2月4日 中部国際空港から沖縄那覇空港へ
那覇空港に降り立つ。 外気温7度前後の名古屋から2時間半後は18度です。
次に、沖縄に着いたのだな感じたのは横切っていった機体の下部にミサイルを装備した戦闘機の爆音です。
昨秋、中部大学で沖縄の歴史と現状を学んではいましたが、書物上や話では到底理解できない実感を感じない訳には行きませんでした。
日本全体で75%の戦闘機を初めとする駐留米軍が沖縄に配置されている実体を実感。
明日から、その現実と課題を肌で感じることが出来ることだろう。
2月5日 2日目
ホテルの2F食堂から国道58号(一銀通り)を望むと、交通機関はモノレールが走るのみの沖縄は車社会、通勤車とタクシーが引っ切りなしに行き来している。 通勤と思われる車は60〜70%が小型車です。。
沖縄の経済は本土(と言っても太平洋側のメガポリス)の60〜70%と聞いていたが、その現われであろうか。
ホテルのロビーの新聞「琉球新報」の紙面に”お悔やみ申し上げます”のコーナーがあった。 2月に入り旧正月前だからこのコーナーがあるのだろうか。
というのは名古屋・中日新聞の年末には、ある葬儀社の提供で”お悔やみ申し上げます”と12月中旬から下旬に死亡した方々のお名前が列挙されるを見ていたからです。
後で友人から聞いたのですが、沖縄では死亡通知(連絡)は特になく、その代わりに新聞で知るということです。 その情報を得るだけで新聞を購入している人もいるという。
また、香典は一律1000円ということです。
49日の法事は身内のみで行なわれるのが本土での通例であすが、沖縄では親族のみでなく知人・友人も参加するとのことで、友人は親しい間柄の方ではなかったので、欠席したら「ミズクサイヤツ」と注意されたそうです。
表面的には本土と変わらないが、深いところで考え方や価値観が異なると沖縄生活6年の友人は語った。
2月5日に訪ねた所

世界遺産登録、今帰仁城跡

沖縄美ら海 水族館

「 琉球村」内精糖工場(サーターヤー)

「琉球村」内陶芸工房(ヤチムン屋) 琉球村内、ちゃんぷるー劇場にて
2月6日 第3日
・沖縄タクシーの運転手のハンドルさばき
運転手と言っても全ての運転手を指すわけではありません。 現在50〜60歳代の運転手のことです。 其れは年齢からくるものだけではありません。
1972年(昭和47年)に本土復帰の時、当時第1種の自動車の免許証を取得していた方達は自動的にタクシー運転手資格に必要な第2種の許可証が交付されたからと教えられました。
沖縄は車社会です。 主要道路は整備されていますが、一歩中に入りますと狭く・曲がった道です。しかも道路は自転車では到底無理な高低が繰り返される上り下りが続く道です。 弱い花崗岩(?)の地盤である為にこのような上下動の続く道になっているようです。
2月6日に訪ねた所
ドラゴンズのキャンプ地「北谷球場」

宜野湾市「普天間基地」
宜野湾市が360度が眺望できる小高い丘の展望台に登りました。 米軍普天間基地を囲むようにギッシリと町並みが眺められます。 新聞やテレビで視聴しているのとではマルッキリ感じが異なります。

真上をミサイルを装備した大型戦闘ヘリコプターが爆音を響かせて通過してゆきました。
雨模様の性でもあったのでしょうが、街中がとっても静かなだなと感じた時に、友人が「この辺りは全て防音装置された家ばかりだ」と教えてくれました。

世界遺産に登録されている「斎場御嶽」
沖縄の世界遺産は5つもグスク(城)とその関連の4つの遺物で登録されています。
その一つ「斎場御嶽」の”御嶽”とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽は琉球開闢伝説にある琉球王国最高の聖地。
御嶽の中には6つのイビ(神域)があるが、首里城内にある部屋と同じ名前をもらっている。 首里城と斎場御嶽の深いかかわりを示している。

三庫理(サングーイ)
斎場御嶽の一番奥まったところにあります。 二本の鍾乳石と、三角形の空間の突き当たり部分が拝所。 上記の写真の奥がその一つに当たります。
そこから東側には海の彼方に久高島が望める。 その島に琉球の神が降臨されたとの伝説がある。

久高島を望む
2月7日
前夜、友人Sが74歳の現役同級生からのメールが入ったということで夕飯は一緒に出来ずじまい。 が、車で案内中も含めて36時間、ぼそぼそと会話し30数年ぶりの時間を埋め合わせは出来たように思えた。
友人Sは15歳で山形県から豊橋市に出てきた。 口数は少なく控えめだがここぞと言うときには遠まわしながらも辛口の意見を言っていた。
山形訛りで聞き取りづらく幾度となく聞き返した、彼曰く「山形訛りの三河弁」と言っていた。 ある時から標準語を使うことが億劫になってしまったとも言っていた。
彼との会話を思い出すままに記録しておくことにしようと別紙に入力した。
性格も生き方も正反対の間柄であったが、かけがえのない友人と呼べる一人である。
人生の終盤に来て互いに共通するテーマを少しばかり共有したように思えた沖縄の旅であった。
|