車旅“東北〜北海道 2003年・夏”
No.363〜382

NO.363                                            平成15年6月25日 記

 “車旅 東北~北海道 2003夏” を前に
   〜どんな自然や人々との出会いが
             あるのだろうか〜

 “車旅 東北〜北海道2003 夏”が近づいたので、再度大まかな旅程を頭に入れておこうと計画表をとりだす。
 毎度のことながら、2ヶ月も経過していると記憶に残っているのは2〜3割である。
 また、この間に情報が加わり既計画の中に組み入れようとするので、その前後とあわせまったく最初からの組み立てになってしまう。
 それが楽しいはずなのにオックウに感じられてくるのだから、苦笑しながらの修正である。
 が、ほとんどの場合、最初に計画した時のものに従うことが間違いのないことを今までの経験上知っているので最後はそれに従うことにしている。
 今回の旅の中、秋田の“あきたこまち生産者協会”(No347で紹介)はもちろん計画の中にいれてある、ところが訪問予定日が日曜日になっていることに気づかずで、さてどうしたものかと思案中である。 前後に行きたいところが増え1日滞在を増やすかと考えているが、そうすると本州から北海道への渡りとその後まで影響してくる。
 7月20日を過ぎると北海道〜名古屋の船旅料金が上がる。 暇と今のところ健康には問題ないが、お金(費用)はどこからも湧いてこない。
 今朝、“100平方メートル運動の森 トラスト”から「しれとこ通信」がとどいた。
1994(平成6年)レンタカーで道東を旅した時“知床で夢を買いませんか”のキャッチフレーズに目がとまり“知床100平方メートル運動”に小額の寄付をしたのが始まり、その後1997(平成9年)から、その運動は20年目で募金目標に到達、新たに「知床で夢を育てませんか<100平方メートル運動の森 トラスト>」としてスタートした。
 その時も(1998年)改めて寄付をした。
 今、我が家のリビングにその時の募金証書が2枚、地元斜里町の木工サークルの手作り額縁(ハリギリ<センノキ>の材で木目が美しい)入りで掲げられ、良い思いでとさせていただいている。
 昨年の車旅“北海道 2002 夏”の時、其の地“知床自然センター”を訪れ、大きな記念塔の中に、小さな、小さな一片のプラスチック版に私と女房の名を確認し、指差し、記念撮影をしてきたことはまだ記憶にあたらしい。
 今夏は昨年十分に時間の取れなかったところを廻るつもりですので、ことしはパスすることになるのだろう。 が、あそこに行けばかならずあると思うと、良い想いでと共に、こんな小さな行為がこんなにも心に残るのを教えられ、最近このようなトラスト運動が各地で盛んなことが理解できる。(良い記念になっているようだ)
 一方、時々このコーナーにも登場する、“飛騨清見のオークヴィッレジの通信”5月号で紹介された「えりも岬」を訪問する予定である。
 このように紹介されていた。
『北海道の右下、太平洋岸に突き出たえりも岬は、風速10メートル以上の風が年間290日以上も吹いている。
 植林まえの岬近くの写真が残っているが「これは日本ではない」と思う。
 どう見てもサハラ砂漠かタクラマカン砂漠としか思えない風景が広がっている。
それが50年経って、立派な森になった。 緑化に初期から関わった飯田常雄さんが潮焼けした深い皺の顔をほころばせて語る「あのカシワはね、成長が遅いのだけれど、クロマツの間に植えたりして、結構根付いてくれた。 カシワは、この辺にも昔からある木でしょう。 冬には枯葉になるけど、春、この辺では5月中ごろ、葉が出てくる。 成長は遅いんだけど、あれね、本当に緑がきれいでね、今行ってみても、『いい山になったあ』っちゅう感じがあるんですよ」とはればれと語ってくれた』 とある。
 出来あがったものを見て感動するのも素晴らしいが、そのえりもの岬の砂漠がどのようにして、緑化されたのか真実を明らかにした本 「稲本 正 著 『えりもの春』」をたずさえて、其地に立つのが待ちどうしい。
  どんな思いを抱かせてくれるのだろうか?
 毎日、毎日、数字という結果に追いまくられていたわたし、それから開放されて丸5年、その後も其れまでの体質と同じようなものの見方、感じ方、考え方からは一向に脱皮できない日々であったように思う、近頃やっと体内に沈殿していた血液もだいぶ入れ替わったのではないかとおもえるようになった。
 が、果たして実態はどうであろうか?
 百姓学校にいったり、植樹や下草刈りに参加したり、日々野山を散策し、自然と交わることを心掛けてきた。
 自然と対峙すると心身共への良薬であると感じる。 その恵みの大きさ、清らかさ、なにも語らずに感じさせてくれる。
 どんな自然環境やその中でどんな暮しをする人々との出会いがあるのだろう。
 “東北〜北海道 2003夏” の車旅があと1週間後に迫った。
NO.366                                           平成15年 7月 1日 記

 疲労感を感じさせないのは、少ない車両と緑、   そして…
  〜中央道〜上信越〜北陸道〜
          磐越道〜奥会津まで〜

 昨夜から今朝、起床するまでに、今回の車旅の書き出しはこうしようと思い、何度か記憶の淵に残るように言い聞かせていたのが、案の定、記憶の外に行ってしまった。
 といって、その程度のことなのでたいしたことではないのである。
 又、思い出したらメモることにする。
 今日は結論的には走行距離が563.0qである。
 今までの経験上から300qを越した当たりから徐々に疲労感が感じられるようになるのだが、2時間約180qを走った梓川SAではまったく、なにも感じず昼食をとる。
 晴天なら中央アルプスが眼前に展開されるのであろうが、全てが雲と霧の中である。
 昨秋“グリーン・カレッジ”で森林関係の勉強会(全国より参集)で宿泊した妙高高原を過ぎ、北陸道米山SAで休憩とする。
 この時、60代後半(あるいは70代前半か?)の方が私に近づいてくる。私自身が旅人なので質問されても困るなと思っていると、「直江津港はどこか?」との問いである。
「どちらから来られたのですか?」と問い返すと「上信越道を走って来た」との返事。「では、上越ICで下るべきだったのが、柿崎IC、そして米山ICと2つも通り過ぎて来てしまいましたネ」と言うと、「では、どうしたら良いのか?」と聞き返してくる。
 米山ICの出口と米山SAとは隣接し平行して走っており、出口方向を右に50m走ると米山SAに入ってしまう。
 そこで、少々危ないとは思ったが車輌数が少ないので「お1人ですか?」と尋ねると「2人である」という。
 もし、それが奥様であると心配だなと思いつつ「1人が誘導してバックし、米山ICでUターンして直江津港(上越IC)に戻っては」と言うと、分かったような分からないような顔つきである。
 再度、説明し「この50mのバックは危険ですから充分注意して下さいよ」と言うと泰然として分かったという。
「北海道は6日後に私も渡るのですよ」と言うと「ワシは北海道生まれ、育ちで、法事で帰るのだ、知人・友人も尋ねる予定である」と言う。
 再々度、心配でバックのこと、Uターンのこと、上越ICで下り、直江津港へと確認するのでした。
 さて、この結果はいかがだったのでしょうか?
 磐越道に入り、なぜ疲労感が来ないのかが分かった。 @まわりの風景である。緑である。山と新潟平野の青々と風になびく稲の苗の田である。
 A交通量が少ない。追い越してゆく車輌も少なければ対向車も少ない。ハッとすることも、イライラすることもないのである。
 Bもちろん、車旅初日でお相手様との葛藤もまだ始まっていないのである。
 がさすが、本日の宿泊予定地“奥会津”の会津坂下ICの70〜80q手前頃より、両目の周りがシバタイてきました。
 会津やないず温泉“つきみが丘町民センター”の湯が結構なものでした。
 柳津町のシンボル福満虚空蔵尊圓蔵寺は1,200年の歴史を誇る名刹です。
 縁起によれば弘法大師、空海が唐の高僧から霊木を授かり、帰国後にその木を3つに分け流したところ、その1つがここ柳津町に流れ着いたと言われている(他は千葉と茨城です)。
 大師はその木で虚空蔵菩薩を刻み、それを受けた名僧・徳一大師がこの地に圓蔵寺を開創したというのである。
 天下の奇祭とも言われる“正月七日堂禅まつり”の他“十三講まつり”“九月堂おこもり”など燃える民衆の力が結集し、邪気を払うという。
 臨済宗妙心寺派の禅寺であり、いつもこの派の庭の手入れには心打たれるが、この圓蔵寺も有に5,000坪はあろう境内は隅々まで心が行き届き、気持ちが良かった。
 今回の旅の計画になかった拾いものを初日からしたことになった。
  本日の宿 道の駅660会津柳津
  湯 柳津・つきみが丘町民センター @310円
  夕食 国道252を戻り国道49号との交差地点にて『ばんげ、ぼんげ       定食』なる、
福島放送×アナウンサー命名の定食をいただく @1,000円也
  本日走行 563.0q

〈追記〉7月2日 記
 昨夜来の雨が上がっている、空気スッキリの道の駅会津柳津である。
 自然を友とし、和歌・漢詩・書に親しみ、人々を愛し、純真にしてかつ清貧の生活を送った一衣一鉢の生涯を閉じた良寛和尚が、生前、宿願の柳津詣でを思い立ち、圓蔵寺の福満虚空菩薩に礼拝したのは文化14年(1817)秋、60才の時という。
 良寛和尚は巖上の高欄に寄り、眺望賛嘆、柳津の絶景に心をうたれて2編の長詩を遺している。
 本堂(菊光堂)は表参道、裏参道よりの正面に菩薩像へ対面出来るのみならず、只見川を見下ろす側面(眺望所)にも入口がある。
 昨日は午後5時すぎで入れなかったし、中も見えなかったので、今朝再度訪問することとする。
 柳津町は福島県河沼郡で県の南西部、人口500人の『信仰の郷』である。
 只見川の舟運によって発展した門前町でもある。
 磐越自動車道(会津坂下IC)から約6分の奥会津への玄関口といえるだろう。
NO.367                                           平成15年 7月 2日 記

 会津若松の精神文化を学ぶ
  「ならぬものはなりませぬ」
 〜鶴ヶ城、白虎隊そして喜多方歳の町〜

昨夜半、「カー喜々君の屋根」でメロディーを奏でていた雨は止み、霧のような雨に変わっていた。その間3回もトイレにお世話になったがその都度、すぐに寝入ってしまっていたので、やはり560qの長距離運転が響いていたのだろう(6月28〜29日の百姓学校の疲労も残っていただろう。365)。
 再度、福満虚空蔵圓蔵寺を訪ねてみたく6時すぎ早々と道の駅会津柳津を立つ。
 昨日は行き止まりの道に迷い込んでいたが、少々大回りしながらも大駐車場に到着。
その駐車場には昨夜の町民センターや柳津温泉の各旅館に配湯している地下700mより汲み上げている湯元の施設がある。
広大な境内のほんの一部であり、この町が門前町としてこの圓蔵寺と共に栄えていたことの証明でもある。
その圓蔵寺の3方の扉は既に開かれており、仙台から来ているという同年輩の夫妻が記念撮影をしていた。前日訪問した時住職に説明を受けた内容をしきりに聞かせてくれる奥様、それによると建物の基礎となる4本の柱は1本のケヤキの木からのものであるという。そのケヤキ、私が両手を回しても届かないので、多分2mはある。
 ということは、直径70p以上ということになる。それが4本であるから幹まわり20m以上の巨木であったのであろう。
 他のはり梁も太く、その1本1本に彫刻までほどこしてあり見飽きない。
決して大きな建物ではないが、祭りの時裸の若者がよじ登る麻縄がその梁の1本より鐘に添って垂れ下がっている。
「七日堂裸まつり」のポスターの写真の様子が良く理解できた。
 納経帳を取りに戻り、納経をすます。昨日も書いたが予定になかった拾いものの出合いに満足した。
会津若松鶴ヶ城へ
 一昨日出発してから数度「会津若松、鶴ヶ城」とここまでの詩吟の一節を何度か声に出していた(眠気予防の為もあり)。
 正式名称は“若松城”であるということも知りましたが、あの鶴の美しい姿を連想させる鶴ヶ城がやはりよいなと感じさせる城内の雰囲気と環境、そして今はコンクリート造りの城です。
 今春、大分県の岡城跡も訪ねているので、仙台青葉城とこの鶴ヶ城がイメージのモチーフとなって土井晩翠が作詞し、滝廉太郎作曲の名曲“荒城の月”が私の脳裏をあの旋律が流れました。
 鶴ヶ城とくれば戊辰戦争で自刀した白虎隊、そして飯盛山です。
 10分もあれば登り切れる石段のある山なのですが、高齢者も増えてきたためか250円也の屋外エスカレーターを利用しました。
 観光バスガイドの研修生に先輩が聞かせている内容や、ボランティアガイドが遠足(課外学習?)の小学生に説明しているのを聞いて“さざえ堂”や猪苗代湖から20qもの運河を掘り、この飯盛山の下では150mのトンネルを通して会津若松に水を導入した洞の出口も見学(この洞は戦いに敗れた白虎隊が通り、飯盛山に達したと説明していました)。
 白虎隊記念館は2階建てですが全てで150坪ぐらいでしょうか、そこに12000点の史料が保管されているということです。
所狭しというよりは重なりあっていて息苦しい程でした。
白虎隊の若者や(いや少年や)学舎であり「ならぬものはなりませぬ」という士魂尚才の気風を育んだ会津藩校日新館。
江戸時代、全国300藩校の中でも規模内容とも随一と謳われただけのことはあります。
五代藩主松平容頌の時代「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の養成にあり」との家老田中玄宰の進言によって計画、5年の歳月をかけ1803年(享和3)に鶴ヶ城の西側に一大学問の殿堂が完成、広さは東西226m、南北116m、面積8000坪、建物は1500坪です。
戊辰戦争のとき消失したが、昭和61年に完全復元されたもので、約1時間強かけて学び、見学させていただいた。(今日の日本の現状と今後、そして自分の姿、精神についてしばし・・・)
ここまでくれば蔵のまち喜多方です。
前日までに”喜多方ラーメン”は2度も味あわせていただいていたので、造り酒屋の密集度は日本一というこの町の利き酒めぐりです。酒講義が聞けるという喜多の華酒造場を訪れました。
少しばかりの日本酒に関する知識のある私は良かったのですが、約20分女房は少々地方なまりのある言葉と専門用語と早口で、90パーセント理解できなかったようです。
もちろん、純米酒と大吟醸酒を購入しました。
帰宅するまで残っているのでしょうか?

 宿 道の駅 No166 喜多の郷
 湯 地域保健福祉センター “夢の森”
 喜多の郷は月1回の休日でした。隣り村の”夢の森”までは6分でした。那麻郡熱塩加納村です。近頃はどの町、村にも同様な施設があり助かりますが、この財政事情下、いつまで続くのでしょうか?
本日の走行距離  97.0km

〈追記〉
・ 道の駅“喜多の郷”のこと
 ここは推奨の道の駅である。湯・レストランに駐車場も広々としていて気持ちよい。
 白鳥も飛来するという人造湖もある。
・ “夢の森”のこと
 到着が午後5時5分前「あと5分待て」と言う。午後5時からは入場料が300円にな るという。1日券は500円である。
NO.368                                           平成15年 7月 3日 記

 ”ツイている”と感ずる一日は更に充実
 〜”天元台”〜米沢、上杉鷹山公の地で〜

 旅をしていると“今日はツイている日”だった、“今日はツイていない日だった”と思うことがある。
 その差はたいしたことではなく、気持ちの持ちようなのだが、それでも“今日は全てが良くいった”と感ずることが多い日の方が、湯に入り(時には先に食事をして)、夕食をとり、道の駅に向かう時に一日の満足感が異なるものである。
 その気分的な基準に従うと本日は“ツイている日”と感ずることが多い日であった。
 まずなんといっても天候である。特に今のように梅雨時となればなおのことである。
 今日、雨ならば大幅に予定変更をしなくてはならないところであった。
推奨道の駅”喜多の郷”を出発、国道121号線を喜多方市の方にもどり、上江橋から国道459号線を東方に、前方のダンプカーは時速50km、私もそれに合せて走る。まわりの風景がなぜは心やすらがせ、少しも急ぐ気持ちを起させない。
“裏磐梯の道の駅”から”桧原湖”の湖畔道路を北上、”西吾妻スカイバレー”に入る。
 ここで第1の”ツイている”に出合う。
 7月1日よりこの有料道路がフリーとなっていた。
 本日のお目当て、“天元台高原”の湯元ロープウェイの駐車場に入る。
 ここの従業員挨拶・マナーが良く気分良い。
 日本百名山のひとつ“西吾妻山”に向かう、湯元〜アルプ天元台へのロープウェイ、それに続いて“しらかばリフト”“しゃくなげロマンリフト” “つがもりロマンリフト”と約30分乗り継いで“北望台(1,820m)”に到着。
 そこから約25分“かもしか展望台(1,940m)”まで登る。
 整備されている木道を心地よく進む、残雪の中に高山植物を見ることが出来、これが第2の“ツイている”と感ずることになる。
 “人形石”から再び“北望台”にもどり、リフト、ロープウェイと下り、今回の旅の中の2回のトレッキングの第1回を終了する。
 一度、女房が足を滑らし、木の根で太腿をぶっつけた以外は何も無し(ロープウェイ、リフト往復共通券@2,700円)
『なせば成る なさねばならぬ 何事も 成せぬは 人のなさぬなりけり』の上杉鷹山公の米沢である。
 何度か本・テレビで読み、視聴しているはずなのに、時間の経過と共に忘れてしまっている。
 まあ、その毎に心新たに感動しているのであるから、これ又幸せでもある。
 米沢到着前、天元台が予定より早く下山出来たので、本日の予定を修正の要ありやと思ったが、「なかなか」である。15万石“米沢城跡”であった。
 そこを廻る前に、カー喜々君の中でひと眠りしていたので、更にスッキリした気分で“上杉の城下町”の中心地を見学できた。
 まず、この米沢市、この中心地に力が入っていることを充分感じさせる歓迎体制である。
 ユウユウの駐車場(でも、祭・イベントの時は不足であろうが…)、上杉城史苑から松岬神社〜上杉神社(稽照殿)〜上杉伯爵邸〜伝国の杜(上杉博物館)と2時間強の時間を要した。
 天元台のトレッキングと合わせ、いささか疲労感を覚え、本日の宿隣町の東置賜郡高畠町へ。
 この町には2つの湯(温泉)がある。
道の駅の近くの“むくどりの夢館・温もりの湯”を選ぶ(大人@200円)。
 これが正解で3つ目の本日“ツイている”毎分300 L、41.5度の湯量で、ここからもう一つの湯、高畠駅前の“太陽館”に毎日、輸送しているという。
 それ故に、単純温泉であるが流し湯であり、浴場は6uと小さくはあったが、アットホームな湯であった。
  宿 道の駅158 たかはた
  湯 むくどりの夢館・温もりの湯
  夕食 “和牛屋”(高畠町内)
   米沢市内で食したら、倍の価格になっていたのではないだ
   ろうか?湯に行く前、3分のところで食したこれも第4の“ツ
   イている”に加えるべきであろう。
  本日の走行距離 106.7q

〈追記〉
 上記を書き終えて車外に出ると、女房が話し込んでいた。
この道の駅の“物販と飲食部門”の責任者である。30代後半である。
 彼曰く「今年で5年目、毎年20%の売上増を達成している。これでも不満だ25%伸ばしたい。第3セクター方式はだめだ。民間と公共の悪いところばかりが出る。俺は10年以上、地元の企業で物販・飲食のこと叩き込まれて、ここに送りだされた。これからも自信ある」と言う。
 特に地元の農家より購入・販売品の人気が良いが、仕入れに失敗すると“キャベツ”ばかり食べていなくてはならぬと、標準語で語りながらも、時折、山形弁まじりである。
こんな元気な方の話を聞いたのも久しぶりである。これで“ツイていること”aHあろうか?
NO.369                                           平成15年 7月 4日 記

羽越街道“道の駅”は競争です
 〜山形は“山寺”一箇所で満足でした〜

 今日も昨日に続いて“ツイている日”の続きのようである。
 昨夜半に雨が上がり、早朝より梅雨時とは思えぬさわやかな風が吹き快晴を予感させる青空が徐々に広がってゆく。
道の駅たかはたの周辺は“まほろばの里”歴史公園となっており、敷地内に縄文時代を模した竪穴住居が2棟ある。
 そんな大昔にさかのぼらずとも、300数十年前米沢市で伊達政宗は誕生した。
 上杉家の領地になる前は伊達家が治めていた所である。
 仙台地方からこの地に攻め込んできたのであろう。国道113号線は七ヶ宿街道(別名羽越街道)ともいい、道の駅たかはたの東8kmにはニ井宿峠がある。
 その峠の最高所は平坦地、標高約570mである。しかし、県境は旧道上、西の一本杉地点となっており、このズレは『伊達の無理境』と呼ばれた領地争いの結果であると記されている。
 米沢平野の北東部、道の駅西側は100mところに山並みが迫っている。
 本日は国道13号に出て、まず山形新幹線(奥羽本線)に沿って北上、山形市内を通過して、「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」芭蕉の古刹・立石寺(山寺)から始まる。 (以上は7月4日朝 記す)
 と、早朝メモしたものの、全てがそんなに上手くゆくものでない。山形市内に入る手前で霧雨となるが、まだ捨てたものでない朝食はコンビニかと思っていたが「まる印」なる24時間営業のリニューアル後の店舗に入る。
 私は鮭、女房は納豆朝食でひとり450円也。 コンビニ弁当より汁付きで心温かい。
「山寺や 芭蕉迎えて 梅雨の間に」と浮かんだ。ということは何と霧雨も上がり、山形観光のハイライト山寺が迎えてくれたのである。
 私達が到着したのは午前8時前、観光みやげ店の店主がシャッターをあげているところであった。
 通称“山寺”本名は宝珠山立石寺である。
山全体(35万坪という)が境内になっていて、簡素な堂塔が峻険な山肌にへばりつくように散在する。
『「奥の細道」に岩に巖を重ねて山として、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて物の音聞こえず。』と、芭蕉が記した風景は今も変わらない。
 1,100年以上も昔、東北各地に仏教を広めた慈覚大師(円仁)の開山で、天台宗の古刹。
 ふもとの根本中堂から奥の院(如法堂)までの1015段の石段を登る。
 この石段をあえぎながら登ることによって、俗世界の思いが流されて、価値があるのかと思う。
 1神社8仏の、納経を終えて、再び根本中堂に参拝する。
 霧雨に閉じこめられ、早朝の“菩提樹”の花の香は弱くなっていたが、汗した身には“ごくろうさま”と声を掛けられているようであった。
 『菩提樹の 香はどこかと 立石寺』 今日は駄作が並びます。
 その後、本日の予定地、鶴岡・酒田を飛び越して、道の駅“象潟”に到着する。
 かっては松島と並ぶ景勝地というが、文化の大地震で土地が隆起、水田に開墾されたという。がなぜか、敷地内のアチコチを歩き回ってみるが、本日の宿にする気にならず。

 羽越本線に沿った国道7号を北上すると20〜30km毎に道の駅あり、そのひとつに電話をすると、その応答に感ずるものありで道の駅“岩城”を本日の宿と決める。
 羽越浜街道、道の駅の湯は塩辛い。
 海岸が見渡せる階下の湯へ。
 来週海開きという海岸線から100m程橋脚が日本海にむけてのび、その先に直径100m程の円形のコンクリートブロックで基礎が固められている。
 3人の地元の方に尋ねた。
 一番若い方「何をしているのでしょうかね。もう工事は中止しているのではないですか」40代の方「あれは、水中水族館ではないでしょうか?この財政状況ですからねぇ?」そして、60代の方「釣り堀を造成中なのですよ。今でも細々ですが、工事は続いています。2007年が完成でしょうか?」
 私は当初、漁港にしてはどうかと思ったが、誰が発想したか知らぬが、1匹当たり10万円にも相当しよう。“お魚様”となる事業であるなと思うのでした。
 この夜はどんな夢を見ることなのでしょう。
宿 道の駅No139 岩城
湯 道の駅“岩城”併設 @300円
夕食 道の駅“岩城”のレストランには入らず地元出店者の“焼き魚”
    “タコ焼”等々と持参の日本酒で終了となる。
本日の走行距離 263.4km

〈追記〉翌朝、やはり気になり造成中の海に突き出た橋のたもとに行くと『第9次道川漁港修築事業整備計画』なる大看板が建っていた。
 そこには以下の計画概要が書かれていた。
“本港は『砂浜域における漁業の振興』『つくり育てる漁業に対応した漁港整備』『海洋レジャーとの共存共栄』を目的とした本州沿岸で初めての『島式漁港』です。
 この構造は、砂丘海岸において発生する漂砂による港内埋没を防ぐため、砂の移動の少ない沖合に島を設け連絡橋により陸地とを結ぶワイングラス状の漁港です。
 これにより従来費やしていた維持浚渫の経費を大幅に節減できるほか、周辺海岸に生じる汀線変化も最小限に抑える『地球にやさしい島式漁港』です“と
 昭和61年11月 第1種漁港に指定
 昭和63年8月 (s63〜h5年)事業計画決定 計画事業費 2,253百万円
                    実績事業費    1,885百万円
 平成2年1月  工事着工
 平成6年6月  第9次漁港整備長期計画
        (h6〜13年)で修築事業に計画決定
        計画事業費 6,918百万円
 私の目にはかっても、今もどこに漁港があったのだろうかという風景である。
 陸地に『水産物養殖施設』と看板の掛かった約300坪の平屋の建物が見えるのみである。
 どこかのお役人様が立案した計画であろうが後数年後訪ねてみたい。
 どんな漁港として発展しているのか?
NO.370                                           平成15年 7月 5日 記

 〜寒風のあとに、心温まる歓迎の大潟村へ〜
 7月5日 その1

〈ツイてない寒風山〉
 10年前、半分仕事で寒風山を訪れたことがある。その時は初冬11月中から下旬であった
と思う。うっすらと霧が流れ、360度の展望は望めず、ジャンバーの衿を立てた写真が残っている。
 男鹿半島のシンボル、この山に登らなくては男鹿半島の魅力が半減してしまうという、全山が天然の芝に覆われた標高335mの山である。
 山頂付近には樹木や視界を遮るものはまったくないので、眺望は抜群であると紹介されているので尚更の期待であった。
 道の駅岩城をスタートし、羽越本線に沿って日本海を左に見ながら北上する時、既に時折、小雨がぱらつくので心配していた。案の定標高200mを越える当たりより濃い霧の中である。
 山頂付近では視界が10〜15m。女房は車から降りもせず、「北海道からの帰り、もう一度立ち寄る計画に変更は出来ないの」という始末である。
 何も見えないのであるが、なだらかな丘のような丸い山の形状から予測される眺望が想像できたのであろう。
 「又、おいでということだよ」と慰めの言葉を発して、男鹿半島の先端、“入道崎”に向かう。
 霧雨は相変わらずであるが、緑の芝生が綺麗に刈り込められている台地上に北緯40度を示す石のモニュメントが5基並び、その一番高い石の上にトンビが止まり、さあ 記念撮影しなさいとばかりに翼を広げてくれた。
 芝生が刈り込められていたのは当日、男鹿半島駅伝大会のゴール地点で、空気で膨らま
せた大きな黄色のアーチを3人がかりで立ち上げようとしていたが、風があったのでどうなったことだろう。
 間口10間以上の大きな土産物(飲食兼ねる)が開店準備をはじめた。 店頭の等身大の“なまはげ”をバックで一枚撮る。
男鹿半島の西海岸もうつくしい、“八望台”の夕陽も最高という、もう一度訪れることを誓い、今回の旅でネライのひとつである大潟村へとむかう。
<干拓の大地、大潟村>
 既に何度かこの大潟村の農業のことについては“あきたこまち生産者協会”の湧井代表の書かれたものの紹介を通じてご案内してきました。
 これ又、何度か書きましたが、“美味しく、安全であるお米”の提供をしていただいているということのみでなく、この地に入植し、ヘドロの地との戦い、又日本の農政とも戦って今日の結果(成果)を生み出した方々の苦労・精神を食べさせていただいているとの思いである。
 このお米を、ごはんをいただく毎に、かすかではあるが、物的な豊かさの極みにある自己反省をさせていただいている。
 予定通りの、いやそれ以上の態勢で迎えていただいた。
 涌井代表の毎月の「こまち通信の文面」から、又電話・FAXでのヤリトリの言葉や文章・応答から躾のきちんとした職場であろうことは予測していたが、敷地内に入り事務所の場所を尋ねるとそれに対しての態度からしてちがうのである。
 スリッパに履き替え2階に、薄いグリーンの制服の方々3〜40人であろうか、一斉に立ち上がり、歓迎の笑顔である。
 5〜6人、多くて10名ぐらいはと思っていたが150坪にこれだけの方々である。私もとっさに「いつも、美味しく、安全なお米をいただいております」と直立してお辞儀をした。みんなもお辞儀した。
 そのまま立っておられるので、「どうぞお仕事続けて下さい」と促すと、大半がパソコンでの受注関係の業務をされていた方々なのであろう、再びキーボード上で指が踊った。
 総合の案内をしていただいたのは協会設立以来の山岡さんという40代後半(?女性の年齢は分からない)ほとんど秋田なまりのない秋田美人である。
 その後、出荷係の責任者で協会歴12年目という、30代前半の相馬さんがいかにも対人関係はニガ手というのがすぐに察せる話し方で、精米から出荷までを詳しく説明していただいた。
 その間に得た知識・情報
 @現在、個人会員は4万人(最高時は7万人であった)そして業者(病院・学校・老人ホーム・飲食店・スーパーへの卸等)が1万件であり、全出荷量の30%が個人、70%が大口関係者。
 A大潟村内では年間約75万俵の収穫であり、生産者協会に参加されている約200軒の農家で20〜25万俵、その内の15万俵が協会を通じて販売している。
 B最近は大口取引先が増え、しかも低価格のものが求められるので、秋田県産の自主流通米から、一部北海道産も取り組み、現在25〜6万俵の扱い量である。
 C事務所も、工場も全てマイナスイオン装置が施されている。
その上に無洗米(全取扱いの80%)、発芽米(現在、日量4〜500kgが限界、24時間3交代制)の取扱いを始めたら、更に引き合いが増加中とのことで、私が見学中も新たに発芽米プラントの導入工事も進んでいた。これらの機械装置の導入のために、いつもどこかで工事がなされているという。
 D今年も高卒の方が13名入社した。「そんなに採用するところは他にないでしょう」と言うと「その通りです」と言う。
 食糧の増産と農家の次、三男対策として始まった八郎潟干拓事業は今や日本農業のモデルとなる生産性が高く、所得水準の高い農業と雇用を生み出すまでになっている。
 その後「大潟村干拓博物館」にも立ち寄った。土曜日で閉鎖していた村役場にも行き残業をしていた方に無理を言って開けてもらい、色々な資料・パンフレットもいただいてきたので、書くことはいっぱいであるが、ここで一度ペンを止めることとする。
 満足の大潟村訪問であった。
NO.371                                           平成15年 7月 5日 記

〜秋田杉の林・仁鮒水沢杉植物群落保護林〜
 7月5日 その2

 予測し、予想しその通りであったということはなかなかないことであるが、大潟村『あきたこまち生産者協会』では期待通りであった。
 緑豊かな田園の中に、総延長31.256km、巾7mの『大潟村ソーラースポーツライン』は一般道との交差がない、スポーツ専用コースであると紹介されている、そのコースにも負けない直線が10kmも続く県道54号、男鹿琴丘線を走る。
 両側は20m程の緑地帯になっており、植樹10年ほどのイチョウの木が植えられ、そのむこうには一枚が400坪の田が見通せないほどに続いている。空撮のシネマを博物館で見たが、それでなくてはこの広大さを感じ、味わうことは出来ない。
 気分良くカーナビ君に次の目的地秋田県山本郡二ツ井町の“きみまち杉”を指定した。
 今までの経験上、地図上でショートカットの山越えの選定道路は大変な林道の中を走ることになるので気を付けねばと思っていたが、気分の良いまま、又アスファルト舗装されていたのでカーナビ君に任せた。
 約30分走ったところで怪しい地道となるが、整備されているのでそのまま進む。その内にカーナビ君の示す道順のとこから離れたところに現在地を示す矢印となる。ほぼ平行して走っていた林道の別の道を選んでしまったようである。
 こうなると方向転換が大変である溝どころか崖に落ちてしまう。
 二度方向転換をする羽目になる。ヤレヤレ目的地に近づいたと思いきや大型のショベ ルカーを乗せた大型車とのすれ違いである。
 私がバックし、少々ヌカルンでいるなと思っていたところに車を進めると、はまってしまった。
 人の良さそうな運転手さんが近づき、小刻みな指示をいただきヤット抜け出す。
秋田弁で「どこから来た」というので「大潟村から山越えになった」と言うと「良くここまで来たものだ。私でも迷ってしまう林道だ」と言うではないか。
 「あと少しで本道に出る。あとは分かる」と少々分かりづらい言葉に安堵し別れる。
 苦労して到着したからなおのことであった。平均樹齢250年(180〜300年という)、樹高
50m級の天然秋田杉が、千数百本林立している。
 なかでも“きみまち杉”と呼ばれる一本は“日本一のっぽな杉”である。
 その他にも、“コイミスギ”“シラカミアオグスギ”“アキタビジンスギ”“モックンスギ”と名付けられ、立て札がある。
 中には平成3年の台風で倒れた直径1mの切り株の横に“泣き杉”との紹介があり、風騒ぐ日には杉が泣いているように聞えるとある。
 首が痛くなるほど見上げる、天を突く偉容、15階建てビルの高さに相当し、直径164cm、体積40立方メートルで、このNo1の杉1本で55坪の家が一軒建てることが出来るという。
 “きみまち杉”は人里離れ、静まり返った林内で生長を続け、今私の目の前にその姿を現わしてくれたのだと思うと、感激するやら、畏敬の念すらも感じるのでした。
 陽が差し再びルンルンで国道101号線に出て八森町“ハタハタ館”で湯にはいり、夕食といたしました。
 そこから車で走って10分もしない道の駅はちもりを本日の宿としました。
 持ち帰り自由な白神山系の名水「お殿水」と紹介されていますが、売店等は既に営業は終了しており、いささか寂しげです。
 女房、遠慮勝ちに「次のところまでは遠いのか」と尋ねる。
 そこから次の失敗が待っていました。 私の読みちがいで(カーナビ君も)五能線に沿って海岸線を走れば良かったのですが、半島をショートカットしようとしたら、岩崎深浦線の中山峠を越える県道で舗装はされているが、グルグルカーブの曲がり道で、時間的にも、距離的にも遠くなり、当日の宿“道の駅”に到着は7時半となってしまいました。
 本日は2勝2敗でした。
 宿 道の駅 No656 ふかうら
 湯 八森町 “ハタハタ館”  @400円
 夕食 “ハタハタ館”これはグッド(量もタップリ、鮮度よし)
 本日の走行距離  292.3km

 (追記)
 尻切れトンボの記録になってしまったのではないか?
 1度出来あがり、ヤレヤレと思っていたところに、再どの活動です。
 この辺が自分で言うのもなんですが、心やさしいところというか、これも修行と言い聞かせているが故のことでしょう。
 お相手様は如何に感じ、思っていることでしょうか?
NO.372                                           平成15年 7月 6日 記

十二湖庵の一服の茶屋
 〜白神山地・南西の入口十二湖〜竜飛岬〜    浅虫温泉〜

いつもの記述順からすれば、一番最後に書くことになるのだが、今日は最初に記録しておく。
 宿 道の駅 No78 浅虫温泉
 湯 道の駅浅虫温泉 “ゆ〜さ浅虫”
 夕食 道の駅浅虫温泉内レストラン
 本日の走行距離 280q

 なぜ、この記述が最初となったかは、初めて体験する“道の駅”のスタイルであり、記録しておかないと忘れてしまいそうであるからである。
 といって特別なことではないのだが、青森市内より北東に約15q、陸奥湾に面して温泉街が開け、夕陽の沈む時はどんなにかと思う風情である(当日のサンセットは駄目)
 こじんまりした旅館の並ぶ山側と、規模の大きいホテルの並ぶ海側にわかれている。
温泉のはじまりは山側のようであったが、今の私にはそんなことがどうでも良い。
ヨットハーバーと海水浴場が見渡せる道の駅ビル5階の浴槽から眺めているのである。
 この道の駅に近づいた時、どのように進入して良いか迷った。そしていつものようにまずトイレを探すのであるが見あたらず、臨時駐車場なるところに停める。
 目の前は“あさむしおんせん駅”である。
東北本線と国道4号線を南北にまたぐ長い陸橋を見上げ、その後その橋を渡ってみた。
 駅前には“足湯”があり高校生の男女数名がたむろし、私をジロジロ眺める。私が見返すと足湯から立ち上がる者もいる。
「いいよ、いいよ」と言って再び、道の駅の方に…
 この道の駅 5階建ての立体ビルなのである。
5階の展望浴場(@350円)に入り、3階のレストランで夕食を摂る(2人で2,650円)。
車にもどり、正面玄関に回り、トイレの確認をする。 とそこは今まで体験したことのないブルー、パープルのライトではないか。
 その灯りに照らされて3種類の今が盛りのアジサイの花が少々艶かしく感じられる。
 車に戻ると早々と洗濯がすまされ、浜風に吹かれて立ち木にかけた下着がゆれている。
 明日はサッパリしたのがつけられることだろう。
 ということで、どうということはないのですが、約200以上の道の駅に世話になってきましたが、初めての体験でしたので、目に映り、感じたことをまずメモいたしました。
 もうひとつ、高速道路を使用せず280kmは1日として、今までの最長距離とおもいます。
 国道101号線〜県道12号(こしみずから十三湖の西を通り市浦村〜国道339号で竜飛
岬〜再び339号線をみんやまに〜国道280号〜県道14号〜再び280号に戻り青森〜浅虫
温泉と青森市内を除き信号も交通量も少ない道路であったためだろう。
 では、本日のスタートからまいりましょう。
昨日八森(はちもりの道の駅)を越えて、道の駅ふかうら(深浦)まで来ていたので“十二湖”“日本のグランドキャニオン”まで25qもどる。
 これが正解であった。
 深いブナの森に潜む33の湖沼の総称が十二湖である。それぞれの湖は宝永元年の大地震による山崩れで出来たのだ、崩山の山頂より12の湖が見える所から十二湖と命名されたという。
 その中でも十二湖の代名詞ともいえる「青池」は青いインクを流したように神秘的で、水中には朽ちたブナの大木が横たわり、太陽と見る角度により、千変万化する幻想の世界といえる。
 これは現代の科学でも未だ解明されていないとのこと。
 リフレッシュ村、ビジターセンターでもそれぞれに行き届いた解説とうなずける説明を受け、更に十ニ湖に来た甲斐があったとおもう。
 たが、その上に“落口の池”の前、十二湖庵での接待がよかった。 
 そこは深い山中を長い期間かけて浸透し,下ってきた地下水が湧き水となって、トウトウと“落口の池”に流れ込むところにあった。 そこは終日陽の射すことのない庵(茶室)で、すすめられるままに一服の茶をいただいた時のことです。
 なにが、なぜについては記さぬことにします。
 この十二湖は世界遺産登録の“白神山地”の南西の入口に位置しています。
遠大なブナ原生林が広がる自然林の一隅に茶室を設けた岩崎村の方々のセンスと、そこでこの時期、時にはストーブを焚くといっていた方の指の細さと白さが記憶に残っています。
 昼食は昨夜の道の駅“ふかうら”です。」
 イカ焼きの看板はあがっていたが,昨夜到着の時は静かな道の駅でした。(今年の4月オープンしたばかりです)
 が、その様相は一転です。
 イカのこうばしい香り、すぐ購入しました。柔らかく、シコシコと一気にたいらげてしまいました。 
 焼き魚定食は、30pの鯛だけではありません。生イカの刺身の他に、サラダも味噌汁ももちろん、大切の沢庵も付いています。
 物価の違いと食事量の違いでしょうか?
とにかく、東北にきてお米はうまいのです。
 本土の最北端いや、津軽半島の最北端“竜飛岬”本日は時折陽が射し、ツツジの花も今だに残り、風も穏やかな初夏の様相でした。
 青森市内を通過し本日冒頭の“浅虫温泉”を本日の宿としました。

 (追記)
 今(7月18日)校正をしながら、なぜ竜飛岬のことはなにも書いていないのだろうかと考えています。
 やはりもうほとんど、なにも思い出せません、ということは印象が薄かったのでしょう。
 その時しか書けない物があることを,改めて感じさせてくれます。
NO.373                                           平成15年 7月 7日 記

八甲田山はあきらめ、青森市内〜北海道へ
 〜コンブ漁と、坂口家のプロフィール〜

 当初計画になかった八甲田山をNo158道の駅たかはたの物産部門の責任者(店長)に薦められていたので、ケーブルカーもあることだし、天候さえよければ登ってみようかと前夜から考えていた。
 カーナビが進路を青森の南に取るように教えてくれていたが、前方の山にガスがかかっているのを確認して、青森市内へと変更する。
 都市部積雪量、世界最高の雪国の街も、特に駅の周辺は20数年前よりモダンな街へと変身した。
 その象徴が青森のAをイメージした観光物産館“アスバム”である。
 360度のマルチスクリーンでのねぶた祭体験、20分間前後、左右に首を回していたら終了後は首の付け根が痛かった。
 平成4年7月完成の1,993mの橋、青森の新名所“青森ベイブリッジ”の遊歩道を歩く。
 その眼下に青函連絡船として昭和48まで活躍していた八甲田丸が、メモリアルシップとして係留されている。
 白と黄色のツートンカラーがさわやかである。
 それらを全て包むように“青い海公園”があり、その一角に8月2〜7日に渡る青森ねぶた祭の用意がされている大きなテント小屋(縦10m、横10m、高さ10m)を覗くと、今、制作の真っ最中であった。
 ツーバイホー(2×4)の木材を使用し、骨組みが造られ、それに針金で型と丸みがつけられ、その中に数100個の大小の電球が配線されている。
 一番作業が進んでいるところは、真っ白い張り紙を10数人のパートさん(ボランティアではないという)が手際よく糊づけしていた。
 いつもはテレビ・新聞で出来上がり、「ラッセ、ラッセ、ラッセラー」というかけ声とともに、巨大な人形型のねぶたが市内を練り歩く様子を見ていただけなので、その裏方の一部を見させていただいたことにより、私にとって今年のねぶた祭は、爆発したように熱狂的な跳人踊りの渦巻く人々の輪の中にいるような気持ちになれるだろうかと思ったりした。
 以上、ここまで、午後12時30分青森発の連絡船の中で書きました。
 函館港には予定通り16時10分着。
 右に行くのか左に行くのか迷うことなく、函館恵山線の海岸を走る(函館空港方面)。
 国道278号を1時間、“古武井橋”で道道元村恵山線に入る、ここからは道幅が半分となり、左側は山がせり出し、右は海、道の両側のみが人家である。その家の前や、家のないところは全て、砕石が敷かれている。その砕石敷の広場のひとつを捜しながら、行き止まりのところまで来てしまった。日に9本のバスの終点地(転回地)である。
 何を捜しながらかというと、昨年同時期に共同風呂(御崎温泉)を捜して入り込み、早朝、コンブ干しをしていた方の写真を撮らせていただいた。その後その時の写真を送ったら、1箱のコンブが送られてきた。
 お礼の品を送った、今回1ヶ月程前、女房が再び訪れるかもとハガキを出していて、前触れもなく突然訪問した。
 運良く、本日奥様が退院され、在宅しており電話誘導でお会いすることがかなった。
「飯を食べてゆけ、泊まってゆけ」の再三の言葉に、車からビール・酒を持ち出し(ここのご主人若い頃より酒は全然ダメ)飲み始め、結局お世話になる。やはり布団の上の眠りは深い。午後8時40分に寝入った。
 以下は宿と夕食、翌日の朝食を世話になった坂口家のことについて、ご主人から聞いたことを書く。
 坂口さんのお父様は明治29年生まれ、福井・越前出身である(その前のことは分からぬと言う)。
 お母様はここ恵山で、明治33年生まれ。江戸末〜明治時代、恵山は昆布、ニシン、イカ等が豊富で豊かな町であったようだ。
といっても、ここ恵山町御崎は20年程前合併して恵山町になったのであり、その前は90軒(今は75?6軒)の御崎村(みさきむら)であった。
(現在、恵山町は1,700軒・人口4,700人 函館に車で1時間{バス2時間}、年々人口減の町である)
 坂口さんは恵山町御崎で、男1人、女8人の9人兄妹と分家と呼んでいた父親違いの兄が1人いて、昭和10年生まれの68才である。
 坂口さんの奥様は青森県弘前市で昭和19年生まれの59才である。
 この恵山町御崎は8?9割青森出身者で、やはり青森県の方の紹介により見合いし結婚した(奥様若い頃はさぞかしと、今も十分感じさせる目元パッチリの美人である)。
 奥様の兄・妹は、大阪にいる兄・千葉県にいる妹とバラバラであると言う。
“みなとみらい博”の開催された前後12年間、横浜で建築・土木関係の仕事に従事、平成8年に再び恵山町御崎にもどった。
 7年前に胃潰瘍で手術、それ以降コンブ漁等はやめてしまった。
 奥様は近くの漁業加工会社にパートでお勤めである。
 子供達は38才の息子さん、通勤が大変と函館市内に一軒かまえ、鉄筋関係の会社勤め。
 40才になる娘さんは石川県小松空港の近くに住み、旦那さんは織物工場に勤め、24時間態勢の勤務であると言っていた。
 どちらの仕事も時節柄大変ですねというというと、数年前のお孫さんの写真をみせてくれた。
 コンブ漁について
 11月に約1カ月かけて、長さ150mのロープに種付けをする、それが6本でワンセットでの養殖である。
 12月〜翌年6月までは鮭、蛸、タラ漁
 12月20日からはウニ漁
 7月1日から養殖コンブの収穫にはいり、約1カ月
 7月15日からは天然コンブ漁が解禁
 養殖物は5〜7m、天然物は10mの長さに成長している、収穫しないとそのまま腐ってしまうという。
 天然物は腕次第で収入になるといい、養殖は1本60万円になり、6本で360万、経費が60万かかりコンブ養殖の収入だけで300万である。
 いくら仕掛けてもよいが重労働で手間がかかる。
 早朝港にいってみた。夜明け4時すぎから、沖合い200〜250mのところで船にのせ、船着場へ、軽トラックか、普通トラックにイッパイの水揚げである。
 それを自宅の乾燥室で長さ2m程に切り揃えて干すか、天気の良い日には砕石の上に並べる。 砕石敷のコンブは朝陽に光って綺麗である
 (以外と若い方が多く、親子の組み合わせである、乾燥は家族総出、あるいは隣り同士のようだ。 坂口さんはボランテイアだと言っていたが、毎日何処かのお手伝いをしているという。其日も7時過ぎビタミンドリンクを手に持ちかえり「本日の収穫はこれ1本」と笑って奥さんに手渡していた。)
 最後に今年は御崎温泉の朝風呂に入った。
 2×4mの石とコンクリートで固められた浴槽、その上を化成品の波板屋根で葺いてあるだけの混浴の湯である。
 海の湯にしては塩分が少なく、毎分60〜100リットルの40度の湯量はもちろん流し湯で実に気持ちよかった。
 朝食後、一眠りしてからこの湯に来るのだろうか、お世話になった其時間は私ひとりだけの殿様湯でありました。
 本日の走行距離は記録忘れです、たぶん100Kmぐらいだと思います。
NO.374                                           平成15年 7月 8日 記

青年の夢が新しい時代を生む。 
 何がなんで、何が何
 〜日本海追分ソーランラインの旅〜

 北の玄関「函館」から日本海沿いに北へ「小樽」まで続く道。
 それは、北海道の開拓、明治維新、ニシン場の隆盛などの歴史を刻む史跡、建物をはじめ幾多の伝説やロマンを秘めたロードである。
 この道をかってのニシン漁をしのび、代表的な北海道民謡「江差追分」「ソーラン節」にちなみ《日本海追分ソーランライン》と名づけたのである。 
 今朝クジラの尾の東(亀田半島の先端)恵山をたち、クジラの尾の西(松前半島)江差まで、235km函館市内を通過して走ってきた。
 ではその間のことを紹介しよう。
 といっても、休憩した所のことをひとつづつ書いていたら睡眠不足になってしまう(現在午後9時半である)ので端おって書くことにする。
 道の駅No69“知内 しりうち”は歌手北島三郎の出身地である。
 駐車場、物産館、そしてトイレの中もサブちゃん演歌である。
 殺風景な知内駅(JR津軽海峡線)と隣接している、このムードは寂しく、悲しくも力強く生きよと歌いあげる演歌の心の元を育んだのだろうかと思ったりしてみた。
 この地から津軽海峡にむかって潜り込む,第一湯の里トンネルは青函トンネル入口である。
 やはり、下積みの、深い深い海の底に向かうのはそのことの象徴なのであろうか?
 約20km走ると、今度は道の駅No70“横綱の里ふくしま”である。(福島町)
 第41代横綱千代の山、第58代横綱千代の富士という2人の大横綱の生誕地である。
 このラインを走ってきた方がすべて、この地(施設)を目当てにしてきたとは思えぬが、函館を出発して約2時間、休憩地としてもタイミングが良い、同年輩の方々で平日のこの時間にしては上々の客入りである。
 『東の横綱、東富士、西の横綱あの照国よ
      東張りだし 羽黒山   西の張りだし千代の山』
 これを「トンコ節」のメロデイーで小学生の頃唄っていた、今でもそのメロデイーに乗せるとこの4力士の名前がスムースにでてくる。
 この他に、鏡里,吉葉山(第何代かは忘れたがそれぞれ横綱)の頃からの大相撲のファンである。
 館内に造られた土俵に立ってみた、以外と小さいとの感じを受けた。
 ここで汗と涙にまみれて銭を拾うのかと思った、が最近は拾うのは外人力士ばかりである。
 北海道唯一の城“松前城”へ
 「古代、「中世蝦夷の謎」「北方の覇者たち」『松前藩の栄光と盛衰』などと、ドラマチックに、そしてロマンチックに書かれているが、うつろいゆく人の世の定の一貫なのでありましょう。」 などとしたり顔でかたりつつ、松前藩の栄華をかたる城下町を今に再現した“松前藩屋敷”を訪ねた時、あと30〜50年後ならば、築10数年のこの建物も,今より<らしく>なっているのではと思うのでした。
 やはりこの地は“血脈桜伝説”(血脈とは死んだ人が仏になれるようにお坊さんがあてる書付のこと)に語られるように、桜咲く頃に訪れる所なのでしょう。
 250種10000本以上とのことです。
 本日の最終地、“追分流れるロマンの町 江差”です。
 このソーラン街道(松前をすぎて、江差まで)車両数も少なく、山側も海側も素晴らしい風景です。
 町内には「国指定重要文化財 旧中村家住宅」 「道指定有形民俗文化財 横山家」「町指定有形文化財 旧関川別荘」と江差の全盛期を伝える財産がいっぱいです。
 午後5時までの閉館までに許されている時間は1時間です。
 選びました、今、よみがえった幕末のロマン“青少年研修施設 開陽丸”を・・
 幕末にオランダで造船された幕府軍艦です。
 戊辰戦争中に榎本武揚らを乗せて活躍したが、暴風のため明治元年(1868)江差沖で座礁、沈没しました。
 この施設(船)はオランダに残っていた設計原図をもとに復元されたものです。
 「いつの世にも、青年の夢が時代を創造してゆくのだ」という碑に出会い、<私も今、青年である>などといいきかせもしてみましたが…・
 宿 道の駅 No66 江差」
 湯 湯の華 (道の駅より1分) @370
 夕食  れすとらん “津花館”(つばなかん) 
      TEL 01395−2−5151 
 本日の走行距離 235.5km

 (追記)
 れすとらん“津花館”のこと
 ・小さな町の商店街の中にセレモニーホール、本日は町の有力者の葬儀であろうか?
 ・目指した江差近海握りの有名店は定休日でもないのに、臨時休業の様子
 ・追分料理を食べさせるという、“れすとらん江差家”はガイドブックの閉店時間19.30分より早く、17:00で閉店していた。
 ・商店街の00和食堂は葬儀のためだろう、駐車場(商店街用)は満杯ではいれず。
 そこで れすとらん“津花館”となる。
 これが大正解である。
 江差港より約30メートル高い丘の上にある。
 先程まで見学していた“青少年研修施設「開陽丸」”も、そのむこうの周囲2.6kmの小島“かもめ島”も一望である。
 その上に、東北の日本海側を3日間も走ったのに1度もお目にかかれなかったサンセットが目の前で展開されたのです。
 太陽が沈むと、“開湯丸”に張られたイルミネーションが、船の全貌を飾りました。
 その向こうの地平線には“イカ釣り船の灯り”が徐々に輝きをましてくるのでした。
 そこで、[人生何が何で、何が何でしょうか?]というわけのわからぬ言葉がよぎりました。
NO375                                           平成15年 7月 9日 記

羊蹄山はなんと頂上までも姿をあらわしました
 〜“ピンジュ”って分かりますか?名水の里〜

 道の駅江差の朝、愛知県一宮から来られていた方が声を掛けてきた。
 定住地より離れた地で地元ナンバーの車を見かけるとついつい声を掛けることが多い。
 海外で日本人の顔を見かけた時も同じことなのだろう(今ではどこでも見かけウンザリの時が多いが…)
 昨夜、隣に停まった車は小樽の方で、今日・明日・明後日の計画を話すと良くできていると言われたが、どうしようもない天候のことが気に掛かる。
 いつもの朝より遅く午前7時半にスタート。3q程“追分ソーランライン”を走り山中の国道227号線に入る。
 7q走って、道道67号線八雲厚沢部線を北東に43q落部(おとしべ)まで、その間対向車は10数台である。本当に北海道の道は整備が良くされているが交通量は少ない。
 国道5号線を北上し正午前には本日の目的地・ニセコ町、羊蹄山に到着。
 今日・明日が天候不順であると計画を大幅に変更するか、車の中で休憩となる。
 旅に出て本日9日目、いつものパターンで第2回目の疲労が出てくる頃なので、調度良いこともあるが、蝦夷冨士といわれる羊蹄山をグルッと四方から眺めて見たいものだと思っていたので、途中の道すがら気をもんだり、エイヤッとその方向に気を送っていた。
 雲はたちこめ、山蕗トンネルを抜ける頃は霧雨まで降ってきたが、なんと昼食をしていると晴れてきたではないか。
 蝦夷冨士羊蹄山の西側からは雲も消え頂上まで展望することが出来た。
 北側、倶知安町をまわり、京極町で“羊蹄のふきだし湧水”に。
 羊蹄山は標高1,898m、床面積104平方q。
 透水性が高くそのため降水のほとんどが地下へ浸透し、山腹に渓流をつくらないかわりに水量豊かな湧水となる。
 地下水脈が長いためじっくりと熟成を重ね、ほどよい硬度のまろやかな味の水を生み出すという(事実美味しかった)。
 1日の水量8万t、30万人の生活水量で、年中6.5度という。10秒間もその流れの中に手を入れていられない。
今まで各地で見てきた名水・湧水とは全く水量が異なる。湧き出し口から川のように流れている(川幅5m以上)。次々とペットボトルや20リットル容器で汲みにくるが、順番を待つ必要はまったくない。
 名水と湧水場を含む“ふきだし公園”の広大な緑の広がりも良い。
 その名水で作られたワンカップを女房が購入してきたが、帰宅まで残っているだろうか? @270円也
 車で1分と離れていない所に、京極温泉があるが、車で更に10分のところに同じ羊蹄山の水を活用している、歌手・細川たかしさんの出身地・真狩村の“まっかり温泉”を選ぶことにした。
これは正解で、露天風呂に行くと、眼前に羊蹄山である。
 6合目以上は雲に隠れているが、その下の緑の広がりは心安まる。くつろぎの時と場を提供してくれた。
 昆布岳(1,045m)と羊蹄山に挟まれたすそ野は両側とも“ピンジュ”“マメジュ”“ソバジュ”である。
 何のことか分からぬでしょう。それはそうです私が勝手にピンク色のジャガイモ畑を“ピンジュ”(ピンクの絨毯)と呼び、豆の畑を“マメジュ”(豆の絨毯)そして、“ソバジュ”はソバの絨毯という意味です。
 その雄大なことといったらありません。
 百姓学校、今年の春のジャガは大豊作でしたが、この畑を手掘りするとどういうことになるのでしょう。
 本日は早々と道の駅です。
 宿 道の駅49“ニセコビュープラザ”
 湯 真狩村“まっかり温泉”@500円
 ここも、大公園の中にいるようで(まわりは畑)とにかく、心豊かにしてくれました。
 夕食 道の駅に隣接する食堂にする予定です。
 というのも、昼食が16年前大阪から来られた方が経営しているレストラン(ボブ キャット)でハンバーグの美味しいのをいただき、まだお腹が一杯です。
 本日の走行距離 235.8q
NO.376                                           平成15年 7月10日 記

疲れた身体を休めなさいと終日雨
 〜ジャガイモのこと、積丹半島
   “追分ソーランライン”の雨中走〜

 予報通り未明3時頃より雨が降り出した。 昨夜は7時半には寝入っていたので9時間以上は眠ったことになる。(生ビール、日本酒をタップリ飲んでいたので3度トイレに。その度にすぐ寝入ったので、やはり9〜10日目の疲労である)
 本日の計画をトイレで時間をかけて練ってきた、といっても選択肢は少ない。時間があるので、出発前にジャガイモのこと。
 全国の市場に出回るジャガイモ、約半数は北海道産という。  なかでもニセコはジャガイモの名産地として有名で、7月上旬〜8月初旬、羊蹄山麓の畑は一面ジャガイモの花で埋め尽くされる。 まさに今である。
 昨日“ピンジュ”と表現したのは男爵薯で、他に赤紫の花はメークイン、紫色の早生白、白い花の豊白など、花の色もそれぞれ違う。ニセコ周辺は男爵薯が中心で、この薯、明治末期に川田龍吉男爵がイギリスから導入し、北海道で栽培を始めた。
 アイリッシュ・コプラー種が男爵薯と名付けられた。
 この男爵薯道内はもとより本州まで普及している。
 なぜか今、カー(佳)喜喜君の車内、ほとんど余裕空間などはないのに冷蔵庫の前でジャガイモが約30個箱の中でごろごろしている。
 このジャガイモ種は“北あかり”というらしい。というのも5日前、青森の道の駅“ふかうら=イカ焼の村”で女房が購入したものである。
 今秋の百姓学校の秋植え用にと入手したもので、お花畑担当責任者としては、どんなアカリの花を咲かす計画なのだろう。
 一方、この地ではニセコ特産のジャガイモを使った料理のバリエーション120種というオーナー西野洋子さんの創作ポテト料理を自慢の“山荘・レストラン・クローバー”でいただくことを予定していた、事前に営業を確認することとあったので、電話をすると「今日まだ開店していません。御用の方は横浜の自宅の方へ」との留守電である。
 明日の昼食時のレストラン(ボブキャット・Bob CAT)も、まだ今年のジャガイモが収穫されていませんので、ポテトサラダ等は出来ませんと言っていた。
 “地産・地消”どころの量でない生産品である。色々と創作メニューが工夫されていることは素晴らしいことである。
 以上、本日の活動開始前にメモする。(道の駅ニセコビュープラザにて) 昨夜、この道の駅には私と同様車旅のキャンピングカーやワゴン型の普通車(セダンもある)約十数台が停まっている。今は降ってはいないが雨空の下、ほとんど行き先がなくそのままで、札幌・旭川ナンバーの他には八戸、新潟、松本、福岡のナンバーである。本格的な夏のレジャーシーズンになれば116台の駐車場は満杯になることだろう。
 今、午後7時30分小樽から約20km、ウィスキーのふる里で名が知れている余市町の“道の駅・スペース・アップルよいち”である。
 トイレの前には身障者用の駐車場を含めて11台である。
 そこに停車しているナンバーを調べた。青森、宮城、福島、富山、所沢、熊谷、多摩、名古屋、札幌、そして私の尾張小牧である。
 昨年も敦賀港から小樽港に夜8時半頃到着後、車で30?40分のこの道の駅で一泊した時、随分と他府県ナンバーの車が多かったと記憶しているが、これ程だったろうか?
 小樽周辺ではこの道の駅が最短であるので、集まってくるのだろうか?
 ところで、本日は再びニセコより“追分ソーランライン”にもどり“道の駅岩内”で泊の予定であった。 その前に計画していたニセコの沼めぐりは霧と激しい風雨の中“神仙沼”に行く途中ですでに、強風にハンドルを取られながら到着するのがやっとという状況であった。
 まして、ニセコアンヌプリにゴンドラリフトで登るなど(1,000m台地展望台)望むべくもなかった。
 その分、前日飛ばしてしまった、白樺派を代表する作家で、農場開放をなしとげた有島武郎記念館をゆっくり楽しむこととなった。
 羊蹄山の4〜5合目以上は霧と雲であるが、そのすそ野に広がる45万haの緑の農場は数々の名作品を創作せしめた原点の1つになっていただろうと十分に感じさせてくれた。
 道道66号岩内洞爺線のニセコパノラマラインは朝一番の神仙沼行きで、こりていたので国道5号線〜国道276号を選んで岩内町に入り、追分ソーランラインで積丹半島の周遊コースに入った。
 時折たたきつける雨の中、断崖裾と海に挟まれた周回路である。
 川白から見た北の風景は、窓岩、西の河原、神威岬が一直線に並んでいたと表現できる。 雪解け時・絶壁から“幻の港”が落下するといわれているが、約60km、7、8ヶ所で片側通行の工事中、数カ所は旧トンネルの更に山側に新トンネルが掘られている。
 日本海の荒波に洗われるからであろう。そんな荒れた天候の中、たったの10分間、積丹岬の島武意海岸に足を運ぶことが出来た。
 女郎子岩に義経とその姿を追うシララ姫の悲恋の伝説を語った所である。
 小型観光バスで到着のご婦人中心の20名が足早に、眼下30m“渚百選”を覗いたかとおもったら、アッとい間に灯りのないトンネルを潜り、大声をあげて引き返して行った。
 宿 道の駅No41 スペース・アップルよいち
 湯 余市川温泉@370円
  2年前までは銭湯であったというが、改装をしている。 2階が“こだわり食堂”と暖簾  をあげていた、価格・内容(メニュー)・味は酒飲みには、お薦めである。
 道の駅まで、約400m
 食 昨夜、本日とニセコ町の中であった。一言でいうならば東京価格である。名古屋と対比2〜3割アップ、味は良い。(北海道観光地価額なのか?)

〈追記〉ここニセコはバブル期、押すな押すなの客であったと聞いている。
 夏と冬の客数は、30%対70%であった。
 それが今、夏場70%冬30%という。ということは年間を通すと約半分の客数になったという計算になる。
 この地の自然、雄大さに惚れて、移り住んできただろうペンション、レストランのオーナー。 50代後半〜60代となった今、どんな思いなのであろう。
 戸に板を打ち付けられた別荘。 売り地の看板を右左に見て、雨の中カー(佳)喜喜君のアクセルを踏むのを忘れていました。
NO.377                                           平成15年 7月11日 記

創業者の偉大さを感じました、
  決して酒飲みだからではありません
   余市〜小樽〜札幌〜旭川と
          1日中走っていました〜

 道の駅“スペースアップルよいち”の朝は晴れ、午前6時すぎより、前夜から車中泊の方々の情報交換が始まる。
 その内の多摩ナンバーのご夫妻と同行することとなる。
 前日、通り過ぎてきた余市町の東側積丹町“黄金岬”へ、唯一の観光『美国海底探勝船』で海中を眺めるが驚くほどのこともない。
 ひとつもどった古平町では夏祭りで、町民総出の花車、神輿行列である。小さな神社に詣でると御神酒をどうぞと言われるが遠慮する。
 境内横の商工会館に通じる車道の両側に約30軒ほどの出店者(昔流でいうならテキヤ)が並んでいるが、どの店も開店休業の状態である。 寂しく、悲しかった。
 それは私の子供の頃買おうにもお金(小遣い)がなくて買えなかったというのをおもいだしたというのではなく、この地では振り向かれていないことである。ここでは時代の波とかけ離れているからだろうか?(逆に都市周辺ではこの商売<商法>、結構繁盛しているのをみかけるのだが…)
 〈7月12日朝記 もらってきたパンフレットを見ていたら、7月10、11日は古平町の琴平神社例祭である。猿田彦の火渡りがクライマックスとあるが、出会えなかった。たらつり節の発祥地であった〉
 余市にもどり、昨年は時間の関係で立ち寄れなかった『ニッカウイスキー工場』を見学。
 いつの世にもことを成す。創業者の生き方、行動は心を打つ。
1936年竹鶴政孝氏の長年にわたる意志と悲願を託したポットスチルに火がくべられモルトウイスキーの製造が開始された。
 以来、今も当時と変わらぬ製法でウイスキーの蒸留・貯蔵が行われている。
 “10年間の夢・お預かりします”という10年浪漫倶楽部は会員専用の樽で10年間預かり、熟成させた後に届けられるという。
もちろん、心揺り動かされている。
 小樽市内を通過、いっきに札幌自動車道を東へ、札幌で道央自動車道に入り北上、江別市、岩見沢市、美唄市と広大な石狩平野は緑の稲と刈り取り間近の黄色の麦畑のコントラストが美しい。
数分毎に降ったり、止んだりする雨が更に変化をつけてくれる。
旭川鷹栖ICで下り、まず本日の宿“道の駅 あさひかわ”。
 確か旭川は道内第2の人口の市である。
 石狩川と忠別川に挟まれた中心に旭川市役所があり繁華街となっているが、忠別川を渡った南側が現在ドンドン開発されていると見た。
 青森“浅虫温泉道の駅”も縦型の道の駅と書きましたが、ここ“道の駅旭川”は(財)地場産業振興センターと続きの敷地内にある。(併設ではない、建物と一体で道の駅のトイレがある)。
道をはさんで向かい側には“旭川大雪アリーナ”という表示が建物の壁面に掲げられている。
 その他“大雪クリスタルホール”には博物館、音楽堂もあると案内板にある。
 国道237号、神楽町は忠別川と美瑛川に挟まれ“富良野”に通ずる旭川の南東口でもある。
 (財)地場産業振興センターのメイン会場は有に300坪以上ある展示場をもち、明日、明後日と『リサイクルバザー』が開催されると、ボランティア主催者のリーダーと思われる40代後半の夫妻が汗をふきふき最後の点検をしていた。
 明日、旭岳と思っていたが、多分天候不順でダメだろうと思われるので、旭川市を中心とした周辺の方々のパワーに接するのも面白いと考えているところである。
 女房はリサイクルバザーの上得意様であるので、何を見つけだすことだろう?
 宿 道の駅No20 あさひかわ
 湯 道の駅より車で3分“菊の湯”
  市内の銭湯である。旭川は市内も含め周辺部も共同の湯は少ない。何故だろうか?
 食 国道237号線沿線には色々ある。本日は回転寿司とした。
 本日の走行距離 275.9km高速道路多し
 今夜の道の駅は前夜同様他府県ナンバーが十数台いやそれ以上。普通車(セダン)、ワゴン車より小型のキャンピングカーが多い。
 洗濯をした女房干す場所がないと困っている。

〈追記1〉一昨夜から原因不明の痛みに襲われている。夜半太腿の下部、膝の上部の所にチクーンと痛みが走り起こされた。
 そのまま寝入り、翌日(本日)の午前中までは忘れていたが、午後になるとチクチク。時にチクーンと痛みである。頸椎症の時のような激痛が間断なく続くという分けではないので、そのまま運転を続行したが、時折ジクーンとくる。打撲も捻挫の記憶はないし、筋肉痛とは異なる。これがリュウマチ、関節痛というものだろうか?
 道の駅となりにネバーフッド型SCがあり、大型スーパーの中の薬局で“インドメタシンゲル入り”の軟膏を購入、塗るとすぐ痛みは治まった。
 日に4回限度とある。四国88ヶ所遍路の時は日に7?8回使用したことがあるが、今夜は眠れるだろうか?これがエコノミー症候群の一種だろうか?

〈追記2〉7月12日早朝である。道の駅あさひかわの駐車可能台数は72台である。 そこに以下の車が夜を越した。
 地域別に整理すると、まず九州地方からキャンピングカー(以下C)で鹿児島、普通車(ワゴンタイプが中心以下普)で佐賀。
 四国地方は普で徳島、関西は普で大阪、北陸はCで石川、東海地方はCで名古屋と尾張小牧の私、普で三重と三河。
 関東はCで足立、練馬、習志野、大宮、群馬、普で栃木。東北は一台もなし。北海道、Cで札幌が2台と釧路で2台、普は札幌2台、釧路2台、旭川3台、北見が1台で、他に6tの営業車釧路が1台。合計28台で駐車場の約4割が利用されている。
 昨夜が金曜日であったことにもよろう。午前7時半には20代の若夫婦2組が駐車場内の休憩テーブルで朝食を始めた。
 隣に停まっていた釧路ナンバーの親子3人づれ(ホンダのステップワゴンである)が朝の車内清掃を終えて今「コンビニに行こう」と出ていった。
 大型キャンピングカーの3台はドッシリと構えて動く気配はない。
 その内の1人習志野の方は春〜秋200日間道央を中心に写真を撮り続けているという(プロ?外見上はそうとも思えないが…)
 国道237号線に面し、ネバーフット型SC(キーテナントがホームセンターと約800坪のスーパーマーケット、他にカメラ店、ファミリーレストラン等)があり、国道沿いにはほとんどのお店があるので便利だからだろう「午後8時を過ぎるとスーパーの寿司が半額になる」とも言っていた。
 今、女房がその車に近づいて行った、またまた何か情報を仕入れて来るのではないか?
 雨はないがドンヨリした旭川の朝である。そして午前9時10分陽が射してきた。
 今日は午前中この道の駅に停車している予定である。

〈追記3〉7月7日青函連絡船中にてメモしたものを本日同送する。
 旅の1/3、東北を終了した。
 この7日間で1回しか口げんかをしなかった。
 約1ヶ月前より日本人はカルシュウム不足ではないかという考え方(研究)によりその研究を続けてきた○○博士の開発した3Aカルシュウム(海草蠣殻等から抽出)の飲用を始めた。
 もしかすると、それが精神安定効果もあるかとも感じている。イライラすることが少ないのである。
ということを口にしたら、女房殿「それは私が気を使っているからだ」と言う。
 確かに、私がこの原稿を書いている2時間、時には3時間、オジャマ虫にはなっていない。
 なにもその間、彼女の気に触ることをしているわけでもないし、書いているわけでもないのだから、当たり前なのだが…
 7月12日記(午前9時)〜道の駅あさひかわ
 昨夜隣に停車していた名古屋ナンバーのキャンピングカー、一度購入しようかと考えた車種でもある。実に車内が上手に整理されている。お米もあり、鍋も数種類棚にセットされ、生物の処分の置き場まである。1人旅である。
 一言「2人旅はいいですね」と言われた時、ジックリと行き先の計画を立てておられた横顔に寂し気なものを感じた。
ケンカ相手も必要かな?
 やはり修行旅の同伴者であるのだろうか?
NO.378                                           平成15年 7月12日 記

「美瑛では 僕も私も 芸術家」
 〜大雪山系旭岳に行きたくて、再び旭川へ〜

 再び“道の駅あさひかわ”である。
 今朝、行列の出来るフリーマーケットと言っていたが、開場30分前より列が出来、10時には100人ほどとなっていた。
 私はまったく知らないが、よく活用している女房に言わすと、どこも子供物が多いと言う。 私が親子づれ(3人)の1坪店に声を掛けると、姉妹2代使用したものだから、既に元は取れているので、50円、100円也だという。
 昨夜時間切れとなった『男山酒造資料館』を訪れる 。酒蔵訪問は多く体験していたので特別なことはない。 その地、蔵元でしか飲めぬ酒を試飲するのが最大のネライ。
 なぜ“男山”がおいしいのか、又その歴史を知ることが出来た。
 大雪山の万年雪が十里の地下を幾歳月かけて潜りぬけて来たからという。
 旭川兵村記念館
 開村いらい百十余年の血と汗の記録と遺品。
 明治20年代に始まる開墾、今、豊に広がる緑の田畑、その貧しい農機具と生活用具の1つ1つに北海道を、そして今の日本のことを思った。考えた。
 やはり出直しの時ではないか。
 本日好天なら予定していた旭岳、天人峡の東川町方面の山並みを眺めながら、さらに南下、美瑛町“美瑛の丘”である。
 “パッチワークの路”とは良く言ったものである。昨年は富良野市、空知郡上富良野町、同中富良野を中心に時間を過ごしたが、今回は“北瑛の丘”を中心に廻る。
 @ マイルドセブンの丘
 Aセブンスターの木
 B ケンとメリーの木の丘である
 富良野がラベンダーを中心とした花の丘ならば、さしずめ美瑛(特に北瑛)は野菜の丘、農作物の丘、生活の丘とでも言えるのだろうか。
 白い花のジャガイモ畑は豊白種であり、刈り取りまであと数週間の麦の黄茶色、ソバの花に、大豆の緑の畑はまさにパッチワークのごとくである。
 私にとっては花の富良野より、華やかさはないが農作物中心美瑛(北瑛)の丘の方が心安まるのでした。
 富良野で立ち寄りたいところは多くあるが、10年前に来た時の場所をもう一度という女房(昨年行けず)、多分ここだろうと“フラワーランド”に車を乗りつける。やはりこの地であった、場内を大型トラクターで廻るのも良いが、思い切ってヘリコプターでの空中観光と張り込んだ(@4,800円也)
 たった4分の空中散歩でしたが、地上の眺めとは又異なり満足しました。
 他の施設は時間切れ、では本日の宿“道の駅南ふらの”までの道すがらの風呂を地図上で捜すがありません。尋ねると“スパ&リゾートふらのラテール”を教えられる。
 昨年はなかったと思うので、ここ1年以内のオープンと思う。(後でわかるが今年8月で丸3年)、ホテル併設で美しくロマンチックな富良野にふさわしいファサードである。
 が、玄関で一瞬立ち止まる。入浴料@980円也。顔を見合わせ「行こう」と目配せで入る。
 夕食を終え、玄関で60代のコンシェルジェ(?)に尋ねる。「明日の旭岳の天候は?」「快晴とはいかぬが、旭岳5合目までなら大丈夫でしょう」と自信ありげに言い切る。
 そこで南富良野に向かうのをやめ、再び道の駅旭川に帰ってきたという訳です。
 宿 道の駅 No20あさひかわ
 湯 中富良野“万華の湯”@980円
 食 本日は朝・昼はブランチ。
    内容はスーパーより購入の“鉄火丼”@480円。
 スパ&リゾートふらのラテール“万華の湯”と同一で、入浴料に比して味も価格も並でした。
本日の走行距離 126.0?

〈追記〉「富良野では 僕も私も 芸術家」
 30代後半の親子4人がそれぞれにカメラを持って、花畑や十勝岳を撮影している。
 「僕、今撮った写真30年後価値あるぞ。プロ○○さんの30年前の作品です」と声を掛けると、隣でお母さんが笑っていた。
 「美瑛の丘 アングル全て 額縁の中」
NO.379                                           平成15年 7月13日 記

濃霧の旭岳と天女舞い降りた
          “羽衣の滝”(天人峡)
 〜富良野にて本年も丘の写真館“松本”で
              一枚の写真購入〜

 意に反して朝から曇り空です。それどころか濃霧まで立ちこめています。
 今朝の駐車場の様子は普通車(ワゴン車、セダン、中には3台小型車)は、旭川ナンバーが7台、札幌が6台、室蘭2台、帯広3台、北見・釧路が各1台で、品川2台に、春日部、水戸、静岡、浜松、小牧、三重、鹿児島各1台です。
 キャンピングカーは、釧路、札幌、習志野、石川それに私の尾張小牧です。
 どちらにしても、これでこの時期北海道には、本州・四国・九州の各府県から車旅で来北していることはお分かりいただけると思います。
 さて、2日がかりで期待した旭岳、天人峡について、結論からお伝えすれば標高5〜700mの天人峡は問題なかったのですが、標高1,100mの大雪山旭岳ロープウェーの登山口ですら濃霧で引き返すこととなりました。
 天人峡の方ですが、大半の観光客の方が“羽衣の滝”で引き返すところを、それから更に600m、途中河原に下り、増水した川に沿って登る時など、女房が不安の声を発するのでありましたが、“東洋のナイアガラ”との表現はいささかオーバーなものの、幅60mのダイナミックな滝も満喫しました。
 直径50cmのジャンボフキの葉を傘にみたて滝をバックに記念撮影もいたしました。
 “羽衣の滝”は“日本滝百選”の1つです。
 今まで見た中では百選として頷けるものの1つです。
 旭岳、姿見の池自然探勝の代わりといってはなんですが、帰り道、大雪山系旭岳、白雲岳、そして忠別岳に降った雨は忠別川となり、旭川市で石狩川と合流し、札幌市の北石狩湾へと注ぎます。
 その忠別川を堰き止めて忠別ダムが建設中です。平成19年度の供用開始で工事も最終段階です。環境問題・財政事情から住民・納税者の理解を得るべきとの考えからでしょう、ダム計画の内容や進行状況を理解してもらうための見学施設が出来ておりました。
 地元の方か?「本当に必要なのかな?」観光できている2人の婦人の会話「こんなの造るお金がどこにあるの?」十数年前には聞かれぬ声だなと思いました。
 私はダム建設の必要性を説明した大判のパンフレット(縦横80×100?)と他に3枚のパンフレットが手元にあり、このパンフレットの経費はいかにと思うのでした。
 昨日も往復した、美瑛町〜上富良野〜中富良野そして、富良野市〜南富良野と北から南に富良野盆地を縦断して、狩勝峠です。
 昨年もそうでしたが、標高644mの峠ですが今年も濃霧でした。
 清水町でカーナビ君が道東高速自動車道を示すのですが、ほぼ平行して走る国道38号線、根室本線・十勝川に沿って帯広市に到着です。
 隣町の音更町(おとふけちょう)にあるかんぽの湯に入り、“道の駅おとふけ”に到着したのは午後7時半でした。
 宿 No43道の駅おとふけ
 湯 かんぽの宿十勝川『日本唯一の植物性のモール温泉』なる
    “美人の湯” @500円
 この温泉、ここ十勝川温泉とドイツ南西部地区の2箇所だけという珍しい温泉とのこと。
 茶褐色で天然成分が多く、まろやかなため皮膚を刺激せず、湯上がりの肌をシットリと潤し、スベスベの素肌美人になると女性に評判とのことです。
 女房様も、今夜“かんぽの宿”お泊まりの婦人達もそういえばそうか、と言い聞かすも、どうもねぇ?
 食事 かんぽの宿で満員と断られ、今夜は残り物でと思い、道の駅に向かう国道241号(道の駅の1km手前)“うまいもんや長之助”なる提灯が店舗全面(10m)フアサードにぶら吊っている『ぴあざフクハラ音更店内』の店舗
 特別な店舗でもないのですが、オープンして1年目とのこと、期待していなかったので満足な夕食となった。
 本日の走行距離 287.7Km
NO.380                                           平成15年 7月14日 記

 変化の多い340kmでした
 〜音更〜襟裳〜日高サラブレッド街道〜

 昨夜10時女房「寒い」と言って毛布と全開にした掛け布団用のシェラフの2枚を今回の旅で初めて重ねて肩まで掛けていました。
 今朝4時、東の空が明るくなり始めた頃、車外に出ると横浜2台、所沢、奈良、熊本各1台、北九州2台に、神戸ナンバーの小型車はエンジンをかけています。
 暖房中でしょうか。
 その他道内ナンバーの札幌、北見、旭川が普通車で牽引のキャンピングカーは宮城、札幌、足立そして私の尾張小牧がキャンピングカーです。
 道の駅物産館の軒下に90ccのバイクに大きな化成箱を2個、後の席に縛り付けた茨城(神栖町ナンバー)は6月23日出発、27日北海道に入り、7月17日に函館から帰ると言っていた40代後半の方と、反対側の入口の軒下には自転車で愛知県は春日井市から来たという20才の青年がシェラフの中から出てきました。
 彼、昨年は西日本を5ヶ月かけて廻った。その中には徒歩で50数日の四国遍路も入っていると言った。歩き始めた時「君は完歩出来ないだろう」と言われたので意地でもやりきったと。
 「時には親に連絡しているのか?」と聞くと「ウルサイからしない。30才の兄貴に時々メールを入れている」と言った。
 今回の旅は8万円持って出てきた「今残金は?」と尋ねると即座に「66,000円」と言った。「自転車壊れないか?その時はどうするのか?」「壊れたことあった、その時はその時。帰りの資金2万円は残しておかないと青函を渡れないので…」とも言った。
 大型キャンピングカー札幌ナンバーの方は岩見沢の方で60才後半。奥様同伴である。「家にいても、粗大ゴミだから車旅です。 この音更町には7コース。パークゴルフ発祥の地、幕別(隣町)は10、帯広市にも10コースあり、芝の手入れも良く、岩見はコース利用料500円だが、ここは無料だからもう10日も滞在している」と言っていた。
 昨年は寒い間2ヶ月間九州に行っていたとも言う。
 奥様が起き出して来て、軽い体操を始めていた。
 顔見知り同志が「じゃ又、明日」という感じで、手を振って一足先に出発した。
 国道241号が帯広市で236号と変わり、そのまま南下、“幸福駅”なる看板が目にとまり、寄り道。いつ頃、どこからどこまで走っていたのか聞きもらしてしまったが、畑の中に赤味がかった2台の車輌が50mだけの線路の上にある。短いプラットホームも、駅舎もある。
 駅舎の板壁のあらゆるところに張り紙がある(訪れた人々が記念に住所・氏名{ほとんどアベック}と愛の一言が添えられている)、早朝というのに駅舎の前に水打ちをしていた土産物店の店主が「あと、一週間後は連日、若い人達でイッパイですよ」と言う。
 市と地区が共同で整備したというアスファルト舗装の駐車場は観光バス用5台に、普通車用30台、他に(ジャリ舗装分20台)もあり、多分、畑に沿った道にもギッシリとなることだろう。
 通り越してきてしまったが、隣の“愛国駅”とセットで人気スポットのようである。“幸福”と“愛国”と印刷されただけの高付加価値のキップとハガキやその他のグッズだけなのだが、数分間に女房様2,000円也の買い上げである。
 これで“幸福”になれれば結構なことだ。
 中札内村(なかさつない)〜更別村〜忠類村〜広尾町で国道336号の海岸線に向かう。日高山脈が海に落ち込む絶壁の裾をぬうコースである。
 江戸時代から道東へ通ずる道開発が始まる。明治24年には北海道開発が進む中改修が行われた。
 昭和2年から8年の歳月で94万円の費用をかけて庶野〜広尾間36kmの工事は、1尺当たり10円余の費用で「黄金を敷き並べたような道路」ということで“黄金道路”と名付けられたと由来の碑があった。
 この黄金道路は日高と十勝を結び、日高山脈国定公園“えりも黄金ライン”としても重要な道路である。
 さて『襟裳岬』
 標高2,052mの幌尻岳を最高峰に、北海道の中央南部を南北に連なる日高山脈。
 この日高山脈の終焉の地が襟裳岬である。岬の沖合は、津軽暖流(対馬海流の分流)と、千島海流のぶつかり合うところ。
 岬の先端に続く岩礁と、早い潮流が生み出す風景は荒々しく雄大である。年290日も強風(強風とは10m以上?)で霧も発生することが多いという。白亜の灯台とは別に霧が発生すると自動的に海上をゆく船に知らせるため、汽笛に似た警報が発せられる装置があり、当日も滞在30分のうち、5〜7分間は断続的に鳴り続けていた。
 潮が引いた岩場には1年を通じてゼニカタアザラシが生息しているというが、肉眼では眼下50mまでは確認出来なかった。
 なにもない風と霧そして荒波の襟裳が魅力なのだと感じた。
 さて、今回の襟裳来訪の目的はもう1つある。No363で紹介した『襟裳岬の緑化運動』である。
 オークビレッジ通信が伝えてくれた文と写真に比べ、現場に立つことの差は明白である。
 かって襟裳岬も柏・楓・ハンノキなどの広葉樹原生林で覆われていた。
 明治以降、燃料として伐採・牛馬・綿羊の放牧により原生林を切り開き、又襟裳特有の強風にさらされ砂漠化した。
 砂漠化した大地は強風によって赤土が舞い上がり、舞い上がった赤土は沖合10kmも達し岬沿岸の海は黄色に濁った。
 海藻類は根腐れをおこし回遊魚や沿岸の魚は減少する。家は戸、窓を締め切ってもどこからか砂が入り込み、衛生状態も悪かった。集団移転を考えたこともあるという。
 昭和28年浦河営林署が本格的に襟裳岬の緑化事業をスタートさせる。
 昭和28年、年間72tの魚介類の水揚げまでになったものが昭和58年以降1,500tまでにも復活したという。
 荒涼たる“百人浜”に立つ展望台から眺める。
 大地を生き返らせるために、海から大量の雑海草を運び込み、その下に撒いた種を覆ってまず雑草(いや緑の草)を育てる。
 その後、特に松が根付いたという松林があり、ここがかって砂漠地であっただろうかと思わせる。(展望台の中にある写真を見れば成る程であるが…)。
 足下には強風を防ぐため垣根で囲まれ、今年5月に植樹されたばかりの緑の草の背丈よりも低い幼木・松が元気に根付いていた。
 襟裳の厳しい自然と対座した人々の苦労が忍ばれると同時に、人間捨てたものではないなぁ?と思うのでした(この稿参照No363)
 襟裳岬をあとに、日高山脈の西側、日高幌別で再び国道235号線と合流日高本線に沿って浦河国道を苫小牧に向かいます。
 黄金道路の海の荒れとは異なり穏やかです。しかし東側も西側も荒波に引き抜かれたのでしょうか天然コンブを拾い上げる方々の姿がうち寄せる白波の中の岩場に散見されます。岩場から国道に停まっている軽トラックにウィンチで引き上げています。
 これもきっと緑化活動の成果の表れでしょう。
 浦河町〜三石町〜静内町から新冠町に入ると競走馬のふる里“サラブレッド銀座”です。より一層、緑が鮮やかです。
 赤・茶等の厩舎の色とのコントラストはみごとです。ノンビリと草を喰むサラブレッドの館はまるで御殿のようにも見えました。

 本日の走行距離 340km

 以上、7月15日午前7時半、太平洋フェリー“きたかみ”の船内にて、時にユックリと大きく左右に揺れを感じながら書きました。
 ということで、7月14日午前5時半乗船後のことは、7月15日分に書くこととします。
NO.381                                           平成15年 7月15日 記

太平洋フェリーの船旅は
           上級船室より予約が入る
 〜船旅38時間は、車旅3,000Kmの疲れを
               解消してくれました〜

 7月14日午後7時に苫小牧を出航し、7月15日午前9時20分に仙台港に着岸した太平洋フェリー“きたかぜ”。一度下船して仙台港近くの港公園を一周してきた。丁度今年が開港30年目に当たるのではないかと10周年記念樹の碑から割り出してみた。フェリー乗り場のターミナルに開港当時の華やかな写真が掲示され、県庁の建物の壁にも大きな看板が掲げられた写真もある。が、目の前にした港公園の噴水には水はなく、装置も赤サビで10周年記念樹のみが成長していた。
 立派なトイレを掃除しておられた方がいたので「おはようございます」と声をかけたが何の反応もなかった。
 その裏に廻ってみると、トイレの建物の屋根がそのまま延長して10坪程の空間になっており、そこには生活の匂いがあった。段ボール・ブルーシート・毛布などキッチリと整理されたホームレスの方の住居である。数人で住んでいるのだろうか、サンダルが4足と近くの木々には洗濯物が乾かしてある。
 先程トイレを清掃していた方はここの住人のようである。
 と紹介すると、いかにも仙台港は寂れているように思うかもしれないが、実態は異なる。というのは 7月13日昼すぎ、今回の旅の終了も近づき、これ以上予定変更することもないと思い太平洋フェリー苫小牧に予約の電話を入れると、個室は全て満杯であるという。
 帰路の船旅は少し贅沢をと思っていたのでアテがはずれた。
 2日に1航、隔日でしか出航しないので7月16日はどうかと尋ねるも、満室であると言う。仕方なく空席のB寝台を予約(A寝台も満席)女房も期待していたのか不満の声を発する「じゃ、飛行機でも、電車ででも帰れ」と言うと黙る。
 キャンセルを待つしかない。車高2mを越すと一番最後の乗船となる(午後5時40分入庫開始、私は6時40分)。又、同乗者は別に乗船することになっている。
 女房なんと2番目に並んだそうだ(その間、私は車の中で、ビール1缶、日本酒2カップ)。
 そして、女房様船内カウンターまで急ぎ、キャンセル予約を一番でしたという。
 出航後、カウンターで一杯やっていると呼び出しである。個室のキャンセルがあった。しかも、2つしかない特等の和室である(洋室は14室、なおスイートルームはべつに6室、もちろん満室)
荷物を移し替える価値だけのことはある。毛布・枕のみの2段ベット方式から、バス・トイレ・冷蔵庫・衛星テレビ・ビデオ・ゆかた・スリッパ・洗面用具にティーセットとちょっとしたシティーホテルなみの備品と広さである。
 が、この部屋は仙台までである。
 再び、仙台港着岸と共にB寝台に移動した。その広さ、明るさ、環境は雲泥の差である。そこで3時間の待ち時間に仙台港公園周辺の散歩となったのです。
 今、帰船し、仙台港の倉庫群を眺めながら、展望通路の4人掛けのテーブルとイスのセットを一人占めで足を投げ出して書いています。
 太平洋フェリー苫小牧〜仙台〜名古屋航路は6月中旬〜8月末までは“きたかみ”“いしかり”“きそ”と全て15,000t、全長192.5m、全幅27m、最大速力24ノットで、旅客は850人前後、乗用車150〜180台の国内有数の豪華フェリーであると聞いていたし、事実その通りであると思う。それがほぼ満室に近いという(ただし個室のこと)。
 昨年日本海側の船旅を経験しているが、だいぶ様子が異なる。
個室は団体客で常に半数は早々と予約が入るという。
 高齢者の客が多いといっていたが、2等和室には若者の姿も多い。
 今出航10分前、船長のご挨拶がスピーカーから流れエンジン音が一段とアップした。さあこれから21時間の船旅。まだ呼び出しのアナウンスはない。仙台〜名古屋間は寝台Bの客人となるか?
ならば“ピアノバー”“スタンドバー”等に陣取ることにしようか?
 右手に離岸を助ける曳航船蔵王丸の姿が見えてきた、船体はこの客船の何分の1だろうか。50m程の太いロープで引っぱっている。
 多分猛烈なエンジン音を立てた超強馬力なのであろう。スクリューの周りから半径10m以上もの白い泡が湧き起こっている。  「タラップの取り外しです」とアナウンス。
 ここでひとまずペンを置きます。
 その後インフォメーションに行く「特等室は残念ながらキャンセルありませんでしたが、1等室ならあります」と言う。和洋室と和室の2室を案内してもらい和室と決める。
 定員6名と表示があったが、布団は5人分用意されている。
その後はAデッキ(5階・甲板8)、Bデッキ(4階・甲板7)、Cデッキ(3階・甲板6)に出て果てしない海を眺める。今日の海上は穏やかである。航跡の白い泡が100m以上も確認できる。映画“釣りバカ日記”の西田演ずる浜ちゃんはここで魚釣りをしていた映像を思い出した。
 本当に出来たら面白いだろうにと思う。
 BS放送の相撲を見るが、時間が早く土俵近くの砂かぶりも客はまばらである。
 ミニシアターで“サラリーマン金太郎”の映画を見る。50席はまず満席である。
 この映画、以前テレビで見たことがあったが、現代のサラリーマンの鬱積とストレスを解消するために制作されたようなストーリーとアクションである。
 映画終了後、再び大相撲・横綱朝青龍が今日から欠場、大関陣も久々に武双山が2敗で他の大関陣は3敗かそれ以上。荒れる名古屋場所というが、内容薄いこのところの大相撲である。
 実直で懸命な高見盛の真摯な態度と相撲内容が場内外を湧かせている。
 1杯も2杯も飲みながらで、出来上がりつつあり、夕食は不要の感じである(事前に色々購入し、乗船していた)。
 ドンドンドンと低く太いエンジン音が聞こえ、振動も伝わってくる。展望風呂に入り、2人分のマットレスを重ね(巾80cmでカー(佳)喜喜君のベットの巾と同一である)横になったと同時に寝入った。
 7月16日午前4時10分目覚める。ヒョットすると太陽が昇るのに出会えるかと、そっと部屋のドアを開け、展望通路に座って7月15日午後以降のことを書き終えました。
 一日平均200〜250kmを走ってきたことが知らず知らずに疲労となっているのでしょうか、それとも今日は運転しないという思いがドッと疲れを表面に出すのでしょうか。昨日は終日身体が重たかったです。
 今、太陽は残念ながら見えませんが、穏やかな海面を時速21ノット(40km/毎時)で巡航しています。遠州灘から渥美半島沖に向かっている時刻です。
 今回も“車旅東北〜北海道2003 夏”に最後までおつき合いいただきありがとうございました。
 本日の宿は16日ぶりに我が家となります。庭の草々は元気に伸び伸びと成長して出迎えてくれるでしょう。
 夏野菜のトマト、キュウリ、ナスも既に収穫は始まっていると思います。
 私にとっては、我が家の初物を神棚にあげて無事の帰宅を報告いたします。 では 又