エッセイD 旅日記
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                        平成18年9月4日 記

 エジプト 8日間の旅 
 ”4~5千年の歴史、石の文化、太陽神、その上に”
8月25日、第8日目 現地で写真のみ記録は帰国

 
 日本時間15時45分、1時間遅れで関空到着

エジプト・ガイド ハッサンのこと
 
 
私の体験し出会った海外の観光地でのガイドとしては、一番=ベストであったガイドさんのひとりである。
  カイロ大學の日本学科を卒業したと言っていたが、その切っ掛けは、橋田寿賀子・脚本による「おしん」のテレビを見たからであるといっていた。 この「おしん」は東南アジアや中近東でも大変な視聴率であったと聞いたことがあった。
 しかし、ハッサンさんこの橋田さんご一行を案内、ガイドした経験があるそうですが、その時の印象、体験はすこぶる悪かったようである。 なぜかには答えてくれなかったが、「渡る世間は鬼ばかり」と言って笑っていた。 
 赤木春恵・演じるところの、ラーメン店”幸楽”の意地悪オカミさんのように振舞ったのだったのだろうか?
 ハッサンさんは一方的に説明・解説するのみでなく、時には質問交じりで間を持たせるし、また、実に余分なことは言わずにポイントのみを押さえて話すので、聞き取り、書き取りやすかった。 エジプトの歴史にも詳しいのではないかと想像できた。
 時にエジプトの結婚事情とか、住宅事情など、現在のエジプトの状況も交ざり、5000年の歴史との間を行き来でき、知的にも満足させてくれた。

 以下は帰宅後の9月3日に「コラム1−D No583」に書いたこと。

 
 COLUMN 1−D  NO583
                              平成18年9月3日 記

  「エジプト8日間の旅日記」を書き終えて


 既に帰宅して9日が経過した。 人間(私)の記憶は日々刻々と時間ごとに薄れてゆくと言いますが、その通りを実感している。

 8月25日関空に到着したが、旅行カバンは一緒でなかった。
 8月26〜27日百姓学校へ行き、秋野菜の種まきをする。 時差調整と考えて日中の気温が30数度の中、少しきつめの作業内容で根をつめた。 
 その夜は疲労感を伴って早くに寝つき、翌朝は午前7時半まで眠っていた。(普通は5〜5時半)
 これで一気に時差調整は終わったかと思ったが、そんな訳ではなく翌日からは、真夜中の1~2時に目が覚めてしまう。 
 再び寝入るのは4~5時となり、身体の芯が重いまま、床から這い出すのは午前7時半が4~5日続いた。
 私は30~40代の頃より時差調整が下手と言うか、長引く。
 更に年齢をますごとに、必要時間が長くなっている。

  8月28日から「エジプト8日間の旅」を、エッセイ”旅日記”に掲載を始めたが、現地でメモから記録文に書き換えてあったところまではスムースに活字化出来たが、写真の選択・選別に多くに時間を要した。
 約400枚の中から選ぶのであるから、いくら機能が進歩、発達したパソコンとは言え、操作人の知識・技能の問題のあろうが、取り込んだ写真から、数秒で「これ!」と指定しても、一度400枚の写真を一巡してから画面に表示してくる仕組みになっているようで結構時間が必要であった。
 やっと、どのように操作すればよいか会得してきたのが、8月31日の4日目頃であった。 そこまでは、エジプトの一日の記録を整理、処理するのに6〜7時間かかった。
              

 現地の8月23日(第6日目)以降は、メモ記録も曖昧になっており、しかも文章化してきていないから、帰宅後7日目ともなると訪問地の前後があやふやになった。
 デジカメに残された記録はありがたく、前後はしめしてくれるが、今度は何を目的に、何を狙ってシャッターを押したのかが分からないくらいの数で困ってしまった。
 そこに知人の葬儀が加わり、時間を追って薄まってゆく記憶は更にスピードを上げていることを実感させられる。
 とは言え、以上のように纏められたので、今後パソコンから呼び出せばゼロに近づく記憶を呼び戻すことが出来るだろうと安堵している。

 旅の途中で、渡辺親子さんと、もう一組の母娘さんにもホームページアドレスを渡したから、今頃は目を通してくれているのだろうか。
 その他の参加者の方にも、添乗員さんを通して、今回の旅の記録が見れますよと連絡しようかどうか迷っている。(皆それぞれの思い出を持って帰ったから)

 エジプトの旅記録が終わったので、8月26~27日の百姓学校の秋野菜関連の記録をエッセイC「自然との交流」に掲載予定であるが、こちらの方は既に10日後くらいの整理になりそうだが、記憶は残っている自信があり、スムースに作業内容を記録・保存できそうである。  
 これは遊びがてらの作業とは言え、既に7年目に入っている百姓学校の生徒である。 と言うことは少なくとも6回は体験しているので、体のどこかに記憶が蓄積されているのだろう。

 たった一度の体験となるだろう旅は、その時・その場の感激・感動は大きいが、時間の経過とともに薄れてゆく。
 日常の繰り返される生活の中にもっと感動と感激、そして感謝をしなくてはいけないなどと理屈を言って終わりとします。
 






 
                        平成18年9月3日 記

 エジプト 8日間の旅 
 ”4~5千年の歴史、石の文化、太陽神、その上に”
8月24日、第7日目 現地で写真のみ記録は帰国


 <オプショナルツアーでメンフィス・サッカラ遺跡とピラミッド>

 ・カイロ郊外(農村地帯)にて  エジプトの結婚事情

 
カイロ市内より約45分、5200年前はエジピトの首都であったと言う、長い歴史のある町・メンフィス・田園風景が開けてきます。
 昔は「メンネス」と言ったそうですが、ギリシャ人が「メンシス」(メンフィス)に変更したそうです。
 南エジプト・ルクソール、ナイル川の西岸観光に行く時には、サトウキビ畑が多かったのですが、1000万首都の近郊ということも在るのでしょう、サトウキビは畑は少なく、オクラ、キャベツなど青果物など何でも生産しているとのことです。

        
 ナツメヤシの街道とでも言うのでしょうか、道路沿いのみでなく広くナツメヤシが栽培されていました。 実はオレンジ、黄色、茶色があると聞きました。

 朝、牛を引いて5時半頃から働き始め、10〜12時でいったん休憩に入り、午後は5時頃から7〜8時ごろまで働くと言っていました。
 女性は大変な働き者で男性より稼ぐとiいうことです。 牛の乳からチーズやバターを作り、果物、パンの販売に従事しているからだそうです。
 ここでの結婚事情は市中と異なり、女性は20歳までに結婚をします。 21〜22歳になると「結婚列車に乗り遅れた」と言われるそうです。
 ここではアパートの心配はなく、それは親と同居するからだそうです。
 
サトウキビのことに触れて思い出しました。 エジプトでも糖尿病の患者が多いそうです。 それは砂糖を摂取しすぎるからと言っていました。 日本人の3倍の摂取量とのことです。 確か、日本人は1年間に12Kg,、3倍ですから36Kgと言うことになります。 そのまま体重とはならないでしょうが、間違いなく肥った方が多いように見えました。

 ・メンフィス遺跡(屋外博物館)

 
アムシスの横像(涅槃像)、BC27年エジプトに地震があったときに神殿が崩壊した。
 同時にアムシス像も倒れた。 20メートルの像の高さであったが、今は15メートル、石灰岩の一枚岩から掘り出してある。
                   
       アムシス涅槃像(倒れた)             聞き漏らした???

 ミイラがなければ魂は戻らないと考えるエジプトの古代の人々、像の頭がなくなったとき、像のアチコチに名前が刻み込まれた。
   


 ・階段ピラミッド(サッカーラ)

        
 
 ギザのピラミッドより更に100年古いヨセフ王の「階段ピラミッド」
 
 
5000年前ごろ、造られた王の墓は台形の一段「マスタバ」古墳といった。
 33年間、エジプトを統治したゾーサル王の下に、エムホテッドという天才の大臣がいた。
 設計と医者の優れた才能の持ち主であった。 王より墓の設計を依頼された。
 そこで彼は従来のエジプトの王の墓の形である台形型の墓より、更に大きな台形型の墓を造ったが納得できず、更にその上に一段積み上げた、そして更に一段というように6段重ねとなった。 当初から設計されたものでなく、偶然に出来たピラミッドであった。
 
その後、10メートルの城壁を造ったが、BC27年の時の地震で崩れた。
 ピラミッドは総合体であり、ピラミッドのほかに葬祭殿、壷など財宝室、そして城壁と揃っている。

 ・ダフシュールの「屈折ピラミッド」と「赤のピラミッド」 (クフ王の父、スネフ王)

 
「屈折ピラミッド」は初め53度の傾斜で積み上げたが、このままでは崩れると途中から45度の傾斜にしたために出来た。近くに軍事施設があり遠くからしか眺められない。
 
 「屈折ピラミッド」とこれが「赤のピラミッド」と地震をもっていえる写真がありません。
 屈折ピラミッドは土台に当たる底辺の部分が、角度53度で積み上げていったが、これでは崩れると途中から45度の傾斜になっている。故に屈折ピラミッドと言う。

 「赤のピラミッド」に入れたのではないと記憶しているが、自信なし。それほどに、この階段の上り下りは大変であったと言うことか?

 「??ピラミッド」の中に入ることが出来ます。
             

 但し"熱く、臭く、ハードですよ」とハッサン・ガイドに紹介されたが、本日の参加者のうち半数は挑戦した。
 一度ピラミッドを30メートルほど登る、そこが入り口である。
 そこから帰りに数えたが138段の階段である。 (階段といっても、斜めに流された板の上に、40Cm間隔で横棒が打ち付けてあるだけである) 立って歩けるのなら良いが高さは1メートルくらいしかないので、膝を折り曲げなくては前に進めない。
 一度平面なところに出るが、更に20段ほど今度は木組みされた階段を登る、このとき私の場合は太ももに張りを感じ、少しよろけた。
 臭いといったのはアンモニアが溶け込んでいるのではないかと思える臭いであった。
 確かに熱く、臭く、そしてハードである。 ピラミッドの中にはなにもなく、早々と引き上げることにした。 
 首をすくめているのだが、疲れてきてついつい頭を上げると石の壁にぶつかる。
 時折トンネル内で電灯が消えることもあると脅されたいたが、なんともなく出口へ。
 強い太陽光線であったが、このときばかりはヤレヤレであった。 皆、膝やふくらはぎに異常をきたしているようで、バスのところまでユルユルと歩んでいるのが分かった。

 このメンシス・サッカラ遺跡とピラミッド観光のオプシャナル・ツアーは私にとっては大変興味深かった。 グラビアや雑誌でよく紹介されるギザの3大ピラミッドの元となったピラッミドからどのように進化・変化したかを見ることが出来たからです。
 
・ジュータン・スクールへ
 
 
確かトルコのジュウタンが世界一で、その後に続くのがペリシャかエジプトであるという。
 ジュウタン・スクールでは8歳から18歳の男女が学んでいた。  男の子は18歳になると先生(一人前と言うことか)になり、女の子は結婚すると言う。
 今は夏休みでアルバイトとのことだった(エジプトの夏休みは6中旬〜9月中旬の3ヶ月間)
 実際織っているいるところを見せてくれるが、その手さばきの早いこと早いこと。
 カメラを持っているのを確認すると、人懐っこく写真を撮れと手招きしてくれた。
       

              
  
日本のカタカナで学校名が書かれていました。 観光客が多いのでしょう。

 ・カイロ空港 
 
バスの中で弁当をつかい、そのままカイロ空港へ

      

               
 
カイロ空港のシンボルマークは守り神「ハヤブサ」をデザインしたものでした。

       
      カイロ空港から        一旦「ロイヤル・ヨルダン航空」でアンマンへ

 ・カタール・ドーハ空港
       
    8月24日
のカタール・ドーハの空港は大賑わいである

 ・帰国
 
カイロ〜アンマン(ヨルダン)〜関空と渡るはずの荷物の運び込みが一部手違いを起こしており、到着しなかった。
 また、カタール・ドーハの出発がギリシャからの便待ちで遅れ、1時間強の出発遅れとなる。
 その代わり、300数席は満員である。
 10時間後、関空に到着した時には、乗り継ぎの羽田行きは既に飛び立った後だった。
 東京方面へ帰る方は、6時間待ちか、新幹線で帰ることになった。
 
名古屋へは専用バス、途中から日も沈み、半分うつらうつらのバスの旅だった。
 42度の灼熱の砂漠、エアコンなしを体験した身には、実に快適な時間であった。








 
                        平成18年9月2日 記

 エジプト 8日間の旅 
 ”4~5千年の歴史、石の文化、太陽神、その上に”
  8月23日、第6日目 (現地8月23〜24日・記)

 
<ギザ、世界遺産3大ピラミッド〜<カイロ考古学博物館〜ナイル川クルージング

 ・ギザ駅到着  エジプトの住宅事情

        
 
 
午前9時半のギザ駅は混雑していた。 と言うよりは列車の本数が少ないのか、入り口で押し合いへし合いである。 並んで乗車すると言う習慣・文化はなさそうである。
 昭和23年の日本、宇野〜高松を結んでいた「宇高連絡線」の乗り継ぎの情景を思い出した。 闇物資を肩に我先にと乗船しようと走って桟橋に向かって急ぐ人々の姿である。

     

 
ギザの駅にてバスに乗り込みピラミッドへと向かう。 その道筋にかっては農村風景であったところが新しい住宅が建ち並んでいる。 柱は細いがほとんどが3~4階建てである。 ガイドさんの説明によると、人口1000万人のカイロの郊外にあって住宅地となった。
 都会暮らしの者は、男では30〜31才、女性は28~29才が結婚する年代だと言う。
 結婚に際して男性は住宅・アパートを用意しなければならず、そのための資金稼ぎで結婚は遅れるという。 
 それでも親の援助が無くては住宅を持つことが出来ず、このあたりに建ち並ぶ住宅は1〜2階が親が住み、その上に積みまして新婚さんの住宅となる。
 なるほど、よく見ると鉄筋が丸出しで、まだ2〜3階まで積み上げられた住宅と、4階までの住宅とがある。 一戸建てというよりは、縦に区分所有による集合住宅のようであった。
     

 
住宅事情とは異なりますが、前後に話を聞いたことを記録しておきます。
 学校制度のこと。
 6−3−3−4年生と日本と同じですが、義務教育は6年間です。 ですが、中高生となりますと共学(?)ではなく男女別々、大学になると再び共学となります。
 収入について
 月給は月4〜5万ですが、これでは食べるだけで精一杯とのことです。衣住食は安いが、外食は日本と変わりないといっておりました。(そうしますとレストランのビール代金も、別に観光客価額と言うことではないようです)
 お医者さんの収入は高く月50~60万円。 学校の先生の収入も高く、その理由は授業後アルバイトで稼ぐからだそうです。 (日本は許されているのかな?)


 ・世界遺産3大ピラミッドとスフィンクス見学

     

 
よく見てくださいラクダに乗った警察官     遠くはギザの街です
 

 ピラミッドの前、砂が舞い上がる駐車場に降り立った時の第一印象は、意外と感激なしでした。 思ったほど大きくは無いというものでした。 何度も何度も写真で見ているからでしょうか。
 ご存知のようにクエ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッドがあります。 父・クエ王のピラミッドが一番高く、それ以後の息子のピラミッドは高さが少しづつ低くなっている。 先代に遠慮したからとの解説を受けた。

  そこで、『その精神(控えめで、先祖を敬う習慣・文化)は現在のエジプトにも残っているのか』と質問してみたら、『そのような、精神はほとんど無い』と言うのが、ハッサン・ガイドの返事で、住宅事情から核家族化がすすみ、祖先・父母を敬愛する念は失われていると言うか、なくなっていると答えた。
 が住宅事情のところでも紹介したように、結婚で親と同居している者はまた違う状況のようである。

 
      

 
話を戻しまして、ピラミッドのこと、父ー息子ー孫の順に立てられたことは皆さんご存知のことと思います。 これまた権力を示すためのものであるようですが、最近日本のエジプト研究者の早稲田大学(?)の吉村教授が別な説をを発表してようです。(詳細知らず) 
 
 ピラミッドと言う語はギリシャ語であり、イ・ハラム(一番古い建物)と言う語から来ているようです。 2300年前ギリシャ人が食べていたパンの形が三角形で、そのパンの名前、それに似ているところからピラミッドと言うようになったと説明を受けました。
 ピラミッドのことについては様々な資料文献がありますので、聞きかじりの間違い記述はやめますが、BC2520年前、クス王の墓(ピラミッド)は当初146メートルありましたが、その後、風化によって137メートルとなり、現在は先端部に9メートルの鉄塔が乗せてあります。  230万個の石灰岩が積み上げられています。 1万人の労働者で20年間かけて造り上げられました。 1年のうちナイルの氾濫で農作業の出来ない3ヶ月間働くところから、公共投資=失業対策とのいわれていますが、果たしてどうなんでしょう。
 当初は表面は化粧版で覆われていた。第2ピラミッドの頂上部には現在も残っており、陽に輝いていました。

           
                              第2ピラミッド頂上部は化粧版です

 翌日には、オプショナル・ツアーで更に100年古いピラミッドの見学に行きました。
 なお、バスから降りる前にガイドさんからピラミッド見学の3大危険物として@もの売り Aラクダの写真撮り  B警察官と教えられました。 気が休まりませんですネ。

         
        土産物屋さんです         直ぐに裏口を覗き込んでしまいます

        
       隠し撮りです。        これも隠し撮り、中で御者が寝ていました

         
 一番納得の構図です。 隠し撮りではありませんでしたが、ラクダの持ち主が走ってくるのが分かりましたので、速やかに退散しました。

 次にスフィンクスです。

               

      

 顔の一部が壊れているのに2説ありまして、ナポレオン説とアラブ人説です。
 髭があったのですが、その髭、現在は大英博物館にあるそうです。
 ハッサン・ガイドの説明を聞いているとき、「これはアラブ人が壊したとか、アラブ人の侵入によってとか」、どちらかと言うと怒りや嫌悪をもってのニュアンスが強かったように感じました。

 ところで、スフィンクスは「何処を見つめているのでしょうか」と言うクイズが、日本のテレビのバラエテイー番組にあったそうです。 お分かりになりますか?
 多分、3択か4択の質問型式であったでしょうが・・・
  
答えは数行後に掲載します。


 帰国した8月25日の夕刊に、『ラムシス2世故郷に帰る」と題して、カイロ中心部からギザに移転の記事が載っていた。
『 ラムシス2世は紀元前13世紀に王位に付き、アブシンベル神殿などの巨大建造物を残した古代エジプト市場で最高の繁栄を誇ったことは既に紹介しました。
 像の高さは約11メートル、重さ約80トン。 1888年にギザのピラミッド付近の村で発見され、1954年にカイロ中心部の鉄道駅前に設置された。 駅前広場は「ラムセス広場」と呼ばれて、像は街のシンボルとなった。
 が、車の排ガスや震動などにより像の劣化が判明していた。 市民の反対を押し切っての引越しとなった。』と。
 ナイル川を渡りギザまで約30Kmである。 ギザにあるクス王のピラミッドやスフィンクス近くに設置されると言う。
 これから、ピラミッドを見学する方は、このラムシス王の像にも会える事だろう。

              
  答えはケンタッキーフライドチキンのお店と言うことです。 確かにスフィンクスの眼差しは一直線にこのお店に向かっておりました。

 ・パピルス店へ

  
エジプトのお土産について調べてゆきましたが、その一番初めに出てくるのが「パピルス」です。
              
 古代エジプトの時代から使われているパピルスは英語のペーパーの語源になったものです。 パピルスの茎の部分を短冊状に切断し、それを縦横に重ねて配置します。
 上から重圧をかけてやると、紙の繊維が搾り出されて、乾かすと紙になります。
 専門店に入りました。さて下の写真のうちどちらが本物でしょう。

             
     背景の映像は関係ありません
 
 偽物はバナナから造られているようです。 時間の経過とともに消えてしまうそうです。。 確か、今年注目され、多くの観客動員をしている「ダヴィンチ・コード」にも、このパピスルに記された古文書の内容が筋書きの一部になっています。
 
 偽物と本物、本物でも著名な作家が書いたものとそうでないものとは、価額に大きな開きがあります。 偽物は街頭や市場でも買うことが出来ます。観光バスが到着すると押し寄せてきます。 縦35、横45センチメートルの印刷したものは、何と30枚でUS$10ドル(1枚あたり40円弱)でした。
 それは右の作品の価額で、左の作品1枚の価額で800枚購入できます。

 ・中華飯店
 
香港のアバジーン(香港仔)に浮かんでいる”竜宮城”水上レストランには遠く及びませんが、エジプトにもありました。

       
 ついつい、初めて経験した香港が発祥地のようなことを書いてしまいましたが、中国より古い(?)文明発祥の地エジプトのほうが、先駆者かもしれません。

              

              
中華飯店から眺めたナイル川の光景です
 
 ・カイロ考古学博物館
 
 
到着前のバスの中からカメラの持ち込みは許されていない。 入場門のところで一時預かりとなるが、後で渡されたものは別のカメラになっていることもあるといわれ、バスの中においてゆくことにしました。 よって、この博物館の写真は入り口は愚か、建物の写真も在りません。
 英国博物館に続いて、世界でNO2の広さと内容を誇る博物館である。
 館内はロゼッタストーン(現在、本物は大英博物館)を除いて全部本物ですとの解説。 
 入り口から何処を歩いても数千年の歴史を物語る石、石、中には岩の彫刻やレリーフです。 好きな方、興味のある方にとっては1週間滞在しても見飽きないどころか、ますます興味を引かれることでしょう。
 凡人にとっては、博物館の入場料800円のほかに、更に2000円の特別入場料にて「THE ROYAL NUMINILES HALL]に入館しまた。
 太古のファラオ(?)のミイラのほうが印象に残っています。
 
 現世から来世へ生永えるためにミイラが必要なのです。 そのために様々に肉体の保存を考えての結果だったのでしょう。 多分、大きな構造物の奥深くで、乾燥した砂漠の気候が、数千年の時を越えて私たちの目の前に現れることになったのでしょう。 
 細く柔らかそうな頭髪が残っているのを目の当たりにもすることが出来ました。
 博物館の木陰で暫し「生病老死」の四文字が脳裏を通り過ぎました。

 ・『モハメット・アリモスク」誕生までの(エジプトの簡単な歴史)
 

 プトレマイオス王朝・最後の女王=クレオパトラが自死した後、エジプトはローマ初代皇帝アウグストウスによって征服・占領され、その後ペルシャ、アラブへと変遷してゆきます。
 才女クレオパトラは、カエサル(ジュリアスシーザー)と結婚し子供をもうける。
 そのカエサルも「ブルータスお前もか」の名セリフで知られるブルータス等によって暗殺
 
される。
 その後、アントニウスと結婚しエジプトとプトレマイオス王朝を守ろうとするが、頼みのアントニウスが破れ、毒蛇でもって自殺したと言う。 
 カエサルの子=プトレマイオスは殺され、ここに王朝は滅びた。
(私にはクレオパトラというと、オカッパ型の黒髪、目元パッチリの美女が直ぐに想像される。 このクレオパトラはエジプトでは美女ナンバー3だそうだ。  一番は既に登場したラムシス2世の妻、アブシンベル小神殿がこの王女のために贈られた。 名はネフェルタリといわれている。  ちなみに、残念ながら2番目は聞いていないし、知らない。

 話が全然「モハメッド・アリモスク」から離れてしまった。
 太陽神の神の国エジプトは、紀元前3000年頃には中央集権国家を形成、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなど高度な文明を発達させてきたことを既に紹介してきました。
 3000年の諸王朝の盛衰の末、紀元前525年にペルシャに支配され、ペルシャ帝国は紀元前332年にギリシャのアレクサンドロス大王に征服される。 その後ギリシャ系のプトレマイオス朝が成立、ヘレニズム文化の中心地のひとつとなった。
 
 プトレマイオス朝は紀元前30年に亡ぼされた(この項の前段で紹介)、エジピトはローマ帝国の属州となる。 ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教が生まれた。
 ローマ帝国が東西に分裂後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産で繁栄を支えた。
 が、639年イスラム軍の将軍アムル・イブン=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となる。
 969年には現在のチュニジアで起こったファーテマ朝によって征服。
 それ以来、アイユーブ朝マムスーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム朝が500年以上に渡り続く。
 特に250年間続いたマムルーク朝のもとで中央アジアやカフサスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立し、1516年にマムルーク朝を亡ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国の元でもマムルーク支配は温存された。

 1789年、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征を切っ掛けにエジプトは近代国家形成の時代に入る。 
 フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国は派遣したアルバニア部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、ムハンマド・アリーであった。
 彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済・軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた。

 やっと、本項目の主役登場になりました。
                  
 1857年、ムハンマドアリーの息子によって完成したのが、カイロでもっとも壮大・荘厳なトルコ風尖塔をもつモスクは、イスタンブールの大聖堂をモデルにして建立された。

         


       
      モスクの天上                  モスク内

 ここには、ルクソールのラムシス2世のオベリスクの返礼として、フランス国王ルイ・フィリップスが送った時計台があります。 既に壊れていて動いていません。
 ハッサン・ガイドはアリーが送ったオベリスクは、現在パリのコンコルド広場の中心に立っており、それに比べて、「こんな時計ぐらいを贈られて・・・」とムハンマドは馬鹿にされたのだ、侮られたと言い方をしておりました。

              
                  その時計です

 また、イスラム教徒ハッサンさんはこのモスクに着いたらイスラムのことはシッカリお話しますと言っていた通り、私が本年春期の講座「イスラム・メッカ」で勉強した、一番基本となるイスラムの教えと行(修行)について語りました。
 このイスラムの教えと、日に5回繰り返されるお祈り、生涯で一度は訪れるメッカ巡礼によって教徒同士の強い絆と日常生活の揺ぎ無い基盤が出来上がる、保たれているのだなと思い、考えさせられました。

 カンエルカリリ(KHANELKHALILL)バザールへ

      

          
  
ここからが、本通、カメラは仕舞う   広場の隅で雑誌売りのおじさん、居眠り

 
大抵、世界の大きな都市に行けば、何処にでも似たような旅行者にはチョット危なげで、スリリングな市場がある。
 
バスから降り立つと直ぐに日本人の私たちに向かって「さくら、桜、やよいじょ・・・」と歌詞も、音程も怪しげな大きな声を張り上げて注目させようとします。
 通路幅は3メートル前後でしょうか、その両側にレンガ張りの商店と、最近改装したばかりと見えるコンクリート作りの店が間断なく続きます。 10メートル進むごとに更に狭い横通路があります。 この通路は行き交う人を押し分けなければ歩けないほどです。 スリの格好の場所でしょう。 勇気を出して入ってゆくこともありません。
 
 「オイデヤス」「モウカリマッカ」「オオキニ・綺麗ですね」の言葉が耳に飛び込んできます。 特に購入予定もありませんでしたので、声をかけられても見向きもしませんでしたが、エジプトの民族衣装”ガレベア”は一着あってもよいと言う気持ちを読み取ったように、声をかけて来ました。
 ガイドさんからは相手の当初の言い値から半分ではダメ、三分の一ぐらいまでは価額交渉できると聞いていました。
 無理やり手渡しされたガレベアの素材は悪いものではないし、サイズも合っている。 手にはしたが特別な反応はしなかったつもりであるが、通りから店の中に入れと言う。 それどころか2Fに上がれというから、手を振って帰ろうとすると、1Fの小さな間口の隙間で計算機を取り出して、あたかもシッカリ計算しているような仕草である。
 出てきた金額を眺めると「128USドル」である。日本円にして26000円。とんでもないと退散しかけると、『いくら。いくら」と言うので、「ワンダラー、1ダラー」と言って店を出た。
 今度は相手さんが何を言っているのかと厭きれた顔をしていた。

 「ノー・サンキュウ」といって背を向けると、「もう一度、お前の希望価額を言え」と言う。
 再度「ワンダラー、1ダラー」言って歩き始めると、「80ダラー」と言う。
 手を振って”さよなら”し店を出る。「すると70ダラー」、更に「60ダラー」と一歩足を進めるごとに値下げである。
 「ノー・サンキュウー」とハッキリした声で答えて、通りの流れに乗った。
 チョット時間を置いて追いかけてくる、「50ドル」と言う。 「もう、いらないのだ」と日本語で答える。  更に希望価額を言えと食い下がるので、「ワンダラー、1ダラー」とふた声。
 これで諦めただろうと、他の店を軽く覗き込みながら前に進む。
 
 消えたかと思っていたら、耳元で「40ドル、30ドル」言ってくる。
 本当にうるさくなって「ノーサンキュウー」と強めに言い放った。
 「ラスト ユアー プライス」と食い下がってくる。 一気に「10ダラー」と言うと、「OK,あなたと友達。OKです」と言う。
 そこで10メートル程戻って店の中である。 店内に入ると「20ドル」と言う。
 馬鹿を言うのではない「10ドル」と言ったではないかと言うと、「お友達、分かった10ドル」で決着となるが、品物を取り違えたりしないかと、もう一度点検して商談成立である。
 この間、約15~20分であったであろうか。
                

 ハッサン・ガイドに「あなたならいくらで購入しますか」と尋ねたら、「50エジプトポンド」といったので、日本円1000円と言うことになる。 
 US10ドルは約1150円ですから、高い買い物ではなかったようです。

 広場に戻り、ハーブ・テイーをいただきながら、周りを見渡すとなかなか味のある建物が一杯でした。
          

 
 ・ナイル川クルージング


 エジプトの夜は長い。 ナイトクラブはAM2時から翌朝の8時ごろまでとのこと。
 そのナイトクラブには石油の取れる国の人々がエジプトにやってくる。 酒と売春婦を求めてと言う。 人類最初の商売が売春であると言う、そこには酒はつきもでしょう。
 夜のナイル川、クルージングは健康そのものでしたが、それでもベリーダンスなどはヤッパリ怪しげなムードを盛り上げていました。

             
                乗船
   


      






 
                        平成18年8月31日 記

 エジプト 8日間の旅 
 ”4~5千年の歴史、石の文化、太陽神、その上に”
  8月22日、第5日目 (現地8月22〜23日・記)

 
 <朝のアブシンベル神殿〜アスワンへ戻り〜夜行列車に乗り込む>

 アブシンベル神殿の前、ナセル湖に太陽が登る

 
今から3300年前、アムシス2世が70年間の歳月をかけて築いた神殿、エジプトの近代化のためとはいえダム湖にその姿を眠らせるにはあまりにも惜しいと、世界の人々が支援した。 昨日、日中40数度の熱風の中、訪れたのが第1回目。 
 陽が沈み急速に気温が下がり始めたのを感じつつ、音と光のショウに出掛けたのが第2回目。
 そして、本日22日朝食前にバスに乗り込み、午前6時前アブシンベル神殿の前に広がるナセル湖に上る朝日を眺めようとやってきたのが第3回目。
 昨日のショウを見た観客席が一番の展望台のようであるが、人様と同じことが嫌いな、天邪鬼の性格ゆえに別な位置取りを考えた。

      
                       陽が登る前

 この神殿の敷地は24時間体制がひかれている。 一周多分20~30分の整備された周回道路の要所要所に警官が銃を手に数人単位で警備している。
 また、人工山の頂上には監視カメラが設置されていることも遠目にも確認できる。
 それらに目が移っていたときに朝日は昇っていた。 地平線から放たれる光線をキャッチするチャンスを失ってしまった。 が、砂山の稜線から顔を出した太陽をカメラに収めた。
      
  この山の頂上に監視カメラ            稜線に陽が登る

 昇る太陽に変わりは無いけれど、3300年の歴史を背景に持つアブシンベル神殿に注ぐ太陽はユッタリと大らかで真っ赤に燃えていた。

      
 今日も砂漠を更に干上がらせ、一方耐え忍ぶ人々に分け与えられるナイルの豊かな水
。 
太陽と水と大地からの恵みに感謝せよと教えられているように感じた。


 アブシンベルから再び3時間にバスの旅 (エアコン故障する)

 
再び、アブシンベルからアスワンに向けての3時間の砂漠の中バスツアーである。
 地図を取り出してみると、アブシンベルとアスワンは真っ直ぐな一本の線である。
 片側1車線の道路を平均時速110Kmで突っ走っている。 運転席の横に座りスピードメーターを確かめてみると、メーターは120Kmまでしか表示が出来ない。 その付近でメーターの針が揺れているのだから、時にはそれ以上のスピードなのだろう。
 対向車とのすれ違いの怖さは往路のときに書きました。 数台が隊列を組んで走っていますが、その内に更にスピードを上げて追い越しをかけます、対向車がやってこないかとヒヤヒヤ物です。 ガードレールなど勿論ありません、ハンドル操作を間違えばたった30〜50Cm下の砂地に激突、一貫の終わりでしょう。 3時間の間に、1台のみ砂漠でまだ車体と確認できる錆びた残骸を目にしました。

   
    何とか砂漠の雰囲気をだそうとするのですが、これがなんともなりません
 
 そんなことを想像し考えていたら、後ろの席の方がやってきて「エヤコンをもっと効かせてくれ」と注文です。 運転手は「故障した」と一言、走り続けます。
 ハッサン・ガイドが天窓を開けました。 確かに風は天窓を切り裂いく鋭い音をたてて流れ込みますが、それは熱風です。 止まれば更に過酷な状態となります。 アスワンまで走り続けるより無いのです。
 そんな状況の中、ナイル川より運河を引き込み、周辺を開発する計画が進められているところを通過しました。 
 一瞬でしたが車中より、その運河の撮影に成功しました。 その写真です。

                

 車中、エジプト綿のTシャツ、ポロシャツの販売
 
そのようなバスの状態の中、車内販売が開始されました。
 エジプト綿にヒログラフィック(象形文字)で名前を刺繍してくれると言うものです。
 アスワン到着までに注文を受けて、FAXでカイロの製造加工場に送り、空港出発前にお渡ししますというシステムです。
 ハッサン・ガイドが既に数回この販売をすることを車内宣伝していました。
 これまでに香水店、宝石店などを回ってきましたが、そのたびに簡単な価額交渉や為替の換算、ガラス物の破損交渉などで誠実な対応をしていた彼の人柄でしょう、かなりの注文があったようです。
 Tシャツで1500円、ポロセーターで2000円は、今の日本の価値感覚では少し高いぐらいかなと思いましたが、エジプトをイメージする象形文字で、自分の名前や、プレゼントする方の名前を刺繍すると言うところが付加価値なのでしょう。

                
 彼がどれほどのバックマージンをいただいているかなどと言うのはこの際問わないことにしましょう。
 そのほか、ナツメヤシの実を甘く煮込み、その中にアーモンドを埋め込んだお菓子の注文が取られていました。

 アスワン・ナイルの中ノ島にて昼食 (渡船ボート調子悪い)

 
エアコンなしの砂漠バスツアーが終わりました。 中には疲労困憊という顔で降り立つ人も居りました。
 ナイル河をモーターボートに乗り換えて中ノ島のレストランで昼食です。
 たった10分に満たない乗船ですが、水量が多く良く眺めなければ流れているのが確認できないほどです。 このボートの上は天国でした。
 今回の旅の間で一番美味しかったレストランでした。 特に生ジュース(グアヴァ、マンゴ、オレンジ)です。 何か混ぜ物でもしてあるのではないかと思えるほどの濃さでした。
 その証拠にミックスジュースを見てみると、このオレンジとグアバとマンゴが三段重ねになっています。スプーンでかき混ぜるとミックスジュースになります。
 (ここでも写真を撮ることを忘れてしまいました。 今回のツアーは食べるもの、飲むものの写真が一枚もありません)
 ツアー会社からエアコンなしになったお詫びにとコーヒーか紅茶のサービスがあり、フルコースの昼食になりました。 
 なを、このレストランはアルコール類は一切無しでした。(梅酒持参で対応)

                
          レストランの名前は「NUBIAN RESTRANT」でした
   

 昼食後の帰りの時ですが、60代ともお見受けした老人の運転するボートのエンジンがチャージしません。 渡し場の青年が直してくれました。
 60歳の老人と言いましたが、エジプトの平均寿命は男60歳、女性71才と言うことですから、実際はもっと若かったのかもしれません。

       
 

 クレオパトラゆかりの世界遺産「イシス神殿」へ (ここでも渡船ボート・トラブル)

             

      

 
アスワンダムにより水没するところをフィエラ島からアギルキア島に移築したイシス神殿へ。 このときもまた渡船がエンジントラブルです。 本日はこれで3回目。もうこれでお仕舞いでしょう。
 熱心に解説してくれるハッサン・ガイドですが、”もう神殿は結構です”という気分になっていました。
 が、それでも以下のことがメモされていました。
 2100年前のギリシャ支配下の下で建立された。 エジプト(?)にはギリシャの王によって建立された神殿は3箇所あり、その内の一つである。
 ギリシャの王はエジプトの神を祀ることによって支配体制をより確実なものとした。
 この神殿はキリスト教(コプト教=エジプトのキリスト教)が教会として使っていたことがある。 コプト教徒が神の顔のレリーフを彫った。
 ここで、ハッサン・ガイドはイスラム教徒とキリスト教徒の違いを語った。
 『イスラム教徒はキリストは預言者であって、神ではないと考えている。
 キリスト教徒はキリストを神の子と思い、同時に神と思っている。 』
 私のこの1年半の間に学んだことと、同じ内容であった。

 本殿にはイシス神があったが、盗まれて今は無い。

 自由時間が30分ありましたが、ほとんどの方がナイルの流れを見渡せる木陰や質素なお土産店で時間を過ごしておりました。
 この間、ガイド・ハッサンさんは知人と「メッカ」に向かってお祈りをされておりました。

                
 その隣では、ご覧のようにナイルを背にして現地の人が椅子に寝そべっていました


 寝台夜行列車「アベラ」で12時間の旅に出る。〜なんと15時間要する〜

              
          
          アスワンの駅

         
 
     駅構内、時間は5時25分      駅構内の壁面には古代のレリーフ

 本日はほとんど乗り物でしたが、エアコン故障でくたくたです。 やっとのことで車内にトランクを積み込みました。 これから12時間の列車の旅です。 出発まで約40分ありましたので、周りの様子を見に行きました。
 
       
  
日本の新幹線よりも線路幅は広く感じましたが、同じくらいでしょうか

              
             
        盗み撮りです

 車内も見回してきました。 かって「オリエント急行列車・殺人事件」という、かなり人気のあった映画を数回見ていました。 その急行列車の豪華さ・優雅さとは比較にはなりませんが、それでもどんな体験が出来るか、今回の旅で楽しみの一つでした。

     
    
トイレ                 通路、狭い         洗面所

 
列車内のクラブ室に行きましたら、「地球の歩き方」に写真入で紹介されたと言うミスターXがニコニコ顔で握手を求めてきました。 

                 
 出発前だがビールをもらえるかと尋ねると勿論OKとの返事。 1缶いただこうとしたら現金の持ち合わせが無いので後でと言うと、「顔を覚えたから大丈夫、後でOKだ」という。  今回の旅で私の髭面はここムスリムの世界では良い印象をもたれているのではないかと数回感じました。 (ムスリス=髭は思い込みすぎでしょうか) 
 今晩は列車内のこのクラブでパーテイーをするから必ず来てくれと言われました。

 今回の旅の参加者のうち最年少はお母さんと参加した渡辺あゆむ(歩?)君でした。
 列車の旅は隣部屋になりました。 コンパートメントの狭い空間ですが90Cmドアーを開け放てば、2つの部屋が繋がりいくらかは広く感じました。
               

 6時半定刻を少し過ぎた時に、何の前触れもなく列車は出発しておりました。
 直ぐに、夕食が届けられましたが、食欲がわきません。 そこで持参のカップヌードル「どんべえ・きつね」を取り出し、お湯をいただいて美味しくいただきました。
                

 
食事が終わると直ぐにベットメーキングです。 その間を利用して、クラブ室を覗いてみました。 お客さんはイッパイです。 皆さん盛り上がっていましたが、本日の砂漠熱風横断ツアーの疲れと、明日はピラミッドの見学です。 早々と横になりました。

        

 
この後、列車は時折無人駅に停車しながら、月明かりの中を時速70〜80Km位で走っている感じでした。 車両のつなぎ目の軋む音が気になっていましたが、いつの間にか眠りに入っておりました。
 この後、3時間遅れでカイロの郊外ギザの駅に到着することとなります。







 
                        平成18年8月30日 記

 エジプト 8日間の旅 
 ”4~5千年の歴史、石の文化、太陽神、その上に”
  8月21日、第4日目 (現地8月21〜22日・記)

 
 エジプトの食事とアルコールの話
 
 パック・ツアーですから注文のつけようがありませんし、自由に選択したわけでもありませんのでエジプトの食文化を語るなどと言うことはできません。
 でも、一言で言えば、慎ましいものであると感じました。 飽食日本とは雲泥の違いと思いました。
 出掛ける前から体調第一と考えていましたので、常に次のことを言い聞かせていました。 @腹は常に八分であること  A肉や脂っこいものは控えること B常用健康茶、ブラジルのタヒボ茶を多めに飲むこと 
 
おかげで一度も薬の世話にならずに帰ってこれ、翌日からは百姓学校に行き1泊2日で秋野菜の種まきをして来ることができました。

 これがエジプト料理だと言えるものを食したのかどうか分かりませんので、評価や感想は出来ませんが、何度も出てきたものがエジプト料理であるとするならば、きっと「ナイルの賜物」なのでしょう。 小麦は豊富に収穫できるのででしょう。
  それ故に、それぞれの食事の時には、まずパンが出てきます。 食パンのようなものは見かけませんでしたが、食感は同じような細長く焼き上げたもの、フランスパン風なもの、そのほかにこれがエジプト風なのかもしれませんが、色黒の小麦粉で直径10数センチの丸焼きのインドのナンよりも湿り気のあるものです。 これらをそれぞれのレストラン独自の味付けによるゴマ味噌のタレ(みんな似通っていましたが)をつけて食べます。 ほとんどのレストランでお代わり自由でした。
 
 後は数種類の野菜の炒め物とご飯(ビーフン?と混ぜたものもあった)とシシカバブー(
焼肉)か魚を粉でまぶすか、そのまま油で揚げたもの(炒めたもの)でした。
 私は塩とコショウで好みの味付けをして五目御飯のようにしていただきました。
 同行の親子、小学6年生の子にこの食べ方はいけるぞと言って教えたら、その後、同様な食べ方をしていると母親が言っていましたので、きっと気に入ったのであろう。 (この親子は明日紹介する予定)
 そして、最後はほとんどこの時期はスイカか、あまり甘くないウリのデザートでした。 一度だけバナナもあった。

 朝食はホテルでのバイキングです。 これは日本の何処にでもある方式で、好きなものを好きなだけチョイスだ出来、体調調整・元気印にしてくれます。
 それに加えて、カップヌードルやインスタント・ヌードルを持参していましたので朝食時にお湯をいただいて美味しくいただきました。

 ところで、飲み物のほうですがムスリムの世界のためでしょう、アルコール類はビールとワイン(このワインすらない場合があった)。 ジュース類は生も含め豊富、清涼飲料水も豊富でした。 
 ところで、最初の2日間はあまり冷えていないビールが出てきました。 気温40度前後の世界で生ぬるくまではありませんが、喉越し爽やかとはならないビールはいただけません。 3日目の昼にまともに冷えたビールをいただいた時は感激ものでした。 
 銘柄は輸入物は”ハイネッケン”が多かったと思います。 エジプト産のビールは確か”SETTELL”(スペル自信ありません)と言ったと思います。 軽いビールで私には合いました。
 レストランでの価額は500ミリリットルか750ミリリットルで日本円で500〜600円でした。 日本の発泡酒と比べると割高です。
 地中海に面した国なのだからワインが豊富にあってもよいと思ったのですが、やはり禁酒の国・イスラム教の国なのでしょう。
 持参の梅酒は夕食後の寝酒の役に大活躍でした。 氷は心配でミネラルウオーターで割りました。 出掛けに関空で日本酒の大吟醸を仕入れてゆきましたが、ホテルの冷蔵庫で冷えた頃には、朝の出発となり日本まで持ち帰ることになりました。

 以上に関する写真は一枚もなく、どのように表現したものかと苦労しました。 たった一枚の写真があれば、訳の分からない言い回しをしなくて済んだことでしょう。

 アスワン観光と世界遺産アブシンベル神殿が本日の日程です。
 まずは、アスワン観光から

 
アスワンの古い名は”スン”と言った。 「バザール、市場」の意味で、香辛料の市場であった。 アラブ人がエジプトに入ってきた時、”スン”と言うのが言いにくく”アスワン”としたという。 アスワンもルクソール同様に観光の町である。
 エジプト人は花や木など自然に対してはほとんど興味を持っていないと言う。
 「この花はなんという名の花ですか?」と尋ねれば、「この花は花という」と答えるそうである。 「この木は何と言う名の木ですか?」と尋ねれば、「この木は木である」と答える。
 エジプト全土から見れば、自然がほとんと言っていいほどに見かけない世界・社会はやはり自然(緑)への関心が薄くなると言うことでしょう。
 それに比べると逆に、何処にいても豊かな緑に包まれ、清らかな水を口に出来る日本、その自然の山・岩・川が神となる国・日本である。 (近頃は、大分怪しくなってきた)

 アスワンダムについて
  
 
アスワンダムは岩と石で出来たロックヒル・ダムである。
 ホテルからモーターボートで対岸に渡り、バスに乗り込むと20分ほどで、まず旧アスワンダムを通過する。 
 1881~1952年、72年間イギリスの支配時代の1901年に出来上がった。貯水用のダムである。
 イギリスは産業開発には不熱心で、農業開発、特に綿の生産に力を入れ、それを本国に送り綿製品として輸出していた。
 
 新しいアスワンダムはナセル大統領の時代に建設が始まり、ナセル急死後、1970年次のサダト大統領の時に完成した。20世紀のピラミッドといわれる壮大な規模で、全長3・6Km、水面からの高さ111m、ダムが生んだ人造湖=ナセル湖は全長500Km、幅10Km。面積は琵琶湖の約8倍という。
 1952年ナセル大統領は改革を断行し、王制から共和制へと移行、近代化のために必要な電力を確保しようとした。 その資金を確保するためにスエズ運河を国有化した。
 結果、第2次中東戦争(1956年)が勃発、英・仏・イスラエル対エジプトの戦いとなる。
 この戦いにエジプトは勝利し、旧ソ連の援助でダムは建設された。 この時のダム建設では、調査活動でドイツも貢献した。
                
               ソ連・エジプト友好の塔(車中より撮影)
       冷戦時代、ソ連の支援によって出来上がったアスワンダム
        
 『エジプトは爪でダムを建設した』と言われた。

   
 アスワンダム堤防から西を見る    正面を望む           東を望む

 何処を見てもダムのところにいるとは感じないし、思えない。滞在時間5分

 ナセル湖の功罪
 @遺跡が沈んだ(移転可能なものと不可能なものがあった) 
 A洪水によるエジプトの肥沃な土地、ドロが運ばれず痩せた地となった。 河床や堰に侵食や海岸線の後退、漁業の不振、塩害の進行、ナイル住血吸虫病の蔓延。
 B気温の上昇
 功績はなんと言っても、工業の発達と小さな村まで電気が供給できるようになった。エジプト全土の80%をカバーしている。 とガイドさんが解説してくれた。

 未完成のまま残るオリベスクが残る花崗石の石切り場

         

 
左 途中でバスを降りて、エジプトの砂を採取 右 香水瓶にその砂入れてお土産に
 
 香水でも有名なアスワンとのこと。 その後、香水店にバスは止まった。 今回の旅、第2回目のお土産タイムである。 手馴れた手順で指先に天然の香水を数種類つけてくれた。 混ざって分からなくなると、コーヒーの粉末を嗅がせて再び始める。
 イタリアから輸入していると言うガラス瓶のみを購入。(なを、エジプトにはイタリアからの観光客が一番多いとのこと)

 
さて、石切り場である
      

               
 
王様の経歴を書くためにオリベスクは造られた。 途中で割れ目が出来て、そのまま放置されている。 どのようにして切り目を入れていったのでしょうか。 
 周りに30Cm間隔で穴を開けていく、そしてその穴に水を注ぐと言っていた。
 底は竪穴を掘って切り抜くと言う。 話を聞いても実感がわかない。


 アスワンから砂漠を平均時速110Kmで3時間、アブシンベル神殿へ
 
            
           
   警察官が見守っている

 
アスワンからアブシンベルまでは、休憩なしで約3時間。 途中に休憩施設らしいものは数箇所あったが、観光客が利用できるようなものではないのであろう。
 アスワンから20人乗りのマイクロバスか、50人乗りの観光バスが決められた時間に集合して、警察官に先導されて一気にアブシンベルまで走る。
 事件があったわけではないようだが、エジプトにとっては観光収入は国の財政の基本。
 事件があって観光客が減るのが一番恐ろしいことだからと説明を受けた。

          
   
   兎に角真っ直ぐな道路           到着、砂埃の駐車場

 
運転手にもよろうが、私たちの運転手は時折来る対向車が小型であると、センターラインをオーバーして走り続ける。 相手の車が避けてゆく。 怖かった。

 アブシンベル神殿について
 
 
アスワンダムの建設により、湖に沈むことになったこの神殿、ユネスコによる世界的な救済キャンペーンにより、総費用4000万USドルをかけて、65メートル高い現在地にドイツ、イタリア、フランス、スエーデンの混成チームによって、40万トンの神殿は20~30トンに切断されて移設された。 工期は1963〜1968年です。

 この神殿は一枚岩から掘り出されている。 紀元前1250年ごろ自己顕示欲の強かったラムセス2世が南エジプト(スーダンの国境近くの地)に70年の歳月を費やして建設した。(ピラミッドは約20年)
 ラムシス2世は93歳で死去するまで、約77年間エジプトを統治44人の妻と2百数十人の子があった。
 大神殿は3420年前、ヒッタイト人(シリア人)とエジプト人の”カーデイス”の戦いがレリーフされて、勝利を感謝して神への献上の神殿として建設された。
 戦いのレリーフと勝利献上のレリーフが中心である。(現在内部は撮影禁止である)

       
         正面入り口         正面右下のところ、守り神ハヤブサが見える

          
      左 南ナイルと北ナイルの神によって祝福されている像
      右 奴隷だろうか、囚われの身の者の首には縄が描かれている

 小神殿は結婚25年目の記念に、王女ネフェルタリに贈ったものだそうです。
 こちらは戦いとは関係なしのレリーフである。
  
     
   
   

 本日のホテル『SETI HOTEL]にて

         

 
全てコテージ風のつくりである。 
 観光国家エジプトが現在開発に力を注いでいる一つが、この地アブシンベルではないだろうか。 他にも良きホテルがあるようだ。

 そして、夜は「音と光のショー」へ
 
午後6時半の夕食後、再びアブシンベル神殿へ
 夜空の下でのショーは何枚もシャッターを押したが、まったく役立たずでした。

                 
 まさかアムシス王が意地悪したした訳でも無いのでしょうが、映像でなくイメージを焼き付けて行きなさいと言っていたのでしょうか。

 このショウーの鑑賞は泊り客のみです。
 舞台はナセル湖に沈む運命にあった遺跡を移動して、人工的に再構築された大小神殿がバックである。
 3300年前に繰り広げられた戦いから始まる約40分間のショウーです。
 当日は一番多い観光客の国の言葉がメインとなります。 約250人の観客の70%が日本人でしたので、日本語が主音響となりました。 (他の言葉は足元にでもあるのか、特別なイヤホーンがあるのか分からず)
 神殿に浮かび上がった映像、その上を見上げれば満点の星空です。 太古の昔より同じように繰り広げられる人類・民族の戦い、『我こそが大将なり、王なり」と権力を誇示する。 天空の星たちはいかに見下げているのであろうか。

 愚かなことと口では批判できるが、ファラオ(王)となり権力をほしいままにする心地良さか、それとも何時寝首を刎ねられるかと怯える日々だったのだろうか。
 愛する絶世の美女に囲まれた時、人は思いもよらぬ知恵や力を発揮するのだろうか。
 そして、その権勢を後世に残すために遺跡として残したのだろうか。
 今、この地に世界から人々をむかい入れて、驚嘆させている、これがアムシス2世が望んだことだったのだろうか。
 
静かに寝れアムシス王よ!


 

   






 
                        平成18年8月29日 記

 エジプト 8日間の旅 
 ”4~5千年の歴史、石の文化、太陽神、その上に”
   8月20日、第3日目 (現地8月20〜21日・記)

 
 世界遺産ルクソール・ナイル河西岸遺跡観光〜アスワンまで
 
 <
この記録を書いているのは現地時間8月20日、午前4時半である。 午前二時半に目覚めて用足しをして、更にワンクール眠り、午前4時におきる。
 熱めのシャワーを浴びてペンをとる。 どうやら時差の調整はほぼ終わりに近づいているようだ。>
 
 ルクソールの朝 ホテル「MARO」

               
                  ホテル「MARO]、

    
  

 
写真は夜明け前にホテルの敷地の中を歩いていたつもりが、敷地の広いリゾートホテルのこと裏口のところに出てしまった。 守衛さんにホテル滞在の者だと言って、外へ出たもののそこは民家が続いていた。 裸電球が灯り、今エジプトでも鳥インフルエンザで人気の落ちた鶏がゲージの中で静かに朝の明けるのを待っていた。
 通路から大きな男が現れた「何処に行くのか?」と尋ねる、「ホテルに滞在の者だ」と答えると、「タクシーに乗っていかないか?」と言う。 勿論断る。 2分後、ホテルの横の駐車場に止まっていた。

       
        ホテルの部屋から        ホテルのレストランの前はナイル

 ナイル西岸「王家の谷」
 
昨日はナイル東岸「生者の都」を訪れた。
 本日は「死者の都」と言われる、ナイル西岸、ファラオたちが眠る「王家の墓」と、言葉では区分できるが、兎に角2000年前〜3500年前が当たり前と言う解説についていけない。 後日写真で順を追って紹介しようと思うが、どれほど正確に伝えることが出来るか自信は無い。
       
   「死者の谷」ゲート前に駐車          トロッコで入り口に向かう

 5年前、日本の山陰地方をキャンピングカー出回った。 その折、城ノ崎温泉からはじまり、湯村温泉、三朝温泉、奥津温泉、湯原温泉、と回った頃には、温泉はもう結構ですと、米子・皆生温泉以降は温泉地には立ち寄らずに通り越したことを思い出した。
 10日後、帰国後に写真とメモを参考に、観光したところを紹介するつもりであるが、今は他のことを記録しておこう。

 世界遺産の三分の一がエジプトにあると言う。
 
多分、登録数の3分の一と言う意味であると考えます。 その一つ「死者の都」、ファラオたちが眠る『王家の墓』は、現在62墓が発見されていると言う。
 当日はラムシス3世、4世、9世とスタンカーメンの墓を案内された。
 墓の中のレリーフ(浮き彫り)は各墓ともに同じ図柄である。 現世から来世に渡る船=太陽の船=レリーフは船。 蛇は来世を守る。 象形文字は死者の書=ラーシン神の賛美が書かれている。 
 3500年前、トメムス王のものが最初で、この死者の谷の一番高い岩山にはギザのピラミットに似せた山がある。 ギザのクス王のピラミッドはBC2520年と言うから、今から4500年以上前のこととなる。(最終日に、立ち寄ることになっている、ジュセル王の、階段ピラミッドはBC2620年、今から4620数年前となる)

               
            中央の山がピラミッドに似せて形作られている
               横穴は写真では表現できなかった
                ツタンカーメンの墓は撮影禁止

 年数にするとピラミッドに眠る王達とは約1000年後になる『王家の谷』の王たちも、ピラミッドに託した王たちのように、現世から来世への永遠の生命を願っていた。
  だが、ピラミッドに葬られた王たちはその後盗掘にあっている。 それは免れたい。しかし、来世へ命を永らえるには、どうしても肉体=ミイラを残す必要がある。
 
そこで、ピラミッドのような墓ではなく、盗掘されないように石灰岩の山肌に横穴を掘って墓は造られてた。
 <何故、盗掘されるのか・ 薬となると考えられていたからと言う>
 
 電気の無い時代に穴を掘る時、どのようにして光を採ったのであろうか?
 ロウソク、松明なのであろうか。 鏡を利用して穴の奥深くまで太陽光線が差し込む構造になっている。 そのために例外を除いて真っ直ぐに掘り進められている。
 1920年、英国人ハワードカーターによって発見された「スタンカーメン」の墓が、現在一番人気である。 10歳(?)で王となり18歳で死亡した。
 サムシム王の墓の下にあったので盗掘されずに残った。 今は「カイロ博物館」に発掘品は展示されている。 若くして亡くなった王でさえ、あれほどの埋蔵物があったのだから、力のあった王たちならばどれほどであったろうかと想像される。
 <この墓を発掘した時に死者がでて、祟り説の噂が流れたが、3200年前に出来た墓に溜まっていた毒物を吸い込んだのであって、祟りではないという>

 このスタンカーメンの墓に入るには「死者の谷」の入場料の他にエジプト・ポンド・70ポント(日本円で1400円)゙が必要である。
 『死せるスタンカーメン、エジプトを救う」と計算してみた。
 一日平均2000人×365日×1400円=年間10億円である。
 エジプトの産業は観光と農業。 観光収入と従事者が50%と聞いた。 
 ルクソール・ナイルの東岸は太陽の登る「生者の街(神殿)、西岸は豊かなナイルの水に支えられて、サトウキビ畑を中心に、トマトなどあらゆる農産物が生産されている。
 その西岸の奥深くに、死者の都、「奥家の谷」があった。

 トレッキングシューズは正解
 
日本を出る時、踵にバンドのかかるサンダル風のものを履いてきたが、持参してきた散歩時のトレッキングシューズに履き替えた。 本日は午前7時から午後の6時までにどれほど歩いただろうか、バスに乗っているとは言うものの6〜7Kmは歩いた。 整備はされてるが石交じりで足場が悪いので踏み間違えると足を挫きやすい。 普通の運動靴でもかまわないが、出来ることなら履きなれたトレッキングシューズをお勧めする。

 エジプトの食事、水分補給について
 
炎天下の直射日光の下では42~43度は下っていないと感じた。ヒリヒリするのであるから夏場のエジプト旅行では日焼け止めは必需品である。 それに連動したようにミネラルウオーターの消費はすごい。 バスの中で販売している、米1ドルで650ミリリットルか、75オミリリットル2本である。 最後にバスを降りた時に調べてみたら、どの座席にも3~4本のペットボトルが転がっていた。 その他、昼食時や観光地でジュースなどを飲んでいるのだから、一日の消費量は大変なものである。 私はプラス、ビール500〜7・500ミリリットル一日4〜5本であった。

 本日の本格的な世界遺産、遺跡めぐりが始まる
 
@メムノンの巨像
 ここは入場無料であった。 畑の中で現在発掘調査が始められているからであろうか。

              

 Aハトシュプス女王の葬祭殿
 3330年前の祭殿。 女性支配者。 当時の有力者に賄賂を贈り、彼女は神の子であるとの作り話を広めた。 何時も男装をしており、20年間エジプトを支配した。
 当時のエジプトは豊かであった。 貿易関係が盛んでソマリアなどにも遠征隊を送って物々交換をしていた。 ソマリアからは象牙、黒炭、ナツメヤシの木、ヘナの木が持ち込まれた。 帆船で紅海を4ヶ月かけて往来した。

     
    葬祭殿の高さ??、5〜60メートルはあった。

            
              葬祭殿の中で岩壁を見上げた

 Bエドフにて「ホルス神殿」
 ホルス=ハヤブサ伝説〜2200年前、ギリシャ支配時代(アレキサンダー大王)
 一番綺麗に残った神殿。 
 アレキサンダー大王からクレオパトラ7世までの300年の支配時代。
 エジプトの古代王のために造った神殿。

      

                 
         このハヤブサ=ホルス=お守りの神を祀る神殿
 水で始まり→山→太陽が生まれ。 山と太陽が結ばれて4人の子が生まれる。
 弟が兄を討つ。 兄の后が敵=弟を討つ伝説で語られる。 
 ハッサン・ガイドさんが詳しく話してくれたが、色々な神の名が登場、訳が分からなくなった。 これ以後も、登場する「イシスの神」の存在も語られた。

            
 左、何処からか現れた叔父さんガイドに誘われて、ナイル川から引き込んだと言う、地
下の水路を案内された。 勿論チップである。日本円で20円払った。
 右、観光地周辺では必ず見かける馬車が人待ちしていた。 カメラを向けていると、馬車引きが写真を一緒に撮らないかと言い寄ってきた。そそくさとバスに戻る。

  C「コムオンボ神殿」
 ナイル川から見える綺麗な神殿である。 
        
 ハヤブサの神とワニの神が祀られている。 神殿内にワニのミイラがあった。 この河の近くで生息していたのであろう。
  ここには古代のカレンダー、医療機器<手術道具>のレリーフ(浮き彫り)に驚かされる。
 神殿を撮影するより、このレリーフを撮ってくるべきであったと、今にして思う。
 既に、朝からの神殿周りで疲れ、気回し回路がヒートして働かなくなっていた。
 
 以上@〜Cの見学はナイル川を南下することになる。(国道??線)
 大半の場合、南に向かって左側の砂岩の岩肌に張り付いたように、粗末な日干しレンガの家屋の集落が続く、はっきりしたことは分からないが、1軒の大きさは50平方メートルぐらいであろうか。 (集落は連続していると言うのでなく2〜3Km,時には5〜6Km離れて) エジプトには天災(地震、火山、津波等)は無い、細い鉄骨の柱の間をレンガや石灰岩を積み上げ、その後、外側を泥で塗り固めてあるように見えた。雨がほとんど降らないので屋根はヤシの木と枯らしたサトウキビを載せただけのものと言う。
 電気は幹線道路に沿って繋がっているが、タップリと電力を送っているようには見えなかった。 多分、裸電球であろうし、貴重な水はどのようにナイル川から引き込んでいるのだろうか。 
 この間、トイレ休憩も含めて4時間強の車旅。 
 アスワンダム建設後に拓けたというアスワン市内に入った時には、それまでの埃っぽさから緑が多く、トウトウと流れるナイルの水量の豊かな街を見て、シャッターを一気に押した。
      
     アスワン市内に入ったところ              船着場近く
 人間にとって、特に私にとっては緑と水は本当に心癒し、気持を力づけてくれる。

        
     アスワン・ナイルに陽が傾く      アスワン・ナイルに陽が沈んだ
 
 本日のホテルに向かう
 この日のホテルは帆船ファルーカでクルージングして、ナイル河の中島にある「ELEPHONTINE」アイランド・リゾートである。

          
      帆船・ファルーカ             本日のホテルを眺める

 ナイル川の川幅は300メートルくらいであろう。 風もなくナギの状態のなか帆船は十数回左右に蛇行しながら進む。 陽が沈み始め川岸に明かりが灯る。
 船を操る人たちと思っていたら、手太鼓を打ち鳴らし始めた。
 その内に、私たちお客を狭い船内中央に導き、踊りの輪となる。
 掛け声は「オ・ワレーレー」(万歳万歳)と「アヤナリーレーレー」(おひさしぶりネ)の二つである。
     
 この間約30分、石の神殿・石像、そして変化の無い岩と砂山に見飽きて疲れていた気分・気持を一気にほぐしてくれた。

 8月21日・朝「ホテル・エレファント」にて
      

             

        ホテル・エレハント           花燃(炎?)樹?






 
                        平成18年8月28日 記

 エジプト 8日間の旅 
 ”4~5千年の歴史、石の文化、太陽神、その上に”
    8月19日、第2日目 (現地8月20日・記)

 
 @カタール・ドーハ国際空港でのトランジットは4時間
 敷地も空港ターミナルも広く、ガランとしていた空間も時間とともに賑わってくる。
 手持ちの広辞苑でカタールを調べると、アラビア半島中部東岸の首長国。 ペルシャ湾に突き出た小半島を占める。 イギリス保護領から1971年独立。 産油国。
 面積1万1千平方キロメートル。人口55万(1995年)。首都はドーハ。 
 続いて、ドーハを調べると、アラビア半島東岸、カタールの首都。 ペルシャ湾に臨む。 交易都市として発展。 人口21万7千人(1986)とある。
 人口55万の国で、22万弱の都市。 駐機場はほとんど「カタール航空」のマークである。
 Aドーハからルクソールへ 約3時間のフライト
 海〜砂漠〜砂漠〜砂漠〜海〜砂漠〜砂漠。 その砂漠を真っ直ぐに伸びる自動車道路(?)。時折、その砂漠の真ん中に大きな黒い穴のようなものが見える。 隣に座ったエジプトからカタールに出稼ぎに来たと思われる方に、手振りを交えて「あれは、石油を掘った跡か」と尋ねるが、要をえた返事は返ってこない。
 パーサーに尋ねると「野菜畑である」との答えが返ってきた。
 砂漠の中での農業技術が既に開発されているのだ。

 Bルクソール空港到着

         
   飛行中に砂漠でみかけたもの            ルクソール空港

 気温40度、 直射日光のところでは43~44度はあろう、日陰にいても手にしたカメラの外側が熱せられ熱く感じる。 一番は眼球が乾いてドライアイになることである。 目をパチパチと瞬かないと痛くなる。 目薬持参の意味を理解できる。
 31名の団体のことトラブルは起こる。 トランクが破損している。 その補償交渉に時間を要して、初日から日程変更である。

 C世界遺産ルクソール・ナイル河東岸遺跡の観光から始まる。
 「生者の都」と言われるナイル東側、歴代のファラオ(王)が築き上げた神殿である。
 「カルナック神殿」「ルクソール神殿」。 両神殿について、カイロ大學・日本学科出身のガイド・ハッサンさんによって、次々と神の名、王の名が発せられ、語られる。 全て石造りの神殿は3200〜3400年前のもの、数百年、時には2000年の歳月を要して、時に数代のファラオによって建築されたものである。
 人類文明発祥の地の一つ「ナイルの賜物」の遺産であることは、分かるが細部を活字で紹介する知識もなければ、詳しく解説された内容をメモする意欲はわかず、通り一辺の想像をめぐらすのが関の山と言うところである。

 ただ、エジプトは多神教で太陽の国、その国を支配していた古代エジプトのファラオ(王)はその権力の象徴として強大な石の文化を残した。(大事業はナイル川が氾濫して仕事の出来ない3ヶ月の間の公共投資であったとの学説は有力である)
 石なるが故にだろう、ギリシャのアレクサンダー大王が征しても、その後ローマによる支配時代も、また時代が下って西欧列強の支配下と続いても石の文化は残った。
 その遺跡は権力者の征服のみならず、度重なるナイルの氾濫によって神殿が3〜4メートルも埋もれたことを示す跡も見ることが出来る。

 ローマ軍に攻められたキリスト教徒たちが、神殿に立て籠もり(?、逃げ込んだ?)、生活したところには、エジプト風の象形文字やレリーフの上に、「最後の晩餐」の絵が描かれたりしている。
 また、埋もれた神殿の跡にイスラムのモスクが建造されたりもしている。
 以下は「カルナック神殿」と「ルクソール神殿」で、私の目にとまったショットです。

       
    カルナック神殿前の商店          カルナック神殿入り口アプローチ

 神殿前の広場は埃っぽく、時折吹き抜ける風に砂塵が舞い上がり、焼き付ける太陽光は肌に痛かった。 写真は撮れていなかったが広場にやせた山羊が放たれていたが、どのような関係があるのかは聞きそびれた。

         
    どこか破壊されてしまっている          柱は切断されています
 
 盗掘されたり、他の用のために石柱が切断されたり。 あるいはキリスト教徒・イスラム教の一神教の信徒によって、偶像崇拝を否定するために数十トン・数百トンの石像が上半身が失われたり、頭が持ち出されたり、顔が破損したりしており、まともなものはほとんど無いという実体であった。

     
                   カルナック神殿の中で
 今から3400年前に建設が始まり200年の歳月をかけて作られた城壁に囲まれた「神=太陽を祀る神殿」

              
                   カルナック神殿

 以下はルクソール神殿の写真である。 カルナック神殿は城壁に囲まれていたことを示す残骸がうず高く積まれたまま、ルクソール神殿は直ぐ近くまで民家が押し寄せていた。
 かっては、カルナック神殿とルクソール神殿は結ばれていたとの説明あった。

       
    オリベスクのもう一本はフランスへ    神殿の上にはモスクが建っています
    
                    
  ルクソール神殿の入り口、大小の石の間から伸びていました。
            数千年前の種が芽を出したのでしょうか。



 喜捨(バクシーン)とチップについて
 バクシーンとはイスラム圏における「富める者が貧しい人に分け与える」と言う良き(?)習慣である。(かって、”働きもしないで”と日本にあった(今も残っているかな?)私たちの感覚、価値観では理解が難しい。 子供も大人も「何か施せ」という行為、手を出してくることに抵抗が無いようだ。
 事前知識を持っていたので、それらの場面に出くわしてもユトリをもって対応したが、アラブ諸国の中でもエジプト人は人懐っこい性格の人が多いようである。 純粋な親切なのか、だましているのか分かりにくい。
 農村部に行くとバスに向かって、あるいは汽車に向かって、笑顔で手を振る子らの姿は、実に屈託がなく、長い間見たことの無い純粋で無垢な光景に安らぎを覚えた。

 神殿の近くで親切顔で手招きする商売をしている老人たちがいる。 ガイドが紹介しなかったカメラの好ショット・ポジションを教えると言うわけである。 本当に柔らかく親切心丸出しの笑顔である。 その後で中指と人差し指に親指をこすり合わせて、チップをくれとせがむ。
 また、写真を一緒にとらないかとカメラポーズもとる。 被写体になることによってのチップである。 これはラクダや馬車の側で写真を撮るときも同じ、警察官との写真も同じことである。 
 バクシーン(喜捨)は何もせずに貰う、何か少しでも相手が喜ぶことをすれば、チップといことになるのだろうかと考えてみたが、これは私の判断。

 観光立国エジプトは観光関連の仕事(遺跡周辺の露天商の叔父さんも含めて)を収入源としている人が一番多く(約50%)、次が農業、続いて民間企業で、最後が公務員。
 
公務員の平均月収が2万5千円〜3万円と言う。
 すぐにGNPがいくらだとか、一人当たりがどうのこうのとの話を持ち出してしまう習性がついた慢性・金満・品性貧弱患者。 資本主義、市場原理・自由競争、グローバルスタンダードに毒された考え方や見方の患者にはこの国のことは理解できない。
 と言いつつも、エジプトは一人当たり国民所得(GDP)は3900ドル、日本は3万数千ドルである。 物価はところによって大きな違いがあるようであるが、日本の平均の2分の一と感じました。 但し、これも観光客相手の価額でしょうが、レストラン等での500ミリリットル瓶のビールは日本円で5~600円でした。


 バスの中から街頭を眺める
 
観光遺跡周辺やナイル川クルージングの船着場付近には観光用の馬車は人待ち顔である。 馬糞が路上に落ちないように、尻の下にオシメではないが、糞を受け取るシートが張られている。
 
これらの馬車、日中はほとんど動いていなかったが、陽が沈み涼しくなると活動を始める。 狭い公道に観光バス、タクシー、少ないがオートバイ、それに歩く人が重なり合って譲り合って前進したり、横断したりしている。
                
 ここエジピトでは、中国やベトナムなどで体験した、<我先に、ドケドケ>とばかりに警笛音をブーブービービーと鳴らすことは少ないと感じた。  けたたましく、喧騒で忙しげには感じなかったのは、私の事実認識の間違いであったのだろうか。 いや、そんなことは無い。

 
日中も感じたことであったのだが、夕方になると一層路上でたむろしている男たちの姿が目に付いた。 対女性比10対1。 何の語らいをしているのだろうか。 儲け話か世間話か知らないが、民族衣装で座り込んでいる。

 以上、8月20日、午前2時に目覚める。(体内時計=日本時間午前8時)
 熱いシャワーを浴びて、清涼ヘヤートニックを頭にスプレーしたら、眠気が一気に飛んだ。
 

 





 
                        平成18年8月28日 記

 エジプト 8日間の旅 
 ”4~5千年の歴史、石の文化、太陽神、その上に”
     8月18日、第1日目 (現地8月19日・記)

 
 名古屋駅に集合して関空へと向かう。 名古屋からの参加者は12名、東京からの参加者19名の合計31人の団体となる。 最年少は小学6年生の親子から、50〜60歳代の夫婦、親が40〜50代の家族、数組の若いカップル、一番目に付いたのが母娘の二人ずれである。
 20代後半の女性が添乗員、後で聞けば前日の夜更かしが祟ったとのこと、初めてお会いした名古屋駅では顔色悪くこれで大丈夫かと心配した。(翌日からは血色も良くなり、終始にこやかで問題なし。 何時頃から女性添乗員が多くなったのだろうか。 現地でお会いした方々も全て女性添乗員であった)

 午後11時45分、全日空との共同運航のカタール航空がドーハに向けて、11時間強のフライトに入った。 予想に反して90%客席が埋まっている。 そのうち日本人客が90%である。 一番早くチェックインしたので、エコノミー席の前列より3列目、その横の中席5席も空席になっている。 この席を確保すれば横になってドーハまでと考えたが、思いどうりにはいかなかった。
 その席で第1クールの睡眠が終わった頃、耳元で呼びかける声がする。 「体調を崩しているお客様がいるから、席を譲ってほしい」と言う。 多分、このようなことが発生することを予想して空席としていたのだろう。 

 ウトウトとした時間が数時間、ドーハには予定どうり現地時間の4時5分である。
 機外に出ると湿った熱い空気で一瞬にして眼鏡が曇った。 
 カタール・ドーハからエジプト・ルクソールまではトランジットのため手荷物検査がある。
 赤銅色で目元パッチリ、ギョロリとした鋭い目つきの黒のドレスに身を包んだ女性警備員の脇の下には拳銃ならず、小銃が鋭く光っていた。
 
 カタール・ドーハのターミナル・ステーションは予想どうりであった。
 アラビア半島で石油資源を財源として、南周りでヨーロッパ、アフリカに向かう乗客、貨物のハブ空港を目指しているとカタール(ドーハ)は、急速な近代化と設備投資がなされている。 中近東・アラビアで世界のコンベンション・センターとしての地位を狙っているとも聞いたことがある。
 暗くて良くは分からないが、駐機場からターミナルビルまで、7~8分も間も要したので、飛行場自身も広いのだろうと想像した。
 トランジット言っても4時間もの時間がある、ターミナル・ステーションを散策する。
 
 資源のあるところには資金が集まり、お金のあるところには人々が集まってくる。
 東南アジア系、中国系、アラブの他の国からの出稼ぎ人と思われる人々が、アチコチに一塊となったり仮眠したり、トランプに興じたりしている。

        
 4時40分過ぎ、白々と夜が明け始めた。
 四方、海に囲まれたこの国、エアーポートは埋め立てによって造成されたのだろう、そこには海となっているだろうと思われるところの地平線まで、緑は背丈の短い雑草がところどころに見えるだけ、後は砂地が続いている。
 遠目には壊れたいるのではないかと見える錆色の建設重機。
 が、雲間から朝日が昇ると同時に、モウモウと砂煙を巻き上げて、建設工事が始まった。


 記
 コラム1−D 「お知らせ」でも書きましたように、トランクが到着していず、カメラからパソコンへの取り込みが出来ません。 今のところは活字のみです。
 後日、写真を挿入します。









 
                        平成18年7月31日 記

 藤原事務所”ひなた夏祭り”に行ってきました
 〜3日目(7月31日)、
   丹沢湖〜山中湖〜河口湖〜諏訪湖〜自宅〜

 
 2日目、「ひなた夏祭り」の後、小田原ちょうちん祭りにチョット顔を出して、1時間強かけて東名高速道路の北側・道の駅「山北」に向かいました。
 地図で調べると丹沢湖を越えて約10Kのところに、公共温泉”ぶなの湯”があると表示されています。 夜道になり初めてのコースなので止めようかと思いましたが、そのまま前進しました。 町立の湯で、営業時間は午後の8時まででした。 到着は7時20分。
 翌日、同じ道を走ったのですが、良くもたどり着いたものだと思いました。
 途中にある10数件のホテルと旅館の「中川温泉」を通り越して行ったのです。 普通ならこの温泉郷に車を進めるのが通常です。 しかも、細い道を川原に滑り落ちてゆきそうでした。 地元の方が「良くこられましたね」と驚いていました。
 気持のよい湯でした。 料金は700円なり。
 再び、道の駅「山北」に戻りましたが、行く時の5分の一ほどに思えました。
 
              
            大きくくねったところに道の駅はありました。
 が、翌朝散策すると、道路を隔てた「河内川」は、まだ濁ってはいましたがアユつりの方が早くも釣り場の見定めをしておられます。その向こう岸はオートキャンプ場でした。
       

 道路マップで調べると、神奈川県足柄上郡山北町から神奈川県津久井郡津久井町に入り、犬越路林道を使えば山梨県側に出れるのではないかと考えました。

 昨夜に続いて、丹沢湖を通過、「ぶなの湯」も通過して河内川の上流「バウアーハウスジャパン、オートキャンプ場へ。 
 そこで管理人に通行禁止になっておりますの一言でオジャンでした。
 国道246号線、清水橋から県道76号線を北上するとそこまで行けるのですが、秋の紅葉はさぞや素晴らしいことを予測させてくれる山並みと落葉樹に囲まれた街道でした。
       
             バウアーハウスオートキャンプ場
 月曜日ではありましたが、夏休みのこと、多くのキャンパーが楽しんでおられました。

 その後は山中湖の湖畔道路から河口湖のこれまた湖畔道路を眺め、大月JCTへ。 今回の旅で初めて富士の山を目にして、車中よりパチリ。
              

 山梨県から長野県に入ると急に身近に感じる県の名となるのでした。 
 昨日午後4時半ごろ、いただいた手打ちうどんから、まともな食事をしていませんでしたので、諏訪湖サービスエリアのレストランのソバと五目飯が大変美味しく感じました。
 この湖畔に面した岡谷地区は、数週間前の豪雨で大変な被害を被っているのですが、穏やかな湖面からは想像も付きません。

      
       サービスエリア内に温泉もありましたが、次回の楽しみとしました。
 
 丹沢山地から6時間30分のドライブは、 途中休憩1回(睡眠時間約15分)と昼食休憩40分でした。
 





 
                        平成18年7月31日 記

 藤原事務所”ひなた夏祭り”に行ってきました
 〜「小田原ちょうちん祭り」、小田原城址にて〜
 〜百姓もしました。 餅もつきました。〜7月30日

 
 道の駅「箱根峠」を7時45分ごろ出発、小田原城址の駐車場には8時半前に到着しました。 朝の写真と夕刻の写真を混ぜて掲載します。
 
            
                         お堀のハスの花を望遠で撮影しました。

                  

   

 藤原事務所の若手(と言っても、若い人ばかりですが・・)が、かってみかん畑であった市民農園で、40坪の野菜作りをしていました。 百姓学校7年目の加藤先輩が一言言って、畝作りの見本をしめすために鍬を振ることになりました。

           

 「ひなた祭り」の会場に戻ります。
   

         
 藤原さん自ら焼き物担当をしておられました。 備長炭で焼き上げたものはどれを口にしても最高です。
 右は「レンコン焼酎入りのかき氷」です。 レンコン焼酎は初めてでしたが、アッサリしていて氷とは相性がよかったです。

   

 「うどん打ち」の他にも、「豆腐作り」「ハングル講座」「キムチ作り」講座が開設されました。          
      キムチ作り講座               フライト・シュミレター

 中でも藤原さんの趣味のフライト・シュメレターは大変人気でした。
 最後に、藤原さんのお話も伺い、楽しく有意義な一日を過ごしました。
 類は類を呼ぶと言うことでしょう、参加されたされた方々は皆さん穏やかではありますが、新しい時代に何かを求めて行動しているかたばかりでした。
 翌日朝、道の駅「山北」で、パソコンを入力しながら、少し規格外れは自分ではないかと思ったりしましたが、そこに足を運んだと言うことは、やはりどこかに同じ心(精神)があると言うことだろうと思いました。
 1年間に4回、春・夏・秋・冬と「ひなた祭り」が開催予定との事です。 次回も参加しようと思っております。






 
                        平成18年7月30日 記

 藤原事務所”ひなた夏祭り”に行ってきました
 〜初日は、箱根駅伝の道と芦ノ湖めぐり〜7月29日

 
 藤原事務所の”ひなた祭り”の第2回目が7月30日に小田原で開催されます。
 そこで、1日早く出発して、何年ぶりかで御殿場ICまで走り、箱根に行きました。
 箱根スカイラインから芦ノ湖スカイラインを楽しもうかと計画していましたが、東に来るに従って梅雨空は厚くなり、遂に雨が降り出しましたので、国道138号線を走り宮ノ下で、国道1号線と合流しました。
 合流地点が「富士屋ホテル」です。 毎年正月は恒例の箱根駅伝を視聴していますので、見覚えのある場所でしたが、こんなに狭い道路とは思っていませんでした。
 伝統ある大会(今年で確か82回、その他に戦中は3回中止となっている)なるが故に、今も開催されているのでしょうが、関係者は大変なことが用意に理解できます。
 箱根鉄道・宮ノ下の踏む切りなども大変なことでしょう。
 ちょうど、昼時になっておりましたので、富士屋ホテルで昼食を取ることにしました。
 昔なら、皇族や華族様しか入場が許されなかったのでしょうが、今はラフなスタイルの家族ずれで賑わっておりました。 サンドイッチが2100円とはさすがでしたが・・・

 箱根町に到着。 早速「箱根駅伝ミュージアム」を訪れました。
 
       
 ミュージアムの責任者が私たち2人に、まるでそこで選手が走っているかのように、詳しく説明してくれました。 

 駅伝ミュージアムの次には目の前の芦ノ湖を案内する観光船に乗ることにしました。
 雨も上がり湖面の風が心地よかったです。
       
     左は海賊船、右は外輪船          海賊船の船首 ???

         
           湖半周の外輪船に乗ることにしました。

 本日の宿は例によって、道の駅『箱根峠」に決まっています。 お風呂を探すことにしました。 あらかじめ調べてありました、奥湯本「ひなが湯治”天山”」に向かいました。
 この5年間で公共の湯としては最高金額となる1200円也(隣に一休、1000円もあり)に入場しました。
       
 館内の写真撮影は禁止となっておりましたので、玄関先を紹介します。
 土曜日のことでもあり、男湯は常時50〜60人が入れ替わっていました。

 夕食は箱根町にもどりレストランで、というのも観光客はほとんど宿に入ってしまいますので、酒のつまみ豊富な様子のお店がなかったからです。

 道の駅「箱根峠」は、さすがに天下の剣の道の駅です。 12時過ぎまで車がドンドン登ってゆきました。 8時半に横になった方が早すぎたのでしょう。 11時に首の周りに汗びっしょりで起きてしまいました。 蚊がいないようでしたので(蚊取り線香は焚きましたが)、窓を開けますと室内より冷たい外気が浸入、更に時間が進むとフトンを手繰り寄せていました。  翌朝はヒンヤリとして標高約800メートルの山の中です。 眼下に芦ノ湖がガスに煙っておりました。  そして太陽もかすかに覗きました。
       
 




 
                        平成18年4月15日 記

  奈良に行ってきました

 
 次男の結婚相手のご両親へ挨拶のため、奈良に行ってきました。 (4月12~13日)
 翌日は生憎の空模様(時折霧雨が降りました)でしたが、奈良公園を3時間かけて、ユックリ散策しました。 京都の華やかさはありませんが、落ち着いた雰囲気は好きです。
 前夜のお酒は残っていませんでしたが、あまりこれと言った写真が撮れていませんでした。
        
        猿沢池と五重の塔                猿沢池と南円堂

                
                どうしてこんなにクリアなのでしょうか

        
     二月堂からの遠望                   二月堂から
                 
                   二月堂を下から見上げて


     
       東大寺 修学旅行の中学生のセーラー服に一団が大変新鮮でした

 人力車の車夫の上手な誘いに乗って、浮き島を一回りしてきました。
 
                
                 中央に薄っすらと見えるのが三笠山
   
           

 


 
                        平成18年3月15日 記

 美ら島・八重山諸島を巡る旅〜5島めぐり〜
             3月12日〜14日

 
 今冬は寒かったためか、沖縄の旅の新聞広告を見ていたら行ってみたくなった。 
多分インターネットでの予約が出来なかったら、翌日は熱が冷めていたのかも知れない。
 今、アメリカン・大リーグの看板選手でもあるイチローが日本でもまだレギュラーポジションが決まっていなかった頃、(1991,92年頃か?)、宮古島でキャンプインしていたときに、宮古島に行って以来の沖縄である。

 名古屋から那覇空港〜石垣島のはずであったが、旅行シーズンで便が取れず、福岡空港経由となる。 4時間弱時間にゆとりができ、市内観光に。
 
           
          ドームとなりのホテルの最上階でラーメンをいただく

          
     これがドームの屋根です             34階からの眺め
 
              
  当日は球場内でウォーキング大会が開催されており入場できました。

 福岡空港から那覇空港までは少しの遅れで到着しましたが、那覇空港から石垣島への飛行便、当日は北からと南からの前線がぶつかり、九州から南西諸島にかけて大荒れとなり、特に滑走路の短い石垣島空港には降りられず、引き返してきた便や他の空港に降りたりと大変な情況であるとの情報、約2時間待ちとなった。
 空港売店で泡盛の宣伝ポスターを見て、売店のお嬢さんに「何がお勧めか」と訊ねると、小さな声で「私まだ未成年ですので、分かりません」と可愛い笑顔で応えてくれた。
 隠し撮りをしたつもりでしたが、フラッシュで彼女が気がつきました。 そこで「ではこちらを向いて」と1枚撮らせてもらいました。 泡盛の味がさらに倍加しました。
          

 何とか飛び立ったものの、間違いなく着陸できるとは限りません、途中の揺れもあります、「あと10分で着陸します」とのアナウンスがあったあと、着陸態勢に入リましたが、再び旋回を始めました。 滑走路が見えにくいといいます、それでも何とか着陸しました。 
 機内から小さな拍手が湧きました。時間はとうに午後9時半を回っていました。 当日予定していた石垣島鍾乳洞の見学、一度は食事の後に開場してもらいますとアナウンスしたが、その10分後に3日目に回しますと添乗員さん、走り回っています。
 夕食開場には他のお客さんは誰もいず私たちのグループのみでした。
              
 翌朝6時半起床で「唐人墓」や「川平湾グラスボート」のオプションは止めとしました。


 3月13日 2日目 
 石垣港〜竹富島〜大原港=西表島〜由布島〜小浜島
 
 
昨夜は暗く、時間も遅かったのでどんなところに宿泊したかも分かりませんでした。
            
      ホテル日航八重山             玄関前の建物です

                 
 曇り空の中、水しぶきと爆音をたてて、石垣港を離れたフェリーは竹富島に向かいました。         
       竹富島の卒業式                 竹富港桟橋のにて

 特に何かを伝えようという写真ではありません。 今日は竹富島の卒業式だそうです。
 車中からシャターを急いで押したにしては良く撮れていましたので、掲載しました。
 この島に限らず、今回訪れた島は小学校と中学校が併設されているのがほとんどでした。 しかも生徒数10に対して先生の数が6〜8、中には先生の数の方が多いところも1校ありました。 生徒は幸せどころか、息も抜けず大変とのコメントもあり、みんなが大笑いしました。
 式の最中でしたのでしょうか、メイン通りにも、学校にも人影は一つもありませんでした。

                
                  皆治浜=星砂浜の海岸です
 砂の中に星型の砂が混じっています。 それは砂ではなくて海中の中に住んでいた、虫の化石だそうです。

                 
                     「あか山丘」
 時間が無くガイドさんがこの場所の案内を飛ばそうとしましたが、そこは旅なれた(?)こちとっら、すばやく駆け上がってきました。 よってこの時だけは集合時間に2分遅れました。
    
「あか山丘」の展望台(といっても地元の方の手作りとのこと)50度の角度の塔の上から

 
 大原港(西表島)に着きました
               
                 細い雨が降り出しました

     
 西表島から水牛車でのんびりと由布島に渡ります。 約10〜15分 潮の満ち干きもありますが、いつでも歩いて渡れるほどの深さです。
 由布島ヒストリー
 
『由布島は、かって竹富島や黒島から移り住んだ人たちが対岸の西表島で稲作をして暮らしていた。 そのころ農耕用として活躍していたのが、「水牛」。 
 水牛は昭和7年頃、台湾の開拓移民と共に石垣島に渡って来ました。
 当時の水牛は高額で「水牛二頭で家が建つ」と言われていた程です。 もっとも水牛が多かった時期は昭和30年ごろで、各農家に一頭の水牛が飼われるようになりました。
 しかし、44年のエルシー台風で大きな被害を受けた島のほとんどの人が美原集落(西表島)へ移ったが、西表正治おじい老夫婦は、島に残り「島をパラダイスガーデンへ」のロマンを描きながら一頭の水牛で土や堆肥を運びヤシや花を植え続け、手作りの薬園を造り上げた。 それは老夫婦の情熱に感化された人びとの多くの援助があったからでもあります。』


 当日、由布島亜熱帯植物楽園で見つけた花は
   
  ハイブスカス            ????          八重のハイブスカス

    
  チリメンナカホウソウ      ブーゲンビリア         ????

 現在大活躍の水牛大五郎一家は30頭あまりです。 一頭一頭に名前が付けられていました。
       
 食事は一日2回朝と夕方、餌は牧草やサトウキビの葉、穀物等。 それにしても大きい水牛は14〜5人を乗せて引っ張るのですから、大変な力持ちです。 寿命は30年位で、現役で牛車を引くのは15〜20年くらいとのこと。 現役引退の老水牛は記念撮影のモデルになっておりました。 終生現役だなと思いました。
 再び水牛車に乗って引き返しました。

 仲間川の上流に向かいました。
               
 
 正確のことは忘れましたが、確か17Kmの長さの川で、11Kmまで潮の満ち干があると聞きました。 川底が大変浅いとのことでした。
        
    この船で昇って行きます            マングローブの林です。

 マングローブの林の中に出来た船着場から、整備された木道を歩いて30メートルのところにこんな木が目に入りました。
          
  樹齢400年といわれる板根状の根を持つサキシマスオウノキです。
  板根の高さは一番高いもので3メートル近くあるのではないかと目測しました。
 
 此処で、西表島から観光バスのガイドさん兼ドライバーのお話。
 まだ30代中ごろの方とお見受けしましたが、その話し方が実に優しく、穏やかで、ユックリ口調です。 時折真顔で笑いもせずに軽いジョークも発し、楽しい雰囲気を醸し出してくれました。 彼曰く「ガイドをして、ドライバーもして、その上くどいようですが船長もして、給料はまったく変わりません」
3度語りました。
 お別れ時間が迫ったときに、「お金の問題ではない、ガイドさんの穏やかで、楽しい語りが、何者にも変えがたい財産だ」と口にしたら、同乗のお客さんから一斉に拍手が湧いた。
 <挿入>

 3月14日、内閣府発表の2003年度の県民経済計算によると、一人当たりの県民所得は地域間の隔たりは2年連続で拡大した。
 ちなみに、第1位の東京は426.7万円(増減率2.6%)、最下位の沖縄は204.2万円(マイナス0.6%)となっている。
 ガイドさんの容姿、語り口から判断して、20代の頃はきっと都会暮らしであったろう、何かの事情で郷里に戻ってきたのではないかと勝手に想像した。
 半分冗談ぽっく語っていたが、お子さんもあり、本当にもっと高い収入を望んでいることだろう。
 が、私はそれにも増して価値ある家族や地域の暖かい繋がりがあってこそ、あの語りが出来ているのだろうと羨ましくもあった。
 なお、愛知県は第2位であり340.3万円(0.5%)である。

                 
 
               霧雨に煙る西表島、大原港の風景です。
 まったく関係ないのですが、大原港から小浜島に向かう船の中、この錆びの回った扇風機が何故か気になりました。
                 

 2日目の宿は小浜島のリゾートホテル。
 翌朝は小さな観光バスに乗り換えて(道が狭くて大型車は通行不可能)、NHK朝ドラで有名になった「ちゅらさん」のモデルになった家を車中見学しました。
              
                  リゾートホテルの朝
              

                  ちゅらさんの村、サトウキビ畑
        
    島の人口470人、集会所の前         米軍の落とした不発弾
 
 狭い村内のメインどうりの中央に集会所があり、そこに戦中米軍が落とした不発弾がぶら下げてありました。 これを叩いて集合の合図にしているとのことでした。