エッセイD 旅日記
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                              平成19年5月16日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 80日目 5月16日

  〜4日ぶりに、朝日が少し覗きました〜


 メキシコ・アカプルコを出航して太平洋・カリフォルニア半島を北上してきましたが、朝の天候は連日荒天で波が高く風が強かった。
 デッキに出てくる人はみんな冬のスタイルであります。 それでも何とか朝日は雲間から覗きました。

    

         

      

 数人の若者がデッキで朝日が差すのを待っていました。 寒いのでしょうスキップをしながら20分強経過したところで突然、雲間から一瞬陽が差しました。 大きな声で「ありがとう」と叫んでいました。
 
 
 2日後の5月18日にカナダ入港で、その説明会が開催されてり、カナダの見所紹介などがあった。
 当初、2日間とも申し込んであったつもりが一日ブランクがあったので、早速追加。運よく席が空いており滑り込みセーフとなる。
 カナダのオプショナルツアーは10種類もあったからであろう。
 と同時に、2日間ではとても短すすぎる期間と強く感じた。 キット、近い内に再訪したくなるのでないかと、カナダツアーが始まる前に感じています。

 本日の夕食は「マグロ丼」と掲示されていた。 
 日本に居るときは毎晩マグロをたべていた私は、船内では3度ほど「鉄火巻」を食べたのみである。
 マグロを食べなくても食が満たされていたということでもあろうかと、気づきました。
 お味の方は、今から食べに行きますので報告します。

 結論
 「美味しくない」、まずは早くから沢山つくったのだろう「ワサビ」の香りが抜けている。
 ウエイトレスに注文。他の客は黙って食べている美味しいのだろうか?
 ワサビ届く、それなりの感じになる程度であった。

 その後、一つ講座を終えた後に、酒場「波へい」へ。
 お腹満腹でどんな酒を頂くのか選択に困る。 山崎サントリー・ウイスキーから、ブランデイーに入り、その間マグロの刺身と塩辛でOK.只今帰還し入力。

 只今、11時15分、お休みなさい。
 

 
                              平成19年5月15日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 78日目 5月15日

      〜男性と女性の違いを見る〜


 5月15日午前9時、多分カリフォルニア・ロスアンゼルスの西の海を航海中。
 今朝も日の出はない。それでも一昨日、昨日に比べれば風は弱くなった。 が気温は低下している。 朝の体操グループもみんな屋根のある部屋に変更になったようだ。
 デッキに出てくる人も少ない。
 それでも3周も回れば体温が上がり、気持よくなってくる。 

 このところ集中して憲法問題の講座が多い、カナダ在住の乗松さんが持ってきてくれた「世界を斬る映像」は実に参考になる。
 第1回の「アンニョンさよなら」から始まり、第2回目は「日本国憲法」についてで、」世界的な巨人たちが日本国憲法について語っている。
 そして第3回目は昨日、今年の2月10日に放送されたNHK・ETV特集「焼け跡から生まれた憲法草案」であった。
 
 現在の日本国憲法はGHQにより押し付けられたものと教えられることが多かったが、決してそうばかりではなく、戦後直ぐ昭和20年11月、民間の日本人が7人集まって”日本憲法草案する「憲法研究会」が設立され、作成されていたのです。
 それは民主的なものであるとGHQからも評価され、GHQが作成し提案された憲法草案に大きく影響を及ぼしていた。

 その「憲法研究会」を書いた鈴木安蔵は、自由民権運動が盛んであった高知県の某氏が作成した憲法草案に影響を受けていた。 またその某氏の作成したものはドイツのワイマール憲法からの影響を受けていました。
 自由民権運動はアメリカの独立宣言やフランスの人権宣言に影響を受けている。
 というように、憲法は一国の、誰かの意思によって計画され、草案が出来決定していったものではなく、人類の様々な体験、知識が凝縮されていることを知ることが出来ました。

 また、日本国憲法が決して押し付けられたばかりではなく、大日本帝国憲法下の議会で現日本国憲法は審議され、ワイマール憲法にある生存権(ドイツは第1次世界大戦後、国民の最低限の生活を保障するところの生存権を憲法の中にうたっている)を付け加えているし、また義務教育についても、GHQ草案が初等教育の6年間だけのものであったが、特に全国の教員からの要望で中等教育の3年間が加えられ、「普通教育」と表現されている。 なを、この改正には愛知県名古屋市の守山小学校の校長が大きな尽力を果した。

 当時の日本政府が指名した松本国務大臣の「憲法調査委員会」は、大日本帝国憲法にある国体の変革など考えていなかったことも映像で語られる。
 GHQは日本政府の対応に大いなる不満を抱き、憲法草案を作成しているし、その作成された憲法は基本的なところで「憲法研究会」と通じるものが多かった。
 そのためにGHQはその草案が必ずや日本国民に受け入れられると確信していた。

 第4回目の本日はこれまた今年の4月末に放映された番組「日本国憲法誕生」です。
 キット、新たなる知識と考える視点を持たしてくれることだろう。
 昨日の映像を見た後の感想で「NHKがこのような視点で番組制作をしているのかと驚いた。 政府の意向にばかり気がいっているのではないかと思っていたが・・」との感想が述べられたが、私も同様な考えをもった。

 また、コスタリカでアメリカのイラク戦争を支援すると発表したコスタリカの大統領と首相をコスタリカの憲法に違反していると訴状を提出、勝訴した当時大学3年生で法律を学んでいたロベルト・サモラさんが本日は「憲法九条徹底解剖」と題して、分かりやすくお話くださることになている。

 また、乗松さんは「バンクーバーから平和を創る」と題し、「西と東の出会う場所」バンクーバーでの九条の会を初めとする平和活動の紹介もある。

 というように、この数日は日本国憲法、憲法九条問題を集中的に勉強しています。
 旅の後半は観光ツアーの計画もほとんどなく、ピース族の仲間入りです。
 ピース族というのはこのピースボートには、ピース族(平和に関心をもっている者)とボート族(観光に関心を持っている者)の二者がいるところからの表現です。

 
 本日のタイトル「男性と女性の違い」とは、コスタリカ出身のロベルトさんの講座「憲法9条徹底解剖」の時のことです。
 話の切れ間で、ロベルト氏が感想、意見を求めました。
 すると、まずシニアー男性の3人が次々に発言しました。 「日本の首相安倍さんのことを悪く言うのは、許せない」 「イラクへの日本の自衛隊は議会の承認を受けて派遣されているのだから違憲ではない」「このピースボートは護憲のことばかり取上げているが、反対の意見の人もいるからピースボートは考慮すべきではないか」と・・。

 私はイロイロな意見、しかも外国の若い(多分30代前半)の法律家の意見を聞くのも良いと思って参加しているので、そのように考える視点があるのだなと思って聞いていたが、発言のシニアー男性達には沽券に係わるというか、文化の違いストレ−トに表現する外国の方に面白くない感情を持ったようである。

 ロベルト氏は冷静に「そのような意見が聞けたことは嬉しい」「しかし、日本国民と世界の人々にとってイラクへの派遣は違憲である」「文化の違いを改めて感じた、しかし今後の参考にしたい」「ただ、聞き置くだけでなく、このような議論が出来たことに感謝する」
 「私は日本の憲法、とりわけ9条は素晴らしいと考えている、私の国でも、また他の国でもこのような憲法があるならば戦争は起こらないであろう」などと答えていた。

 予定時間が過ぎたところで、シニアー女性が二人発言した。
 「外国の方がこんなにも日本の憲法を勉強し、その解説をしていただいていることに感謝する」「昨日までは、よそ事であった憲法問題について考える機会となった、ありがとう」との発言があった。
 私から見ると、男性群の日本のプライドを傷つけられるられたというような感覚、感情に対し女性群がロベルト氏に声援を送ったようにも思えました。
 
 それぞれの発言者に対し、賛同の拍手が送られていたが、女性群の発言に対しての方が圧倒的に多かった。
 参加者が女性の方が多かったことにもよろうが、平和に対しどのように立ち向かうのか。
 社会で、職場で直接的に戦ってきた男性群とどちらかといえば家庭で守りの役をしてきた女性群の違いを見たように思いました。
 女性群が強くなった方が平和の可能性、確率は高いのでしょうか。
 それにしても男性の方が憲法に対してよく勉強しており、女性は関心も、勉強もしていないことはハッキリしました。
 知らなかった女性達が勉強し、立ち上がることが必要なことなのではないかと思いました。

 もう一つ、シニアーの男性が「このピースボートは護憲一本の講座ばかりである、もっと違う意見も並行して採用すべきである」との発言を別講座の時間でも意見を述べていたが、これは議論の対象を勘違いしている。
 「認識論」ならば、それが”事実か”、”本当か嘘か”と調査してゆけば、かなりの部分客観的な事実に到着し、認識を共有することができるだろう。 例えば、南京虐殺はあったのか、それはどの程度のものであったのか。 慰安婦の問題でも同じであろう。

 が、「価値論」の世界は、それは”好きか、嫌いか”であり、主観的なものである。
 各自の立場、好みでで180度の展開となる。
 このピースボートの立場、好みからすれば、護憲の立場であり、好みとなる。
 そうすれば、どのような方法論で、誰を、どのように選択し、どのように語って貰うかの戦略・選択は自ずと決まってくることになる。

 このピースボートを選択したということは、ピースボートの価値観で展開されることを承知していなければならない。 異なる展開を求めるならば、別な選択肢を選ぶべきなのであると思います。

 と言う意見を述べようと考えたが、時間切れであった。
 
 


 
                              平成19年5月14日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 78日目 5月14日

 〜やっと、テオテイワカン、マヤの写真整理終了〜


 昨日に続いて日の出はなく、風も強く、ラジオ体操グループも早々と7Fに会場を移して行きました。 
 私の方は昨日の強風の体験がありましたので、たじろぐ事もなく予定どおりに定番をこなしました。
 人間は経験、体験の動物などといわれますが、一度でも経験・体験しておれば、その経験・体験の上に立って前に進むか、後退するか、其処に留まるかを判断し、行動するのでしょう。 そのわりには余り進歩していないとも感じずにはいられませんが・・・
 これは人間は同時に「忘れる」という特技があるからでしょうか。

 知識とか知性とか教養を高め、自己規制した生活をするということは、何処まで可能なことなのでしょう。 我儘で、好きなことをしたい私には違う世界の話のようです。
 だが、体が覚えたこと、あるいは知ったこと、そして習慣化されてしまうと良いことも、悪いこともなかなか消えない、抜けないものです。
 たった、2ヶ月強ですが船の揺れにはかなり慣れてきたようです。
 メキシコ・アカプルコから乗船した水先案内人の方が、船の揺れで深夜起こされ、船酔い止めを飲んだと話されておりました。

 間違いなく気温は下がってきまして、汗をかくどころか礼拝の時には指先に寒さを感じるほどでした。 90%夏用の衣装しか持参していませんので、これからどうなることでしょう。 カナダで購入することになるのでしょうか。
 


 
                              平成19年5月13日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 77日目 5月13日

 〜朝、強風の中デッキ・ウオーキング決行〜


 バンクーバーまでの長いクルージングになるので、後半は退屈するのではないかと心配していたが、昨日の企画はなかなか面白くためにもなった。
 世界を斬る映像 「アンニョンさよなら」は靖国問題とアジアにおける日本の過去とこれからについて、中心になる視点のポイントを未来志向でまとめられた大変出来のよいドキュメンタリーであった。

 船内の自主企画チーム「憲法9条の会」による”日本の行く末を語る”と題して、元判事であり・検事であり、現在は神奈川大学の名誉教授である萩原金実氏のお話は、憲法9条の持つ意味について大変分かりやすく、その重要さを知るよい機会となった。
 この話は活字化する予定である。


 さて、本日5月13日に起床は6時20分と久しぶりに6時を回っていた。
 デッキに出ると強風である。 一瞬止めようかなと思ったが、ここまで継続してきたことをやめるのは口惜しい気がして歩き始めました。
 ところが、船首部分に出ると(船首は午前6時から開放される)、瞬間風速は20メートル以上あるのでしょう、ターンする柱のところまで風に押されて進めないのです。
 飛ばされないように帽子を押さえ、背を丸めて何とか柱にタッチしユーターンしましたが、今度は風に押されて吹き飛ばされるように船首部分から左舷側に逃げ込みました。

 この時間に行われている「おはよう太極拳」はプールデッキの風除けがあるところでしたので実行されていましたが、風がまともに吹き付ける「ラジア体操」は、7Fのブロードウエイ・ラウンジに変更になったのでしょう、人影がありません。
 2周目も足元に注意して廻り終えると、3回目からは風のなかでもバランスが取れるようになりました。  汗はほとんど出てきませんでしたが、5周目あたりからは背にシットリしたものを感じました。
 
 船は既にカフリォルニア半島の南端・サンルカス岬を越えて、サンタマルガリタ島の沖を航海しています。北緯25度近くですので、気温も下がってきました。
 日中になってもそれ程気温は上がらず、プールやジャグジーもボツボツ終了となることでしょう。



 
                              平成19年5月12日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 76日目 5月12日

 〜久しぶりに地平線から太陽が出ました〜


   

   

    

          久しぶりに地平線上から昇る日の出に出会いました。

      本日は結構関心の持てる内容の企画があり、パソコン往復です。
 夕食時には初めて、6人テーブルで同年輩の方ばかりとなりました。 同年配と言っても私が一番若かったのかもしれませんが、最初に髭の話になり「ご立派な髭ですね」と言うところから始まりました。

 「本日で5日間、髭を当たっていません」と答えての会話の始まりです。
 なんと、同席の5人はお酒を飲んでいません。 (数十分後に分かるのですが、このトパーズ・ダイニングの酒は高すぎると言うことです)。
 私もそのように思うのですが、其処がまた”格好付けの私の悪い癖”でしょう、どうせ飲むなら最後まで、と決めていますので、途中で方向転換は出来ません。

 同席の皆さんAさんの船室に戻り酒盛りのようですが、私には食べ終わってからのお酒は理解できません。 
 最後に残った私の短歌は

 「一人去り  二人去りて 我がテーブルの  グラスに注ぐ 酒 琥珀色」

 「今日もまた 終(ツイ)の客と なりしとも 心満たされ 身も軽やかに」

 「現れし 思いの外の 人来たり  ひと時語り 去ってゆくなり」


 この入力を終えたところで、午後7時45分。 丸窓の外はまだまだ明るい。
 午前・7時31分の日の出であったから、まだ陽があるのだろう。 
 明日はカリフォルニア沖の洋上になることだろう。
 明日からは、短パンでのデッキ・ウオーキングは少し寒くなることだろう。

 今夜も。早めに就寝としよう。

 追記
 5月13日の朝、教えられたところによると5月12日の日没は午後9時頃で、10時近くまで西の空は明るかったと言うことでした。


 
 


 
                              平成19年5月11日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 75日目 5月11日

 〜本日より7日間バンクーバーまでクルージング〜


 今朝は5時に目覚める。 
 4日間のグアテマラ〜メキシコの旅で疲れたのだろう、昨夜は一度も夜中に起きることなく眠った。 そのまま、デッキ・ウオーキングに出る。
 定番コース80分を終えても日の出なし、時差でもあって間違えているのかなとレセプションの時計を見に行くが、間違っていない。

 シャワー浴びると7時。 腹はそれ程すいていないが朝食に・・・・
 キャビンの丸窓から明かりが差し込んでいたが、眠気をもようしてベッドに潜り込む。
 1時間半ほど眠った。 ハウスキーピングの物音で目覚める。

 今日から17日までの7日間はバンクーバーまでのクルージングです。
 初日の今日はリフレッシュ・デーで企画は何もありません。 
 テレビ映画とシアターでの映画はありますので、シアターに行き、「ボクサー」と言うタイトルのシリアスな映画を見てきました。
 今から、グアテマラ〜メキシコのマヤ文明「テイカル遺跡」とアステカ文明「テオテイワカン遺跡」の写真の整理をして、5月7日から10日までの遺跡めぐりの日記を書くことにします。


 日の出が遅かった分、日の入りも遅い。 夕食を済ませて7時45分、今キャビンに戻ったが、丸窓からは青空と白い雲が眺められる。
 今夜の夕食時には同じテーブルに香港から来られた方と同席となった。 その彼女と同室の方が、「どうぞ英語で話してください」と紹介をされ、久しぶりで香港英語を話すことになった。
 25年前のこととは言え、まだ記憶に残っていることをお話しすると、現在の香港のことを交えてお話が聞けた。 理解できるのは半分以下であるが、どのような会話の内容かは分かっているので、分かったような気になって話をした。
 
 タイクシン(太古城)ショッピングセンターのことも勿論知っており大変懐かしく思い出された。 
 約束をして食事を取るのではないからく、その度毎に相手が変わる。これまた ご縁というもので結構楽しい。 これもお酒が飲める効用の一つであろう。

 本日は午後にも1時間半ほどの睡眠を取り、4日間のツアーの疲れも引いたことだろう。
 午後の8時を回ったが、丸窓からはまだ明るい地平線を眺めることが出来る。
 今夜は眠ることが出来るのだろうか。 明日の午前2時までオープンしている「居酒屋・波へい」のお世話になるのだろうか?
 それとも、キャビンの窓に並んだ5本のウイスキー、ブランデイー、ラム酒、梅酒と引き出しの「カワハギ」と「スルメイカ」のおつまみで終了となるのだろうか。
 
 まずは5月7日分の旅日記を書き上げることにしよう。


 

   



 
                            平成19年5月13〜14日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 74日目 5月10日

 〜テオテイワカン遺跡観光(メキシコ)
   〜空路アカプルコへ〜トパーズ号に合流

1 
 メキシコの国名の略称はメヒコ。このメヒコは、独立戦争の最中の1821年に決定したもの、アステカの言語のナワトル語で、「メシトリの地」と言う意味。 メシトリはアステカ族の守護神であり、太陽との戦いと狩猟の神であるウイツイロポチトリの別名で、「神に選ばれし者」という意味がある。
 アステカでもっとも信仰されている神の名に、場所を示す接尾語「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対して願いを込めた。

 紀元前2万年頃人間が居住した形跡がある。 マヤやアステカの高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めたが、16世紀初頭のスペイン人による支配は「新しいスペイン」としてメキシコの植民地時代の始まりとなった。
 1810年スペインからの独立戦争は長期戦となり、1821年に独立宣言。
 が、独立後はアメリカに侵略され領土を奪われ、強引に売らされメキシの領土は縮んだ。

 1860年代には債務不履行を宣言したために、フランスやスペイン等の軍事占領に苦しむ。
 1910年以降に革命が起こる。20年の長きに渡る政府軍との内戦となった。
 革命後は制度的革命党(PRI)が第2次世界大戦を挟み、20世紀終わりまで与党として政治支配。が蔓延する汚職や経済停滞で総選挙で敗れるも、現在も強力な政党として影響力を維持している。

 20世紀に入り石油や銀の産出で富をもたらしたが、工業化の過程で対外負債をかかえて、工業化には成功したものの、慢性的インフレと富の一部富裕層への集中で国民を苦しめる。
 アメリカと新自由貿易条約を結んでいるが、反米となった他の中南米の国と疎遠になっている。
 
 メキシコシテイーの人口は市内で1800万人、周辺をあわすと2200万人と世界最大の都市人口となっている。

                

      

      

 上記のように市内は高層ビルが建ち並び、どこの先進国都市にも見れるような落書きが特に目に付いた。
 また夕方の渋滞は大変なものであり、車の台数が400万台、タクシーが14万台(?)
 1969年のメキシコオリンピックのときに開通した電車が、特に庶民の重要な交通手段となっている。当時は3路線であったが、今は11路線になって、何処まで乗っても2ペソ(20円)です。


    

    

 市内から郊外のテオテイワカンに向かって車で20~30分走ると、街の様子がガラリと変わる。 ご覧のように山というか丘と言うか、其処にビッシリと粗末な住宅が建ち並び、沿道では露天市が開かれている。

 さらに、20分ほど走ると風景は緑の畑に変わり、テオテイワカンの山並みが見えてきます。
          

              

世界遺産を示す右のマークと左はメキシコのコインと同じワシ・サボテン・湖描かれている


              
 
 一番下のものが、サボテンの葉の先端部分です。(サボテンの背丈は1メートル以上)
 その葉の皮を剥くと一番上の紙になります。 裏表二枚取れます。
 真ん中は葉の先端部分を2センチメートルほどで切り込みをいれ、それを引き出しますと糸=繊維となります。 実に優れものです。 このサボテンは食糧にもなりますし、水分は様々に活用されているようです。

    

 ジャガーの宮殿のジャガーの絵です。BC368   これはオウムです。

 描かれているということは、この周辺にジャガーいた事になりますし、オウムは暖かなところの鳥とのこと。 ということはこれを書いた人は遠くの南の国から来たのでしょうとガイドさんの話。
 ここでのガイドさんの話は、エジプトで聞いた時とは大違いで、ほとんど”らしい””のようだ”と断定的ではありません。 研究が進むにしたがって、日々変化するからです。

 では、どのようにして色づけされたのでしょうか?

             
          
           其処に登場した絵葉書売りのおじさんが実演です。
 サボテンにカイガラムシのようなものが、張り付いています。それをヘラで掬い取り塗りつぶすと、赤色になりました。
 黄色は植物の汁をこすり付けて見せてくれました。 
 これまた、本当に当時のものかどうか? これは本物のようでしたが・・・
 黒色は神々への崇拝、白は死者、赤は命を現す。
 

    

     ↑月の神殿                        ↑太陽の神殿
         ↓月の神殿図                  ↓太陽の神殿図

                  

 月のピラミッドはBC2500年、太陽のピラミッドのモデルとなった。
 1903年調査隊がダイナマイトを使用したので、太陽のピラミッドと対比すると頂上部分が凹凸になっている。月は南北に計算されている。

 太陽のピラミッドは6回に渡り積上げられている。 完成まで250年の歳月がかかったと思われる。高さが65メートル、土台の一辺は230〜250メートル。230~240階段。
 頂上に寺院があったと思われ、エジプトのように尖がってはいない。
 太陽のピラミッドは東西方向に計算されている。

 テオテイワカンは365日のうち310日間が晴天。 3月21日から春がスタートし、多くの客が「太陽のエネルギー」を受けに来る。

 神話として、神々の内太陽と月を作る神が選ばれて、修行に入った。最後は火の中に身を投じたが、両方の神は死んでしまった。 そこで、他の神々も太陽と月を作るために身を投じた。 このように生贄の文化がある。

  テオテイワカンは1903年に草原の中から復活した。
 先住民族が61グループあり、そのうちのオトーミン族が有力説。 人間が神になれるところと記されている。

           

 月の神殿の頂上から太陽の神殿を眺めました。中の道が「死者の道」と名づけられています。 これも後日、死者とは関係ないことが分かってきましたが、最初「死者の道」と名づけたのでそのまま使っているとのことでした。
 テオテイワカンは中心部のみであり、実際はローマ帝国、アテネ帝国と同じくらいの街で、BC500年から政治、経済、宗教の繁栄したところです。

          

    お母さんに抱かれて登ってはきましたが、下りはてこずっていました。


       

      太陽の神殿前で記念撮影、ツアー中参加者が一番少人数でした。

           

    テオテイワカンの近くのレストランで音楽とパフォーマンスを見ながら昼食

 メキシコの国内線「アピアクサ航空」で、アカプルコに向かいました。
 トパーズ号の姿を目にしたとき、疲れが一気に出てきました。
 その後、一度帰船してから出かけた方も居られましたが、空港から港までにシャッターを押し捲った車窓からのアカプルコを紹介しましょう。
 
 その前に「アカプルコ」の紹介
 
メキシコの首都メキシコシテーから南西に約300Kmの太平洋岸に位置する。
 人口60万強の中規模の街、海岸に沿って大規模なリゾートホテルや豪華な別荘が建ち並ぶ、世界から年間数百万人の観光客が訪れる。
 エルヴィス・プレスリーが主演した映画「アカプルコの海」(1963年、パラマウント映画作品)の舞台としても有名。

 古くから太平洋側のメキシコ有数の貿易港として栄えた。
 1609年(慶長14年)フィリッピン総督一行が、マニラからアカプルコへ航海中、台風に遭い房総半島の御宿海岸で遭難し、地元民に救出された。
 その後、1613(慶長19年)にはローマへ向かう伊達藩士、支倉常長一行が経由地として訪れている。 日本とも縁が深い場所。

                     
                        支倉常長の像


    

                  アカプルコ空港にて

            

                     ゴルフ場

    

                         高級別荘

    

          大ホテル群                   コンドミニアム

    

                

    

  アカプルコではトパーズ号は沖に停泊していましたので、左の写真の船で渡る

         

            乗船が3Fでしたので、トパーズを真下から
 




 
                              平成19年5月13日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 73日目 5月9日

〜フローレス〜グアテマラ経由メキシコシテイーへ        メキシコシテイー宿泊


 フローレスから再びチャーター便にてグアテマラに戻り、市内観光となる。

 グアテマラシテイー観光

                   
 
 この教会は個人の所有物であります。 アンテイグラの大地震のとき、親類縁者が無事であったことに感謝して建てたと言うことです。
                       
   

       庶民の買い物市場に行きました。 隠し撮りは失敗でした。

              

               グアタマラ・シテイーのカテドラ教会

          

 グァテマラ・シテイーは旧首都・アンテイグラに似せた設計で中央に公園、そしてカテドラ教会、と国立宮殿が四方を囲むように出来上がっています。
 アンテイグラのものより、3倍以上の面積と目測しました。

              

         


    

 昼食はマヤ族の方の作ってくれた「トルティーヤ」(トウモロコシ粉を練って作った発酵させない薄型のパン)、キビ、トウモロコシなど素朴で、栄養価は低いのでないかと感じました。 なんと3枚も食べてしまいました。


 午後は、グアテマラ・シテイーから国境を越えてメキシコに入りました。
 時差もあり、ホテルでチェックインと夕食を頂いきました。
 この日のホテルは「日航ホテル」久しぶりに和食の会席料理。 店名は「弁慶」とありました、確か香港にも同じ名前の店がありました。 冷酒を頂、気分満点でした。

          

              ホテルの窓越しにメキシコの夜景です


 
 
                              平成19年5月12日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 72日目 5月8日

グアテマラからフローレンスへ空路、テイカル遺跡
  〜フローレス郊外(リゾート地)に宿泊 


 今回の旅は4部構成になっている。
 第一部は前日の「アンテイグラ(旧首都)の観光
 第2部は本日午前の「テイカルの遺跡見学」
 第3部は本日午後の「グアテマラ・シテイー」観光(アンテイグラから遷都した新首都)
 第4部はメキシコ・「テオテイワカン遺跡」の観光

 第一部のスタートです。
 
    

 5月7日宿泊のウエステインホテル       グアテマラ・シテイーからでフローレスへ

    

 チャーター機内からの撮影 (焼畑です)      緑の大地、フローレス空港近く

 グアテマラの面積は広いのですが、人の生活出来るところは少ないと言うことです。
グアテマラのペテン低地は海抜で平均200メートルですが、石灰岩で出来ております。
 高地は火山地帯で4200メートルの山が連続しています。
 本日のフローレスはグアテマラでも一番大きな州で、マヤ王国の中心地でもありました。

    

 空港からマヤ・テイカル遺跡までの車中で幾度となく焼畑の煙を見ることが出来ました。
 地元ガイドさんはこれによって、土地が開発されたと言っていましたが、それが良かったのかどうかは分かりません。道中のマヤ住民の家々はみすぼらしいと言わざるを得ませんでした。↓
    

               
 
 テイカル公園に入る前に奇妙な木に出会いました。 これは花でも実でもありません。
                    鳥の巣だと言うことです。

 
 グアテマラ共和国について

「歴史」
 

 
首都は、グアテマラシテイー。 太平洋とカリブ海に面している。 北はメキシコ、北東にベリーズ、南東にホンジュラスとエルサルバドスに接している。
 市民の過半数はマヤ系の先住民。

 紀元前15世紀には、沿岸部に農耕民の存在が確認されている。
 先古典期中期初頭=紀元前900年ころ、パシオン流域に集落形成。
 後期=紀元前500年以降には、ペテン低地にマヤ都市が出現。
 古典期には、378年テイカルにメキシコのテオテイワカンゆかりの強力な王朝が建てられ、メキシコ、カンペチュ州のカラクルムと「優越王」を賭して覇を争うようになった。

 <挿入>
 マヤ文明はAD300〜900年、その後も持続していました。全てのマヤが消滅したわけではなかった。
 アステカ文明はAD300〜900年に発展、最盛期は1200〜1300年と言われます。
 
 メキシコのアステカ文明テオテイワカンとグアテマラのマヤ文明・テイカルは後記する様に覇権を争っていた。
 現在の国境線となるウスマモンテ(USUMAMONTE)川が流れており、両者は関係があったと言う説が有力である。
 このマヤ文明、アステカ文明を語るとき、「らしい」「有力説」と言う言葉がつけられる。
 これは1500年代スペイン人が侵入してきて、資料を焼き尽くしたり、その侵入前に勢力が衰えていたこととも関係するのであろう。
 エジプトの記録と対比すると、大きな差である。


 一方、グアテマラ高地には先古典後期には祭祀センターが築かれていた。
 古典期に入るとテオテイワカンに征服される。
 後古典期11世紀頃から北方のチチメカ人が侵入、その影響を受ける。  

 10世紀初頭までにペテン低地の祭礼センターは破棄されたが、グアテマラ高地のマヤ系諸王国はスペイン人に征服されるまで存続した。
 
 スペイン人の征服者達は1523年に初めて現れ、1524年にはこの地域を征服。
 1544年、スペインはグアテマラ総督府を置き、自治権を与えた。
 スペイン人征服者の政策により、先コロンビア・マヤ文化の古文書は、植民地時代に焼却された。
 ポポル・ヴフと呼ばれる、一種の創世神話が現在に残っている。

 1821年、グアテマラ総統府はスペインから独立を宣言。
 1823年に結成された中米連邦の一部であったが、この連邦は内紛が絶えず、1827〜1838年に内戦・解体。
 1839年グアテマラは独立国となった。

 その後は革命、クーデター、非民主主義政権、アメリカ合衆国からの内政干渉。
 CIAはグアテマラ社会の広い支援をうけて、1954年政府転覆を実行。独裁的な親米政権が誕生。 これはグアテマラ国家に社会不安の時代をもたらした。
 36年間のゲリラとグアテマラ政府の戦争は、1996年に平和条約調印で終わる。
 1985年以降は、民主的な選挙が現在まで続く。

 「経済」

 国民総生産の四分の一を農業。農業は輸出の三分の二をしめ、労働人口の半分が従事。
 
「国民」

 
住民は、混血のメステイーソが50%、インデイオが40%、白人2%。
 宗教はローマ・カトリックが一番多い。その他プロテスタント、現地宗教
 平均寿命は64歳、識字率は67・3%で、中央アメリカで最も低い。
 貧富の差激しく、人口の10%が国民所得の47%を占める、国民の57%が貧困層に属する。 地方農村は貧困層が76%。
 国民の大半を閉めるマヤ族など先住民は、零細な小規模農業に従事、スペイン語の読み書きできず、職業につく機会も少ない。

 マヤの代表的なテイカル遺跡観光 〜マヤ文明について〜

 アテマラ、ユカタン半島などマヤ地域を中心に栄えた文明。
 大規模な都市遺跡が築かれ始めたのは、先古典期後期から、「中部地域」で、現ベリーズのラマナイ、グアテマラのペテン低地、エル=ミラドール、ナクベなどの大遺跡都市が建設された。
 古典期(AD33~900)には、テイカル、カラクルムなどの大都市国家の君主が『優越王』として、群小都市国家を従え覇権を争った。
 「優越王」であるテイカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持していた。
 各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を現す石碑が盛んに刻まれた。

 が、9世紀ころから中部地域のマヤの諸都市国家は連鎖的に衰退していった。
 原因は、メキシコからの侵入者があった、北部地域に交易の利権が移って、経済的に干しあがった、など有力説多数。

 AD600〜900の終わりころの人骨に栄養失調が判明、焼畑農法や建築物に使用する漆喰を作るために森林伐採で、地力の減少によって食糧不足や疫病が流行。 それによって支配階層の権威の失墜と、資源の奪い合いで戦争が激化し、共倒れで、衰退に拍車がかかった。

 一方、AD600〜900年ころユカタン半島北部など「北部地域」でプウク式の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた。
 AD900〜1524年には、各地に都市国家が合従連衡と攻防を繰り返し、16世紀、スペインの侵入を迎えた。

 マヤ文明の特徴
@青銅器や鉄器などの金属器を持たない。
 A車輪の原理は遺物にでてくるが、実用化しなかった。
 B焼畑農法の他に段々畑で作物を作り、湿地については広い溝を掘り、ほりあげた土を溝の縁に盛り度してカカオなどの農産物を植えた。
 C20進法を用い、ゼロの概念を発明。数字は点(,)をT、横棒(−)を5として表現、独特な象形文字を使用。
Dマヤ文字や持ち送り式アーチ工法など高度な建築技術、暦を持つ。火星、金星も計算。


    

 
       公園への案内表示                 公園入り口の池

           

              このような道を約8Kmの散策見学となります。

                

 地図で示されていますが、遺跡全体の規模は今もって分かっていません。
 スペイン人によって偶然に発見された時には、ジャングルの中でありました。

              

     ご神木とでもいうのでしょうか。高さが20メートル以上ありました。

    

 左のマークは頭の髪の毛に鉢巻をした状態です。
 その上の左・井桁のマークは「秘密」を意味し、右は「神聖なもの」を示している。
 「セントラル・アクアポリス」の場所です。

             

                                    


                
    
                        2号神殿

             

                      1号神殿

                 

 2号神殿は途中まで、(約40メートル)、1号神殿は約75メートル登れます。
 と言っても、角度が45度以上もあり、頑張ったのは良いのですが、皆さん翌朝は太ももに筋肉疲労を感じておられました。

            
      
                   4号神殿より第1号神殿を望む。

 フローレス空港とテイカルとの中間点にある、リゾート・ホテルが本日の宿です。
          
            
                  5月9日の朝

 
                 

          ↓ 5月8日の日の沈む頃  ↑          ↓

            


    

                ↑       5月9日の朝       ↑

    
         ↑            5月8日の夕日 ↓    ↑

        
 


  

 
                              平成19年5月7日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 71日目 5月7日

 ^アカフトラ(エルサルバドル)入港・下船〜
 陸路アンテイグア(グアテマラ)へ、市内宿泊


   

                 →      この大きさでは分かりませんが↑、中央に太陽が
          

      祈りが終わった頃には、船尾に太陽が昇っていました。(午前6時40分)
 
 アカフトラ(エルサルバドル)には、入港・下船のみで直ぐに隣国のグアテマラに陸路で行きます。エルサルバドルとは救世主と名づけられているが、弾圧・内戦・大地震など・・
 
 アメリカ大陸で一番小さな国・エルサルバドル、1992年に12年間続いた内戦がおわり、現在では中南米一安定した経済を誇っている国と言う。首都はサンサルバドル。

 この国はマヤ文明を今に伝える遺跡、スペインの征服者達が築き上げたコロニアル建築、そして開発が続く現代が混沌と混ざり合った国エルサルバドル。
 熱帯雨林に囲まれた火山、山の斜面にはコーヒー農園など、小さいけれども文化や自然が豊かな国である。
 車窓からだけれど、楽しみである。

 いま少し、そのエルサルバドルのことを紹介しましょう。

 紀元前には、モンゴロイドの先住民が定住、1世紀に火口湖の噴火で、先住民はマヤに避難した。 
 10世紀頃には、モンゴロイドの部族による小国が幾つか成立し、ピピル人が統一国家を建設しつつあったが、1524年にスペイン人がこの地を征服した。 スペインの支配に入り農業や牧畜業が営まれた。
 
 19世紀前半、インデイオたちの間で独立の気運、ナポレオン戦争でスペイン・ブルボン朝が滅亡、1808年スペインで内戦、1811年独立戦争本格化。
 1821年、グアテマラが独立、エルサルドルもスペイン支配から解放。
 1824年、中央アメリカ連邦に加盟。
 1841年、中米連邦が瓦解、「エルサルバドル」として暫定的に独立。
 1856年、正式に独立、が同時に内乱。 
 
 20世紀は一時安定するも、世界恐慌で主要産業のコーヒーが打撃、経済危機。
 クーデターでマルテイネス政権掌握、独裁、言論弾圧、3万人虐殺。
 1944年、クーデターが置き、マルテイネス独裁は崩壊。その後の政情は不安定。
 1966年、大統領選挙で、エルナンデス政権発足。
 1969年、国境紛争で不和のホンジュラスとサッカーの試合原因で戦争勃発。
 1979年、ロメロ政権が軍事クーデターで倒れ、革命評議会による暫定政府発足。
 1980年、内戦。事態収拾のため暫定政府はアメリカに支援要請。
 1984年、ドウアルテ大統領が政権を担い、民族革命戦線と首脳会談実現。
 1989年、クリステイアが大統領に選出。が民族解放戦線とは内戦泥沼化。
 1992年、国連仲介、和平実現。 1000人からなるPKOの派遣。
 1994年、総選挙、カルデロン大統領が選出。民族解放戦線が第2党になった。

 住民はメステイーソ90%、先住民インデイオが1%、白人9%。

 船内紙「たびごろ」からの情報
 
 エルサルバドルはグアテマラの東南に位置する九州の半分ほどのおおきさの国
 スペインの植民地で約300年。1821年の独立後の、『14家族問題』や「ファラブンド・マルテイー民族解放戦線の結成」など、社会問題が様々、他にも大地震があった。

 貧富の差は世界の国々に存在するが、国家に大きな問題を起こす。
 エルサルバドルの「14家族」とは、スペインの支配時代から存在した、一握りの富豪たちである。 全体人口の2%の彼らが、コーヒー栽培の産業をはじめた頃より、国土のおよそ60%を支配している。 コーヒー栽培の開始と共に、多くの農民は土地を奪われ、小作民となって過剰な労働を課せられた。
 1929年の世界恐慌に差し掛かり、問題を引き起こす。 国家収入は4年前の半分、小作民の給料は支払われず、あるいは半分、最悪は解雇されてしまった。
 ここから農民の蜂起が始まる。 
 
 1932年「ラ・マタンタス大虐殺」で3万人の命が政府によって奪われた。
 土地取上げに対し各地で農民が蜂起・反乱。 政府は農村武装警察を結成、徹底的に対抗。 
 そんな中、世界恐慌が発生、農民の不満ピークに、労働運動は急速に左翼化してゆく。
 この時代に現れたのがマルクス主義の洗礼を受けたファラブンド・マルテイ。
 共産党を作り農村で武装蜂起に勢力を集中する。 この計画が事前に政府の耳に入り、共産党を一斉に検挙。
 政府が積極的に活動せず、リーダーを失ったまま蜂起するが力及ばず、3万人の命が弾圧によって奪われた。
 そして、蜂起後、独裁政治は続くことになる。

 内戦の当初は左翼ゲリラ組織、ファラブンド・マルテイ(FMLN)と政府軍の戦いは、FMLNの革命は時間の問題で成功すると考え始めた頃に、介入をしてきたのが米国。
 米国はFMLNが共産党というだけで非難した。 この国の根本的な貧富の差や社会問題を無視し、政府軍をサポート。結果、兵力が増大し内戦の方向は変わる。
 平和交渉をするも、終結せず、1992年に終わりを遂げるが、いまだ市民の傷は癒されていない。
 特に、内戦時に派兵された少年兵の問題は世界の強い批判が続いている。

 エルサルバルドルでは12歳で戦地に向かわされた。 政府軍として戦うか、ゲリラの一員となるかの選択を12歳の誕生日に求められた。
 恐怖を紛らすためにマリファナ茶があたえられ、感覚麻痺の状態で戦場に向かわされた。 武器を握らずにはいられない状況に追い込まれいった。
 それは時に、かれらの命を奪い、心を奪ってしまった。


 サルバドルの内戦は国連の仲介により1992年に終結したが、内戦の結果、7万5千人が死亡。 100万人が亡命、FMLN(ファラブンド=マルデイー民族解放戦線)のも1万4千人の犠牲者。
 この内戦の終わり方には賛否両論あり、ゲリラ軍の負け、としてこの内戦の終結を理解する者もいれば、国際環境との関連で、このような終わり方も仕方なかったと言う考え方もある。
 紛争の終わり方を片方の見方から見てしまうと危険である。

 (参考資料)〜「エルサルバドルの未来の鍵を握る人々」と題し、リカルド・ナパロとアナ・フランシスのQ&Aが活字化されている。、

 さて、以上の事前知識を持ってエルサルバドルに入国ですが、多分街中を車で駆け抜けるだけになると思っています。 いささか、惜しい気持ちがしています。
 30分前、着岸間近に、デッキに出て見ると、早くも出店がオープンしています。

    

           着岸中                観光用のバスも着ています

    
    
     逞しい庶民の力を感じます。 あと、1時間後に、陸路でグアテマラです。

              

          こんな風景で下船します。アカプルコの文字が読めます。    

  
     
 ↑フランボアの花が両側にイッパイ  エルサルバドルからグアテマラに向かう道は緑

   

    両国の中間点の村の露天        橋の向こう側がグアテマラとなります

   

 簡単な入国審査で通過です。スペイン統治時代には現在は隣の国となっている、ベリーズ、ホンジュラス、コスタリカ、ニカラグア、そしてエルサルバドル、グアテマラは単一の管理下に置かれていました。
 ちなみに、メキシコと南米のコロンビアは別の管理下にありました。

    
 
 グアテマラは乾燥の地メキシコから見ると「木の生えている大地=緑の大地」と言う意味です。 エルサルバドルからグアテマラに入るとなるほどと感じました。

     

 トイレ休憩したレストランの庭で。このように宿り木ではありませんが、他の木に寄生して、あるいは人間が植え込んだものをその後も多く見かけました。
 ジャングルでは自然に寄生しているものも多く見かけました。

   
 
    マヤ族の人々の信仰の聖なる岩     マヤ族に人々の生活は極貧です

      

       グアテマラでお世話になった↑国産ビール”グラ”、美味かった
 今回の3泊4日のツアーは宿は5つ星ホテル(ウエステイン・日航)など、食事も凝っていました。

  
  世界遺産の町・アンテイグア観光

               

 グアテマラのかって首都だったアンテイグアの街は、碁盤の目のように区画整理されており、日本の京都のような立場の町になります。(昔、首都であった) 
 どの道もこのように石畳↑ですので車に乗っていても、歩いてもユックリとした速度で散策することになります。

  しかも、標高が1500メートルと高いので、特に汗をかくということはありません。
 1977年(?1669年か?)の大地震で街がほとんど崩壊しました。 その後、首都はグアテマラ・シテイーに移行されます。 今では人口3万人のグアテマラ・シテイーに隣接し、町全体が世界遺産に登録された観光地となっています。

 アンテイグアの市内にはスペイン人やその混血人が住み、先住民マヤの人たちは郊外=周辺に住んでいます。 ここにはスペイン語を教える学校が40校もあるそうです。

             
 
 表面上は立派な建物ですが、建築途中で地震によってそのままになっています。

             

        この「メルセー教会」も同様です。 車窓からの見学でした。
     壁の厚さが50センチメートルもあり、外壁が残っていると言う状態です。

         

     カプチアス修道院を見学。ここも今では修道院としては使われていません。

       

 スペインから移住してきた方の中には、この修道院で一生修道尼となってこの院で生涯を過ごす方もおられました。 一度この中に入ると家族との直接的な対面もなく、このような個室で修行の生活をします。
 院内には洗濯場も、食事の場も、懺悔の場、また死亡した時の部屋も用意されており、25名の修道尼が修行生活をしていたと言うことです。

        

        

        修道院の屋上からの眺めです。 富士山とよく似ています。

      

      

             これまた、崩壊した「カテドラ教会」です。

   

  かっての総督府跡(現在は市庁舎)       当時の高級官僚の宿舎
 
 上記のような建物と「カテドラ教会」に囲まれて、中央公園がありその中心が噴水です。
 
           

 翌日の午後、グアテマラ・シテーを見学をするのですが、この「アンテイグラの中央公園」と「カテドラ教会」を模倣した、配置と公園そして建物を見ることになります。

 その前に、夕食会場に向かいました。 其処はかって教会であったところを改造したところでして、大変良い気持ちにさせてくれるレストランでした。

    



     


                      

       

 30年前近くに、オランダのお城で提携先の幹部とその奥様とフォーマル・デイナーをしたことを思い出しました。そのとき、 翌日は生牡蠣にあたり、酷い目にあったこともあわせ思い出しましたが、この日はペルー産の赤ワインをカジュアルなスタイルで楽しみました。
      
 

 


 

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