜、しばらく様子を見ましょう」ということでした。
帰国後、”忘れることにしなさい”というアドバイスを受けいれました。 疲れや感冒などにかからなければ、日常生活には特に支障がない程度でしたが、1988年堪えきれない程の激痛に見舞われる毎日となり、80日の入院となりました。 この年に退職しております。
年代は忘れてしまいましたが、多分1987か88年のことだと思います。 私がマンションから出かける時、トイレの自動閉鎖の蛇口が上手に閉まらなかったのでしょう。 帰ってきたら部屋中が水浸しです。

日本人の家族総出で対応してもらいました。 その後の休息
そんな中でも、香港在住の中日ドラゴンズのファンによる「香港ドラゴンズ会」が発足。 
中央、前中日監督の星野さん
旧正月には閉店後、日本人スタッフで「直営の桜レストラン」で一杯のお祝いです。

また、1988年も後半になりますと、店舗の営業も軌道に乗ってきました。
私は韓国クラブのピアニストに勧められて、デイスカバリー・ベイ・ゴルフ場の会員権を4年分割支払いで購入しており、時折フェリーに乗ってゴルフに行っておりました。 というよりは喧騒な香港の街中から逃げ出したかったのです。
特に何もすることのない香港です。 社員福祉の一環として同じクラブの法人会員権を購入しました。

時には、これまたフェリーで1時間、それからバスで1時間、パスポート持参で国境を超えて中国・シンセンのゴルフにも出かけておりました。

1990年代になると、この地でゴルフの腕を上げられた方も居られると聞いております。
次に紹介しますことは、結構、香港社会の中で注目されました。
オリジナルではないのです。 1979(昭和54)年から日本の親会社で始まったと記憶しています。 買い物したあとのつり銭、1円を恵まれない方に寄付してくださいという「1円で愛の募金活動」です。 これを香港ドル10セントに見立てて「愛の10セント募金」として募りました。 それが思いがけなくも多額の募金額になったのです。
私が1990年1月1日、香港から出した年賀状には、このように書きました。
『現実主義で、功利的な人びとが、愛の10セント(日本円1・9円)店頭募金に、1年半で280万j(日本円550万円)も参加してくれました。
あの天安門事件は、記憶から遠ざかりつつありますか?
香港では、表面平穏に、中堅人材の移民が続いています。
一方、目標を共有し、行動を共にする、そんな仲間も出来つつあります。』と


手元で確認できる資料から見ると、その後も10万香港ドル、続いて88800香港ドルと寄付することが出来、1991年2月8日の「THE COMMUMITY CHEST SPECIAL EVENTS]で特別表彰を戴いています。
最後に、開店後1年経過したところで帰国という方も居られましたが、大半は2〜3年経過したところから、帰る方と新たに赴任してこられる方との入れ替えが始まりました。


上記の写真の方は、地元の方を除いてもちろん全員日本へ帰国されております。
当初は1987年から1997年まで、香港が中国に返還されるまでの10年間が契約期間でした。 詳しいことは知りませんが、その後も、1997年に契約更新がなされ、2006年5月現在、大半の日系流通関係の会社が香港の会社・店舗を閉鎖されましたが、「生活創庫 UNY]は順調に営業を継続されておられます。
また、一度訪問してみたいものだと思っています。 |
COLUMN 1−D NO528−5
平成18年5月22日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜第7冊目(1983(S58)年発行から、
第8冊目(1988(S63)年発行〜
<1986年から1991年の5年間、在香港>
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”パスポート申請へ”のNO528が、5回目となりました。 こうなるとこの”コラム 1−D”の範疇を外れていますが、これまでの経緯上、このまま此処に掲載し、「エッセイ・その他」項目と、<エッセイ 身近な日々のこと>(これも外れていますが・・)にも重複掲載することにします。
香港から帰ってきた頃は頻繁に、最近でも時々香港の話を聞かせてくださいと言われる方が居られます。 が、話すにしても何を話せば興味を持っていただけるのか、分からず次の機会にと言ってその場を過ごすのが殆どです。
丁度良い機会ですので、香港当時のアルバムを引っ張り出して見ることにしました。
沢山の写真が殆ど整理もされずに積み上げられていますので、話が前後したり、重複したり、勘違いをしているかもしれませんが、可能な限り写真で紹介してみたいと思います。
1985年の11月に正式な契約調印が成されたと記憶しています。 年が明けて、最初に赴任された方は、多分1986年4月頃、総務人事関係のHさんでした。 その後、8月までには辞令発令の20数人の方たちが市場調査も兼ねて、殆どの8月末には赴任されたと思います。
私は8月に辞令を出て、数度調査のために香港に渡り、正式赴任したのが11月ごろと思います。
年が明けて1987年4月3日に「プレス・コンファレンス(新聞発表)」は行なわれました。
このような準備をしたことは初めての事ですし、日本とは異なる仕来りというかルールみたいなものがあると教えられ、これらのことに詳しい方に教えを請いに行きました。
どれだけの数の報道機関が来るのか、そのこと自身が企業間の競争の一つで、本音のところは教えて貰えなかったと記憶しています。 それでもやっとこぎ着けました。

一方、採用面接が始まっていました。 当時は流通業を初め、各種の業界が香港への進出を計画していましたの採用難です。 しかも、地元の方は少しでも条件の良いところに、サッサと移動するという状況でしたので、先発出店企業としては自社で教育した社員を引き抜かれることを大変警戒しておりました。 採用条件についてもいろいろと注文がつきました。
2交代制の勤務で、総数650人を採用するのですから、影響が出ないわけにはいきません。 まず、幹部級(部長)の採用から始まり、彼らの意見を聞きながら、課長級、係長級、一般社員の採用と進みます。

1986年9月の上級幹部の面接風景です 地元取引先への説明会で
1987年2月から内装工事が始まりました。

1987年3月には日本からの第1陣の商品が到着しました。別に借りた商品保管用の倉庫への搬入です。

左の写真の彼は、役員用自家用車の運転手です。 もともとは洋服の仕立て職人であったようですが、小金を貯め、自己所有のタクシー・ドライバーになりました。 その自動車と権利を友人に貸与して毎月幾ばくかの収入を上げ、自分はお抱え運転手となりました。 タクシー運転手は競争が激しく、疲れるから収入は低くなってもこのほうが良いといっていました。 私は彼に株のことも指南を受けて、少しは儲かったと記憶しています。

スーパーバイザー(係長)級の教育が始まり、 地元仕入れも検討されました

そんなある日、スプリンクーラーの破損で水漏れです。 この他にも私は知らされずに夜を過ごしたのですが、地下売り場に水道が破裂して水浸しになったこともありました。
オーナーに弁償を掛け合ったのですが、「だから、保険をかけておきなさい」と言ったでしょうと、まったく取り合ってくれません。 契約書の意味を教えられました。
オープンの日が近づいてきました。 隣の中華レストランのオープニング風景です。


ショッピングセンターのソフト・オープンの中央センターの様子です。
このように香港では「ソフトオープン」といって、全体のグランドオープンとは別に、出来上がった店舗から順にオープンしてゆきます。
私たちのお店も6月2日オープンを目指して、商品搬入・陳列が始まりました。
日本では取引先の応援も受けて集中的に準備がされて、早ければ2〜3日で準備完了となりますが、そんな訳にはいきません。多分1週間以上かかったと思います。

最後の看板架け と言っている間にも、天上に穴が開きました

6月1日「竣工パーテイーが開催されました

右の写真左から2番目の方が、直接的な契約交渉相手でした。 あたりが柔らかく、いつもにこやかで、それでいてネゴシエーターのイギリス紳士でした。

眼鏡の方が内装全体を指導していただいた内田繁さん。 右が日本においても”アピタ店舗”開発推進の最高責任者であった安井さんです。
店舗コンセプト、内装設計等を指導いただいた方々が、オープン5月29~30日に来香港し、祝いとお礼の席を設けました。


高級な中華レストランでは、当日の料理の最高責任者が席に呼ばれて、当日のメニューの説明をし、記念にメニューをその場で書いていただけます。 それが又達筆なのです。
オープン当日の開店前です。

当日の私はこのオープニング・セレモニーの責任者でしたので、記念の写真は一枚も撮っておりません。 数日前のレストランの開店風景と変わりません。
開店前には朝礼を行ないました。


年齢16〜18歳の若くて、賢そうな社員が揃いました。 その後が大変なことになることを、その時には気がついていないのです。
それは香港では新学期が9月です。 5月末、日本で言うならば中学・高校を卒業しております。 新学期が始まる8月末までは、就職して稼ぎ、そのお金で旅行を楽しむと言うのです。 確か8月になると100人近い退職者が発生しました。

一番客の入場です。 その後、終日のお客さんが続きました。

オープン後、直ぐにこの広場で爆発騒ぎがありました。 日系企業オープンへの嫌がらせとの報道もありました。 その後も2回、爆破予告の電話が入り、一時閉鎖することになりました。 上記の写真はオープン後、3回目の日曜日、父の日のショッピングセンター中央の様子です。
ソフトオープンが6月2日、グランドオープンが6月12日でした。
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COLUMN 1−D NO528−4
平成18年5月21日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜第6冊目(1978(S53)年発行から、
第7冊目(1983(S58)年発行〜
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こんなに続けるつもりはなかったのだが、此処まで書いたのならと続けることにしました。
しかし、昭和53年の第6冊目以降、第7冊目の有効期間1988(S63)年までは、写真が殆どありません。 今、思うに写真どころではなかったことが一つ、そのくせ家族との国内旅行の写真はソコソコあります。
なを、途中に1986(S61)年からは、香港に在住となりますので、そこからの記録は沢山ありますが、今回のNO528−4では、昭和60(1985)年までのことを書くことにします。
さて、1976(昭和51)年から本格的に始まった最後の企業合併の作業は1978(昭和53)年の春の組織改正、人事異動で一応の決着を見ました。(実態はまだまだ続くのですが・・・)
そこで、それまで異なる組織に所属していたリーダーが打ち揃って、現在は世界NO1の流通企業アメリカの”ワルマート”を訪問、視察することになりました。(その当時、アメリカでは成長が著しいと言うことで、注目はされたいましたが、売り上げは上位10に入っていたのでしょうか?) 旧知のベテラン・コンサルタントを先生として出かけました。

歓迎看板の前での記念撮影です。
同じ年には、アイセック(ISEC)の国際留学生の受け入れをしており、我が家でも宿泊しました。 
1980(昭和55)年、勤務する会社はこの年、企業戦略として・高度化・多角化・国際化を掲げました。 これはオランダの流通グループV/D社が勤務する会社の株式の5%を購入したことにより関係が生まれ、その企業の戦略と同じものを掲げることになったからです。
その年の5月、オランダを訪問しました。

左はナポレオン、ワーテルロー ゴルフ場の入場券
トップ同士の会談が続いておりましたので、随行員はゴルフをすることになりました。
ゼロメーターの国です。 ゴルフ場は砂地ばかりでした。 芝の上で打つことの方が少なかったと記憶しています。(マットをしてショットしました) その上、日本のように設備の整ったお風呂などはありません、冷たいシャワーのみでした。
連日、奥様方を加えた歓迎晩餐会が続いたのですが、高級なフランス料理ばかりで胃は疲労しておりました。 そこに冷たいシャワーときましたので、その晩の食事中に吐き気と発熱です。 この時初めて、英語で診断を受けました。
1981(昭和56)年、商品関係の担当になり、10年ぶりに東南アジアの工場視察です。
韓国、台湾、香港の時代は既にピークを過ぎ、シンガポール、マレーシアの工場を中心に新規の取引先の開発です。

マレーシアの街中です。
同じ年の秋には、自主参加(企業から一定の補助はある)の研修が、アメリカ西海岸とハワイというコースで行われました。

ハワイの休日です。
前年までに、新しい企業調査、マーケット分析を終えて、新しい店舗コンセプトの試案が出来上がっておりました。 そのことの検証と実行部隊の意識あわせをかねた
「GUP=GMS(総合大型スーパーの総称),アップ、グレード、プロジェクト」ツアーです。
これが第1陣となって、翌年も3班ほどアメリカに送り出しました。
1984(昭和59)年5月には、なかなか共同開発の事業が進展せず、再びオランダを訪問しました。
8月には、インドネシアのスラバヤの小売企業との合弁話が持ち上がり、訪問。
9月には、アメリカへ
10月には、香港へ
11月には、再びアメリカへ行っております。 「高度化・多角化・国際化」との戦略標榜が、このような行動に結びついていたのです。
1985(昭和60)年には、何があったのか定かではありませんが、香港へ4回。アメリカに1回の渡航が記録されています。
そして、1986(昭和61)年、4月韓国へ商談。6月には中国・上海・北京を訪れています。
その年の8月、香港への赴任の辞令がでて、その年の12月には、香港・タイクーシン(太古城)の住人となりました。
その翌年には、新店舗がオープンし、オープン初日から爆発騒ぎから始まり、朝10時から夜10時までの一直勤務が続き、心身共に疲労困憊してゆきます。 |
COLUMN 1−D NO528−3
平成18年5月20日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜第5冊目(有効期間昭和47年から・53年まで)〜
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NO528−1で、第4冊目は中国の交易会に行った時、1回限り有効のパスポートと紹介しました。 そこで、第5冊目は同じ年の6月5日に発行されております。
この年からは、アジアではなく欧米に行き先が変わっております。
NO528−2でも紹介しましたように、担当が婦人衣料品からスポーツ・レジャーに代わっております。 その年はそのための視察・見学を目的にアメリカの東海岸の旅となりました。
ショッピングセンターの見学や企業訪問もありました。 当時アメリカNO1(と言うことは世界1と言うことでしょう。 Kマートを訪問しています。翌々年はそのKマートの社長が日本を逆訪問しております)
企業訪問や店舗視察より面白く、興味があったのはフロリダのデズニーワールドでしたし、ヒューストンはケープカナベラルの宇宙センターの見学でした。

デズニーワールドにて OO湖?前、シアーズタワーを背景として

今では、驚きも感激もしませんが、デズニーワールド内で、タンクトップ姿を隠し撮りです。

ケープカネベラル・ヒューストンです
当時、莫大な宇宙開発費が必要で、アメリカ市民に理解してもらうために、公開しているのだとの説明を聞いたことを思い出します。
(イラクの戦費について公開はあまり聞きませんが、1日当たり日本円で1・5兆円と聞きました。秘密にしているところを見るとアメリカ財政はかなり困窮なのでしょう)
翌年はヨーロッパの7カ国を視察しました。 理由は何とでもつきます。 此処ではその中の休日ばかりを紹介しましょう。
ドイツはデユセルドルフです。

私だけが裸ではありません、モンブランの展望台での日光浴です。

イギリスでの休日です
この年は確か2週間でヨーロッパ7カ国を回りました。 デンマーク〜スエーデン〜ドイツ〜フランス〜スイス〜スペイン〜イギリスです。
この年も会計係で、国が変わるたびに両替に走り回っていました。
翌年1949年8月には、再びアメリカとカナダを視察しております。 オイルショックの翌年です。 計画をしていたので、そのまま決行したのでしょうが、帰国した頃より経済事情が更に悪化しておりました。
1975(昭和50)年は、勤務する企業が大変な苦境の中にありました。 合併会社でありながら、中途半端な内部競争と見かけだけの企業合同でしたので、コスト削減のために本格的な合併作業に入らなくてはならない状況に追い込まれたのです。
その最後の合併作業の真っ只中に席を置くことになりました。
海外旅行などと言うことは、考える暇も、ユトリもなく、パスポートの有効期間は1979(昭和52)年までありましたが、どこにも渡航暦の印はありません。
そして、第6冊目が1978(昭和53)年、5月2日に発行されています。
再びとでも言うのでしょうか、その後のアメリカ流通業界の変化の視察と研修が始まりました。、 |
COLUMN 1−D NO528−2
平成18年5月19日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜第1から第3冊目までのパスポートをめくって〜
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昨日、第11冊目のパスポートのことを此処に入力したためでしょう、19日午前2時ごろに目が覚め、枕もとのメモ用紙にこんな事を記入することになりました。
『1969(昭和44)年、初めての海外旅行は韓国。婦人衣料ニット製品の仕入れの勉強でした。 当時の韓国の編みたてニット業界について。
アメリカ向けの機械設備による大量生産で、輸出が全盛期であった。
1品種1アイテム(1型、1サイズ、1色)の最低発注数は1000枚であった。(1型、2サイズ、5色とすると、2×5×1000=1万枚)と言うことになる。
その年は見送ったが翌年発注することになった。 5型で5万枚であった。
1980年代(昭和46年以降)になると婦人ファッションは徐々に多様化・個性化の方向も現れはじめており、同一品種のものを大量生産、大量販売する時代の最後のころでした。
それでも利幅を最小にして、1枚あたりの販売価額を495円として、価額の力で売り切ったと記憶しています。 当時の私の手取り給与が月額30000円前後であったろう。
今、ユニクロでその同じレベルの商品(色合いや品質は現在のものの方が上であるが・・)を販売するとなったら、1500円程度であろうか?
染色がアメリカ向けの感覚で、なんとなく肌になじまない感じであった。(技術も低かった)
当時、それらの製品を製造していた裕林産業(株)?は輸出の優良企業として国から表彰されていた。 ご褒美として米国車の輸入が許可されており、自動車メーカーは記憶にないが超大型の黒塗りの乗用車で、出張中に一日お抱え運転手つきで観光案内をしてもらった。
当時は入国ビザの必要な時代でした。

1969年韓国 1970年からは台湾(中華民国) と香港へも

1969年外貨の持ち出し額が記入されている。 こちらは日本円15000円携帯証明
一方、大量生産の商品とは別に付加価値を求めての商品の開発も始まった。
日本から中古の手編み機を韓国に持ち込んでの少量生産で、これは相手先が零細企業であった事もあり、また糸や染色が思うようにならず、全て日本から輸出をして、出来上がった全品を輸入をするという、リスク100%の手編みニットの仕組みであった。
それでも、大もうけはなかったが、損もしない程度の成績で取引高は増加してゆき、1970(昭和45)年からは台湾(中華民国)と香港にも同時期、年に2回出張することになった。
軌道に乗り始め面白くなった頃、昭和47年には、今後成長が期待されるスポーツ・レジャー部門の強化策と言うことで移籍することになった。
スポーツ・レジャー部門においても繊維製品は取り扱われており、知識や体験は活かされることになった。 が、この部門も1年弱で異動となる。
当時毎年、物価上昇が続き、同時に会社の運営コストも上昇、昭和40年代前半のような低価額路線のスーパーの経営路線が出来なくなっていた。
そこで、ゼロからの業態開発をすべきだとの顧問コンサルタントのアドバイスなどがあって、新設部門が設立スタートした。翌年、昭和48年にはオイルショックにみまわれ、新設業態の発想は消費者に受け入れられて、開発当初から好業績をあげた。
そこで、取り入れられたノウハウの中で、特に忘れられないものとして主婦パートの活用があった。 当時、店頭の従業者の割合は、正社員が85〜90%で、パートタイマーは食品部門の一部にしか導入されていなかった。
が、頭数で70〜75%、時間換算にして65%強を一気にパートタイマーによる運営とした。(現在は何処の店頭も70〜80%ぐらいはパートタイマーであろう)
人件費、労務費と入力したところで、その後のことを思い出しました。
1970年代後半になると、韓国、台湾、香港からの製品輸入(関税が30%ぐらいと記憶)も、まず香港の人件費が上がりだし、価額が折り合わなくなった。(欧米輸出に傾いていたこともあったし、付加価値の高いブランド品を製造していた)つづいて台湾、そして韓国と連なった。 その後のことは詳しくは知らないが、今日、世界の工場といわれる中国の躍進であり、店頭では「MADE IN VIETNAM、INDIA」等のタグが多く見られるようになった。
今では、スーパーの店頭での繊維製品の80%は海外からの輸入品で、その内の7〜80%は中国製品であろう。
快進撃の中国も此処に来て、元切り上げが求められ、超スピードの発展も不動産を初めとするバブル崩壊の様相が表面化してきている。 また資源、エネルギー不足に、効率の悪さが加わって、環境問題は避けて通れなくなっている。
更に、国内問題として沿岸部の経済成長に比して、内陸部・農業分野との格差は、力でも押さえつけられなくなる程の暴発寸前の様子が垣間見られる。
第11冊目のパスポートの申請にゆき、古いパスポートを眺めていたら、アッと言う間の40年が走馬灯のように流れていった。
いよいよ数百年続いてきた「MORE AND MOREの時代」も終焉が見えてきた。
滝に近づくにつれて流れはます。 まだまだと思っている間に、消え去ってゆく時代と共に生きながらえてきたものが、気づかない間に近辺からその姿を消している・ゆくと言うことになるのだろう。
どんな展開となるのだろう。 その中で何が出来るのだろう。 何を成さねばならないのだろう。 今のところは緊張感、恐怖感、不安感もはないが、この精神状態で何時までもいられるのだろうか。
楽しく・納得の行く事柄と時間のなかで過ごしたいものだと思っている。
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COLUMN 1−D NO528−1
平成18年5月18日 記
11冊目のパスポートの申請へ
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5月17日、11冊目になるパスポートの申請に名古屋駅の愛知県旅券センターに行ってきました。

既に今年の2月に期限切れをしていたのですが、3月中旬から新しい”ICパスポート”に変更になると聞いたためと、直ぐに必要としていなかったので少し遅らすことにしました。
受付から終了までに約1時間でした。 待合所の椅子席が100強でしたが、昨日は最大で30人程でしたので、混み合う時は2時間以上の待ち時間になることでしょう。
ところで、私の一番最初のパスポートは1969(昭和44)年です。 韓国のビザが記されている1度限りのもので、渡航費用に関する証明として、US$200と記されています。
同時に形態輸出金額15000円ともあります。 持ち出しドルが規制されていた頃なのでしょう。
3冊目は1970年8月6日発行です。 数次のパスポートになっておりますが、渡航先は韓国、中華民国、香港、フィリッピン、タイ、マレーシア、シンガポールと限定されています。 有効期限は2年です。
左上から右に、そして下段へ。と発行順です。
第4冊目は1972(昭和47)年3月28日発行で、渡航先は香港、マカオ、中華人民共和国に限定されています。 しかも発効日から帰国するまで有効と書かれていますので、中国・広州交易会に参加した時のパスポートです。 パスポーートに挟まってこんなものが出てきました。

交易会の入場許可証として(来賓)リボン、深洲から広州に行く汽車?のキップ等です。
5冊目は1972(昭和47)年7月5日発行からは有効期限が5年となり、渡航先は以下の国を除いて全ての国と記されたいます。 除外国は北朝鮮、中国(MAINLAND CHINAと書かれています)、北ベトナムそして東ドイツです。
6冊目が1978(昭和53)年で、渡航先の制限は北朝鮮のみとなっています。
7冊目が1983(昭和58)年、8冊目が1988(昭和63)年で、渡航先の制限には、北朝鮮が記されています。 9冊目は香港滞在時の頃ですので、パスポートが満杯になっており、1996年に新しいパスポートに変更になっています。
10冊目は小型のパスポートに変更になっており、発行は1996年2月5日で2006年2月5日までの有効期間でした。 渡航先は「valid
for all coutries ando areas unless otherwise endorsed] とありますので、特別に記載されたところがなければ、全ての国・地域と訳せると思います。 北朝鮮とは特に記載されていません。が、どうなのでしょう?
そして、今回が11冊目のパスポートということになります。
10冊目は出国が8回です。 今回は10年間有効期間にする予定ですが、果たして元気に、何処へ、何回渡航することが出来るでしょうか。
女房の親父さんが80代の時、2度ほど香港、中国(桂林)、台湾に連れて行ったことがあります。 初めての海外旅行でした。 パスポートの発行申請に行ったとき、窓口の方が驚いていましたが、本人は元気しゃくしゃく、大変意欲的に興味を持っての出発でした。
そのことを思えば、まだまだと言うことになります。 さて、どうなりますか? |
COLUMN1−D NO483 より
平成18年3月18日 記
老いるということは
玄関ドアーの塗り替えをしながら・・
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昨年末から気になっていた玄関ドアーの塗り替えをすることになった。
今年12月で丸29年になる我が家、屋上の塗装は既に3回、外壁も1回行っている。
玄関ドアーの塗装も2回実施しているので、今回が3回目となる。

塗装前のドアー 第1回目の塗装を終えたドアー
家から250メートル離れたところに我が家と同じメーカーの建物で、これまた同じ時期に建てられたUさんの家がある。 Uさんの家の近くに郵便ポストがあるので、そこを通る度に早く塗り替え塗装をすればよいのにと思っていた。
先日女房にそのことを言ったら、「あそこの御爺さん(年齢は分からない)、既に数年前奥さんを亡くされて、独り身である。 子どもたちもいるようだが、あまり訪ねて来ることは無いようだ」と正確でもなさそうな情報を口にしていた。
数日前、ポストに投函した後、玄関を覗いてみたらドアーが雨ざらしの状態が続いていることを思わせる色艶になっていた。
女房に塗装用のニスを購入して来いと言っても「何を買ってきたらよいの」と言うばかりであったので、昨日ホームセンターに行って購入してきて、本日となった。
第1回目の塗りをし乾くのを待つ間、Uさん家を撮影してきた。

遠めに眺めれば何の問題もなさそうであるが・・・

ご覧のように雨風に痛めつけられている
3〜4年ほど前、この高蔵寺ニュータウン内で空き巣狙いが横行、ご覧のように各家庭に「不法侵入」を警戒する表示が各家庭の玄関先に一斉にぶら下げられた。 その効果はあったようでこのところ、被害の話はほとんど聞かない。
Uさんの玄関先のかさ立てには30数本の傘があった。 お客さんの出入りがあるようには思われないし、傘には埃が被っていたのでどうしてだろうと疑問が湧いた。
が、庭木には手が入っていたので専門の庭師か、春日井市のシルバーセンターからの派遣庭師が剪定しているのだろう。
他人ごとのように眺めていず、一言声をかければよいかなとは思うのであるが、面識も無く、「向こう3軒、両隣」という近さでもないので、気にはなりつつこれからもそのままということになるのだろう。
私も今は体が動いて、小さな修理や修繕は出来ているが、そのうちにUさん家みたいな存在になるのだろうかと思うのだった。
地域で助け合う仕組みの必要性を頭で思うだけでなく、形にしなくてはならないときが来ている。 後2年で40周年を迎える、かっては若かった高蔵寺ニュータウンのことを自分のことに絡めて思いながら、プーンと鼻を突くニスの香りを嗅ぎながら第2回目の塗装に入った。 |
COLUMN
1-D NO 370 より 平成17年10月8日 記
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地域ホームページ100ヶ所達成記念パーテイー
〜5年弱の年月で、株式公開を目指すという〜
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私が「地域ホームページ 高蔵寺」に初めて投稿したのは平成12年8月21日のことであります。 現在もこのホームページ”修行僧日記<イイカゲン>”のトップ画面にある、「日付順」をクリックしていただき、ページ124の一番に、「NO1」としてタイトルなしで掲載されています。
そこで「地域ホームページ 高蔵寺」に投稿することになった経緯を簡単にふれています。
今回記念パーテイーの主催者・I社長は講演の中で「それは平成13年11月25日から始まった!」と話しされ始めました。
その1年前の平成12年8月から「地域ホームページ 高蔵寺」がスタートしたのですが、その間色々と試行錯誤されておられました。
が、平成13年11月25日に「第1回の地域ホームページFC募集説明会」が開催されたのです。
その間、連日の読書から今という時代は戦国時代と同じだ。 ならば戦国時代の成功例を真似ればよいと思いついたそうです。
例として、信長の300丁の鉄砲で、三段に分かれ一斉に間段なく弾を打ち続ける。 また其れを「戦艦から空母時代へ」とも表現されて居られました。
巨大な戦艦ではなく空母からこれまた様々な弾を(ネットメデイアミックス→ネットCM・ネットチラシ・ネットPOP・ネット看板<バーナー広告>)を一斉に間段なく、顧客=消費者に投げかけるということでした。
それから4年弱で株式公開を目指すとの発言になるのです。
約1年前の今頃、「株式上場」という事を社長の口から聞いたことがあります。
それ以前より私の考えは何のために上場するのかが明確でないなら、しないほうが良い。 また明確で「お金を手にしたい」というだけなら、上場と同時に会社を手放してしまえという考え方でした。
資本家と同時に経営者としても続けるならば、上場と同時に経営の自由度が狭められ、経営者も従業員も決してハッピーにはなれないという考えでしたからです。
今回、話を聞いて何故上場したいのかの一端を伺いました。 会社の目指すものの実現のためには資金が必要になったということが最大の理由だと理解しました。
「オンリーワン企業を目指す。 その戦略に自信もある」との力強いお話の内容でした。 差別化、オンリーワンと言っても、やはりこの業界の先端を行く企業との競合は避けてられないものと考えます。
そんな事は百も承知で乗り出そうというのですから、この業界の事など分からぬ、知らぬ者として”気をつけよ”との無責任ともいえる気休め言葉を吐いたとしても何の意味もないこと、役に立たない事にいささか哀しくもあります。
ただ一点、この間お会いする度に言ってきたことは「健康第一」でした。 このことは、今後ますます今まで以上に重要な事になると思います、くれぐれもご留意ください。
こんな事を書くつもりで入力を始めたのではないですが、知らぬ間にこうなりました。
さらりと デジカメで賑やかなパーテイーの状況を掲載しようと思っただけなのです。


パーテイーのイベントはブラジルの陽気で明るいサンバのリズムでした。

追記
記念講演で「ユーザーからみたインターネット」と題して、名古屋経済大学短大部講師の末岡 仁さんのお話を聞く事ができました。
2001年「IT基本法」が成立した”e-japan戦略”がスタート。 日本は2005年までに世界最先端のIT国家へというものであり、2004年「u-japan政策発表」” キャッチアップからフロントランナーへ”であった。
計画を上回るスピードで計画がクリアーされてきた。
新たに「u-japan]構想が発表され、2010年のわが国の姿が示された。
今、1時間の内容を数行で入力していましたら、横文字が続く単語はサッパリ理解不能でしたが、この数年間,
この世界の進展・変化の幾分なりともが、「そういうことだったのか」と理解し、近時未来にそんな事が起こるのかとの一部を感じさせてもらいました。
改めて、パソコン、インターネット習熟の必要性と操作を指導していただいた方にお礼申しあげます。
また、入力をすることによって頭が整理されることも知りました。 よって末岡先生の講演も、いま少し詳しく「エッセイF」に掲載します。
追記2
追記などいらぬのですが、私には記録を残しておくという癖があります。 「地域ホームページ 高蔵寺」に投稿させてもらったお陰でこんな記録も残るようになりましたので、そのことを記するために追記としました。
かっては紙で残していましたので、数年に一度破棄したり、大半は何処に行ったのかも分からずじまいになっておりますが、パソコンを活用するようになってからのものはほとんど残っています。 たった5年分ですが・・・
ただ、2週間前に残りのパソコン容量を調べてもらったら、50%の使用量になっていました。 このごろデジカメで写真を多く利用するからでしょう。
同時に、パソコンにはパカッと全てが消えるというトラブルがあると聞いています。 バックアップ装置も今は解除してしまっています。「消えたら消えたで良いか」と思っています。
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