エッセイーA 日々身の回りのこと
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 COLUMN 1−D 2240  より

                          平成25年9月10日・記

 その後も、脳裏をかすめる2020東京五輪の役割

  〜私自身は何処を目指し、実行しているのか〜



 9月8日、2020年の東京五輪、パラリンピックの招致が決定した。

 特に、賛成でもなく、反対でもなかったと書き、このことを契機に新たな時代、社会の創出に結びつく切っ掛けになる事を望むと書いた。

 また、安倍首相が福島原発問題はコントロール下にあり、解決可能と大見えを切った。 大風呂敷が現実になることを切望するとも書いた。

 が、一方数年前より、商業五輪ばかりでなく、世界は資本の論理(世界金融資本)の支配で牛耳られて居るのが現実である。

 日本もその支配体制下にあり、さらに悪いことには日本の既得権益者は
その下で目先の自己の利益ばかりを優先している。

 そのことが日本で・世界でさらに混迷の度を深めてさせ、破綻、崩壊の道を進み抜き差しならぬところに至ろうとしている。

 が、エゴ優先の社会の根本問題解決は必然性としても、また十分条件としても混迷が整ったところでもって崩壊の時に至るとも書いた。

 そこまで、行きつかないことには近代社会が生み出した矛盾の真の解決に向けたスタート台には立てないとの思いに至ったとも書いた。

 そして、其の事を傍観者として時を過すことなく、またスタート台に立った時に、腰を抜かすことなく行動を起こしている修行僧でありたいとも書いた。
 
 そのことを書いてからも、何処かスッキリしない、喉の何処かに異物が残っているように感じてならなかった。 そして本日のこと。

 
朝のストレッチとNHKのラジオ体操に合わせて身体を動かしていた時の事です。

     グッキッと左太股の筋が切断する様な音がしました。

 その後、時間まで体操を続けました。 が、その後の礼拝時にも、このアクシデントは私に何を伝えようとしたのかと考えることになりました。

   (時間の経過とともに、痛みを感じだし、サポーターを巻く)

 その結果、2020年を漫然と待つのではなく、何かを考え・目標を持って日々を過ごしないないとのシグナルではなかったかと思うに至りました。

 自分自身にとって、私の周りにとって、そして日本を訪れる世界の人々、あるいは各種メディアを通じて日本に触れる世界の人々にとって、美しく・気持良くそして幸せと感じてもらえる事・姿とは何であろうかと・・。

 それはきっと、金や物では得られないことの具象化であろうと・・・。

 「ロハス=LOHAS=健康で持続可能な、また重視する生活様式」の姿の具現化ではなかと・・・。

 その一つは「自然環境との共生」と考えます。が現在私たちを取り巻く環境は近代化された、効率視点の開発の結果の見直しではないでしょうか。

 見直しの結果、元の姿に戻すべきものはも戻す、消し去るモノは消す、そして新たに造るべきモノは造ることと考えます。

 クリエイティブな発想を持ち合わせていませんので、残念ながら進んで進言・提案する能力は有りません。

 が、2020年・79歳の自分にとっても、心身共に健康な姿で生活していることの実現は可能と考えます。

 自然と共生している社会環境、そこで心身ともに健康で人情ある「おもてなし」の社会を作り上げてお迎えするあるいは、発信する日本の新しい姿。

 一般論は以上で良いと脳裏をかすめます。ところで「君は何をするのか。出来るのか、どのような状態を作るのか」と・・。

 ・可能な限り人様の御厄介にならない。健康保険利用は最小。
 ・鍬・鎌を手にして、安心・安全な食糧の生産に従事している。

 ・若者・青少年との接触の場を持ち、交流をしている。
 ・世界の情勢に関心を持ち、受信し、発信し、時に出向く。

 ・社会・地域との接点を持ち、お役立ちの一つも実行している。
 ・人様の長所・強みが見え、嘘や嫌味を言わない日常生活。



COLUMN 1−D 1035 より

                             平成20年5月7日 記

    連日の雨で、予習がはかどっています

 〜社会思想史の教科書340頁をA4で15枚に〜


 今春の大学の受講科目は4科目です。 全て予習が必要な科目ではありませんが、「社会思想史」は必要です。(事前の予習が講義の興味を更に増す)

 別に聴講生には提出が義務付けされているわけではありませんが、可能な限り学生と同じ条件で受講してみようと考えていますので、真剣です。

 このゴールデン・ウイークの後半から今週一杯で、可能な限り前取りして宿題を終えようと取り組んでいます。

 340ページの教科書をA4で、15枚に纏めるには私にとってはかなりの努力が必要です。 まず、ザァーと目を通します。気になったところに棒線を入れます。 次々と聞いたこともない、読んだこともない人名、学説、歴史等が出てきます。

 そればかりでなく、その方の意見と対比して他の方の説も続きます。
 何処がポイントなのか、読んでるうちに訳が分らなくなります。

 1回が20〜30ページですが、一通り目を通したところで、休憩です。
 次に、節を区切って読んでゆきます。 ポイントと思うところに棒線を入れます。

 そこで、再び読み直し、書き出す箇所に色鉛筆でマークを入れます。 
 そのところをパソコン入力です。

 このような繰り返しを、8〜10回しますが、ほとんどの場合紙面不足と成ります。
 そこで、何処を削除するかと検討するのですが、なかなか前後がつながりません。

 思い切って、バッサリと削除することに成ります。

 この4日間で、7回分の予習がやっと終了したところです。
 が、入力をし終えて、読み直すとそれなりに分った気持ちに成りますから楽しいのです。
 加藤さんの要約は分りやすいなどと言われているので、止めるわけにはいかないというのが本音です。



     さて、あと2日間で、どれ程進展できるのでしょうか。 

 哲学は論理の基本、世界は何故存在しているか→時空を超え、世界をどのようにみるか。    行き着く先は倫理学?
 
 社会思想は世の中どのようにしたら良くなるのか、どのようにみるべきか?世の中への  不満、どうしたらよくなるのかを取り上げるのが社会思想。

 過去の社会思想史を学びつつ、今の世の中をどのようにとらえるか。どのようにみるべきか。 そして、世の中の不満、不信、不安をどうしたら解消できるか・・・

 これまでの自分の考え方やものの見方、生きてきた実体を反省しながらの進展です。

 哲学、社会思想、宗教には境界がないようです。 ごちゃ混ぜになってきます。
 自分の納得したスッキリで単純な見方、考え方、生き方が良いようです。







 COLUMN 1−D 895
                                 平成20年11月17日 記

  直ぐに「反省」と言ったり、書いたりしているが

      「加藤君・君はまったく反省していない」

 兎に角、時間に追われています。 決してやらされているわけでもないですし、いやいやしているわけでもありません。 が、時間イッパイなのです。

 今この時間(17日・午後8時)、普段なら月曜日の大好きなNHK番組「鶴瓶の家族に乾杯」を見ている時間です。 それがパソコンの前です。 しかも、既に3週間ほどこのような状態が続いています。

 世の中の流れが激しく・次々に変化の様相が展開されます。
 @世界の金融恐慌→産業恐慌→生活恐慌へと進展していることを感じています。
 A米国はブッシュからオバマへ。 あと、2ヶ月は停滞したままでしょう。
 B日本は世界から注目されながら、麻生政権はバタバタ。早い選挙、これが景気対策。 →どのような基本理念で、これからの世界秩序の構築に日本は向かうのか。
 →日米同盟は? 対アジアの関係は?その前に、どのような社会を目指すのか?

 加えるに中部大学の講義内容は (イ)世界史概説(近代以降の世界の流れ) 
 (ロ)そうだったのか!現代史 (第2次世界大戦後を15のテーマで考える)

 講義内容は近過去を学び、それが今に続いている課題が取り上げてられています。
 そして、それら全てが、更にその上に新たな難問が積み上げられて、今この世界に矛盾となって露呈し、足元の対応に追われている世界、日本の状況です。

 なぜ、時間に追われているのか。 楽しんでいるはずだったのに・・

 @ 
目の前に展開される事柄に目が奪われている。
 A 少しばかり予測していた流れに世の中がなっているので、有頂天になっている。
 B 生き方、価値観がふらつき、優先順位が腹に入っていない。 よって、振り回される。

 二言目には「反省」と言っているが、口先だけの反省になっている。
 「反省」と言うことによって、逃げ逃れ、真の主体性・自主性をないがしろにしている。

 以上、本日庭仕事をしながら、メモ帳に書かれてる積み残しの課題を気になりながら一日を終えました。 そして、以上のことを入力し終えて気持ちが少し落ち着きました。

 以下に、本日の行動内容を掲載します。

          
           @

            
             A

          
           B

      上記の三枚の写真を見比べても、何も感じないことでしょう。
      失礼な言い方ですが、行動したものにしか意味がないのです。

 本日の作業の内容を解説します
 イ)A、Bの右側に黒い構築物、これは「藤の花」の藤棚の一部です。 この上には40ミリリットルのゴミ袋に6杯の葉っぱと茎、そして弦がもじゃもじゃと茂っていました。

 ロ)@、A、その藤棚の左は、皇帝ダリヤ(木立ダリヤ)です。枯れた下葉を取り除きました。 我が家の皇帝ダリヤの花はこれからです。

 ハ)@、A、Bの中央、これが本日のメインの門かぶりの松、剪定後です。

 ニ)@、A、B左に黄色い花が見えます。「ひまわり」です季節はずれではありません。

 ホ)A、Bの「ひまわり」の奥に、「黒竹」があるのが分かるでしょうか。 芽を出してから1年半を経過した黒竹を切ると、その後長持ちします。 
 その黒竹に本日まで、「七夕飾り」の残骸の一部が残っていました。


 庭作業は3時間ほどで切り上げて、他の課題に対応しようと思っていましたが、「何をバタバタしているのか」、「何がそんなに気ぜわしくさせるのか」、「君一人、何が出来るのかね」
 などなどの声が聞こえて、6時間の作業を無事終えました。






 COLUMN 1−D 894
                                 平成20年11月17日 記

  反省から始まった今朝

 〜そして、壁あてキャッチボールをしながら〜

  今朝、雨は上がっていましたが、剪定をしようと思った松にはまだみずっけが残っています。
 10時過ぎから始め様と考えていましたら、女房が「まだ早いのでは、濡れていますよ」と言う。

 「分かっている」と返事しますと、「貴方は、誰それさんと同じね」と来たので、「悪かったな、お前と同じだよ」とやり返した。

 神棚に向かう、その間のやり取りを振り払おうと、いつの寄り大き目の祝詞で始める。
 祝詞をあげながら反省の気分になった。 そうだ”傾聴”を誓っているのだと・・・

 「傾聴」の誓いをしたのはいつのことだっただろうかと食事後に調べた。 パソコンの「反省」の項に
 残っていました。 少し、割愛して掲載します。

 
 「傾聴の誓い」A

COLUMU 1−D NO719     平成19年9月25日  記

    友人の早き反応に反省しました  
       〜今朝は好きな花の「曼殊沙華」、今年は花 少なし〜

     昨夜は中秋の名月を眺めて床に就いたためか。 あるいは、戸を開けて眠り、今朝のヒヤリとした風を受けた為か、熟睡後の快適な体調であります。

 昨日このコラムのNO 718に、友人よりすぐさまの返信メールが届きました。

 「貴君の今年に入ってからの、特に船旅、インド旅行以後の書き物を読み、羨ましさでイッパイです。

  その上、ご自分で一皮剥けたと言い、終末医療に対する意思表明書や遺言、葬儀の手順など、アッケラカンと書き続け、それをコラムに掲載してしまう行為に、羨ましさを通り越して驚くやら、今後何が飛び出すかと当初は心待ちする気持ちでしたが、本日のコラムを読んで、私自身がとても考え、用意していなかったので、置いてきぼりを食っているような気持ちにさせられています。

  また、それ以上にご自分をオオカミ爺と言って発言されていたことが、特に参議院選挙後に、日本に限らず世界の政治・経済・社会のあらゆる側面に兆候と言うよりは、ハッキリと現象が現れています。 

 そのことがますます貴君をして将来見通しに対し、自信を持たせていることでしょう。

 この十数年幅を利かせ、大きな顔して威張っていた人たちが元気がなくなりつつあり、同時に他人事と高を括っていた多くの人々も、当面の不信や不満に加えて、この先に不安感をハッキリと持ち出したのではないでしょうか。(私=友人も同じです)

        この上は、これ以上驚かさないでください。罪なことをしないでください。言わないでください。 できることならば、苛立つことよりは心休まるお話を聞かせてください」

          それにお答えするという用意などしていません。 また、自分のことを「オオカミ爺」と言って、ありもしないこと、起こりもしないことを大袈裟に長い間、口にしてきたことは事実です。 友人・知人が戯言を又言っていると読み飛ばしてくれればよいと思いつつ書いていましたが、上記のようなメールを頂くといささか、反省しています。

 要約すると以上のような内容でした。
 
 これからの5年間で、少しでも近づきたい目標を書かせてもらいます。

 同時に、途中で何か言い訳を見つけて、中止しますと言い出すことを遅らす為にも、ここに掲載し、オオカミ爺が公表した目標を忘れない為に看視の目を光らせていただきたい為です。

 まず以って、この一文を書かせてもらう気持ちにさせていただいた、友人Xさんにお礼と感謝を申し上げます。

                「人の話を聴ける人間になる」です。

     自分自身のことを振り返りますと、我儘で、自尊心高く、自慢話が大好きで、人様より半歩早く気づいて事を話したがる性格の持ち主です。

  180度までとは行きませんが、「人の話を聴く、出来うるならばその人に身になって、感情を受け止め、理解できるようになる」、と言う、私にとってはかなり高いハードルです。

       数日前、知人からこんな話を聞きました。

「その地域では嫌われ者の老人であった。 しかし、82歳で”ワシも世間並みの平均寿命を生きたから、この辺で失礼する”といって、他界された」と言うことです。

 他界される前の数年間は、それまでの不人気の評判は大きく変化されてそうです。

  その方も、何か感じるところがあり、色々と心掛け、努力されたことでしょう。

        天邪鬼で、へそ曲りの私はそのような話を聞くと、”最後の最後まで、減らず口を叩き、棺おけに入る”と喉まで出掛かっておりますが、押さえ込むことにしました。

      以上、昨日このコラムに掲載しましたことに、すぐさま返信メールを下さったXさんに改めて御礼を申し上げます。 ありがとうございました。

    以上長々と掲載させていただいたのは、誓いをして1年が経過しましたが、何も変化していないこと。反省の連続です。 そこで、この「傾聴の誓い」をコピーして、神棚に上げることとしました。 「ひふみ神言」とともに、毎朝読み上げることとします。

 読み上げても、どれほどの効果が出るかは分かりませんが、読んでいる時ぐらいは・・・

             
 
   ↑ 本朝の街路樹は雨に濡れていますので、まだ誰も掃除に現れていません。

                 

               ↑干し柿は全て剥き終わり、ご覧のようです

                 
       
     ↑ 干し柿の手前に、ひまわりが咲き始めました。 背丈は4M近くあります。

                  


                    

    ↑隣家からいただいた菊の花の色が変化してきました。白にピンクが加わる。 

 只今から、松の 剪定です。 AM,10時半。 





 COLUMN 1−D NO692より
                               
                                   平成19年7月14日 記

 今朝の連想は、モッコクから始まりました

〜「糾える縄の如し」から、四柱推命の運勢判断へ
    


            

 モッコクについて

 <昭和54(1979)年、1月15日購入「庭木、生垣の仕立て方>より
・生長が早い方でなく、手入れの必要性もなく、濃緑色の光沢のある美しさを持っている。 高木10メートル以上になるが、庭木としては中木として2〜3メートルで利用する。

 この木が我が家にある経緯

・昭和53(1978)年、名古屋城公園で開催・菊の展覧会に行った折、公園内にモクモクと茂ったモッコクを見て、わが庭にも欲しいと思った。
・翌年、2月18日、恵那樹苗センターにて、エニシダ(既になし)、ゆき柳(庭のアチコチ、街路樹の周りにも分植されている元となった)と共に、一本450円にて購入してきた。
 
 敷地内の北側、家と物置と駐車場の間に定植しました、そのときの高さは50Cm.
 現在は約6mメートルトに生長し、2階の窓の上部まで来ている。この辺が限界である。

     

      二階の窓から、天辺を写す        この茂ったモクモク感が好きです。

 今朝は台風4号が近づいており、予報誌が、「水道管=梅雨前線が停滞しているところに、散水車が勢いよく水を撒き散らしている」気象状況と表現していた。
 それを聞きながら、このところ知人や友人に送った手紙やメールの中に「糾える縄のごとし」という言葉を数回使っていることを思い出した。

 昨秋の野菜、今年のタマネギの収穫などできが良く、気をよくしている。
 その上に、このモッコクも船旅から帰ってきて見上げた時、昨年より一層お気に入りの姿・形になっていることを意識した。 このように、自分の周りの自然が全て順調に育ち、生長しているので気をよくしている。
 同時に、”糾える縄の表面が続いている”と感じ、自重しなければと思っている。

 そこで、四柱推命による運勢判断の記録のあることを思い出した。
 「タイキの記録・運勢」と題されたタイトルのファイルを引っ張り出した。
 <余談・ある種の自慢
 先ほどのモッコクの記録といい、この運勢記録〜30年前以上前のもの〜が残っています。 几帳面と言うか、このほかにも色々と資料は残してあります。 が、簡単に取り出せないのが悔しい。ボケ度合い判定材料。 本日は、スムーズに取り出せました>

 その運勢判断にはイロイロなことが書かれていますが、当時も、その後も気になっている一文があります。それは『宿命の星』に書かれています。

 『偏菅〜闘争、えこひいき、不公平の星です。 敵を作り易く、感情的で、偏屈、強情、頑固な性格といえる。
 また、権力におごり、激情的であるが、一面侠気、義侠心に富んでいて、他人の世話をしたり、大業を起こすことが多い性格を持っている。
 しかし、大概は、偏った強調の性格が出やすい為、万事に障害が多くなるようです。
 
 偏菅ー病〜障害をつうじて、浮き沈みの多い組み合わせです。 
着実な人生が望まれます』 と言う、ものです。

 そのほかにも色々書かれておりますが、自己判断としてはかなりの部分で納得できるものでした。(その他、このファイルには様々な性格、能力、適正診断記録があり、読むと面白い。 今生の先が見えるので、前よりはユトリを持って楽しく読めた。
 反省し、自戒し輪廻転生、次回も可能なら修行僧として再現を望みたい)

 以上のような背景があるためでしょう、またそのような体験をしてきた為に「糾える縄の如し」と言う言葉が、時折脳裏を横切るのです。
 
 すると、このところは表の部分を進行中ということになるのでしょう。
 過去を振り返って見ると、自然にと言うわけにはいきませんでした。
 本から得た知識、あるいはさまざまな偉人・先輩の納得できる教訓・言葉を手帳にメモし、時に見開いて言い聞かせ、歩いてきたと思っています。

  縄の裏があることを怖れたり、怯えたり、暗くなったり、否定的になるよりは、明るく、元気に、肯定的に、怖れることなく、時には果敢に挑戦して今日に至ったと思っていますし、思いたい。
 
 そして、人類の歴史上でも滅多に遭遇できない、大きな変革の時代が進行している中、ここからが今まで学び、体験してきたこと、更にこれから学び・体験し、そして「宿命の星」に対する回答を出すところに来ている時点に立っていると思うこのごろであり、今朝のモッコクから始まった連想です。





                                   平成18年9月09日 記

 木の文化は循環文化
 〜植物園、”秋の山野草展にて思ったこと〜


 そして、その日の深夜に目が覚めて、思ったこと

 久しぶりに植物園に立ち寄った。 秋の「山野草展」を開催していました。
 2週間前の「石の文化」の発祥の地オリエント・エジプトの記憶が残っており、デジカメに写った背丈が最高でも50Cmの盆栽の草・花・木と大いなる違いを感じた。

 4〜5000年前のオリエントから地中海、そしてヨーロッパへと伝わっていった石の文化・歴史との違いです。 石の文化なる故に、様々な戦いや崩壊や盗掘に会おうとも、数千年の太古の面影、香りは今に残り、何かを語りかけてきてきました。
 それは、屈強な若者や戦いに敗れ奴隷の身となったものたちの労苦の結晶とも感じたものでした。
 王であり、あるいは神とも崇められたかもしれない権力者によって、強大な神殿、石像、建造物が建立されたのでした。
                

 それに引き換えて秋の山野草はどうであろうか。
 一般庶民、しかも年齢は若くて50代後半、大半が60代・70代のおじさん、おばさんの展示品である。
 その草・花・木の誕生は数年前、あるいは十数年前であるかも知れないが、そこに展示されているもの一つ一つは、冬の寒さの中で暖を与えられ、あるいは鍛えられ、春には芽吹き、葉を茂らせそして花を咲かせ、あるいは一回り年輪を重ねた。
 その間、日ごとの水遣りや整枝の絶え間ない世話によったことだろう。
             

 そんなことを思っていたら、伊勢神宮の20年遷宮のことを思い出した。
 いつかは朽ちてゆく自然の木々の文化の日本は、1年1年のめぐり合わせ、積み重ねで数千年の歴史・伝統・文化を育んできたことを・・・。
 同時にまた、それはそれぞれの地に、それぞれの自然環境があり、その自然環境に適した木々や花々を育み、花を咲かせた歴史、伝統、文化を生み出したことだろうとも思った。

 ここ数年、市場原理、競争原理、グローバリゼーション、グローバルスタンダートと言って、強者の論理による世界統一・一律支配の秩序、仕組みが進展してきたが、ここにきて、それが行き詰まりを見せている。
 地理上のそれぞれに地には、それぞれの特徴・特性を持った環境があり、その環境に育まれた歴史があり、文化が生まれ、伝統が形成されてきたし、今もメンメンと継続されているいます。
 それを無視しての統一ルールや制度では如何せん無理が生じると言うものです。

               

 狭く・小さな国土の日本と言えども、南北数千キロに及ぶ日本列島においても、北には北の、南には南の自然環境があり、そこに歴史、文化、伝統、が生まれ、育まれ、受け継がれています。
 産業の発展、マスメデイアの発達によって、標準言語やモデルで統一されるのではと思われたが、バブル崩壊後10数年、近時テレビや新聞報道で各地の歴史、伝統、文化の復活が叫ばれ、その実践報道されることが多くなったことは大変嬉しいことであります。
 それぞれの地には、それぞれの特徴、特性があり、そこに一番適した物や事柄が存在し、その地で生活する人々によって受け継がれ、あるいは新たに生み出され、積み上げられてきたものが、更に変化し進歩し定着してゆくことがこれからの時代に求められていることだと思えます。
 明治以来続いてきた、中央集権による制度・仕組みではもうどうにもならないところまで来ております。
 それ故に、歴史認識・時代認識に欠けて目先の保身に走るお上頼り(政府、官僚、役人)、政治家に任せていてはいけないと考えています。

 自分たちの地域、町の特性、特徴を自分たちで発見し、掘り起こし、自分たちの手・足を働かし・実行して創り上げて行かなければ行けない時になっていると考えます。
 それぞれの地域、町で、そこに生活する様々な個性ある人々によって「個の花が咲く時代」になったと考えます。

               
 その私たちを包む共通した自然環境は、恵まれた自然です。
 四季折々の太陽、清らかな水、土壌豊かな土地にまずは感謝して、日々を送るとともに、新たなる時代に対応した生活、生き方、行動をしてゆきたいと思っています。


 と、以上の内容の原稿を散歩の後に走り書きして、数日前から本場インド料理のカレーを食べたいと思っておりましたので、近くの専門店に行きました。
 食べたいと思っていたものを食するのが一番です。大変満足して帰りました。
 確かに、蒸し暑い夜でしたが一度は寝入ったのですが、真夜中に目が覚めてしまい、3時間ほど寝付けずにいました。 その間に、上記に書いた原稿のことが思い出され、うつらうつらの脳裏の中を行ったりきたりします。
 2時間ぐらいしたときに、仕方なく起き出しグラスに氷ブロックを入れて、赤ワインを飲み始め、以下の事を枕もとのメモ用紙に書き記したと言う訳です。 


 『ロハス=健康で、持続可能な社会』の実践が提唱され、知らない間に多くの方々が口にし、同時に小さなことから実践行動が始まっています。

 日本では、ファッション感覚のところから出発したようですが、今では多くに人々によってこれまでの社会のありように対しての反省や不満・不信・不安を抱く心理とマッチして、日増しにあらゆるところで急速なテンポで伝播しているようです。
(特定非営利活動法人 「日本再生プログラム推進フォーラム」も立ち上げられた)

 ところで、私たち日本、あるいは日本人はロハス時代・ロハス社会の申し子=民ではないかと思うと同時に、その責任もあるのではと気づかされたのです。
 それは私たちが自然文化の民=木の文化の民=循環文化の民と考えたからです。

 植物のうち草・花は分かりやすく1年を循環の周期としています。
 木々も芽吹き〜葉が茂り〜成長し〜年輪を重ねて大木となってゆきます。
 が、この木々も1年の年月の循環を繰り返しています。 芽吹き〜葉が茂り〜紅葉し〜落葉の繰り返しで成長し、大木となって行きます。

 この木の一生を考えて見ますと、100年で成長し大木となった木は少なくとも100年に渡って、神社の主柱となったり梁となってその役目を果たし、そして朽ちてゆきます。
 30年、40年で成長し神殿の材となるものもあれば、住宅の材になるもの、あるいは机や椅子となり人々のお役に立って、その一生を終えてゆく木々もあります。
 その間、社会や人々のお役に成長するまでに、種を宿し、その種は土に還り、芽を出し子孫が産まれ再生し・生成発展成長してゆきます。
 そのように見れば、年月の長短はありますが、循環の法則に則っています。
                 

 私たちは知らず知らずの間に、自然環境の恩恵を受け、その代表の一つでもある木々の何千年と言う恩恵にもよくしているのです。
 自然文化の民は木の文化の民であり、木の文化の民は循環文化の民と言えるのではないでしょうか。
 そうです、ロハス文化の民でもあるのです。
 「健康で、持続可能な社会」の実現に、大きな役割と責任を持った民なのです。

 

 追記
 書いた内容のわりに、写真の出来が悪いです。 もう一度撮りなおしに行ってきます。

 
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