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 COLUMN 1−D 1010
                                 平成20年4月4日 

   昨日までの座学から一転替わりまして

        春蒔き野菜を一気に終了


 4月1日より昨日まで新入社員研修会の座学に替わって、本日は百姓学校です。
 午後から雨の予報、午前中に済まさなければと早めに出発。

 昨晩秋に息子の友人が百姓学校に見学に来ました。 その彼がジャガイモの植え付け時期を記憶していて、本日参加してくれました。

 と言っても鍬を持ったことがないとのことでしたので、期待はしていなかったのですが、これまでに百姓学校に初めてこられた方の中では、高位レベルの働きをしてくれました。

            

 「万田酵素」を散水しました。 どのような結果になるか楽しみです。
 と言っても、散水、散布方法は7〜10日に一度となっていますが、計画では2週間に一度の百姓ときめていますので、期待ほどの結果が得られるかどうか心配です。

 なを、本日参加してくれたIさんは、次回も来られると言うので、畑の面積を増やそうと考えています。

 サトイモ、スクナかぼちゃ、夏野菜を計画しています。 スクナかぼちゃの種を頂いてきましたので、苗作りから始まります。
 



 COLUMN 1−D 1009
                                 平成20年4月3日 

   研修中ですので日記が更新されていません


 メールありがとうございます。 お休みしているわけではありません。

 関係している会社(一六社)の入社式後の研修に出席していますので、このコラムはお休みしています。

    

   先輩社員に「どうぞ」と言われ・・・            私飲めないのです


             

             先輩社員の態度はやはり違いますね


           

 以上の映像は4月1日、立食パーティーの時のものです。 翌日4月2日からは午前10時から午後の5時すぎまで、ギッシリと詰まった研修内容は4月3日までです。

 頭がヒートしているのでしょうか、座っているだけなのですが腹が減ります。
 少しばかりはWeb(インターネット)世界の単語の一部と、仕組みが理解できたような錯覚(?)を感じています。




 COLUMN 1−D 1008
                                 平成20年4月1日 

   各地で入社式が開催されたことでしょう

 〜私の関係している会社も新人が入社しました〜


 
   

 JR高蔵寺・北口に、会社の事務所があります。 その北口には公園があるのですが、普段はその存在をほとんど意識しませんでしたが、本日はなぜか目に飛び込んできました。

      このオブジェのように天に向かって伸びていってもらいたいものです。
 

新人4人の初々しさと少々緊張している表情に新鮮さを感じました。 
 
  

                   自己紹介も立派にできました。 
 

               皆さんで記念写真を撮りました。 





 COLUMN 1−D 1007
                                 平成20年4月1日 

    4月1日、春を探しに

         〜築水池周辺を散策する〜

 <新パソコンにて画面の導入にチャレンジ>


 


           

              ↓↑、「ミツバツツジ」

           


                    

                   ↑,↓ ヤシャブと築水池

          


      


        




 COLUMN 1−D 1006
                                 平成20年3月31日 

    新しいパソコンで再び入力中です

 悪戦苦闘の連続です。
  新しいものが良いとは限らないという見本です。


 7年前のパソコンが壊れた分けではありませんが、旅に出かけたとき持参するには、大型で重すぎましたので、軽量のものをと買い増ししました。

 富士通のFMの機種ですから、操作は同じ事だろうと考えていましたが、「VISTA]というソフトが装備されており苦労しています。

 指導していただいている方も「VISTAだからね〜」と微妙うな表現をされて、あまり評判が良くないといわれます。

 今さら返品も効かずになんとか使いこなそうと本日も取り組み中です。
 今日は写真の取り込みを試みるつもりですが、果たしてどうなりますやら・・・


                


 数週間前にも使った映像ですが、テスト掲載します。 たぶん、掲載されることでしょうが、新しい写真を取り込む、それを加工し、保存するという作業になりますと、どうなります事やら・・・

 本日はまず、昨日に続いて新パソコンで悪戦中という報告です。



 COLUMN 1−D 1005
                                 平成20年3月30日 

      回復しました,新しいパソコン


 と言いましても、これで掲載が可能かどうかは分かりません。

 私の目から見れば大、大先生たちが大変苦労されて、復活しました。

 さて、一応トライしてみます。


 COLUMN 1−D 1004
                                 平成20年3月27日 

 「中部大学 オープンカレッジ・開校式」の

  スピーチの原稿(後半)を掲載します。


 本日、中部大学より「当日の為に、事前の用意しておく資料がありますか」と電話がありました。

 ご覧のような内容ですので、必要ありませんと返事をしました。

 今から、遠山郷にゆきます。 今回は私が呼びかけた食事会(一杯飲む)ですので、2泊3日の予定です。 地元の方が10人は集まると言っていましたので、また盛り上がることでしょう。

 この欄をお読みの方で、遠山郷へ行ってみたいという方は、ご連絡ください。 
 大体、毎月の最終週の土日には遠山郷に行く予定です。

 では、後半の原稿を掲載します。 毎度のことながら、誤字脱字、変換間違いは修正していません。 どうせ、話す時には関係ないからとという、ズボラさがそのままです。


 
話を変えます。

 ・私は自分ことを「修行僧」と称し、年賀状に“修行僧“と書き始めて30数年が経過してお ります。
 ・そのように称し始めた動機は、私が33歳の頃にお寺生まれの上司に、“父の死に際の 話”をしたときです。

 ・私の母は5歳の時、父は16歳の時に他界しましたので、その上司は
 「加藤君の母親も父親も早く亡くなられたことによって、君はそれだけ早く修行の道に入 ったのだ」といい、

 ・「修行には“山の修行”と“里の修行”がある。
 “山の修行”は山深い山中に入り、滝に打たれ、時には飲まず食わずの座禅を組むとい う、肉体的にも精神的にも命がけの修行である。

 ・また、“里の修行”とは、日々の生活の中にある、あるいは仕事の中にある。
 得した、損した、騙した、騙された、ケンカした、仲直りしたと喜怒哀楽の世界で、これまた 一筋縄ではいかないものだ。

 ・君は今“里の修行”の場にいる。 逃げ出したいことも、面白くないこともあろうが、それ が修行の一環として甘んじて受けなければ、君の成長はない。
 ・君の父親の死に際は並みのものではない。 その血を引いているのだから修行しだい では悔いない人生を送れることだろう」と。
       
      比叡山 千日回峰 大阿闍梨 藤波 源信  
 ・
・修行とは自ら歩いてきた道ということ。
 私=(藤波さんのこと)、という人間を形成する為の千日回峰のカリキュラムがある。
 
人それぞれに、自分に与えられた仕事によるカリキュラムで人間形成すればよい。
僧侶だけが修行しているわけではない。
 
毎日生活していることが修行なのだ
 子育てのお母さんも修行中、 残業をしているお父さんも修業中。
        

 同感できる言葉です。


 ・「修行僧」と称して、どのような年賀状を書いたか。
 ・昭和63(1988)年の年賀状は香港から投函されています。
 
 香港で仕事を始めて1年半が経過したころです。
  今の香港の空港はディスカバリー・ベイにありますが、当時は「カイタック空港」で30階の私が住んでいた高層マンションから
  飛行機の発着を見ながら、12月に入った香港の対岸の高層マンションを「望郷の思いを持って」眺めながら書きました。
 
   「過ぎ行く年に感謝 &あけましておめでとうございます
  百万ドルの夜景の香港
  ひとつ、一つの窓から それぞれの想いが語られて 輝いている   修行僧 
                   

 ・平成11(1999)年 離職し、体力回復のウオーキングをしていました。

 「時折、車で走り抜ける道を リュックを背負って横切りました。
 ススキ、セイダカアワダチソウの根元に 空瓶、空き缶、もう一歩横道にそれると
   冷蔵庫、洗濯機、マットレス・・・
 蝉しぐれの木蔭、紅葉の山道 薄雪化粧の自然歩道を歩いています。  修行僧



 ・平成19(2007)年 ピースボードの旅にでかけた年の年賀状

  地に鍬入れ7年目 昨秋の野菜は最高 種自身がもつ生命力と自然の力の仲介役が
    少しは出来たかなと思っています。

   2年間の座学を一時中断(中部大学の聴講生のこと)、目・耳・肌そして手足で直接     感じたくなり
        2月より3ヶ月間船旅に出発する予定です。   修行僧



  ここからは、後半の話に入ります。

 ・3年後に完成予定の自分史のタイトルを、「人生は修行なり」と考えています。
 
 「自分史」というと、時代の変遷・社会の移り変わりに、自分の過去の出来事や体験を重 ねて書かれていることが多いように思いますが、過去だけを書くことを良しとしていません。
 「これからの“自分史”」と仮タイトルとつけて書き始めています。

 と言うならば、
・今という時代をどのように捉え、対処しようとしているのか。 を語らなければと思います。

 ・離職して10年間、学者でも、評論家でも、経済・金融の専門家でもない私は思い切った ことを言ってきました。
 ・そんなこともあって、ここ10数年「狼爺」と言われてきました。

 ・何を言ったか、「物的MORE&MOREの終焉は来る、近い」と思っていましたので、資 本主義の崩壊と言いました。
 ・更に、我欲=エゴの終焉、自分だけ良し姿勢の終焉、強者の勝ちの時代の終焉とも言いました。

・そればかりでなく、国家の崩壊、大企業の倒産、公務員・先生の賃金カット、
・年金は減額かハイパーインフレで使用価値の半減、いやそれ以下になる。

・小泉・竹中内閣には強烈に批判的でした。
 が、今は、彼らもお役目を持って登場した、「必要・必然」の登場だったと思っています。
 「預金から投資へ」と多くの高齢者の預貯金を失わせた、「悪代官役」を見事に演じたと  思っています。

 ・一番ヒンシュクをかったのは、食糧難時代が来るから「ゴルフ場を芋畑にせよ」と言った ことです。
 特にゴルフに恨みはありません。ゴルフ暦は昭和43年から、ハンディーは最高13でした  ので、ゴルフの楽しさは知っています。

 離職してからはしていません。ゴルフ・クラブは錆びて使い物になりません。
 「ゴルフ場を芋畑にして、最初の2~3年間は高齢者が食べる。 老人優遇ではありません。
 ゴルフ場は農薬が一杯。 残留農薬の強い間は、先に高齢者から食べて、減農薬になっ たら子供・若者です。

 ・昨年後半から、世の中の情勢が変化し、「狼爺」とは言われなくなりましたが、

 今度は「両目を瞑って、両耳塞ぎ、鼻で聞いてやる」と言いますので、それはなんだと言 ったら→
 “臭う話(におう話)は嗅ぎ分ける”と言うことだそうです。
 
 そんな言われ方をしている私ですが、この時代をどのように感じ、考えているか?

 ・1月20日、今回のスピーチのお話を伺ってから、まだ2が月半です。 
 この間の世界そして日本の政治、経済、金融の変化は表面的には穏やかに見えますが、実体は凄いものと認識します。

 「100年に一度などとの枕詞で語られています」が私は、100年どころではなく、中世から 近代へと変遷した「神が支配していた社会体制(実体は神の名を借りた人どもですが)の 秩序が崩壊し、
 人間復興、自然科学の発達、それに伴って一層科学思想、技術が発達 して「宗教革命 」「産業革命」そして近代資本主義へと激変した流れ=500年の変化が一 気に起こって いると考えています。

 ・このような激動期に生を受け、日々を過ごす自分はなんと素晴らしい修行の場が与えら れたのではないかと感謝しています。

・今は間違いなく「金融恐慌」から、「経済恐慌」へ、そして誰もが避けて通れない「生活恐 慌」へと突入したと考えています。
 まだ、事柄の変化は序の口と思っています。

 ・今、この時に至っても10人に1人か2人しか、この時代が大変革期と感じていないので はないでしょうか。
 予測も出来ないことが、降りかかりつつあると気付いていません。

 家の女房なんか典型的です。「なにを馬鹿なことを言っている」と鼻にもかけません。

 ・が、私は本気で、早ければ夏、遅くとも年後半になると、大半の方がもう決して過去に  は戻らない、「昭和は遠く成りにけり」と認識するようになることだろうと考えています。

 ・「物的MORE&MORE時代の考え方ややり方で会社経営をしているところは、余程、 価値観を変更しないかぎり、株価は決して元に戻らないことを知ることに成るとことでしょう。

 ・今は「乱世」です。

 私の知識と認識する日本の歴史から見れば、「応仁の乱」後の時代だと言えるのではな いでしょうか。
 京都の町は完全に破壊され、その後は戦国時代、下克上の時代です。

 もっと身近に語れば、昭和20年敗戦後の日本の状況と言えるのではないでしょうか。

 ・戦後と違い「焼け野原」にもなっていません、住む家は建っています。工場は動いてい ます。
 しかし、人々の心はどうでしょう。 親の子殺し、子の親殺し。 見境のない「金目当ての」 人殺し。
 虎の子と思った年金の不正受給や年金記録の改ざん。 
 精神は病んでいるどころか、ボロボロと言えるのではないでしょうか。

・信頼とか、安心とか、満足とかではなく、不信、不安、不満が先に来ています。 

 ・私たちの年齢のものは、残りの年金の心配をしていますが、息子や娘達は「もういいが 加減にしてくれ」
 「逃げ切りは許さない」と言い始めています。
 「ゴルフ場の芋を食う程度では、許してもらえそうもない」と感じ始めています。

  ・なぜ、こうなったのだろうと多くの方が、今、猛烈に勉強を始めました。
   結果、マスコミ情報に簡単に乗せられなくなりつつあります。

 ・やっとここきて、旧来のリーダー達も今までのようには事柄が進まなくなったと感じてい ます。
  中には、自信喪失して、逃げ腰に成り始めています。

  ・政権交代、あるいは入れ替わった新しいリーダーたちは、なぞこのようになったかの 実態を公開し始めることでしょう。

  ・そのことにより、大衆は更に実態を知り、時間と共に諦めと、腹に治め始めることになることでしょう。

 
 ・私は全く悲観していません。

 ・その状況を当たり前と受け入れた人々が現われ、行動を起しています。
 この暗く・冷たいトンネルの中にあって 試行錯誤の行動を起した方の中に曙を見出して います。

 ・早ければ5年、遅くとも7〜8年経過すれば、このトンネルの向こう側に光が見えてくる のではと考えます。
 ただし、その出口の光景は私たちが今まで見たことも、体験もしない光景ではないかと 思います。


 その光景に地獄に通じる閻魔様は見えません。この混乱と混沌の中から新しいものが生 まれてくると考えています。
 ・その光景は「暖かく・明るい世界」の映像が感じられます。

 ・トンネルの中で“曙”を感じられ、「温かく・明るい世界」に向かっておられる方々は、MORE&MOREとは異なった考え方、生き方、価値観を持って行動しておられる方々です。

 ・これらの多くの方々は、今から10年前、1997~8年、銀行が破綻に向かっていた頃、貸し 剥がし、貸し渋りで 倒産、破産、首切り、リストラ、転職によって大変な苦労をされた方々です。

・マスコミが「勝ち組だ」の「負け組み」など報道する環境の中、試行錯誤され、
 立ち上がった方々の姿を目にするように成りました。
 そして、その姿を見て「温かく・明るい世界が来る」と確信が持てるように成りました、悲 観しなくなりました。

・決して彼らは物質的には豊かとはいえませんが、ユッタリと楽しげに、和気あいあいと笑 い声の絶えない光景を見たからです。
 その人たちは自分達の生活に自信と誇りを持っておられます。

 ・その方々の生活ぶりに触れよう、学ぼうと訪れる方々がふえてきました。
 従来の物見遊山の「観光」ではなく、その生き方、行動に光を観るためにやってきます。

 ・第1次産業は共生=共に生きようと、「里山がよみがえり」、「魚場が復活し」、「農地が 再生」され始めました。
 ・第1次産業ばかりではありません、NHK・ラジオ放送平日の午前6時43分からの「     ビジネス展望」を聞いていると、 
 各地で様々な業種での成功事例が紹介されます。

 ・その方々に共通することは、現実に足を置き、原点に戻って、足元を観察し、試行錯誤 の行動を取り、
 そこから一つずつ小さな成功を積み上げられてこられました。
 その姿は、決して、逃げず、自分達の足元・現場に全てがあると考え日々活動されてお られました。

 ・世の中には信じ難いビックリ現象があります。今後の可能性が次々に紹介されていま  す。
 私も既に「ヒノキ葉エキス」による、ストレス低減、あるいは解消を実感しています。
 二度とストレスから来る「頚椎症」の再々発はないと思っています。

 ・今年からは「万田酵素パワー」の実験を始めました。栄養満点で、大きく成長し、しかもた くさん収穫できると言う「いいこと尽くめ」です。
  6月にはジャガイモの収穫を予定しています、ご一緒に如何ですか。


・これから、心がけ、やってみたいことを話します
 
 ・今日の社会の状況を見るに、満足のゆくどころか、どうしてこうなってしまったのだろう かと悔いの思いのほうが大きいです。
 しかも、このようなった責任の一端は、先を歩いてきた私たち世代の責任と言わなければ成りません。

 ・今、「自分史」の幼児期から今日までの書き物を整理し、読み直しています。
 「母の死」→「父の思い出」→小学校から中学→夜間高校生→大学時代そして社会人の その過程は、それら全てを修行道と称しています。

 その道は一つとして強制されたものではありません。 自らが引き寄せ、選び、歩んできたことは疑う余地はありません。
 
 「満ち足りた人生であったか」と問われれば、「素直に満足しています」とは答えられませ んし、納得のいかないことも多々ありますが、決して悔いはありません。

 ・が、40代以下の方々から見ると「団塊の世代」以上を「逃げ切り世代」と呼ぶのだそうです。
 この中には、「我々は苦労もしたし、今日の日本を築き上げた、報われて当然」とお考え の方も居られることでしょう。

 ・が、私は「逃げ切り世代」と言われると「忸怩」たる思いです。
 お返しになるかどうかは分かりませんが、もう一山、二山を越える修行のチャンスを与え られたと感謝しなければと思っています。

・「遺言」も書きました。「終末医療の意思表示表明書」には平成13(2001)年から、毎年、 新たに署名・捺印しております。
 最大の願いは「ありがとう、それでは皆さん、さようなら」とピンピンコロリと逝くことです。

 ・所詮、大したことはできず、邪魔になるのが関の山でしょうから、
 一番心がけていることは「健康保険を可能な限り使わないことです」
 健康管理にはかなりの気を使っています。


・今一つ実行してみたいことは、「ま〜、一杯飲め」とコップを差し出して、「ところで、なにが あった」のかと話を聞いてやれる場を作ることです。

 20年前は名古屋市・栄三丁目の錦通りの 大きく洒落たビルの一角のカウター・バーで した。
 10年前からは中央線・高蔵寺駅前、神領駅前の赤ちょうちん屋となり、
 今では、瑞浪の百姓学校の「囲炉裏端・ちゃぶ台」と自宅の芝生の庭となってしまいまし た。

 が、これから数年間は、道に迷った方、疲れた方、弱ったか方が多く出現すると思ってい ます。
 その時、酒好きの私に与えられた役割、出来そうなことは、一杯飲みながら彼らの話を 聞いてやれる場を持つことと考えています。
 出来ることなら、雨露が凌げる屋根ぐらいはと考えています。


 *      *       *      *        *        *
 話を 締めくくります 

・素直に、家から15分のところに中部大学があり、そこにご縁がもてたことを幸運と思って います。
 
・「世界の歴史」、「世界の国々のこと」「変遷してきた思想史」など、歴史から学び、
 そこから、次の新しい世界のあり方や秩序を考え、
 同時に、私自身の次の試行錯誤の一歩を踏み出す思考と行動のチャンスが与えられて います。

 ・こんな場面もありました。
 2008年秋期「世界史概論」の期末に近づいて講義の終盤で、「歴史の教訓から何を学ん だか?」との問いが、担当教授から発せられました。

 ・その問いかけに、7〜8人の聴講生はそれぞれの意見を述べたのですが、数々の体験 やバックボーンを持たれた方々の考え方や意見を聞かしていただき、その一つ一つに成 程と納得させられ、改めていろんな観点からの見解があるもことを教えられると同時に聴 講生のレベルの高さを感じました。

 ・また、一昨年からは一緒に学ぶ聴講生仲間と教授を囲んでの一席の場も出来ており、 更に一層充実した時間を持っています。

 ・天空には色々な星が輝いています。
 一等星もあれば、六等星もあります。動かない星もあれば、流れ星のような星もあります。

 それぞれの星にはそれぞれの役割があって生まれ、輝いています。
 それと同じように、人間にもそれぞれの役割と使命を持ってこの世に誕生してきました。

 ・一生その役割や使命の何たるかを探しあぐねて終わる修行人生もあれば、早々と使命、天命を感じ、輝き、多くの方に感動や喜びを与えておられるスポーツ選手や芸能分野の 大スターたちがいます。


・今という時は、多くの方が過去の成功や蓄えで安心して一生を終えると思っていたことが 崩れました。
 ゼロからのスタート台に立たされたような、大転換、大変革期の時代に位置していると考えます。

 ・ウロウロ、オロオロしているときではないと思います。 
 過去の価値ある体験や自信ある経験の内、生かせるものと、思い切り良く捨て去るもの とを区分する必要があると思っています。

 ・一方、ここまで努力したが成果が出なく、苦い失敗の連続と思っていた方にはとって、
 再び、新たな考え方、生き方、価値観をもって、次を創造するチャンスが巡ってきたと考 えます。

 ・「投げやりにならず」「諦めず」、いやそんな後ろ向き単語ではなく、「明るく、暖かく、前 向き」に歩を進めたいと考えています。

 ・私という星も、これまでも、これからも迷い、つまずき、悩み、苦しみ、鈍い輝きの星とし ての修行の一生でしょう。
 ・「人生は修行なり」「魂浄化の修行道なり」との精神で、良いと思うことをドンドンと素直 な気持ちで進めたいと考えております。


 ・そんな私に、早くも春本番となって早々と、1年が365日ではなく、375日と成りました。
  1時間お話をさせていただきました、ここに2百数十人の方が居られます。 

  掛け算すると240時間以上、24時間で割ると10日分です。 
   今年の私の修行日数が10日間増えて、375日となりました。
 
 自慢話に苦痛なことだったでしょう。 どうぞお許しください。

  長々とご静聴有難うございました。


  *      *        *         *       *         




 COLUMN 1−D 1003
                                 平成20年3月26日 

 「中部大学 オープンカレッジ・開校式」の

  スピーチの原稿がほぼ出来上がりました。(前半)


 なんと2人の方から、「中部大学 オープンカレッジ・開校式」に話す内容が出来上がったら、ここに掲載してとの要望を受けました。

 書き言葉と、話し言葉の違いがありますが、私は原稿が無いと、話がドンドンと横道に発展していってしまいますので(結婚式のスピーチで何度か経験している)、自己規制をする為に自分としては、筋道を立てた構成にしたつもりです。

 なにぶん、1時間分ですので、長いです。 数回に分けて掲載します。

 「中部大学 オープンカレッジ・開校式」スピーチ
                                平成21年4月7日

 1、今回スピーチの機会を与えていただいたことへの感謝の言葉。 今、ここに立っていることの経緯
 
 電話の呼び鈴が聞こえました。 しばらくして、階下から女房がいささかトゲのある声で、「中部大学から電話、声のきれいな若い方みたい」と。

  要件は、「次回出校されるのか何時ですか。 そのときに、エクステンション・センターに立ち寄っていただけませんか」

 ・1月20日に出向く→お話は4月7日、第15回のオープンカレッジ・開校式で話をしませんか。
  
 ・私は何事も(泣き、笑い、怒る)「人生は修行なり」との考え方です。
・「人生全てが修行であり、それらは全て必然・必要の出会い」との考えを持っております。
・良い機会と直ぐにお受けした。

 
 ・今現在「100年に一度と言われている世界的な大変革期」に出合った、
 これも必然・必要と肯定的、前向きに「修行の一貫」と受け入れています。

 そのほうが、預金の目減りや、年金は今後どうなるかと不安に駆られているよりは、
 気分を切り替えて次の行動に踏み出すことが可能と考えるからです。

 今回この話を頂いたことによって、“「自分史」を書いてみよう”ということに発展しました。

 過去のことに拘るのは好きでありませんので「これからの「自分史」」を付け加えて、3年後に発行と考えています。


・さて、本日のタイトルは「離職から7年目の出会い」です。中部大学・聴講生としての出会いを意味します。

  ・自惚れが強く、自慢話好きですからお聞き苦しいところは、お許しください。 

 話の構成は1、離職後11年間の歩み。
       2、今と言う時代をどのように感じ、考えているか。
       3、これからどうしたいか。



 2、では、中部大学と出会うまでの前・後、11年間の歩みを語らせていただきます
 
 @、平成10年(1998)、56歳で離職しました。 

 その年の早春、10年前に発症した頚椎症が再発し、約3ヶ月間入院。
  会社の責任者の立場にいましたので、帰る所もありませんでした。
 
・退院後の夏から、体力回復を期して、JRさわやかウオーキングに参加しました。
 
・翌年、平成11(1999)年、今度は大腸がんにて、再び50日間、入院。
 退院後は再び「さわやかウオーキング」と愛知、岐阜、長野の低山にも2年半登りました。
 
 ・なを、離職後に考えましたことは、これまでの人脈とは異なる新たな関係、人脈を形成したいと思いました。
  こちらからの連絡はしないと言うことで、年賀状のやり取りは従来どおりでした。

 
 A、平成11(1999)年、初秋、春日井市の「演劇ワークショップ」に参加、
 
・文化活動は住民が参加しなければと口にしていたからです。
   
・1999年度は「宮沢 賢治のたび」2000年度は「春の情景」2001年度は「私の青空」
   「劇団 ウリンコ」の方が指導者で来られていました。

・その関係で1年の間があって、2003年度、春日井児童合唱団のミュージカル
「ガランピーの森」に出演。

・仲間からもう一度演劇をしないかと誘いを受けましたが、「セリフが突如、どこかに飛んでしまいます」 迷惑をかけるのと、自分自身も怖くなって現在は続けていません。

 B 平成12(2000)年、岐阜県瑞浪市日吉「百姓学校」へ 
  
・瑞浪はかっての中仙道の宿場町だけあって、なかなかの人物が居られます。
 
  そのお一人で「自然循環農法」と呼ぶ農法の小倉校長の指導を受けて、今年で10年目になりました。
 畑も田圃もします。 牛を飼っていますので、減農薬・減化学肥料の有機栽培です。

 ・3年前より指導なしでも、自家消費することと、ご近所にお裾分けが出来るように成りました。

 ・その間、何を感じたか。学んだか?
 
 @種は自ら成長する力を内在している、人間はそのお手伝いをするだけである
 A何も見えない「微生物」の力を借りて、成長し、実を結んでいる。
 B百姓は辛いものと思われていますが、毎日なら3時間で十分です。これで充分に自家 消費分は生産できます。

 仲間は勤め人がほとんどで月1回、一泊2日を基本としましたは、これはムリです。

 仲間の内の誰かが1週間に1回、3時間は行く必要がありました。

 2週間放置しておきますと、気温の低い4月末までは何とか成りますが、気温が上昇する と草が伸びて限界です。

 →例えば、ネギなどは草に覆われて、溶けてしまいますし、他の野菜類も草に負けてしまいます。
  
   「雑草」と言わず、「草」と意識して発言していました。

 Cその理由は、捨てるもの、不要なものは何もないこと。草は「自然循環多毛農業」では牛の飼料となります。

 青々と伸びている草は、本当に日本の自然の素晴らしさです。
 エジプト、トルコ等、砂漠地域を訪問しましたが、そこで放牧されている牛、ヤギ、羊等の 厳しさを強く感じました。

 D土は全てを受け入れて(腐らせて)、そして再び命を育でくれます。

  百姓学校には登校拒否の子供たちも住み込んでいたこともありましたが、
 仕事に疲れた、あるいはリストラにあった大人も来られました。

 土に接していますと、いつの間にか、人間も再生し、元気になります。

 E雨も良し、風も良し、日照りも良し、霜降りも・雪も良し。全てがあって繋がっている。

  種芋を植えた後に日照り続きです。→1週間後には植え直しもしました。
  種を蒔いた後に、大雨です。→種はながれてしまいます。思いがけないところから芽を 出します。

 Fでも、教えてくれました。「額に汗すれば心配なし、心は配れ」

 G 畑がない、庭がないという方には、「プランター菜園を勧めています」

 そして、今年もジャガイモを植えつけてきました。今月末はサトイモです。
 


 C 平成13(2001)年、現・新城市、(旧鳳来寺町)、鳳来寺周辺の「森作り」に参加。

・「黄柳野高校」登校拒否・問題児が全国から集まってゆく全寮制の高校があります。
 その高校建設にあたって、鳳来寺下の「黒岩家」所有の家・屋敷と山が全て寄付されて、
それを資産担保に全国から一口100万円で5億円が集まり、開校されました。

 寄付された山の針葉樹を伐採、間伐し、落葉樹に切り替えました、今も続いています。 

作業後に一杯飲むのが楽しみでしたが、毎回と言う訳にはいきません。
また、作業後に片道2時間はつらく、現在は休止中。

 D 平成13(2001)年、ベトナム・カンザーの森の森林活動に参加。 組織の立ち上げから参加しました。
   
 ベトナム・ホーチミン市の郊外にあるカンザー県に「日越青少年交流の森」でのマングローブ植林活動です。

   ホーチミン市農業・農村発展局、とカンザー県人民委員会との合意に基づき、
10年計画で50ヘクタールの植林をするという契約が出来ました。
   
 日本から参加の学生と同数のベトナム・ホンバン大学・日本語学科の学生が参加し、共同作業の3泊4日で植林します。
   
 平成17(2005)年から、JAICAに支援をうけることとなり、計画は数年早く完了し、2年前 からはその後の管理と補植を兼ねて活動が続けられています。

 私は5年経過したところで、創設期の役割は終わったと理事から身を引きましたが、
 若い学生しかも女性が多いことから、その後は女房が「オバサン役」として、参加してい  ます。

 今年は積み立て来た寄付金等を含めて、「記念碑」が建立される計画だそうです。


 E 平成13(2001)年、四国88箇所遍路の旅 通し打ちにて1250Kmを38日間で歩く。
  
  四国遍路は人気の観光ツアーです。
  1、全行程を半分に分けて2回で廻る。
  1、4つに区分して、徳島、高知、愛媛、香川と4回で廻る。
  2、毎週の土日の12回で回る。 などがあるようですが、私は「通し打ち」の1回で廻りました。 

  ・この計画を私が口にしますと、百姓学校の校長は即座に「途中で帰ってくるのが関の山」とハッキリ言いましたし、仲間も胸の内でそのように思っていたようでした。
  
・遍路中、毎日晩酌をしながら日記を書き、1週間ごとに自宅に送っていましたので、本当に歩いたと信用してもらいました。

  ・廻り終えて帰ってきたら、百姓学校の仲間が報告をせよということなりました。
  その報告内容を、仲間の一人がまとめて、百姓学校のレポートに掲載することとなりま した。   その内容を読ませていただきます。
 
 タイトルは「決めた。言った。やった」ということ
    サブタイトルが「アタマとカラダがひとつになった」ということ。
 
 『大喜さんは、四国八十八箇所霊場巡り(遍路)、総延長約1250Km。 
 これを38日間、一日平均32・9Km、最大45Kmのペースで踏破した。
 ・
 「何故歩こうとしたのか? 歩いてどうであったか?

 彼はそれに答えて長年勤務していた流通業界のこと、その出来事、当時の人生観、そし て病に得て辞職したこと、その際の思いがいかに痛切なものであったか。 その後の「W  E/100(ウイークエンド・百姓学校)」との出会い、地域文化活動との出会い、鳳来町 の植林や黄柳野高校「オールナイトウォーク」への参加など・・。

 彼は言う。こんな話をしても誰も理解してくれるとは思えなかった。 
 しかし、今回、彼はそれを自ら語った。
 だが、それで皆が「歩んできた道」を理解してもらえたとは考えていないだろう。
 
 その通りだ。分りっこないのだ。 が、分かろうとする人はいる。 
 そのことに意味があることに彼は気付いたのだ。 
 大喜氏は想う「そうだ、俺は言うべきなのだ」「語るべきだ」と。

・「歩いてみてどうだったのか」・・二つ目の疑問の答えは実にここにある。

 さて、大喜氏は「歩き終わって、特段の感慨などなかった」とも言っている。 
 この「感慨」こそ、凄い、と筆者は思う

 彼は歩き通そうと心に決め、皆に言い、そしてその通りに歩き抜いた。
 途中で実は様々なことがあり、挫けそうになったことも多々あったろう。
 宿泊を申しでた宿屋の女将に「あんたはまだここに来るべきではない、もっと先に行け」 といわれたそうな。

 その一言が勇気(意地?)となったか。  ともわれ彼はやり抜いた。
 「俺はやる、と決めて、やった。 だから当然のことだ」と大喜氏は言おうとしている。

 歩き通したことに感慨はない。 何も来なかったし、何も変わらなかった・・・それでいいん じゃないか。
 「解脱」などしなかった大喜氏こそが、この場合最高なのだから。


 横道に外れます。

・今はほとんど一部を除いて、国道を中心に歩いて88箇所の遍路をすることが可能です。
・が、私は意識して、旧遍路道を選びました。 

・中には、全く人の手が入っていない遍路道があります。 雨で遍路道が削られ、狭い道は大きく切り込まれており、
足をとられて挫きました。 一度、挫くとそれをかばうので、更に挫きます。

・足首がポンポンに腫れあがったこともありました。 そんなときに限って、靴擦れがおこります。最悪です。

・もう、今日は駄目か。1〜2日ここで滞在しようかと思ったこともありました。
 翌朝、行けるところまで歩こうと決め、1時間ほど歩いていますと、不思議と痛みが治まってくることもありました。

・宿はどうするのかと質問を良く受けました。

 宿坊、民宿、時には「かんぽの宿」、町ならば「ビジネス・ホテル」もあります。
 その日の午前中に、後どのくらい歩けるかを考えて、予約の電話を入れます。

・同行者は→ワンダーホゲル部出身の29歳の東京の青年、彼も酒好き、携帯電話を持っていた。

 
 F 平成14年から平成16年の3年間で5回、延べ80日間をキャンピングカーで日本一周をしました。


  ・現役時代、女房が「家庭のことは少しも考えてくれない」と口にこそ出しませんでしたが、思っていることは分っていました。
  ・「退職したら日本一周ぐらいにはつれてゆくから、文句は言うな」と先回りして答えていました。

  ・車の買え換え時期と成り、丁度良いタイミングとキャンピングカーを購入しました。
  ・キャンピングカーといっても、頭の大きく、炊事の場も充分な車とは違います。
  
・最初の旅は、前年に歩いた「四国88箇所遍路の道」を選びました。小豆島も含めて10日間でした。
  
・その年の夏は北海道の道東の14日間にも出掛けました。
  
・平成15(2003)年は春に九州を23日間、夏には再び北海道と東北の18日間。

 ・平成16(2004)年は、山陰から山陽を15日間でした。

 ・友人が贅沢で・優雅なものだなと言いましたが、
 実体は
 1坪の空間に女房と二人。女房は運転しません。
 日程計画とコースの選定、その日の食事場所、お風呂の設定、宿泊地は全て私の仕事。
   その間、一度も車以外では宿泊していません。当時、全国に700箇所の“道の駅”が 宿泊地。

 ・どんな旅でも同じでしょうが、大体4日目ぐらいに第1回の疲れがきます。
 そして7~10日目当たりに第2波、 第3波は2週間経過した頃からです。

・ 私にはこのキャンピングカーの旅も修行の一環でしたので、何事もガマン・ガマン。

 ・全てが修行と言い聞かせていますから、エピソードなどありませんが北海道の稚内に行 った時のことです。  

 7月と言ってもその日は雨が降っていました、女房の何かの一言に、遂に私が切れてし  まいました。
 確か海が前面に広がり、大きな駐車場と数軒の売店がありました。そこに置き去りにして おきました。

 2時間後に帰ってきましたら、両手に熱燗のワンカップをもって震えていました。
 半分ほど飲んでありました。

 
 G 平成17(2005)年に、ここで中部大学のオープン・カレッジの聴講生となりました。

 応募の動機から話します。
・バブル崩壊後、21世紀に入っても、一向に明るさは見えず、失われた10年と言われていました。

・「これからの世界はどのようになってゆくのだろうか?」、「歴史から教えてくれるのでは  ないか。」と考える毎日でした。
・ そのことに関心が及んだのには背景には、いつも心に引っかかっている事があったか  らです。

 ・それは 昭和51年、第1次オイルショックがひとまず収まった頃です。

 ある本との出会いがありました。
 →難波田 春夫先生の「危機の哲学」、「日本再建の哲学」です。
 
・そこには資本主義であろうが、社会主義であろうが、共産主義であろうが、結局、政治家も、役人も、権力者も、資本家も、経営者も、労働組合も労働者も、みんな求めているものは「物的なMORE&MORE」=“物の豊かさ”の追求でしかない。
 有限な資源は枯渇し、環境は破壊されて、世界が、地球が、社会が崩壊することとなる。

 よって、必ず{物的MORE&MOREの終焉}が来るという教示でした。

 ・強烈なインパクトで、この哲学はこれからの時代のことを言い当てていると考えました。

 ・が、仕事に油が乗りかけたころであり、日々の業務や目先の金、地位、を求める気持ちが勝り、
 思いや考えとは異なる方向の行動に走ってしまっているという毎日でした。

 ・矛盾した思いと実体に気付きながらも放置されたままでした。
 そのことの積み重ねがストレスとなり、「頚椎症」へと繋がっていったことは、間違いあり ません。
 
 ・離職後、遍路をしたり、百姓学校に入学したり、キャンピングカーで日本一周したり、
 ボランティア活動にも参加しました心が晴れませんでした。

 ・悶々とした日々の中から「歴史」を勉強しようと考え始めました。

 自宅に配布された折り込み広告、中部大学で、オープン・カレッジが開校されていること を知りました。
 同時に、今一つ、NHKの放送大学にも申し込みました。

 ・NHKの放送大学のほうはオーストラリアを除いて全ての大陸と大きな国の歴史を学び ましたが、
 2年間で止めてしまいました。 ラジオ、テレビの一方的な講義には飽き足らなくなったの です。

 ・一方、中部大学の講義では、世界の歴史、社会思想の変遷等を知りたいとは思ってい  ましたが何を選択したらよいか迷いました。
 と言うより折り込み広告からだけでは、分らなかったというのが本当のところです。

 当初は、当てが外れた講義も数講座ありました。
 学生の私語や受講態度にも腹が立ちました。 勉強しないなら寝ておるか、出て行けと 思いました。

 そこで聴講生仲間との意見交換や真面目な学生に直接聞いて選択し、今では選択ミス はほとんどなくなりましたが、
 今度は定員オーバーで抽選と言う厄介なものに引っかかっています。

 ・平成17(2005)年からの2年間の座学により「世界史」や「社会思想史」の勉強だけで は物足りなくなりました。
 少しばかり知識を得たことによって、実際に現地を見て、触れて、感じてみたくなりました。
 ・この年は「愛・地球博覧会」が開催され、ボランティア活動で参加しておりましたことも刺 激になっていました。

 ・前々から、何時かはと思っていました「ピースボート101日で世界一周の旅」に行きたいと思うようになり、
  平成18(2006)年の初夏から事前研修、勉強会に参加しました



 H 平成19(2007)年、ピースボートで“101日間、地球一周の旅へ”

 ここでは、何を選んでお話すればよいか、沢山ありすぎて困っています。

・必ず尋ねられることから、お答えしておきます。
 Q、費用はどのくらいですか?

 ・ピースボートは豪華客船ではありません。
 ・それでもピンからキリまであります。 食事は皆同じですが、異なるのは船室です。
  →スイートの1000万円から、4人部屋の一人148万円までです。
 
 ・次が、オプショナル・ツアーです。 101日間に約20箇所で停泊します。
  自前で港や市内を歩けば無料ですが、大体3〜多いと8箇所のツアーが企画されてい ます。
  平均的には20箇所で5〜60万ではないでしょうか。 

 ・オーバー・シーと言ってある港から飛行機で飛び立ち、観光し次の寄港地で乗船すると いうツアーもあり。
 ・私の場合はダーウィンの進化論の島「ガラバゴスの旅」
 「ガラバゴス」は皆さん、テレビ等で見られている通りと申し上げておきましょう。

 ・船上大学の「ユーゴスラビア、サラエボの旅」、1ヶ月間船上でバルカン半島のことを学  びました。
 それから、現地に行くのですから、様々に実感し、考えさせられました。

・タンザニアの旅では贅沢をしました。
 「タンザニア」では野生動物の見学に6本のコースがありました。

飛行機でキリマンジャロ・Mを眺めながらデコボコの原野の滑走路に降り立ったコースは金額だけのことはありました。
 
夜明け前から6〜8人乗りの気球に乗って、空からの観察、そして、原野に降り立って、
そこでワインをいたがきながらの朝食は忘れられません。
 
此のくらいを選ぶと、他のコースも含めて、100万円は下らなかったと思います。

・締めて幾らかといえば、学生の一番倹約スタイルで250万くらいでしょう。
 大人の4人部屋の方では、300〜350万というところ。
 一人部屋なら、最低でも500万円というところでしょう。

 ・私には特殊事情がありまして、アルコール代です。請求書が確か60何万円だったと記 憶します。

 ・帰国してからもリピートのお誘いがきます。
 気持ちが動いたのは「南極大陸」への旅でした。
 これは101日間参加しなくても良いのです。 アルゼンチンまで飛行機で行き、そこから 乗船します。

 ・このように南極に限らず、シュート・ツアーと言って、途中で乗り込み、途中で下船する 方法もあります。
 ・大きく分けて、世界一周101日間のコースが3本あると思います。

 ・もう一度、挑戦しても良いと思っています。 
 資金は枯渇しましたが、最後は百姓をすれば何とかなると思っています。

 ・船上からのインターネットについて
 ・私はインターネット、メールなどパソコンをいじり始めましたのは平成14(2002)年から  ですから、既に7年目に成ります。
  船上での生活が慣れてくると同時に、退屈にもなります。 その時、洋上からインターネ ット通信を試みました。
 
 ・ホームページ製作して空中送信は早々と諦めました。15分で500円。写真を挿入し送信 すれば数時間かかってしまい費用と時間が大変です。

  ・メールは何度かの失敗後、通じました。 ここにも参加されています平野さんや松永さ んから返信が来ました。
 平野さんからは中日ドラゴンズの野球経過を頂きましたので、船上の中日ドラゴンズ・ファ ンからは「加藤さん、結果はどうなっている」などと声を掛けられました。

 
  観光ばかりではありません。
 自分で言うのもなんですが、この旅に参加している方々の目的は色々でしたが、
 私はかなり勉強した組に入ると思います。

 パソコンにギッシリと講義録や講演記録が残っています。これは財産です。

 「101日の船旅を終えるに当たって」 (2007年5月28日)には、こんなことが書かれています。
  
A)人間は大きな責任を持つ、ちっぽけな存在。地球環境、地球温暖化について
 
B)掌中にある「輝ける宝石」=日本国憲法を知らなかった
   「日本の平和と発展は9条のおかげ」 
  
C)世界は多様性と多文化社会に向かっている。 様々な人々・文化を認め合う。
  
D)食の安全(遺伝子組み換え)と貧困問題(世界的な格差問題)
  
E)「貴女が隣人をころすとき!!」
 旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツゴビナ、サラエボ、モスタル)に学ぶ。
戦争のつくられ方
  

・参加者は述べ12〜300人、中途で下船する方、逆に乗船してくる方がいます。
男性は60%、女性は40%。 10代〜30代までの若者が50%、後は60歳前後50%。
 
 5)ピースボート船旅で感じたこと、聞いたこと、考えたこと、学んだこと。
  A)食べる・飲む    B)住むこと    C)着ること   D)健康管理 
 E)つき合い・企画参加
F)クルーたちとの関係 G)遊ぶ、ツアー  H)学ぶ

 I 平成20年からは飯田市と合併しました「南信州村・遠山郷」に関係しています。
  
 10年頃前に廃校になった「木沢小学校」の木造校舎が残っており、地元の有志の方たち で「木沢地区活性化推進協議会」という組織が作られて、活動しております。

 ・その地に昔から関心をもたれていた、藤原直哉さんと言う経済アナリストの方がおられ、現在も全国を回って活動をされておられますが、「遠山郷から日本を変える」と提唱され、 運動を始められました。

 ・16年前より藤原さん主催の「藤原学校」があり、そこの生徒でありましたので、
 私も何かお手伝いできればと、今年からは毎月1回は遠山郷に行く予定です。

 そのほかにも2〜3あります。
 イ)「波動の会」のこと
 ロ)礼拝のこと
 ハ)IT=エウブ世界のビジネス“一六社”のこと

 ・目に見えない世界、思いの世界、精神世界の話をすると、以前は麻原 彰晃といわれましたが、
 数年前より「MORE&MOREの世界」の行き詰まり、就職難、被雇用者問題からの反  発、あるいは地球環境の問題等から
 多くの方が、目に見えない世界への関心を向けられ始めました。

・ この話は止めたほうがよいか?(時間調整をすること)
  

・ 



 COLUMN 1−D 1002
                                 平成20年3月24日 

   西側・通学路の桜草は入学を待っている

  〜今週末は寒さぶり返すといっていますが・・・〜


      

      

       例年より少し早めに「サクラ草」が満開に近づきました。↑↓

       


       

   ↑ ほとんど登場することのない、東側。お隣の屋上に上る階段から

 かっては、写真の左にある「ゴールド・クレスト」が綺麗な生垣の役割をしていましたが、大きくなりすぎ、頭を抑えたところ、ご覧の姿になってしまいました。
 そこで、雪柳を移植してきました。 5年目でやっと生垣の役に立つように成りました。

      

              ↑ 我が家の屋敷内からの写真です。

              

          ↑通学路には「ハンギング・パンジー」もあります。

    

 ↑ ラッパ水仙咲き始めました           ↑松の根本ではヒヤシンスが・・

 見上げれば藤の花芽が大きくなり始めましたし、愛知県の県木「花の木」が赤い花をつけています。

 足元には紹介しきれない花々です。 どれかに焦点を合わすと、隣の花たちがヤキモチをやきますので、此のくらいにしておきます。




 COLUMN 1−D 1001
                                 平成20年3月23日 

   春の嵐で、一気にシデコブシの花が落下


 このコラムが1001回を迎えました。 区切りの良いところに似つかわしい話題がないものかと思いましたが、特段ありません。

 春の花嵐とは言いますが、正に昨日はその通りでして、庭の置物も吹き飛ばされて数個割れていました。

 真っ盛りであったシデコブシもほとんどの花びらは飛ばされています。
 落下した花びらも吹き飛ばされて、庭の隅に吹き寄せられています。

    
       ↑  朝7時半                   ↑午前 11時
     
         
  
 ↑ 午前11時、急に1・5坪畑の絹さやえんどう(右上の白いビニール)が伸びだした。

 例年のことですが、今年は世の中の動向が激しく揺れていることの反映でしょうか。

 激しく揺れていると感じるのは、自分自身の肚が決まっていない、座っていない事の現われでしょう。
 来るべきものが来ている。 良き方向に向かう前の先立ち・前触れの風が吹き抜けたのではないだろうかと・・・・

          写真のように、穏やかな陽光が降り注いでいます。

  
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