エッセイD 旅日記
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 COLUMN 1−D 707より
                               
                                   平成19年8月28日 記より

  「ゴールデン・トライアングル、北インドの旅」

〜インドの旅、
    大ちゃんが感じ、見て、聞いて、学んだこと〜
              (妹へのメールより)


 帰国後、妹に別件でメールの入力していましたら、いつの間にか今回の「インドの旅」の感想や印象を綴る事になりました。

 まだ、写真の掲載が2日目までしか進んでおりませんが、”見て”の方は、後日「エッセイ D 旅日記」に掲載します。

 取りあえず、今回のインドの旅のまとめ的なものになりましたので、ここに掲載します。

 

「インドの旅〜大ちゃんの感じ・見て・聴いて・学んだこと」

       (帰国後、妹に知らせた内容より)   平成19(2007)年8月20〜26

 ・訪問したい国であったインド

  昨日早朝、インドから34時間、機内泊2日(途中シンガポールで18時間待ち合わせ)で帰国しました。
 昨日は一日中ウトウトとグッスリの繰り返しでした。

 旅日記はまだ書き終わっていませんが、長い間、訪問したい国と思っていましたが、ほぼその期待した通りの印象と感想をもって帰りました。

 訪問したいと思い出した頃から、20年近くの月日が経過しておりましたが、私の考え方、価値の変化・向上(?)、体験や精神的な成長(?)も含めて、この時・この場を自然と選んだ(それまでは行くことが出来なかった)と、何かの必然性もあるようにも思えるのです。

 多分、このタイミングでなかったら、異なる印象と感想をもってのインド訪問だったでしょう。 全ては必然であるということでしょう。

  ・思い違いもあったインド

 ・身贔屓と好みでインドを評価していたところも多々ありました。 
 それは私の知識・認識・あるいは評価・分析から一方的に歴史、宗教を想像し・思い込み、インド社会やインド人が持つているだろう倫理観や哲学からくるインド社会や人々の生活、価値観でした。

 例えば、中国と対比して偽物が少ない、食物に関しての安全問題は少ないだろう、その他のものに関しても危険度や毒物の使用はなされていないと言うこと等です。

 偽物の卵まであるというか作っているインドでした。 ホテルで食べた卵は問題ないとは思いますが・・・(黄身の色が薄かったと後になって感じたり・・?)

 ・一言で言えば、資本主義社会のMORE&MORE=物と金の追求には、世界の国、人々よりも節度がある、「足るを知る心や生活」が残っているという思い込みでした。  しかし、人間の欲望は何処でも誰でも同じと言うことの再認識です。

 結局は、「自制心」ということになります。 「満たされて知るのか、知って自制できるのか」 あるいは「満たされれば、満たされるほどに、手にすれば手にするだけ、更に欲は膨らむのか」、どこも大なり小なりです。

 ・確かに、貧しいインド社会は開放経済によって豊かさを求めての経済活動や人々の営みは活発化されてきましたが、それでも宗教観やカースト制と絡んで何処かに自制心が働いているように思いました。(思いたいのかもしれません)

 それは27歳の男性ガイド・アメンドさんによってそのように感じさせてもらえたところが多かったと思います。 

 勿論、彼も物・金の豊かさを目指していますが、言葉の端々に歴史、伝統、宗教観、倫理観を持っていると感じさせてくれました。

 彼の意見には歴史・伝統・宗教観・倫理観がべースにあり、それで現実社会を観察し、分析し、発言していると感じさせてくれました。感心するやら、教えられるやらでした。

 

 ・ロハスな生き方?・ 共生社会の実体

  ・次に脳裏を走ったことは「ロハスの生き方」です。 「健康で持続可能な社会の生き方」という言葉が流行(?)し始めて約3年(?)、一気にロハス・ロハスと言う事を口にする方が多くなりましたが、では日本の日常の生活でどれ程「ロハスな生活をしているのか」と言うと、私も含めて恥ずかしい状況と考えます。

 インドの実体は意識された「ロハスな生き方・生活」をしているとはお世辞にもいえませんが、表面的な貧しさを見たからでしょうか、私たちよりロハスな生活に近いところにあるのではと思ったりしました。

  ・また、私たちの周りで「共生社会」という言葉も氾濫していますが、では現実に共生社会とはどのような社会で、実体はどのようなものか、そのモデルを見つけることは出来るのかと言いますと、指し示すことが出来る人や実体を伴った事柄が何処にあるのでしょうか。また、会ったとしても少ないのではないでしょうか。

 ・「歴史、伝統、文化」と言うキー言葉が思い起こされます。 (歴史遺産、伝統芸能・技術・技能、文化遺産、宗教)

 長い歴史に裏打ちされた生き方〜ファースト・ネーション=先住住民の考え方、生き方、生活もそのひとつとして注目されています。

  ・また、都会とは遠く、文明的な恩恵には少ししか浴していませんが、そこの住民達が助け合い、共同し、自分達の生き方、価値観に自信を持って楽しく・信頼しあって暮らしている、一言で言うと田舎(これは世界の各国にモデルがあるようだ)に見出せるのではないかと、気づき始めた先進的(?、21世紀のあり方を問うている、探している、創造している)人々が行動を始めていることに気づかされている近頃です。

  ・人口11億の民の国を観光すれば・・

  ・現在日本で生活している方が、今回私が訪問した地を観光すれば、間違いなく「美しい、素晴らしい、豪華だ、珍しい、美味しい」との感嘆語を発することでしょうし、満足されることでしょう。

 ところが、それを求めてインドを訪問した観光旅行者は、もう半分、いや時間的・空間的にはその何十倍も見せ付けられるインドの一般的光景には、目を閉ざしていなければならないでしょう。

  ・そこに11億に民がいます。 大きく区分して30%と70%という比率、即ち3.3億人と7.7億人の階層が存在しております。

 それは現在日本で言われているような格差社会などとは、全くかけ離れた比較対象にならない実体を目にすることになります。

 30%の方たちは、私たちと同様な考え方や価値観に近いところで経済活動や日常生活を営まれているようです。

 為政者はこの間、大局にたってインド社会の将来像を描き、人心を掌握し、時間的な計算のもと、政治・経済・社会の運営をされてこられたことでしょう。

 それが、今日"BRIC,"(ブラジル、ロシア、インド、中国)と言われる、経済成長著しく、注目されている国の一つになっていることに現れています。

  同時に、自然災害、環境問題、エネルギー問題、国内での格差社会、保健衛生、など負の側面も大きく顕在化しております。

どのように、今後対処するかによって、全体として成長してきた「BRIC,s国家、社会」も一気に崩れ去るのではないかとも考えない訳でもありません。

 が、ことインドに関しては、これまた私の身贔屓、エコヒイキかもしれませんが、やはり歴史、宗教、に裏打ちされた倫理観あるリーダーたちの下、将来に禍根を残すことが少ない国づくりをしてゆくのではないかと期待と予測をしています。

 今、世界が経済恐慌などに襲われた時、(可能性はあると思っています)元気と言うか、悠然と暮らしてゆくことが出来る国の一つではないかと思うのです。

  再訪問してみたい国インド

  ・最後に、ガイドのアメンドさんから、来年3月に再度インドを訪問し、その時は彼の家にホームステイすることを勧められました。

 旅の間に彼と交わしたインドや世界のことに関しての会話に対し、彼が言うには「インドに関しての関心の示し方、質問・疑問、カメラの向けられる先がこれまで経験した観光客とは全く違う。 こんなガイドをしたのは初めてだ」と、言ってまんざらお世辞のみではないようでした。

  しかし、多分私には、空調もなく、窓もない、床に敷かれた粗末な布団の部屋では、2日以上彼の家に滞在=ホームステイすることは出来ないだろうと思います。

 が、彼が「本当にインドを知るためには、一般の家庭に入り、ジックリ話を聴くことだ」という意見には、同感です。

 「ロハスな生き方」、「全ての生物との共生」、「循環型社会」、「持続可能な社会」について、考え、行動するとは何か、具体的にはどのような事か、物かのヒントや実体を体験できるのではないかと考え、気持ちは半分再度インド訪問に傾いています。

 



 
             
                             平成19年8月24〜26日  記

   浪漫紀行 ゴールデントライアングル
 <デリー・アグラ・ジャイプールを巡る
     北インド・7日間の旅> 第6日目8月25日
                      

 〜デリーからシンガポール、シンガポール観光〜


 シンガポール・チャンギー空港に予定どおり午前7時15分に到着。
 お迎えのバスに乗り込む、ホテルチェックインの為に、ぱスポートを取り出そうとすると、そのパスポートがないのである。

 いささか慌てる。 多分空港の出口のところで手荷物と一緒に持っていたから、迎えのガイドさんに手を上げて知らせた時に落としたのだろう。

 ガイドさんが空港の案内所と連絡して、落し物として届けられているのが判明する間、多分30分前後と思うが、当日は土曜日、翌日は日曜日であるから、日本大使館はパスポート紛失ぐらいでは開けてくれないだろうから最低2日間はシンガポールでの滞在を覚悟した時に、空港案内所に預けられていること分った。

 
一端、ホテル・チェックインして、空港近くの「チャンギ。第二次世界大戦・記念館」に向かう。 その前に空港でパスポートを手にした。
 
あるべきもの、海外の旅に出たら一番大切なものが戻って安心する。


 「チャンギ・第2次世界大戦・記念博物館」

 
館内・外では一枚の写真も撮りませんでした。 内容は日本軍がシンガポールへ進軍してきた時、その後、そして敗戦にいたる経緯を写真を中心に解説してありました。
 
                


 
ホテルの戻りひとねむり、夕方5時からのないと・ツアーに出かける。

 セントレーナ島へ、 ライオンロックで「海の歌ショウ」の見学。

        

  

          シンガポール島内からセントーサ島にゴンドラで移動。
   眼下に来年(?)オープンするという、「カジノ」や「F1レース」の建設現場を眺める。
 観光と金融、世界の集会を集めるという国策は確実に、次々と大型投資を促している。

                

  マーライオンはもう一箇所、海岸沿いにあるが、これは島の小高いと頃から見下ろしている。
 「海と歌のショーは、そのマーラインの誕生の物語を、水と光りによる映像と、歌と踊りで構成されていました。

    

         水を霧状にして幕をつくり、そこに映像を投射して作ります

                

          ショーが始まる前の夕闇迫る、舞台装置です。ここから水しぶきが・・

        



  シンガポール現地時間8月26日、午前1時05分にチャンギー空港を飛び立ち、名古屋時間26日8時35分にセントレアに着陸。
 
「浪漫紀行」と名づけるには、かなり大変忙しい「北インド 7日間の旅」を終えました。



 
             
                             平成19年8月24日  記

   浪漫紀行 ゴールデントライアングル
 <デリー・アグラ・ジャイプールを巡る
     北インド・7日間の旅> 第5日目8月24日
                      

   〜ジャイプール市内観光からデリへ〜


 ジャイプール
 
 
砂漠が広がるバルラジャスタン州の州都がジャイプール。
 1728年、この地域のマハラジャ・カチワーハ家のサワイ・ジャイ・シン2世が興した城塞都市。 比較的新しいこともあって、街は碁盤の目のように計画性を持って整備されているようだと聞いていたが、街の中の騒々しさはかなりなもの、後ほど出てくる「風の宮殿」の前などは、街中でも一番混雑しているところのようで、とても駐車していることは出来ず、1枚写真を撮っただけで出発である。

               

      現在修復中、「風の宮殿」とは、確か夏場、風が吹く抜けて涼しい?

 しかも。街中の建物がピンク色が好きだった王様の好みで、ピンクに統一されており、それが更に暑苦しく、騒々しく感じさせる。↓

               

           ご覧のようにピンクというよりは、赤土色である。

 
 アルベール城

 
ジャイプールの北の丘にある城がアルベール城で、16世紀頃に築城された。 
 後ほど紹介するシテイーパレスをシン2世が築くまではここが首都だったという。
 城の下にある湖上に平たい建物があった、(車中で撮影できず)底は象を戦わせた競技場という。
 王は城の上から見下ろしていたのであろう。 城に上がる道は狭くその上集斜面である、乗用車のすれ違いもままならない。
 ジープが走っていた。 象が4人一組で運んでくれるが、順番待ちで朝早くから並ぶという。(象は日が登ると休憩時間に入ると居ていたが、12時近くまで働いていた象のいた)

              

         車を降りて30メートル登ると、左手の門から入場する

              

          ここにはかって建物があった(現在再建中という)

              

         

             下からここまで象に揺られて上ってくる

    

     ↑一般の謁見の広間            広間の左(手前)が裁判所と言う
                             インドの城(王宮にはなぜか裁判所あり)

               

      城の中に入る。ここで再び入場料を払っていた?外人価額で?

           

     ↑柱に              ↑天井            ↑外の柱

      ガラにもなく(ダジャレではありませン)、文様に目が留まりました

                  

 開けられた窓や透かし彫りの間から、下の広場で繰広げられる踊りや芝居をベールを冠った姫やその女官たちが眺めていたところです。

         

    ガイドはジャイプールの「万里の長城」と呼んでいました。山並みに連なる城壁


               

                    城下を見下ろしました


        

 ここは通常の城から一段と高いところにあります。 敵兵が来た時には秘密の通路を通ってこの塔のところに来て、指示を出したのでしょう。

 天文台

   

 
ガイドのアメンドさんは数学・天文学は得意なのでしょう、シッカリ説明してくれますが、こちらはチンプンカンプンで、やっと2枚シャッターを押したのみ。

 シテイーパレス

 
歴代のマハラジャが暮らすこの「シテー・パレス」は、1726年にジャイ・シン2世によって造られた。  その後、王宮内の建物は、増築に次ぐ増築で現在の形になった。

 中庭にある来賓の宿泊施設だったムバラク・マハルは、今はマハラジャが各地から集めた衣装や布地、楽器や生活雑貨を展示した王立博物館。

 贅沢な布をふんだんに使った衣装類はマハラジャの優雅で華美な生活を思い起こさせる。 マド・シン1世の巨大な衣装は美味しいものを食べて、もうこれ以上は太れませんということを思わせる巨大な衣装である。(私なら十分に3人分の量である)

 同じ中庭には武器などの展示もなされているが、全て撮影禁止で紹介できない。

    

     
旗が閃いている時は、王様がしないに在所していることをあらわす

     

    
  ↑唯一の隠し撮り、かって王宮前での謁見か?    人気案内人


     
この後、260Kmジャイプールからデリー空港まで4時間半です。

         

 インド・デリーの国際空港は、省エネルギー・省資源・ロハス精神が行き渡った地球環境に配慮した空港でした。
 23時10分、予定通り「SQ 407便 シンガポール機は飛び立ちました。






 
             
                             平成19年8月23日  記

   浪漫紀行 ゴールデントライアングル
 <デリー・アグラ・ジャイプールを巡る
     北インド・7日間の旅> 第4日目8月23日
                      

   〜アグラ市内観光ジャイプールへ〜


 ジュイビーパレスホテル(JAYPEE・PALACE)の庭の散策

 夜にホテルに着いているので環境やまわりの様子が分らなかった。
 朝、窓を明けると素晴らしい広大な庭園が目の前に展開されていました。

    

          

         

                    

              花でしょうか、実でしょうか、落ちてきました

               

              園内を「シマリス」(?)が走り回っています

    

 翌日のジャイプールのホテル「MERIDIEN」も5星の素晴らしいホテルでした。
 ホテルとの境界線を示す壁や厳しく監視管理されている入城門の向こう側とは別世界です。 安心と快適さの外に何かが引っかかっていました。

 世界遺産「タージマハール」

     この後、青いインクで書いてあるのは、解説書よりの抜粋です。

 近年、大気汚染によるタージ・マハルの損傷が問題化している。 排ガスによる直接的な汚れの他に、酸性雨によって大理石が溶解する現象が報告されている。
 よって、、半径500メートル以内には自動車は入れない。代わりに電気シャトルバスが走っている。

   
 
    この道をシャトルバスで走る      この門より入城、左手入場券売り場

         

             

 
観光客はこの西門から、塔の上に上下22個のお椀(22年費やした事を示すと言う)

 
タージ・マハルは、インド北部アグラーにある総大理石造の墓廟建築。
 1632年着工、1653年竣工。 1983年にユネスコの世界遺産に登録された。
 
 ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャーハムが、愛妃ムムターズ・マハルの死(1630年)を悼んで建設したもので、ペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人があつめられ、22年の歳月をかけて建設されたといわれているインド=イスラーム文化の代表的な建築。

         

本来なら真正面からの撮影でしょうが、へそ曲がり、右横から、しかも延ばした映像です。

 名前の由来は、王妃の名ムムターズ・マハルを縮めたと言うのが有力。
 ムムターズ・マハルはペルシャ語で「宮殿の光」、「宮廷の選ばれし者」を意味する言葉。
 第4代皇帝ジャハーンギールから授けられた称号である。
 彼女の本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーガムという。
 タージ・マハルを言葉に訳せば「王冠宮殿」もしくは「宮殿の王冠」と言う意味になる。

 タージ・マハルを作るための建材は、インド中から1000頭以上の象で運ばれ、大理石はラジャスターン地方産であるといわれている。
 そのほか、碧玉はパンジャーブ地方から、翡翠は遠く中国から、トルコ石はチベットから、ラピス・ラズリはアフガニスタンから、サファイアはスリランカ、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから持ち込まれたという。

 およそ580M×300Mの敷地全体は堀に囲まれており、主に5つの要素から構成されている。
 赤砂岩で縁取られてた南門(ダルワーザ)、正方形で幾何学的に分轄されたムガル式四分庭園(バギーチャ)

           

         

   牛を引いての芝刈りです。 この撮影の為にUS1ドルです。(払いすぎた)

、西側のモスク(マスジド)、東側の迎賓施設(ミーマン・カーナ)、そして高さ42メートルの4本の尖塔(ミナレット)を従える墓廟(マウソレウム)である。

             

 東側の迎賓館と思いますが、自信がありません。続いてこの迎賓館内を紹介します。

      


                       天上です         修復工事(これで1ドル)


               

                  迎賓館よりマウレウムを望む

 マウレウムは幅、奥行き共に約60m、中央のドームの高さも約60m,東西南北どちらから見ても同じデザインである。
 ミナレットと共に、100m角、高さも7m基壇の上に載せられている。
 ペルシャ建築の影響が顕著であるが、インド的要素も散見される。
 ヨーロッパからも多くの宝石職人が呼ばれているため、一部のバロック建築の影響も指摘される。

 シャー・ジャハーンは、ヤムナー川の対岸に黒大理石を基調とした自らの墓廟の建設に着手した。

        

               対岸の建設地であったところ

 が、晩年の彼は息子アウレンぐゼーブ帝によってアグラー城に幽閉され、タージ・マハルを毎日眺めては涙を流して過ごしたと伝えられている。

 対岸には現在も整地された基底部が残っており、タージ・マハルの裏から渡し舟で行くことが出来る。
 計画では、川を挟んで白大理石と黒大理石の墓廟が並び、その間を大理石の橋で繋ぐことになっていた。

   

      こちら側です。 右の写真の遠くに白く見えるのがアグラ城です。

        


       タージ・マハルの裏側です。 右隅に小さく見えるのがアグラ城

 その頃には隆盛を極めたムガル帝国の国庫も、度重なる建築事業により底をついたという。
 死後はムムターズ・マハルの隣に葬ることを、アウラングゼーブ帝にみとめられたため、現在タージ・マハルには、シャー・ジャハーン帝とムムターズ・マハルの棺はならべて安置されている。

 また地下水の過度なくみ上げによって地番が沈下し、四本の塔が外側に傾きつつある。
 
   
私の写真は引き伸ばしてあるので、内側に傾いているように見えます。


 アグラ城塞

 
アグラ城塞は、インド・アグラにある赤砂岩の城。
 16世紀、ムガル帝国の第3代皇帝アクバルによって築かれた。 その後、4代皇帝jジャハールギール、5代皇帝シャー・ジャハーンの3代の居城となった。
 シャー・ジャハーンが幽閉されたいた囚われの塔(ムサンマン・ブルジュ)も、城壁の中にある。
  
                 

             観光客は「アマル・シン門」から入場します。

               

            
真っ直ぐな坂道を上がってゆくと、内門です。

        

   門のところの3つも星マークの意味を聞いたのですが、失念してしまいました

        


        

                  
 幽閉されたという透かし窓  

                    

 
大理石店へ
 
 
店先で突然のスコール。 大理石ならず石(?)の首飾りをデスカウント交渉


 世界遺産・ファティープル・シークリの都城

 
この世界遺産の資料を日本語のインターネットで検索すると、出ては来るのですがほとんど解説がありまん。
 いろいろと探した挙句に気づいたのは、英語版でした。 ”ありました”この間約1時間でしょうか。嬉しくなってしまいました。 しかも日本語訳もついていました。

 ユネスコ世界遺産センターからの紹介です。

        

       


 
アキバ皇帝によって16世紀の後半の間につくられたFatehpur Sjkri(Victoryのシテイ)は、わずか約10年間のMughal帝国の首都でしかなかった。
 記念碑と寺院(均一な構造上のスタイルのすべて)の総合ビルは、インドで最も大きなムスクの一つです。

 ファテイープル・シークリはアグラを首都としてその帝国の任務を共有した。
 そこでは、平気、宝秘蔵と他の蓄えの大きさは用心のために、そのRed Fortに保たれました。
 危機の間、法廷、ハーレムと財務省はアグラからわずか26マイル先、一日未満の行進へ移すことができた。


 
この建物は、構造上の技巧(例えばグジャラートとベンガル語)の色々な地域の学校の統合を示します。
 このことは、色々な地方からの原住民の職人が建設の為に使われたことを示します。
 ヒンズーでジャイナ京都の建築からの影響は、イスラム要素と協力したことを見ることが出来ます。
 重荷使われた建築資材は赤い砂岩です。 それは同じ岩が多い露出部から探索されている。


 何時の旅のときも同じですが、出発して4~5日目に第1回の疲れが出てきます(2回目は13日前後です)。
 丁度この日も5日目で、アグラから約1時間のジャイプールに向かう途中なのですが、集中力が切れてきた頃なのでしょう、もっとシャッターを押してもよいアングルがいっぱい会ったのに、上記の2枚しかありません。

 更に、この後約3時間後、ジャイプールに入りますが、陽も沈み暗くなってきました。
 そのままホテルに入ればよいものを、ホテルとは反対方向の、以下に紹介しますレジャーランド(?)にゆきました。



 ジャイプールのレジャーランド(?)の訪問

 
ジャイプールの郊外の町?村(?)の、主要道路の一角で夜になると開催されるという伝統的な踊りや象・ラクダ乗りマジック、伝統的物づくり、そして食事も出来るという場所です。 日本のレジャーランドとはかけ離れています。
 
 総面積はそれでも1万坪はあるでしょう。 地面は土そのままです。 ただし好都合と言うのでしょうか、少し前に雨が降ったようで、しっとりとしています。
 古着を裂いて作った敷物は少しばかり湿気があります
 ということは、天井がない、灯りも薄明かりの広場ということになります。

 到着前に、USドルで75ドル(約1万円)を渡しておりましたので、それなりの会場で、食事も出来ると思っていましたから、様子が大分違います。 それに疲れを感じてきておりましたので、ガイドのアメンドさんにいっぱい食わされたかなと疑いの気持ちが湧いてきました。
 少しばかりならチップの代わりと思っていましたが、時間の経過と共に怒りもこみ上げてきました。 そんなことを思っていると、こんなところで食事したら腹を壊すのではないかとも考え、食べることはやめました。

 やっと、疑いと怒りの気持ちを持ちながら撮影したのが以下のものです。

          

         フイゴによる道具作り              木の柱にランプ

         

                       ラクダに乗って


               

                

 急に口数が少なくなった私にガイドのアメンドさんが気遣うので、更にその言葉と気遣いに疑いを持った。
 5つ星のホテルで時間ギリギリ(午後10時半まで)の夕食とカクテルで少し気分転換。

 と言っても、翌朝には再び、疑念と怒りが交差するので、ホテルのレセプションで、昨夜の場所の確認と料金を訊ねる。 マネジャーが2000ルピー(日本円で6000円)と答えててくれたが納得できずに、朝食時にレストランのマネジャーに訊ねるが詳しいことは分らずで、シテイーガイドに訊ねてくれ、パンフレットを持ってきてくれたが、料金のことは分らずじまい。

 ガイドのアメンドさんはレセプションのマネジャーに聴いて、私が質問してきたことが分ったようだった。 その場は、別の話をしてつくろった。

 旅の最後に「時間が少ない時には、客を案内するべきでない」と言おうと思っていたが、いつの間にか、関連する話になった。
 結果、分ったことは入場料は外国人価額で入場料は25ドル、食事代、車代、などを計算すると75ドルになると説明してくれた。
 
 それでも、ガイドサービス料は高いなと思ったが、前夜よりは納得するところとなった。
 また、何方かが行かれる時のために、オープン時間午後の6時と同時に入らないと、時間がなく十分楽しめないことを書き添えておきます。




 
             
                             平成19年8月22日  記

   浪漫紀行 ゴールデントライアングル
 <デリー・アグラ・ジャイプールを巡る
     北インド・7日間の旅> 第3日目8月22日
                      

      〜デリーからアグラへ〜


 昨日の間に「デリー市内の観光」を終えていたので、今朝のスタートは11時半とユックリである。 
 教えられていた通りに、「インドに到着した時から”頭のスイッチ”を切り替えしなさい」と言われていたが、上手に切り替えがなされたようだ。
 ホテルの掃除係が掃除をしても良いかと言ってきたので「OK」と言ったが、パソコン操作をしていたので、「昼から来ると言って、一旦出て行った」。

 レストランでビールの注文から届くまでの時間は確かに長目だが、イライラはしなかったし、ほとんど全てのことに対し、イラツキ感はないし、逆にそのリズムに乗っているようだ。

 ホテルを出発して40分、早くも昼食である。 十数分後、日本の団体さんがドカドカと入場し、狭いホールは満席になった。
 多分、日本人向けの味付けになっているのだろう、私には辛さは弱いと感じるほどである。
 海外の旅の時は特に「腹8分を心がけている」、理由は腹いっぱいに食べてしまうと、次の食事との間の時間が短縮された場合、美味しくいただけないことと、体調維持と健康の為です。 
 と言いますのは、腹を十分に満たしてしまうと、多分身体の方もいつでも食糧(エネルギー源)が補給されると満足し、安心しきってしまう。 
 腹8分にしておけば、次は何時満たされるのかわからないので、今入ってきた食物を可能な限り100%に近く栄養とエネルギーに変えようと体内で活動するのではないかと考えているからです。

 
 この写真はレストランの前で、甘いお菓子を作っています。

              

 1週間ほど前のNHKの放送で、医者が食事の後にデザートを食べることは、????と結合し、栄養素に切り替えることができ、「食後のデザートには意味がある」と、語っていたことと符合しなるほどと思った。

 
 昨日はドライバーの急病で行けなくなった、ガイドのアメンドさんの自宅を訪問することになった。 デリーの南の方角と言うことは分るのだが、果たしてどの辺りであるということはわからない。
 本日で3日目であるが、同じ建物や看板を見かけるので、どうも混雑する生活道路を何度か行き来していると思われるのであるが、方角と場所を確認することが出来ない。

 といのも、持参した地図はインド全体とデリー、アグラ、ジャイプールが一度に眺められるサイズのものなので、デリーの市内の詳細図は持ち合わせていない。
 ガイドのアメンドさんも何一つ説明パンフレットなどを渡してはくれない(紙は貴重品と推測、あるいは経費の削減であろう。 インド観光の 現在のレベルが推測される)
 と言うばかりではなく、彼の言うには「インドの家庭には地図などないという(家庭によってはそんなこともないとは思うが・・・)
 
 「インド人は計算、数字は好きだが、文科系の勉強には余り関心を示さないと言う。 歴史や地理も高校で週に2時間ほどだ」と言っていた。
 彼も数学や英語の授業の方に身が入った部類のようだった。

 奥さんが迎えてくれました。

              

 この家は彼の父親が22年前に購入したものです。 当時は20万ルピー(日本円換算60万円)であったが、今は60万ルピーになっていると言う。
 20年前までは家族5人で生活していたが、現在父母はアグラにもう一軒住宅を購入して生活していると言う。 日本語の通訳をしている現役の父親は年齢50歳で、母親にいたっては13歳の時の結婚だと言うから、彼が長男で27歳と言うと、41歳と言うことになる。

 インドの平均死亡年齢(平均的な寿命という意味に理解した)は65歳と言う。
 「では、私は65歳であるから、もうインドの最高年齢を超えている」と言うと、インドと日本とは大いに違う。
 
 「まずは食べるものが違うと言う。インドは偽物ばかりだ。 例えば”卵”これも偽物で、注射などをして作ると言う」。その話を聴いてから、路上で販売している卵を指差して、「あれも偽卵か」と訊ねると、「そうだ」という、遠目に見れば白色の卵と何等変わらないが、私が「あの殻はプラスチックで出来ているのか」と訊ねると、「そうだ」と言う。
 一度、屋台で売っている卵を近くで撮影してみたいと思っている。

 心配になって「ホテルの朝食の卵は大丈夫か」と訊ねると、「心配ない」と言っていたが、心なしか黄身の色が薄く、白が目立つ朝食で2度口にしているがどうであろうか。
 牛乳も薄めるだけでなく、山羊の乳などイロイロなものを混ぜると言っていた。 山羊の乳などは、逆に良い栄養素と効いているし、様々なものを混ぜるれば、高い栄養価となるのかなと思うのだが、混ぜ物が問題である。

 昨日も書いたが、インド贔屓で倫理観念から、このところ大きく報道される中国の偽物、禁止薬物入りの食物より安心できると思っていたが、このことは考え方を改めなければならないと思った。 
 現地を踏み、そこで暮らしている人たちの生の声を聞き、現場を見、体験しなければ、本当のところは分からないものだと改めて教えられた。

 ついつい、インドの死亡年齢のところから、横道に逸れてしまったが、彼の住宅のことに戻ります。
 活字で紹介するよりは、写真のほうが分りやすいと思いますので、写真で紹介します。

 構造はレンガを積上げます、その上にセメントを塗り、その上に漆喰を塗るのですが、アメンドさんの家は造りが悪く、湿気が伝わってきて漆喰を塗っても剥げてしまうから塗らないと言っていました。

    

 漆喰がはげている、左に日本ポスター     寝室のベッド、この部屋に小さな冷蔵庫
 
 彼の家は家族全員(5人家族)が生活していた時の3階建ですが、間口は4メートルほどで狭いのですが、奥行きは12メートルの間に3間あり(一番前は応接間兼リビング、次の間の横に(階段下に1畳半の台所と客間(?)、一番奥が寝室と神棚(なんと言うか分らない)、この部屋に冷蔵庫は置いてあった。

        

      インドの神(象さん)                  ヒンズーの神棚

 タンスのようなものや机、その他のは小物以外はないといったほうが適切な小さい棚があったのみの実にシンプルな部屋。 若い夫婦の生活の為には、1階のみで十分で、2階は埃まみれになっていたし、3階に至っては一度も足を踏み入れたことがないような状態であった。

 家族が増えるたびに積み増してゆくと言う建築方式であるから、彼の家の両隣は4階と5階になので、両隣の間に挟まれたような状態にみえました。

              

                

   壁の外に配置された扇風機、 巡廻する水を簾を通して流し落され、外気温が下がったところを扇風機で室内に風を送る装置。(分ってもらえるかな?)


 デリーからアグラまでは高速道路を230Kmを約4時間かけて走ります。
 高速道路と言っても日本の高速道路を想像してはいけません。 一言で言うならば「必須生活高速道路」とでも言うのでしょうか、トラックから軽四輪の車だけではなく、「オート三輪」=150CCのエンジンの国民車、(人も運ぶし、荷物も運ぶ、タクシーとしても使われている)かっての日本で大流行した”ミゼット”です。1台が15万ルピー(45万円)です。
 「人力車」=人間がこぎます。1台が3000ルピーです。 「自転車」=1000ルピーです。 それだけではありません。人間は勿論のこと、牛も、水牛も、少ないですが馬も、ラクダも、イヌと、あらゆる人間の仲間がこの道路に登場してきます。

   

  高速道路の端を行くラクダ荷車   オート三輪車に乗った人たち、中はイッパイの乗客


   

          デリーからアグラに向かう高速道路にて

   

 上記2枚の写真は、翌日アグラからジャイプールに向かう高速道路の途中の繁華街?

   
 
 上記2枚も、8月23日、アグラからジャイプールの高速道路で、↑中央分離帯の牛

 
 しかも、ひっきりなしに警笛を流し、そこのけそこのけとジグザグ行進で進みます。
 例えば、片側2車線(幅6メートルの舗装車道に、2メートルの地道の歩道(?とします)
 さて、「同一方向に向かって最高何列となっているでしょうか?」
 勿論、トラックや自動車の大きさにもより異なりますが、並んだ両者の間隔は10センチメートルもあるかどうかという間隔で列を成していることがしばしばです。
 
 このような交通事情の中、生活高速道路が少し大きな町のバザールの交差点を横切る時などは、ジグザグ行進となりますから、どのように表現したものかと困ってしまいます。

 そこに時には牛が道を横切る(介添えの人間はいません、牛のみです)、横切るどころか道路の中央分離帯の草を悠々と驚きもせずに食べています。
 これらのことから、インド人の死亡年齢が早いのは、食物のためばかりではなく、生活上で、特に交通上や買い物広場でのストレスの集積によるのではないかとも考えました。
 
 これらから私が想像していた、インドは”道徳的で、倫理観がある。 哲学的な生き方、ユッタリとしたスローライフの国”というイメージを変えなければいけないと思い始めています。

 生活高速道路のイメージを写真で現そうと、シャッターをかなり押しましたが、その状況を伝えるのに適した写真がなかなか撮れませんでした。

               

                デリーからアグラ間の高速道路料金所

 もう一つ、高速道路を走りながら気がついたのは、デリーからアグラ間、約230Kmの間で、一つも山や山並みを目にすることがありませんでした。 

 (インドの高速道路の有料部分はホンの一部です。そこで生活高速道路と呼びました)

  同時に、川の流れも2〜3度、橋をわたるときに見ることが出来ましたが、その水量は少なく、ここでも水には苦労している国ではないかと思いました。
 インドの北方ネパールやヒマラヤに近いところはそんなこともないでしょうが、南方は多分水不足で困っていることでしょう。
 そういえば、高速道路を頭に水がめを載せた女性の姿を見受けました。

    
 
   高速道路の端を薪を頭に載せて           こちらは水瓶です。

             

              

      デリーからアグラへの高速道路、3日間で一番立派な休憩所であった

 一度だけ100Km毎に設置されていると言う、「休憩施設」でトイレタイムとして、午後の7時前にアグラの町に入ってきました。

    

 町の入り口に偽物タージマハール(大理石ではない)  街の一角です。

 この街の第1印象はデリーと対比して貧しい街だ。 多分オールドデリー並みの生活レベルではないか。
 ということはデリーの平均所得の半分であろうと、アメンドさんに訊ねると「その通り、カースト制度の第4レベル=クドの人たちが多く住んでいる」という。

 インドでは一番所得水準が高いのは「ムンバイ」で、続いてデリーとジャイプール(大きな工場が進出していると言う)が同じぐらいで、後はバンガロール(インドのシリコンバレー)と続く、アグラは貧しい部類の町になるようだ。
 
 多分、明日訪ねる「世界遺産 タージマハール」や「アグラの城」がなければ、観光客が全く訪れることはないだろうととアメンドさんは言っていた。


 アーユルベーダーの本格的「オイル・マサージ」を受ける。 US60ドルなり。




 
             
                             平成19年8月21日  記

   浪漫紀行 ゴールデントライアングル
 <デリー・アグラ・ジャイプールを巡る
     北インド・7日間の旅> 第2日目8月21日
                      その3

          〜デリー市内観光〜


 ・デリーは3000年の歴史を持つ。 
 インド北部の大都市圏で、インドの商業、工業、政治の中心地の一つ。
 デリー首都圏を構成し、ニューデリーとオールド・デリーに分けられる。
 市の南部がニュー・デリーと呼ばれ、街は整備されている。 ニューデリーの中にニューデリー行政区があり、ここに連邦の首都機能がある

 古くは現在のオ−ルドデリーだけの町であったが、1911年に首都・カルカッタからイギリス統治下で新しい首府としてニューデリーが建設された。
 イギリスの設計と建設による新都市部分をニューデリーと呼び、古くからある町をオールドデリーと呼んでいいる。 人口約1100万人。
 (ガイド・アメットさんはしきりに全部がデリーだと言っていた。 区分することを嫌っているのだろう)

 ニューデリーは南部にありヤムナー川に面する街。インドの政治・経済・文化の中心、人口約30万。

 オールドデリーは1206年にデリー・スルタン朝の首都となって以来、歴代王朝の首都として発展。 1803年にマラーター戦争の結果イギリスに占領された。その後も首都として発展。
 オールド・デリーといわれるところは、多く足を踏み込まなかったので、現実を見ることは少なかったが、テント暮らしの人々や狭い道路に壊れたような自転車が放置され、輪タク(?)の荷台で眠っている人たちの群れを眺めることが出来た。
 
 訪問予定のところは以下のところである。

 @ラクシュミーナラーヤ寺院  Aクトゥブミナール  Bフマユーン廟
 Cインド門  Dラージガート Eラールキラー E民芸品店 
 ・紅茶店はキャンセル  ・コンノートプレイスの散策(8月22日に回す)

 ・ラクシュミーナーラーヤ寺院

 ・大衆に一番人気のある神様「クリシャ(愛)の神様、が祀られている。
 1938年に大財閥・ビルラーが建立したので「ビルラー・テンプル」とも呼ばれる。
 吉祥天のルーツとも言われる富のラクシシュミーとその夫でヴィシュヌ神の化身であるナーラーヤンを祀ってあるヒンドゥー寺院。彫刻を積上げたヒンドゥー寺院と異なり、コンクリート製で独特の曲線を持つ塔や色鮮やかな色彩である。
 
 入場するには下足は脱がなければならない。 太陽に直接焼かれたところは素足では熱い。  内部はいっさい撮影禁止となっている。 

          

        道路を隔てたところからの撮影(これなどがワンパターン角度)

       

       クラシュミーナーラーヤン寺院の道路を隔てたところ、蛇使いと。
 
 この後、いたるところで撮影には苦労する。 この写真もガイドのアミットさんが撮ったのですが、撮影代は10ルピーでした。 私独りならば100ルピー(日本円で300円)を支払っていたことでしょう。
 その後、カメラを向けると、必ず手が伸びてきます。 常に10ルピー(日本円30円)札をポケットに入れておかねばなりません。 初めは喜捨の積りでしたが、ダンダンと余りのことで止めてしまいました。
 
 そこで、ガイドのアメットさんがカメラ好きということで(休みはいつも奥さんを撮影していると言っていた)、彼に撮影してもらうことにしました。(彼だと手だ伸びてきません)
 が、思うような構図の写真はなく、私が隠し撮りをしましたが、思うようなものはなかなか撮影できませんでした。

 出発前にインターネットで数々のインドの旅行記と写真をみ、ファイリングもして出かけました。
 どこもかしこも、観光地として案内されるところは、街の実体とはかけ離れて綺麗に整備されています。 観光客を迎えるためでしょう。 
 また、紹介されている写真もどちらかと言うと、ホームページ掲載の数の制約からでしょうワンパターンのように感じられましたので、異なる角度から捉えてみたいと、気負っていましたが、果たしてその幾分かは表現されているでしょうか。


 
 ここに向かう時にガイド・アメンドさんの話。
 ・クリシュは非常に女性に持てた。 また、いたずら好きでバターが好きであった。 農家に忍び込んでバターを盗み食いしていた。

・ヒンドゥー教は赤ちゃんの占いをする。 誕生1週間後に「オカマ」がやって来る。 (このオカマは日本で言うところの「オカマ」とは違う。 女装し唄い、踊ると言う。 稲=米を持って赤ちゃんを守る儀式をする。

・ヒンドゥー教の結婚
 ヒンズーには結婚に際し、7つの約束がある。(どうも男性から女性への約束ばかり)
 @愛すること A喧嘩をしない B給与は全て渡す C大事なことは全て話すこと
 D女から男に話す(何かを要求すると言うことか) E太陽の沈む前に家に帰る
 Fは聞き漏らした

・ヒンヅゥーの女性は額に付けている印について(3つも印)
 ・頭部(額の赤色)夫の長生きを願う
 ・眉間の点の印も同じ意味合い
 ・三番目が口紅

・赤ちゃん誕生から、結婚、そして死に関することも話してくれたが、クーラーが効いているとはいえ、余りクッションの良くない車の中での話し、道路事情も悪く、メモした字が読めない。以下の記述も同じです。

 ・ヒンドゥー教は日に2回の礼拝。 豚はOK.で牛は×
 ・イスラム教は日に5回の礼拝。 豚は×

 ・シーク教は18世紀ヒンドゥー教より派生した。 よってヒンドゥー教に近い。
 ヒンドゥー教の兵士である。 
 ターバンと髭が特徴で、櫛、髪をまとめる安全ピン、ターバン、髭、ナイフを持っている。

 ・「パキスタン」とは「パキ」がウルド語でイスラムを意味し、「スタン」は住むところという意味。

・「ヒンドゥースタン」と言えば、ヒンドゥー宗教の住むところを意味する。
・「ラージスタン」の「ラージ」=王様
・「シャイプール」の「シャイ」はジャイミンという王の名、「プール」はヒンドゥー教を意味する。
・「アグセラン」の、「アグセ」=アグラは王の名前で、「ラン」は苗字。

           

 デリーの市内・各国の大使館が集まっているところです。↑ 道は広く緑が豊富、車も人も少ないです。 
 別な場所でももっと撮影しておけばよかったと悔やんでいます。 ニューデリーの上級階級のところは、これほどではありませんが日本の高級住宅街以上と申し上げておきます。
 インドの何処に行っても緑は豊富です。 特にニューデリーは公園もあり、自然が豊かと感じました。

              

 この写真は後ほど紹介します「インド門」の前の道路です。 信号待ちしているバス、乗用車、オートリキシャ(150ccの乗り合い三輪車)、バイク、等です。
 車線など全く無視して一気に飛び出します。

 数枚の写真でもって、インドの庶民の暮らしぶりを紹介しようと思うのですが、どうも数で埋め合わせしようと言う私の写真技術です。全て車中からです。

    

     

 テント暮らしの方々です。明日に詳しい写真あり     客待ちしている人力車

                

          修行僧大ちゃんには、インドの坊さんの姿が気になりました。

 ・クトゥプミナールについて(世界遺産)

         

      クトゥミナール前のインド式レモン売り。飲みませんでしたが、撮影無料
 
・「クプト」は王様の名前。「ミナール」とは塔のこと。 そういえば、イスラムでは礼拝のとき「ミナート」という塔から礼拝の時を告げる呼びかけと、その後コーランの読経が流れる。
 拡声器がなかった頃は、美声の持ち主がその塔でコーランを唱えた。

・約800年前、デーリーで「クプト」というイスラムの奴隷と、「ガウリ」という王様が戦った。
 クプトが勝利し、その戦勝記念として塔を建てた。、
 当初は100メートルあったが、近くに飛行場があり、着陸の時に塔の頭部に接触し破壊された。今は72・5メートルである。 7階建てから5階建てになった。

                 

 内部は螺旋階段になっており、東の窓には「ヒンドゥー教」の”朝日”眺めるようになっており、西の窓は「クプト」イスラム教の”満月”を眺めることが出来る。
 建物内は各種の浮き彫りが残り、ヒンドゥーとイスラムの融合の典型である。
 
 
 数年前に、塔から投身自殺をした方があり、それ以後登ることが出来なくなった。


 ジャイラ塔   アライミナール 未完成塔。↓

          
 
 アライは王の名前=アラウンデルキジーリ。 ミナール=塔  24・3メートル 

・中庭に立つ高さ7・2メートルの鉄柱は4世紀にグプタ朝のチャンドラヴァルマン王が戦勝記念として立てた。 1600年も経過して腐食しないのは純度が100%に高い鉄のためで世界七不思議の一つという。

               

                   七不思議の鉄塔

 ガイドさんは広場の中に入って説明できない(ガイドがヒンズー教徒で、建物はイスラム寺院、その他の所での同じことあり)ということで、事前に解説を受けて入場したが、前後が分らなくなりました。
 
 その理由と言い訳は、1193年に戦勝記念を兼ねて建てられた尖塔が脇の寺院より有名になってしまったことによるのでしょう。しかし、現存するこの寺院はインド最古のイスラム寺院だそうです。↓(?自信なし)

    

                

         イスラム寺院の天上を撮影した積りですが、忘れました。

    

     ↑のように、切った石を埋め込み、砂と粘土と藁(?)で固めてあります。

 以下斜文字に部分に記述は少し自信なしです。
 先に紹介しましたように塔の東の窓には、ヒンズー教の”朝日”が望めるように(ヒンズー教の姫=妃(?)の為にとも、ヒンズー教・ジャイシン王のためとも?)、又西はイスラム教の”満月”が望めるように(イスラム教の姫=妃(?)の為にとも、アクバル等ムガール朝のためとも?)というように、ヒンズー教とイスラム教は共存していた。

 イスラム教のアクバル王はヒンズー教徒のマンシンと仲が良く、マンシンの妹ジョーダシンはアクバルと結婚をしている。

 赤砂岩(赤石)はヒンズー教、大理石(白石)はイスラム教であり、5層の内上部2層は崩壊後に、城の大理石で修復されている。


 が、ヒンズー教とイスラム教が仲良く共存していたことは事実である。
 
 其れゆえに、同じ場所に以下のようなヒンズーの建物があります。↓

               

   ヒンズーの彫刻が掘られています        ヒンズーの象徴的な印???

 フマユーン廟

             

 
↑ 到着後、インド料理初めてだった、実に美味しかった昼食です。
 この後5〜6食目までは、辛口好きの私にはインドビールも含めて楽しく・美味しく頂きましたが、さすがに3日目以降の朝食は日本のホテルの何処にでもある西洋風(インタ−ナショナル)にしました。 それでも昼、夜はインド料理でしたが、インドワイン、ブラデイーマリー、マルガリータ、ジントニックのカクテルと共に楽しみました。

・インド門とガンジス支流の屋ナム川の間に世界遺産のフマユーン廟がある。
 ムガル朝第2代皇帝フユマーンは数年ペルシャに逃れていたが、デリーを奪還した翌年、1556年にプラーナ・キラー城の階段から転落死した。
 城の南に王妃ハージ・ベーガムが1565年に廟をたてた。

              

    この塔がメインと勘違いしました。      その塔の透かし彫り窓

   

   前にも書きましたが、本当に構内は綺麗です。掃除が行き届いています。

               

   このオバサンと他に3人の方と手振りで話していた為に、本物を見学する時間がなくなりました。 勿論、喜捨のルピー札を渡すことになりました。


・広大なペルシャ様式の庭園の中央に廟を配置し、高さ37メートルの白大理石造りドームを持つ最初のムガル様式建築で、後のタージマ・ハールの建設に大きな影響を与えた。

               
   
                       入り口です

          

                  これがフマユーン廟です。

 
 ラージ・ガートについて

 
インドを独立に導いたマハトマ・ガンディーが火葬された場所ですが、残念ながら当日は何か催し物があるということで入場できなかった。
 ガンディーは非暴力、無抵抗、不服従をといたことで知られている、1948年1月30日極右の青年に暗殺された翌日、この場所で荼毘に付され、遺灰は裏のヤムナー川に流された。

 <ムガル帝国について>
 
 
以上世界遺産(フマーユーン廟、デリー最初のモスクとクトウブ・マナール)を含め多くの遺産を残した「ムガル帝国」のことを記録しておきます。

 ムガル帝国は、1526年からインド北部を支配し、1858年まで存続したイスラム王朝。
 中央アジア出身で、テイムール朝の王族を乳、チンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とするモグーリスタン・ハン家の王女を母とするチュルム系の遊牧貴族バープルが、現在のアフガニスタンからインドに移って建国した。
 王朝名のムガルはペルシャ語のムグール(モゴールの転訛で、モンゴル人を意味し、ムガール帝国とは「モンゴル人の帝国」と言う意味の国名。

 テイムールの五代後の直系孫であるバープル(1526~1530年皇帝)は、中央アジアのトランスシアナをウズベクのシャイバーン朝に追われ、南カブールを本境地として雌伏していたが、晩年に目標を中央アジア奪回からインドの奪取に切り替え、1526年にパーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝最後の王朝ロデイー朝を破り、デリー、アグラーを制圧してインドにおけるテイムール王朝としてムガル朝を建設した。

 バープルの死後、後を継いだフマーユーン(1530~1540年・皇帝)はグジャラートに勢力を広げるが、ロデイー朝と同じアフガン系のスール朝の開いたシェール・シャーによって1540年にデリーを追われ、やがてアフガニスタン方面にいた諸弟もフマーユーンに離反した為に、ムガル朝は一時崩壊した。

 フマーユーンはシンド地方を放浪した末にイランのサファヴィー朝のもとに逃れ、、その支援を受けて1545年に弟達の支配するカンダハール、カブールを相次いで奪還、シェール・シャー死後内紛によって分裂したスール朝を討って、1555年デリーに返り咲き、ムガル朝を再建した(フマーユーン皇帝復位1555~1556年)。

 ムガル朝を真に帝国と呼ぶにふさわしい国家に発展させたのは、1556年に不慮の事故死を遂げたフマーユーンを継いだアクバルの治世である。
 アクバル1世(1556~1605年皇帝)は東はベンガル、南はデカン高原まで進出して北インドのほとんど全域を平定し、ムガル帝国はアクバルの活躍して16世紀後半からジャハーンギール(1605~1627年・皇帝)、シャ・ジャハーン1世(1628~1658年・皇帝)、アウラングゼーブ(1658~1707年・皇帝)にいたる17世紀にかけて最盛期を迎える。

 が、強勢を誇ったムガル帝国も18世紀に入ると貴族階層の没落、繁栄を支えた軍事機構の崩壊が起こり、マラータ族、シク族、ラージプート族などが離反し、ムガル帝国を構成していたニザール、ベンガル、アウドなども独立し、経済的にも成長したインド商人やヨーロッパ諸国の東インド会社のまえに侵食されて急速に解体していった。

 1739年にはイランにアフシャール朝を開いたナーデイル・シャーによってデリーを占領され、甚大な打撃を蒙る。
 19世紀にはいるともはやデリー周辺を支配するのみの小勢力となっていたが、1857年に大規模な反英闘争、=インド大反乱(セボイの乱)が起こると82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍のシンボルとして担ぎ出されるほどの余光を保っていた。

 1858年、大反乱を鎮圧したイギリスはバハードゥル・シャーを裁判にかけて有罪とし、ビルマへと流刑に処して退位させた。
 これによりテイムール朝から数えて500年続いた王朝は完全に消滅し、ムガル帝国は350年にわたるインドに置ける歴史を閉じた。


 インド門とその周辺公園内にて

 
インド門は大統領官邸から延びるラージ・パット通りの東端に第1次大戦の戦没者を慰霊する高さ42メートルで、1031年に建てられた。

 写真はありませんが、ラージ・パットは大統領官邸とインド門を直線で約3キロで結ぶ現代の都大路です。

        

 「インド門」
は傾いている訳ではありません、天邪鬼の私の性格から、余りにもどなたも
撮影する角度なので、と思っていましたら傾いた写真しか写っていませんでした。
 右は門を裏から撮影したものです。

    

 ↑インド門の直ぐ裏手で子供達が水遊びをしていました。 私が写真等で見たガンジス川ほどではありませんが、日本の子供ならば一発で発病してしまう程の水質の流のない池でした。 何人もの子供が写真を撮ってくれとポーズを作ります。 
 水着なしの子供もいましたが、女の子は一人も見かけませんでした。

 以下は、広い広い公園内の写真です。 数枚隠し撮りをしましたが、ガイドのアメンドさんに頼んだ方が安全(?)、面倒でないと任す事にしました。

     

     眠る人              語り合う二人          商いをしてる人

                

              商い中                商い休憩中

         

       商談中                      ぬいぐるみ製造販売

    
 



 インドの国旗

               

 一番上のオレンジは「勇気と犠牲」
 二番目の白色は 「真理と平和。 中央のマークは古代文明を意味する
 したの緑は大地を示す。




 
             
                             平成19年8月21日  記

   浪漫紀行 ゴールデントライアングル
 <デリー・アグラ・ジャイプールを巡る
     北インド・7日間の旅> 第2日目8月21日
                      その2

 〜ガイド・アメンドさんと話したこと、教わったこと〜


 ガイド・エモンドさんを紹介しましょう。
 27歳で昨年恋愛結婚しました。 インドでは見合い結婚のほうが多く、結婚後は両親、兄弟と一緒に暮らすのがインドでは通常ということです。
 
 が、彼は現在ガイドの仕事でニューデイリーで住んでいますので、約200Km離れた両親のいるアグラとを行き来しています。
 インドの離婚率は5%ほどですが、恋愛結婚の人の方が離婚率が高いそうです。
 インドでは女性はほとんどの場合働きには出ません。 (結婚前でも。勿論働いている女性もいます))

 彼はヒンズー教徒で、カースト制では2番目に位する武人のクラスで、そのなかでも、最高位の??に所属するということです。

 (カースト制度に関しては、政府は政治的、経済的、社会的にも様々な施策を施しており、どの階層からも国会議員が選出され、富裕層が誕生していると聞いています。
 が、彼との話を聞く限りにおいては、人々の心情の根底には抜きがたいモノがあると感じないわけにはいきませんでした。
 
 昨年「インド学への誘い」の中部大学の講座を受講しましたが、インド人の先生は「インドはあと500年経過しても変化しない」と言っておられましたが、あながち、間違っているとも思えませんでした。

 ポッチャリ型の綺麗な奥さんで、それを誉めると嬉しそうに笑いました。 彼は敬虔なヒンズー教徒でタバコの酒もやらず、丁度火曜日でしたので「肉」を口にしないということで、昼も夜も口にしていませんでした。

 インドの女性の夢は、”旦那さんより先に死ぬこと”と彼は言った。 それは、姑にいじめられ、次々と姑から出される要求にストップをかけてくれる旦那がいなくなったら大変。
 故に、旦那さんと一緒に死ぬことが最高と言う。

 都会と農村によって異なるが、現在は都会では子供が1〜2人を望む。
 農村では男の子が生まれれば喜ぶが、女の子の場合はその場で間引いてしまうと言う。 (最近は変わりつつあるというが・・・)
 かっては結婚式の時には女性方から貢物を持って行くので、女の子を育てるのは大変。
 男は数回結婚をあげれば、あるいは男の子が数人あれば、その家庭には貢物が集まり、豊かなに慣れるという考え方があったという。(今も、少しは残っているのか?)

 彼の弁によると、その代わり都会の女性は(田舎もか?)男性への監視は強く、例えば彼がモターバイクに奥さんを乗せて遠出するとします。 すれ違う時に見目麗しい女性を見かけても、視線のみを動かして、顔は動かさずに前方を見ているという。
 それでも、目的地に到着すると、「何度、他の女性に目をやった」のかと、問い詰められると言う。

 働かないのが女性の幸せであり、男の望むことである。
 近頃、都会では女性も仕事を持つようになっているが、夫の収入の方が大きく勝っている時は良いが、拮抗している、あるいは逆転したならば男の権威は失墜してしまう。

 奥さんは若いのに、仕事もせず一日家の中で何をして待っているのかと訊ねると、彼の奥さんの場合は近所の子供達に英語と日本語を教えているといっていたが、教えるれ程のレベルの日本語なのか。(彼女とは日本語の関係で知り合ったと言う)
  どちらにしても、旦那さんの帰りを待っている。 観光ガイドの仕事であるから、帰りの時間が遅くなることもあるが、たとえ12時でも食事をしないで待っていると言う。
 『それが奥さんの幸せ』と言っていたが、彼女の気持ちは知らない。

 インドでは今、就職難で30%の方は定職がないそうです。
 彼も3年ほど前に日本語を集中して勉強し、ガイドの資格を取得した。 日本語の習得には苦労しなかったそうで「日本語は優しい」と言っていました。
 当時は日本語の漢字は千文字以上は書けたし、”ひらがな”はもちろん”カタカナ”もマスターしたということです。
 とはいうものの、私たちとの会話では、優しい言葉や表現を変えて会話しましたし、彼がもっと得意と言う英語を織り交ぜた方が意が通じることが多かった。

 彼は定職を持ったことがない。 日本語を話すようになってからは、ガイドの仕事が中心であるがこれも日当制で仕事がなければ収入はないと言う。
 前はホンダやスズキ自動車等で通訳のアルバイトをしたことあったが、今はガイド収入がほとんどである。
 インドでは十数年前までは、日本語を話す人が少なく一日当り日本円で10000円ほどの日当(彼のお父さんの時代)になったこともあるが、今は競争が激しく、ダウンし一日当りUS10ドル(日本円で1200円)程度です。
 一ケ月の生活費は約1万ルピー(日本円換算約3万円)だそうです。

 中国とインドを比較して話しました。 私は気持ちの上でインドのほうに感覚的に贔屓目の感情を持っていましたので、そのニュアンスで彼に話しましたが、その評価感情を決して彼は善しとすることなく色々と話してくれ、私としては勉強になりました。 
 その幾つかを紹介しましょう。
 
 @私が『中国は解放経済後に余りにも急速に、可能な人から豊かになればよいという、経済政策をとったために、都会と地方、農村と工場生産者との間に経済格差が生まれた。
 
そればかりでなく、生来から持っていた、目先に利を追うことにますます拍車がかかり、環境問題、公害問題、の歪が派生すると同時に、倫理感も大きく踏み外し、お金になればと言うことで、このところ水や食の問題の違法行為や不良商品の問題が噴出している。

 その点、インドに抱くイメージは歴史的、文化的、道徳的の観点からみて、節度があって、今後にも希望が持てる』と語ったところ、アメンドさんからはそれと異なる答えが返ってきました。 インドも変わらない、目先の利や金を追い求めるていると・・・
 
 そのように言って、今年の7月にあった彼と親しい友人との間に起こったばかりの事を話してくれました。
 (彼は年齢的に若いこともあり、関心事が家庭や身近なことに向かっており、大局的な視点からのものの見方や考え方は十分ではないとことも付け加えておきます)

 それは彼の友人が自宅を訪ねてきました、そしてアメンドさんの貴重品等は何処にしまってあるのかと訊ねたので教えたところ、夜中にクレジットカードや貴重品を全て持ち出して行ってしまった。
 銀行からアメンドさんへ「毎日、買い物をしているが、それで良いのか」と。 調べた時には残額が1000ルピー(日本円3000円)しか、残っていなかったという。
 
 彼の友人は5〜60Km離れたところに逃げて、隠れているようであるが、親しい友人であるから裁判沙汰にはしないつもりであると、怒りの態度と表情を表しながらも、感情を押し殺しているように見えました。

 どうやら、私はインドへの肩入れ感情と、希望的観測をしていたようです。
 とはいうものの、これまでに知りえた知識と情報をつなぎ合わせますと、インドの持つ長い歴史、文化、伝統、宗教の過去、現在を眺めてみれば、BRIC,s(ブラジル、ロシア、インド、中国)といわれる、世界経済の中で急成長している国の中では、バランスが良いというか、可能な限り細部にも目配りしての政治的・経済的・社会的施策は取られているように感じています。

 話の最後の方になり、私が観光客としては大変珍しい質問や目の付け所の話題が出てくると言い、「何か、ガイドとしての私=アマンドにアドバイスしてくれないか」と持ちかけられて。 
 特別に話すこともなかったが、近頃感じていること、思っていることを話した。
 ・時代は今、農業革命、産業革命、の時のような大転換・大変革の時を通過している。
 ・かってのローマ、イギリス、そしてパックス・アメリカーナと支配国家が変遷した時代と同様な流れに世界は今ある。
 ・800年周期で西欧とアジアの主権が入れ替わる流れの中にあるとも言える。
 ・そこにあって、インドは歴史的にも、宗教的にも、文化・伝統を見ても、これからの世界のあり方に、国や人々の生き方に一つのモデルを提供することが可能なものを持っていると考えます。
 ・例えば、地球環境の問題、貧富の格差社会の問題、宗教上の争いなど・・・
 ・彼に”ロハス”と言う言葉が、世界で先進的な生き方を目指している方たちには、注目されている考え方であり、生き方であるといって紹介しました。
 
 ・それらの政治的、経済的、社会的事柄に今以上に関心を持って、「何が美味しかった、楽しかった、面白かった」と口にする観光客の中にも、異なる関心を持っている人がいるはずであるから、それらの人、時、場面で自分の考え方や感じ方を語ると同時に、教わると言う態度を持ち続けたらどうであろうか。 と話しました。

 彼は何度も、何度も、分った、分ったと大きく頷いていた。

 途中でドライバーが体調を壊して、急遽病院に向かった。
 彼の住まいを案内すると言って、携帯電話で奥さんと連絡を取っていたが、その約束は22日アグラに行く前にしました。
 



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