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 COLUMN 1−D NO528−7
                            平成18年5月22日 記

      11冊目のパスポートの申請へ
〜8冊目から9冊目(1991年)発行、1996年有効〜
 〜10冊目は1996年から2006年の10年間〜

 
 「11冊目のパスポートの申請へ」が、7回目となりました。 此処まで来ると限の良いところまで行かないと、収まらない性格です。
 8冊目の発行地は「CONSULATE GENERAL OF JAPAN AT HONG KONG]です。 殆ど毎月、日本と香港を往復しておりましたので、、パスポートの余白がなくなり、9冊目が1991年7月19日に発行となっております。  この年の6月に帰国しておりますので、発行は東京・外務省です。
 前回の香港の思い出のところに入れておくべきであったでしょうが、1987年の11月に香港から中国に直接入国しております。 香港を窓口としての輸出入の可能性はないかとの検討も兼ねて、日本からの担当者と合流しました。

         
                                 万里の長城です。
 
 この時、写真がなくて残念ですが上海でのことです。 案内してくれた女性の実に洗練された身のこなしと、服装でした。 それまで経験していた他の中国の地域とは比べようがありませんでした。 戦前から国際都市として栄えたところという意味を実感しました。
 近時、中国、とりわけ上海の急成長経済のことが様々に取上げられていますが、改めて20年前の光景を思い出し、別に驚くべきことではないなと思っています。

 この項を読んでいてくださる方からメールを戴きました。『君が香港に滞在しているというのに、家族のことが全然登場してこないが、どうなっているのだ』と。
 1987年12月30日、名古屋から12時間かけて延着した家族を迎えました。
             
                           
                      翌日はマカオとジュハイを案内しました。

 その後も、1988年は女房の父親を連れて「桂林の船くだり」、1989年は家族でタイランド・パタヤへ。 1990年は再び80何歳?の爺ちゃんと同伴で台湾へ、1991年は家族をマレーシア・コタキナバルへと案内しております。 そして、その年に帰国辞令がでましたので、インドネシア・バリ島へ女房と行ってきました。(ご心配をおかけしました、以上です)

 1993年からは、サラリーマン最後のお勤めとなる”ミセス・ファッション専門店”への勤務となりました。 「髪結い亭主のビジネス」と名づけましたので、サービス精神旺盛な口八丁手八丁の日々で、オーストラリア、ハワイの優待ツアーや優秀社員ツアーの補助係を勤めました。
    
    
      寅さんになったり      モデルになったり         サンタになったり
 
 10冊目になってからは、2000年の上海、2002年のベトナム、2004年の船旅での上海、杭洲と隔年の海外旅行です。
 その間2001年には歩きで43日かけて「四国88箇所遍路」。その年、高野山と紀伊半島
 2002年,春には車旅で四国88箇所を回り、夏には北海道。
 2003年の春は、九州を40数日かけて一周し、夏には東北と残っていた北海道を回る。
 2004年の春は、山陰からまだ行ったことのない山陽路を回り、これで概ね日本一周を終えました。

 昨年から放送大学と中部大学で世界各地の歴史・文化・社会を勉強中。
 来年からは、再び世界遺産の旅に出掛けてみたいものだと考えているのですが・・・
 歯の検査と修理。 高指血症・高血圧、腹回りが88センチメートルとシンボリック症候群の予備軍どころか、そのものであります。
 11冊目のパスポートには何処の国の名が、どのように記載されるのでしょうか。
 そして、何を体験し、発見し、感動し、イキイキ・ウキウキ・ワクワクの時となるのでしょうか。




 COLUMN 1−D NO528−6
                            平成18年5月22日 記

      11冊目のパスポートの申請へ
 〜第7冊目(1983(S58)年発行から、
       第8冊目(1988(S63)年発行〜
   <1986年から1991年の5年間、在香港>
      
        香港での思い出の数々

 
 ついに、”11冊目のパスポートの申請へ”の項が、NO6になりました。 今回は「香港での思い出の数々」と題して、年月日は前後しますが、掲載します。

 まず、私の住居はかって造船所のあったところで、そこに「太古城=CITY PLAZA ショッピング・プラザ」として開発がされた所です。 半径200メートルのところに、29階層のビルが50棟以上はあったでしょうか。 その29階に居ましたので、香港島と九龍半島を結ぶ第2海底トンネルの工事現場のほぼ真上で毎日見下ろしておりました。

       
          1987年5月                   1988年5月
 
                  
                        1989年5月
 予断ですが、かって海峡に「啓徳空港(カイタック空港)」がありました。 発着、離陸する飛行機を時に、いささかセンチな気持ちで眺めていたことを思い出します。
 さて、この第二海底トンネルの完成を祝して、「東区海隊百萬行」(チャリテイー・ウオーク)が1989年8月27日に開催されることになりました。
 可能な限り地域の行事には参加することを心がけていましたし、香港の従業員にとっても一生に一度のことであろうと声をかけてみましたら、参加するという声が聞こえてきました。
 チャリテイー・ウオークというのは、自分が変わりに歩くから寄付をしてくださいと知人、友人に声をかけるのです。 集まった浄財は25273・50香港ドル(日本円に換算して約50万円)、彼らから揃いのユニファームを会社のほうで出して欲しいとの要望で、約18500香港ドルを出費しました。 休日ではありませんので、早番・遅番の調整をして約100人の参加者でした。
        

        
               右は29階から、撮影したものです。
 
    年に1度の行楽が実施されました。
        
                     1988年 9月4日
 名前は忘れました。島に海水浴です。 日本人のスタッフの奥さん方も参加しました。

               
            1989年7月、全員香港スタッフに囲まれて

                  社員表彰も心がけました。
      
     地元の部長推薦、日本人スタッフが承認するという仕組みで選びました。

    年に一度の棚卸の後の「船上パーテイー」は特に、盛り上がりました。

                 
 無料ではいけないとの意見があって、参加費10セント=約190円、これに刷り込まれたNOで、ラッキープレゼントがあり、これがまた盛り上がるでした。
       
              日本人スタッフの出し物は喜ばれました
       
 私も何のパフオーマンスだったのでしょうか。 思い出せません。 右の写真は普段警備担当者でしたが、当日、変装して私の真似をしました、大受けでした。
            

    
    自宅にも呼んで、屋上でバーベキューをしたり、日本食を提供しておりました
       
                     販促関係の集まり
       
              日本人と地元の幹部が集まりました

                
           結婚式にも招待され、マージャンをしてシッカリ負けました


 営業活動も兎に角、様々なことを実施しました。 これは他の日系企業と異なり、日本人スタッフが23人居たということで事で可能なことであったと思います。
      
       タイ・FOODフェアー            ドイツ FOOD フェアー
   
       
     カナダ FOOD フェアー         韓国 FOOD フェアーの方々と
                   
                    こんなイヴェントもありました

   もちろん、「JAPANESE ウイークも開催した。
        

                  
                         節句飾り
         今は、今年から「日本昭和村」に寄贈し、展示されています。
 「ジャパニズ・フェアー」として、日本の神輿と法被を取り寄せ、日本人スタッフのお子さんや、太古城に在住の日本人の方々と共にイベントを行ないました。 沢山写真を撮った覚えがありますし、皆さんに思い出として配った記憶もありますが、私の手元には一枚も写真がないのです。 何方かお手元にありましたなら教えてください。

 子ども向けには、地元の絵画の先生にお願いして、「子どもの日絵画展」を開催。
       

   「ミニレ−シング・カー大会」も開催、日本人の子どもと香港人が仲良く
       

        
   三和銀行の自動現金引き出し機の設置もいち早く受け入れることにしました。

   香港には当時日系の百貨店を初め、スーパーもあわせて、8社が出店しておりました。 「日本百貨店会?」という名称で、毎月ゴルフ大会が実施されておりました。

       
、   
      年に1度の東南アジアの商業視察ツアーも実施されていました。
        
 
 確か、1989年のマレーシア・タイへのツアーのことでした。 左足・膝下の神経が鈍い感じです。 その時、疲れも手伝って車椅子で休んでいたのですが、帰国後も直らず、それから約1年半、様々な治療をすることになりました。 
       
    車い椅子で休む          かって、上海で皇帝医であった子孫という方にも
 
 結論から申し上げますと、病名的には頚椎症です。 左半身の神経が鈍く、常に痺れていました。 
 香港の中国医は「病気だということを忘れなさい、そうしないと貴方の神経が参ってしまいます」といい、日本の医者は「ま〜、しばらく様子を見ましょう」ということでした。
 帰国後、”忘れることにしなさい”というアドバイスを受けいれました。 疲れや感冒などにかからなければ、日常生活には特に支障がない程度でしたが、1988年堪えきれない程の激痛に見舞われる毎日となり、80日の入院となりました。 この年に退職しております。

 年代は忘れてしまいましたが、多分1987か88年のことだと思います。 私がマンションから出かける時、トイレの自動閉鎖の蛇口が上手に閉まらなかったのでしょう。 帰ってきたら部屋中が水浸しです。 
       
 日本人の家族総出で対応してもらいました。       その後の休息

 そんな中でも、香港在住の中日ドラゴンズのファンによる「香港ドラゴンズ会」が発足。              
               中央、前中日監督の星野さん

 旧正月には閉店後、日本人スタッフで「直営の桜レストラン」で一杯のお祝いです。
       

 また、1988年も後半になりますと、店舗の営業も軌道に乗ってきました。
 私は韓国クラブのピアニストに勧められて、デイスカバリー・ベイ・ゴルフ場の会員権を4年分割支払いで購入しており、時折フェリーに乗ってゴルフに行っておりました。 というよりは喧騒な香港の街中から逃げ出したかったのです。
 特に何もすることのない香港です。 社員福祉の一環として同じクラブの法人会員権を購入しました。
        

 時には、これまたフェリーで1時間、それからバスで1時間、パスポート持参で国境を超えて中国・シンセンのゴルフにも出かけておりました。
                 
 1990年代になると、この地でゴルフの腕を上げられた方も居られると聞いております。


 次に紹介しますことは、結構、香港社会の中で注目されました。
 オリジナルではないのです。 1979(昭和54)年から日本の親会社で始まったと記憶しています。 買い物したあとのつり銭、1円を恵まれない方に寄付してくださいという「1円で愛の募金活動」です。 これを香港ドル10セントに見立てて「愛の10セント募金」として募りました。 それが思いがけなくも多額の募金額になったのです。
 私が1990年1月1日、香港から出した年賀状には、このように書きました。
 『現実主義で、功利的な人びとが、愛の10セント(日本円1・9円)店頭募金に、1年半で280万j(日本円550万円)も参加してくれました。
 あの天安門事件は、記憶から遠ざかりつつありますか? 
 香港では、表面平穏に、中堅人材の移民が続いています。
 一方、目標を共有し、行動を共にする、そんな仲間も出来つつあります。』と

   
              
 手元で確認できる資料から見ると、その後も10万香港ドル、続いて88800香港ドルと寄付することが出来、1991年2月8日の「THE COMMUMITY CHEST SPECIAL EVENTS]で特別表彰を戴いています。

 最後に、開店後1年経過したところで帰国という方も居られましたが、大半は2〜3年経過したところから、帰る方と新たに赴任してこられる方との入れ替えが始まりました。
       

              
 上記の写真の方は、地元の方を除いてもちろん全員日本へ帰国されております。

 当初は1987年から1997年まで、香港が中国に返還されるまでの10年間が契約期間でした。 詳しいことは知りませんが、その後も、1997年に契約更新がなされ、2006年5月現在、大半の日系流通関係の会社が香港の会社・店舗を閉鎖されましたが、「生活創庫 UNY]は順調に営業を継続されておられます。
 また、一度訪問してみたいものだと思っています。




 COLUMN 1−D NO528−5
                            平成18年5月22日 記

      11冊目のパスポートの申請へ
 〜第7冊目(1983(S58)年発行から、
       第8冊目(1988(S63)年発行〜
   <1986年から1991年の5年間、在香港>

 
 ”パスポート申請へ”のNO528が、5回目となりました。 こうなるとこの”コラム 1−D”の範疇を外れていますが、これまでの経緯上、このまま此処に掲載し、「エッセイ・その他」項目と、<エッセイ 身近な日々のこと>(これも外れていますが・・)にも重複掲載することにします。
 香港から帰ってきた頃は頻繁に、最近でも時々香港の話を聞かせてくださいと言われる方が居られます。 が、話すにしても何を話せば興味を持っていただけるのか、分からず次の機会にと言ってその場を過ごすのが殆どです。
 丁度良い機会ですので、香港当時のアルバムを引っ張り出して見ることにしました。 
 沢山の写真が殆ど整理もされずに積み上げられていますので、話が前後したり、重複したり、勘違いをしているかもしれませんが、可能な限り写真で紹介してみたいと思います。

 1985年の11月に正式な契約調印が成されたと記憶しています。 年が明けて、最初に赴任された方は、多分1986年4月頃、総務人事関係のHさんでした。 その後、8月までには辞令発令の20数人の方たちが市場調査も兼ねて、殆どの8月末には赴任されたと思います。
 私は8月に辞令を出て、数度調査のために香港に渡り、正式赴任したのが11月ごろと思います。
 年が明けて1987年4月3日に「プレス・コンファレンス(新聞発表)」は行なわれました。
 このような準備をしたことは初めての事ですし、日本とは異なる仕来りというかルールみたいなものがあると教えられ、これらのことに詳しい方に教えを請いに行きました。
 どれだけの数の報道機関が来るのか、そのこと自身が企業間の競争の一つで、本音のところは教えて貰えなかったと記憶しています。 それでもやっとこぎ着けました。
 
       

 一方、採用面接が始まっていました。 当時は流通業を初め、各種の業界が香港への進出を計画していましたの採用難です。 しかも、地元の方は少しでも条件の良いところに、サッサと移動するという状況でしたので、先発出店企業としては自社で教育した社員を引き抜かれることを大変警戒しておりました。 採用条件についてもいろいろと注文がつきました。
 2交代制の勤務で、総数650人を採用するのですから、影響が出ないわけにはいきません。 まず、幹部級(部長)の採用から始まり、彼らの意見を聞きながら、課長級、係長級、一般社員の採用と進みます。
 
       
  1986年9月の上級幹部の面接風景です       地元取引先への説明会で

 1987年2月から内装工事が始まりました。
         

 1987年3月には日本からの第1陣の商品が到着しました。別に借りた商品保管用の倉庫への搬入です。
        
 左の写真の彼は、役員用自家用車の運転手です。 もともとは洋服の仕立て職人であったようですが、小金を貯め、自己所有のタクシー・ドライバーになりました。 その自動車と権利を友人に貸与して毎月幾ばくかの収入を上げ、自分はお抱え運転手となりました。 タクシー運転手は競争が激しく、疲れるから収入は低くなってもこのほうが良いといっていました。 私は彼に株のことも指南を受けて、少しは儲かったと記憶しています。

       
 スーパーバイザー(係長)級の教育が始まり、 地元仕入れも検討されました

                 
 そんなある日、スプリンクーラーの破損で水漏れです。 この他にも私は知らされずに夜を過ごしたのですが、地下売り場に水道が破裂して水浸しになったこともありました。
 オーナーに弁償を掛け合ったのですが、「だから、保険をかけておきなさい」と言ったでしょうと、まったく取り合ってくれません。 契約書の意味を教えられました。

 オープンの日が近づいてきました。 隣の中華レストランのオープニング風景です。
        

                
      ショッピングセンターのソフト・オープンの中央センターの様子です。
 このように香港では「ソフトオープン」といって、全体のグランドオープンとは別に、出来上がった店舗から順にオープンしてゆきます。

 私たちのお店も6月2日オープンを目指して、商品搬入・陳列が始まりました。
 日本では取引先の応援も受けて集中的に準備がされて、早ければ2〜3日で準備完了となりますが、そんな訳にはいきません。多分1週間以上かかったと思います。
           
     最後の看板架け            と言っている間にも、天上に穴が開きました

        

 6月1日「竣工パーテイーが開催されました
        
  右の写真左から2番目の方が、直接的な契約交渉相手でした。 あたりが柔らかく、いつもにこやかで、それでいてネゴシエーターのイギリス紳士でした。

                 
 眼鏡の方が内装全体を指導していただいた内田繁さん。 右が日本においても”アピタ店舗”開発推進の最高責任者であった安井さんです。
 店舗コンセプト、内装設計等を指導いただいた方々が、オープン5月29~30日に来香港し、祝いとお礼の席を設けました。   
        

         
 高級な中華レストランでは、当日の料理の最高責任者が席に呼ばれて、当日のメニューの説明をし、記念にメニューをその場で書いていただけます。 それが又達筆なのです。

 オープン当日の開店前です。
        
 当日の私はこのオープニング・セレモニーの責任者でしたので、記念の写真は一枚も撮っておりません。 数日前のレストランの開店風景と変わりません。

 開店前には朝礼を行ないました。
        

                
  年齢16〜18歳の若くて、賢そうな社員が揃いました。 その後が大変なことになることを、その時には気がついていないのです。
 それは香港では新学期が9月です。 5月末、日本で言うならば中学・高校を卒業しております。 新学期が始まる8月末までは、就職して稼ぎ、そのお金で旅行を楽しむと言うのです。 確か8月になると100人近い退職者が発生しました。

        
       一番客の入場です。  その後、終日のお客さんが続きました。


          
 オープン後、直ぐにこの広場で爆発騒ぎがありました。 日系企業オープンへの嫌がらせとの報道もありました。 その後も2回、爆破予告の電話が入り、一時閉鎖することになりました。 上記の写真はオープン後、3回目の日曜日、父の日のショッピングセンター中央の様子です。
 ソフトオープンが6月2日、グランドオープンが6月12日でした。





 COLUMN 1−D NO528−4
                            平成18年5月21日 記

      11冊目のパスポートの申請へ
 〜第6冊目(1978(S53)年発行から、
       第7冊目(1983(S58)年発行〜

 
 こんなに続けるつもりはなかったのだが、此処まで書いたのならと続けることにしました。
 しかし、昭和53年の第6冊目以降、第7冊目の有効期間1988(S63)年までは、写真が殆どありません。 今、思うに写真どころではなかったことが一つ、そのくせ家族との国内旅行の写真はソコソコあります。
 なを、途中に1986(S61)年からは、香港に在住となりますので、そこからの記録は沢山ありますが、今回のNO528−4では、昭和60(1985)年までのことを書くことにします。

 さて、1976(昭和51)年から本格的に始まった最後の企業合併の作業は1978(昭和53)年の春の組織改正、人事異動で一応の決着を見ました。(実態はまだまだ続くのですが・・・)
 そこで、それまで異なる組織に所属していたリーダーが打ち揃って、現在は世界NO1の流通企業アメリカの”ワルマート”を訪問、視察することになりました。(その当時、アメリカでは成長が著しいと言うことで、注目はされたいましたが、売り上げは上位10に入っていたのでしょうか?) 旧知のベテラン・コンサルタントを先生として出かけました。

             
               歓迎看板の前での記念撮影です。

 同じ年には、アイセック(ISEC)の国際留学生の受け入れをしており、我が家でも宿泊しました。             

 1980(昭和55)年、勤務する会社はこの年、企業戦略として・高度化・多角化・国際化を掲げました。 これはオランダの流通グループV/D社が勤務する会社の株式の5%を購入したことにより関係が生まれ、その企業の戦略と同じものを掲げることになったからです。
 その年の5月、オランダを訪問しました。
            
    左はナポレオン、ワーテルロー             ゴルフ場の入場券

 トップ同士の会談が続いておりましたので、随行員はゴルフをすることになりました。
 ゼロメーターの国です。 ゴルフ場は砂地ばかりでした。 芝の上で打つことの方が少なかったと記憶しています。(マットをしてショットしました) その上、日本のように設備の整ったお風呂などはありません、冷たいシャワーのみでした。
 連日、奥様方を加えた歓迎晩餐会が続いたのですが、高級なフランス料理ばかりで胃は疲労しておりました。 そこに冷たいシャワーときましたので、その晩の食事中に吐き気と発熱です。 この時初めて、英語で診断を受けました。

 1981(昭和56)年、商品関係の担当になり、10年ぶりに東南アジアの工場視察です。
 韓国、台湾、香港の時代は既にピークを過ぎ、シンガポール、マレーシアの工場を中心に新規の取引先の開発です。
                
                  マレーシアの街中です。
 
 同じ年の秋には、自主参加(企業から一定の補助はある)の研修が、アメリカ西海岸とハワイというコースで行われました。
         
                       ハワイの休日です。

 前年までに、新しい企業調査、マーケット分析を終えて、新しい店舗コンセプトの試案が出来上がっておりました。 そのことの検証と実行部隊の意識あわせをかねた
「GUP=GMS(総合大型スーパーの総称),アップ、グレード、プロジェクト」ツアーです。
 これが第1陣となって、翌年も3班ほどアメリカに送り出しました。

 1984(昭和59)年5月には、なかなか共同開発の事業が進展せず、再びオランダを訪問しました。 
 8月には、インドネシアのスラバヤの小売企業との合弁話が持ち上がり、訪問。
 9月には、アメリカへ
 10月には、香港へ
 11月には、再びアメリカへ行っております。 「高度化・多角化・国際化」との戦略標榜が、このような行動に結びついていたのです。


 1985(昭和60)年には、何があったのか定かではありませんが、香港へ4回。アメリカに1回の渡航が記録されています。
 そして、1986(昭和61)年、4月韓国へ商談。6月には中国・上海・北京を訪れています。
 その年の8月、香港への赴任の辞令がでて、その年の12月には、香港・タイクーシン(太古城)の住人となりました。
 その翌年には、新店舗がオープンし、オープン初日から爆発騒ぎから始まり、朝10時から夜10時までの一直勤務が続き、心身共に疲労困憊してゆきます。







 COLUMN 1−D NO528−3
                            平成18年5月20日 記

      11冊目のパスポートの申請へ
 〜第5冊目(有効期間昭和47年から・53年まで)〜

 
 NO528−1で、第4冊目は中国の交易会に行った時、1回限り有効のパスポートと紹介しました。 そこで、第5冊目は同じ年の6月5日に発行されております。
 この年からは、アジアではなく欧米に行き先が変わっております。
 NO528−2でも紹介しましたように、担当が婦人衣料品からスポーツ・レジャーに代わっております。 その年はそのための視察・見学を目的にアメリカの東海岸の旅となりました。
 ショッピングセンターの見学や企業訪問もありました。 当時アメリカNO1(と言うことは世界1と言うことでしょう。 Kマートを訪問しています。翌々年はそのKマートの社長が日本を逆訪問しております)
 企業訪問や店舗視察より面白く、興味があったのはフロリダのデズニーワールドでしたし、ヒューストンはケープカナベラルの宇宙センターの見学でした。

                 
       デズニーワールドにて         OO湖?前、シアーズタワーを背景として

                
 今では、驚きも感激もしませんが、デズニーワールド内で、タンクトップ姿を隠し撮りです。

             
               ケープカネベラル・ヒューストンです
 当時、莫大な宇宙開発費が必要で、アメリカ市民に理解してもらうために、公開しているのだとの説明を聞いたことを思い出します。
 (イラクの戦費について公開はあまり聞きませんが、1日当たり日本円で1・5兆円と聞きました。秘密にしているところを見るとアメリカ財政はかなり困窮なのでしょう)

 翌年はヨーロッパの7カ国を視察しました。 理由は何とでもつきます。 此処ではその中の休日ばかりを紹介しましょう。
      ドイツはデユセルドルフです。

        
        私だけが裸ではありません、モンブランの展望台での日光浴です。

         
                     イギリスでの休日です

 この年は確か2週間でヨーロッパ7カ国を回りました。 デンマーク〜スエーデン〜ドイツ〜フランス〜スイス〜スペイン〜イギリスです。
 この年も会計係で、国が変わるたびに両替に走り回っていました。

 翌年1949年8月には、再びアメリカとカナダを視察しております。 オイルショックの翌年です。 計画をしていたので、そのまま決行したのでしょうが、帰国した頃より経済事情が更に悪化しておりました。 
 1975(昭和50)年は、勤務する企業が大変な苦境の中にありました。 合併会社でありながら、中途半端な内部競争と見かけだけの企業合同でしたので、コスト削減のために本格的な合併作業に入らなくてはならない状況に追い込まれたのです。
 その最後の合併作業の真っ只中に席を置くことになりました。
 海外旅行などと言うことは、考える暇も、ユトリもなく、パスポートの有効期間は1979(昭和52)年までありましたが、どこにも渡航暦の印はありません。
 
    そして、第6冊目が1978(昭和53)年、5月2日に発行されています。
 再びとでも言うのでしょうか、その後のアメリカ流通業界の変化の視察と研修が始まりました。、



 COLUMN 1−D NO528−2より
                            平成18年5月19日 記

      11冊目のパスポートの申請へ
 〜第1から第3冊目までのパスポートをめくって〜

 
 昨日、第11冊目のパスポートのことを此処に入力したためでしょう、19日午前2時ごろに目が覚め、枕もとのメモ用紙にこんな事を記入することになりました。

 『1969(昭和44)年、初めての海外旅行は韓国。婦人衣料ニット製品の仕入れの勉強でした。 当時の韓国の編みたてニット業界について。
 アメリカ向けの機械設備による大量生産で、輸出が全盛期であった。
 1品種1アイテム(1型、1サイズ、1色)の最低発注数は1000枚であった。(1型、2サイズ、5色とすると、2×5×1000=1万枚)と言うことになる。
 その年は見送ったが翌年発注することになった。 5型で5万枚であった。
 1980年代(昭和46年以降)になると婦人ファッションは徐々に多様化・個性化の方向も現れはじめており、同一品種のものを大量生産、大量販売する時代の最後のころでした。
 
 それでも利幅を最小にして、1枚あたりの販売価額を495円として、価額の力で売り切ったと記憶しています。 当時の私の手取り給与が月額30000円前後であったろう。
 今、ユニクロでその同じレベルの商品(色合いや品質は現在のものの方が上であるが・・)を販売するとなったら、1500円程度であろうか?
 染色がアメリカ向けの感覚で、なんとなく肌になじまない感じであった。(技術も低かった)
 当時、それらの製品を製造していた裕林産業(株)?は輸出の優良企業として国から表彰されていた。 ご褒美として米国車の輸入が許可されており、自動車メーカーは記憶にないが超大型の黒塗りの乗用車で、出張中に一日お抱え運転手つきで観光案内をしてもらった。
 
 当時は入国ビザの必要な時代でした。
   
     1969年韓国        1970年からは台湾(中華民国) と香港へも

          
 1969年外貨の持ち出し額が記入されている。 こちらは日本円15000円携帯証明

 一方、大量生産の商品とは別に付加価値を求めての商品の開発も始まった。
 日本から中古の手編み機を韓国に持ち込んでの少量生産で、これは相手先が零細企業であった事もあり、また糸や染色が思うようにならず、全て日本から輸出をして、出来上がった全品を輸入をするという、リスク100%の手編みニットの仕組みであった。
 それでも、大もうけはなかったが、損もしない程度の成績で取引高は増加してゆき、1970(昭和45)年からは台湾(中華民国)と香港にも同時期、年に2回出張することになった。
 
 軌道に乗り始め面白くなった頃、昭和47年には、今後成長が期待されるスポーツ・レジャー部門の強化策と言うことで移籍することになった。
 スポーツ・レジャー部門においても繊維製品は取り扱われており、知識や体験は活かされることになった。 が、この部門も1年弱で異動となる。
 当時毎年、物価上昇が続き、同時に会社の運営コストも上昇、昭和40年代前半のような低価額路線のスーパーの経営路線が出来なくなっていた。 
 そこで、ゼロからの業態開発をすべきだとの顧問コンサルタントのアドバイスなどがあって、新設部門が設立スタートした。翌年、昭和48年にはオイルショックにみまわれ、新設業態の発想は消費者に受け入れられて、開発当初から好業績をあげた。

 そこで、取り入れられたノウハウの中で、特に忘れられないものとして主婦パートの活用があった。 当時、店頭の従業者の割合は、正社員が85〜90%で、パートタイマーは食品部門の一部にしか導入されていなかった。
 が、頭数で70〜75%、時間換算にして65%強を一気にパートタイマーによる運営とした。(現在は何処の店頭も70〜80%ぐらいはパートタイマーであろう)

 人件費、労務費と入力したところで、その後のことを思い出しました。
 1970年代後半になると、韓国、台湾、香港からの製品輸入(関税が30%ぐらいと記憶)も、まず香港の人件費が上がりだし、価額が折り合わなくなった。(欧米輸出に傾いていたこともあったし、付加価値の高いブランド品を製造していた)つづいて台湾、そして韓国と連なった。 その後のことは詳しくは知らないが、今日、世界の工場といわれる中国の躍進であり、店頭では「MADE IN VIETNAM、INDIA」等のタグが多く見られるようになった。
 今では、スーパーの店頭での繊維製品の80%は海外からの輸入品で、その内の7〜80%は中国製品であろう。

 快進撃の中国も此処に来て、元切り上げが求められ、超スピードの発展も不動産を初めとするバブル崩壊の様相が表面化してきている。 また資源、エネルギー不足に、効率の悪さが加わって、環境問題は避けて通れなくなっている。
 更に、国内問題として沿岸部の経済成長に比して、内陸部・農業分野との格差は、力でも押さえつけられなくなる程の暴発寸前の様子が垣間見られる。

 第11冊目のパスポートの申請にゆき、古いパスポートを眺めていたら、アッと言う間の40年が走馬灯のように流れていった。
 いよいよ数百年続いてきた「MORE AND MOREの時代」も終焉が見えてきた。
 滝に近づくにつれて流れはます。 まだまだと思っている間に、消え去ってゆく時代と共に生きながらえてきたものが、気づかない間に近辺からその姿を消している・ゆくと言うことになるのだろう。
 どんな展開となるのだろう。 その中で何が出来るのだろう。 何を成さねばならないのだろう。 今のところは緊張感、恐怖感、不安感もはないが、この精神状態で何時までもいられるのだろうか。
 楽しく・納得の行く事柄と時間のなかで過ごしたいものだと思っている。



 COLUMN 1−D NO528−1 より
                            平成18年5月18日 記

      11冊目のパスポートの申請へ

 
 5月17日、11冊目になるパスポートの申請に名古屋駅の愛知県旅券センターに行ってきました。 
         

 既に今年の2月に期限切れをしていたのですが、3月中旬から新しい”ICパスポート”に変更になると聞いたためと、直ぐに必要としていなかったので少し遅らすことにしました。
 受付から終了までに約1時間でした。 待合所の椅子席が100強でしたが、昨日は最大で30人程でしたので、混み合う時は2時間以上の待ち時間になることでしょう。

 ところで、私の一番最初のパスポートは1969(昭和44)年です。 韓国のビザが記されている1度限りのもので、渡航費用に関する証明として、US$200と記されています。
 同時に形態輸出金額15000円ともあります。 持ち出しドルが規制されていた頃なのでしょう。
 3冊目は1970年8月6日発行です。 数次のパスポートになっておりますが、渡航先は韓国、中華民国、香港、フィリッピン、タイ、マレーシア、シンガポールと限定されています。   有効期限は2年です。

                     
              左上から右に、そして下段へ。と発行順です。

 第4冊目は1972(昭和47)年3月28日発行で、渡航先は香港、マカオ、中華人民共和国に限定されています。 しかも発効日から帰国するまで有効と書かれていますので、中国・広州交易会に参加した時のパスポートです。 パスポーートに挟まってこんなものが出てきました。
                 
  交易会の入場許可証として(来賓)リボン、深洲から広州に行く汽車?のキップ等です。

 5冊目は1972(昭和47)年7月5日発行からは有効期限が5年となり、渡航先は以下の国を除いて全ての国と記されたいます。 除外国は北朝鮮、中国(MAINLAND CHINAと書かれています)、北ベトナムそして東ドイツです。
 6冊目が1978(昭和53)年で、渡航先の制限は北朝鮮のみとなっています。
 7冊目が1983(昭和58)年、8冊目が1988(昭和63)年で、渡航先の制限には、北朝鮮が記されています。 9冊目は香港滞在時の頃ですので、パスポートが満杯になっており、1996年に新しいパスポートに変更になっています。
 
 10冊目は小型のパスポートに変更になっており、発行は1996年2月5日で2006年2月5日までの有効期間でした。 渡航先は「valid for all coutries ando areas unless otherwise endorsed] とありますので、特別に記載されたところがなければ、全ての国・地域と訳せると思います。 北朝鮮とは特に記載されていません。が、どうなのでしょう?

 そして、今回が11冊目のパスポートということになります。 
 10冊目は出国が8回です。 今回は10年間有効期間にする予定ですが、果たして元気に、何処へ、何回渡航することが出来るでしょうか。 
 女房の親父さんが80代の時、2度ほど香港、中国(桂林)、台湾に連れて行ったことがあります。 初めての海外旅行でした。 パスポートの発行申請に行ったとき、窓口の方が驚いていましたが、本人は元気しゃくしゃく、大変意欲的に興味を持っての出発でした。
 そのことを思えば、まだまだと言うことになります。 さて、どうなりますか? 



COLUMN 1−D NO476                            
                             平成18年3月11日 記
 

一番最高の時に撮影しようと考えまして
〜またまた、サンシュです〜   
65歳を前にして、書籍の整理〜その2〜

 
 
3月10日、小雨が降ったりやんだりの1日です。 サンシュが満開となりました。 今年何回、このコラムに登場したことでしょう。 と言いますのも、 近年で一番素晴らしく咲いたからです。1昨年思い切って剪定したのが良かったのでしょうか、それまでは頭を押さえていたのですが、どこまで大きくなるか試してみようと、昨年からそのままにしているのです。       
 来年はどのような姿を見せてくれるのか、梅と馬酔木と共に紹介します。               
        
馬酔木                     梅


  

サンシュ

 今週から整理を始めました。 本棚に入りきれない書物が溢れて、書棚の前を塞ぎどうにも使い勝手は悪いので、思い切って整理することにしました。 過去にも2度ほど始めたのですが、結局数冊しか整理できずにそのままになってしまいました。 今回は200冊程以下のところまでは作業が進みました。 まだまだ到底整理ができたと言う状態ではありませんが、一応此処までは着ました。 1週間ほどこのままにしておき、気が変わらなかったら資源ごみで運んで行って貰う予定です。


前回(何時だったでしょうか、多分2年ほど前のことと思います。 その時よりはコダワリが少ないように思えます。 机の右手にあるガラス付の本棚から始めました。        
 藤原直哉氏と松藤民輔氏の本はそのままにすることにしました。 私が3羽ガラスと読んでいた浅井隆氏の書籍は整理することにしました。 経営指南書の田辺昇一氏のものは一気に整理対象とし、船井幸雄氏のはダンボール箱に入れておいたものも引っ張り出し、HOW TOモノはさよならすることにしました。 「エヴァへの道」「エゴからエヴァへ」は再度本箱に戻しました。キュウ永漢氏はごめんなさいです。                          
 流通関係のものも整理対象にしましたが、『流通革命』初版37年 中公新書 林周二、等の流通革命を取り上げた当初のものは残すことにしました。 中内功氏の「わが安売り哲学」も残しました。 日経新聞「私の履歴書」に掲載されたものは、ファイングして残っておりますので、わが青春の血を滾らした(少しオーバーな表現ですね)、大先輩のものはマダマダ捨てられません。 ダンボールにあったユニー関係の書籍も全て残すことにしました。
 ダンボール箱の整理をしていましたら、「牛乃宮」の1992〜3年のテープが出てきましたし、1995年から始まった「牛乃宮学校」(藤原直哉氏)のテープもVTRも出てきました。 1996年夏に藤原直哉氏と松藤民輔氏が何かの原因で行き違い、袂を分かった時の情況を示す、テープもありました。 あれからたった10年なのにこの間の世の中の変化は大変なものです。 しかも、この変化は峠は過ぎたようにも感じますが、見える状態で現象化するのはこれからが本番ということでしょう。                              
 最後の幕引きをおおせつかった(ヤケクソデ自民党をぶっ潰すといった、小泉氏が自民党の総裁になり、首相になり5年間、それまでになくなるべきものを整理し、来るべき時代を提言したわけでもないが、それなりの役割をはたして、今年の9月に引退するという。 
 しかし、その9月までもたずに野垂れ死にするとも見えるが、野党民主党の体たらくで(各種お粗末な事柄の連続、西村弁護士議員の弁護士資格の違法行為、木俣愛知参議院議員の傷害事件、ライブドア事件に関する偽メールをつかまされた永田衆議院議員、その処置をめぐるわけの分からぬ対応を繰り返す民主の執行部、世代交代の前原党首は風を読み違えた)、小泉首相はアメリカから見放されているのに、まだ元気イッパイで、国会答弁を続けている                      。                       
 
 アメリカが日本に期待するものが無いというならば、本当は大きなチャンスが巡って来ていると言うのに・・・(沖縄・普天間基地の移設問題は地元の猛反対でどうなることやら、「米国産牛肉」の輸入禁止処置は日本の食に関する安全度の要求度合いと、アメリカの輸出再開要請とのギャップは一向に縮まらない。                          
 加えて「皇位継承問題」、紀子様の御懐妊で、委員会の出した結論とその後、朝日新聞の社説も含めて、論理の一貫性はまったく無い、政治の裏のことは分からぬが何とも訳が分からない。 対中、体韓との政治関係の冷え込みは一向に解決の道筋が見えない。 小泉後の変化待ちの様子である。                                 

世界情勢のことなど書いてゆけばきりが無い。 人様や外のことにも十分に耳目を向けなければならないが、そのことより如何に心穏やかに、ユッタリと修行の日々をすごすかが大切なことである。                                             
常徳とは不生不減、不増不減の哲理なり
常徳は公正にして無私。天上の月、常住不変なり
常徳を養うは諸行は無常、一瞬一瞬が絶対なり
大宇宙より見れば不生不滅、現象は無常なり

      
などと、生臭修行僧は何をする。
明日から、八重山(石垣島)への2泊3日の旅に出る。





                                   平成18年3月07日

 65才を前にして   〜その1〜

 特に考えたことではない。 また、何の感慨も無く60歳を迎えたころより、次の変化は65歳のころにやってくるのではないかと、どこかで感じていたというか、其の頃から体の調子、体力も気力も変化してくるのではないかと予測していた。
 今年1月14日の誕生日を越して既に約2ヶ月、64歳の道をそれまでと何の変化も無くすごしているつもりである。 朝のストレッチ体操の柔軟性において変化があるわけでもなく、夕方の散歩においても特に気づくことは無い。 但し、急な坂道を早足で登る時に、息の弾みぐわいは前より早くなったかなと診断している。

 どこかで、何か区切りをつけなければとの思いが時々脳裏を走る。
 というのも、数年前、いや10数年前、年齢と共に判断材料を減らしてゆくことが大切であるとの活字を読んで、それは心すべきことと思ったことがあるからである。
 今日まで時に脳裏を走りながらそのままにしておいたことに、どこかに引っかかるものを感じていた。
 本日2006年(平成18)3月7日の中日新聞、「阿久 悠の歌謡歳時記”引越し”」を読んでいて、家具類、着る物の処分に加えて、本の処置について書かれたものを読み、書斎の本棚から溢れた書物を整理しなければと思いつつ、既に数年以上の歳月が過ぎている。 この間2回、気を入れて整理にかかったのであるが、結局数冊の処理で終わってしまった。 ついつい、其の本を手にした時のことが思い出され、それを処理することはその時の自分を否定することのように感じたからである。

 今回は先に基準を作ることにした。
 前提、@約3000冊あるものを、半分の1500冊にする。
     A1回で整理するのでなく、6区分されている書棚を半年で見直す。

 整理の基準
     @歴史書・哲学書、人物書は残す。
     Aこの2年間に手にしなかったものは整理の対象とする。
     B今後3年以内に、手にしないだろうものは整理の対象とする。
     C時の時代を評論していた政治・経済書は整理の対象とする。
       但し、当時のヒット書は残す。
     Dハウツウー書は整理の対象とする。(今後に通じるものは残す)
     E個人的に関係あるものは残す。

     *裏面に書した所有を示す名は消すこと

 以上の基準を設けたが、さて如何なりましょうか。 
 現在の心境では今までと異なり、かなり思い切って実行できそうな気がしているのだが・・・



                                   平成17年2月07日

  NO番外―4 平成17年1月14日 初記
  〜夢見シリーズ その4〜 

 M実は四国の生まれといっていたが、確かなことは分からない。
 T市に来る前は神戸で暮らしていたことだけは事実のようである。
 多分、神戸・三宮に居られなくなった訳ができたか、あるいは逃げ出したい事柄があったかのどちらかだろう。  誰一人身寄りのないT市に来たのは高度成長の真っ只中、昭和30年代後半の事であった。
 T市の夜の盛り場はキャバレーと看板を掲げた店が、T市の西・昔の遊郭の地に1軒と、街中の映画館の地下に1軒の他は、白割烹の前掛け姿の女将さんの居酒屋と今ならスナック・バーとでも言う4〜5人から7〜8人の女性が接客するクラブ・バーと看板を掲げたお店が、駅前の大通りから2〜3本外れた裏通りに建ち並んでいた。
 戦前は陸軍第18歩兵連隊のあった都市で夜の賑わいはT市の東の地・A町にも、西に勝る遊郭地があり、兵隊さんの他にも近郊近在の町・村々から男達が繰り出しで繁盛していた。 
 戦後、戦災で焼け野原となった市内は区画整理がなされ整然とした町並みとなり、午後8時を回ればどの商店街のシャターも降り、酒場通りもほとんど人通りが絶えてしまう寂しい夜の街と変わっていた。 

 当時のクラブ・バーの営業は午後11時までであった。 金払いの良い客がいれば店の灯りを落として、ミュージックもなしで続けられる事もあったが、そんな事は月に2〜3度あれば良いほうであった。
 チーフ・バーテンダーのNは閉店時間になると早々と引き上げるのが常であり、そんな後は何時もKが居残りで客の注文を受け、洗い物の跡片付けをする羽目となった。
 文句一つ言わず時間外を引き受けるKに、店のママは帰りに何か飲んでいきなさいと100円札を2枚渡してくれた。 時には客が1000円のチップを弾んでくれた事も有ったが、そんな事は月に1〜2回もあれば良いほうであった。
 
 毎日といって良い位、閉店間じかになるとM実の足元はふら付いていた。
 お客さんが居なければ自腹を切ってビールをグイグイと飲み干していた。 時にはチビチビと飲む客に向かって、「今日は私が奢ってやるから飲もう」と啖呵を吐いて、自分でビールの栓をあけて振舞う。大柄で気風の良い姐後肌であった。
 T市に来た当初は店の2階に住み込んでいたが、半年が経過したところで1DKのアパートを借りたM実ではあったが、酔いつぶれか、足元が怪しくなりアパートには帰らず、店の2階に担ぎ上げるのもKの仕事の一つになっていた。
 その日、M実はいつもより早く怪しい呂律ではあったが、アパートに帰るといって聞かなかった。  タクシーを呼ぼうかというと、要らないと言い残して街中へ歩き出した。
 Kは洗い物もそこそこにそのあとを追った。 繁華街の灯は薄暗く、時に商店街のシャターにぶつかりながら、「私の言う事が聞けないのか」などとKに毒ずいていたが、街外れの渡線橋の上でM実が屈み込み、嘔吐を始めた時初めてKはM実に近寄った。
 M実は泣いていた。 「良いから帰って」とKを払いのけた。
 Kはその場を立ち去ったものの心配で、M実に見つからないようにアパートに姿が消えるまで後をつけていった。
 次の日M実は何もなかったように出勤してきたので、Kは何も言わなかった。
 それでいて、店の閉店間じかになる頃はいつものようにお酒がまわっていた。
 
 ある夏の日、M実は開店早々お客とチョットした事で口論になった。 ママがKにM実を外に連れ出すように言った。 渡線橋を渡ってゆくのでアパートにでもそのまま帰るのかと思って付いて行ったが、アパートの前を越して畑と田圃の続く農道を無言で歩いてゆく。  2時間も歩いただろうか、雲のかかった月明りで農道の見分けつくのがやっと、M実が突然「疲れた」と言って草むらにしゃがみこんだ。
 Kは皺だらけのハンカチを取り出して汗を拭い、その横に座ってぼんやりと月を見上げた。  長い沈黙の時間、突然小さな声でKの知らないメロデイーを口ずさみ始めたM実、聞くとはなしに耳にしていたK。 
 その時風でも吹いたのだろう横座りしていたM実の髪がKの頬をなぜた。 
 傘を差したような月が一瞬雲間に隠れた。

 昭和30年代後半、Kの学費はクラブの先輩の斡旋によりN市に出向き、舞台裏方のスタッフの稼ぎと夜のアルバイトであったが、どちらも日給500円という薄給である。
 時に雀荘に通い勝つ事もあったが、ほとんど召し上げられる事のほうが多かった。
 年2度納付する学費はM実が「払いなさいよ」と言ってポンと渡してくれた。
 Kは好きな教科と出席率が絶対必要条件と成っている教授の授業には真面目に出席し、単位を確実に取得していた。 3年の学期末には教養課程の自然科学の一教科を除き、必須専門科目も選択科目も全て単位取得を終了していた。 評価は優、良、可で行われていたが、優の数が目立つ成績であった。 時にはT市の図書館に行き、友人の提出課題の論文を代筆するアルバイトをしていた。 これは良い稼ぎにはなったが数が少なかった。

 3年時の夏休み、KとM実はKが育った田舎に旅をした。 そこではKの継母が薬局を経営していた。 何も言わずに迎えた継母は何くれとなく世話をしてくれた。
 いや、二人が面食らうほどのもてなしが次から次へと続いた。
 終戦間じか、T市より運び込まれたKの生母の上質な桐のタンスを開けて、「私は何も手を付けていないからM実さんどれでも持ってゆきなさいよ」と薦めた。
 初めは躊躇していたM実、何度も何度も薦められるので、やっとその中から一番派出目な着物と帯を選んだ。 大柄なM実が立ち上がり袖を通した。 その時、今まで一度も見せた事のない恥じらいを含んだ笑顔をKは初めて見て取った。
 
 その旅から帰った夏の終わり、Kの家から夜の仕事に出掛けるM実の姿があった。
 近所の人は表立っては何も言わなかったが、昔かたぎの城下町ではヒソヒソと陰口を言いあい、好奇な視線が注がれることを十分に感じていたM実であった。
 Kと同居していた腹違いの姉と妹は何も言わなかった。 多分、M実のアッサリした性格によるとこらから来ていたのであろう。
 
 Kは最終学年になっていた。 就職試験の開始協定もない時代で、早い学生は前年から就職活動を始め、夏休みが終わるころにはほとんど就職先が内定していた。 
 Kも何通かの履歴書を書いた。 が其の年・昭和39年は東京オリンピックの年であり、日本中がオリンピック景気に沸いていたが、オリンピックが開始されるころには建設投資も一段落、オリンピック終了と同時に急速に景気は鈍化していった。 
 景気上昇の後には必ず外貨不足となり、経済が循環的に萎むという繰り返しをしていた高度成長期の日本経済であった。 

 Kは競争倍率の高い広告会社や放送会社などの試験ばかりを受け全て合格には至らなかった。     夏休みに入るとアルバイトもやめて、仲間が帰郷しガランとした大学のクラブ部屋に泊り込んだり、雀荘に出入りの毎日であった。  安ウイスキーを飲みながら就職できなかった場合は東京・浅草に出て商業演劇の門を叩こうかとも考えていたりしたが、気がかりはそれでは食っていけないだろうと不安が脳裏を走った。
 就職の決まった友人が心配して就職試験の模擬問題集や参考書を持ってきたが、それをマクラにまた安ウイスキーをラッパ飲みし、団扇でパタパタと足元を叩いて寝そべっている日が続いた。

 M実はその頃、こんな歌を好んで歌った。「先があるのよ 貴方の身には こんな女は忘れるものよ ベルが鳴る鳴るプラット・ホーム ここが切れ目時 見せちゃいけない
 私の涙 さようなら さようなら お別れ電話の 最後の言葉」(元気印・お恵ちゃんが明るい声で歌っていた。 お恵ちゃんこと 松山恵子の“お別れ公衆電話”である)
 初めは黙って聞いていたが、ある日のこと、何度も歌うのでKは無性に腹が立った。 
「絶対、別れんぞ!俺はお前が好きだ!」と叫び、M実の頸に手をかけた。 M実は何も抵抗もせずに身をまかした。 
 その日、M実は風邪を引いたといって頸に包帯を巻いて出勤していった。

 秋風が吹き始めたころ、大学の関係者に顔の利く友人に勧められて大学の就職課の窓口に出向いた時、係りの事務員が「これから伸びる可能性のある会社を受験してみないか。 本校としても今後の就職先として有力と考えている。卒業生を送り出したい。 試験だけでも受けてみなたらどうか」と言った。 
 Kは内心、では受けてやるかとの思いで、その場で応募用紙に記入し帰った。

 当時のN市はまだ各所に路面電車が走っており、私鉄N路線のJ駅からノロノロと走る路面電車で30分もかけて試験会場に行った。 N市の港に近い停車場“T”で下車、そこは港の盛り場の中心地でもあった。 地図をたよりに向かった先は旅館の一室であった。    簡単な筆記試験のほかに、副社長という方の面接試験もあった。 
 Kは自信満々というより、試験を受けてやるという気持ちを持っていたので面接の時、足を崩してくださいと言われれば、直ぐに胡坐を組むという、他の十数人居た応募者とはかなり態度が異なっていた。
 10日後、家で寝そべっていた時、午前の郵便配達で合格の通知がきた。 
当時、大学の就職課は一番先に合格通知が届いたところに就職することと指導をしていた。 その日の午後、出来る事ならこの会社に入社したいと思っていた会社から2次 試験の通知が来ていたが、大学の就職課には午前に合格通知が来たことを知らせ終えた後だった。
 その就職先とは「スーパー」。 それはスーと出て、パーと消えるところから来ていると揶揄されている事などつゆとも知らなかったKであった。

 月給制との触れ込みだった会社は月給制とは言え実態は「日給月給」と言って皆勤賞、精勤賞があり、月に一度も休まなければ皆勤賞、一日休むと精勤賞という手当てがつく制度、ところが2日休めば皆勤賞も精勤賞がつかなくなる、それどころか2日分の日当が差し引かれるという仕組みであった。
 Kは全て皆勤賞の試用期間の3ヶ月の間、月に2度はT市のM実を訪ねた。 N市のJ駅を終電車に乗ってもまだ、M実の働いている時間には十分間に合った。  それどころか皆勤賞つきで手取り12000円では毎回M実の店に顔を出す事は出来なかったし、M実も他の客の手前嫌がったので、閉店するまで駅の構内でぶらぶらしたり、本を読んで時間をつぶしM実を待ってアパートに帰った。

 大卒同期・仲間8人の共同生活の試用期間の3ヶ月が過ぎ、Kの正式赴任先がきまった。 しかも思いもかけない婦人用品担当であった。 
 N市のK店、そこの婦人部門には上司がいたが、それから3ヵ月後I市へ転勤となった。  そこでは上司も先輩がいない、野暮ったい店長という肩書きの50前後の親父タイプの店長が名目の上司と言うことになった。 労働条件が悪く、しかもサービス残業が続くので、先輩達が次々に退職してしまい、入社1年目のKにお鉢が回ってきたということである。
 当時、上位クラスのスーパーでは既にチェーン組織が組まれ、本部体勢がとり、集中仕入れが始まっていたが、Kの勤務するスーパーはまだ本部一括の集中仕入れは肌着などの部門に限られ、各店の担当者がそれぞれに仕入れをしていた。
一回りの季節も経験していないKにとっては秋もの、冬ものなどと言っても分かろうはずがなかった。 それでも店長が仕入れてくるものは、ただ安いだけで、どう見てもセンスに欠けるものばかりであったので、2ヵ月後Kは来週から自分で仕入れに行くと申し出た。 店長も困っていたのだろう、一言も言わず次の週に一度だけ同行してN市の問屋街を廻って案内してくれた。
 自分で申し出た事とはいえKは怖かった。 そこで一回に多くは仕入れずに、週に2度N市の問屋街に出掛けてはその週に販売可能と思われるだけの数の商品を仕入れてくるという事が続いた。 

 それにはI市に来る前にK店で経験した事柄があった。 K店の勤務していた時、上司から一度自分で品選びをしてみろとお店に販売に来た問屋を紹介された。 恐る恐る選んだ。  選ぶ時、問屋さんは「絶対間違いがないからこれを選びなさい」と言ったので、その通りに選んだ。
 売り場に並んだその品は何時までたっても消えなかった。 
数日後、隣の部門に販売に来ていた問屋さんとカウンターのところで話をしていた時、Kは「問屋さんは嘘をつくのか、絶対売れるからといったので仕入れたが、まったく売れない」と言うと、良く売れる商品を持ってくるとの評判が高いまだ若いその業者の方は即座に、「それはアンタが悪い、相手の言う事をまともに受けて、仕入れたほう悪い」とただ言って笑った。
 その時以降、Kは問屋は嘘をつくのか、そういうのが商売かと、その後長く心に突き刺さったトゲのように忘れる事が出来なかった体験であった。
 其の体験から週に何度か仕入れに出向き、たとえ仕入れに失敗しても大きな痛手にならずに済むからとの思いからだった。 それが度数仕入れと言うものだということを知ったのは大分後の事である。 そのために休みなどほとんど取れなくなった。
 
 日増しに成績が上がった。 寮に返ってもその日の実績を票やグラフにして遅くまで分析し、次の仕入れに役立てた。 店長は「K君良くやっている」と褒めてくれたが、検品所のおばさんは「大学まで出た人が何でこんな会社に就職したのか」と顔を見るたびに言った。 年末の大売出しは販売する商品が不足してしまうほどであり、正月早々問屋さんに出掛け、いつもより大目の仕入れをしてきた。
 正月売出しが終わると急速に店は暇になった1月末、久しぶりに土産などを手にして、勇んでT市に帰ってきた。
 M実の勤める店に顔を出すと訳も言わずに「今日は帰って」と冷たく言う。  
 その日は仕方なく実家に泊まった。 翌日、M実のアパートを訪れるが姿がなかった。
 アパートには電話がない。管理人の部屋に呼び出し要の電話はあったが、何度かけても留守だとの返事しかかえってこなかった。
 たまりかねて、初めて振り替え休日を取って昼間、M実のアパートを訪ねるが応答がなかった。 次の週の休みも出掛けM実の店の終わるのを待ったが、一向にM実は姿を現さなかった。
 KはM実のアパートにタクシーで乗り付けて、コンクリートに土間で身を震わせてM実の帰りをまったが、その日、M実は帰ってこなかった。

 どうなっているのだ、どうしたのだと気にはなるが連絡は取れない。 あわただしい2月の年度末の忙しさが一段落した3月初め、再びKの姿がM実のアパートにあった。
 Kはそこで立ち竦んだ。 窓一つ隔てた部屋から大きな鼾を聞いた。
 冷静に状況を認識できたのはどのくらいの時間であったであろうか。
 数度小さく声を掛けたが、何の返答もなくその場を去った。

×    ×    ×    ×     ×     ×    ×     ×

 5年の歳月が過ぎた。 Kは同じ寮で知り合ったWと結婚していた。
T市の実家のお墓参りに行ったある日、かってM実が勤めていたお店に顔をだした。
店のママは当時のままであった。「立派になったね。 結婚したの。」と話しかけてくるママに生返事をしていると、「M実ちゃん、今ここにはいないわ」というだけで、それ以上のことは教えてくれなかった。 
Kの事を何も知らないかってM実と友達だったというホステスが、「近くでお店を開いているよ」と教えてくれたが、Kは訪ねなかった。
 
 更に3年の月日が経過した。 Kの所属した婦人用品部門の全ての先輩が退社してしまい、その分野では一番の経験者となっていた。 その間、労働組合を立ち上げたり、会社合併もあり大変な月日が続いたが、生活もそれなりに安定していった。
ゴールデン・ウイークの商戦も終わり、一息つける初夏に連休を取って、KはT市の夜の街に降り立った。 街の様子はほとんど変わっていず、クラブ「ラ・モール」の看板もそのままであった。
 店の前を一度通り過ぎて、近くの公園でトイレを使い、鏡とにらめっこをし、小さく「よし!」と声に出してから来た道を引き返し、「ラ・モール」のドアーを押した。
まだ、時間的に早いこともあったのか店には誰もいなかった。 が暗闇に目が慣れる間もなく見覚えのある顔立ちのママさんがカウンターの下から顔をだした。
 「 どちら・・・」と言いかけて「あらKちゃんじゃないの。 お久しぶりね。見違えてしまう」と愛想笑いをした。  Kにはそれが美形の顔かたちのママさんだと直ぐに分かったが、厚化粧はされていても、その変わりようは随分だなと思った。 Kはビールを注文した。 飲めないと知っていたママにも勧めた。 二階から降りてきたまだ20歳にもなっていないのではないかと思われる若い子が隣に座った。 彼女にもビールを勧めた。
こちらは「頂くは」と言って、グラスの半分を一気に飲み干した。
「ビール好きかい」「ええ、好きよ。 喉が渇いていたから特に美味しい」と継ぎ足すとまた、嬉しそうに口に運んだ。
 お客さんこの店初めて、初めてではないでしょう」といい、ママの方をみやった。
ママは「そうね、初めてではないわね」と応えただけで、会その後会話は途絶えた。
 
 ビールからウイスキーのロックにして3杯目を追加した時、ママが「相変わらず、強いのね」と言ったあと「Kちゃん、少し遅かった」とポツリと言った。
 「ナンですか。」と言葉を返したものの、それは何を意味しているか、直ぐに分かった。
グイッと飲み干して「何処かのお店にいるのですか? それともこの街ににはもういないのですか?」 と出来るだけ冷静に訊ねたつもりであったが・・・
少し間をおき、カウンターの隅から近づいて、「亡くなったのよ。 昨年」とだけ言ってソット目頭を押さえた。 
 其の後、隣の席の女の子が声を掛けてきても、ロックを空けるばかりで、会話にはならなかった。 如何程の勘定かも訊ねずに、その女の子に数枚の札を渡して店をでた。
既にシャターが閉まり、時折切れた蛍光灯が点滅する商店街を歩いた。
 何時か渡線橋を越して、農道に向かった。あの時と同じ月が後ろ姿を照らしていた。
 




                                    平成17年1月31日

 NO番外―3 平成17年1月14日 初記
      夢見シリーズ 〜その3〜

   昭和20年代前半、全てが焼き尽くされたT市の戦後の住宅事情は最悪であった。 そんな頃設立されたS工務店は昭和30年代に入り順調に業績を拡張していった。
 一人娘のY子はわがまま放題に育てられた。と同時に気の強い子供でもあった。
 病弱な父親は出来るだけ早く後を継がそうと娘婿を探していた。  会社の中で一番優秀な社員を選び、Y子と結びつけた。
 結婚の翌年から2男1女に恵まれた。
 時の経過と共に会社はますますの繁栄振りで、T市の住宅建設業界でも上位3位に入る業績となっていた。 真面目で、頑張り屋と選んだ娘婿はなかなかのやり手で、義父から実質的に経営を任されるまでになっていた。

 下の子供が小学校に入学するころになると、父親はほとんど会社に出社しなくなり、実質社長の夫とY子が経理担当として切り盛りをするようになった。
 ある日、Y子は不明朗な出費のあることに気がつく、調べると接待費となっている夫の出金伝票だった。 しばらくはそのまま様子を見ていたが、3度目の時夫に問いただしてみた。 表面に出せない接待費もあるとだけが夫の答えだった。
 モヤモヤしたものを感じてはいたが、父親から絶対の信頼を受けている夫のこと、納得したと見逃す素振りをして数ヶ月が経過した。

 ある日、現場に行くと出て行った出先から「所長が来ていないが、どこにいるのか?」との電話が社員から入った。 この日を境にY子の夫に対する不信が本格的に始まった。
 何度問いただしても、まともな返事が返ってこないどころか、「うるさい、黙っていろ」と今まで聴いたことのない返答が返ってきた。
 ついに、決定的な情報はY子の耳に入ることとなった。愛人とその子供がいる。
気丈で、負けず嫌いな性格がむくむくとY子の中に興った。 噂の場所に行った。
 そこで、夫とその愛人、幼い子供を物陰から確認する事になった。
 帰ってきた夫とは口も聞かない生活が始まった。

  
 Y子の父の常備薬となっていたホルモン剤は長年工務店の近くの薬局で調達していた。   そこの薬剤師のご主人が亡くなった後もそのままそのお店で購入していた。 
 Y子が最初に顔を合わせたのは薬局の息子Kが中学生の時で、時々薬を自宅まで届けてくるときであった。  Kの父親が亡くなったあと、Kは夜間高校に通学していた。 
 お客がほとんどないお店の留守番役を朝の8時前から午後の5時までやり、その後勤めている姉と入れ違いに学校に通うと言う生活であった。
 当時の高校生は皆ほとんど丸坊主頭であったが夜間高校生は長髪が許されており、Kも入学早々に髪を伸ばし、昼間の高校に通っている友人と比べると大人びて見えた。

 Kが高校2年・17歳の冬、コタツに腰まで潜り込んでウトウトしていた時、知らぬ間にY子が「私も入れて」とコタツに足を入れてきた。ミカンを持参していた。
ミカンを食べながらY子が「今、ダンスを習っている。Kちゃんもやってみないか」と誘う。 経済的にもゆとりのないKは興味を示すものの生返事で其の時は終わった。
それから1週間後、炬燵に入って本を読んでいたKの前に一枚のカードをY子が差し出した。 それはダンス場の会員証と回数券であった。
昼間から店を閉めてダンス場に通うようになった。 Kの上達はY子の指導にもよるがダンス教師が驚くほどの上達振りであった。

 1年が経過し、年が明けた1月のある日、Y子がN市のダンスホールに行かないかと持ちかけてきた。 「交通費も費用も心配ない。私が用意するから」という。
 正式なダンスホールで踊った事のないKはしり込みしたが、もう何度かY子は経験しているらしく、心配ないKちゃんのダンスなら皆がパートナーとして申し込んでくるという。   T市から離れて200万都市Nなどに行ったことのないKであった。
 N市の町並みに目が奪われながら、タクシーに乗り込みダンスホール会館に降り立った。
 いつも練習しているところより暗く、しかもミラーボールがクルクルと回り何か別世界に着たように思った。 それでも目が慣れてくると周りの様子が分かるようになった。
 300坪ほどあるホールの真ん中では上級者たちなのであろう、流れるようなステップで踊っている。 隅のほうでは初心者と思える人たちが手を取りあって教えたり、教えられたりしていた。 Y子が言った「もう直ぐに大学卒業だから、其の時パーテイーで踊れるように練習にきているのよ」と。
 と言いつつ、Y子はKの手をとり「踊りましょう」とホールの真ん中に誘導する。
 初めは硬いステップをしていたKであったが、生バンドがいつも練習のとき流れるレコードのメロデイーに変わったときにはもう回りを気にすることはなかった。
それどころかY子とKとのステップに、足を止めて眺めている人たちの視線を感じていた。
 もう1曲、もう1曲と額に汗を滲ませてY子は何かを吹っ切るように激しく、大きなステップをふむ、それどころか大きくターンする時、意識したようにKの股間に足を踏み入れているのではないかとさえ感じた。  帰りの電車の中で飲んだビールは美味しかった。

 2月に入り再びN市のダンスホールにKが立っていた。
この日はT市のA大学の卒業記念ダンスパーテイーが開かれる日であった。 T市の練習に通って来ていた女学生に依頼されてY子がKを推薦したのである。
 Kの相手するパートナーは4人もいた。 その頃になるとKは練習場で、どちらかと言うと強引とも思えるステップを踏んでいたが、初心者にはかえって分かりやすいと評判になり、やはり卒業パーテイーのダンス練習に来ていた女学生からひっきりなしにパートナーとして引っ張り出されていた。
 パーテイー会場にはY子も来ていたが、別のパートナーを連れてきていた。
帰りの電車の中でY子は「Kちゃん、ものすごく上手になった、でもあの可愛子ちゃんたちを好きになっては駄目よ」とビールで乾杯しながら言った。

 そして次の日、Y子がいつものように昼休みを利用してやってきた。
炬燵で寝そべっていたKの足裏をとり、「昨日は疲れたでしょう、揉んであげる」と言ってふくらはぎを押さえ、さすりだした。  その手が更に上のほうに伸びた。
 Kは自分の意思でコントロールできなくなっているのを覚えた。
 「いいの、いいのそのままにしておれば」と耳元でささやいた。
 炬燵の隅で何度か足を打ちつけた、が最後は炬燵からはみ出し大きな息をついた。
 その日を境に毎日Y子が訪ねてきた。 それどころか、時には朝、Kの姉が出勤すると同時にやってきて、また昼休みにもやってくるという日もあった。
 一度だけY子は夫の事を口にしたが、それ以外は何も語らなかった。


 Kは大学生になっていた。 Y子との関係はその後も続いていた。
 大学の前期の試験前にKは姉と口喧嘩して家を飛び出してしまった。
 腹違いの3人の姉妹はKの生みの母に大切に育てられ、当時としては少ない女学校にも行かせてもらい、習い事も世間並み以上に通わせてもらった事に感謝と恩義を強く感じていた。  
 それ故にKが4歳の時に母親がなくなり、父親も既にない12歳下のKを一人前の大人に成長させねばと、アレコレ心配して口煩くなるのが返って、反抗期のKにはたまらなかったのであった。
 Kは京都か大阪にでも就職しようと思って出掛けたが、1週間ほど経過すると持ち合わせのお金も少なくなり、Y子のところに電話をかけてきた。
 その晩はO市の旅館で宿泊した。 家には戻らなくても良いから、学校の試験だけは受けよと説得されたKは夜間高校時代の友人の家に寝泊りをして、その年の前期試験を終えた。

 その年の11月、2ヶ月ぶりに家にKは戻った。
 学費を払うためにもアルバイトをしなければならなかったK。 大学の同じ研究会の先輩に誘われて、小さなバーのアシスタント・バーテンダーになったのは年が明けた4月であった。 器用で、飲み込みが早く、陽気で、元気なKはマスターにも、ママにも、ホステスにも、そしてお客様にも好かれた。 
Kはお客の飲み残していったビールを飲んだり、時にはお客様からの差し入れを受けた。 飲める体質だったのであろう、いくら飲んでも酔っ払うということはなかった。

 いつの間にかY子とは疎遠になり、また会う事もなかった。
 その間にY子は正式に離婚していた。 が家は実家のある敷地内に新築して生活していた。  2階はKと同じ大学の学生達が間借りしていた。
 Kが久しぶりに立ち寄った時、大学生とY子が炬燵に二人だけで入っていた。
 そのまま立ち去るのも腹立たしく、上がり込んではみたものの息苦しい時を過ごした。
 それ以降、KはY子のところに立ち寄る事はなかった。

 Kは卒業しN市に就職した。 Y子のことはスッカリ忘れていた。
 ある日、Kの勤務する会社にY子が訪ねてきた。 一度会って欲しいと住所と電話番号を記した紙を置いていった。 其の時、KはY子がずいぶんと老け込み、会わなかった時間の長さよりもっと多くの年月が過ぎたように感じた。

 月に数度しかない梅雨時の休日、Y子に電話をし指定された場所に出向いた。 
 Y子は年の離れたおじいちゃんと再婚したと告げた。 今日は彼がいないからといって彼の所有と言うアパートの1室に案内された。  雨戸がしまり、どこか湿っぽい感じの部屋で扇風機が回っていた。 フトンは敷きっぱなし、留守番していた鼻のクリクリした犬、チンが近寄ってきてしきりにないかをせがんでいる様であった。

 ダンスホールで小さな身体を投げ出すように思いっきり伸ばし、舞うように踊っていた頃のK子とはまったく別人をみているようであった。 その場を逃げだしたくなっていたが、Y子がチョット気の毒にも、可哀想にも思え帰るタイミングを計りかねていた。
 出されたサイダーを飲んでいると、隣の部屋から現れたY子は何時の間に着替えたのか派手なネグリジェ姿だった。
 「もう、無理は言わないから、今日だけは私の言う事を聞いて」と手を合わせる仕草を取った。 思ったとおりフトンは冷たかった。 上布団をかけると同時にチンが駆け込んできた。  スーとY子のネグリギェの中に潜りこんだ。
 逃げるようにKはアパートを後にした。  その後の消息は知らない。

 

 

 

  

 

COLUMN1-D NO174
                                   平成17年1月18日

 NO番外−1 平成17年1月9日 初記
  夢見シリーズ 〜その1〜

 
1980年代後半バブル期、ブランド品が次々と紹介され、販売された。
 誰もが3〜4品は自慢のブランドのバッグ、あるいは衣装を身につけていた。
 田舎暮らしばかりということもなかった。 一度東京に出てはみたものの、なじめぬままに故郷・東北の小さな町に引き込んでいた。 1年が経過した、父母は何も言わなかったが、迷いつつも思い切って独り立ちのために都会に出て、ファッション関係の会社に就職をしたときA子は20代後半であった。
 
 バブルが崩壊して順調に成長していたと思っていた会社に危機が訪れていたが、彼女が其の事に気がつくのは会社の幹部間の争いが表面化してきた頃であった。
 右に、左にと揺れ動いた。 社内どころか社外までにも内部告発の文面が配られるようになった。 それ以前にもそんな事があったらしく、それを経験している先輩達は何も語らずに、どちらに味方すると言う事もなくうつむいて仕事が続けられた。 
 暗い雰囲気の中、成績は日増しに落ちてゆく、親会社は見過ごす事が出来なくなって、ついに断がおり、新しい社長が就任する事になった。 
 新社長は長年続いた負の遺産の切捨てを初めとして、次々に改革の手を打っていった。
 右、左と揺れていた社員も日ごとに纏まっていった。
 
 新社長が就任したその年、彼女が所属する部のXmasのパーテイーに初めて社長が招待された。 引っ込み思案のA子を仲間は面白がって、あるゲームで社長の相手役に選んだ。
 ピンポン玉をスラックスの上から下まで早く通すと言う、少し怪しげなゲームであったが、彼女は他の組が躊躇しているというのに臆することなく大胆に振舞い優勝してしまった。  
大きな歓声で終わったゲームのことなど直ぐに忘れ、テーブルや椅子で所狭しと並ぶなか、次々にマイクが手渡されて歌い踊り、時間の経過と共にパーテイーは盛り上がって言った。 “乾杯!乾杯!”と威勢の良い掛け声が聞こえる。 が、A子はゲームの後も又もとの椅子に戻り、隅のほうで目立たない存在であった。
 そんな彼女に社長は声を掛けた。 そして、皆の声に押されるように2人のデユエットとなった。 歌い終わるとまた元の隅の席に帰った。
 
パーテイーはお開きとなった。 「何処まで帰るの?」と訊ねられたところはタクシー待ちの場所であった。   何を話したかはほとんど記憶にない。
 ただ窓を少し上げてネオンの明りが走ってゆく風を呼び込んだ。 先ほどまでのお酒で火照った身体に気持ちよかった。 アパートの方向であることには間違いなかった。
 既に其の時A子は予感をしていた。 と言うよりは心のどこかで期待していたと言うほうが適切であったのかも知れない。
 二人の関係が一年近く経過した時、其の時の心境を訊ねられたA子は「シマッタと思った」と応えていたが、果たしてそれは本心であったのであろうか?

 数年の年月が過ぎた。
 その間、日増しに大胆な逢瀬となった。 大半は会社の終了後ホテルで、示し合わせた休日には一泊の京都、奈良への旅、A子の故郷の温泉宿、お正月休みなどには彼の故郷のお祭りにも顔を出した。 が、周りには十分に気を使っていた。 A子の無表情な態度と口数によって二人の関係は疑われる事はなかった。
 A子は入院生活も体験した。 ある日の早朝、出勤前に彼が見舞いに来た。 
嬉しかったと同時に、入院中に彼が他の人に奪われはしないかと心配すらして、オペのキズ口が十分治っていないことを忘れて彼にしがみついた。
 深まる行為の結果には当然の結果も経験したが、A子は一人で対応した。

 妹の結婚を機に、A子の気持ちがぐらついた。 既に30を2つ越していた。
 彼からの連絡を待つというよりはどこか避けるようにさえなっていた。
 再び緊急入院する羽目となった。 ある朝、訪れた彼に「もう来ないで」といった。
 そして「私、後悔はしていません。楽しい出がいっぱいです」と伏目がちに、しかしハッキリとした口調で告げた。
 退院後のA子はそれまでとは態度が一変した。 いままでの事は何処に何があったといわんばかりに、いや「私は別物になった」というように、彼の前をワザと大またで通りすぎたり、電話口で大きな笑い声を発した。
 
 2年の月日が過ぎた。 突然A子は電話をした。 彼以外にこの窮状に対応してくれる相手が見つからなかった。 彼は会うとも言わず、1通の手紙を出すように言った。 
そして、A子の要求に応えてくれた。
 その後、全ての約束を履行しないまま数年の歳月が流れたが、その後のA子の消息は分からない。
 

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