エッセイD 旅日記
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                             平成20年2月4〜8日  記

 高校・大学時代の友人が「沖縄国際大学」で考古学の勉強をしている。 30数年ぶりに会う。
                   沖縄3泊4日


 2月4日 中部国際空港から沖縄那覇空港へ

 
那覇空港に降り立つ。 外気温7度前後の名古屋から2時間半後は18度です。
 
次に、沖縄に着いたのだな感じたのは横切っていった機体の下部にミサイルを装備した戦闘機の爆音です。
 昨秋、中部大学で沖縄の歴史と現状を学んではいましたが、書物上や話では到底理解できない実感を感じない訳には行きませんでした。
 日本全体で75%の戦闘機を初めとする駐留米軍が沖縄に配置されている実体を実感。
 明日から、その現実と課題を肌で感じることが出来ることだろう。


 2月5日 2日目

 
ホテルの2F食堂から国道58号(一銀通り)を望むと、交通機関はモノレールが走るのみの沖縄は車社会、通勤車とタクシーが引っ切りなしに行き来している。 通勤と思われる車は60〜70%が小型車です。。
 沖縄の経済は本土(と言っても太平洋側のメガポリス)の60〜70%と聞いていたが、その現われであろうか。
 
 ホテルのロビーの新聞「琉球新報」の紙面に”お悔やみ申し上げます”のコーナーがあった。 2月に入り旧正月前だからこのコーナーがあるのだろうか。 
 というのは名古屋・中日新聞の年末には、ある葬儀社の提供で”お悔やみ申し上げます”と12月中旬から下旬に死亡した方々のお名前が列挙されるを見ていたからです。

 後で友人から聞いたのですが、沖縄では死亡通知(連絡)は特になく、その代わりに新聞で知るということです。 その情報を得るだけで新聞を購入している人もいるという。
 また、香典は一律1000円ということです。 
 49日の法事は身内のみで行なわれるのが本土での通例であすが、沖縄では親族のみでなく知人・友人も参加するとのことで、友人は親しい間柄の方ではなかったので、欠席したら「ミズクサイヤツ」と注意されたそうです。
 表面的には本土と変わらないが、深いところで考え方や価値観が異なると沖縄生活6年の友人は語った。

 2月5日に訪ねた所

            

                   世界遺産登録、今帰仁城跡

               

                    沖縄美ら海 水族館

               

                「 琉球村」内精糖工場(サーターヤー)

    

   「琉球村」内陶芸工房(ヤチムン屋)       琉球村内、ちゃんぷるー劇場にて
 
 2月6日 第3日

 
・沖縄タクシーの運転手のハンドルさばき
 

 運転手と言っても全ての運転手を指すわけではありません。 現在50〜60歳代の運転手のことです。  其れは年齢からくるものだけではありません。
 1972年(昭和47年)に本土復帰の時、当時第1種の自動車の免許証を取得していた方達は自動的にタクシー運転手資格に必要な第2種の許可証が交付されたからと教えられました。

 沖縄は車社会です。 主要道路は整備されていますが、一歩中に入りますと狭く・曲がった道です。しかも道路は自転車では到底無理な高低が繰り返される上り下りが続く道です。 弱い花崗岩(?)の地盤である為にこのような上下動の続く道になっているようです。

 2月6日に訪ねた所

                

                 ドラゴンズのキャンプ地「北谷球場」

           


                 
宜野湾市「普天間基地」

 宜野湾市が360度が眺望できる小高い丘の展望台に登りました。 米軍普天間基地を囲むようにギッシリと町並みが眺められます。 新聞やテレビで視聴しているのとではマルッキリ感じが異なります。

               

 真上をミサイルを装備した大型戦闘ヘリコプターが爆音を響かせて通過してゆきました。
 雨模様の性でもあったのでしょうが、街中がとっても静かなだなと感じた時に、友人が「この辺りは全て防音装置された家ばかりだ」と教えてくれました。 

              

             
世界遺産に登録されている「斎場御嶽」

 
沖縄の世界遺産は5つもグスク(城)とその関連の4つの遺物で登録されています。
 その一つ「斎場御嶽」の”御嶽”とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽は琉球開闢伝説にある琉球王国最高の聖地。
 御嶽の中には6つのイビ(神域)があるが、首里城内にある部屋と同じ名前をもらっている。 首里城と斎場御嶽の深いかかわりを示している。

              
     
                    三庫理(サングーイ)

 斎場御嶽の一番奥まったところにあります。 二本の鍾乳石と、三角形の空間の突き当たり部分が拝所。 上記の写真の奥がその一つに当たります。
 
そこから東側には海の彼方に久高島が望める。 その島に琉球の神が降臨されたとの伝説がある。

              

                     久高島を望む

 
2月7日 
 
 
前夜、友人Sが74歳の現役同級生からのメールが入ったということで夕飯は一緒に出来ずじまい。 が、車で案内中も含めて36時間、ぼそぼそと会話し30数年ぶりの時間を埋め合わせは出来たように思えた。

 友人Sは15歳で山形県から豊橋市に出てきた。 口数は少なく控えめだがここぞと言うときには遠まわしながらも辛口の意見を言っていた。
 
山形訛りで聞き取りづらく幾度となく聞き返した、彼曰く「山形訛りの三河弁」と言っていた。 ある時から標準語を使うことが億劫になってしまったとも言っていた。

 彼との会話を思い出すままに記録しておくことにしようと別紙に入力した。
 性格も生き方も正反対の間柄であったが、かけがえのない友人と呼べる一人である。
 人生の終盤に来て互いに共通するテーマを少しばかり共有したように思えた沖縄の旅であった。





 
             
                             平成19年12月3日  記

   遠山郷「霜月祭り」に参加してきました

〜遠山藤原学校からの特別氏子として、
                    12月1日〜


 冬用のタイヤではないので当日気温が下がったり、増してや雪などが降らないかと数週間前から早々とチェーンを積み込んで心配しておりましたが、12月1、2日と素晴らしい天候に恵まれました。
 何時ものように2時間チョットで遠山郷の道の駅、「かつらの湯」に到着しました。

              

 昼食後、遠山郷が初めての方も居られ夕食の食材を仕入れた後、夕食前に「小嵐稲荷神社」に徒歩で登ることになりました。 参道はあるのですが荒れており、何処が正式な参道か判断が出来ない急な斜面を登ることもありました。

              

             旧木沢小学校の横手の茶畑の道を進みます。
          途中から、参道は諦めて地道の車道を歩くことにしました。

 同行の女性が日が暮れてしまったら如何しましょうと心細いことを口にしますので、「もう少しもう少し」と励まして標高約900メートルの見晴らし場まで1時間弱で到着しました。

         

            西日に照らされた左が「兎岳」 右が「聖岳」

     

 カメラを右に回して西日に映える近景の紅葉  記念撮影している間に汗がひんやりデス 

  夕食後、「上島地区の白山神社」の祭りに行きました。 本日はこの外に「中立地区の稲荷神社」にても祭礼も開催されております。
 到着と同時に、神社の近くの家に招待されました。 夕食の時、既にかなりの量のお酒を飲んでいたのですが、勧め上手というか、酒飲みの私の根性からでしょう断わりきれずに(喜んで)次々と盃を上げておりました。

               

 したたか頂いた後に、会場に行きましたが、これが満員でなかなか中に入り込めません

    

   左「上島地区」の釜戸、土造りです。   右、翌日の「小道木地区」のレンガ釜戸
 どちらがお好きですか。 土作りの職人さんがいなくなるのではと言っておられました。

                

  やっと潜り込んで「天狗様」を一枚納めましたが、写真を撮っていられる状況ではありませんでした。 そこで、お酒の勢いを借りて、天井はありませんので踊り場を見下げる垂木の上に上りました。

    

    

          上ったのは良いですが、降りるのに一苦労しました。

 翌日は「特別氏子」として、地元の方々と朝7時から祭り準備に参加することになっています。 同行の若い方たちは祭りに残っておられましたが、一人で歩いて引き返すことにしました。
 祭礼場に上った罰でしょうか、真っ暗闇の旧国道を歩いたいましたら、突然側溝と思われるところに足を取られてヒックリ返りました。 側溝には枯葉が数字センチ積もっていた感じでした。 身体全体には支障がなく左膝に痛みが走りましたが、頚椎症で感覚の鈍い方の足です。 
 15分ほど歩いて旧木沢小学校の校庭に止めてあった車に戻りそのまま寝込んでしまいました。 本日(12月3日)帰宅後、調べてみますと腫上がっております。
 12月2日は少し足を引きずってはいましたがなんでもなかったように、一日を過ごさせていただきました。 気が張っていたのでしょうか。

 

 遠山郷で「霜月祭り」に参加。 二日目・12月2日


 昨夜何時まで祭りに参加していたのか分りませんが、本日同行する予定の「特別氏子」の若者達の姿は見えません。 
 車の中にあった菓子袋を取り出し、ほお張りながら霜の降りた木沢集落から15分ほどの「気の出る神社”熊野神社”」に徒歩で向かいました。
 既に、氏子の方々は到着しておられ、ドラム缶で焚き火・暖を取っておられます。 顔なじみの方も居られましたので気後れすることもなく挨拶をすることが出来ました。
 神社の周りをひとあたりすることにしました。

          

 本日の祭り担当の一つは「河合」の集落で、「熊野神社」の川向こうです。 人一人が通れる吊り橋は良く揺れました。 車は大回りして国道に出ることになります。

 本日の祭り「熊野神社」の担当地区は「小道木」集落と、遠山川を渡った「河合」集落の方たちが中心と言うことですが、後で分ったことで、昔はそれぞれの集落で実施していたが現在は人手が足りずに近隣の集落(地区)の方々が互いに助け合っているとのことでした。

                 

 早くも炊事が始まりました。 このお祭り、昔は女性の参加は認められていなかったようです。 炊事も男集が取り仕切っていたと教えられました。 意気がよく、少し怖いぐらいの言葉使いの姉様が取り仕切っていました。

                

 作業が始まって約2時間「休憩、休憩」の声がかかりました。 「休憩」とは確かに休憩ですが、実は”イッパイ頂くことだった”のです。 「中から暖めないともたんからな〜」と・・・

            

 時折長老に質問をしたり、長老が「こうではなかったか?」と指示を出しておられましたが、ほとんどは皆さんそれぞれの役柄が決まっているようで、余分な会話もなくモクモクと作業は進められ、(紙に書かれた記録と言うものがなく、伝承で残っているとのことです)
 午前11時ごろには、今にも朽ちて崩れてしまうのではないかと思っていた建物や辺り一面が生き生きと蘇ってきました。

     

 以上に紹介した3点はほんの一部に過ぎません。 既にご神体が取り払われた小さな祠にも、あるいは神社から川に向かって20メートル下のところで、神社の基礎基盤を担っているだろう大きな岩にも、釜戸にも、炊事場の水汲み桶にも、あらゆるモノやところにしめ縄が括られ清められてゆきました。

                

 一番の主役「面」(ここの祭りが他の地区より一番面の数が多く、37面です)に、お供えする餅が搗かれています。 これはうるち米で蒸かしてありません。 押しつぶしていました。 しかも、この担当はご両親が健在の方が担当するということでした。
 その後、笹の葉に包んだものと、正月の鏡餅のように二段のものが作られました。

 早め(午前11時すぎ)に「秋刀魚ご飯」と白味噌の汁(具は大根、ネギ、サトイモ、豆腐)、そして沢庵・白菜・小松菜の漬物です。

               

  秋刀魚を入れ、米と一緒に炊き上げ、その後秋刀魚の身を解し、更にご飯と混ぜます
 
 醤油味の秋刀魚飯の私の第一印象は「質素な食事」でした。 事前に「秋刀魚ご飯」は美味いと言われていましたが、やはり秋刀魚のアブラが滲み出しており、私の口には美味しいとは参りませんでした。 
 この秋刀魚「秋葉街道」を北上してしたことでしょう。 生の魚など滅多に口にすることが出来なかった遠山郷では、年に数度の贅沢な食事だったことでしょう。

               

 秋刀魚飯と対比しましたのは、小学生の頃に踊った豊根村の「花祭り」の練習期間(1週間)と本番に食べる”マグロフレークを炊き込んだご飯”でした。 他人様がこの”マグロフレークの炊き込みご飯”を口にしたら、いただけない味だと言われることでしょう。が、今でも年に1度はこのご飯を要望していますから、子供の頃に覚えた味は懐かしく、美味しいものなのでしょう。

          

   

 腹ごしらえが終わり、午後の1時過ぎから"寒い、煙い、眠たい”の祭り神事が始まりました。

               

 神事が始まる頃より「奉納」の品々が受付に集まってきます。 「御神酒」「野菜多大」「お菓子多大」「金3千円」「缶ビール一箱」など、地元の方、この祭りの為に戻ってきた旧地元の方、地元とは関係ない祭りに参加した人達から・・、祭りが終了する頃までには4間と5間四方の祭り場の壁面を埋め尽くすほどになりました

                

    

    ”湯祭り神事”(?)ですから、釜戸の湯を中心に数々の舞が奉納されます。

 とは言っても、なんと言ってもお目当ては「面」の登場です。 それぞれの地区によって登場の時間帯は異なります。(その日の進行状況によっても変化するとのことです)

    

 右の面が誰あろう私です。 37面の内、主要な面は地元の方が冠るのですが、他の面はその日の籤みたいなものです。
 私にはどのような面が割り振られるのか興味を持っていました。大人しい面か、武者ぶる面か、怨念を納めるために彫られた面などに区分できると見ていたからです。
 穏やかな面相の面と出会えることになりました。 穏やかに舞うことが出来たように思います。 「ヨウ舞ウナ、ヨウ舞ウナ」のかけ声に導かれました。

 37面の約6〜7割が終了したところで、激しい太鼓と笛の音に変わります。
 「ヨーセ!ヨーセ!」のかけ声がかかり、祭り場を取り巻いていたが若い衆が囃し立てます。

                

 →→

 →→

   解説します。左手の面の踊り手が飛び上がる方向を定めています。
 3〜4メートル助走して飛び上がり、クルリと空中で向きを変えて抱きかかえてもらいます。 最高時には四方の4箇所で面が陣取り、受け手の出来るのを待ちます。
 失敗すれば、右下の写真のごとくオットットーです。

 昔は「喧嘩祭り」とも言われたそうで、祭りが終わると舞堂の壁面の板はあちらこちらで穴だらけになったそうです。 飛び手の面者は受け手を壁にぶち当てるように激しく・高く・力強く激突したからでしょう。

             

 この様子を、一段高いところから「息子や旦那は上手にやったか」と見つめる女集達。

                

 日本在住15年、「NHK国際放送センター」から取材に来られていたハンガリー人のレポーター、お役目が終わった後は男性顔負けで囃子立てるは、受け手になるはといつの間にか赤のコートを脱ぎ捨てておお張り切りでした。 
 この遠山郷でも年月の経過とともに、今度は踊り手にも女性も加わるのではないかと思いました。

                激しいテンポが一瞬静かになりました。

               

    写真の他に「ババや爺」の面白・可笑しい役柄の面が登場し人々と交流します。


             

 最後は、締めの面でしょう。地域一番の踊り手が精神こめた舞を披露して終了しました。

 翌日は朝9時から後片付けと言うことでしたが、「特別氏子」は失礼してしまいました。
 本降りの雨の中、遠山郷から飯田市に通じる矢筈トンネルを越える時、昨夜の太鼓と笛の音が後ろ背に聞こえました。
 
 




 COLUMU 1−D NO737 より
             
                             平成19年11月13日  記

 「第2回  遠山藤原学校」に参加しました

    〜平成19年11月10(土)・11(日)〜


 午前8時45分、太平洋側は晴れ間が見えてきましたとのラジオ放送を聴きながら、中央高速道路・恵那山トンネルを越えると曇り空。
 9月に通過した時はまだ緑色した「矢筈トンネル」の手前の山並みは、紅葉に変わっていました。 残念ながら陽がなく紅葉満喫も半分くらい。
                 

 今回は途中下車が5分くらいだったので、なんと2時間15分で集合場所の「かぐらの湯・道の駅遠山郷に早めに到着。
                 

                   道の駅の裏を流れる「遠山川」 

 飯田線・豊橋駅から日に3本の快速「ワイドビュー」で平岡駅で接続している、南信バスで大阪方面、東京方面からの参加者15名と簡単なガイダンスを受けて、道の駅内の「味ゆ〜楽」で昼食。

 第1時間目は「遠山郷土館・和田城の見学から始まる。 その前に、地元のお母さん方の手作り饅頭、正真正銘のその日の日付のお饅頭を頂く。 「殿町の茶屋」

                  

 前回の訪問時に店頭写真を撮っていたので、今回は土産に買ってきたビニール袋です。

             
 
             和田城と遠山郷の和田地区の町が見えます 

    

 右にある面は本物です(今は休止している地区のお面だそうです)。他の面は全てレプリカです。 祭りを実行している神社の面は一切持ち出し禁止とのことです。 
 そこで、面打ち師が全て新しく掘りなおしたものだそうですが、私には本物も打ち直しの面も区別がつきませんでした。

              

 同じ敷地内に「観音霊水」が山から引き込まれています。 硬水で日本一のナチュラル・ミネラルウォーターです。 近在はもとより遠くからも貰いに来ておられました。 水量が豊富で途切れることはないそうです。
 これまた、前回「観音霊水」の看板を撮影していましたので、今回はその上のモミジ紹介

 遠山郷には30近くの神社があるそうですが、お寺は曹洞宗「龍淵寺」のみとのことです。ここで始まった2時間目の教科は「郷土の民話を聞こう・語りべ」に時間です。

               

 この寺の副住職の奥様達が10年前から始められたとのこと。 当日は郷土の民話の他に、お子様を17歳の時に白血病でなくされたお母様の書かれたお話が取上げられました。 そのお母さんもご自分の作品がどのように披露されるのか聞きに来ておられました。
 読み終わった後に、そのお母様よりその後のご家庭のご様子や、人様から声をかけられたこと、思いかけず人様から感謝された事等を話されました。 
 ついつい、目頭が熱くなりました。

               

 その後、庭に出ますと観音様に陽が当り、心穏やかな気持ちになっていることに気づきました。

 3時間目は場所を変えて本日の宿、「いろりの宿 島畑」です。
 「山の動物達は訴える(学ぶ)」と題して、11月15日に解禁となる山肉料理の星野屋の社長・片町 彰さんの講演です。

              

 これが実に面白く・楽しく・しかも遠山弁でお話していただき、ほのぼのと現状の山や動物達の実体、其れらを通じての命の大切さと自然環境を考える視点や実践すべきこと、お話いただきました。
 「一番怖いのは人間だに」と数度口にされました。 自然や山の動物のことに詳しい方ではないと聞かれない話でした。

     

 今では禁猟になっている動物の剥製が持ち込まれ、子供達も興味津々でした。

 4時間目です。陶芸館で「遠山焼き」の湯飲みに挑戦しました。 かって、2度ほど挑戦したことがありますが、結果は自分でも酷いものだと思わずにはいられない出来栄えでした。 
                

 かなり真剣に取り組みましたので、始まる前にご指導を頂いた先生の写真は撮りましたが、その後は写真どころではありませんで、記録がありません。
 12月のクリスマス前には自宅に配達していただけることになっています。
 本人は「ビールカップ」を製作し積りですが、果たしてどのような出来栄えになっているか楽しみです。

 本日最後の5時間目は楽しみの「地元の方々との交流懇親会」です。
 最後に、藤原先生のアコーデオン伴奏によって皆で歌を歌いました。

            

    

            

 2次会もありますよとお誘いを受けましたが、既に9時半、通常の私の就寝時間になっており、明日も早いので失礼しました。 其ればかりではなく、足元が少しふらついておりましたので、日本酒で5合以上は美味しく頂いたことがやっと判断できる状況でした。


 11月11日   第2日目

         

               
「いろりの宿 島畑」の朝、
    雨こそ降っていませんが庭先の真っ赤なドウダンツツジが煙っています。

        


      向かい側の山並みは水墨画のように、これまた怪しい雲行きです

               
 
 
旧木沢小学校に集合しました。 当日は私達「藤原学校の塾生」以外にも、一般公募の方たちもおられます。 参加者は地元のスタッフの方も含めて総勢70名弱です。

               

 昔は賑わっていた森林鉄道の「停車場」で歴史をお聞かせいただきました。
 昭和15年から線路の敷設が始まり、19年には本格的に稼動が始まりました。
 昭和30年代後半が一番盛んな頃で、当時の人口は6500人で、中学生も570人でした。(今は、遠山郷は2000人、中学生は31人とのことです)
 昭和45年頃より、線路の解体が始まり、昭和49年には完全に森林鉄道は撤去された。

    

         

 遠山川に沿って森林鉄道は敷設されていました。 時折、かっての線路跡を見ることが出来ますが、ほとんど草や雑木で面影を見ることは出来ません。

 が、急峻な山の中腹に民家を目にすることが出来ました。 (写真2段上の右側)
 約2時間半歩いた中で、6軒ほど見かけましたが、高齢者ばかりで今は遠山郷の和田地区の公営住宅にほとんど引っ越しておられるとのことです。
 しかし、お元気な方は週に何度か茶畑の手入れに来られているようです。

 こんなお話も聞かせていただきました。
 「石川県からお嫁さんに来てもらうことになったが、余りの山奥で驚いて逃げてしまうのではないかと心配し、昼間は敬遠して夜暗くなってから連れてきた。
 そこで、舅と姑が用意していた行李に豆を入れて揺さぶり、音を流した。『アレは何の音か』と訊ねるので、『波の音だ』と言ってその夜を過ごした」と。

 嘘のような話であるが、この地で聞けばまんざら嘘ではないと思える話であった。

            

 赤い釣り橋もありました。 80歳と言われる方が今も和田地区からほとんど毎日ここに来られ、数十メートル上で作業をされているとのことでした。

         

           木の橋です。ここを森林鉄道が走っていました。

                

 この森林鉄道で40数年間、補修工として働いておられた今年78歳の小沢さんのお話を聞かせていただきました。 ”木の橋”には今は欄干がありますが、当時はそんなものはなかったそうです。 枕木を担いで渡った話をされる時、「今思うと、良くもあんなことが出来たものだ」と回顧されておられましたが、健康の秘密は「笑顔」と「大きな声を出すこと」だと言われ、低音、中音、そして最後に発声された高音とその息の長さに驚かされました。

                

         もっと、色んな角度から撮影してくればと悔やんでいます。
 これは遠山川に架けられた全長約30メートルの橋の上に設営されたバーベキュー会場です。  当初は橋の上だから風が吹き抜けて寒かろうと風除けシートを用意していましたが、当日雨模様となり、急遽テントに早代わりしました。

 ここがお見せできなくて残念なところですが、活字で説明しますと、テントの両側には軽自動車に心張り棒が括り付けられ、そこからロープが張られていました。
 「一晩寝ずに考えた」と笑っておられましたが、橋の上と言い、テント張りといい、そこにあるものを利用するアイディアに感心してしまいました。

 この後、一般参加者は峠越えで2時間強歩かれるとのことでしたが、私達のグループは
迎えに来たマイクロバスのところまで戻り、木沢小学校に向かいました。

 会場を和田地区の「学習交流センター」に移し、そこで藤原先生の講演会に参加しました。 地元の方々も参加されて「遠山郷から日本を変える」とのタイトルで希望が湧く講演内容でした。 また、その実現に向かって歩きはじめたj実践活動の方々の明るい姿に接することが出来有意義でした。

              

 先生の講演内容は http://taiki.blog16.jp/ (繰り返し http://taiki.blog16.jp/)に掲載しました。

              
 
                最後に、修了証書を頂きました。

 大半の方が午後3時55分、遠山郷・和田バス停から飯田線・平岡駅に向かいました。
 実に後味の良い2日間を過ごさせていただきました。 ありがとうございました。                


 
                              平成19年9月19日 記

 遠山藤原学校に行く  そのB 9月18日のこと

 〜気の出る神社、観音霊水、小嵐展望〜               


 民家での朝が明けました。 寒いということはありませんが、気持のよい冷気です。

        

 前日のそのAと比べてください。 午前7時を回りました。朝日が山全体を照らしています。
                

  民家の本家筋の家。昨夜の話・イノシシの飼育をしており、昨年からラーメンも始めました。 私はまだ口にしていませんが、都会の若者がスープが美味しいと言っていました。

       
      
    この建物の奥に本殿があります。   約20年に1回張り直される太鼓の片側

 木沢小学校の戻り、昨夜の「五目御飯」を茶漬けでいただき、歩いて7分の所にある、『気の出る神社=熊野神社=木沢で5箇所ある”霜月祭り”が12月2日に開催される神社を訪問しました。
 この建物に入る石積みの3段のところから、間違いなく暖かい空気が立ち上っています。
 「この辺りには断層があるからその為でしょうか」と訊ねると、「そうかもしれない」との返事でした。

    

 建物中の本殿です。間口3・5メートル、奥行き3マートル、高さは3メートル近くあると目測しました。
 禰宜様が調べたところ、「藤原」の姓が掘り込まれた手鏡が出てきたと言って、見せていただきましたが、確かに3個の手鏡に、その名を確認しました。
 
 藤原先生が平家の落人で、木地師として先祖がこの地に住んでいたとの話を聴いたことがあると話されておられました。 先生は「なぜか、この地に惹かれるのですよ」と言われます。
 15年前、この地を背景とした「雨宮 浩一郎(?)」の小説を書かれたことを思い出しました。 その当時の書かれた事が今、正に、日本で現実化していることに驚愕します。

    

                    「奉納」に書する、藤原先生

    

              建物の中、本殿の前に作られた祭りの釜戸

            

                         記念写真

                

 戦国時代・450年前、遠山氏はこの地を治めていたころから、一度も枯れたことのない「観音霊水」です。
 南アルプスの最南端、遠山郷唯一の独立峰・盛平山に湧き出る龍淵寺の霊水です。
 周辺は中央構造線、遠山赤石構造線、赤石断層の3つの断層が入り組む地形で、「観音霊水」は南アルプスの池口岳の水脈から、数億年前の石灰岩層(海の栄養)を何十年もかけて溶かしだし、取水口である盛平山へたどり着いたとみられるています。
 現在、日本一のナチュラル・ミネラルウオーターです。

    

 龍淵寺がかっての城跡です。その地続きに「遠山城(今流)」があります。
 そして、写真右の「殿町の茶屋」は、この地の3人の奥様達が開業したと言う茶屋です。
 ここのお饅頭は評判で、毎日早いと昼過ぎに売り切れということです。
 午前10時頃だったのですか、次々にお客様がお見えになっておられました。

 ポリタンクを購入してきまして、18mlを2個車に積み込みました。ウイスキーロックが楽しみです。

 さて、最後は再び工事中なので国道152号線を使えば10分もかからない所を、細い山道を山越えで木沢に戻り、そこから更に狭い山道を小嵐稲荷公園に向かいました。
 私のキャンピング・カーなら間違いなく通行できません。
 途中から、地道になり時速5kmでノロノロと上りました。 ここでは毎年「夏の開山式」が開かれるところで、そのときは急峻な山道を歩いて登るということです。

      


                  
        
  鳥居の横にナラの大木がありました。いつもいつも遠山郷を見守っているのでしょう。
                 その根元には、次ぎの代の子供が・・・


        

            そこの展望所からは「遠山郷」が一望です。


 本当に素晴らしい、気持のよい2日間でした。
 帰りの道は、天龍村〜阿南村〜売木村〜平谷から上矢作を通って帰りました。 
 中央高速道路の飯田市経由ならば2時間半ですが、こちらは久しぶりのことと、工事中で迂回などして少々道を間違えましたが、カーナビと地図で大事には至らぬところで引き返し、3時間半で帰宅しました。



 
                              平成19年9月17日 記

 遠山藤原学校に行く  そのA

 〜「遠山郷・木沢地区・中立の民家に宿泊〜               


 旧木沢小学校に着きました。(木沢小学校のことはコラム1−D NO702から704、あるいは『旅日記』8月10〜13日に掲載されています)

 お話を聞かせていただいているうちに、この地区の民家を借りて都会から観光客を呼ぶ計画が進んでおり、数週間前に補修と掃除が終わったばかりだ、覗いてみないか、宿泊してみないかと言うことになり、まずは見学させていただくことにしました。

 国道152号線から車で約5〜6分ほど坂道を登ると、急峻な山肌に数件の民家があり、そのひとつが目的の民家でした。

          

            ↑ 上記は9月17日 午後3時ごろです。

          

          9月18日、朝の同じ眺めです。 午前5時半 朝明けです。

          

             民家の裏の窓より、茶畑と民家を望む

    

                この民家に一晩お世話になりました

              

               隣の家の墓。 9月18日朝、撮影

    

   1階が約27〜8坪で、その居間              囲炉裏部屋

                 

           風呂場、トイレも改装してあります。水洗便所でした

      

  若尾文子さん20代?       ネギ(?)       昭和32年度国保完納の章

   

    エビス大国様         裸電球がアチコチに      ???

   

     賞状                                  善行証書

 地元や飯田市内からの有志の方々によって、何度も手が入れられたことがよく理解できるほどに、整備と掃除がなされていました。
 普通なら埃が舞い、かび臭いのが当たり前でしょうが、この民家の本家の方が近くにお住まいになって居られ、時々風を通していると言われましたが、その夜使わせていただいたフトンも気持よいものでした。

 
 さて、この民家を視察した後に木沢小学校に戻り、小学唱歌=童謡を藤原さんのアコーデオン演奏で歌い、その後約1時間先生のお話を聞かせていただきました。
 その内容は、別途掲載します。

               

                   校長と呼ばれている山崎さん

    
 
              

        藤原先生、熊野神社の禰宜様、そして遠山藤原学校の高橋さん

    

 兎に角、お酒が強いのです。 コップの底まで飲み干す前に、次々と注がれます。
 本日はこの地区の方(上記民家の本家の方)が飼育されているイノブタの焼肉です、アッサリしていてあまり肉を口にしない私ですが、箸が進みました。

 なお、鹿には虫が全くついていないと言って良い。
 イノシシは虫を持っておる。痩せたイノシシには必ず虫がいる。飼育しているイノシシには時折、虫下しを施す。
 熊は首筋のところの肉に虫は付いていると言うことで、注意しなければいけないと初めてお伺いするお話を承りました。
 

 
                              平成19年9月17日 記

 遠山藤原学校に行く  その@

 〜矢筈トンネル周辺と秋葉街道”遠山郷”のこと〜               


 特別の理由はあリませんが、遠山郷に行くときは一直線に目的地を目指していましたが、今回は早めに家を出発して、遠山郷に入る手前の「矢筈トンネル」付近を散策しました。

 既にご案内したところですが、遠山郷は中央高速道路の飯田市から”矢筈トンネル”が開通するまでは、南アルプスと伊那山脈の谷間に位置する陸の孤島といわれていました。

 これは江戸時代、この地の木材を確保する為に、幕府が簡単に人が入り込めないようにしていたことのも大いに関係あるようです。
 と言っても、平成6年4月に完成した矢筈トンネルですが、南北に走る国道152号線(浜松〜高遠〜諏訪を経由して更に北上計画)はありますが、全線開通までにはあと10年とも、20年とも言われており、途中で途切れた国道沿いに「早期開通152号線」とか「152号線改良促進」の看板を見るたびに寂しく感じられてなりません。

 これから紹介する天龍村と喬木村を除いては、全て伊那谷一の町・飯田市に合併されております。
 飯田市内から喬木村に入りましと、まったくと言い程に道路整備がされていません。 
 舗装はされているのですが、公共投資をしていないのでしょう、道がクネクネとしかも狭いのです。 なにやら、村長さんの考え方が反映されていると聞きました。(お金を使わない、余分なことはしない。これも考え方、やり方のひとつでしょう。よって飯田市とは合併しなかった?)

 矢筈トンネルを作っているときに同時に出来たのでしょうか「矢筈砂防ダム」がトンネルの近くにあります。

           

 ダムから上流2〜3百メートルのところから河原に下る道があります。(川原ではなく砂で埋まったのでしょうか)、そこが矢筈のキャンプ場です。

    

   手前から水が流れ込んでいます     そこから上流部を眺めるとキャンパーです

      

     入り口の看板                  ブラックバスを釣り上げていました 

 その後、矢筈トンネルに向かいます。 
 トンネルの入り口に行くためには、急勾配の坂道からインターチェンジを兼ねた(?)山奥には滅多に見当たらないであろう谷間の曲線回廊を上ります。

         

 矢筈のトンネル入り口の彫刻は、後続車が来た為に撮影を諦めましたが、4180メートル、標高八百数十メートルの矢筈トンネルを越えて、遠山郷へと入ります。
 トンネルを越えるとそこは上村です。 矢筈トンネルに接続予定の橋柱が既に出来上がっておりますが、一部サビがきているのではと眺めました。

         

         左の道路が現国道152号線、上村川、そして橋柱です。

 さて「遠山郷」と一口に言っても、何時の日からは知りませんが、一概に一くくりには参らないようです。
 現時点で、知りえた情報を基に、「遠山郷」の状況を記録しておきます。

 途中「青崩峠」と「地蔵峠」で寸断されている国道152号線(迂回路はあり)沿いの、かっての町・村の関係と今とこれから進展を見るのに役に立つのではないかと思います。

 @国道152号線は浜松市から天竜川に沿って北上します。
 この街道は龍山村にあります「秋葉山=秋葉神社=火の神様を祀る」から、”秋葉街道”と名づけられて北上し、南信濃村、上村、大鹿村、長谷村から高遠町を経由して諏訪市まで通じています。(南信濃村、上村は現在飯田市に平成16年に合併。 大鹿村は独立しており、長谷村、高遠町は伊那市と合併している)

 私の記憶に間違いがなければ、浜北市、天竜市、龍山村、春野町、佐久間町、そして長野県境の水窪町までが浜松市と合併して政令指定都市として平成17年に指定されています。(そのほか浜松の西方面の舞阪町、雄踏町、細江町、引佐町、三ケ日町も含めて)

 Aここで、中心課題になりますのは、旧・上村と南信濃村そして、長野県天竜村です。
 今回の旅で知ったのですが、南信濃村もかっては「木澤村」と「和田村」とに分かれていたようです。合併して南信濃村になったのでしょう。
 その南信濃村・和田の南西に位置する天龍村の和田よりところに「遠山郷入り口」と言うバス停車場があります。
 ということは、天龍村までを含めて、「遠山郷」と呼ばれていたのでしょう。

 B平成17年の飯田市との合併問題では、上村は最初に合併賛成を打ち出したということです。 南信濃村の木沢地区と和田地区は住民の意見が分かれたと聴いています。
 天龍村は平成19年9月の時点では、独立行政です。

 なぜ、上村は早々と合併賛成を言い出したのでしょうか。 ここにはかって有力な国会議員を輩出しておりました。
 よって公共投資が大いに実施され箱物行政が進みなした。 が、縮小財政の中運営費に事欠いて行きました。 お分かりのことでしょう、助けてくれと言うことです。
 この村には「しらそび高原」、「日本のチロルと言われる下栗の里」というような見て楽しむ観光場所があると解説されました。

 が、南信濃村には「霜月祭り」という余り注目もされていない、年々住民が減り、年老いて祭りの運営が大変なっている無形文化財ぐらいしかないとも言っておられました。

 今回、私の知りえた情報はここまでですが、今後何度か訪問するごとに、この地の歴史・文化・伝統等の知識が加わって行き、同時にこの地がどのように変化してゆくかの情報も発信できると思います。
 引き続き、情報を流しますのでご期待ください。


 最後に、上流部から下流に向かって地理の説明をしましょう。

 イ)国道152号線は静岡県と長野県の境のところ「青崩峠」(平成20年には開通するとのこと)と、もう一箇所、上村と大鹿村の境「地蔵峠」のところで、途切れています。(迂回路はあります)
 その地蔵峠を源とする「上村川」が上村を南北に縦断して流れています。

 ロ)長野県と静岡県県境に位置する聖岳(3013メートル)を源とする「遠山川」は途中「矢筈山(1593マートル)から流来る川を取り込んで木沢地区で「上村川」と合流します。

 ハ)合流後は遠山川となって、約16キロメートル下って、飯田線「平岡駅」の近くの、平岡ダムに注ぎ込みます。 天竜川との合流です。
 その後は天龍村を縦断し、佐久間ダムに至ります。

 ニ)龍山市、〜天竜市〜浜松市と磐田市の間を流下り「暴れ天竜川」が太平洋と注ぎます。
 
 

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