エッセイD 旅日記
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                             平成19年8月21日  記

   浪漫紀行 ゴールデントライアングル
 
 <デリー・アグラ・ジャイプールを巡る
     北インド・7日間の旅> 第2日目8月21日
                       (その1)

 〜朝のニューデリー・シティー・パークを散策〜


             

   宿泊ホテル「シティー・パーク」       そのカフェーショップ前のガーデン


         

           エスカレーター前にインドらしい祭壇(?)がありました


         

        ホテル部屋からの眺めです。遠目に見ていたが、散歩に出かけました

    まず、下層の生活をしていると見た方向に進みました。

    

 広くもない広場(と言っても2000坪はある)の隅にはこのように廃車が捨てられていました。 朝の掃除をしていましたが、雨でも降ると下水道の役割でもするのでしょうか、そこにゴミが掃き落されていました。 
 
 また、広場の隅にゴミが掃き積上げられています。 月に1~2度集めにくると言っていましたが、定期的ではないと推測しました。
 公共投資の不足を感じました。 後ほど紹介することになると思いますが、各国の大使館が集積するところや、そこまで行かなくても高所得者の集まっているところでは、雲泥の差の状況です。

 その広場には牛がノンビリと休んでいました。 廃車の十数メートル前の光景です。


    

 なぜこの草むらを撮影したのでしょうか。 ホテルの窓から見ていると、数人の方たちが時折この茂みに入ってゆくのを目にしました。
 大凡の見当はつけていましたが、やはりそうでした。 トイレです。右の写真は証拠。


         

  広場には野良犬が十数匹、いやそれ以上たむろしていました。 怖いので知らぬ顔して通り過ぎようとしますと、彼らも私が怖いのでしょう走り去って、遠くから吼えています。 近くのおじさんたちには吼えない。 野良犬も私を警戒していたのを理解しました。

 写真の壁を隔てて、野良犬や痩せた牛、廃車の広場と中間層の人々(?)が住むと思われるマンション群とが区切られています。

               

   中間層 マンションの中庭では牛が、こちらでは豊かな(?)草を食べている?

               

    パークの扉の隙間から出てきたので、ここから入れること分った。果物屋さん


        

                  カンナの花が鮮やかでした。

                

        香りはありません、公園内のあちらこちらに咲いていました白い小花

    

 万歳叔父さん達の会?。この後、大笑いする。   手拍子して歌っていました
         

   リーダー格のオバサン。写真を撮っても良いかと訊ねると、軽くうなずき、サリーを頭にかけた。

       

       公園内木立の中で悠然と構えて瞑想しておられた恰幅の良いおば様

 一周約3〜4キロメートルのレンガの破片と赤土で踏み固められた週回路を人々はジョッキングしたり、散策したり、体操したり、唄ったり、瞑想したりしておられました。

 ムッツリと難しい顔して通り過ごす方もいましたが、こちらが軽く微笑み返せば、軽く受けてくれましたし、中には「何処から来たのか? 」と訊ねる方もおられました。

 平日の火曜日と言うのに、リタイヤーした人ばかりでなく、若者も含めて皆さん私とは異なるスピードの時計で時を刻んでおられるように感じました。

 9時にホテルに戻ると、泊り客の朝食のピークを迎えておりました。
 
             
                             平成19年8月20日  記

   浪漫紀行 ゴールデントライアングル
 
 <デリー・アグラ・ジャイプールを巡る
     北インド・7日間の旅> 第一日目8月20日


 インド、ネパール・カトマンズ、は20年前から訪れたい国と思っていました。
 仕事をしていたころ、昭和40(1960)年代半ばの頃は、韓国、台湾、香港と毎年2回は商談等で訪れていたし、その後もインドネシア、タイ、マレーシア、シンガポール、少し時間を置いてベトナムなどにも、視察をかねて足を伸ばすこととなっていました。

 が、その間一度は訪れてみたかったフィリピンには今ももって縁がない。

 やっと、今回インドを訪れることが出来ることとなった。 予感で、今後何度か訪問することになるのではないかと感じていますので、今回の日程はデリー・アグラ・ジャイプールと広い面積と11億強という人口を抱え、今発展途上の国を体験するには、限られた時間と場所ですが、第1回目としては之でよいであろうと思っています。

 昨年は中部大学の特別講座で「インド学への誘い」と題した約8ヶ月に及んだ講座にも参加しているし、今回の旅の前から気にとまった新聞記事などをファイリングし、直前になってはインド旅行をされた方達の情報、写真をインターネットから引っ張り出してコピーし、事前情報はそれなりに仕込んできました。


 シンガポール航空はやはり世界の空で常に上位の評価を受けるだけのことはある。
 
久しぶりというよりは10年以上前に、シンガポール航空は利用して以来です。
 まずはアテンダント・スタッフ等の笑顔での出迎えが気持よい。 機材も最新のものが導入されていることが分る。
 
エコノミークラスとはいえ、幾分広めの席の広さであると思う(両サイドが3席であることには代わりはないが、中央の席の数が3席となっており、このクラス330人(?)のボーイング767(?)としては、椅子席数が少ないのではと感じる。

 座席周りのテレビ、ビデオ、オーデイオ、ゲーム等の電気機器が実にコンパクトに、しかも大量の番組等が提供されている。
 酒飲みには嬉しい、「お代わり自由のアルコール・サービス」が嫌な顔一つせずに提供されるのは、これまたグッドでした。 ビールから始まり、赤ワイン、ブラディーマリー、白ワインと進んだ。(旅が始まったばかり、少しセイブしなければと考えた)

 シンガポール・チャンギー空港もアジアのハブ空港を目指し、韓国・ソウル空港や日本の成田、関空そして中部のセントレア空港と争っていますが、中部国際空港「セントレア」と比較すると、その非ではない大きさを誇っています。
 そのスケールの大きさを写真で紹介しようとカメラを構えたが、出来上がりは以下のごとくで全然その姿、状況を伝えていない。

               

         第1ターミナルから第2ターミナルへのモノレールから。

           

  300メートルは続く、ウイングを表現できません。    待合室のシンピジューム

 6時間強のフライトで疲れを感じていたこともあり、諦めて帰路にチャンスを残しました。

 夜目のインド・ニュー・デリー空港とその周辺のこと。

 インド・ニュー・デイリーの前に、飛び立った中部国際空港はお盆明けで閑散としているかとと思っていましたが、昨日が帰国ラッシュで賑わい、本日はお盆明けで仕事始めで日本から赴任先に帰る人、お盆明けの低料金を狙った観光客で入国審査の場所などは、これ以上は入れませんという賑わいと言うよりは、混雑であった。 
 その後のシンガポール空港との対比で、これではアジアのパブ空港を競うには余りにも違いすぎると感じないわけにはいかなかった。

 日本とインドを結ぶ便は成田からのJAL(日航)が一番、観光客を運んでくるという。
 今回のセントレアからシンガポール便も、シンガポールまでは多くの日本人の顔を見ることが出来ましたが、2時間半後のトランジット後には、日本人の顔は探さなければ分らないほどになり、シンガポール〜ニューデリー間の機内アナウンスも日本語は消えました。

 これまた、シンガポール・チャンギー空港と比較するのは無理があるすぎますが、ニューデリー空港との比較はセントレア以上と言うよりは対象とならない。
 ハッキリと価値基準を変更してこの国・インドを眺めないと、その良さや楽しみが分らないということになるだろうと気持ちを切り替えることにしました。

 その一つ、イミグレーションの長く・時間のかかることは予測内である。
 (どこかの国の政治や財界のリーダーたちより、私の方が想像力がいささか上回っている(?)のか、”想定外”などという単語は使わないで済んでいます。 
 最初に口にし流行語としたホリエモンに取っては本当に起こった事柄や逮捕などは想定外であったのだろう。 キット欲が勝っていたのであろうが、その後に流行語となった言葉についての感想)

  リーダーたちは事故や事件や不祥事が起こる度ごとに、剥げ頭を何度も下げて”想定外”と口にするには、実に想像力がお粗末と言うしかない。
 (命とエネルギーに多大な影響力を持つ電力・エネルギーを経営・管理する電力会社の社長の発言等は・・・・、何が起こっても不思議でない時代のリーダーとしての想像力と自覚の薄さを示す))

 インドの空港前広場、バックを運ぶ手押し車に荷物を積んで人と車がひしめきあい・狭い、砂埃の舞い上がる。
 その道路を横切る時、300台ほどしか駐車できないパーキングから、集めてきた手押し車を空港構内へ戻す作業、全ての車と人を押し留めて数人の作業員が実施していた。
 
 その間、後ろに待される車は前の様子が分らないので、「ブーブー、ブーブー」とクラクシションを鳴らしっぱなしであるから、気温は30度を切っていて名古屋の夜よりは低いが湿気が高く、その騒音と埃っぽさに閉口しました。

 空港からニューデリーの市内までは約1時間です。
 夜目には良くわからなかったが、空港周辺はさすがBRIC,sと称される経済成長著しい一国であるインドです。
 道路が掘り返され、建物の槌音が真夜中というのに続けられていました。
 ガイドさんの話では毎日数時間の停電があるということで、夜の街燈も弱い明かりです。 暗いのでボヤーとしか分りませんが、緑の木々とその葉の上には砂埃がイッパイ積もっているのではないかと想像します。

 ホテルについて
 
 三ツ星クラスホテルでしょう。
 これがインド流のサービスなのかもしれませんが、冷蔵庫のビールを飲もうとしますと、グラスはありませんし、肝心な栓抜きがありません。
 ルームサービスを呼ぶことになります。 穿った見方かもしてませんが、グラスと栓抜きを持ってくれば、またチップがもれえると考えてのことでしょうか。それとも、その都度要求されたことに対応するのがインド方式なのでしょうか。
 初日のこと、まだ分りません。

 浴室の水はでますが、勢いが弱く、タブにいっぱいになるのには時間がかかりました。
 「あわてない、あわてない」、寝そべってユッタリと湯に浸かっていましたら、ウトウトとしてきました。 
 さて、期待をしているインドの旅とはどのような相性となるのでしょうか。




 COLUMU 1−D NO704
             
                             平成19年8月12〜13日  記

信州・南信濃・遠山郷 「遠山藤原学校}(1日目)から

〜大鹿村〜諏訪大社本宮〜霧が峰〜長門・道の駅

〜3日目は松本〜安房トンネル経由〜飛騨古川へ

4日目(8月13日)は清見・オークヴレッジから自宅


 今回の車旅は2日目から持参カメラの「タイマー・シャッター」が解除されず、シャッターを押した後、10秒後にシャッターが切れるという状況に気が殺がれてしまいました。
 その間、ジーとファインダーを覗いているのですが、10秒という時間は結構な時間でして、焦れてきた1〜2秒後にシャッターが下ります。 セミプロ以下ですが、それでも出来上がりを見てみますと普段より数段出来が悪いことは明白です。

 気が乗らないというのでしょうか、”早くシャッター下りてくれよ、何しているのだ”、あるいは”いらつくなあ〜、どうなっているのだこのカメラは”と思っている気持ちが画面にでているように感じます。
 普段なら、同じ場面を少し角度を変えて数枚撮り、その中から気に入ったモノを選んでいたのですから、苛立った気持ちの上に、一枚しか撮影していないのですから、結果は当然と言うことでしょう。 

 途中でカメラの分かる方に依頼してみましたが、回復せずに家まで持ち帰ることになりました。
 早速、解説書を取り出して、操作してみましたら、簡単に回復です。 
 20日からのインド旅行には、デジカメも持ってゆこうと改めて思いました。
 性能がよく、実に様々な機能も装備されていますが、正に”ネコに小判です”。 
 持っている機能の何百分の一ぐらいしか活用していないことでしょう。

 と、言い訳とも、愚痴とも言えることを先に書いてしまいました。
 写真が少ないので、紹介するすることもほとんどありません。

 では、8月12日は、前夜の「道の駅・マルメロながと」から、松本市に向かうのですが、通常の国道は選びません。 国道152号線を北上し、武石沖で県道62号線に入り、武石峠を越えてからは、更に「美ヶ原林道」に道をとり、美鈴湖から松本市に入りました。

 その間、県道62号線の巣栗地区を走っていた時に「巣栗渓谷観光」の看板を見つけて下車しました。 数億円は投下しただろう渓谷に沿って遊歩道が整備されていましたが、ほとんど利用されていない為でしょう、散策路は草ボウボウです。

    

  人間様の思惑は別として、渓谷の流れは清く、手を浸すと嬉しくなる冷たさでした

 これが公共投資の実体であると腹立たしくなリました。 が、駐車したところに戻りました時に、その上流に小さなダムを目にしました。 
 多分、このダム建設の時に、地元対策の為の「渓谷開発」であり、建設業者への還元投資であったろうと思わずにはいられませんでした。

 ただし、その額も減り続けて、今回の参議院選挙の結果だったのでしょう。 元のやり方に戻すことは不可能ですし、許されもしません。
 こんなことを思いながらの「浮遊旅、修行僧」だなと脳裏を掠めていましたら、浮遊=富裕と繋がり、心豊かな浮遊旅人であらねばと思いました。
 一億総中流富裕層は夢の夢だったのでしょう。 物的には貧しくとも、心豊かな浮遊僧にならなければと思いました。

 松本市内で「シェル石油」で満タンにしました。 前日、遠山郷ではハイオク・ガソリンは1L・171円でした。 春日井では148円です。 その中間の160円前後かなと思っていましたら、なんと151円ではありませんか。 配送料がかかるのに比較して安いのではないかと思いました。
 国道278号線を西に向かいます。 中央高速道路の松本ICを過ぎたところで、中央分離帯の反対側にチョット良さげなお店の看板が目に入りました。 
 行過ぎること約500メートル、引き返すことにしました。 正解でした。店の名前は「榑木野・分館、(TEL 0263−47−8552)」。 蕎麦とテナント入店・「水城」の薄皮で具たくさんの「おやき」がグッドでした。

 野麦街道をドンドン進み、初めて中部縦貫自動車道の安房峠のトンネルを通過しました。 かって、トンネルが出来る前、2度この道では大渋滞を経験していますので、トンネルの威力をまざまざと感じました。
 上高地・大正池、乗鞍岳への乗用車の乗り入れ制限・禁止は良いことだと思います。
 渋滞ということはありませんでしたが、この間上り、下りとも車の絶えることはなく、さすがに人気の観光地であると思いました。

 昼の食事が重かったので(大変美味しく、追加で食べすぎ)、本日の宿「道の駅・アルプ飛騨古川」の近くの、「宇津江四十八滝」を、初めて頂上まで上りました。
 10秒後にシャッターの落ちるカメラが捉えた滝の様子を紹介しましょう。

       

          

     「銚子滝」と名づけられた滝、流れ落ち口が銚子の様。その銚子口の真上。

       
          
 その後、滝の近くの”遊湯館”でお風呂に入り、その近くの八光苑”(TEL/0577−72−3065)で夕食としました。
 ここの三代目料理長は高校卒業と同時に18年間修行に行っておられたと、穏やかな物腰で語ってくれました。
 初代がこの地に隠れ宿的に店を構え、2代目が今日の基礎を築いてのではないかと感じました。
 と言いますのも、ここの建物は鉄道の枕木で建築されています。 所々に枕木が使用されているというのではなく、枕木を大小に切り刻んで組み上げるようにして立ち上がっています。
 大工さんと言うよりは、構造設計・計算がかなり出来る方により建築されたものと、素人ながらに感じました。

 隠れ宿が今では、この地の観光と相まって一見客も多くなっているようです。「創作料理」と銘打った料理も、地元のお酒も美味しく堪能の夕食となりました。


 8月13日は、前夜の宿・「道の駅・飛騨古川」から今回の旅の最後に予定していました”オークヴレッジ”に立ち寄り、「小箱=KOBAKO」を購入してきました。
 遠山藤原学校に書棚からはみ出していた書物を持参し、貰っていただいたことと、この小箱によって幾らかは書斎が広くなったような感じがしています。

              

                北側に6個のBOXを配置

                    

               本箱の横、入り口・旧来の棚の上に2個

 が、まだ旧来の配置のほうに馴染みがあり、まだシックリしていません。
 小箱ですので組み合わせが自由です。数週間後には落ち着くことでしょう。

 とい事で、8月10日から13日までの4日間、夏の浮遊・修行僧の車旅でした。
 


 COLUMU 1−D NO703
             
                             平成19年8月11日  記

 信州・南信濃・遠山郷 「遠山藤原学校}から

 大鹿村〜諏訪大社本宮〜霧が峰〜長門道の駅


 


 「遠山藤原学校」で図書館の整理の手伝いを本日はしようと思っていたが、お客さんが多く来ておりお邪魔になりそうなので、立ち寄るのは控えました。

 国道152号線を三遠南信自動車道をハズトンネルのところまで戻り、その先で国道152が途絶えてしまうので、蛇洞林道の迂回路に入り空気のひんやりした山道をクネクネと快走?し地蔵峠の北側で再び国道152号線の本線に戻る。

       

       遠山郷から長谷村に下る道に「信州遠山郷」の地図がありました

 4年目に訪問したことがある大鹿村・鹿塩にある、「山村体験館・たかやす」に立ち寄る。 お名前は忘れてしまったがここの女主人さん(伊東和美さん)は、村役場で働いていた(保母さ?)頃、山村の活性化を考えられた。
 いつの間にか、体が不自由なお母様の看病をしている間に、対人関係が薄れてよくことに寂しさを感じられていた時、お母様が「ここに呼んだらよいではないですか」の言葉に触発されて、敷地内にある全てを解放した形で「山村体験館」の運営を始められた。

 内容は場所の提供をするだけで、後は自分達で何もかもしてくださいという方式です。
 かって牛小屋であったところ、蔵、母屋に離れ屋敷とそれぞれ大きくはないがバラエティーがあります。
 畑の野菜を自由に収穫したり、囲炉裏を囲んでの語らい。
 
 そのほかにもトイレとお風呂(ここにはこの地方の子供言葉で”おびっちょ”と看板がかかっている)、また小さな離れの一室はマンガ本とお客さんが持ち込んだ立派なカラオケセットも配置されている。(この部屋の名前が、”すごいに”で、命名の由来はお客さんがここには何があるのかと訊ねるので”すごいモノ”いうところからかと名づけたというユーモアがあり、背は小柄で、余分な脂肪は全くなく、但し歯だけ悪い70歳には到底見れない爽やかでヒョウヒョウとした姉様であります。

 簡易屋根の青空食堂兼喫茶からは山々や段々畑が眺められ、数十メートル下には鹿塩川の清流が流れている。 ここでは子供達が水遊びが出来るようになっています。
 場所の提供をしているというだけなので、参加する大人や子供達が毎年様々な計画を持ち込んでくる。 と同時に自宅で不要になったものを持ち込むのでリサイクル・センターになってしまったと笑っておられた。

 残念ながら本日は持参のカメラの調子が悪く写真でお見せすることが出来ません。
 チョット立ち寄る積りがダンダンとは話題が弾み、1時間以上もお邪魔することになってしまいました。
 その間に、私が「浮遊旅」をしていますといったら、「木地師のようですね」という話になりました。 これからは「浮遊木地師・修行僧」変名しようかと思ったりしました。

 この「木地師」のことはたかやすさんも詳しくはご存じなく、勿論私も知りませんし、手元に資料もありませんので紹介することが出来ませんが、日本の南北朝時代に溯るようです。
 どちらの陣営の方かは存じ上げませんが、追われた(?)側の皇子とその取り巻きの方々のその後の生活のありようがこの「木地師」と関係あるようです。
 一箇所に長く留まるのではなく、数週間、時には数ヶ月間留まり、次の地に移って行くという生活スタイルのようです。

 次々と話は尽きなかったのですが、突然の訪問ですので失礼することにしました。
 が、以下のことを教え、紹介していただきました。
 ・中央構造線の断層が見える鹿塩川の場所。

               

             左右の色の異なるところが断層なのでしょう

 ・国道152号線、分杭峠の「ゼロ磁場」。
 ・分杭峠を越し、中沢峠を下り降りたところに、このような山奥で良くぞこの味と大満足しました「韓国料理店(焼肉も山肉も、激辛いラーメンなど各種あり)の"平家の里”店)

 長谷村から高遠町の高遠城址を右に見て、一路茅野市の「諏訪大社上社本宮」へ。
 初めてのお参りです。 新ためて日本の神社の神木の木立の中、静寂にして簡素、それでいて心洗われ、素直な気持ちで両手を合わせることが出来る雰囲気に嬉しくなるやら、感心するやら、有り難味が一層増すのを感じないわけには居られませんでした。

 一度は来たことがある「霧が峰」、いや隣村の和田村から武石村(両村とも昨年来の市町村合併で名前が変更になっているかもしれません)の「美ケ原」かも知れません。
 どちらにしても、そのときは濃い霧に包まれて、なにも見えなかったことだけが記憶にあります。
 
 本日は高原を走る「ビーナスライン」に入るまでは、山間で早い夕暮れのような暗さを感じましたが、高原に出るとパッと明るさが増し、快適な高原を空中ドライブで快走をしました。
         

                   霧が峰高原・展望台から

 陽が落ち、気温も下がり車内エアコンも切ったまま、本日の宿「道の駅・マルメロの駅ながと(長門)」に到着しました。

 注〜カメラの調子が悪く、シャッターをお好きにならず、残したい記録が撮る事が出来ませんでした。




 COLUMU 1−D NO702
             
                             平成19年8月10日  記

 信州・南信濃・遠山郷 「遠山藤原学校}へ

 〜閉校して16年目の旧木澤小学校を訪ねる〜


 信州・南信濃・遠山郷・木沢に、16年前に閉校となり、今は木沢活性化推進協議会の方々の活動の拠点ともなっている旧木澤小学校に、今年の8月2日「遠山藤原学校」が開校された。
 神奈川県小田原・藤原事務所から高橋さんと言う23歳の青年が事務長として、学校の隣に居を構えた。 

 その「遠山藤原学校」で予定されている図書館で、私の書籍を引き取っていただけるというので、車に書籍と14年前から開校されている藤原直哉さんの「藤原学校」の録音テープなどを積み込んで出発した。

 春日井から高速中央自動車道・飯田ICで降り、飯田と遠山を30分近く近づけた「三遠南信濃自動車失筈(やはず)トンネル」を通過して南アルプス麓の集落・遠山郷へと入った。

 浜松市から諏訪市へと北上する国道152号線は、遠山郷の南の青崩峠と北の地蔵峠では国道が途絶えおり、それぞれ大回りする迂回路を通過しなければなりません。
 主要国道が途中で途絶えているということは、他にも例があるのだろうか。
 私がこの地を訪れるようになってから既に20年近くなる、そのとき以来、この国道は今と同じ状態である。

 (この地には有力利益誘導国会議員が不のようである。長野冬期オリンピックのと時に、信濃の中央から北への投資が集中され、この地には回ってかなかった。 そのとき20億円もあったら出来たことだと話に聞いことがある。

 資金が回ってこなかったことが、ヒョットすると、この地の素晴らしさ守ったことになるのかもしれない。
 その後、長野は田中知事に変わり”ダム建設凍結”という、日本全国に情報を発信することになった。 
 時代の進展・変化は、目先の人間の思惑とは異なったところで動いている。)

 
 
 この地で生活されている方達の悲願と聞いている「三遠南信濃自動車道」の全線開通ですが、工事は20年前を思い出しても一向に進展しているようには思えません。。
 其れゆえに、唯一(?)開通した「失筈トンネル」は待望の開通であったろう。
 そのトンネルと利用して春日井から約3時間で、遠山郷にはいった。

 昼を過ぎていた。 ”手打ちそば”と看板が掲げられた「梨元ていしゃば」に車を止めた。   駐車場の一角で、”あまごか”か”アユ”の塩焼きを炭火で良い香りをあげていた。
 そこに立ち寄ろうと思ったがやめました。 山の中とは言え今年はこの時期が一番気温が高く、車内の冷房も十分に効かない時刻で、外にでた時は一瞬にして汗が吹き出る感じ、そこで店内に逃げ込みました。誘導
 
 ここでお店の話を書いたのは、食事中にご主人が声を掛けてこられ、お話している間に、「この店に隣接して宿泊施設を設置したいと思っている。 自己資金がない」と言って屈託なく笑って話されたから事によります。
 このご主人はこの地においてリーダー=有力者のお一人だと思ったからです。(名刺を頂いてきました。今後、この地を訪れた時の楽しみがもう一つ出来ました)

 余分なことを長々と書いてしまいました。まずは国道152号線に「木造の旧小学校校舎」の手作り看板に誘導されてわき道に入り、旧木澤小学校に到着しました。

       

    

    

          渡り廊下                     階段

           

    

    

                     

    

    

       懐かしいストーブ              旧図書室は誇りにまみれて

                

       平成3年に閉校したのですから、パソコンはありました。現役??

 夏が一番都会からのお客さんが多いのです。 当日も既に1週間前から早稲田大学の「映像クラブ?」の学生による、1時間モノの映画作成の撮影が行われていました。

 木沢地区活性化推進協議会の会長・松下さんや校長の・山崎さんの話を伺いましたが、その間も、お客さんの対応で出入りで席が暖まる暇がありません。
 昨年、この地区は飯田市と合併しました。飯田市の広報担当者が高橋さんへのインタビューもその間に行われました。

 その中で、記憶に残る一言は「この地の良さは、都会から閉ざされていることだ。」
 「これからの時代それが誇りとなりうる。国道152号線の開通も考え物だ。飯田線・平岡駅から昔あった林鉄のトロッコを復活させて、この遠山郷を訪れる」が、私の夢だと語っておられたことです。

 4時過ぎになると、撮影隊の夕食の準備をされる為でしょう、地元の奥さん達もタマネギなどを手にして三々五々集まってこられました。
 皆さん、明るく、元気でこの地で生活されていることに誇りを持っておられるように感じたのは、私の勘違いであっただろうか。
 
 今後、今までに増してこの地を訪問することになるだろう。
 どのようにして遠山郷に行くのかと質問されていました。 自動車で来ることしか頭になかったので、その他の公共交通機関のことは知りませんでしたが、調べてみました。

 東京は新宿駅から中央線で塩尻まで、その後飯田線に乗り換えて、飯田市まで、そこから信南交通株式会社(TEL お260−34−2031)のバスで木沢へ。所要時間1時間15分。
 飯田市駅から更に普通電車で約1時間南下すると平岡駅です。
 その平岡駅からも木沢に信南交通のバスがあります。こちらも1時間程度。
 どちらも一日に午前、午後に各1本です。
 新幹線・豊橋駅から飯田線に乗り換えて平岡駅と言うコースもあります。
 ”ワイドビュー飯田”と言う列車が走っていると記憶していますが・・・

      詳しくは調べてください。自信はありませン。




                           平成19年7月10日  記

 お知らせ   〜本当のことを申せば・・〜


 『旅日記』にアクセスしていただきまして、ありがとうございます。
 
 「世界一周船旅101日間の日記」の校正が終了いたしました。
 この間、知人・友人の一部の方から、こんなメールを頂きました。
 「船旅という、ユッタリした旅の為か、貴君の書き物の特徴である誤字脱字、変換間違い、固有名詞の表記間違い等が大変少ないことに驚きました」と。

 このことについて、なんにも返答をしておりませんでしたので、ここで「本当のこと」を申し上げます。
 その理由は、この旅で同船し、「地球大学のユニット2、”ボスニア紛争・和解への道のり”でも仲間であった、かって中学の国語教師の方に多大なご指導と添削を頂きました。
 各種の間違いの指摘のみでなく、文法解釈による修正もご指摘いただいたところは数百箇所にも及びます。

 余りの多さに、校正の基準をどのようにしましょうかとも質問を受けまして、私が勝手に作った5段階レベルの真ん中でご指導を受けました。
 先生の基準からすると納得しかねるところも多々あったことでしょうし、私の表現方法、いいまわしも可能な限り生かしていただいて、目を瞑っていただいたようです。

 というような訳で、今回の旅日記の表記間違いは、従来と比べ物にならない出来栄えとなったと思います。(ただし、内容は別です)
 その原稿量の多さと帰国後、掲載までの時間の短さのみが唯一の誇れるところです。

 改めて、ここにアクセスしていただいたことに感謝申し上げます。
 と共に、添削指導をしていただきました、T先生にお礼申し上げます。

 追伸
 なお、間違いを発見されましたら、ご連絡をいただけるとありがたいです。
 指摘を受けていながら、修正・見落としをしていることが多々あろうと思いますので・・

 


                           平成19年7月4日  記

 お断り


 『旅日記』にアクセスしていただきまして、ありがとうございます。
 7月4日現在、「世界一周101船旅日記」は、2月26日から、5月17日までしか校正は終了しておりません。
 よって、誤字脱字、変換間違い、固有名詞の間違い、テニオハ等の間違いは多々ありますことを、お知らせいたします。

 また、間違い等にお気づきの場合は、ご連絡いただけると有難いです。

                             

                           平成19年6月6日,7日、8日  記

 ”世界一周101日船旅日記” 101日目 6月6日

   〜そして、横浜から神戸に着きました〜 


 旅の最後にこんなこと(相部屋生活の難しさ)を書く気はなかったのですが・・・

  〜6月5日に記す、夕食を終えて(午後8時です)

 
「他人を気づかって生活することの大変さを感じていましたから・・」
 「一人でいることの退屈さと寂しさを知って居たつもりでしたが・・・」 
 少々無理しても、一人部屋を契約しました。 やはり、正解のようでした。

 横浜で三分の二の方たちが下船したといいましたが、新たな情報で現在は240名と言うことです。
 夕食の内容もご飯の上にハンバーグと卵焼きが乗っているという、寂しい夕食でもありましたが、定員約500人のトパーズ・ダイニングにパラパラと座っている乗客です。

 同席させていただいた方のお話より

 〜相部屋の同士で起こったこと。 以下に紹介するほかにも、この旅日記の前半にも書きましたように<3月28日、21日目に掲載>、共同生活が継続できずに、追加料金を支払って、部屋を移った方もありました)

 男性3人部屋。 長老は80歳、 もう一人は定年退職された中学教師。 そして、問題の方のことは分からず。

 私は知りませんでしたが、船内では結構、情報が知れ渡っていたようです。
 と言いますのは、その直接の3人の間に、仲介人として立ち会うことになった方からの話もあわせ聞いたからです。

 よってたつところの要因は、共同生活する上での気遣いということでしょう。
 それが、皺のよった、個性ある大人が一度ブツカリあうと、後には引けないということでしょう。
 具体的な内容は控えますが、一般的な日本人感覚としては理解できないのですが、常識を少々逸して卑屈になり、依怙地になった結果ではないでしょうか。
 
 3ヶ月、101日の旅のことと互いに意地をはり、意地になり、我慢した日々であったことでしょう。
 こんなことも、全て素晴らしいと報告するよりは、必要なことと考えて入力することにしました。
 
 こんなことは例外でなく、私たちの身近にも発生していることなのでしょうが、見ない振り、逃げる、無視することで過ごしていることがある私たちの日々の生活。
 が、限られた船の中ではそうはゆきません。 いやでも、どこかで出くわします。

  其処を解決できなかった現実の話でしたが、一方私たちの毎日も、本当は大切な、捨てては置けない事柄なのに、無関心、不勉強、人頼りで見過ごしていることが多いのではないでしょうか。

 出しゃばり爺、出しゃばり婆の存在は、口うるさく、煩わしいのですが、考えてみると大切な存在であり、同時にそんな一人に、あるいは時にはそんな立場に強いて立つこともお役目かなと自戒する現実のお話でした。

 この後のことです、歯を磨いた後なのに、腹が空いてしまい残り少なくなった「お菓子、チョコレート等」の入った引き出しを開けて”ハーベスト”を食べました。
 
 
もう一つ、価額の高かったカナダのウイスキー等でしたが、計算どおりにほぼ完全消化になりそうです。 300Mlの「ゴードン・ジン」は土産品になりそうです。


  101日目の朝

 
午前2時前後に大きな揺れを感じた、熊野灘の洋上を通過中かなと思った。
 本日の日の出は4時49分、多分志摩半島の近くを通過中に日の出となったのでは・・。

        

       

 今、午前6時半、少し前から船が揺れだした。熊野灘の洋上に差し掛かったのではないだろうか。 この洋上も少し荒れると聞いていたから・・
 しかし、もうこの位の揺れならなんともありません。 潮岬を回り込み、紀伊水道を北上すれば、大阪湾は神戸港となります。
 
 101日間で、腹薬(下痢)を3度飲んだことと、飲みすぎで胃薬を2度飲んだ以外は、健康には全く問題がなかった。
 地上で日常的に継続している運動や習慣をここにも持ち込み、船の中でもオープン・デッキウオーキング、ストレッチ、そして太陽礼拝を続けた効果であろう。

 皆さんが何らかで医務室のお世話になっているのを何度か見た。(私のキャビンの近くが医務室だったので) 改めて、健康の大切さと、何にもましての快適な旅の必要条件であると感じました。
 
 この間、普段の倍から三倍の濃さで「タヒボ茶」を飲んでいたこと(利尿効果もあり、夜中のトイレ頻度は大変であったが・・・、お酒を分解、解毒してくれた)。
 無臭ニンニク、イチョウの葉エキス、カルシュウム、そして血圧降下剤も普段の生活のまま、お世話になりました。

 この後、神戸港の入港を撮影することになると思いますが、ひとまずここまでお読みいただきましたことに、お礼申し上げます。 「ありがとうございました」


 6月6日、神戸港の入港状況

    


遠くに「明石大橋」が眺められました      パイロット船が近づき、乗り込みました

    

 時速20Kmのトパーズ号も確実に神戸港へ 空には「神戸空港」に着陸する飛行機

       

                 神戸港の内港に入りました

               

     
 
   

        


        

   接岸にはタグボートが船体を押します      岸ではロープで引き寄せます

                 

               「お帰りなさい」の横幕を持って出迎えです

                

               キャビンに戻り、丸窓から出迎えの方を写す

     

         完全に神戸港に接岸したトパーズ号の8Fデッキです

                                         
  6月8日、記
 
     ここまでお付き合いいただきありがとうございました。


 ここ「旅日記」にはほとんど掲載しなかった船内の講義内容等は、この「旅日記」に負けないくらいの量が入力してあります。
 
 またの機会を見て「コラム 1ーD] 、「コラム 2−N」
「エッセイ」等にて紹介させていただきます。


                             

                              平成19年6月5日 記

 ”世界一周101日船旅日記” 100日目 6月5日

   〜横浜港、午前7時半入港、14時出航〜


 6月4日、午前4時起床して

   

      


      

 
マストに日の丸と黄色い旗(これは水先案内人が乗船しているしるし?)、右上は月。

  4時25分「日の出」とありましたが、10分後に山の上に上り始めました。
   折りしも、大型船が通過しております。 時間経過と共に

   

         

    

              

                若者が踊りだしました

    

 

   

       

    
↑ さすが「経済大国」日本の玄関口の一つです。大型タンカーが目白押し

           

         
港横浜の建物が近くに見え始めました。午前6時前です。


 この後、朝食をし終えた後から、再度、横浜港の入港風景を掲載します。

               

                   キャビンの丸窓で気づいて
          
        

     
            飛び出して、逆光の中で・・。

 ここから10枚、帰り(出港)の時に撮影しましたブリッジの真下を掲載します。

   

               

   

   

     
この赤・白の標識を境に、港内と港外の区分のように感じました。
 
     ここからは、再び入港時のものです。

     

 
   


      

 
《みなと未来》 やはり綺麗な港だなと感じました。 カナダ・バンクーバーと競うと・・
              しかし、何処かシックリきません。

   

 
埠頭に近づきました。 気持ちが少し和みました。 建物の屋根に芝が張ってあります。

       参考のために、カナダ・バンクーバーの写真を掲載します。

            

     

         
改めて自然の素晴らしさ、力、偉大さを感じました。

      

                  
再び、横浜港

     

        
悪くはありません。それどころか素晴らしいです。 
      ただ、スエズ運河でも、ドブロブニクでも見かけましたので・・・見飽き?


 5月6日、午前8時半、横浜下船者のパスポート返却のアナウンスメントです。
 
手荷物の少ない方(預ける荷物のない方)は、9時半には下船を始めました。

 
本日、3度目のオープンデッキに出てみますと、また異なったところに目が留まります。

    

        

             
             
    
                   氷川丸です

 
   
  
  宅配便はドンドン積み出されてゆきます   一方、ペンキ塗りが行われています

    

 
この通路を渡って、一人またひとりと消えてゆきます。 目を真っ赤にしている人もいます。
   
そんな顔も見分けがつくほどの船・8Fデッキと別れの通路の距離です。


 トパーズ号は午後2時に横浜港を出港しました。 本日第4回目のデッキへ

 汽笛が一声すると静かに岸壁を離れてゆきます。 離れてゆくという感じは少しもしないのですが、投げられ・手にしたテープが波間にヒラヒラと流れ落ちてゆきます。
 さっきまでは、その声が交換できていたのに、もう届くことはありません。
 今度は大きく両手を上げてサヨナラです。 デッキの音響装置のポップリズムがさらにボリュームがあがりました。

            

    

       

    

               

       

  
            

                
              
                                                             
    

      寄り添うように併走していたタグボートが遠ざかってゆきました

          



    

 さっきまでガンガン唸っていた音響も静まり、一睡もしていなかったのでしょうスタッフが、座ったまま眠り込んでいる者、放心したように視線を落としている者。
      
      一筋の涙線もありました。 焦点のない真っ赤な目もありました。
                  101日が終わったのです。



  東京湾を行き来する船は経済大国の船団の様相でした。

  ここは東京湾、経済大国の中心地、工業大国の日本であることをいやがうえにも知らされました。 それは横浜港を出国して1時間が経過しても、右舷には大型クレーンの姿は途絶えません。
 左舷には木更津、あるいは富津の石油コンビナートでしょうか、何本もの高い塔が目に飛び込んできます。

    

                      海軍の船団が進んでいるように見えました

    

  船の向こうに見えるのは小さな島です         浚渫船でしょうか

  浦賀水道を時折大きく左右に船体を移動させながら浦賀沖を通過しました。
 ハッキリは分かりませんが、三浦半島を右に進路を取るまでの時間は、1時間半強かかりました。 
 その間、デッキにはかなりの風が吹き抜けていましたが、寒いということはありません。  風が目じりを切って、時折涙が滲み出てくるのを意識しました。

 あそこら辺が房総半島の先端だろうかと想像している間に、相模灘に進路をとったようです。 あと、10時間後に神戸です。
 そして、101日間の世界一周の船旅の終着となります。

 
いま、(6月5日、午後5時半)
 
第4回目のデッキで撮影してきました、写真が何と377枚ありました。
 パソコンが最高許容量を超えましたので、しばらくお待ちくださいと表示されました。
 兎に角、同じような場面を、同じような角度で撮影しています。 ギリギリまで昼寝をしていたためでしょうか、気に入る写真がありません。

 兎に角、ドンドン消しまして何とか100枚程度にはしましたが、もう2回ほど振るいにかけなければだめでしょう。 つかれて、外を眺めました。
 島影が見えます。伊豆諸島の大島ではないでしょうか。

 と同時に、寂しさがこみ上げてきました。 約三分の二の方たちを送り出したからでしょうか。 今夜の夕食はキット人数も少なく静かなものになることでしょう。


    本日5回目のデッキ撮影です

 
丸窓から島影が見えたので、地図を開いてみました。
 方向、出港からの時間からして「大島」と判断しました。 曇り空、風のあるデッキには人影は2〜3人です。 しかも、直ぐにキャビンへ戻ってゆきます。

               

                   この島影は大島でしょうか。

 
   

               右舷側は、伊豆の山々でしょうか

             


          突然トパーズ号が黒い煙を・・、大島の噴煙に見立てました

     
 
                伊豆の山々、見えず

 
   

     
    


 
 5月30日に、ハウス・キーパーのムハンマド君に少しばかりのチップを渡しました。 マジメな働き者と判断したからです。 どこかで書きましたが、父親の健康がすぐれず、兄弟のために彼が働いているのです。
 お金を渡したというよりは、やはりチップを渡したという思いです。

 その後の彼の仕事ぶりを見ていましたら、それまでと変わらぬ態度に好感が持て、「これが最後だよ」と言って、2度目のチップを渡しました。
         
      ニッコと笑って受け取りました。毎日毎日ありがとうございました。
 


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