エッセイD 旅日記
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                              平成19年5月25日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 89日目 5月25日

 〜スワード(アメリカ)入港
   〜ネイチャーウオークをアリエスカ山麓で、
    〜 トラムウエイ(ロープウエイ)乗車で高台へ


   アラスカ4日目、最後の寄港地スワードへ入港したのは、夜明け前でした。
       デッキは濡れていましたが、既に雨は上がっていました。

      

                 
                    
                      トパーズ号のメイン煙突と

       
       
         岸壁にはアメリカ国旗を掲げた大きな客船が停泊しています。
 アラスカ・クルーズの定期観光船にしては大きすぎます。6万5千トンはあるでしょう。

             
        
       5月25日、アリエスカ山ツアーから帰ってきたとき、反対側から
 

                 

                ドンヨリと重い雲が圧し掛かっています

          

     ほんの一瞬東の空に赤みを見出しました。 其処に向かって礼拝しました。
 今回の最後のオプショナルツアー、「アリエスカ山麓でのハイキング」は如何なりますか。
    
 スワードについて
 
 人口2005年の統計で2600人。アンカレッジから陸路204Km
 アンカレッジから車で約3時間半、スワードハイウエイを南下したキナイ半島東岸のリザレクション湾に面する港町がスワード。
 キナイ・フィヨルド国立公園の入り口に当たり、背後にはマラソン山(標高921m−トル)が白嶺の山脈に寄り添って立っています。

 海洋性気候で夏期の気温は摂氏9・5〜17度と言うことです。 今は夏でしょうか?

 スワードという地名は、リンカーン大統領時代の国務長官ウイリアム・スワードに由来し、彼がロシアからアラスカを購入した努力を称えて市の名前となった。
 リザレクション湾は、1792年探検家アレキサンダー・バラノフがコデイアックからヤクタットへの途上、嵐を避けて入り込んだ湾で、その日がロシア正教の復活祭であったために
"Resurrection"と彼によって命名された。

 ゴールドラッシュ時代は一攫千金を夢見た人々が多数この港から上陸。
 ゴールドラッシュ時代の1915年に始まった「マラソン山(標高921M)のマラソン・レースは現在も7月4日の独立記念日に開催されています。

 1903年アラスカ鉄道建設の資材輸送ターミナルとして建設技師たちによって開かれたスワードは、1912年に市制が敷かれた。
 1915年から1923年に鉄道がスワード港からアンカレッジを通って内陸部のフェアバンクスへと建設され、スワードは陸路、海路の物資輸送のセンターとして発展。
 1960年にはキナイ半島最大の町となった。

 キナイ半島の南東部の広大な海岸地帯は、キナイ・フィヨルド国立公園に指定されている。
アラスカ・クルーズ豪華客船が夏期には320000人の観光客を運んで入出港し、キナイフィヨルド国立公園や内陸部のアラスカに観光客の足を向けさせている。
 全米一の景勝・スワード・ハイウエイがアラスカ各地のハイウエイに繋がっています。

 
 アラスカの山々と湖 (スワードとアリエリアス間のアラスカ・ハイウエイ車窓より)

 
このページの写真が多く、重くなってしまいましたので、画面表示が遅くなりました。
 よって、これ以下は次のページに掲載することにします。
 



 
                              平成19年5月24日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 88日目 5月24日

 〜アラスカ・フィヨルド第3日目・ハーバード氷河〜


 アラスカ・フィヨルドの3日目も雨で始まりました。
 午前5時に起きだし、完全装備でデッキに出ました。 昨日ほどではありませんが、小雨と揺れがありました。
 
 東の空と思われる方向に向かって礼拝をしていましたら、雲が少し晴れて、島影が見えてきました。

                 

         


 フィヨルド3日目はプリンスウイリアム湾のプライトリーフパイロットポイントからホイッテイアーへ、カレッジ(大学)通りと名づけられているように、ハーバードを初めとして、大学の名前が付けられています。
 マウントグッドで引き返し、最終の寄港地スワードに向かいます。 さて、今日はどんな光景が展開されるのでしょうか。 その前に昨日の写真を整理、選択そして掲載する作業に取り掛かります。(ここまで、5月24日午前10時半)

 11時半、「只今よりハーバード氷河の入り口に差し掛かります」とアナウンスメントあり。
 
               

              ハーバード氷河に入ってゆきます

      

      

            左右の山並がドンドン変化してゆきます

      

                   左舷側の氷河が現れました


                

               氷河は流れ下って水に達しています

      

       最深部の氷河です              航跡を残して離れてゆきます

                 

                   流氷の一部が流れてゆきました

       

                    最深部の全景です。

        

            名残惜しく、最後まで山並みを眺めていました

          これで、3日間のアラスカ・フィヨルドは終了しました。
    




 
                        平成19年5月22日と23日と24日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 87日目 5月23日

 〜アラスカ・フィヨルド第2日目・フバード氷河〜

 
 アラスカ・フィヨルドの二日目、昨朝の日の出の映像は納得が行かず、4時に起きだす。
 完全武装して甲板へ、雨です。 そのまま引き返すのも惜しく、朝の4Kmデッキ・ウオーキングに入りました。 その間約1時間、数人の方がデッキに上がってこられました。
 また、24時間企画の若者達でしょうか(昨夜の21時から、本日5月23日の21時まで連続企画ですが、まだこの取材には行っていません)10人ほどが顔を出しましたが、早々と引き上げてゆきました。

 完全武装をしている関係でしょうか寒くはありません、それどころか3周目を終えるあたりから汗のにじみを感じ始め、4Kmを歩き終えた時には、下着は間違いなく汗を吸い取っていました。 こんな時に吸湿性がよく、速乾性の肌着の効果を感じます。

                

    

 それ程の揺れではありませんでしたが、少し傾くとご覧のような状態の中を歩きました。

 今朝、目覚める直前にこんなことが頭をよぎりました。 ”今朝の食事は「ご飯に味噌汁かけ」それと、「お茶漬けご飯」、持参の「ごま塩かけ」。
 開始7時が待ちどうしく、早々とダイニングへ。
 タイミングの良い時にはピッタリ決まるもの納豆も本日は揃っていました。

 今回の旅で朝食でご飯を注文したのは初めてです。(お粥は何度も頂きましたが)
 テーブルに座るなり「日本茶」を希望しました。 
 まずは味噌スープにご飯を入れました。 ウマイ
 続いて、ごま塩かけ〜これまたグッドです。 納豆をかき混ぜて一口頂く、素晴らしい。
 大根漬けに、梅干でお茶漬けをいただき、大満足で終了。この間15分でした。

 このような食事が脳裏を横切るようになたと言うことは、里心がついて来たのでしょうか。
 それとも、潜在意識? 基盤の身体が求めだしたのでしょうか。
 旅もあと2週間を切りました。


 
 アラスカのこと
(地球の歩き方 より)

 全米最大の面積を持つアラスカ州は、北極面はほぼツンドラ地帯で、その他の部分でもほとんどが森林に覆われている。
 面積は日本の約4倍。全米第2位のテキサス州の2・5倍。
 アラスカはハワイよりも日本に近い、州の人口のうち、約16%が先住民。
 いくつもの川が大平原を蛇行し、大小300万もの湖沼が点在している。
 この広大な土地に、町と町を結ぶハイウエイはわずか十数本しかない。
 
 夏は湿地に阻まれ、冬は雪に閉ざされる、そんな陸の孤島のような町や村が数多く存在するアラスカは、交通と輸送の中心が飛行機になるのは当然です。
 例えば、全ての建築資材を空輸したために、建設費が全米で一番高い学校があります。
 アラスカではどんなに小さな町でも飛行機があり、無数にある湖や沼は雪が降れば平らな雪面となり、何処からでも離着陸が可能。

 したがって、アラスカで飛行機に乗るのは、私達が車に乗るのと同じくらい普通のこと。
 人口あたりの飛行機のライセンスの所持率は58人に一人の割合で、アメリカの他の州に比べて6倍。

 アラスカは1年中寒いと思われるが、オーロラで知られる内陸部の地域は、厳冬期にはマイナス40度を下回ることもあるが、夏の暑い日には30度を越えることも珍しくない。
 「極北の地アラスカ」と聞くと、1年中、雪と氷に閉ざされたイメージがあるが、季節や場所によって気候は様々です。

 今、(5月22日 午後5時半)デッキに厚手のジャンバーを2枚羽織って上がりました。
 全く、寒くありません、沿岸部というより島と島の間を航海していることもあり、風は全くなく、ジャンバーを脱ぎたくなりました。 多分15度以上の気温でしょう。


 さて、本日はヤクタット湾からフバード氷河に向かいます。(ラングル・セントエライアス国立公園・保護区の中です)
 行けるところまで進み、その後引き返します。 ヤクタットに帰り、今度はハーバード氷河を目指します。

 この後に、ハーバード氷河への写真を紹介しますが、腹が減って昼食です。
 ところが、寒さしのぎのブランデイーが効いたのか、追加ウイスキーのためか、キャビンに戻ったときは、夕食を終えたと勘違いしておりました。


    

    

        

    

    

  氷河の塊を採取に行きました。 その後、へミングウエー(バー)で提供されました。

               

        

 フバード氷河の最深部です。 真ん中の青く見えるのが氷河です。シャッター位置からは多分2〜3Kmはあるでしょう。(もっとか?) 氷河塊の採取船は本船から500メートルは前に進みましたが、流れ出た氷河塊がびっしりのところでストップしたことでしょう。

    

       

             記念撮影用の横断幕が広げられました


 最後に昨夜(5月22日21時から始まっている、「24時間企画」のイベントを覗いてきました。

           

     

 まずは「夢フラッグ」、乗船客500名のサインをフラッグに書いてもらおうという企画です。

        

        

            

    


      

 
                              平成19年5月22日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 86日目 5月22日

 〜アラスカ・フィヨルド第1日目・トレイシーアーム〜


 フィヨルドとは陸地の奥深く入り込み、両岸が急傾斜し、横断面が一般にU字形をなす入り江。 氷河谷の沈水したものと考えられ、スカンジナビア半島・南米南端などに見られる。 峡湾、峡江。(広辞苑より)

 船内新聞より
 「フィヨルドと氷の青さの不思議」
 フィヨルドとは両岸が絶壁をなし、陸地に深く入り込んだ狭い湾のこと。 
 氷河期に張っていた氷が部分的に溶け、その塊が岩や山肌を削りながら流れてゆくことで出来たもの。
 氷が陸地を削るため、自然に出来た山とは異なりギザギザの大地になっている。

 氷河と言うのはどうしてできるのでしょうか? 氷河の氷は海の水が凍ったものではありません。 空からの雪が堆積してできるものです。
 何年も、何十年もかかって、少しずつ雪が降り積もり、それが押し固められて氷河となった。 
 それがどうして青く見えるのでしょうか?
 それは雪が何年もかかって氷になるために、空気が押し出され、ほとんど空気が含まれていない氷が出来るからです。
 そのため、光りの屈折の関係で青く見えるのです。
 私達の冷蔵庫で凍らせる氷は大量の空気が入るために白く見えるのです。
 


 アラスカ州について
 
 米国最北端にある州。 アリューシャン列島を含む。
 北アメリカ大陸北西の端にあり、ハワイ州を除いた他の48州とは、カナダを挟んで飛び地となっている。 
 「アラスカ」の名は、アレウト族の言葉で「半島」を意味する”Alakshak”から。

 州都はジュノー市で、最大都市はアンカレッジ市。 海港アンカレッジはかってアジアとアメリカ及びヨーロッパをむすぶ航空路の寄港地であった。

 歴史
 最終氷河期では海面は後退し、ベーリング海峡にはベージリアと言う平原が広がっていた。
 ユーラシア大陸を東進してきた人類は、まずインデイアン
 続いてエスキモーが回廊を通り、アラスカに到着した。
 歴史時代以前、アラスカはエスキモーとインデイアンの土地であった。
 エスキモーは北極海沿岸を中心として海洋動物の狩猟が中心の生活、インデイアンは内陸部でムースやカリブーなどの狩猟が中心の生活をそれぞれ1万年以上続けたと思われる。
 近代に入り、北部ユーラシア大陸を東進してきたロシア帝国がアラスカに到着。
 西洋人として初めてアラスカを発見したピョートル大帝の命により北極を探検していたヴィトウス・ベーリングである。
 19世紀後半ロシアは殖民を行い、露米会社が毛皮アザラシなどの海洋動物の毛皮を採取していたが、輸送費がかさむことと、乱獲による激減で毛皮業は成り立たず。
 また、クリミア戦争後の財政難などの理由で、1867年アメリカ合衆国に720万ドル(1K平方メートル当たり5ドル)で売却された。

 この交渉をまとめたのが国務長官のウイリアム・H・スワードである。
 当時、国民から「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されたが、その後、豊富な資源が見つかり、高く評価されている。

 なお、アラスカはかってロシア領であったため、東方正教会の信者の割合が他の州にくらべて高い。

 アメリカ時代

 1896年カナダのユーコン準州で金が発見。その後、アラスカのノームやジュノーやフェアバンククでも金鉱が発見され、アラスカのゴールドラッシュが始まる。 何万人もの砂金探しがアラスカとカナダのユーコン準州に集まった。
 フェアバンクス等はこの時代に町としての形になった。

 全米第1位の面積。 人口は65万人。

 私も改めて地図を見て分かったのですが、カナダ、ブリティッシュ・コロンビアの北西部はプリンスルパート(バンクーバーからの鉄道の終着駅)までが、カナダ領で、直ぐその北側はアメリカ・アラスカ州となります。 よって「アラスカ・フィヨルド」との呼び名になります。
 
 アラスカ州・アレクサンダー諸島のアドミラルテイ島の東側に沿って進み、バウンダリー山地、コースト山地に囲まれた「トレーシーアーム」に入って行きます。
 そこで、氷河が見られます。 その後船は引き返し、アレクサンダー諸島の島々をぬって、スペンサー岬のところで、太平洋、アラスカ湾に一旦出ます。
 
その岬に出る少し前に、時間は20時から21時予定ですが、まだ充分陽は残っており、鯨が一番見られるところと紹介されています。

 ところが、トレーシーアームは流氷の流れ出しが多すぎるということで、急遽エンジコートアームに変更になりました。
 いまから、そのエンジコ−ト・アームの両岸の様子をお見せいたします。 船は時速15〜20Kmでしょうか。 片道約1時間半入り込みました。
 最深部の遠くに氷河は見えましたが、正に遠くにです。

 さて、まず朝4時半の日の出から掲載します。(日の出前)

                     

    

                以上3枚は日の出10分前です

              

    

  ↑の3枚は日の出後です。 船尾でおじ様が感激の余りフラフラと踊っていました。
                
   

               

 無粋な話です。 午前6時にならないと船尾には出れないのです。よって、小さな柵に足掛けしての、必死の撮影でした。 全部、下の部分を外しますので、低い位置の太陽ばかりです。

   
 
               

  船首が左の向きを少し変えました、位置を変えてやっと画面の真ん中に・・

 ここからがまたまた選択するのに大変でした。 (選択、以下は23日朝)

    

                 

    


         

         このように氷河が流れ出してきます。 その青さが綺麗です。

               

 これはアラスカの産業廃棄物ではありません。 氷河が押し出されてくる時に山肌を削り取ります。 多分これは苔のようなものだと思われます。
 また、水が茶色に見えるときは山肌が茶色で、灰色の時はグレーの山肌であったことを示すということです。

    

 針葉林の山裾に突然、雪解け水が流れ出しております。 一部の針葉林が枯れていますが、ここも松くい虫のような虫の被害だそうです。 枯れた針葉林のところは雪崩の跡の様になぎ倒されていました。

    

            同じフィヨルドに入った客船とすれ違います。

              

               その豪華客船の乗客のお一人です

              

              

          フィヨルドの最深部です。そのはるか向こうが氷河です。

            

               トパーズ号の救命ボートと一緒に

 
 
                        平成19年5月21日と22日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 85日目 5月21日

 〜後15日、UBSのバックアップもママならず、
   果たして、この旅日記は最後まで残せるか


 今後何もしなければ、少なくとも今日までの旅日記は最低限の写真を掲載して残っている。
 既に、数週間分の映像はその一部を日記に掲載後消えている。 掲載以外にも、綺麗で、面白い映像もあったと記憶する。
 とっても、悔しいとか残念とかは今のところ感じていない、それはこの旅日記が残っているからだろう。 このまま、ソッとしておくのも選択肢の一つであるが、消えること覚悟で続けようと考えている。 
 上記のように書いたのは5月20日のことです。

 そして今、5月21日6時半です。
 既に、4時50分に起き出して、朝の定番80分は終えてきております。
 本日は日の出が4時45分で、デッキに上がったときには、以下のような太陽が昇っていました。
                


        

           同じ時間に撮影したものですが、下は明るく処理しました。
 と入力しますと、何の苦労もなく掲載しているようですが、昨日のトラブルは続いているのです。 たった2枚の画像が何処に格納されたのか、はたまた格納自体がされたのかも分からず、少々探し回り、何とかたどり着きました。
 よって、本日以降も今までどおりに日記継続予定ですが、いささか慎重な操作が要求されます。

 この間、血圧を測定した。 本来なら起床後10分で測定するのを基本としています。 
 本日は定番コースを終了してから測定しています。 その場合は、血圧は起床後直ぐよりは安定して低く表示されるのですが、本日は普段より高めの数値を示しました。
 (通常時、140〜90が、本日は168〜95です)
 画像が何処にあるのか、また出てくるのかと気遣いながら測定したからでしょうか。
 昨夜もキチンと薬は飲みましたし、早く(午後9時)に床に入りましたのに・・・。
 
 但し、2クール眠ったところの24時近くに、間違い電話に起こされまして、それ以降寝付けませんでしたので起き出して、昨日の講座の一つ「原爆投下に見る国際政治の裏側」サンホ・ツリーさんの講演記録を2時間掛けて活字化しました。
 午前3時頃(5月20日、24時に時差が発生していますので現地時間では午前2時)再び眠って、今朝の4時50分に起床ということになります。

 気分は良いです。
 と言いますのも、どうしようか少々迷いはしましたが、ここは一人部屋の良いところです。
 いざとなれば、勝手な時間に眠れば良いと簡単に結論が出るからです。
 北緯52〜3度当たりのクイーンシャーロット諸島に差し掛かっており、気温が下がっていることが予測できましたので、肌着を2枚にしてトレーナーでデッキです。
 案の定、風もあり(昨日ほどの揺れはありませんが・・)体感気温は10度前後でした。

 上記の、太陽を二枚納めて、通常の定番コースを始めました。 デッキ・ウオーキング4週目あたりから気分が爽快になり始め、トレーナーを脱いで腰に巻きつけました。
ストレッチ体操の時には太陽が充分にのぼり、寒さは感じませんでした。


 この日、この船旅で初めて夕日を撮影しました。

    

                

               

     
 
 
 
                              平成19年5月20日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 84日目 5月20日

〜5月19日朝から5月20日朝の写真取り出せず〜
        その後、一部発見・収録


 5月19日のところにも入力しましたが、今朝の日の出の写真は取り出せなくなってしまいました。 お手上げです。
 まだ、整理していない講座の活字化に取り組むことにします。

 今までのところ、入力した旅日記の「ホームページ・ビルダー」には支障はないが、いつ何時トラブルが発生するとも限らない。 バックアップをしておかねばと、もう十数日前から思っているのだが、本日のトラブルはその予告かもしれない。

     

         

           

     この間、虹がかかりました。 ということで、10分後にはデッキにも雨が・・・

        

                 

            礼拝が終わった頃には、真っ暗になりました。
   そして、5月19日にも書きましたように、大きな揺れが発生し始めました。
 
 


                        平成19年5月20日、そして22日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 83日目 5月19日

    〜ノース・バンクーバーでカヌー体験〜
         残念、写真見つからず


 入力している現在は5月20日、午前8時半です(日本時間は5月21日午前0時半)
 昨夜21時にバンクーバー港を出航したトパーズ号は、再び太平洋に出ました。
 今朝はひんやりはしていましたが、何とか日の出はありました。 西の空に虹がかかったと思っていましたら、そのうちにパラパラと雨が降り出し、太陽も雲に隠れてしまいました。
 礼拝の時には、スッカリ太陽が隠れた状態でした。(この時のこと、20日に映像あり)

 今、船内放送があり「船が大変に揺れています。 デッキに出る方は充分注意をしてください。 また、船内を歩く時には手すりを利用してください」と呼びかけています。
 丸窓から覗いてみますと、空はどんよりで、波も高いです。 
 左右ばかりでなく、波を切って進んでいるのでしょう前後にも揺れています。 というよりは回転しているようにも感じます。

 ところで、今現在困っています。 と言いますのも、昨日の朝、撮影した夜明け前のバンクーバー港の明かりの写真と「ノース・バンクーバーでカヌー体験」、そして5月20日朝、日の出や虹の写真が、どこかに隠れてしまいました。
 間違いなく取り込みはしたのですが、「ADOBE]に仕舞い込んだはずなのに、呼び出しても反応なしです。
 反応なしとは、上記の写真ばかりでなく、これまでの記録写真も取り出せません。

 これで、大きなトラブルが3回目です。 少しいじってみましたが、手に終えそうにありません。 助っ人を呼び出そうと思っていますが、多分まだ眠っていることでしょうから、他の作業をして待つことにします。 

 何とか、5月19日の朝と5月20日の朝の分は拾い出しました。 以下は5月19日朝。

                

   バンクーバーの市内も、港湾の辺りも2010年の冬季オリンピックの工事中です。

       

  これで、後は5月19日分の「ノース・バンクーバーでカヌー体験」の写真を探し出さなければなりませんが、何処にも見当たりません。

 

  5月22日 追記
  
 出てまいりました、何とまだカメラのチップの中に残っていました。 パソコンへ取り込んだと思っていたのですが、取り込みが失敗していたのでしょう。
 なお、この日地球大学の仲間からパソコン操作に詳しい方を紹介してもらい、出航以来のホームページを5月16日までは、USBに収録バックアップを終えましたので、何時消えるかと怯えながらの操作から解放されました。
 が、そのUBSから画面を取り出す作業をしようと思ったのですが出来ません。
 全く、教えられたどおりのことは出来ますが、少し変化するとヤッパリダメです。

 5月19日「ノース・バンクーバーでのカヌー体験」を掲載します。
 
   
   

             この日は朝から時折雨が降っております。

       

    それでも、ケーツ公園に到着した頃には雨は上がり、陽も差し始めました

                 

土曜日のことですので、地元の方達がモーターボートやバーベキューを楽しんでいました。

            

 両手を開いての歓迎は、私達は何も持っていませんよという親愛のしぐさです。
 また、カヌーのオールに描かれた「オオカミ」は、部族を示すもので、常に相手にわかるように表に向けます。 またカヌーがすれ違う時にも、右の写真のようにオールを上げて、所属部族を相手に示します。


              

 いざ出発です。と言いましても乗り込むのが大変でした。 揺れるからです。
そして、漕ぎ手の組み合わせも大切です。 前、後ろ、中央に力や体力を判断して配置してゆきました。


      

 少し慣れてきましたので、ユトリができ・まわりの景色に目が向けられるようになりました。

      

 入り江を走るモーターボートや観光船の波に煽られながら、この部族の神話を聞きました。 なぜ、オオカミがシンボルになったかも詳しくお話していただきました。

                

 昼ごはんです。 サーモンの丸焼きの匂いは食欲をソソリましたが、パサパサで味はいまひとつでした。 

       

 私の食べている3メートルのところまで寄ってきて、素知らぬ顔のカモメですが、立ち上がると同時に、残り物に襲い掛かりました。

           

        部族の長老から受け継がれたお話を聞かせてもらいました。

              

 案内人の一人の彼女が現在習っている部族の踊りを披露してくれました。
  また、彼女は当日が23歳の誕生日ということで、みんなでハッピーバースデーの歌を唄いお祝いしました。 なんともすばらしい笑顔でした。


                   

      部族のシンボルでもある、大きな杉の木ともお別れしました。


 バンクーバー市内に帰ってきました。 船室のお酒が切れていましたので仕入れに行ってきました。 そのお店の前での演奏風景です。

       

 なお、免税店でもなかったことからでしょうか。日本のデイスカウント・ストアーの2〜3倍の価額です。 カナダ(バンンクーバー?)は、お酒の販売が厳しく、許可された販売場所やレストランでないと購入出来ません。 また、戸外での飲酒も禁じられています。

  しかし、メイン通りでは酔っ払いが目に付きました。 一晩お世話になると言っていました。 規則や取締りが厳しいのは、それだけのことをしないと秩序や環境が保たれないということでしょう。 ここでも先進国の貧富の差を見た感じがしました。

 また、タバコの規制も厳しく、室内は勿論のこと、来年からは建物から7メートル以上はなれて居なければ、戸外でも喫煙禁止になるそうです。 煙が室内に入るからです。

                
 
       

 夕方は再び雨となりました。 常にバックに携帯しているレイン・スーツが役に立ちました。


 
                              平成19年5月18と19日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 82日目 5月18日

 〜バンクーバー(カナダ)入港〜バンクーバー市内とグラウスマウンテン、キャピラノ渓谷〜


      
   
          

       

       バンクーバーの入り江深く入りました、島です。 遠くビルが見えます

           

       突然、船尾に湧き上がっている泡が目に留まってしまいました。
      
        カナダ、アメリカの領域に入りまして、急に規制が厳しくなりました。
 「居酒屋”波へい”」は店じまいです。 トパーズ号のメイン・ダイニングの前に設置されていました、給湯機と給水機も撤去されました。
 想像しますに、処理機能がシッカリしていない設備は使用が許されないのではないでしょうか。
 バンクーバー島の南・ファンデフーカ海峡から深く入り組んだ大きな入り江でもある海峡は、バンクーバー港まで続いているのです。 生活汚水による、あるいはクルーズ船の汚水が自然浄化できないのではないでしょうか。

           
            遠くにバンクーバーのビル群が見え始めました。

 カナダの基本情報

 
面積は世界第2位、日本の約27倍。 人口は2004年で約3200万人。
 首都はオタワで、元首はエリザベスU世女王、立憲君主制。
 民族はカナダ人約19%、純イギリス系17%、純フランス系9%、イギリス、フランス、カナダの混血約10%、それ以外の出身者との混血のイギリス、フランス、カナダ系約16%の他、その他系(移民)が26%、先住民族の北米インデイアン、メテイス、イヌイット約3%未満。
 宗教はキリスト教80%(カトリック46%、プロテスタント36%)、ユダヤ教、イスラム教、シーク教、仏教など、無宗教約12・5%

 カナダといえば、ロッキー、ナイアガラ、メープル街道、プリンス・エドワード島が人気。
 広大なカナダにはこのほかに四季折々の魅力がある。
 自然のアウトドアー派にはウイスラーでのスキーと夏のホエール・ウォッチング、イエローナイフのオーロラ観測、都会派にはバンクーバー、ビクトリア、トロント、モントリオールと言った街でのグルメ、ショッピング、エンターテイメントが楽しめる。

 バンクーバー市について

 バンクーバーは、カナダ南西部のブリテイシュ・コロンビア州最大の都市です。 2010年に冬季オリンピックの開催予定。
 バンクーバーの地名は18世紀後半、カナダ西海岸地域の測量を行ったイギリスの探検家、ジョージ・バンクーバーから。

  フレーザー川の河口地域に先住民が少なくとも3000年以上前から住んでいたといわれる。
 豊かな自然環境を考慮すると10000年以上前から人類が住んでいたとも思われる。
 
 ヨーロッパから探検家達が到達した頃には、マスキーム族、スクワミッシュ族が既に村を形成していた。 北バンクーバーにはツレイルワスス族が居住していた。
 これらはサリシュ海岸先住民族といわれ、フレーザー渓谷から北部ワシントン地域を居住区としていた。

 1791年にスペインのホセ・マリア・ナルバエス船長がジョージア海峡を探検した。
 1792年にはイギリス海軍のジョージ・バンクーバー提督がスペイン探検団と共にバンクーバー島西岸からジョージア海峡に入り、現在のシアトルあたりまで到着した。

 その後、毛皮の交易所がコロンビア川やフレーザー川に設立され、ブリテイッシュ・コロンビアの内陸部にもヨーロッパ人の入植が続いた。
 ハドソン湾会社などが進出。 
 1858年にはフレーザー川下流岸にも金鉱が発見され、ゴールドラッシュが始まった。
 1865年までには現在のバンクーバー市街の辺りにも製材業が開業された。

 カナダがイギリスより独立し「カナダ植民地」が設立された4年後、1871年にはブリテイッシュ・コロンビアが「カナダ植民地」(カナダ連邦)に加盟。
 その時、ブリテイッシュ・コロンビア州政府が、グランビルを調査、またギャスタウンに州都を設置した。

 1885年、カナダ植民地政府のマクドナルド首相の指示のもと、カナダ・パシフィック鉄道がグランビルに大陸横断鉄道の西海岸側の終着駅を建設。
 カナダ・パシフィック鉄道(CPR)は、おそらく、バンクーバー島にちなんで、終着駅の名前を「バンクーバー」とした。

 その後1886年4月6日、正式に「バンクーバー市」が施行。
 まもなくモントリオールから大陸横断鉄道定期便が開業された。
 1886年の大火事で町の大部分が焼失したが、鉄道での物資の補給等により、間もなく復興した。 1888年、スタンレーパークが開園。

 大陸横断鉄道がバンクーバー港と接続し、カナダが太平洋岸から世界各国へ繋がることとなった。
 1891年にはCPR初の貨物船”Empress of India"が東洋から到着した。
 1914年、パナマ運河が開業し、バンクーバーは北太平洋の重要な海港の一つとなる。

 20世紀に入っても、ギャスタウン周辺が市の中心として栄えた。
 1922年に、バンクーバーの車両交通は、イギリス方式に左側通行から右側に切り替わった。
 1937年、ライオン・ゲート・ブリッジが開通。
 1986年に新しい交通機関バンクーバー・スカイトレインが誕生。

 カナダの天然鉱物資源、工場製品、石油等を輸出する重要な港として港湾業や、水産農林業、観光その他によって、バンクーバーの都市圏は順調に成長を続け、現在人口200万人を越え、カナダ第3の都市として興隆を誇っている。
 自然環境と都市文化のバランスのいい発展を背景に、世界各国から移民が急増した。
 特に1997年の香港の中国返還に際しては、香港系中国人移民が急増。
 戦前から日本人の移民も多い。

 5月19日 記
 これから5月18日に撮影した写真を掲載します。 今回の船旅中、私としては一番気に入った映像がイッパイです。
 どれをカットしようかと思っているのですが、なかなか取捨選択できませんので、多くの写真を掲載することになると思います。
 
 これは世界各国のメデイアが行う「地球上で最も住みやすい街」の調査で常に上位にランクインし、昨年6月「世界で最も革新的な都市」に選ばれているからでしょうか。
 それとも、緑がふんだんにあって、しかも今は新緑だからでしょうか?

      

 
本日の始まりは、船室に居た時、丸窓を偶然見上げたところから始まりました。
 全くの偶然です。 この時点ではこの橋の名前すら分かりませんでした。
 後で、分かったことですがバラード入り江のファイスト海峡を渡り、バンクーバー市街とノース・ウエストバンクーバーを結ぶ重要な橋=ライオン・ゲート・ブリッジでした。

 この後、数度利用することになります、時間経過はバラバラですが、この橋を紹介します。 なお、橋の向こうにある山の形がライオンの耳に似ていることから名づけられました。

                     

      

          

          スタンレーパーク・プロペクト・ポイントよりの眺め


        本日の市内観光は9時15分スタートデです。 
     その前に、デッキでバンクーバー港をユックリ眺めました。

      

            

          

                   

   左の建物はバンクーバー博覧会の会場です。今はコンベンションセンター。

       

 ひっきりなしに水上飛行機が離着陸しています。 観光用ではなくビジネスで近くのバンクーバー島や他の島との自家用手段になっているようです。


     
                 
                       ↑3枚の写真は、寂れた中華街

 かっては、バンクーバーでNO1を誇る繁華街であったそうですが、この街の周辺に不法滞在者や麻薬患者がたむろするようになり、今は全く寂れてしまいました。
 大変危険な所でもあるということで、車窓観光です。
 とはいうものの、この近くに日本人学校があり、水先案内人の乗松さんは子供をその学校に通わせていると言っていました。「こんな境遇の人もいる」という体験も含めて・・・

             

 その中華街の近くに、ギャス(ガス)タウンがあります。
 左の写真はこの地に初めて店を構えた「ギャスソンさん」にちなんで名づけられました。
 ここも、一度は寂れてしまいましたが、60年代ヒッピーたちが手作りの手芸品を作り、販売すると人気が出て、今も繁盛しています。
 右の写真は「ガス時計」です。 日本の横浜とあと一つで、3個世界にあるそうです。

 バンクーバーに来たならば「スタンレーパーク」です。確か12万平方メートル?。

                

         対岸を望む。 中央三角屋根がコンベンション・センターです。

                

     

                      芝デージーが一面に

     

                

                   トーテムポール広場です。

                
   
      

        こんな素晴らしい公園ですが、昨年強風が吹き荒れました。

           

               このように鬱蒼と茂っていたのですが・・

      
  
 公園のあらゆるところで見受けられました。 道路に倒れた木は処理されましたが、森の中は、全くそのままでした。 予算不足、寄付を住民に募っているとのことでした。

 
  グラウス・マウンテン
にケーブルで

                

                  今年はまだ雪が残っています。

 バンクーバー市街はほとんど標高がゼロで、また太平洋暖流が流れ込み、雪はほとんど降らない。 標高1200メートルの”グラウスマウンテン”はスキーのメッカです。

      

        

 毎年「猪苗代湖」で開催される木彫り彫刻にこの地から代表者が送られています。

      

  山の頂上には親熊と分かれた熊が        麓には白オオカミが居ました。
 
    どちらもエサを与えられているために、飼いならされた家畜のようでした。


 次は「キャピラノ渓谷」です。

       

     1900年初頭の頃のスタイルで迎えてくれました。 記念撮影できます。


       

         長さ140メートル、渓谷の深さ約74メートルの吊り橋です。
        
         渡り終えた森林の中に、木から木へと渡る橋があります。

                  

      

             渓谷の深さを表現できません。74メートル

           

    このキャピラノ渓谷の駐車場で、私の目を次々と奪ったのは花々でした。

     
        @                 A                  B
      
        C                 D                 E
     NODはツツジ科ではないと思いますが、様々な色のツツジ達です。


     
                                   これはコデマリと分かりますが・・

                     

                 


     

 

     

 真ん中の西洋シャクナゲも数種あり、写し損ないました。(集合時間に5分遅れました)

       

          今回の船旅で3回目の登場となりました”藤の花”です。

        

 この日は市内の寿司屋でイッパイやってきました。 夕方からシトシトと雨です。
         午後・9時過ぎても明るいので、こんな写真が撮れました。



        長い、長い日記、お付き合いありがとうございまた。

 

 
                              平成19年5月17日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 81日目 5月17日

 〜本日の船内企画は乗船者によるコラボレーション〜


      

 目覚めたのが6時、デッキに上がった時には5時56分の日の出は終わっていました。
 北緯45度あたりを航海しています、日本でいえば北海道の知床半島と同緯度です。
 太平洋岸はカリフォルニアをとうに過ぎて、オレゴン州のポートランドの西の洋上です。

 この5日間の内で一番穏やかな日和となりました。 風も気持ちが良いです。
 今朝のラジオ体操の参加者は一番大人数の時の集まりと同じになりました。

 本日は衛星電話のデイスカウント日、日本へ掛けるも、何度目かでやっと通じたかと思いきや、留守番電話にもなっていず、「後ほどおかけください」とのご返事のみ。終わり。


 融合〜 Life fusion〜
 
 
この日、夜21時より「融合(フュージョン)」と題した船内出演者によるコラボレーションが開催された。
 カナダ・ファースト・ネイション(先住民)、Sto Lo民族の伝統のリズムを現代風にアレンジした音楽とラップ・ダンスで紹介してくれたミュージシャン”Rapsure Risin"と、ピースボート事務局の企画演出のようであった。
 これはトパーズ号で出会った人々と一緒に行う新しい形式のパフォーマンス。
 
 詩、音楽、RAP,楽器、ダンスが融合した新しい芸術。
 東と西、古きと新しき、静と動が出会うエンターテイメント。 文化、人、情報、心が行き交う時代を演出した。

               
                    ”Rapsure Risin"の2人

     
    こんな書き出しで始まった白版アートは   30分後にこのように描かれました 

              

        船内の先生と生徒の競演でした。時折微笑みながら・・・・

                                    自作のテーマ「融合」の詩が披露されました
 
 [fusionー世界は全て融合からなっている。

 美しい融合、醜い融合、融合は全てをつくり出す。
   虹は七色の融合  絵画は色と光りの融合 
      私の大好きな絵本は美しい言葉と絵の融合
           カクテルはお酒と他の液体の融合
            ポテトチップスはジャガイモと油の融合
             カレーライスはインドと日本の文化の融合
               文化は民族と民族の伝統の融合

               ほとんどの国は複数の民族の融合

  愛は男と女の融合
    もしかしたらボート・マジックも不思議な心の融合
     子供は男と女の愛の融合
      喧嘩は個人と個人の感情の融合
       紛争は地域と地域  戦争は国と国との無理解と憎しみの融合

        そして、水素爆弾もまた、原子核同士の融合から生まれた
  



    

 左の丸坊主の彼女はこのパフォーマンスの15分前舞台の上で、カリフォルニアでお店を開業するというプロの手によって、髪を切り落としました。 ピースと刷り込んできました。

             

          日・米そしてスペインの方による「瞑想音楽」でした

          

 

 


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