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 COLUMN 1−D 1050

                                  平成20年6月8日 記

    大したことではないが、珍しいこと2題


 1、私はほとんど夢を見ない、例え見たとしても「夢を見たな」と思う程度で、どんな夢かはほとんど朝になると記憶がありません。

 ところが今朝の夢は、10日ぶりに午前3時ごろに目覚めて、直ぐに続けて寝込めなかったので、枕元に置いてある「コールド・レーザー」をチャクラを中心に照射しました。

 午前4時過ぎに新聞配達のモーターバイクの音を遠くに聞きながら、ふたたび眠りに入った。 それから30分ほどの夢です。

 「国はどこか分りません。 私は船の舳先にぶら提げられた敷物に座っています。
 内海か湾内なのでしょうか海面は穏やかです。 ぶらぶらと揺れながら楽しんでいます。
 突然、海が荒れだしなした。 外洋にでも出たのでしょう。 風も出てきたようですが、雨は降っていません。 少し不安な気持ちになってきました。

 幾ばくかの時間の経過の後、港に近づいてきました、いや港ではなく川を遡っているようです。 両側には家々が建ち並んでいますので水路?運河?でしょうか。
 が、進むうちに水路の幅はドンドン狭められてゆきます、前に見える景色が急に直角に曲がったと思うとそこで行き止まりです。

 衝突かと思った時に、なんと船は水陸両用艇のごとく、道路を走り始めました。

 画面が変わりました。
 小さなビルの中を歩いています。いや足の踏み場のないほどの裏階段を登っています。

 やっと、こじ開けたそこには、多くの赤子たちがイッパイです。数人のお手伝いさんも居ます。その一人に声をかけるのですが、赤子の世話で私のことなど見向きもしません。

 仕方なく、そのビルの中のエスカレーター、エレベーターで上下しています。
 エレベーターの窓から、税関へ通じる通路を見つけました。 が、そこに行くには大きく迂回しなければなりません。

 湾内で商いをしていた小船に頼んで、通路の下まで連れてきてもらいました。

 一緒に旅していた仲間の顔が見えます。(その顔は中学時代の友達) 声をかけるのですが、意地悪なことばかり言って、埒が明きません。

 何とか、税関吏のところまでたどり着きました。 ここで、終了でした。

 
      A次は、神棚の榊に花が咲きました。
             
              

               我が家の神棚には榊が供えられます。
          近くの山か神社のヤブの中から頂いて来ております。

 毎年、新しい芽だ伸びてきますので、このくらい頂いてもいいだろうとと勝手に決めております。
       それでも、可能な限り手折る回数を減らそうと心がけています。 
 
                  

      このような状態になるまで、取り替えるのを控えています。
   毎日水を取り替え、冬ですと2〜2・5ヶ月間、真夏ですと約1ヶ月です。

 この時期は40日前後ですが、今回は4月1日に取り替えたものが、70日近くも過ぎたと言うのに本日も枯れていません。 それどころかなんと花が咲きました。

 心当たりは、百姓学校でも実験しています酵素を毎日散布しています。
 それ以外は、毎朝の祝詞の時間がこの春から少し長くなりました。 「家内安全の祝詞」と「六根清浄の大祓い」が追加されたことです。


 中日ドラゴンズもなんとか昨日で「借金生活」から脱出です。 本日は中日球場に応援に行ってきます。 私の応援に行くときはこれまで、7割は勝ちゲームです。
 さて、本日の夢占いと神棚の榊の花が咲いたのは、なにを意味していたのでしょうか。



 COLUMN 1−D 1049

                                  平成20年6月8日 記

    農作業  6月7日


 気温が上昇してきました。 参加のIさん、半そでのポロセーターでスッカリ真っ赤に焼きあがってしまいました。 

 家に帰って手当てはしたでしょうが、毎日事務所の中ばかりの生活をしていますので肌が弱っているのでしょう。 20代の頃はパック・パッカーで世界を旅していたと言っていましたが、「怠けるとダメですね」とつぶやいていました。


            

 カボチャ畑に何故、ハザがあるのでしょうか。 私の考案で始めての実験です。
 実験と言っても地面に這わすのを、網を張って土手に這え登らせてみようというただそれだけのことですが、イメージとしては成り方がメロンかヘチマ(スクナカボチャはヘチマのように長くなる)の状態を想像しています。 強いて結えば、お尻が汚れないことでしょうか。
 ただし、イノシシ君にはちょうど食べごろの高さと言うことになってしまうのでしょうか。


 I&Iさんが始めて草刈機を使うことに成りました。 若い方ですので操作は直ぐに覚えられるのですが、狩り栄えは同じですが、スピードが私の半分くらいでした。

               

 ジャガイモは植え込んで約1ヶ月で芽を出しますが、上記のサトイモは約50日かかりました。 写真は周りの草を抜き取った後ですから、スッキリしていますが、実際は草が覆いかぶさっていました。 本当に美味しく食べられるには、11月末に成ります。

 その間に、最低でも3回の草取りと土寄せをしなくてはなりません。 昨年は水不足で、敷き藁をしたりして苦労しました。出来映えも小粒でした。 美味しさは変わらず。

 一番大きめの芽を写真に撮りました。と言うことは小指大のものもあり、草と一緒に抜き取ってしまったり、踏んづけてしまったものもあります。

 昨日の作業は実働6時間でした。 @まずは草刈 Aサトイモの草取り B夏野菜の仕立て これで、3時間の午前中の作業終了^さすがに腹が減りました。

 午後はCカボチョのハザづくり、Dジャガイモ草取りと土寄せ E収穫は・ホウレンソウ・ダイコン・サラダ菜・人参の抜き菜 Eネギの草取りと土寄せ F最後に全作物に酵素の散布

 一方、別な作業チームが夏野菜の手入れ、更に別なチームが6月13・14日の田植えの代掻きをしていました。



 COLUMN 1−D 1048

                                  平成20年6月5日 記

    「共産党宣言」(1848年)を読む前です。

      〜社会思想史の予習テーマ〜


 この歳になって「共産党宣言」を読むことになるとは思ってもいなかった。

 例によってというか、中部大学の聴講生として”社会思想史”を学んでいる一環としての宿題=予習の一つです。

 卒業した愛知大学は、バリバリかどうかは知るよしもありませんが、共産党員であるか、少なくとも共産主義に好意を持っていた、あるいはその視点より教壇に立っていた教授が多かった。

 その当時、ほとんど勉強などしなかった私には、「共産党宣言」など縁のないものであった。

 それから40数年後の今、1848年、ロンドンで発行された30ページ本の「宣言」が底本とされるコピーを手にしている。 
  
 担当教授は頑張れば1時間半で、30ページをA4版、1枚に要約することができると言われたが、2〜3ページに目を通してみたが、簡単には1枚に纏まりそうにない。
 多分、5時間以上はかかると予感がしています。

 この共産党宣言を読みに当たっての心構えとして教授から話されたことは、「共産党」、「共産主義者」と言うと、余りにも共同「生産」組織としての側面が強調されすぎており、言語に含まれているコミューン(共同体)としての開放的ニュアンスが伝わってこない。

 ・「共産党宣言」は「共産党」を作ると言う意思で書かれたものではない。

 ・1848年に書かれたもので共産党などはない。共産党が出来るのは1919年が最初である。

 ・1919年、コミンテルンという国際組織ができた時、参加する政党は「共産党」と言う名を使いなさいと指導があった。→この時「共産党」という言葉が登場した。

 ・実体としては、ロシア社会民主党=ポルシュビッチが多数派となって革命を成功させて、その後に「共産党政治体制」となった。

 ・「共産党宣言」は誤訳である。
 共産党あるいは共産主義者と言うと暴力革命的なイメージ、あるいは、スターリンの闘争・粛清の暗いイメージとしてのバイアスがかかってしまう。


「共産党宣言」が書かれたこの年(1848)を調べてみた。

 世界歴史上における大転換期でウィーン体制の崩壊・ヨーロッパ各地で革命(フランス2月革命。翌年ヨーロッパ各地に伝播する、3月革命={諸国民の春}と言う)の、そんな時に書かれた。
・アイルランド飢饉、人口の三分の一〜半分の人が移民してアメリカに渡った時代です。                                 
・この時代、共産党などなかったし、共産党を作ると言う理念もなかった。
⇒今流の言葉で言えば「政策目標である」

・⇒「コミュニスト宣言」と訳すのが適正ではないか。「コミュニスト・マニュフスト」=共産党宣言といえる。
・「宣言」というと、出来上がった組織の政策発表とおもわれて仕舞うが、そのようなものではなかった。
・マルクス自身1世紀後、世界で一番遅れた国=ロシアで共産党が出来、独裁国家になるなど思っていなかった。


 以上のような解説を聞かせていただいても1789年7月14日の「フランス革命」との関連や相違すら分からないと言うのが本当のところです。

 ただ、当時資本主義が発展し、人々の間で助け合い、共生が失われる中、如何にして共同体=コミューンを作り上げるか、再生するかが問われていたのではないかと想像する。

 と想像しながら、今日の私たちの社会を見渡してみると、「我のみ良かれ」の風潮となっていることに気付かされ、1848年の「共産党宣言」の中に、なにかヒントを見つけ出せるのではと読み始める前の期待感があります。



 COLUMN 1−D 1047

                                  平成20年6月1日 記

    5月30・31日は遠山郷へ

  「21世紀的生活の真髄」 藤原直哉さんのお話


 兎に角、活字化しました。明日からは中部大学の講義と成り、時間的なユトリは全くありません。
 毎度のことですが、文責は私です。 聞き間違いはないつもりですが・・・

 今回、活字化し終えて先生が遠山郷で話され・活字になっているモノを斜めに読み直しとましたが、時間の経過と共に「時代の変化の予測から確信に」そして、今回のように乱世の到来の中で、どのような考え方、生活のあり方へと提案が進展しています。

 今回先生にお会いした時、「加藤さん、お元気でしたか。どうですか?」と声をかけていただきましたが、私の返事は「先生の怖い話を毎度聞かさせていただいていますので、そんなに驚くこともなく、脅えることもなく、毎日を楽しく過ごさせていただいております」ご返事しました。

 目の前に変化が具体的に展開されだすと、どのような気持ちや行動に出るかは分りませんが、ウロウロ・オロオロの度合いの少ない一人であることを言い聞かせていますが・・。

 
 藤原直哉「21世紀的生活の真髄」 
    平成21年5月31日「第5回・遠山藤原学校」「天仁の杜」にて


・悪いことが表面化している、そのことは世の中、良き方向に進んでいると言うこと。
・経済分析はいいかげん。 人間のことが分っていない。→合理的にしか考えない。
・世の中20~30年前からおかしくなっている。異常なことが続いていた。 正常に戻りつつある。
 @アメリカの借金経営はゆき詰まり。
 A金融テクノロジーを格好良いと思っていたが、大破綻したのはなぜか。
    →天の許しのないものは許されない、成功しない。
・思いつめたらおしまい。 理詰めで考えたらゆきすぎる。→身体で感じる風を知ることが重要。

・1993年、金融破たんを確信した。良くも16年間も持ったものだ。不思議なことだ。
 →当時、これからの時代は「静かな世の中になる」と想像した。当時、元気がなくなる時代と感じた。
→江戸時代のような静かな時代の到来を感じ、アメリカの崩壊は避けられないと感じた。

 ・これから混乱はするだろうが、不況をばねにして変化する。
・戦後・日本ように、変化に対応したリーダーシップ、組織を持って、新しい時代を作る。
・2000年代は世界がおかしくなる、日本全体も立て直さなければならない。
・東京の時代の終焉を感じた。それは問題を問題と言わなくなった。2000年東京はバブルであった。それなのに議論が提起されなかった。 2009年も同じ現象である。

 わが国はどのようになるか。→新しいところから蘇る。LOHAS=健康と持続可能な生き方。

・祖先、子供たちのことを考える。 考える幅が広いロハスな生き方。
・小さな幸せに価値を置く。自分の足元を考える。足元にしか光が当たっていない。
明るい人は遠くまで見通すことが出来る。暗い人では足元も、遠くも見えない。
・「温かい人と冷たい人」〜アメリカのウォール街に人々は冷たい。→・「明るく、温かい人の時代である」。

・日本はどのようになる→金融の破綻と失業者問題。失業者は地方に戻ることになる。
EX,明治維新、関東大震災、第2次世界大戦敗戦後、東京の人口は減少した。今回も同じこと。
・大学で講義をしていて、人々に教育することに限界を感じた。
・そこで4年前、渋谷の事務所を引き払った。小田原へ。そして遠山郷で、農地と農園を開いた。
・上司、ルール、相場と戦う都会の24時間のストレス→どうすれば癒されるか。ユッタリと身をまかすことが出来るか。それは自然、地方、人情から人々は蘇る=ロハスな生活

 日本という国

・変化対応力の強い国。 政治が衰退しても攻め込まれない国
→室町幕府が繁栄したのは前半の100年間のみ、200年は衰退と戦国時代、なのに外国から攻め滅ぼされない。
・1990年バブル崩壊後の日本には、政治は何もなし、が政治家も国も攻め滅ばされない国。幸せな国日本。
→時代の大変革期に変わることの出来る国日本。
・武士は金に触らなかったがリーダーをしていた。200数十年続いた。1000年前、源氏の時代も毎日が儀式。
・大陸から離れた日本列島より古い・日本中央構造線の上に住んでいる変化対応力のある日本。

 ・我々は自信を持って生きねばならない。本家としての生き方をしなければならない。
→ロハスの時代の本家は日本である。自分の生活に自信をもつこと。
 パリ、ニューヨーク、ミラノ等自信持っている。
・少子高齢化など恐れることはない。日本人が世界最高のものを持っている。
・ここ20~30年、日本の良さが衰退した、特に10〜15年が更に酷い。年配者が実力を持っている。
@最高の品質を作ることができる。EX、肉、魚、など最高である。
A情報発信をすること、よいものの情報を発信するする必要がある。

・そのためには「日本の農業と観光」の復活である

@第1次産業のやり直しである。山を整備、農地を整備、川を整備、そうすれば海も蘇る。
A「光を観る」=自分の生活に満足している世界。  
  英語のSAIGHT・SEEINGではない。
 イ)地元の人が良いと思っているところが観光地、故にそれは「町おこし」=この町に住んでよかったと思う町
 ロ)どのようにして人を呼んでくるか。大量販売の時代では機能しない。 口コミの時代である。
 →観光人口100万人、 出口は住んでもらえる人が500人である。
・今、人々は何処に住もうとしているか。→地方と都会の出会いが好まれる。
EX,「屋久島」移り住んで来た人たちが、街づくりを始めた。
B知って、行って見て、見てそして会って見る→・人情が最高。

・日本でニューディール政策が始まる。

・自然はある程度手を入れないと元に戻らない。最初の開墾時には一気に手を入れる必要がある。
→細々ではダメ(畑、田の復興で教わる)。すると「相」が変わる。
・20世紀の残骸の日本、EX、シャター通り、乱れた里山等
・安心、安全の基準を作り出して作り直す。競争力のあるものを創る=外に売れるものを作る。
→本家の実力を示せるもの。 EX、スイスの手作り時計。

 ・21世紀のライフスタイルは最高教を狙う(自分の価値判断)
・ライフスタイルを変える為の、ニューディール政策。
 EX、<政府も気付いた低酸素社会の10年計画>
・みんなが同じライフスタイルなどはない。
・これからの勉強は数学だ、国語だと丸暗記の教育ではない、理科、社会は現実を見て勉強させる。
それよりも、生活の勉強=挨拶が出来る、書類が書ける等→昔と同じような生活をさせる。

 21世紀の生活=ライフスタイル

・20世紀は校舎が勉強の場であった。21世紀は里山(農地と里山)が勉強の場である。クオリティー高い里山。
・所有権よりも活用・利用、共有。
 →使っていなければ意味がない(遊ばし、ホッタラカシの地)
・見えるものと見えないものの生活。
 →冬の里山を見て春を考え。 春の畑を見て夏を考える。
→夏には秋を考え、秋に冬を考える。行き当たりバッタリの生活はダメ。→計画的に生きる。

・自然と共に生きようとすれば計画的になる。
・生物はある時点で遺伝子が「ON」になる。EX、ヤゴはある日トンボになるように。
・生物は後から遺伝子がONとなる。育てれば育てるほど発展進歩する。

 ・街も、生活も40年経過すれば、姿が変わる。
・今を最高に生きようと「種芋」を食ってしまってきた20世紀。自然を酷使してきた。
・ユックリ、計画的に、じっくり、21世紀の生活は安定する。
・外国は日本の後をついてくる。 事件や時に暴発があるも心配なし。

・日本の巨大な組織が崩壊の時、やり直しのとき。一人ひとりの気持ちがついてくるかが問題。
・「死」が怖いか。絶対死なないと思っているとダメ。たまには玉に当たることも覚悟せよ(バイタリティー)
・乱世はしがみついているダメ、イヨイヨの時を覚悟せよ。

・変化は怖くない。変化に前向きに対処する。自分のやるべきこと、役割、使命を感じる。
・「金融マンで生き残る人」→お客を裏切らない人。
・この混乱はロハスな生活、明るく・温かい人間になるための訓練の時。
・これまでの形にとらわれないこと。準備として新しいライフスタイルのあり方を知ること。

・これからは20万人くらいが一つの単位→職住接近、里山あり、その地域にふさわしい第1、第2、第3産業がある。 基本的に地産地消が系列化されている。⇒分散化された多様な生活。
・小学、中学は里山中心の学校。30歳くらいまでは学びと仕事が一体化。人生80年30年くらい学べ。
・芸術と宗教が重要性増す。
・お金を使う時の幸福感は不安であった=即物的な生活の惨めさ。本当の安らぎを感じる生き方を。

地方の課題

・地方は日本の見本、故に本物の地方にしなくてはならない。
・その地域の人が一番良いと思える、衣・食・住の満足。
・この30年間は日本の何処に行っても同じこと。自信が持てようがなかった。

・地域のリーダーが教えなければならないことは伝統、文化、歴史、人々の考え方を集めてリーダーシップを。
・旧来の地域ネットワークに拘っていると行動が取れない(封鎖的)⇒崩壊の要因となる⇒思っても出来ない人々はその地域から出てゆく。
・京都は1200年の歴史がある。3~4割の人が1000年住んでいる。100年を単位として少しずつ人身代謝⇒生まれ変わるのは必要なこと。

・時代は極まってきた、飯田・遠山にも新しい風が吹く。
・地域は誰かの役に立つことが必要。都会と地域の協力関係を持つ。
・実行してみることが大切、時には玉に当たることもある。
・明るく、温かくなるように小さくても良いものを作る。
・確実に絵を描いて、確実に実行してゆく。
・乱世は行動したものが勝ち。反省し⇒考え直し⇒行動し⇒反省することの継続である。






 COLUMN 1−D 1046

                                  平成20年6月1日 記

    5月30・31日は遠山郷へ行ってきました

         第5回 遠山藤原学校
   〜21世紀を生きる人情と自然と技を学ぶ〜


           
 
                 体験1は「自然の音を楽しむ」

    5月30日、南アルプスの聖岳、兎岳が展望できる小嵐公園にゆきました。
 残念ながら、雲でアルプスの全景は見えませんでしたが、みんなで笛(そこら辺りにある青竹に穴を開けただけのものです)を吹いていましたら、陽がさして来ました。

          

             「体験学習2 「森林整備作業の実際」

 のこぎりも鉈も使ったことのない女性も実習しました。 特に急な斜面でもないのですが、切り倒した間伐を薪の大きさに切り、数十メートル運ぶだけなのですが、汗ビッショリでした。 その後、蒔き割りもやってみました。

           

 体験した間伐材とは全く異なりますが、樹齢数百年の展示してあるものを説明していただきました。

    

 ↑ この写真は翌日のものですが、今から約1200年前、この地方に大地震がありました、その時山津波によって山が崩れ、樹齢7~800年の大木が谷底に埋められました。

 その上を川が流れ大木は眠ったままで居ました。 川さらえをすると、その大木がこのように姿を現しました。 右の写真は「ヒノキ」の大木の香りを嗅いでいるところです。
 間違いなく、ヒノキの香りがしました。 「埋没木」と呼ぶそうです。


 汗をかきましたので、天然温泉かぐらの湯に入浴、前回も同じ土曜日でしたが、お客さんが少なかったですが、今回は露天風呂も賑やかでした。

              

    学習3は講演です。 山肉専門店 「星野屋」社長の、片山彰さんです。
 何度も同じお話を聞くことになるのですが、その話し方と取り上げる話題でついつい引き込まれてゆきます。 

 この後「いろりの宿”島畑”」で夕食と地元の方を交えての懇親会で盛り上がります。

          

   今回も藤原先生のアコーデオンの伴奏で、気持ちほのぼのの歌を合唱しました。


           

               ↑5月31日、朝「宿・島畑」の全景です。

           

              ↑初めて宿・島畑の裏山に登ってみました。

           

          学習4、 「見学・遠山郷の自然のフジ義と人情・文化」(!)
    
↑ 「盛平山・龍渕寺」から遠山郷土館「和田城」と和田集落を一望する。

           

 住職から「観音霊水」と「観音大杉」のお話を伺いましたが、今回はこの寺周辺に「ブッポウソウ」が渡来している可能性がある(いや、姿を見た、撮影された)ということで、「ブッポウソウ里(仮称)づくり」プランが立ち上がり、巣箱の設置もされたと言う。
 
 この4月。遠山中学に赴任された「鳥の先生」田畑先生と生徒が設置したもの。
 なお、今龍渕寺だよりを読んでいたら、5月20日の中学生日記に巣箱に2羽のブッポウソウを観測したとあった。

 写真を見せていただいたが、それはそれは綺麗な羽の色のコンストラストだった。
 次回遠山郷に行くときには、初見が出来るかなと期待してしまう。
 余談ながら、声のブッポウソウはコノハズクです。かって愛知県・鳳来寺有名であった。

 ここ龍渕寺には、同じフクロウ類のアオバズクはこのところ毎夜ないていると、住職が録音されたものを聞かせていただいた。

 そのほか、住職は自然環境が守られている遠山郷では身近で貴重な動物達、例えば境内にある「ムササビ」の生息している大木の巣を嬉しげに指し示していました。

 その後、殿町の茶屋で「ふじ姫饅頭」を頂く、何度来ても毎度同じ素朴な3人のおばさんたちの対応に嬉しくなってしまう。

               
 
          ↑↓、その庭に咲いていたサボテンの花です。
              


        学習5、は「見学、遠山郷の自然と人情、文化」(2)
        学習6、 「映画鑑賞とインタビュー・山の暮らし」

        木沢地区の地域活性化使節(旧)木沢小学校へ
 「気」の出る神社「熊野神社」の外、小学校にの施設、展示物を紹介してもらいました。
  昭和30年代の遠山郷の映像や、旧遠山森林鉄道のビデオを鑑賞。

  学習7、は昼食と「ソバ打ち」体験

          
 
 
           ↑遠山郷の南部・大町地区のある「天仁の杜」へ

               
              
        ↑地鶏「黄金シャモ」、遠山の川魚「あまご」をいただきました。

               

                  ↑「ソバ打ち」もしました。


           

       学習8、「講演、21世紀的生活の真髄」 藤原先生の講演
 で今回の全てのスケジュールが終了しました。

 先生の講演内容は活字化しましたら掲載予定ですが、中部大学と重なりどうなるか自信がありません。



 COLUMN 1−D 1045

                                  平成20年5月29日 記

    毎週、火、水、木、金はお勉強

 〜2週間で、4通の役員退任の案内が届きました〜


 有り難いことに、この日記が3日間ほどお休みいただくと、「どうしたのか」とお便りをいただきます。 表題のごとく火曜日から金曜日にかけては、その週の講義復習でほとんどの時間を取られています。

 本日、金曜日はいつもより早く、午前中で終了しましたので、入力をしています。


 さて、この2週間で、会社役員を退任しましたと言うご案内を4通受け取りました。
 一人を除いて、皆さん団塊の世代の方々です。

 私自身、40代の頃に60代の方をお見受けすると、随分お年寄りに感じたりしていましたが、自分がその年代になりますと、「まだまだ」と言う気持ちがどこかにあるものでした。

 団塊の世代の方々は60歳をすぎた方ばかりです。 この間、同僚との競争、あるいは企業間競争の中で戦ってきた方ばかりなので、文面には「これからは趣味を生かして、あるいはノンビリと自由人として、奥様孝行も」などと、書かれていますが、これまでのペースから新しい時間や状況への対応に戸惑われことでしょう。

 新たな時代の到来が目に見えたり・感じるところと、底流で大きく蛇行して、これまでとは全く異なった思想や価値観でないと対応できない環境・状況が一層明確に表面に浮上してこようとしています。

  これまでに培われた知識と体験を生かされ、更に新たな思考や生き方を取り入れて、有意義で価値ある時空の創出に向かわれることを祈ります。

 
 ところで、大学で20前後のお嬢さんたちからは、「何がが面白くて学校に来ているのか」という感じの視線を感じる毎日です。

 彼女、彼氏らを見ていると、可能な限り楽して、簡単に単位を取得できる科目はないかと
選択しているように見えて仕方ありません。

 自分の過去を振り返ってみると、偉そうなことはいえませんが、このような歴史的転換期に立ち合わせていただいていることを幸運に感じます。

 そして、先人の教えを学びながら、これからの時代を明るく、前向きにすごしていきたいものだと、改めて言い聞かせているところです。




 COLUMN 1−D 1045

                                  平成20年5月25日 記

     能登・氷見と輪島に行ってきました


 二日間で750Kmは久しぶりのキャンピングカーでの遠出で疲れました。


                

           

  ↑ 氷見大橋をバックに「かもめ」を撮影しました。上はカッパエビセンを食べに・・

               

     ↑↓ 輪島の曽々木海岸に向かいました。23日は風も穏やかでしたので、このような映像と成りましたが、上の写真のように、荒波に削られた状況が分ります。

          

 
                

    ↑ゴツゴツとした岩を見ていただければお分かりになることでしょう。
 写真の岬を回って向こう側に行くのには「難儀をされた」と言います。 何人もの犠牲者が出たと言うことです。 今もトンネルがありますが、ドンドン削られているからでしょうか、本年12月に開通するトンネルが山側に掘られていました。

                

          ↑「窓岩」のこの光景も、波が創った造形の一つでしょう。


            

                    ↑ ↓ 「千枚田」

           

 一枚、一枚の田圃は小さく、西に沈む夕日とのコントラストを撮影しようと多くのアマチア・カメラマンが待ち構えていましたが、当日は雲の切れ目の可能性はなく、早めに切り上げてきました。

          

                    ↑ 「キリコ会館」です。

 何時ゴロまでが、日本海側が大陸から文化、文明の入り口だったのでしょうか。
 その中心地のひとつでもありましょう、能登地方には夏秋の祭礼にはキリコと呼ぶ巨大な御神灯を担ぎ出す風習があります。
 奥能登のキリコが一堂に展示されておりました。

 ところで、輪島の朝市を最大の狙いが今回の旅だったのですが、パソコンかカメラ操作の間違いで、今のところ写真がどこかに言ってしまいました。

 出てきましたら、また紹介します。








 COLUMN 1−D 1044

                                  平成20年5月21日 記

      題材に困れば、庭に出ます


 火曜日と水曜日の中部大学の講義を4講座受講しますと、帰宅してからと、木曜日の全て、そして金曜日の午前中はその復習(活字化)に全ての時間を費やしています。(約11〜13時間)

 又、そのための予習時間は、7月の最終日の講義までのところは、ほぼゴールデン・ウイーク中に終えていますので、後は読み直して修正するばかりになっております。

 このホームページ作成に費やすエネルギーがかなり消費されておりまして、お休みがちです。
 そんな時には庭に出ることにしています(散歩がもう一つのチャンスですが・・)

              

   ↑これから、南側の垣根の間から次々と花を咲かす、「ホタルブクロ」です。

              

       ↑西側の垣根の下には、「チロリアンダンス」がゆれています。
      此花も数年前から、各家庭のお庭で見かけることが多くなりました。

              

           ↑「オダマキ」 を↓万華鏡仕上げにしてみました。

              

   何処かのテレビ局に、万華鏡、うず、波、モザイクなどの仕掛けを施して、何の花でしょうかと言うクイズを提案してみたらどうかと気がつきました。

 このページでも試して見ようかと思っています。

              

  何処にでもある薔薇ですが、我が家の庭のバラはことさら綺麗に見えるものです。

 講義録の活字化が終わったら、植物園のバラの見学に行ってきます。




 COLUMN 1−D 1043

                                  平成20年5月18日 記

   5月18日、雨上がりの百姓学校にゆきました


 昨日(5月17日)、予定していた百姓学校行きは、雨のため中止でした。
 次回の「K&I&I」の百姓学校の予定は、6月7日です。 

 このままですと、4週間もの空白が生まれます。 本日私=K=加藤が出校しました。

          

    ↑ご覧のように、日吉・深沢のほとんどの田圃の田植えは終わっていました。

    

      ↑ ジャガイモ                      ↑  ダイコン

        

            ↑人参                    ↑ホウレンソウ

   皆、順調です。 ホウレンソウは他の畑より、早めの種まきをしましたので、収穫が
         一番乗りです。 校長の奥様にもお裾分けしてきました。

                

          

     ↑ 自宅で苗作りをしていました「スクナカボチャ」の定植をしました。

 一家族では(我が家・二人)では食べきれないホウレンソウ、ダイコン、二十日大根、サラダ菜、人参の抜き菜、を持って帰りました。

 水洗いになんと1時間を要しました。 きれいに水洗いした彼らは、近くの若い家族に貰われてゆきました。 今夜のおかずの一品になっていることでしょう。


 ところで、今度のK&I&Iとのお約束日は6月7日です。 その間、成長真っ盛りの野菜さんをそのままにしておくわけにはいきません。 Iさんに電話しました。

 心配いりませんでした。I&Iさんは、今週の土曜日か日曜日に出かける予定と言うことです。 彼等が購入してきた夏野菜は順調に成長しています。

  昨年は一人で鍬を振り下ろしていましたが、今年は若い方との共同作業です。




 COLUMN 1−D 1042
                                  平成20年5月15日 記

   本年の中部大学の受講科目について 

 〜今春は、中国関係を2教科受講しています〜  


 中部大学で今春は4教科を受講しています。 
 
 中国関係を2教科受講しています。 お二人の教授は中国人です。 
 1教科は昨年まで「比較宗教学」という科目名でしたが、今年から「宗教人類学」と変更に成りました。 内容は現代中国の宗教を取り上げています。 宗教を通じて現代中国の一側面が理解できます。

 今週までで4回の講義がありましたが、中国における諸宗教の概況を学びなした。 
 一番の感想は「道教」にしろ、「仏教」(大乗仏教)にしろ、現世利益、特に拝金主義が強いということです。 映像でも具体的に解説されますので、強く感じました。

 1979年、ケ小平による「経済改革・開放政策」後、それまでの「文化大革命」による抑圧からの反発も相まってか、中国人のDNAが一気に表に現われたように思います。

 このような印象から、当分中国の経済発展は続くことだろうと考えると同時に、この上昇を止めることは、中国内に大きな社会問題が吹き出すことになるのだろうとも想像しました。

 講義後の感想文に上記のことを2度書きましたが、教授からは今のところ何の反応も回答もありません。

 仏教の中にチベット仏教も含まれており、チベット仏教の中国における現状の一端を知ることが出来ましたが、中国とチベットの政治的背景までは解説がありません。 この点に関しては、大変気を使って講義をしているように感じました。

 中国において「儒教」が一番の影響力を持っていることは、言うまでもありませんが、イスラム教徒も2500万人以上存在していることを知りました。 多分辺境にの地の人々のことでしょう。 キリスト教も含め、これからの講義の進展が楽しみです。


  もう一つの講義は「東アジアを知る」という科目ですが、多分70〜80%が中国のことになると予測しています。(シラバスからもそのように理解できます)
 
 この担当教授はかって日本駐在中国大使館の1等書記官とプレス担当参事官、長崎駐在中国総領事を勤められた方です。

 ここまで、「中国の名の由来」から、新中国の成立までを4回で講義されましたが、それはそれは実に「噛んで含んでという表現」がありますが、まるで中学生にでも語る口調です。
 余りのレベルですので次回からは欠席しようかと毎度思うのです。 特に講義開始の30分間の前週のおさらいに時間は尚さらです。

 受講している学生に実に簡単な教授の質問なのですが、「分りません」とか、「知りません」とか、「聞いていませんでした」という返答(しかもボソボソとした口調)です。
 それならまだましで、60人中半数は講義の途中から眠っています。
 (講義中、今週は2人の学生が退席したようです。内容が退屈だったのでしょうか?)

 それでも教授は少しでも中国を理解して欲しいとの思いからなのでしょう、優しく・諭すような話し方で講義を続けられます。 中国を代表して、これからの日本の若者に少しでも、過去の日中の関係、そしてこれからを知っても貰いたいとの使命感からでしょうか。

 入学金、授業料を工面している親御さんが、この姿を目にしたらどのように感じるのでしょうか。 と同時に、わが息子も同様であったのだろうかと考えてしまいます。

 この実体を目にし体験しているだけで、私には1教科1万円の授業料はお値打ちです。


            

            

    さて、上記の写真は何を意味しているのでしょうか。 何に見えますか。

 本日はこの写真のことを書こうと思って入力を始めたのですが、中国関係の2教科のことに触れたところで、書く気が失せましたので、また次回にします。




 COLUMN 1−D 1041
                                  平成20年5月12日 記

        雨風が吹き出しました。

〜シャクヤクの花がアチコチのお庭にイッパイです〜


 朝方はすがすがしい空気でしたが、予報どおり陽が沈みだしますと、新緑から若葉に替わり始めました山々に霞がかかり始めました。雨風が吹き出しました。

                

         ↑思いっきりシャープにシャクヤクの蕾を撮影してみました。
           桃と見間違えて口に入れたくなりそうです。

                

          ↑↓ 白と赤?ピンク?のシャクヤク、渦で処理してみました。
                

        



 まだ、今年の第1号にはお目にかかってはいませんが、この雨風の後には、蚊が登場するのでしょうか。 我が家の庭にあった「除虫菊」が絶えてしまいましたが、もう一度復活させようかと思っています。

                 

             
 
 ↑ 除虫菊の花があっても、蚊君は近寄ってくるのでしょうが、試してみましょうか。

                
  
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