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NO.120
                                               平成16年11月8日

2004年、稲作の収量が確定しました。
この日、製粉機が納入されましたが・・・

 
 11月7日立冬というのに、ひと働きすると額に汗が滲むような暖かい日和の中籾摺りが行われました。
 収量はもち米が反当り8・5俵(実収量は100Kg強)、うるち米が反当り9・5俵(実収量285Kg)でした。
 今年は6〜7月は雨の日が多く、8月入りカンカン照りのお天気、9月も残暑厳しい日が続きました。 他の田圃より遅い、6月6日が田植えの百姓学校にとってはこのお天気は逆に恵まれたようです。
 といいますのは、瑞浪・日吉地区の専業・プロ農家でも最高の収量が反当り10俵どまりとのことです。
 もち米はうるち米と比較して少し収量が落ちるのが当たり前とすると、うるち米の9・5俵は上々の及第点ということになります。

 ちなみに、小倉校長のところは反当り7俵でした。 これには訳があります。
 苗は6月6日ごろに田植えをするように仕込まれていました。
 が、3毛作の実験をしている麦の収穫が遅れたこと(雨続きなどにより)、また6月6日以降は雨続きで田植えが6月下旬と遅れてしまった。(百姓学校の田植えは雨の日に実施をしました)
 そのために2001(平成13)年の時と同様に、苗が伸びすぎてしまった。
 其の時も苗の頭を切って田植えをしました。(田植え機が作動しなくなってしまうため)
 苗は苗床に苗箱を設置してから30日以内に植えるのが望ましい事を今年も再確認させてくれました。

 この日、朝から待ち遠しかった製粉機「国光 A−1 ひかり号」が午後2時半に納入されました。 農機具屋さんも「親父の代には取り扱っていたが、私は初めてだ」といって、説明書を片手に製粉機とふるい機を接続しました。
 最初は金属片が混じるといけないと言って、くず米で試運転。その後今年の収穫の小麦を投入しました。
 製粉されふるい機を流れた粉は3つに分かれます。
 一つはほとんどが「ふすま」の粉です。 次に私が「スパーパウダー」と名づけた純白で正にきめ細かい小麦粉です。 そして、その中間の粉です。(この粉が精米機と手で振るって作った粉と同等クラスのものです)
 その量は4対1対5というところでしょうか。 中間の5の粉を再度製粉し、ふるい機にかけたのですが、製粉口を突いてやらないと粉を送っていきませんでした。
 その後、再度小麦を投入して機械の調子を観察しましたが、思ったより効率は良くありません。 約2時間、10Kg強の小麦を製粉したのですが、「スパーパウダー」は1Kg程しか取れませんでした。

 毎回、百姓学校の小麦粉も使って、奥様手作りのパンを持参していただいているI氏に、3種類の粉をお渡ししました。 (I氏いわく、「フスマ」は一番美味しい、また購入すると高価なのだと言っておられましたので・・<私たちは当初、これは牛の飼料と言っていたのですが>)
 前回この件で10万円の投資をするといっていましたが、それは製粉機のみの価額でしたので、フルイ機を加えると22万円と倍以上の投資額になります。
 それにしてはチョット性能がいまひとつではとの感じです。
 製造しているメーカーは一社独占と言っておられましたので、競争相手もいず、また数が売れる事も少ないようですので改良がすすんでいないのではないかと想像しました。
 今後、使い方を研究して能率が上がれば良いのですが、期待が大きかったので少しガッカリです。
 
 最後にもう一つ。 “間引き”にも手順がある。
 一番の若手で、新人のNさんが人参の間引きをしました。 それを野菜責任者のI氏が見て、「思い切った間引きをしたものだ」と。
 Nさん7〜8Cmほどに成長したばかりの人参を、15Cmピッチに間引いてしまったというのです。
 私も聞いて初めて知ったのですが、3度ほどの手順で間引いていくのが良いというのです。
 校長いわく、ほとんどの野菜が同じとの事ですが、「共生」(多分この活字に該当するとおもいます)して成長してゆくから、一気に最終形(たとえば15Cm,20Cm間隔)にしては駄目だというのです。

 私も知っていて実施していたわけではありませんでしたが、結果として一気に間引くのが大変で数度に分けて実施していた事が理にかなっていたことになります。(特に大根の抜き菜が大好きなものですから、何度かに分けて楽しんでいた)
 「共生」といわれたが、絡み合って成長しているのが良いのであろうか。
 それとも「競争共生」なのか。 競い合って最後に元気なものが生き残る?
 また、大根、人参、牛蒡のように根菜類は「最初に間引く時は大きなものから抜く」と良いということを聞いている。 その理由もまだ腹に落ちていない。
 5年目の百姓学校が終わろうとしているが、今まで何を学んできたのだろうかと思える情けなさである。


NO.119
                                               平成16年11月4日

NO612が正しく掲載されません。

  勉強してきたのですが、「日付順」に正しくNO612は掲載されていません。そこで取り合えず、ここに掲載します。

 NO612 平成16年11月4日 記
「花が咲かねば、人は来ぬ」
〜秋の根尾谷の薄墨桜を訪ねる〜

 この根尾谷の薄墨桜は平成13年4月12日に訪ねている。 その時の日記は日付順のNO54にあります。 読み直して苦笑です。 
というもの出掛けるきっかけが今回も同じだからです。 前日の夜、「お天気も良い事だから、薄墨桜でもどう?」と誘いがあったことに始まる。
まだ庭の松の剪定、何も手が入っていないので、今日当たりと思っていた矢先のことである。 
 ダイニングの食卓の上にオニギリと思しき袋が置かれ、デザートの柿が剥かれ始めていた。 では、行くことにするかと腹を決めた。

午前9時半を回っていたので(前回と同じ)、高速道路を走る。<春日井〜一宮JCT〜東海北陸道・美濃IC>、1時間半強で到着。(前回と大違い、前回は3キロ手前で車を降りて歩きました)
薄墨桜のご主人様が鎮座する公園の直ぐ近くまで車で進入可能であった。
まだ、桜の葉は残っているかと思いましたが、ほとんど枯れ落ちて澄み切った秋の空に
樹高17・2M,枝ぶり東西23・9M,南北21・2Mの枝が存在を示そうとしていますが、あの華やかに咲きそろった爛漫の姿を思い出すと、絵になりません。
よって“花が咲かねば、人は来ぬ”とのタイトルになりました。

帰ってきてからNO54を読み返した。 そこにこんな記述があった。
『この桜を眺めるのは 落下後の夜明け前がいいか。
           蝉しぐれの真夏の太陽の下がいいか。
           落葉の枝を通す夕陽の時がいいか。
           シンシンと綿雪降る月明かりの時がいいか。』と
今回、葉の落下した枝姿を見たのですが(夕陽ではなく、正午の陽)、お勧めするほどの事はありませんが私の評価です。
それでも、マイクロバスの一団のほかに、私たちと同じ年恰好の二人ずれが3組と1歳少々で、歩き始めたばかりの子を連れた20代の母親二人組に会いました。

が、人気のいない事が幸いしたこともあります。 公園の奥の方で石碑と出会ったからです。 その石碑にはこう刻まれていました。
『近所の女房連中が集まって来て「勝手」をやった。 裏口の水槽の端でワイワイ言いながら人参や牛蒡を洗った。 洗っている牛蒡みたいなザラザラした汚い手が、水を使っていると茹でた蛸みたいに紫色になった。
「勝手」をやっても炊く米がない。
・ ・・・・・
 土間に積んである封印付の米俵が誰の目にもすぐに止まる。
 米を積んでいながら葬式の「斎米」に困っている悲痛な雰囲気がすぐ胸板へグッと来る
・ ・・・・・・・・
頭の頂辺(てっぺん)をがーんとやられたような気持ちにさせられた
 始めて判っきりとしたものを掴まされたような気持ちを感じた
『団まらなくちゃ嘘だ!』
       細野孝二郎『貧農組合』より
 
その石碑の裏側に以下の紹介があった。
『細野幸二郎は1901年本巣郡根尾村に生まれる。1977年2月東京新宿区で没
少年時代、豪農を目指して北海道に渡ったこともある。
 後上京、新聞記者、雑誌記者、編集者などを経る。
 日本無産派文芸連盟に加わり、小林多喜二、壺井栄らと親交。
 弾圧の苦難の下、作品を「戦旗」「ナップ」に発表。
 やるせない夢を、深く農民に注いでいる事が鮮明な特質である。
           1986年9月 』

まさかこんな時代は再びやっては来ないだろうとは思っている。 が、一つ間違い、歯車が狂いだすとありえないことではないと考えたりする。
多分、妄想の域のことではあろうが、あまりに平和ボケの中、我欲の追求に明け暮れていると、天の裁断が降りないとも限らないのではとやはり思ってしまう。
1500年余生き延びて、人々に何を伝えてきたのか?「国指定天然記念物 根尾谷薄墨桜」(大正11年11月12日指定) 
秋の穏やかな陽の下で、立ち止まり、呼び掛けてみたが何も応えてはくれなかった。



NO.118
                                               平成16年11月2日

西高森山で年金論議を聞きました。
 〜「お前さん、元気そうだからまだまだ働けよ」〜

 雨と曇りの日が続いたためでしょうか、それともいつもの時間より早めに出発して西高森山に到着したためでしょうか。 往復の散策路で多くの方々と行き交いました。
 早足に少し息を切らせながら頂上にたどり着くと、お二人の方がお話を始めたところのようです。
 『あんた何年生まれかね?』 〈私は昭和16年です〉 『そうかワシより大分若いなあ〜、ワシは昭和8年生まれだよ。 8年違うと大分ちがうなあ〜、年金も次から次へとルールが変わり、今ではさっぱり分からんよ』
 と年金談義が始まりました。 
 そこにもう一人の方が上ってこられました。
 昭和8年生まれの方が声をかけます。『あんた若そうだが、現役かね』
 「いいえ、今年からお役ごめんとなりました。 もう少し働かせてくれると期待して、会社を変更したのだが、後が詰まっているからと・・」
 『どう見てもまだ現役バリバリのかんじだな〜、弥勒山(春日井の最高峰437メートル)でも軽々だろう。 この山では物足りないのではないか』
 「座っている仕事だったので当初は駄目だったけど、今は足腰が強くなりました。ブラブラしていると体力があまってしまいますよ」
 『そうだろう、そうだろう。あんたのようにまだ馬力がある人はまだ働いてもらわねばいけない。 無給の仕事でよいから・・・』
 「何かありますかね」
『あるある、農協に行けば遊んでいる畑を世話してくれる。 30坪年間1万円だよ。
 何か作って余れば世間に配って頂戴よ』と昭和8年さん遠慮なしである。

 というのもこの話に入る前に『あんたの年金はいくらだ』との質問が飛び、「まだ61歳になったばかりなので、半分しか貰っていませんよ。 総額は2ヶ月ごとに20万くらいです。 会社勤め時代に臍食った隠し小遣いをチビリチビリ引き出しておりますよ」と真摯に応えている。
 『それだけもらえれば十分だ。その倍になったらバンバンザイだよ』
 「でも、現在70歳の方たちが一番得しているといわれているではないですか」
 『支払った額がしれているから、その関係でそう言われるが、なんといっても額が小さい。 あんたらのように民間会社に勤めたわけではないから・・』
 すると、昭和8年氏が口を挟む〔公務員は少ないよ。 40万もらえたら御の字だな〕
 『払い込んだ金額も大きいだろうから。 大企業と中小企業では違うからな』
 「働き口があればまだ働きたいですよ」 〔ないな〜、この年では・・〕
 
いつか西に傾いた夕日は沈んで雲を赤く染めています。がまだまだ話は続きそうです。“お先に失礼”と一足早く立ち上がりましたが、心の中で「この年金談義はいつまで続けていられることやらと」思わずにはいられませんでした。
  




NO.117
                                               平成16年10月28日

 ホームページ「藤原事務所 新潟震災救援情報」開設
〜横型ネットワーク社会の一つの動き〜

 
 時々紹介しています藤原直哉さんの「ワールドレポート」、あるいは各地の藤原ファンが集い、学んでいる「藤原塾」があります。
 今回その一つ、新潟県長岡市は「新潟・中越地震」で大変な被害を被り、今も迫り来る寒さの中、なかなか復旧が進まず大変な生活を強いられているようです。
 新時代は旧来の「たて社会」でなく「横に結ばれたネットワーク社会」と主張される藤原さん。 あるいは、新しいリーダーシップが求められている、そのリーダーを養成するのが私の仕事とも常々言っておられます。
 その藤原さんが今回の「新潟・中越地震」に対して、「藤原事務所 新潟震災救援情報」を開設されました。
 以下、ホームページに掲載された中の一部を紹介します。

『 みなさん、こんにちは、藤原直哉です。
 新潟県中越地方が大きな地震にみまわれました。
 現地の方から情報をもらい現地に必要なものが行くように情報を掲示いたいと思います。
 現地とは今、連絡を取り合っている途中です。
  被災された方の中には、外で避難生活を送っている方もいるそうですが、冬前の寒さ  と余震の恐怖もあり、また急変した生活環境の中で体調を崩されてはいないかと、ただた だ心配するばかりです。
 27日午前11時新潟県中越を震源とする地震で東京でも本日震度3を記録しており、関東に住む私たちにとっても今回の新潟の地震はとても他人事と思うことはできません。

 藤原直哉が何かお手伝いできることはないかと考えた結果。現在、藤原事務所ホームページにて「新潟震災救援情報」を募集すると共に藤原塾越後長岡の方々への励ましの葉書を送る活動を始めました。

 藤原事務所ホームページまたは、下記URLにて詳細を掲載しています
のでご覧ください。

●藤原事務所ホームページ
http://www.fujiwaraoffice.co.jp/top_jp.html

●藤原事務所 新潟震災救援情報
http://www.fujiwaraoffice.co.jp/herodb/herodb.cgi?table=sample&view=M&recpoint=0

●越後長岡藤原塾へ希望の手紙を!
http://www.fujiwaraoffice.co.jp/nagaoka/index.html
 ご協力できる方は、なにとぞよろしくお願いします。
 リーダーシップとチームワークで新潟の方をサポートしましょう。』

〜私も早速、多分藤原さんの筆による「希望」なる励ましの活字を印刷して送る事にしました。 なにぶんプリンターで葉書に印刷するなどというは初めての事、戸惑いと多くの時間をかけて何とかアウトプットできました。
 悲惨な情報ばかりの中、2歳の皆川優太ちゃんが92時間ぶりに救出された情報に触れ、奇跡と思うと同時に、胸が熱くなりました。
 このような動きがあることもお知らせしたく、掲載しました。



NO.116
                                               平成16年10月27日

  いつの間にか“早咲きサザンカ”が咲いていました。

 

 台風だ、イノシシだ、と気が取られてやっと稲の刈り取りと思っていたときに、新潟・中越の地震の報に目・耳が奪われる。
 寸断された生活道路、通信網によってなかなか被害の実態が正確に把握できないでいる。
 都市部の災害に加えて、過疎地の山間部も大きな被害である。 高齢者が多く気温も下がるこの時期、余震に加えて疲労が重なりテレビを通してみていても、その痛ましさがヒシシと伝わってくる。
 一日も早い救援と復旧を願って止まない。
昨日、一日続いた雨も上がり、今朝はからりと晴れている。 この空を被災地に送りたいものである。 新潟の空も晴れてくれる事を願う。 

今朝は最低気温が平均並であったとラジオは伝えていたが、ストレッチをしても汗一つかかず、冷水摩擦をすると鳥肌がたった。
トイレの冷風機を仕舞い、温風機に取り替えた。
このくらい気温が下がれば蚊の心配もないことだろうから、松の剪定にかかろうかと思って庭に出てみた。
2週間ほど前に「サツキ」の葉がスッカリ虫に食われて、枯れたのではないかと思えるほどに細枝ばかりが目立つ茶色になっていたが、その枝の先から細かい葉芽が一斉に吹き出している。  春でもないのに・・・(春になれば芽が出るとは思っていた)

越冬前に十分栄養を貯える必要があるのであろう、蜘蛛の糸がアチコチに架けられて、
体液を吸い取られた虫の残骸が巻きつけられている。
 カマキリがノソリと姿を現した。 こちらは子孫を残すためにメスを探しているようである。 このオスのカマキリも交尾の後はメスに食われるという。 そのメスは卵を産んだ後に一生を終えるのであろうか。
 そんな事を考えながれ眺めていたら、庭仕事をする気が失せてしまった。

 蜘蛛の糸を払いながら東側に回り込んだら、「早咲きサザンカ」の花が5輪咲いていた。
 まるでタイミングを合わせたように、「サザンカ サザンカ咲いた道 焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き・・・」と灯油売り車のスピーカー音。
 新潟・中越地方では灯油が間に合っているのだろうか。 気になった。




NO.115
                                               平成16年10月26日

  残念、中日ドラゴンズ 日本一ならず

 
25日の夜の晩酌は知らず知らずのうちにかなりの量になっていた。
 26日午前2時、柱時計の音に目を覚ました。 枕もとのタヒボ茶を飲んで再度床に入ったが、スーとは眠りに入れず。 そのうちに胃の痛みを覚えた。
 中日優勝なれば朝の目覚めも軽やかに、新聞をユックリ眺めるのであるが、大きな活字を拾い読みする程度である。
 
 それにしても、今シーズンが始まるとき、落合監督は強気な事を言っていたが、セリーグ優勝さえもおぼつかないと思っていたのだから良くやったと拍手を送るべきだろう。
 来シーズンに楽しみは取って置きましたなどと強がりの活字も見えたが、そんなに生易しいものではないだろう。
 本日の新聞広告、折込広告は「感動をありがとう」とすばやく対応している。
 優勝でも、優勝を逃しても良いように“感動”と各社のフレーズは一様に同一である。

 百姓学校で一、二を競うどらファンのN君が「僕の応援が至らずにすいません」とメールが入っていた。 第7戦も球場に行ったのだろうか。
 多くの名古屋のファンが燃えた事であろう。 昨夜の名古屋・今池の「ピカイチ」では残念無念と盛り上がったことだろう。
 旅に出るまでが楽しく、旅の終わりは心寂しいものである。
 あれほどに盛り上がった熱狂ドラ応援も数日後のうちにその炎は嘘のように下火となる。
 先行き不透明な世の中の状況の中にあって、非日常の中に一時でも身を燃やしたい心理が作った特殊性なのであろうか。

 野球に関心のない方には「何を馬鹿騒ぎしているのだ」と映っている事だろう。
 同じ時代の同じ船に乗り合わせているのに、人様々でバランスが取れる。
 それにしても、自然の脅威が何かを予告しているように思えて仕方がない。
 中日ドラゴンズのセ・優勝のみで終わった事によって、龍の大暴れはこれほどで収まってくれるのだろうか。 気の許されない状況が続く。
 兎に角、落合ドラゴンズありがとう。



NO.114
                                               平成16年10月25日

 百姓学校、10月定例会のこと
  ハザが台風23号で破壊された。

 

 今月は10月9〜10日の稲刈りに続いて、2回目と会となった。
 日付順 NO605に其の時の内容を掲載しました。
 そこに書き入れなかった事を書きます。 
 
台風23号によってハザが倒れたとの情報を得た時間が遅く、修理には参加していませんでした。
 以前、杭の打ち方がいけなかったのでしょう、稲をかけ終えると同時にハザ全体が倒れた経験はありました。
 が、台風による倒れの経験は今回が初めてです。 それは倒れたというよりは破壊されたといった方が適切です。 ハザを渡す竹が折れているからです。
 タップリと雨水を含んだハザの稲束に強風が吹きつけ、しなやかな竹も耐え切れなかったのでしょう。
 
自然と真っ向から向かい合う農業はこんな事の繰り返しであったのでしょう。
 それ故に、ハザ作りひとつに於いても、手早く、しかも堅牢に仕上げる技術を習得しなくてはならない事を、改めて認識させられました。
 私の仕上げたハザだけが倒れたのではないかと内心心配しておりましたが、校長の手によるものも破壊された様子を見て少し安堵(?)すると同時に、今年やっと縄括りのコツと思われることを少し掴んだ気になっておりますので、忘れないようにしなくてはと思っています。
 が、果たして来年まで覚えているでしょうか。 
 頭ではなく、手、身体に覚えこませないと直ぐにどこかに行ってしまいます。
 お楽しみは来年になってからという事になります。

10月23日午後5時56分に、新潟・中越地方を震源地とする地震が発生しておりました。 その事は24日の朝に知りました。 
刻々と入る情報によると被害は広がっています。
自然の脅威と言いますが、人間の力と知恵では如何ともしがたいものです。
もっと、自然と共存してゆく生活でなければと改めて思わずにはいられません。


NO.113
                                               平成16年10月22日

 「ひやおろし」「秋あがり」が届いた

 表題のタイトルだけで何の事か分かる人は日本酒好きの人であろう。
春の絞りたて新酒。 夏の生酒。 冬の燗(かん)酒と紹介すれば、はは〜んと気づかれることであろう。
 そうです、秋が旬のお酒が「ひやおろし」あるいは「秋あがり」と呼ばれるものです。
 私も気温が20度前後になってくると、いつの間にか日本酒が多くなります。

 酒は、一年のうちで気温の低い秋から冬にかけて仕込まれる。 春先に出荷されるのが新酒である。
 「ひやおろし」は更に春夏と蔵のなかで寝かされ、外気が冷えて酒の温度と同じくらいになったころに出荷される。 気温による酒質の変化の心配がなく、火入れもせず市販されるため、このように呼ばれる。
 また、秋に熟成して、酒質がよくなることから、「秋あがり」とも言われる。
 火入れ(熱殺菌)をしないためか、香が整い、味も丸くなり、日本酒の最もいい状態、「日本酒本来の味」とも言われている。
他の酒と、作り方には大きな差異はなく「『うまく熟成してほしい』という杜氏の思いがカギ」という。

 1ヶ月以上前に予約注文をしていたものが本日届いた。
 明日は百姓学校の定例会(今月は稲刈りのときと今回で2回)、「ひやおろし」を一本持参する。 その前に今夜、事前に味ためしをする予定である。
かっては、自分の口に合うお酒に出会うと、ニンマリと一人で楽しんだこともあったが、美味しいものならば、大勢でガヤガヤ言いながら口にするほうが楽しく、また更に美味しくいただける。
ただ、値段が手ごろで、美味しいといつの間にか評判になって、当初の味が落ちるのが分かる。 売れるようになり、大量に作るようになるためだろう。
 次々と新しい名柄を試すのも面白いが、その間に選定失敗のものもあり、捨てるわけにも行かずに(酒飲みは酒には特にケチである)悔しい思いをする。
さて今年の「ひやおろし」は如何であろうか。






NO.112
                                               平成16年10月22日

香港・上海ドラゴンズ会・OB会 開催
日本シリーズ第4戦に燃えました(テレビ観戦

 
NO111で書きましたように、21日は「香港・上海ドラゴンズ会・OB会」が開催されました。 参加者は12人といつもより少なめでしたが、当日は日本シリーズの第4戦をテレビ観戦しながらの歓談でにぎわしい事、にぎわしい事。
というもの、ドラファンの集まる事で有名な、今池の中華飯店“ピカイチ”が会場ですから・・・

メンバー全員が集まる前から、お店の奥様からのプレゼントです。
中日ドラゴンズ・セリーグ優勝時の記事、写真が満載された10月2日の新聞(中日スポーツ、サンスポ、スポニチ、ニッカン、日刊デンダイ、中京スポーツ、名古屋タイムス)と10月1日の中日新聞の号外がワンセットになった、厚さ3Cmに及ぶ「優勝おめでとう記念保存版」の束です。
 また、その中に、本年2月になくなられたご主人のことが紹介された9月17日付中日スポーツ新聞「D党の巣“ピカイチ”」として掲載され、同時に“沸騰”振る舞いタル酒、周辺警備・準備は整ったとのカラー写真のFAXも挿入されていました。

メンバーの一人が奥さんの着ておられるTシャツに目がとまりました。
“ピカイチ”のTシャツです。胸には野球ボールにPIKAICHIとプリントされ、背中にはこれまたPIKAICHIの名と赤のドラゴン(龍)が踊っています。
CHINESE RESTARANTとも入って、間違いなくピカイチのTシャツですが、ちょっとしたドラファンならば直ぐにこれは「あのピカイチ・ドラファン」だと分かります。
 一人が「何処にも売っているドラゴンズ・グッズと異なるから価値がある、目立つぞ!今度球場に来てゆく!」と言って、皆が限定版のこのTシャツを分けてもらうことになった。

私たちのとなりの部屋からも中日が加点する、あるいは投手山井がゼロ点で抑えるたびに歓声が沸き起こる。 それがたびたびとなり、しかも声が激しく高い。「あれは、普段の欲求不満をぶちまけているのでは・・・」との解説が入った。
7回の中日の攻撃に入るとき、奥さんが1Fに降りて皆と一緒に応援しましょうと言ってこられた、全員階下に降りる。
総勢50人を超えている。 「燃えよドラゴンズ」の大合唱である。
 記念撮影もした。早くも翌日(10月22日)早々とメールで送られてきましたが、それはそれは賑やかです。
10月19日香港で開催された「香港ドラゴンズ会」の記念写真もメールで送られてきていた、返信で昨日の「OB会」の写真も送ると言っていたが、見られない顔ぶれの、しかも多人数である。 香港のメンバーは面食らう事あろう。
中日が8点入れたところで、今日はもう安心と散会となった。



NO.111
                                               平成16年10月21日

ドラゴンズファンでなければ面白くもないですが・・
〜スッカリ顔ぶれが変化しました〜

 このコラム・NO104「中日ドラゴンズの優勝を祝う会」の事を書きました。
本日21日がその当日でありますが、いち早く「在・香港ドラゴンズ会」ではセ・優勝祝賀と日本シリーズの制覇祈念を期しての祝賀会が行われたとメールが入ってきました。

 『10月19日(火)、香港日本人クラブ「松の間」におきまして『2004年度第2回香港
ドラゴンズ会総会〜セ・リーグ優勝祝賀&日本リーグ制覇祈念〜』を開催いたし
ました!!

 当日は、熱狂的なドラキチ、オレ流のドラゴンズファン、ドラゴンズに縁のある
東海地方ご出身の方々約30名(含む、お子様4名)にご参加いただきました。
まずは会員のみなさまによる「燃えよドラゴンズ!〜ナゴヤドーム合唱編」の大
合唱でスタート(会員のみなさん!歌詞はもう暗記できましたね!)。
 中原香港ドラゴンズ会会長のご挨拶、馬岡幹事長のご発声による乾杯で、当日の
盛会とドラゴンズの5年ぶりのセ・リーグ優勝を祝いました。
  
残念ながら当日の試合中継は見えませんでしたが、日本人クラブ様のご協力のも
とインターネットで試合速報をチェックしつつ、大画面プラズマディスプレイTV
にて先日の日本シリーズ第2戦における大逆転劇、CBC製作の優勝記念DVD「優勝へ
の軌跡2004!」をご鑑賞いただきました。
  新旧ドラゴンズグッスを景品にしたラッキードローも大変盛り上がりました。
  最後に香港ドラゴンズ会初代会長の筒井様にご挨拶いただき、みなさんで香港ド
ラゴンズ会を盛り上げていくことをあらためて誓い合いました。
 
肝心の試合は第2戦に負けずと劣らない激しい打撃戦となり、最終的には惜敗しま
したが、優勝決定戦をホームのナゴヤドームで決めることが出来る最高のオレ流演出と
前向きに考えましょう。
 当日の模様は添付の写真の通りです。香港ポスト、週間香港、コンシェルジェ、
可能であれば中日新聞やドラゴンズのホームページなど各メディアに掲載(希
望)し、内外に香港ドラゴンズ会の存在をアピールしたいと考えております。』

添付された写真を見ましたが、香港在住20数年のT氏を除いて、他は全て顔ぶれが変化していました。
香港を離れて早13年です。 その間、1997年には香港の返還もあり、その後の中国の経済発展は目覚しいものがあり(異常か?)、香港における日本人・会社の活動の内容も大きな変化をしている事だろうことは容易に想像することが出来ます。
 政治・経済を離れ、在香港・ドラファンとしてのつながりを持って、今も「香港ドラゴンズ会」が継続している事に、気持ちの結びつきの大切さを改めて感じています。
 
今夜の「香港・上海ドラゴンズ会・OB会」<於、今池・中華飯店・どらファンの店“ピカイチ”>ではどんな盛り上がりになるのでしょうか。


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