車旅“2003年・春 九州一周”
No.291、296、308、321〜343

NO.291                                           平成15年2月7日 記

 たった一声〔希望の発言〕で大変です
 〜“車旅2003年九州”の計画に入りました〜

 今春か初夏に“車旅2003年九州”の計画をしています。旅日記として、その時にご案内すれば良いのですが、計画中からもごいっしょにと思いペンを取りました。
 “車旅 北海道 2002年夏”から既に約7ヶ月が経過しており、計画づくりの手順を忘れてしまい、モタモタしています。
(その間、このコーナーへの投稿の方に多く時間をさいたこともありますが・・・)
 机や近くのベットの上に下記のものが散らばって置いてあります。
@“旅王国○37 九州 昭文社“
A“J.SAPA発行の九州自動車道“
B“マップルの九州沖縄道路地図“
C“道の駅完全GUIDE BOOK 2002“
Dそして今回はパソコンの検索が少々使えるようになり大変重宝しています。
 まず第1にNo200で〜旅に一貫したテーマ設定の必要ありや、なしや〜と書きましたが、今回は“銘水100選(九州)”を訪ねてみようかと思っていますので、その場所検索(町、村名)に役に立ちました。
 大方パソコン上で見当をつけてから、道路MAP上で探るという方法を取りました。
 出発初日はどこまでかを決定するまでに時間を要しました。いやまだ迷っています。
 目的地は九州なので一気に福岡県太宰府までと設定したのですが、最短距離の高速道利用で、782kmです。
 確か、No217での記録、青森“碇ヶ関”から、栃木県“矢板”までの約500kmが今まで最長距離です。その時は雨模様で、風もありましたが、ずいぶん疲れた記憶があります。
 そこで、九州入口“門司港I.C”としてみましたが、約700kmでほとんどかわらない。
 第3案 広島宮島の友人に会っていこうかと調べると、約520kmです。
 その後の計画をしていると、広島に立ち寄っていたら20日間以上にもなりそうなので、これは当日の体調と道路事情にまかせようと思っています。
 おおよその九州一周コース設定にもとずき、一日一日の目安となる訪問地を書き込んで計画してゆくのですが、可能な限り同じ道路は走りたくないことと、興味ある紹介地は全て訪ねたいと欲張るものですから、アチコチに計画は蛇行してしまいます。
 特に佐賀県、長野県は島や半島も多く、又名勝旧跡も多数で、やっと第8日目で熊本県に入ることが出来ました。(約10年前、長崎市内とハウステンボスは訪問してますので通過した計画です)
計画上での調子が出てきたので、これであとはスーと南下し、更に北上の計画で終了できるかなと昼食に階下に降りました。
 女房様「昼食も取らずに何をやっているの?」私「九州車旅の計画」と一言、「そう、屋久島がいいわネ」と宣った。
 「そんなところ回っていたら20日間以上になってしまうぞ」と答えた。
 今までの経験上、3日目で一山、7〜10日目で2山、これを越えると毎日が山、山、山となる。まさに修行道車旅となるのである。
 さて、翌日、心優しい修行僧大ちゃんはパソコンに向うなり“屋久島”と打ち込む、あるはあるは情報は満載なり。
 まず島に渡るにはどこから? 出航便は? 時間は? 本数は?
 車で渡って“道の駅”はあるか?あるいはオートキャンプ場はあるか?
(屋久島役場観光商工課へ電話すると、キャンプ場の案内はするが「オートキャンプです」というと「それは登録されていませんネ。民間のところにあるかな〜」と心細い、更に「道の駅?」と尋ねると、“道の駅”のことが最初分らず、私が説明すると「ア〜ア〜、ありません」との返事であった。)
 ザァーと観光地、みどころ、エコツアー、トレッキングに登山コースを調べ、それらを案内してくれるガイドの協会や個人のガイドさんの情報を仕入れた。
 行くのか?それとも今回は屋久島をパスするのか?(私の当初の計画はパス)を決めてから、更に詳細の情報を集めてみようと思っている。
 やっと計画づくりが軌道に乗ったかと思われた瞬間に“一声「希望の発言」”で再び揺れることになった。
 計画段階からこれであるから、本番はどうなりますやら・・・まず“車旅2003年九州”の計画第1弾でございました。
NO.296                                          平成15年2月13日 記

 紙上走行中に早くも修行道に入る
   〜”車旅2003年九州”の
           紙上計画第1回終了〜

 ”車旅2003年九州”の計画づくりに入って約50日で第1回目の紙上計画が終了した。今までより手を抜いた計画作りだったのだが長時間をようした。
 一番の理由は、この間書斎で机に向かうと何か書きたいこと(ここの投書のこと)が浮かんできて、そちらに時間を裂くことになったことと、パソコンのEメールでの交信が多く、ボソボソ打ち込む割にはついつい長文になってしまっていたことが第2の理由である。
どうせたいしたことを書くのでないのだから、やめればと思うのだが、今、この時脳裏を走ったことは記録しておかなければという思いになり、読者の皆様にも付き合わせてしまっている。
 計画は『291”たった一言希望の発言”で大変です』で触れた屋久島への渡島なしにしても又、かって旅行で長崎・熊本などの幾ヶ所を飛ばしても20日間となりました。
 今までの経験上、いくら”車旅修行道”といっても(287 車旅は修行道参照下さい)も、これは緊張感が途切れ、事故につながりかねない日数であると思っている。(諦観者加藤さんが面白がって「ヤッテミテワ」などとそそのかしているが…)
 九州の知人宅を訪問してみようかと思っていたがとうていである。
 ひとつくらい一貫したテーマを持ってとの考えから、”九州の名水100選”を組み入れたものだから、名所・旧跡の観光だけでなく、山奥へ入り込むことにもなり時間を要する背景にもなっている。
 古来、大陸との往来のあった地であるのでその足跡の地、あるいは南蛮渡来の関係するところも多い。
もうひとつ、神々のおわします地でもある”高千穂”や余り知られていないが熊本県阿蘇郷の”幣立神宮”も入れた。
 更に忘れてはいけないと”焼酎の産地”蔵を訪れる計画も入れたが、”1杯で30万円也”である。慎まなければと思っている。
 この計画の途中、昨年「カー喜喜くん」購入先から、2003年度版の”道の駅ガイドブック”が送られてきた。
 昨年は全国で650ヶ所であったが、本年版は701ヶ所となっている。
 九州だけでも6ヶ所増えていた。
 第3セクター方式であろうが、国や県からの補助が多いのだろうが、この時代にしてはなかなかのスピード増加である。
 216『車旅・北海道〜東北2002年夏・第12日目』の追記にAでも書きとめておいたが
 1、長距離ドライブや女性・高齢者ドライバー増加の中、交通の円滑な流れのため休憩施設が求められていること
 2、同時にその施設は地域の文化・名所・特産品を活用してのサービス提供が求められ
 3、この施設が地域の核としての役割がはたされる。
  すなわち「休憩機能」「情報交流機能」「地域の連携機能」を併せもつネライで”道の駅”が誕生したというように、所によっては大ショッピングセンターと思わせものから、ドライバーの休憩機能のみというところまで様々である。
 計画段階から、どこのどんな機能をもった”道の駅”を宿に設定するのかを楽しみながら計画づくりをした。
 後十数日計画をそのままにしておいて清書も重ねて、第2回目の紙上走行とする予定である。
 紙上走行中ですから”様々な一声”が飛び込んで来て惑わされる。と、書いていたら「これ、私の希望」と言って一枚のメモ用紙が渡された。
 ザーと一読、ほどんど計画ずみであるが、早くも数カ所書きとめた記憶のない場所がある。
 あ〜、早くも修行道のスタートである。
NO.308                                           平成15年 3月 4日 記

宮崎県“綾の照葉樹林”を紹介します
  〜“車旅2003年九州”出発前から
            ウキウキ・ドキドキ〜

 260“『里山のこと』オークビレッジ通信より”を紹介した。
その通信287の最終ページに『綾の照葉樹林』を世界遺産にとのタイトルで10万人の署名受け付け中とあった。
 オークビレッジ通信291号に、その署名が14万人あつまりましたの報告が掲載されていた。その内容は後程紹介するが、私がここでペンを取ったのは“2003年車旅九州”の訪問地のひとつになっているからである。紙上で紹介されたものと、その現場に立った時との感じ方の差を皆さんにも味わってもらえたらとの思いである。
 車旅の紙上計画では予定通りにすすんだとして4月15・16日である。どんな出会いになるか楽しみである。
 ではその前に皆様にも『綾の照葉樹林』のことを紹介しましょう。
 この運動のことが本年2月18日の朝日新聞『天声人語』に取りあげられているので一部を抜粋紹介します。
 『命がけで山を守った町長がいた。「伐採させてくれ」と言ってくる営林署長に「山を伐るなら私を斬ってからにしてくれ」と突っぱねた。
 山の仕事がほしい人が斧や木刀を手に自宅を訪れ、家を壊されたりもしたという。
 宮崎県綾町の町長を6期つとめ、3年前に81才で亡くなった郷田実さんである。〜中略〜
 照葉樹林地域はその後国定公園になり、現在は、世界遺産を目指して運動が進められている。
 中心人物の一人が郷田さんの一人娘美紀子さんだ。彼女らはその山に九州電力が進めている鉄塔建設への反対運動もしている。山を守った父の意思を継ぐ。「父からは理念の大事を教えられた。」と美紀子さん。
 地方が揺れ動く今。草の根の自治をたくましく推進した−町長の足跡には教えられることが多い。』
 次に紹介するのはその郷田美紀子さんがその後の運動の経過報告をお礼のメッセージとしてオークビレッジ通信に送られてきたものです。〜一部抜粋〜『綾、それは宮崎市より九州中央山地に向かって20q程の山間にある小さな町。
 40年前の国の全伐採から辛うじて守られて残存面積は日本一といわれ、世界的にも貴重な森と言われています。
 豊かな森から湧き出る水は名水百選に。又自然生態系農業に取り組み、わが国の有機農業の先駆け的存在の町でもあります。かって貧しく無名な町が自然を大切にする町づくりが認められ年間120万人の観光客が訪れる町になりました。
 この静かな町に、15本の巨大鉄塔(原発と揚水ダムを結ぶ)が建つという大事業が5年前に起こった。
 市民グループの様々な反対運動にもかかわらず着工日が半年後に迫った時(2002年夏)、オークビレッジ代表 稲森正さんを訪れた。
 稲森さんは熱心に話を聞き、世界遺産運動を通じて、綾の自然を学ぶ事を示唆して下さった。同時に多くの著名な方を紹介いただき、運動賛同人になっていただいた。
 東京にも“綾の森を世界遺産にする会”が発足しました。
 2ヶ月で目標の10万人を突破、2002年12月16日、14万人の署名を環境省に届けることが出来ました。
 ここまで導き協力していただいた方々に、心からお礼をいいたいと思います。世界遺産の運動もやっとスタートしたと認識しています。豊かな綾の森と、縄文期の深い文化を秘める椎葉や西米良の里の暮らしを重ね合わせての複合的遺産のあり方を視野にいれて、草の根運動を続けていこうと考えています。
 なお、電力会社の鉄塔工事は今年(2003年)1月着工の予定が半年のびて、6月着工になりました。さて…?』
 “綾の森を世界遺産にする会”のホームページ http://www.bunkahonpo.or.jp/aya
を開くと、更に詳しい紹介がなされています。
 私が訪れる予定の4月中旬は桜も終わり、素晴らしい芽吹きの山々、木々が迎えてくれるのでしょう。
 『水源の森』であり、『森林浴の森百選』であり、『水の郷百選』更に、『21世紀に残したい日本の自然百選』『あおぞらのまち40選』でもある綾の町、綾の照葉樹林もう出発前から、ウキウキ・ドキドキである。
NO.321                                           平成15年 4月 1日 記

小型テープレコーダーが活躍しました。
   〜関門海峡を渡る、
        関門橋の下で感じたこと〜

 午前8時20分我家を出る。
 午後5時20分本州最西端、山口県下関市の塙之浦P.A(パーキングエリア)に到着。
 出発してジャスト9時間、720qである。
 A案−広島・宮島〜岩国周辺
 B案−ここ関門海峡のSA.PA.
 C案−福岡県の玄関古賀I.C附近であった。
 中間のB案となったが、距離的にはC案とほとんど差がない。本州にいるか、九州の地に居るかの差しかないのである。
 答えは正解である。
 お尻の肉が少々痛くはなったが、中央総経間712メートル幅の関門海峡を目の前にしている。今から約140年前、どんな大砲で英・仏の艦船に高杉晋作達はたちむかったのだろうか?と想像するだけで疲れがスットンでしまった。
 ドンヨリと立ちこめた雲の下(春の前線)山陽道を走ってきたが、岩国市を過ぎた頃より山桜・コブシ・雪柳の咲き揃う光景に知らず知らずにアクセルの踏み込みを忘れていた。
 時折、真黄色のレンギョウが色ぞえとなり、所々の小さなソメイヨシノの桜がこれ又、あでやかであった。
 このような情景を書き記すために、以前の旅では忘れないために、何度も記憶の淵に残るように繰り返し言い聞かせて反復していたのだが、今回の旅はそれを補うためにひとつの機器を持参した。小型のテープレコーダーである。
 と書いてしまえば簡単なことであるが、これが私にとっては大変な驚きであった。
 今から20年前、当時としては最先端の小型のテープレコーダーを購入した。(多分当時、昭和50年代中で3〜4万円の価格)
 “市価調”という、競合店の価格調査や、店舗づくりのノウハウを他店に学び録音した時のものである。
 息子に相談すると「親父、言っていることが数段古い」というのである。
 今ではテープなど使用しないという。
 「では、どうなっているのだ」と尋ねると「I.Cコーダー」という。
 「I.Cコーダー?とは何だ。」と言うと、「まあ、お店に行って現物を見よ」と数日前の大型電気店のチラシに○印をつけた。
 成る程、小型で軽量である。
 使い勝手の容易なものはどれかと販売員さんに尋ね、購入。
 数時間かかって、一応録音、再生の手順のみは操作可能との思いで、本日使用した。
 今、ここを書いている時間は午後9時です。
 その“I.Cコーダー”を取り出しました。
 説明書を読みながら操作しました。
なんと!!
 愛知県〜岐阜県〜滋賀県〜京都、そして大阪〜兵庫〜岡山を通過しましたと、ちゃんと録音されているのです。
 その間、大津S.A(サービスエリア)の休憩と、竜野西S.Aでの昼食(タコの釜飯)、小谷S.Aでの休憩もキチンと録音されています。(ここSAでひと眠りしている)
 その間、春の高校野球、準々決勝の再試合の情況も声のうしろで収録されていました。
 今再生は出来たものの、消去の方法が不明です、この旅の間、録音と再生ばかりで集録時間は可能なのでしょうか?
 疲れて一度は床についたものの、たったこれだけの文章ですが脳裏を走りましたので、これも修行の一部と考え起き出しメモしました。
 先程まで「眠れるかしら」と言っていた、○○姫は赤々ととも点る明りの下でスヤスヤの模様です。
 ということで、初日の報告です。

(追記)
 壇の浦のP.A(パーキング・エリア)は関門峡橋の下にあります。
 ゴーゴー、キューキュー、ドスン・ドスンと真夜中も響いていました。りようま竜馬が、しんさく晋作が、松陰がうなっていたとは思いませんが、高速道路P.Aの初めての宿泊です。
 九州と本州の数千万人の生活物資が24時間往来しているのでしょう。
 クエートからイラクの主都バクダッドまでは直線距離で600qとのこと、
 本日の走行が720qですので、多分米英軍のへいたん兵站距離と同じぐらいでしょう。
 この距離に自然の熱砂と、民兵・ゲリラの出没ではどうなることでしょう。
 明けて4月2日午前3時半に目覚めた時は、バキューン・バキューン、ゴーゴーとの爆撃音に聞えたのは、関門橋を渡る車の音でした。

(追記−その2)
 関門自動車道・関門橋
 昭和43年6月8日起工
 昭和48年11月14日完成
 全長 1,068m
 中央経間長 712m
 測経間長 178m
 塔の高さ 133.8m
 総事業費 300億円
 平成完成の本四架橋の3本はなんと愚かなことかとこの橋の下で思うのでした。
NO.322                                           平成15年 4月 2日 記

神々のおわせます九州の地、両手合せました。
 〜大正ロマンの“門司港漫遊”に満足〜

 今朝は早々と気持ち良い場面に出会った。
 壇ノ浦P.Aの24時間営業の食堂に行った。
 山口県岩国市を午前5時に出発、宮崎県延岡まで仕事(多分、電気か水道工事関係)にゆくという、3人づれである。
 その内の20代の若者の立ち振る舞いが気に入ったのである。大将(社長)とおぼしき50代と、従業員の60才代に対する気遣いである。食堂の食券の手配・お茶・水を運ぶ、出来上がったウドンを持ちにゆく、そして最後に自分のものを取り寄せて、両手を軽く合わせて、小さく「いただきます」と言った。
 一連の動作を見ていた私はつい、「いい青年ですネ。親御さんの教育がよほど良かったのでしょうネ」と声を掛けた。
 本人は最初、誰のことを話しているのだろうかとキョトンとしていたが、60代の方が
「良く気のつくイイヤツです」と言う。
 私「親に感謝しなくてはいけないよ、そんなに素直に、その行為が出来るものではないですよ。」と言う。
 女房が「親子ですか?」と社長風の人に尋ねる。「こんなイイヤツなら苦労はしませんよ。息子は車中で眠っています。」と言った。
 外は曇っているが、今朝はスガスガしい気持ちで、今から関門橋を渡り九州に入る。
 以上、本日壇ノ浦P.A出発前までに記す。
 この後に書くことはおゝよそ決めていたのだが、佐賀大和I.Cの近くで夕食中、ババ観音様が、「そんな家庭のこと書かないで」と宣うのでやめることにします。
 チョコット語るとすれば、旅出発前に訪れた長男様(月2回洗濯物を定期的に持参)と○○姫とのヤリトリであります。
 親の教育内容が露見する内容であったとのみにさせていただきます。
 さて、本日はひとまた跨ぎして(関門海峡を)九州最北の地、関門橋の真下に、海のしゅごしん守護神トヨタマヒメをまつ祀る社殿が建っている“和布刈神社(メカリ神社)からスタートです。
神社のあたりは対岸まで680m、時速17qの急潮が渦巻いております。
 訪ねた順番を無視して神々のおわします九州の本日の訪ねし所を紹介します。
 第2は仏です。足立山を借景とした15万uの森林公園の一角にある寺“広寿山福聚禅寺”です。山桜も添えて花曇りでした。
 第3は参道の楠並木が美しい“香椎宮”で、博多の名水“不老水”もいただきました。
 第4は663(天智天皇2)年、太宰府を造営しようとした人々は、ここに大和平野を見たのではないかという、さいじん祭神が菅原道真の太宰府天満宮であります。
 新入学の時節柄か、お礼参りも兼ねた若い学生の姿も多くみかけました。
 第5は、天満宮の隣りにある、臨済宗の禅寺“光明寺”では庭園の美しさに何度シャッターを押したことでしょう。
 と以上、修行僧大ちゃんならでは(?)の報告をまず済ませたあとは更に楽しい観光地めぐりです。
 紙面の関係上、箇条書きになります。
 見学時間が5時間を費やした、大正ロマンの門司港レトロの漫遊から始まります。古いレンガ壁を活かした駐車場から“はね橋”の方向に向うと、比較対照として、“北前船とにしん鰊で賑わった小樽”を思い出しました。
 全体からの感じでは小樽の方が雑然としている、それ故に古い建物や倉庫群が目につき、倉庫活用の売店、飲食店の記憶が多く残っています。
 が決して、ここ門司港も新しいものばかりではありません。古くから港町として栄え、明治になると大陸貿易の拠点、九州鉄道の起点として、多くの洋館が建ち並びました。
 その中のメインはまず大正3年ローマのテルミニ駅をモデルとしたという“門司港駅”です。訪問した時ジィーゼルエンジンの臭いが駅舎全体にたちこめ、一層古さを感じさせましたが、昔風の駅員の服装に加え、隅から隅まで清掃がゆきとどいた清潔な建物です。
 次に大正11年アインシュタイン博士夫妻が宿泊、2階にはその部屋をそのまま復元し、門司に生まれた林芙美子の資料室も併設された“旧門司三井倶楽部(重文)”
 あとには “旧大阪商船三井ビル”(大正6年建築) “旧門司税関”(明治45年建築)、”北九州市立国際友好記念図書館”は中国大連市との友好都市締結15周年を記念して建てられたもので、煉瓦造りドイツ風の建物は、1902年帝政ロシア時代に大連に造られたものを複製建築されたものです。
 以上が私には記憶に残るレトロ漫遊の建物でした。
 はね橋が上り、シーフードレストラン、オルゴールミュージアム、ガラス美術館等がとり囲む船留りも霧雨に降られ情緒がありました。
 “小倉城” ”小倉城庭園” ”松本清張記念館” 等を訪れようと思い小倉市内に入ったのですが、桜が満開で駐車場が見当らず、又市内の空気に嫌気が早々と立ち、佐賀県にむかうこととしました。
・本日の走行距離 176km
・湯(風呂)佐賀大和I.Cを降り、国道323号線を約10km北上した”熊の川温泉 ちどり鵆の湯”、全国各地にある環境庁指定、国民保養温泉地です、今年で3年目とのこと、地元の方との会話で 「黒字ですよ」と自慢気であったが、あと2軒の民間資本の経営状況はどうであろうか?
「ちどりの湯」は大人500円、もう一軒はお金のある人の行く湯とのこと大人1,100円、最後の一軒はお休みでした。
・宿 道の駅No696 福岡市と佐賀市を結ぶ一般国道263号線と、一級河川、喜瀬川に隣接する風光明媚な”九州の嵐山”と言われる所だそうです。
 夜、ライトアップされた桜の山が国道より眺めることが出来ました。
 翌朝訪れてみる予定です。
NO.323                                           平成15年 4月 3日 記

葉隠れの鍋島藩旧跡(佐賀県)を訪ねました。
 〜古湯温泉センターも大ヒットでした〜

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一文が私の中に刷り込まれ佐賀県(鍋島藩)のイメージが形成されている。
 “死ぬるべき時、死ぬるべき所”を知らぬどころか、恐れて逃げまどう修行僧大ちゃんの佐賀の終日を報告します。
 佐賀城は別名を栄城ともいう。
 佐賀とは『さか栄える』からきたもので、くまそ熊襲を討った日本武尊が、生い茂る佐賀の楠を見て「栄えの国よ」と言ったことに始まるという。(神社の境内は楠の木の大木が多い)
 その佐賀の古さを代表するものは『葉隠』であり、冒頭の一文がそれを代表するもののひとつである。
 別名『鍋島論語』ともいい、佐賀藩士の行動の基本を作った。
 11巻1358項目からなる書物である。
1) 武士道に於いておくれを取り申すまじき事
1) 主君の御用に立つべき事
1) 親に孝行つかまつ仕るべき事
1) 大慈悲を起こし、人の為になるべき事
 幼少からこの無私の教えを徹底的に叩きこまれていたからこそ数々の史実に接することとなった。
 言える柄ではないが、“権利主張・義務不履行”の今、その史跡を訪ねてみた。
@『葉隠発祥の地』
 木立の中に建つ大きな記念碑。
 この地は葉隠の口述者山本常朝が隠棲した。元禄13(1700)年、常朝は佐賀藩2代藩主鍋島光茂死去の為落髪出家して、この朝陽軒に隠棲した。
 10年を経て、同藩士土田陳基が自己修養のため、ここを訪れ教えを請い、のちに大小隈と合わせて7年にわたり、その教訓を中心に筆録したのが『葉隠』11巻と紹介されている。
 常朝先生垂訓碑は昭和10年10月に建立。
 碑石の背面に『憂世から 何里あろうか 山桜』
 『白雲や 只今花に 尋ね合ひ』の句あり、
 この地に至る直前、佐賀平野から、雲間に煙る有明海を遠望出来る、一段が25〜30pもある石段を約500段登った。筑紫山脈の金立山の中腹にある〈正規稲荷神社〉の周辺の山桜と合わせ、常朝先生の句を味あわせていただきました。
 A松原神社・佐嘉神社
 佐賀藩の基礎を築いた龍造寺隆信と、その跡を継いだ鍋島直茂が祀られている松原神社。
 隣接の佐嘉神社は幕末の名君鍋島直正を祀るやしろ社である。
 彼は人材を育て、軍備を近代化し、明治維新では大きな働きをみせた人物である。
 その神社の一角に「古川松根翁」の碑がある。ここに私は葉隠をみた。
 松根は藩主なりまさ斉直こう公、御側役古川興兵衛とも綱の3男として出生。斉直公の嫡子閑叟公側近として遊び相手を勤め、のちに小姓近習頭となった。
 明治41(1871)年閑叟公死去、その3日後に松根は辞世と遺書を残して自刃。
 「世に残す 言葉なきを いかにせむ
  千束の筆 とりつくしても」
 B 高伝寺 鍋島家の菩提寺として建てられた。本堂裏手に歴代藩主、戦死者、殉死者の墓があり、無数の石灯篭があると紹介されていたが、私のナビゲーターはその近くまでつれていってはくれたが、路地に入り込み引き返すこととなった。
 C 神野公園
 藩主鍋島直正公が造った茶屋で通称“神野茶屋”という。隔林亭1846(弘化3年)
 ここには征韓論に破れ、下野した江藤新平の銅像がある。
熊本領台兵を攻め、“佐賀の乱”に負け、明治7年に40歳で処刑の身となっている。
 が彼は近代的法制と司法権の独立、汚職の摘発、人権の擁護など葉隠精神をおおいに発揮している。
 D 清水観音
 銘水100選のひとつ”清水川の水”の地として訪れたのであるが、ここでも、佐賀藩士倉永節士清雄は6代藩主宗教の大患平癒を祈って断食をし、みぞれ降る厳寒の夜に清水の滝に打たれ天正5(1740)年26歳で凍死。
 佐賀藩士、下村芳充、父の病気平癒を祈って、瀑下に凍死 26歳と清水の滝の下に碑あり。
 この地は“清水の鯉料理”が有名らしく、数軒の旅館の看板に全て表示してあった。“真名板の鯉”という語は知っているが、近頃そんな覚悟の決まった大物に出合ったことも、聞いたこともなく、死語になりつつあるのではないかと思うのである。
 以上、葉隠に関することであった。
 本日は他に“吉野ヶ里遺跡”もタップリと時間をかけて見学させていただいた。
 『魏志倭人伝』に書かれたクニを目の前にする思いであった。
埋葬されたかめかん甕棺の中の首なし人骨や、矢じりのささった人骨をみると、どうも文明・技術は進歩するも精神レベルの進化はどうなっているのかと思わずにはいられない、今日この頃である。
 さて、最後に本日の大当たりは、吉野ヶ里から佐賀市内に行く国道34号線上の“讃岐屋うどん店”である。
 素うどん普通盛100円、大盛180円。私の食べたカキあげ430円、女房のエビアゲ550円のトッピングで大満足である。
 もうひとつ、湯=温泉も大当り。
 宿は前日と同じ、道の駅“大和”である。前夜の“熊ノ川温泉”より3q奥の“古湯温泉”である。
 旅館も7〜8軒あるようだが、いつものように目もくれない、みつけた所は『古湯温泉センター』である。
 コンクリート3階建て、黄色のペンキが所々剥げている。少しみすぼらしい。
 女房をせっこう斥候として送り出す。
 大人一人250円のみの情報、「湯の良し、悪しは?」と言っても「悪いと言うハズがない」という答え。 「よし、いこう。」と判断する。
 これが大正解なのであった。
 その理由
 @ 古湯温泉の由来
 孝霊天皇の72年(約2100年前)霊夢によって発掘、その後、洪水、地震で埋没、発掘をくり返したのが鶴霊泉。
 この温泉館敷地内に慶応3年、村の庄屋が発掘し川上実相院の英竜僧上が名付けて“英竜温泉”という。
 A 新温泉
 昭和39年試掘、地下168mから43℃の温泉を1日120t得る。
 この温泉は今も湯槽に流れ込んでいるが、30度前後と感じた。(温度が下ったのである、薄まったといっていた)
5年前に新たにボーリングしたものを、別な管で流し入れているが、これも加熱しているようである。
 B 地元古老との会話より
 1)昭和39年当時、部落で資金(6,000万とか)を町より借金し今の建物と湯槽にした。それ以前は砂風呂で26〜7℃の低温泉であった。
 2)福岡、佐賀市内からの客多く、3〜4年でほとんど返済した。
 3)今、部落住民のものだ(約520数名とか)大人1回70円である。(一般250円)
 4)この部落には80才を越えても腰の曲がっている者はいない。この湯のお陰だ。
 5)子供のアセモと、大人の関節炎には良く効く、戦前は“淋病”に罹ると一週間、この湯に世話になるとO・Kだった。ペニシリンがなかったからなぁ〜と前歯が半分折れた口を大きく開いて笑った。
 私も低温(37〜38℃?)の湯のために、タップリとユックリと時間を使ってお話を聞くことが出来た。
 センターの前に“呼子”より取り寄せの“アジのミリンボシ”の香に誘われて持参のビールを一気に飲み干しました。

(追記)
 湯槽で歯の折れた古老の話をうかがっていた時のことである。彼より4〜5才年上と思われる古老が登場。前出の古老と私の間に身を沈めた。
 入ってきた時から眺められている視線を感じていたが、開口一番「いい髭だ、少なくとも悪人には見えない。」と笑顔もみせず一言。
 私「いや、ありがとうございます」
 すると今度は「腕と下腹部の毛は皆黒いがなんで髭だけ白いのだ」と言う。
 私「全部、男性ホルモンの場所なのに?きっと悪いことをし尽くしたからでしょうかネェ、色が抜けてしまったのでしょう。」
すると再度「うーん、いい顔だ。」
 更にこの後も会話は続いた
NO.324                                           平成15年 4月 4日 記

“牛之宮”ってご存知ですか?
 〜最初の疲労のピーク、第4日目です〜

 晴れまでとはいかないものの、曇と霧雨の中の3日間であったが、夜半過ぎから本格的な雨で、車の屋根に降る音で午前5時すぎに目覚める。
 このあと佐賀大和町の高速道路大和I.Cから南下福岡県柳川市に向う。
 前(手元に資料無く不明)ここで紹介した、“松藤民輔さん”の会社潟Wパングを含む『牛之宮グループ』の「牛の宮祭り」の第11回が開催されるので、それに参加しようというのである。
 既に前夜から“料亭お花(ホテル松濤館)”でお花見の会が催されている。
 今日は、柳川市の隣町山門郡大和町(前出は佐賀郡大和町)鷹尾神社で牛の宮祭があり、直会(なおらい)が神事後予定されている。
 と以上、朝の出発前に記する。
 ところで、“ジパングとは?その事業内容とは?”について少々紹介しておきましょう。
 日本で初めての金鉱山専業の鉱山グループ、確定した鉱量を持つ海外の金生産会社に資本参加してゆく日本で唯一の金鉱山ビジネスである。
〈経営ビジョン〉
 『現在が時代の転換点である』との認識、『これまでの考え方が通用しなくなった時代』
 1990年代の中頃、日米株式市場の崩壊を予測し、『金鉱山会社を経営する』という会社目的をもって、ジパングが創業された。
〈ジパング・ウエイ〉
@ 誰もが行かない場所でビジネスを行う
−ロシアへの投資
A フェアバリュー以下で資本参加する
−金生産会社への資本参加
B 経営参加を友好的に行う
−友好的なM&A、敵対的M&Aは行わない
C 時代の転換点に立って未来を予測する
−松藤民輔氏は『投機と投資−深刻化するデフレ下の傾向と対策』という自著で、
 アメリカ株式市場の崩壊を予測〜それは2000年1月インターネット株式ブームの最中であった〜
D 誰もやらないことを最初にやる
−誰もやらない時がチャンス
 これ以上の情報のほしい方は下記のホームページにアクセスして下さい。
http://www.jipangu.co.jp/

“牛の宮祭”は九州の方々で1/3、それ以外の方々が2/3で約50名の参加であった。
 毎年、晴れ男の民輔氏の運であったが、本年は雨、彼いわく「晴れ男で雨が降るのであるから、世間はさぞや激しい雨が降っていることでしょう。
 どうぞ、こういう時代はユッタリと人生を楽しみながら参りましょう」と。
 初対面の方々とも名刺交換をして、(今回はなぜか、波動の会の名刺を持参した)、散りいそぐ桜を眺めながらの会話は、鷹尾神社会館の社務所である。
 12時半すぎ、弱まった雨の中武雄市の“陽光美術館”日本庭園“慧洲園”へと向かう。
 あと、10日後ならば2000トンの巨石を使った滝、池、岩山の間に植えられたツツジが咲き揃い、茶畑の新芽が出て、御船山を借景としたこの園はさぞや更に素晴らしいだろうと想像するのでした。
 併設の美術館には世界三宝の1つと言われる『翠玉彫虫活連胡芦瓶』をはじめとする、中国工芸美術の名品を堪能しました。(入園料1,500円も奮発)
 柄にもなく美術館などまでのぞいたためか一気に疲労感を覚え、その後の計画を修正し“伊万里ふるさと村の道の駅”へと向かう。
 その前に本日の湯は“佐賀厚生年金休憩センター”が“ウエルサンピア伊万里”と名称変更した天然温泉の宿です。
 入場料 私、60才以上で730円
     女房様 60才まであと18日で 830円也
 手・足・肌になにか付着しているのではないかと入浴後すぐに感ずる湯性分であった。疲労がどこかに飛んでいった。
 夜はなんと道の駅のレストランにて年に数回口にするかどうかという、サーロインステーキ(伊万里牛)を、一昨日の佐賀大和のステーキ専門店に続いて食することにした。身体が要求したのであろう。
 四国歩き遍路の時と同じく、3〜4日目に最初の疲れのピークがくるのは車旅も同様だと想い出した。
 本日の走行距離 141q 累計1,149qである。
NO.325                                           平成15年 4月 5日 記

日常生活に欠かせない陶器磁器の世界へ
  〜陶器・磁器、有田と伊万里と
        唐津のちがい分かる?〜

 昨日の記録に、旅の最初の疲労が出ていますと書きました。起き出してからの車内の手順や整理は調子が出てきているのですが、初めての地での運転で気の使うことも多いからでしょう。
 しかし、今回も本当にナビゲーターには助けられています。1〜2度、音声指示を聴きまちがえて失敗しましたが、これがなかったら更に疲労が重なる事だろうと思います。
 昨夜、健康茶“タヒボ茶”を寝る前に飲み干してしまったので、夜中に少々気怠るさを覚えたので起き出し、湯1000cc分の“タヒボ茶の顆粒”を一袋飲んでおきましたら、今朝は身体がスキッとしています。
 この後、コンビニで朝食のおにぎりを購入する時、通常の倍の2袋で、タヒボ茶を溶かして飲めば快調な体力にもどるだろうと思っています。(以上、午前6時半迄に書き終え、もう出発です。)
 再度ペンを取りましたのは午後9時10分です。平均的にはもう横になる時間です。しかも、本日の報告内容は私の興味・嗜好からは一番遠くにある陶芸の世界です。
 そこで、まずは有田町の“陶山神社”に参拝しました。日本一の陶器の大鳥居を始め、狛犬・大水瓶・大灯籠の奉納にはド素人でもイイナァーと感じさせてくれました。
  有田焼・伊万里焼・唐津焼、そして鍋島焼とはどう異なるのか、どう関連するのか、訪ねる所々で資料を探すのですが、見当りません。
 最後にもう帰ろうと思った時、トイレの裏にもうひとつ建物がありました、“伊万里有田焼伝統産業会館”です。
 そこに展示されている説明文を写し書きしていたところ、館長らしき方が「資料ありますよ。」と言って、書棚の一隅より2枚の説明書を渡してくれた。継ぎはぎで仕入れた知識が一気に解決しました。
 ここで改めて、その知識の一端を皆様に紹介することもないでしょうから、これくらいにしますが、有田で焼かれ、伊万里でも作られているが、伊万里港より国内外に輸出・移出されてゆく、そして鍋島藩の官営製陶所での品々は磁器の本場・景徳鎮(中国)と並び称される究極の伊万里焼『鍋島』であるということは日本の伝統・文化の一端の知識として持っていた方が良いなぁ〜と今回感じさせられたし、その芸術性や優雅さは大半大陸、あるいは朝鮮からの人々によって持ち込まれたものでもあることを知っていることの大切さを教えられます。
 といいつつ、女房と購入した品は、それらとはまったく関係のない、作風も異なる土色の粗野ではあるが、なんともほほえましい観音様でありました。
 唐津の焼物は有田・伊万里と対比して、男っぽく、力強さを感じました。
 それは“虹の松原”を“鐘山の展望台”から、あるいは“唐津城”の天守閣からの眺望を堪能したからだったでしょうか。
 いや、“からつ曳山展示場”の14台の曳山の多種多様な姿態の造形美を目にしたためだったのでしょうか。
(横道ですが、唐津市・鎮西市・玄海町・呼子町の道路を走っていると、日本語表示と同じくらい韓国語の表示が併用されていました)
 報告がまだ終了しません、驚いたのは『佐賀県立の名護屋城博物館』と『名護屋城跡』です。
 事前の知識は仕入れてあったのですが、これ程とは思いませんでした。
 明日、もう一度訪問する予定ですので、その後に感想を書きます。
 あと残ったのは、夕食のことと湯のことです。
 まず、夕食のこと。伊万里の“大川内山”の食堂の方が、(その前にも佐賀大和の“鵆の湯”でも、呼子に行くのなら“活きイカ造り”をと教えられていました。
 文句なくおすすめです。その他の魚介類も満足でした。余分なことは言いません。
 最後に湯です。本日も大当たり、2日前の“古湯温泉”に続いての流し湯です。
 所は玄海町の“福祉センター”です。
 近くに“国民宿舎波戸岬”もあったのですが、先述の名護屋博物館の案内嬢と話している内に教えられたのです。
 行ってみると仮設湯との看板が出ています。
 これはシクジったかなと思いました。
 福祉センターは現在建て替え中で、再オープンは来年の3月です。
 が、さにあらず、仮屋湾の湯は今まで深さ500mから汲み上げていたものを、800mにすることにより水温も49度となり、今までの34〜5度より高くなり、浴槽に注ぐ時でも44〜5度と水で薄めなくてはなりませんでした。
 前日の厚生年金休暇センター“ウェルサンピア伊万里”の一度に100人以上も入浴出来る広さとは異なり、少々聴き取り難い佐賀弁を耳にしながらの温泉談義も楽しませてもらいました。
 入浴料金は午後6時まで260円、6時過ぎは210円ということです。
 ただし、午後7時45分にピシャリと閉店しますと言っていました。

 本日走行距離 153.2q
NO.326                                           平成15年 4月 6日 記

大橋(名護屋大橋と平戸大橋)を
             越えるとそこには
 〜大軍の城跡から、
        大航海時代のロマンの町へ〜

 佐賀県東松浦町鎮西町にある道の駅前夜の宿“桃山天下市”から名護屋大橋をひとまたぎ呼子(ヨブコと読む)の朝市からスタートした。
海岸線に添った国道382号線の一歩奥の商店街にその朝市は開催されている。
 昨夜の食事処で“アジの味りん干し”と“イカの一夜干し”を購入、日時指定で百姓学校のお土産として注文し終っているし、生物を購入する訳にもいかず、次々と声を掛けられるが通り過ぎてゆく。
 ただ、昨日、旦那さんが取ってきたばかりの黒々としたイガのウニの前で女房立ち止まる。ひとつ250円也で手の平に乗せて満足気である。その後、私も“塩の味”に続いて甘さが舌に残った。
 応仁の乱後、うち続く戦乱の世を今一歩の統一前に“本能寺の変”で散った信長の後を継いだ秀吉は、中国(明国)、朝鮮半島をも我が物にせんと、この地、鎮西町から呼子町・玄海町に渡り全国の大名を布陣させた中心地(松浦党の居城<垣添城>のあった)に、総面積約17万u、(当時としては大阪城に次ぐ規模)の名護屋城を1591年秋から工事をして、5ヶ月足らずで完成した。
 隣接する“名護屋城博物館”も前日に続いて再度訪れ各種資料と接すると、現場を踏んだ後だけに少々の実感をもって確認することが出来た。
 城跡全体の模型を一段高い所から見下したり、天守台跡から最盛期人口10万人を越えたといわれる城下町を一望していると、“タイソウな気分”になると同時、“夢の跡”とも感ずるのでした。
 一転、前日の唐津市、伊万里市と南下し、“歴史とロマンの島”大航海時代の城下町『平戸』に到着したのは昼過ぎ、少々遅い昼食をガイドブックに紹介されていた養殖ものはいっさい使わないという“豊鮨”に入店する。
 今が旬という“ヒラメの薄造り茶づけ”(\1000円)と握り寿司“竹”(\900円)を注文、満足。
 その上に今はヒラメ祭りということで、いただいたサービス券(優待券)で、その後の資料館の割引と湯(風呂)の割引で総額(約800円)が割引料金となった。
 平戸大橋(田平町と平戸市を結ぶ全長665mの朱塗りの吊り橋、昭和52年開通)を渡って平戸島に入った第一印象は異国情緒が溢れるものを想像していた私にはガッカリ、駐車場も少ない、狭い町というものでした。
 同じ道路をグルッと2度廻り市庁舎の駐車場へ。
 オランダ橋、別名“幸橋”を渡り普通車のみ通行可の商店街を歩いてオランダ公園近くの“平戸観光資料館”でガイドマップを手にした頃には最初のイメージが少し薄くなっておりました。
 平地が少ないのです、海岸線からそのまゝ小高い台地に登っているのです。
 対岸の平戸城も同様で、それ故に素晴らしい眺めでもあります。
 紹介は各種ガイドブックに譲りますが、
@平戸観光資料館〜 A御部屋の坂(殿様の奥方がお住まい)〜 B松浦史料館は中腹の石畳を歩きます。
遠見の展望所の近くには三浦按針の墓、平戸最初の教会跡があります。
 グルット90度まわって勝尾岳の下に C聖フランシスコ・ザビエル記念館があり、少し下って私としては一番“イイナァ~”と感じたサビエル記念堂と光明寺が重なって見上げるビュースポットは D寺院と教会の見える風景でした。
 閉館時間まで1時間強しかない『平戸切支丹資料館』”には交通量が少なく、道路が整備されている山間の国道383号線を南下、平戸島の西側の中間根獅子浜の近くに到着したのは閉館30分前でしたが、小さな資料館です。“かくれキリシタン”(おろくにん様=禁制時代の殉教者の埋葬地といわれ、根師子の信者の聖地である。「おろくにん」とは6名の殉教者が浜に流れ着いたところからの説の他諸説あり)の地がやっと密かに残されているという資料館でした。
“湯”のことを書きます。
 割引券持参(600円のところが400円となる)で平戸海上ホテル“観月館”の四季の風“みづきの湯”です。
 展望温泉露天風呂、貸切温泉個室展望風呂(6室)、貸切露天風呂(2室)と水族館温泉大浴場「龍宮」(男湯・浦島、女湯・乙姫)
海中を泳ぐ魚達の水族館風呂を眺めてから、展望露天風呂「瀬戸の湯」に入りました。
 目の前2mで、その下、2〜3mのところは海です。黒子島も見え、右手には朱塗りの平戸大橋、そして平戸港に出入りする船が行き交っています。
 湯質はそれ程良いとは感じませんでしたが、循環湯の温泉ですが、本日はこの眺望が売りものです。
 その後、再び“豊鮨”に行き、今度は“ヒラメ定食”(\1500円)と、ちらし寿司梅(\1300円)(赤出し味噌汁付きに胃が注文、ごはんとネタが別々になった二段重ねでした)
 宿は市内から約25分“生月大橋”(平戸島と生月島を結ぶ、全長960m、平成3年の開通、通行料600円は高いのでは?夜間9時少々前といえ、私の前後には車なし、というのも観光客をこの島に呼ぶための看板を数ヶ所で目にしたが、明朝訪れる予定の“塩俵の断崖”以外にはこれという観光地はない)
 渡り切った所に道の駅596“生月大橋”がある。
 大橋の所から夜目に海岸線に添って人家の明かりが見えたが、午後9時道の駅の駐車場は今までの体験上からは1〜2位の暗さである。
 隠れキリシタンの島ともいわれる、単に観光場所として接するのでなく、この島の歴史や人々の生活に直接触れれば、又別な感慨を抱くことになるのではないかと考えつつ、この夜は日記を書くこともなく寝付いた。
 そして、今、時刻は4月7日午前5時30分、約2時間半かけて書き上げました。
 寝息をたてていた女房殿、ネボケマナコをこ擦り一言「何を早くから起きているの、身体を悪くするよ。」と言い残してトイレに行った。
やっと薄明かりの空の色に変わってきた、が出航する漁船のポンポンという機関音は1時間前程から耳にしている。

 4月6日の走行距離は201q
NO.327                                           平成15年 4月 7日 記

“生月島”で満足。島原で“ミス長崎”と出会う
  〜温泉(湯=風呂)と
    名水100選“湧水”探しに苦労する〜

 4月6日の記に続いてペンを取っています。
 4月7日午前6時を少しすぎました。生月大橋の東の空が赤味がかってきました。
 あと10分程で日の出でしょうか?
 女房が良いスポットがあると言ってカメラを持って再び出て行きました。
 私は既に3時間以上起きていますので、腹が減ってきました。生月島の町中に行けば一軒ほどはコンビニストアーがあるかもしれませんが、4日前(古湯温泉センター内にて)購入した、キュウリとトマトを口にしています。
 この後、ひと眠りする予定ですので、2日前(大川内山のバザー)で購入の“コウナゴ”をツマミに日本酒をチビリです。
ではひとまず、“オヤスミナサイ”
 今夜も又、ペンを取ったのは午後9時を5分程廻っています。
 本日の本文を飛び越して、湯(風呂)のことを書いておきます。
 というのも、この原稿をタイプアップしてもらっている姪が出発前に「今温泉にのめり込んでいます。温泉の報告を期待しています」とあった。私は「貴女の旅と違い、温泉三昧ではない、銭湯ばかりである。」と返事はしておいたものの、本日まで6日間は私なりに気を使って、湯のことは書いているつもりである。
 ところで、本日の予定は“道の駅・みずなし本陣ふかえ”である。といってもピンとこないでしょうが、島原市雲仙普賢岳噴火の時大被害を受けた地と書けば思い出していただけることでしょう。
 7年前に訪れた時は水無川の両岸の護岸工事をしていました。海に近い所は踏み込むことさえできなかったのですが、今では被災家屋を現状保存する『土石流被災家屋保存公園』を中心に、飲食・物販・温浴・体験など様々な和風建物が集まった複合型観光施設と紹介されています。
露天風呂があるともあり、今夜は湯も、食事も、宿もユッタリと思いながら到着すると、湯は本年1月で閉鎖、食事も午後10時とあったのですが、午後7時には閉店というではありませんか。
(ここで、一言、被災者には申し訳ありませんが、この地を復興するための投資であったのでしょうが、アテガイブチの施設なのでしょう。この状態です。清掃も行き届いていません、これではダメです。
死にものグルイで努力しないもの、ところはこんなことになるのでしょう。)
 そこでマップを取り出し、カーナビで検索することで、島原港の埠頭へ、そこは無料施設であるものの“足温”のみの島原温泉でした。
 足湯に入っていた地元の方に教えられ、“かんぽの宿島原”でやっとヤレヤレです。
 超音波の湯は源泉31度と標示されていましたが、入浴客も少なく手足を思う存分伸ばし、3度目の正直の湯を楽しませてもらいました。 (入浴料@500円也)
 と、お湯(風呂)のことを書いただけで、1日400字づめ、原稿用紙5枚の予定が、4枚終了となりました。
 生月島から4時間の道のりで島原までやってきたことは翌朝、書くことにします。
 その間、イラク戦争(戦争といえるのか?)でアメリカ軍が首都バクダッドに攻め込んだ状況報告をNHKラジオ(テレビ映らず)が繰り返し報道していました。
 今夜の内に本日の走行距離を記録しておきます。215qです。これで累計1,427qです。
 高血圧症の私は目覚めると同時に判断し、行動すること可です。 (対称は○○姫様)
 その私も無理に(物理的に)起こされた時は10数秒戸惑います。
 昨夕刻から降り始めた雨は夜半過ぎも本降りでしたが、いつの間に止んだのでしょう。
 カー(佳)喜喜くん(愛車キャンピングカーの愛称です)が時折、軽く横揺れをし、バックミラーで風が切られるのでしょうヒュー、ヒューと唸っている音に目覚めさせられたからです。
 さて、4月7日の報告です。
“生月島”です。ご存じですか?私もガイドブックに“塩俵の断崖”というのを読んでやってきました。
 昨夜、ご案内のように真暗な中、道の駅“生月大橋”に到着でしたので島の様子は分からずでしたが、本日の冒頭の朝明けからイメージが違ってきました。
 日本の西のはずれに浮かぶこの島は約8,500人が住む美しい島です。
島の先端“大バエ灯台”からはお天気が良ければ“壱岐”“対馬”が眺められます。
 断崖の上に広がる牧場公園の自然歩道が灯台の上から一望出来ます。“はまゆう”の群生地もあると聞きました。
“塩俵の断崖”の下は漁具の一部でしょうか、発砲スチロールが多数岩場に打ち上げられています。そこをカットして撮影です。
 当初思っていた島のイメージと異なって、早々に引き上げる予定でしたが、生月町博物館“島の館”を午前9時オープンと同時に入館しました。
 入館料500円は結構なお値段だなと思いました。
 ところが2階建てで4つに区切られた展示室は満足させてくれました。
 館の前に親子の鯨の像が迎えてくれていたように第1展示室は“勇魚とりの物語”と題して、享保10(1725)年から、江戸時代最大の鯨組、益冨組は2万頭余の鯨を捕獲、収益は332万両で、最盛期は3,000人以上の人々が働いていたという。
 捕鯨の様子を忠実に再現した大型ジオラマ、その鯨を解体処理する納屋場の再現に見入りました。
 かって、和歌山“大地”の捕鯨館を訪問して驚いたことがありましたが、この2ヶ所が全国1,2位でしょう。
 第2展示室が“島のくらし”
 第3展示室が“カクレキリシタン”
 第4には水のない海中を泳ぎ回るハクセイの魚たちの“シーファンタジックアリーナ”です。
 最後に10分間の島の紹介ビデオを見終わった時には受付嬢の所に行き、「本当に素晴らしかった。期待をしていなかったからではない、もう一度、長崎に来ましたら訪問します。」と告げた。
 その後、女房も彼女の所に近づいていったので、「何を話してきたの?」と尋ねると「良かったから、そのことを言ってきた。」と言った。
 既に本日の報告、8枚目が終わりそうである。
 その為でもないが、平戸から佐世保と南下、7年前に“ハウステンボス”と“長崎市内”はタップリと時間を過ごしているので通過、諫早のムツゴロウも車中でのアイサツにとどめて、島原へと入る。
 鉄砲町の武家屋敷から“郷土史料館”に立ちより島原城内に入る。
“75年ぶりの里帰り、日米交流人形『長崎瓊子』展”が開催されていた。
 御存知1924(大正13)年急にアメリカで排日移民法が制定、日米間が緊張関係に入る。
 親日家の宣教師シドニー・ギューリック氏は『両国の親善を子供達に託そう』と全米の青少年団体に呼びかけ、昭和2年春12,000体の『青い目の人形』が日本の子に贈られた。
 その内長崎に214体。そして58体の日本人形を答礼使節としてアメリカに贈った。
 『ミス長崎(瓊子)』もその一体であり、ニューヨーク州ロチェスター市科学博物館に保管されていたことが分かり、『ミス長崎』の里帰りが75年ぶりに実現した展示会でした。
 こんな時代、世界の人々との信頼と友好を築く良い企画であると感ずると同時に、新たな歩みを始める時であるとも思った。
 天守閣にももちろん登った。
 長崎の原爆記念像の制作者としても有名な“西望記念館”も満喫、城内の一角に野外展示されている“片目をつぶり、口を大きくあけて、何かを指差し怒鳴っている日蓮像”の前で、同じポーズをして写真を撮った。
 どんな出来映えになるだろう。
 今回の旅のひとつのテーマに〈名水100選〜九州(屋久島を除く)17ヶ所〉がある。
 この地島原が5ヶ所目である。
 これがなんと“町中を整然と流れる城下町の風情も”と紹介されているが、車も近づけない一般民家が密集する路地の一角に見つけた。それでもその一角のみは8〜9坪あり、湧水を被うステンレスの直系1.5m程の蓋とその上に屋根、一坪にみたない神社と4つに区分された洗い場がある。
 洗い場は食器類、魚、野菜等の生物、そして洗濯場所と仕切られているが、どの区切りを流れる水も清水である。
 普段どんな会話が繰り広げられるのであろうか?こんな場があれば、きっと隣近所、老若男女の日々は穏やかで清らかなのであろう?と思うのでした。
NO.328                                           平成15年 4月 8日 記

日本最初の国立公園“雲仙普賢岳”は
               霧と煙で見えず
 〜疲労蓄積され、修行車旅の中間附近なり〜

 今夜はこう書き出そう、こんなことを書こうというイメージが浮かんできません。
 これは雲仙・普賢岳が約11年前、噴火・土石流が流れ出た、被害記念館があり、土石流被災家屋保存公園の中にある“道の駅・みずなし本陣ふかえ”で雨の中一泊したからでしょうか?
 昨日も書きましたが、アテガイブチの臭いがする「日本で一番きれいな道の駅」とか「日本で最大級の道の駅」とかのパンフレットを手にしてしまったからでしょうか?
 どうも、大きいことが良いことであるような表現に出会うと違和感が湧いてくるのです。
 その後島原半島を南下、説明書もパンフレット一枚も手元にない。南有馬町の島原の乱の古戦場“原城跡”に立った時の方が、私には感ずるものがありました。
 有明海に突き出た3つの岬が原城跡であり、かって日之江城の支城として“日暮し城”と称えられた名城だそうだ。
 松倉重政は城づくりの名人で、この城を廃城にして島原城を築いた。
 その時、重税に苦しんだ農民が、天草四郎(当時15才)を盟主として一揆を起こし、この城に立て籠もった。
 籠城3ヶ月、3万7000の一揆軍は全員戦死したのである。
 その古城の本丸跡は1638年2月27日、城中の食糧が尽きたこと知った松平信綱は幕府軍12万5000人での総攻撃であった。
 一揆軍は鍋釜まで投げて戦ったが、翌28日落城、天草四郎も白の上着に白の袴をつけ、白鉢巻きの額に十字架を立てていたという。
 前日訪問した北村西郷氏が作成した四郎像が建っていたところが当時の出入門であったとあるが、わずかに残る石垣をみるだけであった。
 雲仙公園にて散策する。
 雨上がりで霧に包まれて、その上雲仙地獄の蒸気である、カメラのレンズはすぐ曇り記念撮影どころでない。
 昼近くになると霧も少しおさまり、“満明寺” “温泉神社” “ビジネスセンター”と廻り、そして“雲仙観光協会”にてやっと資料を手にすることが出来た。
 筑後川に添う“久留米”“秋月”に立ち寄ろうかと思ったが、長崎自動車道を北上していると睡魔が襲う、“大村のPA”でひと眠り後は、いっきに鳥栖ジャンクションから九州自動車道を南下、大牟田市に通ずる南関I.Cで降りる。
 その間、数日前も同様であったが、佐賀大和I.Cと鳥栖IC後の筑肥山地下の高速道路は風が強く、ハンドルを握る手についつい力が入った。
 さて、本日も湯のことである。
 当初から、日本最大のリゾート&ショッピング施設、温泉や人工スキー場、ショッピングモールなど多数の施設があると紹介されていた“セキアヒルズ”を予定していた。
 南関I.Cを降りたあと、カーナビの誘導に従って県道を走っていると、突然“南の関・うから館”の看板を目にする。
 数10メートル引きかえし、ここに世話になった。
 駐車場と浴槽でも話を聞かせていただいた地元の方の弁によると、充分とはいかぬまでも、この“うからの湯”の方が温泉成分が含まれて居り、“セキアヒルズの真水”より良いという。泉温は35度で、循環湯であったが、その後、夜食の店も紹介していただき及第点の満足感を味あわせてもらった。
 なお、風呂代 300円也。
 今夜は全て書き終え9時である。
 今から一杯いただいて、グッスリと行こう!!
 本日の走行距離 286q 累計1,713q
 宿は 道の駅“おおむた花ぷらす館”である。
 追記−1 4月9日朝6時20分
 第2回目の疲労感である。
 4月6、7日と4〜6時間の睡眠で(両日とも昼間15〜20分昼寝)響いている。
 兆候は注意力が散漫になっていることである。第一に注意せねばと言い聞かせつつ、ポケットの『ハイウェイカード』の紛失であり、第2に昨日の行動記録のひとつを忘れている。
 長崎県高来町の“轟渓流”の名水地である。ヤマメなど生息する美瀑も見られ満足したのだが、そこに到る時キーポイントの分かれ道で、事前に刷り込まれていた情報の看板にひきずられて道を取り、舗装道路であったが、途中から7月20日〜8月31日の夏休み期間は車乗り入れ禁止の狭い山道になった。上流で本道と合流し下ることになった。それが幸い、3ヶ所でこれが指定名水の場かと記念撮影する所があったが、一番整備された所より、暗い観音堂のお洞の地がありがたく感じた。
 追記−2 4月9日朝6時35分
 書き始める前に道の駅“おおむた花ぷらす館”の広い敷地を一周してきた。(約3〜4坪上だろう)
 紹介看板に『明治以降、三池炭坑と石炭関連産業の興隆とともに発展した人口約14万人の中部有明地方の中核都市である。(昨日風呂場で一緒だった方、最大時は19万?であったかなと言っていたが・・・)
 東に標高388mの三池山、中腹の普光寺には樹齢400年といわれる「臥龍梅」がある。
 西には干満の差最大6mに達する有明海、海苔をはじめ海産物の宝庫である。
 市内は産業の歴史を語る『宮原抗』『石炭産業科学館』『三池カルタ記念館』の施設がある。
 夏の最大のイベントは「おおむた“大蛇山”まつり」で大蛇の山車が火炎を吐き、街を勇壮に練り歩く』とあります。
 道の駅に併設して、多分この地の町内の方々のために整備したのであろう「四箇新町ふれあい公園」がある。ふれあい公園といっても3〜4000uの多目的広場や遊具広場もある。ただ「イングリッシュ・ガーデン」と名付けられた3〜400uは今春の雑草で覆われ始め、所々に黒シートが敷かれている。
 再び道の駅の敷地の花壇の一部の所で「大牟田テクノパーク計画」の看板が大型のステンレスパイプで組み立てられていた。風に吹き飛ばされた黒網の覆いから、A〜Jの地域が造成中、N〜Qまでが分譲中となっていて、かろうじてM-1とM-2に2社の名前があった。
 果たしてこの2社も経営が続けられているのであろうか?
 足元の花壇には未だ何の春の花を見つけることも出来なかった。
 どうも疲れが蓄積されてきたのか、消極的なものばかりが目につくし、書くことになった。
 ということはこの“車旅の修行道”の中間に差し掛かったということであろう、今日あたりにババ観音様との衝突なきように気を使わなくてはいけない。
 それが又々疲れにつながるのか?
 修行なのかは私自身の問題である。
NO.329                                           平成15年 4月 9日 記

“一心行大桜”500年行の桜と出会う。
 〜名水100選の3水源と湯も良しの1日〜

 紛失したと記したハイウェイカードが出てきた、これで気分を良くした。
 南関I.Cで入り、玉名P.Aで朝食とする。「奮発した朝食をどうぞ。」と言われたが、朝定食(400円)とする。シャケの焼物と、味噌汁そして海苔、これが一番である。
 コンビニのインスタント汁とオニギリより美味しいし、リッチな気分になれる。
 植木I.Cで降りる、燈籠の看板をみて、予定になかった大宮神社への声が掛かる。
 気分良くしているので、ハイハイと立ち寄る。
 山鹿市の中心にあるこの社は8月15、16日は『山鹿灯籠まあつり』。
 景行天皇を祀るというこの社、村人が松明りをともして迎えたことから始まるという。
 和紙だけで作った精巧な大灯籠を奉納し、頭に灯籠を頂いて乙女たちがヨヘホ節にのって幻想的に舞い踊るという。
 同神宮境内にある八坂神社のミニ鳥居くぐりに挑戦し、朝の体操をする。(写真ないと分からぬか?)
 さて、本日は“名水100選めぐり”である。
 まず、“菊池源水”である。
 熊本県菊池市・菊池温泉から東へ17q、標高500mの阿蘇外輪山北西部が、菊池川の源流渓谷である。
 約1時間の散策を楽しむ、その間紅葉の瀬、竜ヶ渕、天狗滝、黎明の滝などの見所で何枚シャッターを押したことか。
 秋の紅葉の素晴らしさを充分感じさせる新緑が芽生え始めたところであり、桜吹雪も楽しませてもらった。
 その流れの清涼さと渕の青さはたとえようもない。
 つづいて“菊池阿蘇スカイライン”を6.7q〜つづく“ミルクロード”と呼ばれる“阿蘇公園菊池線を8.3q〜別府一の宮線の“やまなみハイウェイ”の一部5.5q、計20.5qを快調に走る。
 途中阿蘇北外輪山の最高峰“大観峰(遠見ヶ鼻)”の展望所にも立ち寄る。
 日本の中にもこんな広々とした所があったのだろうかと初めての発見である。(北海道と又異なる)
 とにかく、左右20.5qの道路の両側は見渡す限り“採草場”である。
 所々に、牛・馬が草を食んでいたが、98%の枯れ草が焼かれ芽吹きはこれからの状態であった。
 その麓に通ずる隣がすでに大分県であり、その手前熊本県阿蘇郡産山村に“池山水源”がある。
 この地の桜はまだ2〜3分咲きである。
 駐車場から平地づたいで5〜60m一輪車を押して水汲みにきている。
 2時間かけて久留米からきたという60代の夫妻と会話をする。(定期的にくるという)
 湧水が5〜60pの高さのコンクリートで仕切られている、15坪程の渕の中央に水神様が祀られており、そのまわりから湧き出ている水の波紋を見ることが出来る。
 この名水地の帰り、といっても1q下ったところにある“奥阿蘇の宿「やまなみ」”で昼食とした。
 まちがいなしのオススメ宿である。
 そのひとつに、女将の自慢の漬物が約30種の手作りで、しかもバイキング方式で食べ放題、昔からのボタモチ(オハギ)等、食することもさりながら、囲炉裏の食事処のつくりといい、なにげない花一輪で、全てが感じられるというものであった。(湯は?)
 阿蘇に入る。“阿蘇が拓いた神々の古里”である。
 “阿蘇神社”に参り、その後“西巌殿寺”(この寺2年前に焼失・跡地のみ、新小学4年のほっぺのふっくらとした子供等7〜8人が教えてくれた。「僕の小学2年の時だった。」と)
 “草千里”から“阿蘇山”とまわり、本日第3番目の“名水100選は熊本県白水村の『白川水源』である。
 毎分60?が噴出するという、1日に換算すると??
 この村のどこからと思う程の人の数である。
 熊本市内からでも30〜40qもある。
 その水源から2qの所に本日の湯“阿蘇白水温泉・瑠璃”がある。
 かっては村営であったそうだが、今は株式会社、ここも平日としてはなかなかの入浴者数である。
 嬉しかったのはメインの浴場(露天・サウナ除く)が直径14m、高さも14mの半円形の“木のドーム”で出来ていることである。
最長10mの地元の杉(?)を12方から組み建てたものである。
 白水源流の水とは異なるが、阿蘇外輪の地下水であることはまちがいない、一部タレ流しの循環湯(泉温51度)である、しかし湯に充分温泉成分が混ざっていたのを感じた。
 最後に、この村はなんでこんなに観光客が多いのか、疑問のひとつが分かった。
 “一心行大桜”のライトアップ6日目である。散り始め最後の見どころである。
 高さは15m、左右は約20m、5〜600年の樹齢だという。
 5〜6年前、ある写真家が紹介したことにより一気に注目され、大根やサツマイモの段々畑が今や4〜500台の駐車場となり、当日は20軒の地元の方の出店と、植木・花の出店者が7〜8店舗あった。
 植木販売の兄ちゃんが「俺もこんな桜あるの知らなんだ。ここから5分程の所に住んでいるのだが・・・」と教えてくれた。
 本日は朝の出発から調子良く、最後まで万々歳である。
 その後約1時間かけて高森峠(標高800m)を越え、上益城郡清和村道の駅“清和文楽邑”に午後8時15分着。(国道218号)
文楽の村らしく、これ又なんとなく夜目にも文化の香りが漂っているようだ。
 既に○○姫様の寝息が高い。
 本日の走行距離は194q 累計1,907q
追記 4月10日朝5時30分
 毎日決まって追記を書く訳ではないが、ほとんどの場合、翌朝に思い出して書く。
 前夜にその日の行動を記録する、夜中眠っている時に無意識にその内容が反復されて、翌朝の追記となるのだろうか?
 その割にはたいしたことは書かれていないが…
〈その1〉今年の2月末(3月初旬?)世界水シンポジュウム・京都が開催された。
 あと数10年、いや10数年で世界の飲料水は枯渇して、現在の化石燃料のごとく争奪の対象になるという。
 名水100選の3つの水源地の湧き出、流れる様とその清涼さを目にした私にとっては信じ難いことである。
 あの水達はどんな情報をもって地上に現れているのだろう。そして、どんな情報を吸収しているのだろうか?(隠し持っているのだろうか?)
〈その2〉“一心行大桜”を眺めながら、地元の方の出店屋台の品々で夕食とした。
 なぜ“地元の方々”と分かるか、味が・姿が・作り方が素人っぽい。
 まず、タコ焼8個で500円と決して安くはないが、普段食べるタコ焼きとは重さが違う、これタコの大きさではない、外皮と中味の麦粉の部分がギッシリであり(ふくらましていない、いや出来ない)、2〜3個食べると腹の足しに充分なる。(多分大きさもあるが、3〜4倍の量か?)
 次はイカとホタテ貝のショウガしょう油焼き、大きな貝が長い串に刺してある。大味でイカは噛み切れない。これ200円也。ホタテは250円也。大牟田から仕入れたハンペンか?その場で揚げてくれ200円也。
 美味しかったのは炭焼きの“塩やまめ”400円也。
 上手に握ったオニギリ2個200円也。
 平均2割方、安いと思う。(福岡県以外の県全体に)
 駐車料金は普通車500円、マイクロバス1,500円、大型バスも10台分のスペースがあり3,000円。
 領収書に『桜周辺の駐車場は、すべて農地です。駐車料金は農家の方への土地の補償費、及び駐車場整備費に充てられています。ご理解をお願いします。』南阿蘇桜植木まつり実行委員会と印刷されている。
 通しナンバーであろう、私の手にしたものは13648番であった。
 桜まつりがスタートとして平日・500台の駐車スペースが3回転で1,500台×5日=7,500台
 土.日 500台×5回転=2,500×2日=5,000台
 合計 12,500台となり、おおむね当たりか?
 葉桜や秋の紅葉の時も管理しているのだろうか?
 1台に3人×13,000台=39,000人→約4万人
 1人当たり 500円の飲食、買い物×約4万人=2,000万円の売上
 粗利益はとすぐ計算してしまう修行僧。
 大根・サツマイモを作るよりは良いのだろう。
 ただし3月8日は夜、雨となり、駐車場はぬかるみになるので使用中止としたという。キャタピラーで固めた、デコボコの畑跡地である。
〈その3〉今朝、道の駅清和文楽邑のトイレに行く。これで2度目のウォシュレット付(もちろん温便座)であった。それ故に、今日の日程をユックリ練ることが出来た。家を出る時、計画表には通過と書いた“椎葉”も加えて、宮崎県の十根川神社も加え、高千穂の神々との出会いである。
 それにしても寒い、車の暖房を稼働させている、真白とまではなっていないが霜が降りている。朝6時前から清掃に来ていた方に尋ねると山の奥(高千穂)の桜はまだこれからといい、ここは今盛りなり、昨夜“九十九曲りの高森峠が標高800mであるので、下ったとはいえ4〜500mはあるのであろうか?
 太陽は見えぬが、小高い丘の上の高木に陽が当たっている、昨夜感じたことが当たりであろう“文化の香り”する道の駅である。
NO.330                                           平成15年 4月10日 記

高天原の神社・神々を訪問
   〜ひと風呂後、もうひと頑張り、
               大正解の夕食〜

 本日は終日“神々の宿”る地の神社訪問がほとんどである。
私の家が神道であり、数代前が現豊橋市(旧八名郡石巻)で農業を営んでおり、その地では大地主であったのだろう、村落の宮司も司っていたようである。
 私の従兄の2人は神職の資格を持っていることをここで紹介したことがある。
 それ故に、神道の祭りや最低の儀礼は心得ている程度以上のものではない。
 今回の旅のテーマのひとつに多々宿る九州の神々を尋ねることではあるが、神話や古事記、日本書記に出てくる神々の名はどんな関係にあるのか、どんな役割をされているのかはチンプン、カンプンである。
 同行の“ババ姫様”は別称“ババ観音”とも言い、まさか本人も観音様とは夢々自覚などしていないだろうが、神社訪問はシブシブというより、ダラダラとつきあっているという態度である。
 訪問した神社の名をとどめることのみにするつもりである。
 ただ“波動友の会”の月刊誌でかって会長の江本氏との対談の連載があり、この旅の第4日目で紹介した、牛の宮の松藤さんも毎年1月と7月参拝し、心身を清めると同時に世直しへの思いを新たにしているという“へい幣たて立神宮”についてひとこと記す。
 というのも『神話は事実を物語化して伝えた歴史的事実である』とも考えるからである。
 高天原神話の発祥の神宮が幣立神宮である。
 幣立神宮に神がごこうりん降臨になった、その所にヒノキ(日の木・霊の木)〈15,000年の命脈を持つ日本一の巨檜〉に神霊がお留まりになった。これがカムロギ・カムロミの命という神様で、この二柱を祀ったのが日の宮・幣立神宮である。
 その天孫降臨神話の中に“智舗の郷”の記述があり『天の盤座を離れて…日向の高千穂の二上の峯に天降った』とある。
 そこで『ゆには斎庭の穂の神頼』と風土記逸文の関係を『新見理論』はこう語っている。
@共通テーマは穂である。
・天孫降臨神話の中心テーマは稲作の普及。
・風土記『天暗く、昼夜わかず、人道を失い、物の色別き難しかりき』は天地自然の大異変がもたらした生活不安。
・天照大神の天岩戸隠れの神話と直結する、天岩戸神社の西本宮の御祭神は大日霊命で、
 幣立神宮の巻き天神祭と関連してみると、その原因は阿蘇火山の噴火による降灰現象が引き起こした、民人の救済活動では…
A阿蘇降灰現象とオアシス現象
 火山の噴火は自然環境を大変化・農耕生活者は壊滅的な打撃。そんな状況の中、被害を免れたオアシスの所が残った。
 幣立神宮を中心とする一帯は生き残った生物群の宝庫である。
B種籾の援助が天孫降臨の主題
 幣立神宮から高千穂への生活救済の旅立ち…幣立神宮の森周辺は湧水池で・棚田水田の原初的姿をしている。
 以上、私が百姓学校で今年4回目の稲作に取り組むことになっているので、その本元のことについて記してみました。
 以下は訪問した順に紹介します。
@三ヶ所神社…予定になかったのですが、ババ姫様が、看板を見つけました、“石楠花1,200本、しだれ桜500本、椿350本、150種が満開”
 タイミングがほヾピタリです。満足です。
 宮司の奥様と思われる方が、愛知県と記帳すると、神社の由来の資料、石楠花祭りのポスター、又神社自慢の一本の大欅で造られた本殿と彫刻についての説明までしていただきました。
A高千穂の地一望の国見ヶ丘へ
 この地にも中野神社の遥拝宮あり、朝のあの寒気(霜)はどこにいったのかという陽光に変っています。
 阿蘇外輪山を遠見するこの丘からの高千穂の峯々の下にある村落は確かにこれ又オアシスのようであった。
B天岩戸神社・東宮・西宮
・西宮の前に駐車して大衆食堂へ、親子丼(500円也)とかっぽ酒(600円也)で満足。
 かっぽ酒とは竹の筒で燗をつけ、竹の香りが染み込んだもの。
・天照大神がお隠れになってしまったので、神々が参集したという“あまやす天安がわら河原”へ
 横30m、高さ20m、奥行25mの洞には無数の小石が段積みされていた。この意味不明 別名『仰慕ヶ岩屋』とも呼ばれる。
C最後に高千穂神社へ
・この頃になるとババ姫様は足を引きずって歩いていた。疲れと不満の無言の訴えであろう。(無視する、いや…)
 椎葉村に行き“森に映える赤い社殿という十根川神社”と考えていたが、それどころではなくなり、朝来た同じ道を引き返し、再び、道の駅“清和文楽邑”で休憩。
 やはり、この村・道の駅は相性が良い、“清和文楽館”に入場、なんと1時間強もビデオ観賞となる。ラフカディオ・ハーン原作“新雪おんな”の創作過程と記念発表会の一部始終を楽しませてもらった。普段は別な短いビデオの放映のようである。2人だけのための特別であったようだ。
 本日もなんと原稿7枚めで湯の話となる。道の駅“不知火”と併設の“不知火温泉”である。入館料500円(町外、町内300円)は高い方であるが、施設は大きく、浴湯も気持ち良かった。
 ここで夕食をと思っていたが、既に6時半でオーダーストップ。「海に近いから魚の美味しい所は?」と尋ねると、「ここまで来たなら、天草まで行きなさい。あと車で40分」と言われ、明日はその天草であるから、と7時すぎに再度、車で出発。
 結論、大大大正解、美味しいというだけでない、安い(材料費?技術手数料−料理の腕前料)
 メニューを一枚もらってきた。明日1日はこの天草の計画であるが、もう半日計画より余分に滞在し、魚三昧にしようかと考えている。
 宿は道の駅“リッチランド有明”である。
 本日の走行距離は199q 累計2,106q
追記
 高千穂は熊本県の隣り宮崎県である。
 今回の旅のネライの第?番目に位置する“ご神酒”の件である。愛知県では“くろうま”のグランドで1~2年前より登場の「しんらく神楽しゅぞう酒造」の本社はこの高千穂、大字岩戸である。
 本社に立ち寄り、ここでなくては購入不可能な酒はないかと尋ね、720mlを色々で4本購入する。
 水を加えると、オレンジ色が桃色に変わるというリキュール“心の恋人”を女房が指名し購入した、果してどんな味わいと演出をしてくれるのだろうか?
NO331                                           平成15年4月11日 記

“ならぬ堪忍、するが堪忍”
 〜こんな館長(所長)ならば旅は10倍面白い〜

 久しぶりに午前6時まで眠った。天草上島(天草は上島と下島があり、下島は上島の約3倍の広さ)の“道の駅リップルランド「有明」”の周辺を一周する。その服装は前夜の霜の降った“清和文楽邑”とは大違いで、下着と上着一枚でも島原湾を越えてきた潮風が心地良い。
 気分良く車にもどり、出発の用意。
 ババ姫様、「頭が痛い。」と宣う。何の不満の表現か見当もつかず、「病院に行こう」と言うと「それ程ではない。」と言う。
 “ならぬ堪忍、するが堪忍”と修行僧の心得を称えて、冷静に対処すると、たちまち効果ありである。
 本日、初訪問の予定の3つの内のひとつ“本渡市立天草切支丹館”を選定したことである。
 一年半前に本渡市の税務課より異動になった所長『緒方和雄さん』に出会ったのである。
 元々、歴史の好きな方であったのでしょうが、この一年半の内に、それまでの知識と、その後の勉強を重ねて、この天草のキリシタンのことを10数枚のパネルとB4紙10枚程にまとめられた。
その内容を肉声でもって、手振り身振り良く1時間強語ってくれたのである。
 途中、フェリーで東京から鹿児島に渡ってここにこられた夫妻と一緒に、マンツーマンで質問にも答えてくれたのである。
話し込むたびに、これは秘密の資料といって、2度、書棚より出してくれた。
 更に、昼近くになったので「お薦めの店は?」との問いに、“竹畑”(本渡市、大浜町 TEL0969-22-2921)四季の馳走屋を紹介いただいた。松・竹・梅の“梅”で充分とのご指示通り、松花弁当(1,200円也)は名古屋では、いか程なりや。(内容と鮮度・味2,500円也?)
 この日終日、雨に降られるも気分はルンルンである。
 1)高富城跡、2)妙見ヶ浦、3)白鶴の浜、4)大江天主堂、5)ロザリオ館 とまわり、緒方所長の言葉通り6)崎津天主堂とひなびた小屋の展示資料館はかえって感ずるものあり、7)天草コレジヨ館は御存知、1582〜1590年、キリシタン大名の使節としてヨーロッパへ航海した4人の少年達の『天正少年遣欧使節団』の模様をパネルとビデオで見せてくれる。
 あの時代、少年達にとってどれ程の刺激・感激であったろう。
はるかに海を渡ってきた南蛮ロマン。
 今、時代は移り、新たなロマンの創造が求められている。あ〜我も第2の青春修行中にして思うところ大なり。
 “湯”について
 天草下島で3〜4ヶ所の温泉看板を目にしたが、上島“道の駅”に併設された“さざなみの湯”とした。
 入館料町外者で400円也
 入湯直後、露天風呂で激しい雨にあう。
 湯表面より2〜3pも降った雨の勢いでボツボツと湧きあがるごとくの水柱が出来る、しかし身体にも冷たく本浴場に戻る。
 “リラックス浴”なるジェット気泡の吹き出る浴槽は腰とフクラハギの他に“金の袋”をもて遊ぶ気泡あり。
 初めての経験なり。
 当初の計画は明朝早く、天草松島から八代(不知火)海を越えて八代市へと思っていたが、天草の地にもう半日長居をすることにした。
 本日の走行距離175q 累計2,281q
追記-1 “天草四郎メモリアルホール”について
 メモリアルホールなる故か、天草郡大矢野町は良く決断したものだ。
 映像ホール(天草四郎立体映像館)での“わが心の天草四郎”は細川藩(幕府側=攻める方)のある若侍の目を通して“天草・島原の戦い”は何のための戦いかを訴えたもので、ここは理解出来るが、瞑想空間である。レーザー光線がつくるオブジェ・光・音楽で、そこまで見てきた、タイムトンネルの“時の旅”を静かに思い起こし、くつろぎ心も体もリラックスして下さいと、身体を包み込む大きなマットが置いてあることでした。
 その他“ジオラマ”“南蛮船の復元”等入場料600円は納得プライス。が観光バスの一団はサァーと通り過ぎていった。20分、私達は1時間強であった。
NO.332                                           平成15年 4月12日 記

“自由と平等”当り前と戦いとることについて
 〜第2の疲労感、12日目です〜

 半日延期した理由に“メモリアルホール、天草四郎”を訪れることでした。
 前日紹介の緒方館長は『天草・島原の乱』の3大原因として @キリシタンへの激しい弾圧に耐えかねて A領主(松倉氏、寺沢氏)の重税・苛政。 B小西行長(キリシタン大名、関ヶ原の戦いで西側につき敗れる)等の残党(浪人)一揆、と言っていたが、最大は@とAであると言い切った。
 関ヶ原の戦いは1600年、それを前後して戦国時代の終焉と新たなる武家社会へと移行する。その移行期後半(徳川家光時代)に“天草四郎の戦い”は大航海時代に始まる東西文化の交流が『自由と平等』を求める心を生み出したといえる。
『自由と平等の戦い
 青く澄み切った空があった。
 透きとおった藍色の海があった。
 美しい自然があった。
 しかし、人々の自由は奪われ、平等はなかった』
 という一文を私はメモして持ち帰った。
 この地で、この館で愛する人のことを想い、神秘なる海に向かって鐘をつく、夫婦の愛は… 恋人は結ばれるのか… そして新しい友情が深まる、メモリアルホールとなるのでしょうか?
 見学後すぐ女房は早々とみやげもの店で地元の方と交流、その一人がかって愛知県の東海市に住んでいたということで、持参のオカキと地元のミカンの交換をしていた。手を振って見送っていただいた。
 ここで朝食のこと。
 コンビニのインスタント、味噌汁とオニギリ、サンドイッチ、コーヒーも良いが、10日もすぎるとアキがくる。
 今朝も漁村のこと、どこかで早朝より一膳飯はないかと車を走らす。
 コンビニより安いという看板の“弁当店”に入る。朝から“アジの天ぷら”と“サバの塩焼き”そして手作りの味噌汁と肥後米の飯である。 あ〜あ 幸せ。
 天草、松島港より八代港までフェリー50分で渡る予定であったが、待ち時間1時間強あるので、松橋I.Cより九州道を南下する。
 充分睡眠はとったつもりなのだが、眠気が襲う宮原S.Aでひと眠りする。
 本日“人吉市”を訪れ、その後“えびの市”から“霧島周辺”をと思っていたが、背中の中央に疲労感を覚える。
 これは注意信号である。
 予定変更、今年の1月オープンしたばかりの“道の駅・錦”とする。
 そこで、湯=風呂であるが、人吉温泉公衆浴場として紹介されているのは26ヶ所もある。
 この数には、私がお世話になった隣町“錦の温泉センター=錦町の福祉センター内”は数に入っていない、地図を見ると人吉市周辺の町、村には全て“立ち寄りの湯”のマークがついている。
 ということは、26ヶ所プラス8〜9ヶ所あるということだろう。
 錦町の泉質は並、泉温41.2度と表示されていたから、一部沸かし湯であろう。
 が、ジェット湯は流し湯であった。
 また、ここのジェット湯は前夜の湯とは異なり、普通のジェット湯“金の袋”への直撃砲はない。
 “食”のこと
 「今夜はどこにも行きたくもない。」と湯から1分で“道の駅・錦”に戻る。
 ここからが、ババ姫の良いところ、あと数10分あると言って、“物産館”に行く。
 本当に買い出し(?)物を購入に行くことには身体を惜しまない。
 持参の塩海苔でグイグイやりながら、本日の日記を書いていると、手造りラッキョウ・手作り煮物、そして“甘塩の小エビ”が届いた。
 今夜はもうこれで動かないと決めているから更にグイグイとすすむ。(日本酒)
 球磨川に抱かれたこの城下町は、一見おだやかにみえる。だが南に迫る薩摩の干渉を受けながら、700年間独立を保ってきた小天地には独特の気風と文化が育ったという。
 それを探るには蔵めぐりが良いと紹介されていた。
 そのひとつを“人吉城跡”に登り、人吉市を眼下に一望したあと、“武家屋敷”近くの“峰の露酒造”を訪ねる。
 今まで、口にしたこともない、720mlで2,500〜3,000円という“古酒焼酎”を購入し、今(カー(佳)喜喜クン)のベットの下に収納したので、多分これで旅の間中は口にすることはないであろう。
 グイグイと飲みつつ書いていたら、疲れは覚えない。(マヒさせてくれたのだろう)
 今夜は早々と眠ることとする。
 その前に本日の走行距離150q 累計2,431q
 洗濯に行ったババ姫様より今夜は早く床につくことになるのであろうか?
 アーメン、ナムアミダブツ、そしてヤオヨロズの神々さまおやすみなさい。
(追記)
 今年1月にオープンしたばかりの“道の駅・錦”のトイレには“ステッキホルダー”なるステッキを用足し中ホールドしてくれる装置がつけられていた。小さな改良が進んでいる。
NO.333                                           平成15年 4月13日 記

霧島の霊峰とその恵みの湧水に出会って
 〜群馬県から単車で銀婚式の記念ツアーに〜

 今、4月12日午後7時20分
 前日(12日)の分は書き終えて、一度バックに原稿用紙をしまい込み、再び取り出した。
 これは“追記”でなく“前記”ということになるのだろうか?
 明日はこの地の県会議員選挙日である。4枚のポスターがあった。
温泉センター前に出ると働きざかりの男性がゾクゾクと集まってきていた。
 そして、日没直前(私が4月12日分書いている時)「ありがとうございます。地元の皆様と共に…」と声を枯らした女性の絶叫が風に乗って聞こえてくる。そしてマイクを通し30分程、最後の“決起集会”との音量のあがった響きが届いてくる。「エイ、エイ、オー」今、午後7時45分集会所を出た選挙カーはかなりのスピードで連呼して町内を走り廻っているようだ。かすれ声は更に哀調をおび「あと一歩、あと一歩です。」と…
 あのカスレ声はいつか、どこかで聞いたことがあるなぁ〜と思いながらペンを取っている。
 これで時代が変わるとは思わないが「まぁーいいか、みなそれぞれ一生懸命なんだもの。」
 再び反対の方角から、かの声が風に乗って届けられた。8時まであと5分である。
 あの声の主はどのように生理現象を越えているのであろうか?
 4月13日は全国の県知事、政令都市の長と県会議員の地方選前半の投票日である。
 さて、本日の朝である。人吉I.Cから九州道に乗り、長い長い加久藤トンネルを越えて、えびのJCTでまず南東方面、九州道をそのまゝ走り、栗野I.Cのすぐ近く鹿児島県栗野町の“丸池湧水”、再び高速道にもどり、えびのJCTから、今度は宮崎自動車道に入り、宮崎県小林市の“出の山湧水”である。
 両湧水とも霧島山からの恵みである。
 丸池湧水は1日20万立方m、出の山湧水は数千匹の蛍が乱舞する夏の夜の幻舞が見られるという。
 “出の山”ではなぜか知らぬが水族館好きの女房殿“淡水魚展示館”へサッサと入場する。
 毎秒1トン、日量144万トンの湧水は山の中の養魚場である。(宮崎県の淡水魚養魚研究センターでもある)
 ハッキリ申し上げて、口にふくんだ時の香りと舌味は熊本県の“白川水源”“菊池水源”“池山水湧”の方が上である。
 その後、登ることになる霧島山は多くの観光客の跡始末で大変なのだろう。
 と言っても、愛知県の唯一の名水100選“木曽川中流域(各務原・犬山周辺か?)”とは比べものにはならない。(ここちが上である)
とはいうものの、その木曽川の水は人口100万以上の大都市の中で、1か2位の美味しい水道水である。
 神話の世界“てんそん天孫こうりん降臨の地”は熊本県阿蘇山外輪に続く、高千穂町なのか、宮崎県霧島山の高千穂の峰なのかを探るなどというヤボなことはこの際どうでも良い。
 中腹のミヤマツツジは5月末〜6月上旬とのこと、しかし麓の霧島神社周辺の道路は実に手入れされたサツキ(?)ツツジ(?)がピンク・赤と咲き始めていた。いや今盛りの所もある。
 えびの高原から眺める“からくにだけ韓国岳(標高1,700m)”、高千穂河原から眺める“高千穂峠(標高1,574m)は文句なく神々しかった。
“霧島神宮”は老杉の中に本殿、拝殿、勅使殿と連なる朱塗りの社殿がじつに美しい。
 美しいといえば新旧様々な火山地帯である霧島山をめぐる火口湖は目にした“御池”を見るだけでも、さぞかしと想像が出来た。(登れば更にだろう、湖めぐりのコースあり)
 湯は“霧島高原国民休養地”の中にある温泉施設『シンフォニースパ』である。
 浴場は流い場10人程度であるが、露天風呂もあり、61.5度の泉温の湯は循環湯ではあるが(一部流し湯)、満足である。
 この湯に辿り着くまでに、○○の湯、△△の温泉と数百人も収容可能な巨大ビル群の中を通り抜けてきただけに、かっての納税者としては少々お返しをいただいた気分と、強者のオドシに打ち勝ったような気持にさせてくれた。
 また、その湯で群馬県から単車で2日間がかりで走って来たという、昨年会社を退職した方に出会った。50代前半だろう。
 2日あとに、3日しか休暇の取れぬ奥様を大分空港に迎えに行くという。
 今年が銀婚式といっていた。
 この休養地の広大な敷地にテントなら100張の他オートキャンプ場も、バーベキューも、その他多目的に活用可能な芝生の一角に、小さなテントが張られて、今夜はここで一泊という。
 奥様はキャンピングカーをと言ったが、乗れる間はオートバイと決めたという。
 九州3日間は奥様をバックシートに乗せ旅をして、3日後は長崎空港まで送ると言う。
 娘は早く就職活動をせよと言うが、その娘もあと1年で短大を卒業する、今でなくては出来ぬことをやって、心置きなく、次は就職活動をすると言っていた。
 赤ら顔のいいおもて面の人であった。

 本日の走行距離178q 累計2,608q
NO.334                                           平成15年 4月14日 記

“何とも言えない”やるせない知覧の地
   〜今は昔、新婚旅行のメッカ 
              指宿の砂むし場〜

 なぜか昨夜から気持ちが動いている。何かを期待してウキウキという訳ではない。
 かって、2〜3度仕事の関係(視察で鹿児島空港に降り、翌日名古屋に帰るという日程)で来たことはあるというものの、遠目に桜島の噴煙とさつま焼酎を買っていったぐらいしか記憶にない。

 今朝は天孫降臨の地“高千穂の峰・霧島”を南下知覧へと向かう。
 薩摩半島に入り指宿スカイラインの途中、展望台で春霞の錦江湾(鹿児島湾)を眺めていると、知覧の隣町川辺町の“まがんぶつ磨崖仏”に行きたいという、予定していた“名水100選『清水の湧水』”の近くであったので道順を変更する。

 その磨崖仏群は、川辺町の“清水岩屋公園”と隣接しており、その公園はまた素晴らしかった。
 拾いものの立ち寄りであり、1qも離れていないところに目当ての“清水の湧水”もあった。
 ちょっと寄り道“わくわく川辺”なるパンフレットを手にしたが、その通りである。

 ところで、お目当ての薩摩半島の知覧、指宿に入る前に一言。
 指宿は明後日訪れる予定の宮崎県日南海岸と同様にハワイに似た南国ムードでデビュー。椰子やフェニックスの似合う海岸のホテルには、新婚カップルを満載したバスが続々とつめかけたという話を聞いている。
 やがて新婚旅行がグアム・ハワイとなり指宿は動揺することになる。
 その凋落を救ったのは九州一といわれる豊かな温泉である。
 私も“砂むし温泉”を初めて体験させてもらったが、最近の旅行者は南国ムードやいくら温泉ブームとはいえ、必ずしもそれだけでは喜ばない。
 事実、大きなホテルの数軒に灯りがなかった。
 むしろ薩摩の中の薩摩(なんで、こんな表現をしたのだろう?)という“知覧”が浮上してきた。

 では、その知覧について、
@ まず、町全体が整備され、清掃され、客を迎い入れるという雰囲気が感じられる。
 町役場に立ち寄る、用意されているかのごとく、気持ち良い対応の職員がアレもコレもと資料・パンフレットを取り出す。“薩摩の小京都”〜古い町並みに心やすらぐ町〜そして、〜平和の尊さを語りつぐ町〜とある。
 資料やパンフレットの中から一部をいくら抜き書きしても、武家屋敷が町全体と母ヶ岳を借景とした庭園の美しさは語れないし、伝わらない少々手を入れる自宅の庭の小松や貧相なイヌマキに比べて、このイヌマキの並木と電線のない通り、“枯れ山水の庭”はみごとというほかはない。
 260余年の歳月を経て歴史の息吹を伝える武家屋敷庭園をあとに、今から58年前『とこしえに〜御霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ りりしい姿を永久に伝えた心をこめて ああ、南海の果てに消えた勇士よ』と鎮魂の碑の建つ平和会館。
 沖縄特攻で散華された1,036柱の隊員の遺品・遺書を前に「あ〜、いたたまらないなぁ。」と口にすると、すれちがった方が「その一言ですネ。」と言い交わした。

 言葉では、文字では“世界恒久平和を願い”といえるが、この世界の現実は…
 英霊に深々と頭を垂れる。

 その後“開聞山麓自然公園”“長崎鼻”を訪れるが、先程受けた思いから逃れることが出来ない。
 やっと、指宿市営むし温泉の砂にまぶされた時に、ホッと一息ついた。

 この砂むし温泉、最高時は2,700人とか(最大干潮時に海岸線も使用してのこととか?)
 今、平日で500人〜800人と責任者が言っていた。
 12〜3分で額から汗が流れた、その後湯に入るも既に体内がポカポカ、2分と湯に入っておれなかった。
 900円也は、普通なら湯の分400円で、砂むし分が500円という内容だろう。
 満足・満足である。

 陽も沈み暗くなった南薩摩路を北上、本日の宿“喜入道の駅”についたのは、10時前であった。
 本日の走行距離178q 累計2,608q

NO.335                                           平成15年 4月15日 記

ユッタリ、ドッシリ、礼儀の良い薩摩のイメージ
 〜島津77万石、800年の歴史を感ずる〜

 昨夜、“道の駅喜入”は休館日でレストランも休み、500m走って今回の旅でしばしば黄色に赤文字の目立つ看板ファミリーレストラン“JOYFULL”に入る。
 私の知識に間違いがなければ九州の地は“ロイヤルホスト”というファミリーレストランがあり、これが日本で、この手のチェーン展開をした最初の店舗(会社)である。
 それから30数年、今あらゆる小売業、飲食業のチェーンはデフレ経済下、厳しい業績である。
 この“JOYFULL”は中部圏では、“ガスト”という店名でチェーン展開をして店舗数を増加している形態と同じである。24時間営業で、翌16日の朝食もお世話になったが、コンビニより良い。
 価格も同程度、異業態間の競争が激しいことを改めて感じた。

 ところで本日の行程は鹿児島市内の見学である。
 その前に“道の駅喜入”について、海岸線に面した眺めの良い場所にあり、錦江湾を一望である。『温泉保養館』の大浴場は人気と聞いた。広い広い多目的の芝生敷のグランドがあり、サッカー場3面分はあろう。
 それより広大なのが、道の駅の対岸にある“日本石油基地”である。大型タンクが8×8=64本と思うが…
 どうりで、昨日ガソリンを注油しようと思ったら、“ENEOS”の看板ばかりであったのが納得出来た。

 南鹿児島から西鹿児島へと鹿児島加世田線県道20号を走ると約4〜5q谷山緑地(公園1・2・3?)と表示された長い長い緑地が続く、しかも良く手入れされている。早朝よりゲートボールの方々もいる。
 この第一印象で鹿児島はナカナカの市であると感じたが、その後訪ねた所と、明治維新を成し遂げた人物達のイメージと重なって、ユッタリ・ドッシリした都市であると感じた。
 それに加えると、訪問施設での受付係や案内係の態度・身のこなしである。
 かってのデパートガールのごとくでもあったが、公共施設としては今まで出会ったことのない行き届いた対応である。
 これも江戸時代以前から続く島津藩の伝統(教育)のなせる業なのであろうか?
 この伝統・気風は今後ますます評価されることだろう。

 ところで、その訪ねた施設とは @“黎明館”明治100年を記念し、鶴丸城に建設された歴史資料センターは有史以前の鹿児島から、近・現代までを手際よくまとめられている。
 20年前に(定礎には昭和56年8月)78億円で建設され、7年前に18億を費やして全面改装されたとのこと。
A 西南戦争最後の激戦地、又その後の近代明治が建設されてゆくことになる西郷の最後の地でもある標高107m、桜島ときんこうわん錦江湾を見る絶好展望台は“城山”である。

B 鹿児島市維新ふるさと館”
 この館のある鍛治町は西郷隆盛・大久保利通・東郷平八郎・山本権兵衛らの誕生地で、記念碑が建ち並んでいる。中には“西郷隆盛君”と『君』の字のつく碑もある。
 展示はジオラマや模型を多用し、円形劇場では西郷・大久保・勝海舟・坂本竜馬の等身大のロボットと大映像で国際危機を乗り切った英傑たちの活躍が描き出される。

C 仙巌園(磯庭園)
 鹿児島の文化を語り、77万石の大大名の別邸である。敷地5万坪・錦江湾と桜島を借景とした雄大な庭園。19代藩主島津光久が1660年頃、造ったものである。
 園内には28代藩主斉彬(進取精神旺盛な殿)が我が国で初めてガス灯をともした獅子乗灯籠などがある。
 1,500円也の御殿コース(もう一つ別なコースは1,000円也)は“御殿”を案内してもらえる。女房を従え、女官よろしく着物姿の案内嬢により20分間“殿”になったつもりで各部屋をまわり、最後にお抹茶をいただき、修行僧にもどった。

D 隣接の“尚古集成館”へ、我が国最初の工業地帯で、反射炉跡や溶鉱炉跡もある(鶴嶺神社横)
 この館には800年に及ぶ島津藩の歴史を物語る武具・書画・道具類が展示されている。
 私がもうチョットで購入しそうになったのは1つ20,000円也の薩摩切子の銚子であった。

 その後、フェリーで桜島に13分の船となるのだが、その前に昼食は鹿児島黒牛のステーキと黒豚を“華蓮”で食す。『此処に寄りて粋を知る“黒”を食して贅を知る』とあったが、申し分なかった。

 湯は国民宿舎レインボー桜島“桜島マグマ温泉”である。含鉄分の赤茶色で泉温61.5度は錦江湾を6艘の船がひんぱんに往来する眺めとあいまってすこぶる良。
 首から上が赤銅色に日焼けした顔が湯の茶とマッチして、大変聞き取り難い鹿児島弁で話を聞く。
 明日の桜島一周の計画が完了した。

 本日の走行距離57q 累計2,853q
NO.336                                           平成15年 4月16日 記

“アイサツは心の扉を開く”
 〜朝から夜まで、チョットのアイサツが
               友をつくった1日〜

 正解には昨夜から交流している2人のこと。
 1人は青森から徒歩で既に1年近く旅をしている48才の方と、もう1人タイをかわきりにカンボジャ・ベトナム、そして韓国から日本に入って自転車で旅をしている23才の神奈川県出身の青年。
 48才氏・IT関係のシステム・エンジニアを20年間していたが、リストラで退職、帰る先のない旅をしている。
 1〜2才の時に両親を失い、施設で育ったという。位牌と数珠を持って四国88ヶ所を5回遍路したといっていたから1回、50日で250日は四国にいたのだろうか?
 時々アルバイトをして資金稼ぎをしているという。製材所が後かたづけの仕事が良くあるので採用されることが多く、時には1ヶ月近く滞在したこともあるという。

 23才の小早川青年は大学を中退した。このまま就職するのもと考え旅に出たという。
 私が時には両親に連絡しているかと尋ねると、インターネットの装置のある所で送っているという痩せた聖徳太子に似た髭をはやした無口な青年である。
 昨夜、女房が朝飯を作ってあげると約束したようで、今回の旅で初めて炊飯器を取り出し名水100選“白川水源”の所で購入の“白水米”を食す。
 インスタントの味噌汁と、青年持参の缶詰と、ふりかけで朝陽をいっぱいあびて、芝生の上で4人の朝食であった。

 又、今駐車(道の駅桜島)している隣には“道の駅霧島”で一緒だった多治見からの夫妻が犬連れで居られ、ひさしぶりの朝からカラッとしたお天気で、ベットの整理に続いて布団・毛布を金網にズラッと掛けて干し始めた。

 先程の2人が出発すると言って挨拶に来たので、先に見送ることとなった。
 48才氏には私の住所を渡し、いつでも“百姓学校”を訪ねてと伝えた。
 23才青年は記念写真を送ると約束した。(以上4月15日夜から4月16日朝9時までのこと)


 本日(4月16日午前9時以降のこと)のいいことは曽於郡大崎町の道の駅“くにの松原おおさき”から始めます。
 当初は日南海岸の南“といみさき都井岬”まで予定していたが朝の出発の遅れと後述する“宇宙空間観測所・内之浦”に立ち寄ったりして、道の駅ガイドブックで探した飛び込みである。
 外国語(純な鹿児島弁99%理解出来ぬ)を露天風呂で聞き会話がはずむ。
 「青森・富山・鹿児島弁が3大日本外国語である。」と地元の方が言う。「そして、これが俺等の標準語である」とも。

 併設されているレストランでゆったりと夕食をとり車に戻ると、数台はなれたところに猫がうずくまっているので声を掛ける。
すると、「その猫、アンドリュースというんだよ、呼んでみな近づいてくるから」と女性の声、振り返ると数人の男女が家庭用コンロで本格的な鍋料理をしている。
 ではそこに集まっていた方々を紹介しよう。(既にその時2杯の生ビール、2杯の焼酎ロックと少々の日本酒を飲んでいたので正確さはいささか危ぶまれる)

@ まず隣の熊本県から愛甲五男、美津子夫妻(五男さん昭和17年で私と同年齢)、2人で東北・北海道を車旅した経験をもつキャンピングカーの旅。
A 福岡県から仕事でやって来ている夫妻(50代後半)、昨年まで葬儀店に勤務していたが、次々と若い人が入社してくる、ロートルはリストラになる。
 友人が祭壇の清掃の仕事(白木を漂白する)をしているのを見て始めたという。
 私が技術修得に時間が必要だったでしょうと質問すると「そんなのなにもない。」との答え、「子供達もあと1年で20才になり心配の種は全て終り」と言う。
 旦那さんの名前は“きよなり清成”さんと言っていたが姓であるかもしれない。
 各自持参の焼酎を中心に飲んでいたが、私が“上善如水”の飲みかけの一升瓶の日本酒と“2年ものの手作り梅酒”を出すと、美味しい、美味しいとグイグイやっていたのは奥様の方である。
 会社の名前を“(有)コウレー”とした高令のコウレイであるが、コウレーと伸ばしたのは少しでも長生きの願いを込めてと笑って語ってくれた。

B 大阪からの昭和16年生まれの方はこの場(道の駅)で私同様参加したようである。
2、3のグループに分かれて声高に話しているので、この方のことは記録にない。

C さて、これらの方々を迎え入れている地元の方は曽於郡志布志町(隣町)の“純代さん”で、ジュンちゃんと呼ばれていた。
もう一人、ジュンちゃんの友達で、有明町(大崎町の隣町)からは“春子”さんである。
 途中から理髪店に行っていた純代さんの旦那“ケンちゃん”が、なんとバリッと背広姿で現れた。床屋の匂いがプーンとした。
聞きもらしたが、今日はなにかの会があったと言っていた。
 このケンちゃんを純ちゃん志布志町にキチンと家を持っているのだが、車での生活が好きで、ほとんど車の中という。
 私が会話の始め「近いというけど、どのようにして来たの」と尋ねると「ニホンタクシー。」という。「近くなのにタクシーなのですか?」というと、両膝を叩き「二本タクシー」と答える。まわりのみんな、な〜る程。

 又、会話の途中で純ちゃん「アイサツは心の扉を開く。」と言う。「あなたが猫に声を掛けているのをみて、悪人でないと感じたから声を掛けたのよ」と仲間に誘ってくれたのでした。
 元々、愛甲夫妻とどこかで知り合い、今回熊本から鹿児島へゆくので、この地で落ち合う計画となり、この道の駅ということになったようだ。

 ところで、この道の駅“くにの松原おおさき”は車旅好きの方々によると九州1であるという。
 2日前の“喜入の道の駅”もここと同様の施設をもっているようだが、当日休館日で体験することは出来なかった。
 いや体験しても、こんな楽しく会話の出来る方々と出会えなかったであろう。
 夜の内に互いの住所と携帯電話のナンバーを交換したから連絡が入るかもしれない。

 翌朝も陽が昇ると同時にそれぞれ起き出し、朝のアイサツである。互いのキャンピングカーの中を見せ合って、使用方法のアイディアの交換でもあった。
 純ちゃんが今、私が書いている「この原稿送ってよ」というから多分送ることになろう。

 最後にもう一回、ここはお薦めの道の駅である。
 “湯処”のあすぱる大崎“松韻の湯”は朝風呂も午前6時〜8時半、日帰り客は10時〜23時となっているが、宿泊客同様に6時からオッケーである。(料金300円也)
 わが女房殿も朝風呂中である。(私執筆中)

 というぐあいに朝から夜まで出会いの紹介で、もう原稿用紙8枚になってしまった。
 本日、廻った順に簡単にとはこれ又いかない内容の訪問地なのである。
@“桜島ドライブマップ”で昨夜、国民宿舎レインボー桜島のレストランの店長に教えてもらった通りに“湯之平展望所”“溶岩流展望所”“溶岩で埋没の鳥居”と見て回り、すでに気温が20度を超えている。

 桜島とお別れして大隅半島の先端(日本本土の最南端)佐多岬をめざして約100q佐多街道を南下する。
A「遠かったでしょう。」と佐多岬の駐車場と岬への入場管理をしているオバさんに声を掛けられる。「まだ15分歩いてもらいますよ。」とも…
 しかし、素晴らしかった。いつの間にか文学少女となった女房殿「青い空、透き通った海のアオ、穏やかな波間を白波を立ててゆく船、あ〜もう何にもいらない」と「本当かよ」とついつい口に出そうになるのをやっとの思いで押さえた。

Bその街道を快走中、ツキのある時はツクものである、数軒やり過ごしたり、休館日の海水浴シーズンには大賑わいのレストランの後に、仕出し料理も経営している“磯料理 味の大砲”に入店(肝属郡根占町、辺田、薩英戦争時の砲台跡とある・TEL09942-4-4136)
900円也の刺身定食 満足。

Dこんな施設内に入所可能とは思っていなかった内之浦の“鹿児島宇宙空間観測所”にも、閉門25分前にすべり込めて、直径40mの大パラボラアンテナを見上げる。

 本日の走行距離238q 累計3,091q

<追記> 
 道の駅“くにの松原おおさき”の夜の宴会、大阪からの男性。古オートバイの回収業であった。別れ際(4月17日午前9時)小型の荷台に3台のどこかで拾ってきたようなオートバイが縛りつけられていた。
 大阪までそのつど運んでいる訳ではないだろうから、時々どこかで処分するのであろう。次は北海道に行くと言っていたので、車旅の趣味と仕事を両立させての旅である。
NO.337                                           平成15年 4月17日 記

似顔絵師井上龍一氏と出会う
   〜自殺の名所くにの松原で
          パターゴルフを体験〜

 今、4月17日夜9時40分である。やっと4月14〜16日の3日分の原稿の再読を終えたところである。(それでも読み手は判読出来ないだろうが…)
 何も好んで、大変がって書かなければ良いのだろうにと思うが「これが修行である。」と言ってしまっている手前、もうひと頑張りしているところである。
 というのも、今日も観光地を紹介するだけではないのである。

 今朝、私が4月16日分の追加分を執筆中、朝風呂を終えた女房殿、“道の駅の広大な敷地内を散歩していたところ、声を掛けられて若づくりの似顔絵を描いてもらったと言って帰ってきたところから、事は始まりました。
 目の前のコンビニ店にも立ち寄らず、車を移動すると、芝生の上にドッカリ座って居られました。

 名前は“井上龍一さん”と言われます。
 従者ではないのでしょうが、“佐多岬”出身の40代前半から30代後半の方とご一緒です。彼の方はコンピューター関係の仕事をしていたが、数年前にやめたと言っていた。
 私の顔は描き易いといって、会話をしながら4〜5分で描きあげた。
 その後、“くにの松原の海岸は?”と尋ねると「よーし、連れていってやる。」といい、従者の小型ワゴンに先導されて松原に。

 そこは、国の所有地(国立公園内)であるが警察所からも正式に使用許可が出ているから大丈夫とのこと、海岸から50〜60mの松林の中に、地元の人から贈られたという廃車の寝床、破れブルーシートのテント、ドラム缶や中古のバーベキューセットなど、昨夜も、様々な人々の集まりの宴会があったことを充分感じさせられる様相である。

 秋田犬とハスキーのハーフの48sの大型犬がさかんに吠え・遊び相手とエサを求めている。4人も噛んだというのに、逃げ出した“龍”なる名の犬君、パトカーに乗せられて帰って来たと自慢げに話すのである。
 井上さんの杉板やベニヤ板に描いた書・絵が松林の中に配置されている。この松原を描き、残すために滞在ということで許可が出ているようである。

 又、この松林“自殺の名所”であるとも語った。「あの松の所で、女の人が首をくくった。」「あの松の下では自動車の排気ガス自殺。」と語り、松ボックリが自動車の屋根に夜落下した時はそれはそれは驚いたとも笑って語る。

 突然「奥様、ゴルフをしたことありますか?」との問い「ハー、らしきことは数回」と女房。「では、松林ゴルフクラブへご招待」という、200坪程の松林の中に9ホールのコースが設定されていた。
 女房はカメラ係で私が挑戦した。5年数ヶ月ぶりのゴルフである。
 といっても、砂地に、コケと松葉・松ボックリ、救いは直径18〜19pのカップである。
 ワンホール5で、45で回れば初体験者は優秀との弁に、後半は本当に真剣になって、計40で上がる。

 最後に「とにかく やることをやったら、道はひらける」と大書された書を撮影し、再び道の駅にもどり、そこでは4人一緒の記念写真を撮り、焼酎一升を手渡して別れる。
色々な人がいるものである。


 という状況で“道の駅くにの松原おおさき”を出発したのは陽も昇り、気温が20度を越えたであろう午前10時すぎである。
 志布志湾に添って志布志街道をグルッとまわり、鹿児島県から宮崎県と県境をまたぎ“都井岬”“ソテツの自生地最北限”“御崎神社”は絶崖を掘り抜いたところにある。6.1qの都井岬線の道路には点々と馬糞である。
 両側の丘の斜面には天然記念物の“野生馬”の岬馬繁殖地なのである。
 ハーレムを形成しているという馬社会は今が出産時、数頭の子馬を見かけた。
 ハーレムの主・種雄馬は14〜5才で死をむかえるというが、その屍は発見出来なかった。

 日南フェニックスロード(国道448号線)を北上、サツマイモを海水で洗い食べるという幸島を右手に見て、美しい海岸線・サーフィンビレッジの恋の浦の快走路を窓いっぱいに開放して日南市へ。
 “サンメッセ”“サボテンガーデン”“おび飫肥城を中心に歴史館5ヶ所”の内1ヶ所しか時間的に余裕なく、“サンメッセ”を選ぶ、他の2ヶ所は体験していないが、この選定は余りグッドでなかった。

 続いて湯=風呂の選定もまちがいをした。“クアハウス日南”を選ぶも、この17日間で一番悪い(といっても、前日が楽しすぎたか?)。近くに“別名美人の湯『北郷』”あるいは“かんぽの宿日南”があるので、私と同様の計画のある方のために一筆したためた。
 食事は油津駅前の「司」で海鮮料理で“日向灘”の鮮魚で満足。

 宮崎県に入る前、鹿児島県で資料館めぐりをしている時も、ここ日南=飫肥城は隣の都城市と同様西側からの島津藩、北側からの細川藩の大藩の攻めに対して、どのようにして独立を可能にしたのだろうかと思い続けている。
 明日、残念ながら朝一番移動してしまうと“飫肥=日南の小京都”はご縁なしということになるのだろうか?

 その後トイレに午後10時半すぎにゆくと、小型トラックで地元の夫妻がジュースを購入にきた、「今、家で体操していたらノドが乾いたので」と、パジャマ姿である。
 そこでこの地は4月18日訪問予定の“綾の照葉樹林”にも負けない銘木・大木の産地であって、大阪城築城には大木を“油津港”から送り出したものだといい、飫肥の殿様もここだけは死守したいといっていた場所であると教えられ、疑問の一部が氷解した。

 本日の走行距離160q 累計3,259q
NO.338                                           平成15年 4月18日 記

3日前の夕食の請求書が電話で届く
  〜綾の照葉樹林大吊橋は
        期待にこたえてくれた〜

 昨夜の夫婦の話、夜が明けると共に“道の駅・酒谷”の様子が判った。道の駅のシンボルとして、目通し直径80pの飫肥杉の塔が立っている。『やっちみろかい酒谷』のまだ新しい籏も朝風になびいている。
 朝6時半に1台の車が野菜を運んできた。午前7時をすぎると次々と15人程の農家の主婦と思われる方々が荷台に何かを積んできては下ろし、値付作業を始めた。
 開店8時半の30分前には既にお客様である。

 近くに“坂元の田棚”があるとのポスターを見つけ、10分程で到着、南設楽郡鳳来町、大代の田棚と異なり、1枚1枚が大きい、かって牛車で作業が出来、今ではコンバインも楽々という広さであるが、果たして全てを使用しているのかは疑問符のつく田の状態であった。
 ただ1ヶ所10数台分の駐車場が整備されていた。

 日南フェニックスロードにもどり“青島”へ
 私は2度目、目新しくもなく駐車場への呼び込みの姿に人気落ちの観光地と映った。
 車にもどり、3日ぶりに留守電にセットすると、2件入っていた。
 「4月15日、レインボー桜島レストランの夕食代金が未払いです。」との伝言である。全ての支払いは女房の役目と決めていたが、その日コインランドリーを使用していたので先に出てしまった、私はそこの店長に翌日の行程を親切に教わり、そのまま帰ってしまったのである。
 もう1件はそのことを自宅に電話したので息子からのものであった。(その日の内に、JAの振込口座であったので、JA宮崎中央農協高岡支店より振り込む 4,620円也)
 レインボー桜島食い逃げ事件などと会話して、本日の大目当“綾の照葉大吊橋”へと向かう。

 九州山地国定公園照葉樹林地帯内の綾川渓谷に世界一の歩道吊橋が架橋されている。
 長さ250m、幅1.2m 高さ142mである。
 142m下の川の流れが見下ろせる網目の鉄板が3ヶ所ある。
 まあ、ひとこと“ゾッ”である。
 この橋の更に上流が“名水100選 綾川湧水群”との地図上のマークがあるので、車を走らすが、それらしきものなし、狭い山道で方向転換、途中キャンプ場と看板があり、又こんな山奥に神社があるのかと書かれた“川中神社”の紹介板を見ていたので、その地点から川方向に下る、ほとんど利用・活用されていないと思われる朽ちた建物が数棟残っているだけである。
 ただ“川中神社”の方向を示す標示はあるので小さな吊橋を渡り、山に登ること約1q、確かにこんな所にと思われる場所に神社があった。
 かっては盛大であったであろう社務所には奉納記録がビッシリであった。
 が肝心かなめの“名水100選”を示すものは何ひとつなし、神社の狭い境内の蛇口から清水をいただき下山。

 その後綾町の中心街に入る。往路は“大吊橋”のことばかりで街の様子が目に入らなかったが、どこかに“名水の碑”のひとつもと探しつつユックリと進むと、次々とこの町の別の顔が目に飛び込んでくる。
 綾町役場に隣接して“綾手づくりほんものセンター”“綾町観光案内所”がある。その交差点の一角にコンコンと組み立った岩の間から流れている水がある。

 次から次へとひっきりなしにポリタンク、大型ペットボトルを何本も車に積んできてはその水を運んでゆく。
 「“名水100選の記念碑”はどこかにありますか。」と尋ねると、「町中が名水である。」との返事、役場に行き尋ねるも「そのような碑はありません。」という。
 ただし、この水、役場の裏手で地下より汲み上げているという。
 “手づくりほんものセンター”も大賑わいである。清潔感があり、活気があり、住民がなにかを創り出そうとしてることを感じさせる町である。
 今回の旅中、もう一回訪問しても良いと感じた町であった。

 本日の宿“日向市”に入るまでに立ち寄ってみたいと思っていた“佐土原町、歴史資料館『鶴松館』”“西都市、西都原風土記の丘”は通過して、しばしば渋滞状況になる国道10号線(日向街道)を北上、午後6時に“神武天皇”が船出をしたという日豊海岸“小倉ヶ浜”(いや伊勢ヶ浜か?)に到着。

 今年2月にオープンしたばかりの道の駅日向の日向温泉パーク“船出の湯”はなんと営業停止で閉館中であった。
 どうも“サルモネア菌”のようである。
 というもの、もう一軒の候補として“かんぽの宿の湯”櫛の湯“には当湯は保健所の調査により安全であるとのオスミツキがありますとの告知があったことから推測した。
 又、湯自身も塩分の少し強めの天然温泉湯でした。1人350円也。
 宿はかけ声が飛び交う威勢の良い“活きいき回転寿司”ですませ、道の駅日向でお休みとなる。

 本日の走行距離227q 累計3,486q
NO.339                                           平成15年 4月19日 記

初めて耳にしました
    “神のご加護・お慈悲・思し召し”
 〜“ババ姫様”が“ババ観音様”に見えた日〜

 何を置いても記録しておかなければならないことがある、ヒョットすると“ババ姫”が“ババ観音”に変化するのかもしれない。
 女房殿の口から「神のご加護とお慈悲・思し召しによります。」という言葉を耳にしたことでございます。
 人並みに神社・仏閣では手を合わせておられますし、神道の作法も手順通りです、が我家では一度もそのようなお姿とお言葉を聞いたことがありません。(彼女が東本願寺門徒の“南無阿弥陀仏”であることが神棚を祀る加藤家に本当のところは馴染めないのであったのかもしれません、30数年の経過後においても…)

 なにが、女房殿をそう言わせたのかは分かりませんが、その言葉を耳にするに至る訪問地は、道の駅“日向”から日向街道を北上、延岡市を通過して国道10号線から326号線へ北川町〜宇目町〜三重町に入りすぐ三国トンネルを越え、伏野宇目線の県道706号線を“奥畑川”に添って下り『名水100選、白山川の水』の碑を小さなチュウリップ畑の横に発見する頃だったと思います。

 その後も清川村の村道だろう道をクネクネと廻り“竹田湧水群名水100選”の中でも、最も湧水量の豊富な“河宇田湧水”にピタリと車を停めることが出来ました。
 竹田の湧水群には他に“泉水”“矢原”“尾戸牟礼”“長小野”と車で15分程でまわれるのですが、この河宇田の1ヶ所で充分満足でした。

 竹田市内に入り“愛染堂”荒城の月の“滝廉太郎の記念館(竹田在住の時の家)”とまわり、昼食を“御客屋敷“内の「お客や」で竹弁当(1,500円也)、お抹茶付をいただき「ご馳走さま」と言っているところに、「私たちの昼食です、よろしかったら」と“タケノコのタキ込み御飯”の上にサンショウ味噌が添えられていて、これ又、腹いっぱいなのに2人で一膳食べてしまった。

 このあとの800年余の歴史を秘める“岡城址”が素晴らしかった。
 標高300余、東西2.4kmに及び、この城址は“臥牛城”と呼ばれ、主要部分は山城である。
 この城址に立つと、滝廉太郎があの“荒城の月”を作曲したその心情の一端が分ろうというものである。
 二の丸城址にある廉太郎像に似せたポーズで一枚撮影したが、果たして如何な出来映えであろうか。
 ここは今回の旅中、推薦地のひとつである。

 女房の言う“神の思し召し”はまだ続く、良く情報を仕入れる(勉強している)“御客屋”のおかみ(?)さんの薦めで、隣り町“緒方町のチューリップ祭”に立ち寄る。
 百姓学校“花グループ・リーダー”の女房殿万々歳であろう。
その後が更に良し、出発前からどこからか仕入れていた、臼杵市郊外にある“臼杵石仏”に行きたいと申し出のあった地に行く。
多分女房殿のお声掛かりないと通過することになっていただろう。
 岩肌に刻みこまれた千年の祈りの国の重文は私にも語りかけてきた。
 なぜこれ程の石仏群がこの地にあり、だれが刻んだものか、まだ分かっていない。
 だが、平安時代から鎌倉時代にかけ、ここに大きな仏教集団があったことはまちがいないようだ。
 ここの石仏群にせよ、竹田市の岡城の高く積み上げられた石垣といい、町中の御客屋の借景となっている岸壁といい、“滝廉太郎トンネル”など、この当り周辺は△△岩(分からない)の地質がもたらした文化でもあろうかと思った。

 最後の締めは湯と夕食である。
 霧雨の中、石仏案内所を訪れ、どこか良いところはないかと尋ねる。
 “湯”風呂 臼杵市内のスーパー銭湯“ふれあいの湯”、周辺町、村に温泉がないためか、土曜日のこともあろう、大盛況である。(450円也)

 夕食が大ヒットである。
 午後6時を境に旧商店街のシャッターはバタバタ、キューキューと閉められてゆく、駐車場管理も110円也で、あとは翌日までフリーであるという、オーダーストップ9時の“うおんたな魚店”はソコソコの客入り。
 おかみさんが「1日10人限定のおすすめ魚コース1,980円也がまだある。」と言う。
 中ジョッキ、小鉢・唐揚げ・アラダキに・刺身の盛り合わせこれが中途半端な量でないのである。
 といいつつ、1時間半かけて、美味しかったので全てたいらげた。

 ああ、現世御利益の神の思し召しであったのであろうか。終日ハッピーであった。

 本日の走行距離211q 累計3,697q
 宿は佐賀半島、別府湾を眺む道の駅佐賀関

追記
 夕食時の隣席の地元の方、地理に詳しく、出発前のメチャ、クチャな計画をスッキリ、腹に落ちる計画に組み換えていただいた。「ああ、神の思し召しなり。」
NO.340                                           平成15年 4月20日 記

温泉郷にライフ・サイクルを見る
  〜青年期“黒川温泉”のあとは
         “小国温泉郷”か?〜

 旅も終盤になった。計画段階でも嫌気が差していたのだから、現地に入れば、更にイイカゲンサを感ずる計画である。
前夜、地元の方に教えられたことと、当日朝食時に閃いて修正したことは正解であった。
 結論的に書くならばいかのごとくである。

@“別府温泉”老年期に入った温泉観光地
A“湯布院温泉”壮年期も後半とみた。
B“黒川温泉”(瀬之本高原にある)は青年期の温泉地。
“小国温泉郷”は山頭火のお気に入りの温泉と歴史書にはあるが、私には小国町のイメージと重なってヤンチャ坊主の温泉と感じた。

 順を追って感じたところを書いていきます。
 まず“別府温泉”は“高崎山の猿”からである。1日前通過した宮崎県幸島の猿と同様に餌付けに成功した2,000余頭、3集団の山猿である。
 猿の社会にもボスやボス見習など、厳然たる順位があるとのこと・・・
 数がある程度になると分裂することなど、どこかの社会と同じである。
 が、番号で処理してきた西洋の猿研究と異なり、あだ名(人間の)をつけた日本の研究との差は、自然を征服すべき対象としてきた西洋と、同化することを理想とした日本の自然観の差の帰結することとなり猿学は世界1の日本となる。

 隣接の“マリーン・パレス”は寄らずに、出発前より切り抜き持参の地獄めぐり“血の池地獄”に訪れる。9ヶ所の地獄めぐり(2,000円也)の券の購入はおことわりし、地獄は“血の池”のみでサヨナラとする。
(これで別府温泉街は理解したとは言わぬが充分な気がした)
それよりも、毎冬実施される別府〜大分マラソンの海岸線を走っている時の方が、何度かテレビで見た場面に出会い感動することの方が多かった(ここで○○が△△を追い越したと)。

 日田往還(別府一の宮線)をグルリ・グルリと廻って別府の奥座敷“湯布院”へ(縄文期の昔から楽園の趣があったらしい)。
 それは『ゆふ』の名が神宮・由布・木綿・油布など豊かな農産物。ないしは加工品の名で表され、『院』という穀倉を表す文字をつけ加えたもとでもあるらしい。
 400年前、ここはキリシタンの楽園として、遠くヨーロッパまで知られていたという。

 今や湯布院は日本屈指の観光地、逆にあまりにもその名を知られ過ぎたとさえ思える。
 そこでヘソ曲がりの修行僧君、いや○○美術館、△△美術館と紹介される文化いっぱいの地に、“美術文化オンチ”も加わり、女房殿に「どういたしましょう。」と尋ねると、こちらもすぐにパスしますに同意の意思表示であります。
 全ての美術館はパス。“下ん湯”“金鱗湖”とまわり、時折激しく降る雨の中、人々の往来する中を傘をさして歩くのはやめました。
 人ひとり来ない。1,000余年の樹齢、我が国第2位の大杉のある“大杵社”の神殿に大声で“大祓”の詞をあげた時は心清々しいものがありました。

 “湯平温泉郷”を南下し、九州屋久島を除く17ヶ所の“名水100選”の第16番目、“男池湧水群”に到着。阿蘇黒岳から湧出する豊富な水量は更に心洗われるものでした。
 “くじゅう=久住連山”を南北に走る“やまなみハイウェー”は残念ながら霧の中を走ることになりました。視界30m、突然対向車のヘッドライトに驚きながら、大分県から熊本県に入り南小国町へと向かう。“小国温泉郷”です。
 『分け入っても 分け入っても 青い山』と種田山頭火の代表的な句は、宮城県の祖母山を詠んだ句といわれていますが、それに近いものを感じました。
 山頭火はこの小国温泉郷の“奴留湯”“山川温泉”“ハケの湯”(ハゲではありません)“岳の湯”などひなびた山の湯、ハケの湯の共同浴場など、蒸気の噴出する丘にある物置小屋のような建物の浴槽を好んだといわれています。
 旅の出発前に小国温泉にゆくなら“黒川温泉”を薦められており、当地に来ても訪れるべきと教えられていました。
 確かに、“やまなみハイウェーロード”を越えて、温泉郷の木々の緑の中に点在する宿のひとつに車を何度か停めようとしましたが、そのまま小国町まで下ってしまいました。
 多分この“黒川温泉”が今や青年期の温泉であり、それより下った小国温泉郷はヤンチャな今後どちらにでも成長しうる可能性のある温泉郷と感じました。

 私は“岳の湯温泉”の町営の湯“桜尾山荘”を選びました。町外者500円也(町内者300円也)といっても、入場券を管理する人はいません。入湯券入れの箱があるだけです。
 脱衣所のボックスは24個です。
 ただし、浴室は目通し70〜80pの杉の木組みです。
 日曜日の午後5時前後で子供を含めいっぱいです。

 なぜこの小国町を訪ねたのか?この小国町に来たのは、“木造建築群”の『小国ドーム』体育館、研究施設の『木魂館』等を見学するのが目的の第1でした。

 『木魂館』を訪れた時は年に2回 春・秋開催される“日本シリーズのモトクロス”の大会の最中であり、雨の中泥をはね上げて走る若者の姿にも出会うことが出来ました。
 この小国町の印象は、発展途場でアチコチに手を伸ばしているワガママ坊主の山の中の町という感じでした。
 どこにいても、元気な人と町はあるものだという印象と同時に、よーし、私もここからやるぞという気にさせられました。

 本日の走行距離179q 累計3,875q

追記−1
 この小国町の“道の駅小国”は大成功していることだろう。
グルッと周辺の地・施設を訪ねた後、最後に本日の宿に着いた。
道の駅設置後、この周辺はいっきに開発されたことが分かる。数々の大型商店が計画的に配置されている。既に営業は終えていたが、ここに来れば食べることも心配なかったと分かる。
 ただし、ひとつ“気負う”と失敗もあるということ。
 多分、日本一の木造建築等で名をなした町であるが、道の駅のトイレはいただけぬ。
 “道の駅グランプリ2000”受賞のガラス張り駅舎も夜目にも変っている、朝になってみれば評価は異なるかもしれないが、ライト・アップ の照明灯は壊れているし、コンクリートの地面は水たまりである。
 トイレとは決して思えない斬新なデザインかもしれないが、今夜のところは“バッド”である。天井のないトイレである。
 新しさを求めること、挑戦は良しとは思うが、生活のベースになる機能が不便なことはダメである。
 翌朝改めて眺める、打ちっ放しコンクリートのこのトイレ、違和感はないが、やはりいただけない。第一印象のせいであろうか?

追記−2
 前述の中に、“黒川温泉”と“小国温泉郷”を同一の範疇にしているかの表現がありますが、これはまちがいです。
今、青年期の“黒川温泉”は標高1,000mの“やまなみハイウェーロード”の霧中より数百m下った、緑の中に点在する温泉宿でございます。これは“別府や湯布院温泉”とハッキリ異なります。
そして、“小国温泉郷”は更に下って小国町の中にある。かっては(何年前?)賑わったであろう湯とも異なります。
 別府・湯布院温泉が知られすぎ、俗化されたのに対し、緑(自然)にも恵まれて素朴さがあり、心落ち着く湯ということになるでしょう。
NO.341                                           平成15年 4月21日 記

かって九州一の景勝地 耶馬渓に行く
 〜ギャルに人気の日田市豆田町との差は〜

 一枚も書き損じせず(といっても削除・加筆あり)原稿用紙400字づめ150枚が
 最後の一枚をもって終了となる。
 旅立った当初の頃は何を書いたのか、既にほとんど記憶にない…。
 24枚、27枚、36枚撮りのフィルムも、既に20本は越えていることなので、焼き付けし、見直せば少しは想い出せることだろうと気軽な思いである。

 本日の行程も充実していました。
 まず第1はかって九州一の名勝といえば、“耶馬渓”であった。日本を代表する景勝地『海内無双の山水』といわれた。これは渓谷と奇岩が織りなす風景が、文人達の理想とした南画に似ていたことからだろうと言われている。
 なぜこの地が“瀬ノ平高原”“久住高原”の後塵を拝することになったのだろうか?瀬ノ平高原には今売り出し中、青年期の勢いのある“黒川温泉”があり、久住高原は霧の中の“やまなみハイウェーロード”“久住高原フィールドパーク”ではあったが、それでも何かを感じさせさてくれた。もう一度、走ってみたい素晴らしい眺めの高原道路であろうと推測した。

 ところで“耶馬渓”とはどこの地の、何のことかと問う方もおられようが、こう書けば思い出す人も多かろう。
 『了海の朦朧たる老眼にも、紛れもなく、その槌に破られた小さな穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、歴々と映ったのである。』そうです。“青の洞門”は菊池寛の小説『恩讐の彼方に』によって有名になった。あの“青の洞門”の地である。

 といっても耶馬渓は広く山国町と耶馬渓町にまたがって“奥耶馬渓”“裏耶馬渓”“深耶馬渓”とあり、青の洞門と競秀峰、全国羅漢寺の総本山“羅漢寺”は本耶馬渓町にある。
 “競秀峰”では『大変危険です注意して渡って下さい』と案内板があり、今少し進むと『危険ですので、これ以上は禁止』とある。
 そうなると進んでみたくなるのが修行僧。高さ80m以上あるだろう岩の中間に幅30pほどの犬ばしりの道があり、鉄の鎖がある。その後岩と岩との間に道らしきものがあったのだが途切れる。2度同じ所をグルグルと廻ることになり、これはダメだと引き返し、再度“犬ばしり”を渡った(背と額から汗がドッと流れていた)。

 その“耶馬渓”“青の洞門”“競秀峰”の前に立ち寄った日田市のこと。
 かって江戸から下ってきた日田代官と“田金”を運用する商人の存在によって、長崎と肩を並べるほどの賑わいを競ったというのである。
 が、幕府の権威が地に落ちて以来、単なる田舎町となったのである。
 代官と共にやってきたという“鵜飼”も私の目にはとまらなかった。

 ところが、日田金を運用した広瀬家、草野家などが軒を連ねる豆田町界隈が人気急上昇となる。日本中から消えて行く江戸の匂いがこの豆田町には残っており、古風ではあるがどこかモダンな店並びがギャルたちを引き寄せているようだ。
 ただ石畳の町中まで車が入り込み、当日は市会議員候補者の車もまじえてやかましいことやかましいこと(3候補ハチアワセ)。

 私にとっては“薫長酒蔵資料館”
 今回の旅で既に720mlの焼酎10数本がカー喜喜くんのベットの下で眠っているのだが、更に4本加わった。
 又、九州の旅は白味噌で味気ない毎日であったが、いつもの赤味噌の味に近い(そう感じただけなのかもしれない)『3年ものの味噌と特製しょう油これ一本』は天皇献上の栄えある日田醤油の品を購入させていただいた。
 この150年の伝統あるお店にも雛人形の素晴らしいものが飾られていた。

 耶馬渓と豆田町の観光地としての差は“女性とギャル”がキーワードである。
 彼女らがそっぽをむくと落ち目となる。

 旅も終盤“宇佐八幡”にもと思っていたが、まぁ〜いいかと早々と湯にする。
 宿の道の駅“しんよしとみ”と“豊前おこしかけ”の中間に“豊前温泉・天狗の湯”特に語ることもない入浴料400円也。
 ただ、その後「近くで美味しい食事の店はないか?」と尋ねた相手が悪かった。「私どもの店も美味しいですよ。」との返事。前日オープンしたばかりの館内の食堂のパートの方に声を掛けてしまったのだ。
 が、親切に教えてくれた先は、鮮度の良い魚料理の店で満足であった。

 本日の走行距離168q 累計4,043q
 宿、道の駅“豊前おこしかけ”は『日本一思いやりのあるトイレ』が自慢と紹介されている。
 身障者・高齢者・子供向けまである。
 私にとっては久しぶりの保温便座にウォシュレットで快適なり。

追記 
“おこしかけ”の由来
 JR日豊線松江駅の東南方に細長い台地があり『おこしかけ』と呼ばれている。
 往古、神功皇后(じんこうこうごう)が豊前路巡行の折り、その地にあった石に腰を下ろして休息をとったので、『おこしかけ』の地名がついたといわれる。
 眼下に豊前海を一望できる風光明媚な場所である。

 私と同様の質問する方が多いらしくて、『おこしかけの由来』なる一枚の説明書が“豊前市教育委員会名で用意されていた。
NO.342                                           平成15年 4月22日 記

本日“よい夫婦の日制定10年目
  ”還暦と誕生パーティーを豪華に
 〜神のご加護・お慈悲・思し召しに
       更に“お導き”が加わって〜

 手帳に書いてあった。
(1)“よい夫婦の日制定10年目”(2)誕生日とこの数日前より女房殿“ババ姫”が“ババ観音”に本当に変身したかの発言あり。
 「神のご加護」だの「お慈悲」「思し召し」に、更に加わって「神のお導き」と宣うのではないか?
 本日はそのババ観音様の還暦の誕生日でもあるので、そのご意見には素直に従ってみようと考える修行僧である。

 既に予定を2日間もオーバーしているし、第3回目の疲労感も覚えている。が、当初より私の行きたかった“宇佐八幡神宮”と女房の希望する“熊野摩崖仏”が、国東半島の同一方向である。昨日走った道中津市方面へと向かう。

 宇佐八幡神宮については、どんな経緯でそうなったのかは全然記憶にないのだが、私が小学3〜4年の頃、父との会話中「それは嘘ハチマンだろう。」と私が言うと、なぜか父が笑いながら「そうか宇佐八幡はウソハチマンか。」と嬉しげに応じたことを覚えている。
 早世した母のいない子が一人前の口をきいたことに反応したのだろうか?50数年前のこと、今分かろうはずもない。

 この神宮は国東半島の西にある。八幡信仰(全国にある八幡宮の総本社)は6世紀後半に始まったというが、宇佐にはそれ以前から強大な勢力があったようだ。
 宇佐神宮の本殿は古墳の上に建てられ、社殿の下には巨大な石棺が埋まっているという。
 邪馬台国宇佐説は数ある邪馬台国論争の中で興味深い説である。

 次に訪れた“熊野摩崖仏”“真木大堂”“富貴寺”等の国東六郷満山仏教はこの宇佐八幡の影響を受けて栄えたのであろう。
 特に荒い階段を喘ぎながら上り(350mの距離、標高差100m)熊野摩崖仏を仰いだ時『四季ごとに かわる姿 摩崖仏』と小学校6年生の子が詠んだ句を目にした。素直な心で感じたことをそのまま句にしたなと汗を拭いながら感じたものでした。

 女房殿は数日前より足首が少々腫れ、関節も痛いと言って、足をひきずるように歩いているが、前日の競秀峰(約50分)と同様に、備え付けの杖に頼りながらも登り切った。
 神のご加護か、お導きか分からぬが、自分で言い出したことは実行するものである。
 臼杵の石仏同様、訪ねて良かった。
 引き返し“中津城”“福沢諭吉旧居”に行くパワーはもう残っていません。
 周防灘を時折眺めながら、“九州自動車道・小倉南I.C”で高速道に乗り、九州の地にサヨナラしました。

 高速道路地図と詳細な道路マップを中国版に切り換えて山口県美祢I.Cで降り、本日の宿
“道の駅・おふく”に到着、同敷地内“於福の湯”にまず飛び込みました。
 九州も北の方に上ると湯も温泉というよりは普通の湯との感じでしたが、ここも同様です。
(400円也)。
 レストランも午後8時まであるのは道の駅としては数少ない遅くまでの営業時間です。

 だが、本日は“よい夫婦の日”であり、“ババ観音様”の還暦の誕生日です。
 豪華にゆきましょうと、10分ほど車ではしりました。
 前回、どこかで紹介しましたが、今回の旅で24時間営業のデフレ対応型レストランの価値を知りました。
 今朝も“ジョイフル”にて朝食2人で和定食890円也、昼食は1,026円也です。
 そして豪華パーティーも、なんと同レストランと決定しました。
 制限なしの注文でしめて2,837円也でした。和風料理も数多くあり、改めて認識を変えました。

 本日の走行距離257Km 累計4,300Kmです。
NO.343                                           平成15年 4月24日 記

 総走行距離5,042Km, 無事終了しました。
 〜清掃から始まり、手紙、
  メールの返信に2〜3日かかりそうです〜

 昨日4月23日夜10時に23日間におよぶ“車旅2003九州”を終えた。
 本音を言えば最後の2〜3日は帰りたくなっていたが、計画した以上クリアーしないと気が済まない性分が出た。
といいつつ、22日に帰宅することも不可能ではなかったのに山口 県美祢市ICで降り“道の駅おふく・於福の湯”で一泊した。

 今回の旅の後半に入り女房・ババ姫がババ観音に変身するのかと驚いた『神のご加護だの、神の御慈悲・神の思し召し』などと口にするものであるから、還暦誕生日・いい夫婦の日を祝っての最後の一泊としたのである。

 本音のところは広島にかって香港で一緒に仕事をしていた知人がおり、電話すると23日なら空いているので、ぜひ立ち寄れと言うので、スピードダウンしたのであるが…。
 いやいや23日の当夜は実に意義深い豪華晩餐であったことは一昨日書きましたとうりです。

 23日の朝はひさしぶりの雨である。夜半から降り出したようである。
 雨女でもある女房殿、今回は“名水100選”の地を訪問した思し召しか、雨にたたられることが2〜3日であった。
 他は夜の内に降って、朝・昼はあがるという車旅にはうってつけの天候と気温であった。
 霧雨の中、駐車場に3台のキャンピングカーが前夜から駐車していたので、どこからかと見にゆくと北海道・所沢・栃木のナンバーである。
 栃木県の方は前夜、言葉を交わして、互いのEメールアドレスを教えあっていたが、北海道からの方は犬連れの夫婦、所沢は男性1人に中年の女性3人という構成であった。

 朝食はまたも“ジョイフル”である。これで4回連続ということになるが、朝食は味噌汁と玉子と海苔、シャケの焼き物と漬物という定番メニューは何度食べても腹のおさまりが良い。
 2時間少々で広島の「西広島空港」に到着。
 “サッカーサンフレッッチェ”の広報を担当している彼、昔と少しも変わりなく人当たりの良い笑顔で迎えてくれた。サッカー業界の素人では知り得ない情報も少々仕入れる。

 昼食をはさみ、3時間、又の再開を約して一路自宅へ。
 といっても、カーナビは所要時間7時間30分と表示。
 時折、強く吹き付ける雨の中国道から名神へ、途中2回休憩(下松SA、加古SA)。
 軽い夕食をすませて、午後10時に、夜目にも3週間前とは様子の違う、我が庭を眺めて「カー喜喜クン」をとめる。
 車から荷物を降ろすこともせず、まず一杯、続いて木酢液をタップリと加えた湯に入り、更に一杯、落ち着いたところで神棚に向かって帰宅報告をする。

 今回旅で少々意識したのは(1)神々の宿る九州(納経帳に8神社ある)、その他にもそれ
 ぞれの地の神社・仏閣と摩崖物(記憶にあるもので3ヶ所)
(2)名水100選・屋久島を除く九州は17ヶ所ある地は全て出会えたし、美味しくいただいた。
(3)今までの車旅ではなかったことで、訪れた地でタイミングが合えば旅行マップに紹介されている“味の名店”に入った。
紹介されているだけのことはあるお店ばかりであった。
(4)湯=温泉も意識はしたが、どうしても宿となる道の駅との関係を考えることに今回もなった。
(5)名勝地はほとんどカバーしたつもりであるし、思いつきで飛び込み発見した所も多い。
 今まで九州の地図といえばザーとの感覚であったが、それぞれの半島の位置付けも要所要所の岬には立ったので理解出来たつもりである。
 今後、テレビ、新聞でその名が登場するごとに、ファイル2冊(厚さ約20Cm)と今後出来上がってくる写真20本、そしてこの原稿を読み合わせれば記憶が蘇ってくることだろう。

 本日の走行距離742Km, 累計5,042Kmでした。

長い間“車旅2003九州”にお付き合いいただきありがとうございました。