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平成19年3月14日(火) 記
”世界一周,101日船旅日記 16〜17日目
3月13〜14日
コロンボ入港〜神秘の岩山・シーギリヤ・ロックへ
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コロンボ港に予定どおりに入港しました。 入港の様子を・・

警備艇です。 機関銃が見えます。

マストには左からコロンボの国旗、黄色は検疫官乗船していることをを示し、赤と白は水先案内人の乗船中を示しています。


接岸したところには早朝に係わらず、商店が店開きの準備をしています(右下)。
今から「神秘の岩山 シーギリヤ・ロック」です。
その前に、コロンボの市内も郊外も、いや離れた町に行っても”ツクツク”という、小型三輪車のタクシーが無数に走っています。 公共交通機関が余り発達していないので、この小型タクシーが活用されるとのことです。 幅1メートル強のところに大きな荷物を持った親子4人連れで乗り込みました。 走れるのかどうか心配になるほどでした。


2日間バスに同乗した兵士 現地ガイドのラジットさん
安全のために2台の観光バスには兵士が乗り込みました。 武器はもっていません。
特に選ばれた兵士が乗っているのではないかと思えるほどに二人とも背が高く、美男子でした。 スリランかの国内紛争は今も続いておりゲリラ対策が採られています。 実に複雑な政治情勢です。
観光が国の重要な収入源となっているからでしょう。 これまで外国からの観光客に被害は一件も出ていないそうです。
朝9時の出発でしたが、この時間帯は港に大型の車が入ってくるためにラッシュアワーです。 コロンボ市内を抜け出るまで、交通警官が二人乗りでバスを先導し、動きが取れなくなると交通整理です。
なお、バスが日本からの中古の観光バスで日本語の場合はそのままで、私達のバスには「日東観光」とありました。
バスに限らず、乗用車は日本からの中古車の輸入が多いです。 中古と言っても税金が高く、日本の新車並み以上の価額です。 新車なら3倍とのことです。
その後、シーギリヤまでの道路も舗装はしてあるのですがデコボコ道で200数十キロを5時間かかりました。 その日の道路状況で予定どうりには行かないようです。
現地ガイドのラジットさんは独学で日本語を勉強されたと言っていましたが、聞き取りやすい日本語でしたし、また通訳の仕事を通じてコロンボのことを可能な限り知ってもらおうという姿勢がありありと見え、しかも新しい日本の言葉・知識の吸収に大変意欲的です。 また、どんな質問にも喜んで対応し、哲学的、宗教的なお話も多く、私には大変有意義な時間でした。
コロンボの豆知識。
・戦後スリランカは日本から賠償を貰わなかった。 争ったのは英国と日本であり、同じ仏教の国として辞退した。
・仏陀は3度スリランカ(当時のセイロン)を訪れている。 以前は全て仏教徒であった。
今は仏教が大半(70%)であるが、ヒンズー教10%、キリスト教11・3%、イスラム教徒8・5%もいる。
・スリランカに国名を改称したのはバンダラナイケで、世界初の女性首相。
・紀元前5世紀、シンハラ人が北インドから移住してきて王国を作った。
・紀元前3世紀、アショーカ王の王子マヒンダが仏教を伝えて以降、上座部仏教(小乗仏教)の中心地として信仰を守った。
・紀元前2世紀以来、ヒンドウー教徒タミル人の侵攻に対し、シンハラ人は仏教を守り、文化を育てた。 首都は11世紀後半からポロンナルワ。
・13世紀からタミル人の浸入が激しくなる。
・1505年、ポルトガル人がコロンボに商館を建設。
・1948年、イギリスがインド撤退政策の一環として、イギリス連邦内の自治区とし独立。
・1972年、共和制移行、国名スリランカ共和国に改称。
・1978年、議院内閣制から大統領制に移行。現国名「スリランカ民主社会主義共和国」
・1984年、コロンボの南東スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテへ遷都。
・1987年、反政府組織LTTE(タミル・イスラーム解放のトラ)独立宣言。内戦へ
世界遺産・シーギリヤ

シーギリア・ロックは古代から仏教の修行の場で、5世紀末カーシヤバ王が11年間岩山の頂上を王宮とした。 カーシャバ王は父を殺し王座を奪ったが異母の弟のモッガラーナに政権を奪われるまで11年間、シーギリアロックで王座を守ったと言う説もある。
この岩山を城として内堀外堀、その中間に城壁を作った難攻不落の城であった。
この難攻不落の岩山に身を隠したが、弟は兵糧攻めで城を落とした。
この岩山の中間にはカーシャバの父王が愛したと言う500人の美女を描き、父にわびたと言う話もある。
「シーギリアの名の由来」を懇切丁寧に聞いたが、その全てをここに記すことはやめます。 シンと言う名の悪者の物語でしたが、姫君が旅に出てそのシンと結ばれるるところまで前半の話、そこからまた後半の話になるのです。
ギリアとはライオンの喉のことから来ている。 では、映像で紹介します。
絵葉
今はライオンの爪の部分のみ そこを拡大しました
左の写真の下の部分がライオンの爪のところです。 かってはレンガでライオンが岩肌全体に積上げられていたようです。 想像写真の絵葉書も販売していました。
この岩山は約180メートル(海抜約330M)の高さで、階段は約1000段とのことですが、螺旋階段をどのように計算しているのかは分かりません。
その螺旋階段を登ったところに、シックイに描かれた美女があり。
どれ程の角度かを分かっていただくために、右の写真を添えました。
その岩山の中間に美女の絵画が発見されたのです。
元々この石山は宗教の道場でした。 僧が苦行をする場であったのですが、王様が来て修行僧を追い出してしまった。 ここで王朝は18年間続いたのですが、兵糧攻めにあって崩壊した後、再度修行の場になったのです。 それと共に壁に描かれた壁画は削りとられたのですが、切り立った岩山の中間に描かれた壁画は残っていたのです。
漆喰に滲ませるように描かれているとのことです。

私にはこの価値が分かりませんが、中国敦煌の仏教絵画に勝るとも劣らないと評価されている方もいるようです。
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シーギリアの岩山の天辺にたどり着けば視界はまさに360度です。 3〜9月が乾季のこの国では溜池をつくり、その周りを田圃にしています。
尚、狭く急な階段を昇るためにサポーター(手を取って、ときに腰を持ち上げてくれる)が必要な方がいます。 必要でない方もいますが、政府公認のサポーターは「いらない」と言ってもへばりついて来ます。
必要を感じませんでしたが、これも”喜捨”の一つかと考えて、案内してもらうことにしました。 彼らは英語はソコソコ話しますので、其れなりの案内になりました。
一人でも充分なのに二人までもが案内人です。 喜捨は1000円となりました。
赤土の道を左右に振られながら、ホテルに着きました。 自然の景観に充分配慮された5星のホテルです。 当初は近くの住民が反対しましたが、今は働く場所が出来たこと、農作物も購入してもらえるので歓迎するようになったと言うことです。

ホテルの5階部分がフロントで、そこへのアプローチ 右はツタの絡まった部屋のところ

ホテル前の湖です

翌朝、象に乗ってトレッキングしました。 象の背の高さは約3メートルです。
1時間のトレッキングですが、その間イロイロな鳥達を眺めることの出来ました。



象使いのおじさんの他にアシスタントが同行してくれ、写真を撮ってくれます。
料金はお一人様20USドルですが、満足度から考えて安いと感じました。
もう一つの世界遺産「ダンブック石窟寺院」へ
ヒンズー教と仏教が争って仏教が負けたときに、王様は各地の石窟に隠れ回った。
再度、ヒンズーとの争いに勝った時、かって世話になった石窟を寺院にした。
そのうちの最大のものがこのダンブック寺院です。
最初は1世紀の頃のものより、最後は12世紀までの仏像が安置されています。
金粉で輝いていたが、線香の煙で黒く煤けています。

ここにも大きな岩がありますが、約300段ほどです。

入り口です。 ここからは靴を脱がなくてはいけません。 右は仏像安置の建物

時を告げる鐘 菩提樹の木の前で赤々と

ガイドのラナジットさんも言っておられましたが、余り良いお顔立ちではありません。

王様の像もありましたが、現代の修行中の僧の顔立ちの方が数段上と感じました。
この後、僧は石窟の中に入り、鍵をかけた後、中から読経が聞こえてきました。
この石窟に登ってゆく階段の前に、3年前に完成してと言う大きな「ゴールデン・テンプル=黄金寺院」があります。

最後にラジットさんが多くの物語、伝説、歴史を語ってくれた中から一つ
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初日の昼食時をとったホテルの玄関先の踏み石のところにあったものです。
3世紀頃の遺跡を真似して作られたものです。
「輪廻転生」を示しています。
一番外側が炎を示します。 続いて 象〜馬〜ライオン〜牛と繰り返されています。
これは生病老死を意味します。中は木にまつわる蔓で、欲望を示しています。
さて人はクサリのように繋がれて、それから逃れることは出来ない。 自分の力で運命を望みどおりにし、生まれかわることは出来ない。
自分で造ることが出来るのは自分の心でしかない。「心を創るしかない」と。
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平成19年3月12日(月) 記
”世界一周,101日船旅日記 15日目”3月12日
本日も充実した内容のセッションが続きました。
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数日前、食事の時ダンスの話になりました。 「踊れますか」と訊ねられたのでと、「少しならできます」答えますと、「ぜひ、いらしてください」と誘われました。
ダンス教室は毎日午後の6時半から8時半まで開催されています。 昨日、その教室をのぞいて見ますと、3〜40坪の会場が満員です。
65歳を越えた赤いシャツの男性の方が企画の責任者であり、先生のようです。汗ビッショリで入学したばかりの若い方を手取り足取りです。
そのほかに黒のダンスドレスを身にまとった、これまた60歳過ぎの女性が二人、男女のペアーを組ましたり、ご自分もパートナーになって踊ったり、教えたりしておられます。
少し離れて見学していました。 圧倒的に女性が多く7対3ぐらいでしょうか。 「壁の花」あるいは「壁飾り」と言われるように立ちんぼの方が多いです。
人いきれで室温は上がっていますし、ステップを踏む場所もないくらいに込み合っています。 練習、教室どころではないとは思いましたが、皆さん何がしかの自主企画やボランテイア活動にされ参加していることを知っていますので、私もボランテイアの一環としてパートナーになって踊りましょうと思い、手を差し伸べました。
20分くらい全く基本のステップを教えることになりました。 何とか足を踏まない程度になったところで、汗がにじみ出てきて本日はここまでと引き上げることにしました。
基本ステップを印刷したものでもあればと思い書いてみようかなとも思っているのですが、なにぶん40数年前のこと、可能かどうか分かりません。
1時間後、数ステップは書けましたが、男女別に組み合わせて書くのは大変であきらめました。
インド洋、ベンガル湾の南、北緯5〜6度をほぼ真西に向かって既に48時間以上経過しました。 今朝は小雨が降っていました。 ラジオ体操のグループはお休みのようです。 30分ほど歩いていますと雨は止みましたが、太陽は昇ることはありませんでした。

今、(10時5分)キャビンの丸窓から弱い光りが差し込んできました。 雲も見えます。
日中は30度越し、暑い一日になりそうです。
10時から始まった「トパーズ号の歴史」の話を聞きに行く。 このトパーズ号の船歴は51年目になっている、人間に例えると100歳と言うことです。 「エンプレス・オブ・プリテン」(英国の皇后)と呼ばれていた頃からの歴史を知る、この船で食糧手配をされている徳元博元さんがお話くださいました。

尚、お話の内容は別途活字化してあります。(それが消えてしまいました。ア〜ア)

「ラストギョンムク! 後は彼、彼女らが引き継ぎます」と題して、台湾から乗り込んだギョンムクさんはスリランカで下船するので最終セッソンとなった。
ピースボートのカウンターパートナーであるで聖公大学からの学生4人は、地球一周する。
ギョンムクさんの司会によって、トパーズで感じたこと、日韓問題若者の考え方、カンボジャの地雷原を見学した時の、日韓学生の感じ方の違いなどが語られた。
彼らとは「ユーゴスラビアの紛争問題については、タップリ時間がとってあるので、楽しみである。
私の今回のネライである、様々な価値観、文化の違いを肌で感じると言うことに大きな期待が持てるセッションであった。

16:00〜17:30「スリランカの紛争 〜和平への道はあるか〜」のセッソンに参加。
・多民族、多宗教、多文化だから紛争が起こるのではなく、貧困が生み出すものであり、政治家が宗教や民族問題を活用して勢力を拡大しようとしたことによる。
1948年スリランカの独立によって紛争が起こるようになった。 それまでも多民族は仲良く暮らしていたし、現在も個人レベルでは仏教寺院の隣にヒンズーの寺院があり問題は解決している。 政治レベルの問題である。

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平成19年3月11日(日) 記
”世界一周,101日船旅日記 14日目”3月11日
本日がこの旅で一番時間的にユトリがありました。
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スマトラ島の北、インド・アンダマン諸島の南からインド洋に出て、北緯5度付近をトパーズ号は西へ西へと走り続けています。 今日は朝から船が揺れています。 散歩からストレッチに移る頃には、柔らかいシャワーのような雨が降り出しました。
まだコロンボにも到着していないと言うのに、早くも昨日からモンバサ(ケニア)のツアーコースの説明会が始まりました。
熱気球に乗ってサバンナを空から(5〜60メートル上空)眺める参加者を募集したり、夜のサバンナをゲームドライブする(夜行性の動物を見る)コースもあり、早めに参加者を決定して、現地に連絡し車等の手配をするようです。
本日の船内企画は興味あるものが少なく、ここ二日間ほど参加した「南アジア(主にスリランカ)のISの方々」が語ったことを活字化しようと思います。
一番新しい新聞は3月6日の「日本経済新聞」と「朝日新聞」それに「日刊スポーツ」です。 今日は時間があったので、ジックリと読みました。
今、キャビンに戻ってきたのですが、ここに入るとジャンパーを一枚羽織ることにしています。 温度を上げると船酔いの方が多くなると言う理由で室内温度は低めにしてあると言うことです。
よって、日本から持参した”ベビーパウダー”はまだ一度も使用していません。
一袋分の洗濯物はUS5ドルで洗ってもらえます。詰め込めばかなりの量が詰め込めます。 但し、洗濯機で洗い、乾燥機で乾燥して再び袋詰めで帰ってきますので、皺くちゃです。
プレスしてもらいたいときは、PURESSと「ランドリー申込書」に記入して出してと言われましたが、プレスするものとしないものとの区分がありませんので、下着も一緒に出しますのでどうなるのでしょうか。
まだ、カッターシャツなどは出しておりませんので分かりませんが、次回には試してみようと思っています。
私のキャビンの様子を紹介しましょう。
まず、部屋の広さは約7・5平方メートルです。

間口40Cmのタンスが一つです。 Tシャツの後ろは立ち鏡です。ベッドカバーが写っています。 そしてセミ・ダブルのベット。

左の写真はタンス兼机です。 ここにも鏡が配置されています。 パソコンが置かれています。 白く光って見えているのが丸窓です。 この窓のあるなしで大きく変わります。
右上の黒く見えるのはテレビです。 繰り返しですが映画が毎日二本放映されていますが、見る時間の閑が今のところありません。
映画は別にシアターで放映されています。 毎日内容が変わります。
右2枚が洗面所とトイレです。 シャワー施設しかありません。
ホテルと同様に毎日ベットメーキングとタオル交換はしてもらえます。
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平成19年3月10日(土) 記
”世界一周,101日船旅日記 13日目”3月10日
マラッカ海峡からインド洋にでました(午前9時)
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船の運航経路や、通過時間、海の波の状況などの記録が毎日表示されます。
今、確認に行きましたら3月9日の24時までの状況しか示されていません。 それから9時間以上経過していることから換算してインド洋に出たと判断しました。
連続4日間のクルージングは今までで一番長いです。
時速に換算すつと約30Kmで進んでいます。 今度の寄港地スリランカ・コロンボまではまだ70時間ほどあります。
今朝の日の出の様子も変わらないのですが、インド洋の初日の出と言うことで掲載します。

さて、昨日船内新聞「たびごろ」を紹介しましたが、そこで案内されています本日の自主企画の内容を紹介してみましょう。
これは今回乗り合わせている方々が単独で、あるいはグループで行っているものです。
・初級ギター教室、 ・三味線教室、 ・聖書の輪読と賛美歌を歌おう、 ・初級エアロビックス、 ・Let,sカラオケ演歌編、 ・マジにピンポン、 卓球、・ウクレレクラブ、・社交ダンス教室、 ・徹子の部屋(フォーマルバージョン)〜フォークダンスのファーマル着のようです、
・劇団紅(あか)っぱじ練習、・長野好き集まれ、 ・集まれ!九州、 ・やさしい俳句づくり
・落語の時間、 ・美術鑑賞〜絵画を読む〜 、 ・50代集まれ、・真向法、 ・あふろのツイてる神社(何のことか私には分かりません)、 ・女性たち旅は安全にしよう、 ・瞑想をしよう、 ・GOGOバスケット、 ・おはよう太極拳、 ・ラジオ体操、 ・Let,sチェーンダンス
・南中ソーラン、 ・エーサー、 ・
以上のように自主企画が本日で27種類あります。
この船には現在700人強程の方が乗っています。 今回の乗客は少ないとのことです。平均は900人前後とのこと・・。 シンガポールで5〜60人ほどの方が下船したようです。 (当初から横浜、神戸からシンガポールまでのようでした。”チョイ・クルーズと言うそうです)
毎日上記のような自主企画が目白押しなのです。 一言で言いますと、”一癖ある”、あるいは”個性ある”、あるいは”自己主張の強い”、あるいは”・・・・・・・”の人たちと言えそうです。
食事の時、初めは静かに他人の話を聞いていますが、話し出すととまらない方ともご一緒しました。 人様の姿を見て自戒です。
シンガポールで乗務員の一部が入れ替わりました。 一番変化を感じたのはレストランです。 ユックリ食事をしていてもそのペースに似合わせて料理が出てきましたが、今回はいささか忙しい配膳となっています。
お国柄なのでしょうか、何処の国の方かはまだ訊ねていませんが、今日も忙しいようだったら訊ねてみようと思っています。
そして、事務局を通じて船会社に要望を出してもらうつもりでいます。
この船は@船会社 Aピースボート事務局 B旅行会社「ジャパングレース」の三社で運営されております。 勿論、最終責任者は船会社の船長にありますが、三社が話し合って運営しているようです。
「海が大地を襲うとき(海が大地を奪う)のセッションに参加しました。 2004年12月16日に起こった津波の体験者のお話しとその後の復興についての状況についてのセッションです。 (この話の内容は活字化する予定です)

買って置いた「フルーツ・パーテイー」のチケットが一枚残っていましたので、写真左の彼に昼食の時渡しました。(彼はベジタリアンでして、昼食のほとんどが食べられませんでした) 後から船内でであった時に大変喜んでくれました。
そのフルーツ・パーテイーの映像を掲載します。

太陽光線が強く、汗びっしょりになりました


彼ともう一人の職人さんによる作品のようです。
「トパーズ・ステーション」と言って、寄港地のプライバックや天気予報など、ニュースステーションばりの生放送です。
キャスターとコメンテーターの二人で、ツアーに行けなかったところの内容を映像で紹介してくれますので、これは結構有益と思いました。 そのわりにはお客さんが少なかったです。

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平成19年3月9日(金) 記
”世界一周,101日船旅日記 12日目”3月9日
今、マラッカ海峡を通過中です。(午前10時)
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深夜2時(私は深い眠りの中だったが・・)出港したトパーズ号は24時間かけてインド洋と太平洋をつなぐマラッカ海峡を北西に向かって進んでいます。
今朝の太陽は昨日までの右舷側からでなく、左舷側へと移った。

本日は横浜を出港して13日目、リフレッシュデー”と言うことで、一日中まったくと言っていいほど企画がありません。 飲み所は開店していますので心配ありませんが・・・
毎日、興味のある企画に参加していますと時間がイッパイ・イッパイですので、こんな日もあるとユッタリと時間が過ごせます。
多分、今日は終日5台のインターネットは働き詰めでしょうし、マージャン荘も賑わう事でしょう。(その後、3回目となるインターネット通信に挑戦しましたが、繋がりませんでした)
私は今から昨日のマレーシア・ジョホー・バル観光の写真を整理します。
昨日の写真の整理と日記が書けましたので、8F前方ベランダデッキと9F後方プロムナードデッキを紹介しましょう。

このように本を読んだり、寝そべったりと時間を過ごしております。 8Fベランダデッキ
9Fプロムナードデッキです。 「ジャグジー」、「プール」があります。 青の煙突の下は「サンシャイン・バー」ですが、まだ一度もお世話になっていません。
サンシャインバーの腰掛けて、ジャグジーとサッカーに興じている若者達。

上下↑、↓3枚の写真は3月9日、午後3時ごろ撮影したものです

このデッキではラジオ体操、太極拳などが毎朝開かれています。 夜になると「フルムーンパーテイー」が開催され、若者が一晩中騒いでいるようです。
私の朝の散歩コースの一部です。 小さな舞台の上で丸くなったり、グッタリ眠り込んでいる若者の姿を見かけます。 ラジオ体操の音と共にその姿は消えてゆきます。

このデッキに救命ボートは備えられています。一隻に120人乗れます。
シンガポールで積み込まれた日本の新聞は一番新しいもので3月6日付けです。
上海の株価の変動から世界的な株安、円高が止まらないと報道されていましたが3月9日現在はどのようになっているのでしょうか。
新聞と言えば、日本から届く新聞より大切な船内新聞があります。
毎日、大きさがA4かB4両面刷りで発行されます。

なくてはならない新聞です。 様々な情報が満載されています。
右側の写真は船内の企画のスケジュールです。 横軸が開催されている場所を示し、縦軸が時間帯です。
ピースボートの事務局の方は1〜2名で、他はボランテイアの方によって発行されています。
大分慣れてきて、深夜3時ごろには出来上がるようになったと数日前の編集後記に書いてありました。 事務局前とダイニングルーム前で配布されています。
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平成19年3月9日(金) 記
”世界一周,101日船旅日記 11日目”3月8日
シンガポール上陸、
〜ジョホール・バル(マレーシア)観光へ
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本日の日の出は7時12分、6時からデッキで散歩しましたが、船首の部分は暗く足元に気を使わなければなりません。
シンガポール入港が12時ですのでアナンバス諸島の付近を通過中なのでしょうか。明かりが灯った大きな船影が右舷にも、左舷にも見ることが出来ます。
7時前には東の空が赤く染まり始めました。 今日も地平線から昇る太陽は拝めないようです。

写真の出来栄えが良いから掲載した分けではありません。 船の灯りのために拡大。
まずは、シンガポールの入港風景から。と言っても特別なことはありません。

ベトナム・ダナンと異なり高層ビル群が建ち並んでいます。
左の建物がターミナルビルで、その上にロープウエイがあります。何処までか?

接岸する岸の反対側にも観光船が係留していました。

ロープを岸に向かって投げます 中央は建物ではありません、マーライオンです
上陸後直ぐ隣のマレーシア、ジョホール・バルに行きます。 ここで現代史。
『1945年8月15日、日本降伏。 イギリスは予想外のことで、的確な状況判断がないままにマラヤに復帰。 シンガポールを除く海峡植民地としてイギリス領マラヤ諸州からなるマラヤ連合を提示。 マラヤ連合は1946年に発足。(マレー人には不評)
1948年にマラヤ連邦発足。華人は不満、マラヤ共産党の武装蜂起。
1955年7月総選挙で連盟党が圧倒的に勝利、アブドウウル・ラーマンが首相となる。
1957年8月31日、マラヤ連邦は完全独立。
一方、シンガポールは戦後、イギリスの植民地となり、マラヤ共産党の指導のもと、労働運動、学生運動が激しく行われた。
1955年の選挙で労働戦線が勝利を収めたが、1959年の選挙は人民行動党が大勝、リー・クワンユーが首相になる。シンガポールはまず自治国となり、完全独立を目指す。
マラヤ連邦のアブドウル・ラーマンは共産党の脅威を除去し、マレー人の特権を維持するためにマラヤ連邦、シンガポール自治国、サラワク、サバ(北ボルネオ)ブルネイをまとめてマレーシア連邦を結成する構想を持っていた。
1963年シンガポールは参加を前提に完全独立を宣言。ブルネイは拒否。
1963年9月16日にマレーシア連邦が発足。 が、直ぐに財政上の問題で連邦政府とシンガポールが対立、1965年8月、シンガポールが連邦を脱退。』
シンガポールとマレーシア(ジョホール・バル)は橋で繋がり一跨ぎですが、それぞれが独立国。 入国・出国の手続きがあります。しかも厳しい入国審査です。
管理社会(国家)シンガポール麻薬は即死刑。 チューインガムの輸入・持ち込み・販売禁止、塵を捨てれば罰金などです。 綺麗な町と言うが、精神的に参ってしまいそうな話が続きました。
淡路島ほどの大きさのシンガポールから1・2Kmの橋を渡ればマレーシアです。出・入国の手続きが必要です。
最初に訪れたのが近代ジョホールの父といわれたスルタン・アブ・バカールの統治時代の前王宮。 ”イスターナ・ベサール”白亜のビクトリア調の近代様式です。
敷地面積が20万坪(新宮殿は60万坪)・邸内の博物館にはジョホール王族の家宝が展示されてしますが、撮影は禁止です。


この宮殿よりも、私はその向こうに見える建物に関心がありました。

左側の建物です。3年前に完成したオフィス・ビル。 右側に古い建物は州政府の政庁です。 かって第2次世界大戦の時には「マレーのトラ」と言われた、山下将軍の司令部のあった建物でした。

意識して斜めの写真を撮ったわけではありませんが、この写真が一番鮮明でしたので。
続いて、訪れましたのが”スルタン・アブ・バカール・モスク”です。

勿論、教徒以外は入れません。 ジョホール水道を見下ろす丘の上に建つ白壁と青い屋根のモスクで、広い礼拝堂には2000人の信者が一度に入れます。
マレーシアには各地にイスラム寺院があるが、一番美しいモスクといわれています。
当日は潮風のために、年1回の塗り替えの時でして足場が組まれ、高いところで作業がされていました。
バチック工場に行きました。

左はマレーシアのガイドさんです。
マレーシアにいる間はシンガポールのガイドさんはお休みです。 毎日マレーシアから数万人(3〜4万人?)の人がシンガポールに働きに行っています。 ユトリのある家庭では学生も通学しているとのことです。シンガポールのほうが進んでいるからと言う理由でした。 1・2Kmの橋を境にイロイロと差があるようです。
再びシンガポールに戻り夕食は中華レストランです。 ここでビール一缶が日本円で920円(USドル8ドル)には、驚きました。 その後、屋台でもビールを購入しましたが、同一銘柄のものが500円でした。 税金が高いのでしょうか。
さて、最後は”マーライオン”です。

古い建物を壊すのでなく、補修修繕して残しているそうです。 これもそのひとつです。

旧マーライオンの近くに、新しく移転しておりました。 観光客が多いからでもあるのでしょう。 埋め立てられた(?)ところに、海からも陸からも見学しやすいようになっていました。
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平成19年3月8日(木) 記
”世界一周,101日船旅日記 10日目”3月7日
2回目にしてインターネット・メールが繋がりました。
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船が洋上にあるとき=クルージングの時の朝のパターンが定着しました。
時差の関係もありますが、午前6時前に起床、血圧を測定して8Fのオ^プンデッキへ。
40〜45分の4Kmの散歩、続いてストレッチと礼拝に20~25分。
シャワーを浴びて、朝食に。 キャビンに戻って前日のことをパソコン入力です。
本日は午前中にインターネットへ再度挑戦しました。 再度と言うのは前回ホームペーシべの送信を試みたのですが、余りにも時間が必要と分かりましたので諦めました。
では、と言うことでメール送信にトライしました。 これはヤッフーかホットメールのアドレスを持っているか、こちらで登録しなければなりません。
ほとんど国内では利用していなかったYAHOOのパスワードを勘違いしており、何度挑戦しても開かないのです。

進行方向の右側が右舷です その一番奥にパソコンが5台です
世話好きなのか、ご自分も数日前に繋がったといってお世話してくれましたが、パスワードが間違っているのではどうにもなりません。
彼女が上陸説明会に出掛けると言ってその場を離れてから、一人で弄り回していましたら何とか開き、メールを送ることが出来ました。
アッというまの60分で、利用料金は2000円でした。
同じ7Fで一番世話になっている、「ヘミングウエイバーのレブソンさんです。

彼に進められて地球一周でどれ程のボトルを開けることになるのでしょう。
夜には彼お奨めのワインの銘柄を4つ教えてもらいました。
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平成19年3月7日(水) 記
”世界一周,101日船旅日記 9日目”3月6日
今日も一日各種講演、講座に参加しました〜
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朝のデッキの散歩中に太陽が昇ります。 毎日表情が変わるのが楽しみです。
本日息子にFAXを送ることにしました。 私の旅日記が送られてくることを期待していると思われる方に向けて、旅の終了までは送信されない、出来ないことを伝えてもらうこと
にしたためです。
手書きのFAXでもかまわないのですが通信代(FAX料金)も安くなるだろうし、またメールアドレスも判明し易いだろうと思ったからです。
と考えたのは良いのですが、まずFAX原稿をパソコンに入力します、ここまでは何時ものことですので問題ありません。 そしてUSBに落として(この表現で正しいか?)レセプションに持って行くとプリント・アウトしてもらえ、それをFAX送信するという手順です。
とは言うものの、USBに記録を移動する(落とす)作業は一度もした経験がありません。
息子に教えられた手順のメモ用紙の通りに実行、レセプションに持って行ったら、出来ていますよと言われ、朝から気分満点です。
10:15〜11:15 「新生シンガポールの今」に自主企画でお話を聞く。
13:20〜13:45 ピースボートのスタッフによる、落語会を覗く
13:45〜15:30 「鍵を持った?」〜コミュニケーション=ランゲージ
9カ国の言語を話すキップ・ケイツさんの実体験も交えた講演
(この講演録は別途活字化しました)

16:00〜17:30 「南アジア(スリランカ・インド・カナダ国籍スリラン人)から国際奨学 生」がやって来た!
ダナンから乗り込んみコロンボ(スリランカ)区間乗船するした水先案内人と8名の学生やNGOで活躍されている方たち。 スリランカやインド・パキスタン間の抗争、津波後のこと、地域の生活・文化など様々なテーマで講座やワークショップが予定されている。
スリランカと言っても多民族国家で、宗教も言語も異なり、遅れている東側地域(津波の被害は東がほとんど)、と首都のあるコロンボなどの西側との格差など、想像も出来ない状況であることが、90分の紹介内容でも分かる。

17:30〜19:45 大道芸の世界大会で連続優勝し、4年ごとに開催される2008年に三連覇をかけている在日・金昌幸さんの軽妙な話術と芸を楽しむ。
20:45〜22:15 「平和のために必要なもの〜争いなしに平和は生まれない〜」
これまた在日で、中京大学の講師をされておる、ギョンムさんのすすめる参加型のワークショップ。
終了後、カウンター・バーで飲んでいたら23時を回っていた。急いでベットへ。
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平成19年3月4〜6日(月) 記
”世界一周,101日船旅日記 7〜8日目”3月4〜5日
ダナン(ベトナム)上陸〜「古都フエをたずねて」
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午前6時過ぎに朝日が昇りました。 今日も地平線から昇る太陽は見られませんでした。 午前8時過ぎダナン港に近づきました。 しばらくすると遠くに何か揺れるものがあるように見えました。

更に近づきました。 間違いなく人影です。 寄港地プログラムの中にある「ダナンの若者と大交流」と言うコースがあります。 ダナン青年連盟の若者達200人強です。


「炭坑節」「幸せなら手を叩こう」「ソーラン節」などを踊って歓迎です。


元気なベトナムの若者との身振り・手振りの体当たり交流が始まります。
そういえば、船上で交流のときに披露する太鼓や踊りを練習していました。返礼でしょう。
午前10時45分、上陸許可書を持って下船しました。
ベトナムは南北3200Km(日本は3700Km)ですが、日本列島が関東・中部の地で幅が広がっているのに比べて、ベトナムの真ん中の「フエ」の付近は海から山までが220Kmと狭くなっています。 ダナンからフエまでの120Kmの道のりに信号が一つもないという国道一号線です。
首都ハノイ(北にある)からベトナムで一番人口が多い南の都市・ホーチミン市までの国道一号線に沿って単線の鉄道が走っています。 寝台特急列車で29時間とのことです。
ダナンを出て3時間ハイバー峠(海雲峠)を越えて、フエに向かいました。
(なを、帰りはこの峠を通らずに、ハイバー・トンネルを通過しました。約30分の短縮です。
しかし、このトンネル片側一車線で、最高速度60Km、最低40Kmで、ガソリン等可燃物は勿論のこと、単車も通行できません。 延長6300メートルは東南アジア最長のトンネルとのことです。 帰り道、前に大型車が走り、追い抜くことも出来ず15分以上通過にかかりました。日本のハザマ建設が工事をした。)
さて、この峠から眺めは風光明媚なところとのことでしたが、海から急峻に競りあがり、痩せた松がヒョロヒョロと伸びているだけの山、しかも台風が年10回ほど襲来しその松をへし折っていました。 折られた松は電気の来ない地域、電気料金が支払われない家庭の燃料になるとのことです。
南シナ海から立ち登った水蒸気は、峠付近・海抜450メートルでは、濃い霧となって視界はほとんどゼロでした。
峠でトイレ休憩に入りましたが、そのときガイドさんがかなり強引な物売りがありますからと事前の注意がありました。 確かに絵葉書や腕輪などの小物を十数人の女性達が逞しい売込みをしていました。
このフエへのたびに参加している方たちはかって「ギブミー・チョコレート」と米兵を追いかけた経験のある65歳過ぎの方々が多く、当時を思い出す会話が聞かれました。
途中、ランコー村のレストランで昼食。リゾート地でもあり海岸線が綺麗でした。

フエに到着。 全員がチクロに乗り込んで世界遺産である19世紀・グエン朝の王宮、王宮博物館と廻りましたが、一辺が2Kmで周囲8Kmの基盤の目状の方形都市でありますが、ここもベトナム戦争の傷跡でしょう構造物は大半か破壊焼失しておりました。
博物館も小さく、貯蔵品も驚くこともない内容と数でした。

「ザイ」という名の花ですが、この鮮やかさが印象に残っています・

王宮 広い敷地に一角に残された壁?
その後、訪れた庶民の生活物資の調達市場の活気には圧倒されました。 商店が互いにせり出して陳列?しているので通路が狭く、すれ違うことも出来ません。
仕方なく、一番外回りまで足を運ぶと、そこは生鮮食品の並ぶ市場でして、フエの庶民の買い物の仕方や内容が良くわかりました。

その後ホテルにチェックイン、久しぶりにバスタブにタップリ水を入れて、手足を思う存分伸ばして入浴。
食事の後は、宿泊のホテルで「アオザイ」の発注です。 引渡しはシンガポール以降とのことです。 昔のお嬢様たちがどのような出で立ちで登場するのでしょうか。
本物の若い娘達はほとんどこの時間帯には現れませんでした。

翌日はホテルから直接ファン川のボートでテイエンムー寺院の観光に向かいます。

ファン川に面した宿泊したホテル
途中、船上生活者の横を通り過ぎてゆきます。 その向こうには1986年から始まった「ドイモイ政策」=(自由経済、宗教の自由など、その後のベトナムの発展に貢献した政策)にとって、次々と立ち上げられていった橋やビルが対照的です。

水上生活者 ファン川に架かる橋とビル
45分の遊覧後、テイエンムー寺と到着。


3〜4Kgにもなると言うザックフルーツ まさに、泥水の中に咲いた睡蓮でした

薪が焚かれ 少年僧が食事の準備です
前日の王宮、博物館と3点セットで世界遺産となっているグエン朝の12世王の墓・カイデイン廟に行きました。(13世王はフランスに亡命した)
この廟は東洋と西洋の混合された構造物との解説を受けました。 コンクリート製なのですが、雨によって苔むしたことによって黒い色に変身しています。


帰船時間の30分前に戻ってきました。 交流体験をした若者達が最後のお別れを惜しんで輪になって踊っていました。

この時期にしては大変気温が低いとのことでしたが、湿度が高くジットリと汗がにじみ出る2日間で、早々とシャワーを浴びていると、知らぬ間に船は岸を離れていました。

尚、この日(3月5日)入力した内容が一瞬の内に消滅してしまいました。 仕方なく翌朝(3月6日)再入力をしましたが、どうも気分が乗らないままに記録しました。
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平成19年3月3日(土) 記
”世界一周,101日船旅日記 6日目”3月3日
船内の基本的な配置が分かってきました
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6日目にして船内の基本的な配置が分かって、最短距離で目的地に行くことが出来るようになりました。 と言うものの、前方・後方を勘違いすることがあり、前方より4Fのメインダイニングに行くときは、直接は行けず一度5Fに登ってから下がらなければならず、ウロウロと迷路に入ったようになってもいますが・・・。
本日の予定
・10:00〜12:00 平和のために私達が出来ること、NGO設立と活動内容
〜大海の一滴で終わらないために〜レ・リ・ヘイスリップさん
・14:00〜14:50 ダナン(ベトナム)上陸説明会
・20:30〜22:15 超豪華トークライブ〜世界を変える 私も変わる〜
乗船してからこの船旅を企画している会社の方々や通路でパソコンを操作している方にホームページへの掲載を教えてもらえないか声をかけてみたが、どなたも良い返事がもらえなかった。
本日、まずは自分で動かしてみることだとパソコンの前に座ることにしました。
電源の入れ方からして戸惑うことになった。
そして、肝心なホームページへの送信、配信についてでありますが、諦めました。
理由は日本で日頃作成している一日当たりの活字の量と写真を送信するには多分1回分が、1万円以上にはなると判断しました。
例えば、私のホームページを開くとします、トップページが全部表示されるまでに約5分くらい掛かります。 15分500円ですので、送信するどころか立ち上げるだけで15分くらいかかるのではないかと思われます。 レセプションで「遅いですよ、遅いですよ」と何度も言われましたが、なるほどと納得でした。
地球は狭くなった、宇宙を取り巻く回線と言っても庶民が使う回線はまだまだと言うことです。
簡単なメールを送信するなら別ですが、それでも大変です。 電話回線も思わぬ料金となると言っておられた方がいましたが、大体想像が出来ます。
そこで、ならばと手紙に切り替えることにしました。 寄港地から投函することになりますが、何通書けるのでしょうか。
パソコンを前に一日当たり平均3〜4時間は入力しております。
ユックリの船旅と思いきや、今のところはもてあます時間は全くなしです。
と書いた後、午後5時から8時半までは夕食のみで少々退屈。早々とカウンターバーへ
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平成19年3月2
日 記
”世界一周,101日船旅日記 5日目”3月2日
船内企画が満載、時間表を見比べてスケジュール
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昨日に続いて第2回目のパソコントラブル。 文字変換が思うようにならない。
このトラブルが今頃から起こるとは今後更に大変な事になると、アチコチに触れている間に更に様子は悪化する。
これは早めに指導を仰いだほうが良いと7Fに向かう。 ここにはソファーとテーブルがあり相部屋の方々がそれぞれのキャビンでは狭すぎるので、ここに集まっているのを見ているからです。
一番初めに顔を合わせた方に訊ねると「パソコンを持って来て下さい」との返事、持参してみると簡単にトラブル解消。 どうやら「Nnm
Lk]のキーボードに触ったためのようだ。
これでまた一つ、知識が増えた。
昨日の中で「九フン」と入力したところがあります、『手書き』で”フン”を漢字入力するのですが、認識が出来ずで、「九フン」と書いております。
この方に、船内で作成した日記をホームページに転送、掲載する指導をお願いしました。 その方はホームページは作成しておられませんので、出来るかどうかは分からないとの返事です。
そこで、船内自主企画として、「パソコンのこと教えます。教えてください」と言う企画をしてみることにしてみました。
本日の午前中「デジカメ入門〜旅のはじめに〜という自主講座に参加しようと出掛けて見ると、何と超満員で入りきれませんでした。ほとんどが高齢者と女性でした。
さて、ピースボードならではの企画が目白押しです。
本日の私のスケジュールを紹介しましょう。
・11:00〜12:00 先駆け! 船内企画。これはシンガポールまでの区間で予定している船内イベントや、乗船している水先案内人の方の紹介です。
・12:00〜 3月10日実施の「フルーツ・パーテイー」申し込み、限定200名様
・14:00〜15:30 「私が見たベトナム戦争」〜壮絶なる少女期の体験〜
水先案内人レ・リ・ヘイスリップさんは、世界中でヒットした「天と地」の原作者です。

・16:00〜17:30 「地雷原に暮らす人々と出合って」NGOの草分けである、清水俊弘さんが語るカンボジアの生活体験や「悪魔の兵器」地雷についての話です。
・18:30〜19:30 「芝居に興味のある人 あつまれい」
・20:45〜22:15 「ウトロとボクと時々オモニ」と題して、大道芸人やジャグリンなどの、エンターテイナーの世界で、アジア人唯一の世界大会優勝者のキム・チャンヘンさん。
在日コリアンの歴史や現状について自からの経験をふまえたトーク。
後日、芸の披露もしていただけますが、「パニック・アート」と言うエンターメントをなぜ創ったのかの思いを聞かせてもらえる。
本日も早朝のデッキは雨に濡れていた。 1時間半の間に、散歩(約4キロ)ストレッチ体操、そして太陽に向かっての礼拝が終わる頃に雲間より太陽が顔をのぞかせた。
で
東シナ海は今雨期なのだろうか。日中もウス曇である。
この4日間判断すると朝8Fのデッキは体操のグループの参加が一番多い。

他には太極拳のチームもあれば、名前は知らないが「さ〜。朝の体操をしましょう」と音量イッパイに様々な動作を組み合わせたチームもいる。
朝のデッキ散歩は今のところ5〜6人程度である。 平均3〜4周(1000〜1200メートル程度)が多く、10週以上は今のところ私ともう一人いるだけです。
礼拝をしている人もあれば、瞑想している方も、 般若心経を唱えている方もいる。
800人強の人が乗船しているというが、朝のデッキに顔を出す人は10〜15%である。
「芝居に興味のある人集まれ」以外は、予定どうりに参加。
夕食の時、ご一緒したご夫妻が、マングローブの植樹の計画を持っているということで、「ウトロと僕と時々オムニ」のトークの後、24時までバーラウンジで飲みながら話す。
なお、講演「私が見たベトナム戦争〜壮絶なる少女期の体験〜」<レ・リ・ヘイスリップさん>とトーク「ウトロとボクと時々オムニ」<キム・チャンヘン>は、別途活字化しました。
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平成19年3月1
日 記
”世界一周,101日船旅日記 4日目”3月1日
”基隆(台湾)港着岸〜「『非情城市』九フンをゆく」
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今回の旅で第1回目のパソコントラブル。 本日の朝の分を入力したものが、マウスに血圧測定器が触れて一気に消えた。 最初の感覚で入力したものと2回目では微妙にニュアンスが異なると感じる。
本日は午前5時半に起床した。 日の出は6時18分であるから、勿論外は暗い。
そのまま起きだして8Fのオープンデッキフロアーに昇る。 1周400メートルのコースを自分で設定し、10周まわる。 後半は汗が滲んでくる。
雨は降っていなかったが、床がぬれている。 これで3日連続して朝は雨であった。
6時過ぎると基隆の明かりは見え始めた。

基隆は台湾の北部に位置して、台北には鉄道、タクシーで約30分です。
三方を山に囲まれ、地形的にも恵まれ古くから港町として栄えた。
特に日本統治時代は軍港として整備され、港湾都市として発展、今は世界有数の貿易港となっている。
基隆市は元々「鶏龍」と言う名前だったが、「基地昌隆(繁栄の基地になる)」と言う意味をこめて、同じ発音の「基隆」と表記するようになったと教えられた。

軍港として繁栄するよりは、世界に拓かれた港として今後も発展してもらいたい。
旅に出たときは可能な限り「お粥」の朝食としている。腹持ちは悪いが昼食が待ち遠しくなり、地元の料理を楽しめることになるので、楽しい旅のコツの一つにしている。
午前8時15分過ぎ、上陸可能になったとアナウンスが流れた。 オプショナル・ツアーでなく自由行動の方(ほとんどが若者)が上陸してゆくのが、キャビンの小さなガラス窓(直径40センチメートル)から見ることができた。
さて、初めての寄港地「基隆」です。 そして「非情城市」の映画で有名になったという九フンに向かいました。
残念ながら私はこの映画のことをほとんど知らないことと、現地のガイドさんは日本語はペラペラですが、年齢が73歳との事、皆さんに若いとかその年齢には見えないなどと言われておりましたが、機敏性、柔軟性、融通性に欠けており、時間配分がまずくこの映画のことを一言も解説せずに終わってしまいました。
かって、この離れ村は外との間を結ぶ陸路がなかったころ生活物資の供給をすべて海路に頼っていた。 当時村には9つの世帯しかなく、生活物資の購入が毎回9人分だったところから、九フン(フンの字が出て行きません)との地名になったそうです。
日本統治の頃は金が産出されていましたが、掘りつくしてしまった後は元の寂れた集落になってしまいました。
そして「非情城市」の映画の大ヒットで、日本人を中心とした観光客で賑わう様になり以下の写真のような道幅が3・4メートル程の商店街となったようです。

綺麗な石畳になっていますが、観光地になる前(15〜20年前)石ころと土で埃が舞い上がる道であったそうです。
左は一番人影が少ない時に撮影しました。 右はその狭い道に車を乗り付けて、生肉を切り売りしていました。 写真の前面の白色の部分は良く見てください豚の頭です。側の商店の営業妨害、あるいは営業許可がでているのでしょうか。

瑞芳展望台より??を望む。
以下は映画のロケ地となった場所の写真です。


その後、台北市に行き西門町(繁華街)を探索しました。 そこで見つけたポスター

ロハス(LOHAS)の文字が目に入りました。 皆さんご存知のように日本でも2年ほど前からしきりに耳にする言葉です。 「健康で・持続可能な生活」などと表現されていますが、この台湾では「快楽的簡単生活」と表示されていましたので、お国が違えば表現も代わるものだと思いました。
「快楽」「簡単」という単語は、私のもっている「ロハス」の感覚、イメージからすると少しばかり違和感があるということです。
そんなことを思いながら出くわしたのが、お寺さんでしょうか。 金と赤の煌びやかな寺でした。

狭い境内の一角に8〜9坪、上のような世界の彫刻が配置されていた。
イロイロな恩恵を与えてくれる神様が安置されているらしく、番号と順路が示されていた。 その中に『弘法大師』もありました。 日本統治時代の名残でしょうか?

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平成19年2月28
日 記
”世界一周,101日船旅日記 3日目” 2月28日
地球大学オリエンテーション開催される
明日の台湾上陸を前に説明会等が開催
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タイトルとはかけ離れたヨレヨレ・ヨタヨタの繊維が登場しました。
左はアンダーシャツ、右は5本指絹製の靴下です。 アンダーシャツは約6〜7年前に購入した。 靴下は約4〜5年前に購入したものです。
それぞれ現役でしたが、アンダーシャツは首周りが破れていますし、靴下はレース状になっています。 捨てることなく、今回の旅で最後のお役目として登場しました。 長い間本当にありがとうございました。 台湾でお別れとなります。
船内新聞が毎日発行されます。「たびごろ」と言うタイトルです。 今回のピースボートが第56回と言うことも兼ねて、”たび56”とかけてあります。
その第3号によりますと、今回の旅の最年少者、中学3年生が3人乗船しているとの事です。 その一人栗原君は「恐怖心は全くない」「一つのことを成し遂げてみたい」と言葉少なに語ったと紹介され、中学の先生は快く送り出してくれたが、学校にも通って欲しいと苦笑いしたとあります。
さて、昨日よりこの入力したものをホームページに転送する方法を習得するところはないかと訪ね歩いているが、これなら間違いないという線には到達していない。
メールの送信、インターネット接続までなら分かるという方はいるが、それ以上となるとこの人とならと言う方に出くわせないでいます。
本日、ピースボード事務局の方にアタックしてみようと考えているのと、事務局前のボードに「お願い文」を掲載してみようかと思っている。
ノートパソコンを持参の方は結構いるようなのだが、ホームページを作成している方は少ないようだ。 ブログでも同じレベルだったのかと思っているのですが・・・
今、地球大学のオリエンテーションから帰ってきました。 結構ハードなスケジュールになりそうである。
3ユニットあり、@地雷の世紀から私達は何を学んだか、「カンボジアの地雷原を訪ねる」、A持続可能な社会への挑戦、「エルサルバドルから学ぶ環境の”南北問題”」そして、 B私が選択したユーゴ紛争にみる「戦争のつくり方」であります。
私の選択したユニットは3月23日から講義が始まり(非寄港地以外毎日)、途中エクスポージャーで3泊4日の「ボスニア紛争・和解への道のり」へ体験ツアーが組まれており、4月22日の報告会まで、宿題、グループ課題、など休む時間がないのではないかと思うほどである。
一ユニットが約25名で、中・高齢者は10%で大半が若い方々、女性が65%で、韓国からの学生も参加している。
これを機会に卒論を書くと発表した学生もあり、白熱したものを期待しているようであった。
台湾上陸説明会の会場で以下のメモ用紙を拾った。(ルーズリーフに書かれたもので、破りとられていた)
『 チチとハハへ
ゆかは今、2人を待っているトコ 。
こんなことになって本当に当りえないよ。(「当りえないよ」はありえないということか?)
冗談抜きでごめんね。 本当にごめんなさい。イヤになったよね。でも、ごめんなさい。
もう、そっちには帰らないかも知れません。
でも立派に成長したいデス。 ごめんなさい。 ありがとうございました。
FROM YUKA』
以上原文のままです。 この船旅にチチとハハが反対していたが、ゆかさんは友達と乗船したのだろうか。
拾ったこの紙を届けるべきかどうか迷っている。いろんな人たちが乗り合わせているのだろう。
そういえば、本日の昼食時に隣に座り合わせた女性が、初めうちは右隣の女性と話していたが、そのうちに私のほうに向き直り、食事も口に運ばず次々に甲高い声で捲くし立てる。 秘書や受付係りをしておったので、一流会社の人を多く知っている、ご主人は優しい、旅に行っておいでと気持よく送り出してくれる。
お金は不動産投資や株投資は彼女が得意のところで、今回も旅の直前に3軒目のマンションを契約してきた。
直観力が強いので自分から選んだものは間違いないと言っていた。
一人旅なので昨夜は食事は与えられたところに座ったので、ダメだったから今日は自分で閃いたところに座ったのだと・・・・
ウイスキーのボトルをキープしたので、ロックで飲みながら聞き役にまわっていた。
何も語らなくて済むから気楽なものであるが、最後はいささか閉口した。
そういえば、昨夜のウエルカム・パーテイーで煌びやかな衣装で舞台狭しと踊っていらした方だったのかと後から思いだした。 また、隣同士になることがあるのだろうか。
「こちらにも選ぶ権利がある」と言う言葉を思い出した。
他人事ではない、自戒しなければ・・・・
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平成19年2月27
日 記
世界一周,101日船旅日記 2月27日
船酔いから始まる〜船内オリエンテーション
「ウエルカムパ−テイー」「ウエルカムデイナー」
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昨夜は夕食の後(この時点で生ビール1杯と300ミリリットルの日本酒1本)、やはり物足りずに20時30分から2時30分まで営業している「居酒屋”波へい”」に行き、鉄火巻きをつまみにウイスキーを3杯を頂いたところで眠気をもよおす。
午後の11時にベッドに転がり込む。(本日調べると、血圧チュックシートの測定結果が記されていたから実施したことが分かった)
本日は午前5時に目が覚めるが、丸窓の外はまだ暗い。 横になったものの眠れずに6時過ぎには起きだした。 船が大きく揺れている、着替えていると吐き気をもよおしてきたので、デッキにでて散歩をすることにした。 8Fのオープンベランダデッキに出ると床が濡れているが雨は降っていない。
一度だけ雲間より太陽光が、大きくうねる波に向かって射し込んだ。

何時もの散歩時の歩測で1周を計算してみると約350メートルである。 10周するつもりであったが8週目で雨が降り出し中止とする。
昨夜の居酒屋「波へい」は朝、昼と夕方8時までは、ヨットクラブとなって軽食の食事どころでもあります。
部屋に戻ると船酔い感覚に襲われた。 中部大学で共に学ぶ聴講生の平野さんから頂いた「THE SEA−BAND]を思い出し、早速両手首に・・・

装着すると数秒で気のせいか楽になった。 その後、船内生活のオリエンテーションに参加はしたものの、胃の調子がいまひとつで昼食は抜きとすることにしました。
午前中に「船内生活のオリエンテーション」が行われ、午後は2時半より「避難訓練」が実施された。

光っているのはライフジャケットです。 注意事項が伝えられました。
トパーズ号船長主催のウエルカム・パーテイーが開催されました。
各セクションの責任者が紹介されました。クルーは300人で20カ国からです。

船長 専属バンドの歌手(ウクライナ)

ダンスの舞台は超満員です。 これならステップを踏めない人もOKです。
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平成19年2月26
日 記
世界一周,101日船旅日記
「神戸港を出港 2月26日・午後4時40分」
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出港風景をと意気込みましたが、なかなか気に入った作品はありませんでした。

神戸港 新港第4突堤 に接岸したトパーズ号

神戸港に停泊したトパーズ号の船首


何も解説せずに以下の映像で何か感じていただけるでしょうか。
(後日、彼女の名前が分かった。「パトリシアさん」で GETの先生(スペイン語)のメンバーで、日本語は全く話さなかった。 モデルをお願いした。
その後、彼女が私の撮った写真が欲しいと言い、DVDを持参したのでコピーして渡した。




そして、タグボート(牽引船)のロープが外されました。
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