COLUMN 1−D NO476 平成18年3月11日 記 一番最高の時に撮影しようと考えまして
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平成18年3月07日 |
65才を前にして 〜その1〜 |
| 特に考えたことではない。 また、何の感慨も無く60歳を迎えたころより、次の変化は65歳のころにやってくるのではないかと、どこかで感じていたというか、其の頃から体の調子、体力も気力も変化してくるのではないかと予測していた。 今年1月14日の誕生日を越して既に約2ヶ月、64歳の道をそれまでと何の変化も無くすごしているつもりである。 朝のストレッチ体操の柔軟性において変化があるわけでもなく、夕方の散歩においても特に気づくことは無い。 但し、急な坂道を早足で登る時に、息の弾みぐわいは前より早くなったかなと診断している。 どこかで、何か区切りをつけなければとの思いが時々脳裏を走る。 というのも、数年前、いや10数年前、年齢と共に判断材料を減らしてゆくことが大切であるとの活字を読んで、それは心すべきことと思ったことがあるからである。 今日まで時に脳裏を走りながらそのままにしておいたことに、どこかに引っかかるものを感じていた。 本日2006年(平成18)3月7日の中日新聞、「阿久 悠の歌謡歳時記”引越し”」を読んでいて、家具類、着る物の処分に加えて、本の処置について書かれたものを読み、書斎の本棚から溢れた書物を整理しなければと思いつつ、既に数年以上の歳月が過ぎている。 この間2回、気を入れて整理にかかったのであるが、結局数冊の処理で終わってしまった。 ついつい、其の本を手にした時のことが思い出され、それを処理することはその時の自分を否定することのように感じたからである。 今回は先に基準を作ることにした。 前提、@約3000冊あるものを、半分の1500冊にする。 A1回で整理するのでなく、6区分されている書棚を半年で見直す。 整理の基準 @歴史書・哲学書、人物書は残す。 Aこの2年間に手にしなかったものは整理の対象とする。 B今後3年以内に、手にしないだろうものは整理の対象とする。 C時の時代を評論していた政治・経済書は整理の対象とする。 但し、当時のヒット書は残す。 Dハウツウー書は整理の対象とする。(今後に通じるものは残す) E個人的に関係あるものは残す。 *裏面に書した所有を示す名は消すこと 以上の基準を設けたが、さて如何なりましょうか。 現在の心境では今までと異なり、かなり思い切って実行できそうな気がしているのだが・・・ |
平成17年2月07日 |
NO番外―4 平成17年1月14日 初記
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| M実は四国の生まれといっていたが、確かなことは分からない。 T市に来る前は神戸で暮らしていたことだけは事実のようである。 多分、神戸・三宮に居られなくなった訳ができたか、あるいは逃げ出したい事柄があったかのどちらかだろう。 誰一人身寄りのないT市に来たのは高度成長の真っ只中、昭和30年代後半の事であった。 T市の夜の盛り場はキャバレーと看板を掲げた店が、T市の西・昔の遊郭の地に1軒と、街中の映画館の地下に1軒の他は、白割烹の前掛け姿の女将さんの居酒屋と今ならスナック・バーとでも言う4〜5人から7〜8人の女性が接客するクラブ・バーと看板を掲げたお店が、駅前の大通りから2〜3本外れた裏通りに建ち並んでいた。 戦前は陸軍第18歩兵連隊のあった都市で夜の賑わいはT市の東の地・A町にも、西に勝る遊郭地があり、兵隊さんの他にも近郊近在の町・村々から男達が繰り出しで繁盛していた。 戦後、戦災で焼け野原となった市内は区画整理がなされ整然とした町並みとなり、午後8時を回ればどの商店街のシャターも降り、酒場通りもほとんど人通りが絶えてしまう寂しい夜の街と変わっていた。 当時のクラブ・バーの営業は午後11時までであった。 金払いの良い客がいれば店の灯りを落として、ミュージックもなしで続けられる事もあったが、そんな事は月に2〜3度あれば良いほうであった。 チーフ・バーテンダーのNは閉店時間になると早々と引き上げるのが常であり、そんな後は何時もKが居残りで客の注文を受け、洗い物の跡片付けをする羽目となった。 文句一つ言わず時間外を引き受けるKに、店のママは帰りに何か飲んでいきなさいと100円札を2枚渡してくれた。 時には客が1000円のチップを弾んでくれた事も有ったが、そんな事は月に1〜2回もあれば良いほうであった。 毎日といって良い位、閉店間じかになるとM実の足元はふら付いていた。 お客さんが居なければ自腹を切ってビールをグイグイと飲み干していた。 時にはチビチビと飲む客に向かって、「今日は私が奢ってやるから飲もう」と啖呵を吐いて、自分でビールの栓をあけて振舞う。大柄で気風の良い姐後肌であった。 T市に来た当初は店の2階に住み込んでいたが、半年が経過したところで1DKのアパートを借りたM実ではあったが、酔いつぶれか、足元が怪しくなりアパートには帰らず、店の2階に担ぎ上げるのもKの仕事の一つになっていた。 その日、M実はいつもより早く怪しい呂律ではあったが、アパートに帰るといって聞かなかった。 タクシーを呼ぼうかというと、要らないと言い残して街中へ歩き出した。 Kは洗い物もそこそこにそのあとを追った。 繁華街の灯は薄暗く、時に商店街のシャターにぶつかりながら、「私の言う事が聞けないのか」などとKに毒ずいていたが、街外れの渡線橋の上でM実が屈み込み、嘔吐を始めた時初めてKはM実に近寄った。 M実は泣いていた。 「良いから帰って」とKを払いのけた。 Kはその場を立ち去ったものの心配で、M実に見つからないようにアパートに姿が消えるまで後をつけていった。 次の日M実は何もなかったように出勤してきたので、Kは何も言わなかった。 それでいて、店の閉店間じかになる頃はいつものようにお酒がまわっていた。 ある夏の日、M実は開店早々お客とチョットした事で口論になった。 ママがKにM実を外に連れ出すように言った。 渡線橋を渡ってゆくのでアパートにでもそのまま帰るのかと思って付いて行ったが、アパートの前を越して畑と田圃の続く農道を無言で歩いてゆく。 2時間も歩いただろうか、雲のかかった月明りで農道の見分けつくのがやっと、M実が突然「疲れた」と言って草むらにしゃがみこんだ。 Kは皺だらけのハンカチを取り出して汗を拭い、その横に座ってぼんやりと月を見上げた。 長い沈黙の時間、突然小さな声でKの知らないメロデイーを口ずさみ始めたM実、聞くとはなしに耳にしていたK。 その時風でも吹いたのだろう横座りしていたM実の髪がKの頬をなぜた。 傘を差したような月が一瞬雲間に隠れた。 昭和30年代後半、Kの学費はクラブの先輩の斡旋によりN市に出向き、舞台裏方のスタッフの稼ぎと夜のアルバイトであったが、どちらも日給500円という薄給である。 時に雀荘に通い勝つ事もあったが、ほとんど召し上げられる事のほうが多かった。 年2度納付する学費はM実が「払いなさいよ」と言ってポンと渡してくれた。 Kは好きな教科と出席率が絶対必要条件と成っている教授の授業には真面目に出席し、単位を確実に取得していた。 3年の学期末には教養課程の自然科学の一教科を除き、必須専門科目も選択科目も全て単位取得を終了していた。 評価は優、良、可で行われていたが、優の数が目立つ成績であった。 時にはT市の図書館に行き、友人の提出課題の論文を代筆するアルバイトをしていた。 これは良い稼ぎにはなったが数が少なかった。 3年時の夏休み、KとM実はKが育った田舎に旅をした。 そこではKの継母が薬局を経営していた。 何も言わずに迎えた継母は何くれとなく世話をしてくれた。 いや、二人が面食らうほどのもてなしが次から次へと続いた。 終戦間じか、T市より運び込まれたKの生母の上質な桐のタンスを開けて、「私は何も手を付けていないからM実さんどれでも持ってゆきなさいよ」と薦めた。 初めは躊躇していたM実、何度も何度も薦められるので、やっとその中から一番派出目な着物と帯を選んだ。 大柄なM実が立ち上がり袖を通した。 その時、今まで一度も見せた事のない恥じらいを含んだ笑顔をKは初めて見て取った。 その旅から帰った夏の終わり、Kの家から夜の仕事に出掛けるM実の姿があった。 近所の人は表立っては何も言わなかったが、昔かたぎの城下町ではヒソヒソと陰口を言いあい、好奇な視線が注がれることを十分に感じていたM実であった。 Kと同居していた腹違いの姉と妹は何も言わなかった。 多分、M実のアッサリした性格によるとこらから来ていたのであろう。 Kは最終学年になっていた。 就職試験の開始協定もない時代で、早い学生は前年から就職活動を始め、夏休みが終わるころにはほとんど就職先が内定していた。 Kも何通かの履歴書を書いた。 が其の年・昭和39年は東京オリンピックの年であり、日本中がオリンピック景気に沸いていたが、オリンピックが開始されるころには建設投資も一段落、オリンピック終了と同時に急速に景気は鈍化していった。 景気上昇の後には必ず外貨不足となり、経済が循環的に萎むという繰り返しをしていた高度成長期の日本経済であった。 Kは競争倍率の高い広告会社や放送会社などの試験ばかりを受け全て合格には至らなかった。 夏休みに入るとアルバイトもやめて、仲間が帰郷しガランとした大学のクラブ部屋に泊り込んだり、雀荘に出入りの毎日であった。 安ウイスキーを飲みながら就職できなかった場合は東京・浅草に出て商業演劇の門を叩こうかとも考えていたりしたが、気がかりはそれでは食っていけないだろうと不安が脳裏を走った。 就職の決まった友人が心配して就職試験の模擬問題集や参考書を持ってきたが、それをマクラにまた安ウイスキーをラッパ飲みし、団扇でパタパタと足元を叩いて寝そべっている日が続いた。 M実はその頃、こんな歌を好んで歌った。「先があるのよ 貴方の身には こんな女は忘れるものよ ベルが鳴る鳴るプラット・ホーム ここが切れ目時 見せちゃいけない 私の涙 さようなら さようなら お別れ電話の 最後の言葉」(元気印・お恵ちゃんが明るい声で歌っていた。 お恵ちゃんこと 松山恵子の“お別れ公衆電話”である) 初めは黙って聞いていたが、ある日のこと、何度も歌うのでKは無性に腹が立った。 「絶対、別れんぞ!俺はお前が好きだ!」と叫び、M実の頸に手をかけた。 M実は何も抵抗もせずに身をまかした。 その日、M実は風邪を引いたといって頸に包帯を巻いて出勤していった。 秋風が吹き始めたころ、大学の関係者に顔の利く友人に勧められて大学の就職課の窓口に出向いた時、係りの事務員が「これから伸びる可能性のある会社を受験してみないか。 本校としても今後の就職先として有力と考えている。卒業生を送り出したい。 試験だけでも受けてみなたらどうか」と言った。 Kは内心、では受けてやるかとの思いで、その場で応募用紙に記入し帰った。 当時のN市はまだ各所に路面電車が走っており、私鉄N路線のJ駅からノロノロと走る路面電車で30分もかけて試験会場に行った。 N市の港に近い停車場“T”で下車、そこは港の盛り場の中心地でもあった。 地図をたよりに向かった先は旅館の一室であった。 簡単な筆記試験のほかに、副社長という方の面接試験もあった。 Kは自信満々というより、試験を受けてやるという気持ちを持っていたので面接の時、足を崩してくださいと言われれば、直ぐに胡坐を組むという、他の十数人居た応募者とはかなり態度が異なっていた。 10日後、家で寝そべっていた時、午前の郵便配達で合格の通知がきた。 当時、大学の就職課は一番先に合格通知が届いたところに就職することと指導をしていた。 その日の午後、出来る事ならこの会社に入社したいと思っていた会社から2次 試験の通知が来ていたが、大学の就職課には午前に合格通知が来たことを知らせ終えた後だった。 その就職先とは「スーパー」。 それはスーと出て、パーと消えるところから来ていると揶揄されている事などつゆとも知らなかったKであった。 月給制との触れ込みだった会社は月給制とは言え実態は「日給月給」と言って皆勤賞、精勤賞があり、月に一度も休まなければ皆勤賞、一日休むと精勤賞という手当てがつく制度、ところが2日休めば皆勤賞も精勤賞がつかなくなる、それどころか2日分の日当が差し引かれるという仕組みであった。 Kは全て皆勤賞の試用期間の3ヶ月の間、月に2度はT市のM実を訪ねた。 N市のJ駅を終電車に乗ってもまだ、M実の働いている時間には十分間に合った。 それどころか皆勤賞つきで手取り12000円では毎回M実の店に顔を出す事は出来なかったし、M実も他の客の手前嫌がったので、閉店するまで駅の構内でぶらぶらしたり、本を読んで時間をつぶしM実を待ってアパートに帰った。 大卒同期・仲間8人の共同生活の試用期間の3ヶ月が過ぎ、Kの正式赴任先がきまった。 しかも思いもかけない婦人用品担当であった。 N市のK店、そこの婦人部門には上司がいたが、それから3ヵ月後I市へ転勤となった。 そこでは上司も先輩がいない、野暮ったい店長という肩書きの50前後の親父タイプの店長が名目の上司と言うことになった。 労働条件が悪く、しかもサービス残業が続くので、先輩達が次々に退職してしまい、入社1年目のKにお鉢が回ってきたということである。 当時、上位クラスのスーパーでは既にチェーン組織が組まれ、本部体勢がとり、集中仕入れが始まっていたが、Kの勤務するスーパーはまだ本部一括の集中仕入れは肌着などの部門に限られ、各店の担当者がそれぞれに仕入れをしていた。 一回りの季節も経験していないKにとっては秋もの、冬ものなどと言っても分かろうはずがなかった。 それでも店長が仕入れてくるものは、ただ安いだけで、どう見てもセンスに欠けるものばかりであったので、2ヵ月後Kは来週から自分で仕入れに行くと申し出た。 店長も困っていたのだろう、一言も言わず次の週に一度だけ同行してN市の問屋街を廻って案内してくれた。 自分で申し出た事とはいえKは怖かった。 そこで一回に多くは仕入れずに、週に2度N市の問屋街に出掛けてはその週に販売可能と思われるだけの数の商品を仕入れてくるという事が続いた。 それにはI市に来る前にK店で経験した事柄があった。 K店の勤務していた時、上司から一度自分で品選びをしてみろとお店に販売に来た問屋を紹介された。 恐る恐る選んだ。 選ぶ時、問屋さんは「絶対間違いがないからこれを選びなさい」と言ったので、その通りに選んだ。 売り場に並んだその品は何時までたっても消えなかった。 数日後、隣の部門に販売に来ていた問屋さんとカウンターのところで話をしていた時、Kは「問屋さんは嘘をつくのか、絶対売れるからといったので仕入れたが、まったく売れない」と言うと、良く売れる商品を持ってくるとの評判が高いまだ若いその業者の方は即座に、「それはアンタが悪い、相手の言う事をまともに受けて、仕入れたほう悪い」とただ言って笑った。 その時以降、Kは問屋は嘘をつくのか、そういうのが商売かと、その後長く心に突き刺さったトゲのように忘れる事が出来なかった体験であった。 其の体験から週に何度か仕入れに出向き、たとえ仕入れに失敗しても大きな痛手にならずに済むからとの思いからだった。 それが度数仕入れと言うものだということを知ったのは大分後の事である。 そのために休みなどほとんど取れなくなった。 日増しに成績が上がった。 寮に返ってもその日の実績を票やグラフにして遅くまで分析し、次の仕入れに役立てた。 店長は「K君良くやっている」と褒めてくれたが、検品所のおばさんは「大学まで出た人が何でこんな会社に就職したのか」と顔を見るたびに言った。 年末の大売出しは販売する商品が不足してしまうほどであり、正月早々問屋さんに出掛け、いつもより大目の仕入れをしてきた。 正月売出しが終わると急速に店は暇になった1月末、久しぶりに土産などを手にして、勇んでT市に帰ってきた。 M実の勤める店に顔を出すと訳も言わずに「今日は帰って」と冷たく言う。 その日は仕方なく実家に泊まった。 翌日、M実のアパートを訪れるが姿がなかった。 アパートには電話がない。管理人の部屋に呼び出し要の電話はあったが、何度かけても留守だとの返事しかかえってこなかった。 たまりかねて、初めて振り替え休日を取って昼間、M実のアパートを訪ねるが応答がなかった。 次の週の休みも出掛けM実の店の終わるのを待ったが、一向にM実は姿を現さなかった。 KはM実のアパートにタクシーで乗り付けて、コンクリートに土間で身を震わせてM実の帰りをまったが、その日、M実は帰ってこなかった。 どうなっているのだ、どうしたのだと気にはなるが連絡は取れない。 あわただしい2月の年度末の忙しさが一段落した3月初め、再びKの姿がM実のアパートにあった。 Kはそこで立ち竦んだ。 窓一つ隔てた部屋から大きな鼾を聞いた。 冷静に状況を認識できたのはどのくらいの時間であったであろうか。 数度小さく声を掛けたが、何の返答もなくその場を去った。 × × × × × × × × 5年の歳月が過ぎた。 Kは同じ寮で知り合ったWと結婚していた。 T市の実家のお墓参りに行ったある日、かってM実が勤めていたお店に顔をだした。 店のママは当時のままであった。「立派になったね。 結婚したの。」と話しかけてくるママに生返事をしていると、「M実ちゃん、今ここにはいないわ」というだけで、それ以上のことは教えてくれなかった。 Kの事を何も知らないかってM実と友達だったというホステスが、「近くでお店を開いているよ」と教えてくれたが、Kは訪ねなかった。 更に3年の月日が経過した。 Kの所属した婦人用品部門の全ての先輩が退社してしまい、その分野では一番の経験者となっていた。 その間、労働組合を立ち上げたり、会社合併もあり大変な月日が続いたが、生活もそれなりに安定していった。 ゴールデン・ウイークの商戦も終わり、一息つける初夏に連休を取って、KはT市の夜の街に降り立った。 街の様子はほとんど変わっていず、クラブ「ラ・モール」の看板もそのままであった。 店の前を一度通り過ぎて、近くの公園でトイレを使い、鏡とにらめっこをし、小さく「よし!」と声に出してから来た道を引き返し、「ラ・モール」のドアーを押した。 まだ、時間的に早いこともあったのか店には誰もいなかった。 が暗闇に目が慣れる間もなく見覚えのある顔立ちのママさんがカウンターの下から顔をだした。 「 どちら・・・」と言いかけて「あらKちゃんじゃないの。 お久しぶりね。見違えてしまう」と愛想笑いをした。 Kにはそれが美形の顔かたちのママさんだと直ぐに分かったが、厚化粧はされていても、その変わりようは随分だなと思った。 Kはビールを注文した。 飲めないと知っていたママにも勧めた。 二階から降りてきたまだ20歳にもなっていないのではないかと思われる若い子が隣に座った。 彼女にもビールを勧めた。 こちらは「頂くは」と言って、グラスの半分を一気に飲み干した。 「ビール好きかい」「ええ、好きよ。 喉が渇いていたから特に美味しい」と継ぎ足すとまた、嬉しそうに口に運んだ。 お客さんこの店初めて、初めてではないでしょう」といい、ママの方をみやった。 ママは「そうね、初めてではないわね」と応えただけで、会その後会話は途絶えた。 ビールからウイスキーのロックにして3杯目を追加した時、ママが「相変わらず、強いのね」と言ったあと「Kちゃん、少し遅かった」とポツリと言った。 「ナンですか。」と言葉を返したものの、それは何を意味しているか、直ぐに分かった。 グイッと飲み干して「何処かのお店にいるのですか? それともこの街ににはもういないのですか?」 と出来るだけ冷静に訊ねたつもりであったが・・・ 少し間をおき、カウンターの隅から近づいて、「亡くなったのよ。 昨年」とだけ言ってソット目頭を押さえた。 其の後、隣の席の女の子が声を掛けてきても、ロックを空けるばかりで、会話にはならなかった。 如何程の勘定かも訊ねずに、その女の子に数枚の札を渡して店をでた。 既にシャターが閉まり、時折切れた蛍光灯が点滅する商店街を歩いた。 何時か渡線橋を越して、農道に向かった。あの時と同じ月が後ろ姿を照らしていた。 |
平成17年1月31日 |
NO番外―3 平成17年1月14日 初記
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| COLUMN1-D NO174 平成17年1月18日 |
NO番外−1 平成17年1月9日 初記
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| 1980年代後半バブル期、ブランド品が次々と紹介され、販売された。 誰もが3〜4品は自慢のブランドのバッグ、あるいは衣装を身につけていた。 田舎暮らしばかりということもなかった。 一度東京に出てはみたものの、なじめぬままに故郷・東北の小さな町に引き込んでいた。 1年が経過した、父母は何も言わなかったが、迷いつつも思い切って独り立ちのために都会に出て、ファッション関係の会社に就職をしたときA子は20代後半であった。 バブルが崩壊して順調に成長していたと思っていた会社に危機が訪れていたが、彼女が其の事に気がつくのは会社の幹部間の争いが表面化してきた頃であった。 右に、左にと揺れ動いた。 社内どころか社外までにも内部告発の文面が配られるようになった。 それ以前にもそんな事があったらしく、それを経験している先輩達は何も語らずに、どちらに味方すると言う事もなくうつむいて仕事が続けられた。 暗い雰囲気の中、成績は日増しに落ちてゆく、親会社は見過ごす事が出来なくなって、ついに断がおり、新しい社長が就任する事になった。 新社長は長年続いた負の遺産の切捨てを初めとして、次々に改革の手を打っていった。 右、左と揺れていた社員も日ごとに纏まっていった。 新社長が就任したその年、彼女が所属する部のXmasのパーテイーに初めて社長が招待された。 引っ込み思案のA子を仲間は面白がって、あるゲームで社長の相手役に選んだ。 ピンポン玉をスラックスの上から下まで早く通すと言う、少し怪しげなゲームであったが、彼女は他の組が躊躇しているというのに臆することなく大胆に振舞い優勝してしまった。 大きな歓声で終わったゲームのことなど直ぐに忘れ、テーブルや椅子で所狭しと並ぶなか、次々にマイクが手渡されて歌い踊り、時間の経過と共にパーテイーは盛り上がって言った。 “乾杯!乾杯!”と威勢の良い掛け声が聞こえる。 が、A子はゲームの後も又もとの椅子に戻り、隅のほうで目立たない存在であった。 そんな彼女に社長は声を掛けた。 そして、皆の声に押されるように2人のデユエットとなった。 歌い終わるとまた元の隅の席に帰った。 パーテイーはお開きとなった。 「何処まで帰るの?」と訊ねられたところはタクシー待ちの場所であった。 何を話したかはほとんど記憶にない。 ただ窓を少し上げてネオンの明りが走ってゆく風を呼び込んだ。 先ほどまでのお酒で火照った身体に気持ちよかった。 アパートの方向であることには間違いなかった。 既に其の時A子は予感をしていた。 と言うよりは心のどこかで期待していたと言うほうが適切であったのかも知れない。 二人の関係が一年近く経過した時、其の時の心境を訊ねられたA子は「シマッタと思った」と応えていたが、果たしてそれは本心であったのであろうか? 数年の年月が過ぎた。 その間、日増しに大胆な逢瀬となった。 大半は会社の終了後ホテルで、示し合わせた休日には一泊の京都、奈良への旅、A子の故郷の温泉宿、お正月休みなどには彼の故郷のお祭りにも顔を出した。 が、周りには十分に気を使っていた。 A子の無表情な態度と口数によって二人の関係は疑われる事はなかった。 A子は入院生活も体験した。 ある日の早朝、出勤前に彼が見舞いに来た。 嬉しかったと同時に、入院中に彼が他の人に奪われはしないかと心配すらして、オペのキズ口が十分治っていないことを忘れて彼にしがみついた。 深まる行為の結果には当然の結果も経験したが、A子は一人で対応した。 妹の結婚を機に、A子の気持ちがぐらついた。 既に30を2つ越していた。 彼からの連絡を待つというよりはどこか避けるようにさえなっていた。 再び緊急入院する羽目となった。 ある朝、訪れた彼に「もう来ないで」といった。 そして「私、後悔はしていません。楽しい出がいっぱいです」と伏目がちに、しかしハッキリとした口調で告げた。 退院後のA子はそれまでとは態度が一変した。 いままでの事は何処に何があったといわんばかりに、いや「私は別物になった」というように、彼の前をワザと大またで通りすぎたり、電話口で大きな笑い声を発した。 2年の月日が過ぎた。 突然A子は電話をした。 彼以外にこの窮状に対応してくれる相手が見つからなかった。 彼は会うとも言わず、1通の手紙を出すように言った。 そして、A子の要求に応えてくれた。 その後、全ての約束を履行しないまま数年の歳月が流れたが、その後のA子の消息は分からない。 |
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