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 COLUMN 1−D 1510
                           平成23年1月31日・記

        遠山郷・旧木沢小学校の朝

    〜「遠山の休日」、今年の計画話し合い〜



 天気予報は再度、再々度の寒波襲来と報道していましたので、スノータイヤの他にチェーンも持ち込みました。

    ところが、1月29日は全くその心配はなく順調に到着。
 
 今月と来月は「遠山藤原学校」ではなく、常連のスタッフが集まる「遠山の休日」です。 三々五々午後の5時前にはメンバーが揃いました。

 それぞれ持参の食材を料理し、地元の方も交えての恒例の酒盛りが始まりました。

    私は早々と7時半にはキャンピングカーに潜り込みました。

 翌朝4時ごろに目が覚めました。熟睡したこともありましょうか、キャンピングカーの暖房がストップしていました。
 (バッテリーの寿命と判断し、シッカリ掛け布団を掛け直しました)

           

             ↑旧木沢小学校の校庭と校舎

 長野県は南北に長く、北と中そして南では天候・気候が大幅に異なります。 北が積雪3〜40センチでも、南の遠山郷が数センチです。

   今回も同じことでしょう、木沢小学校の校庭は2センチ前後でした。

             

               ↑車のドアーの下の氷柱

 氷柱を久しぶりに見ることができました。雪は少ないですが、気温はグーンと下がります。 

 暖房の切れた社内で掛け布団から頭を出していますと、額がジンジンと痛い程です。
 (40数年前、仕事で飯田、伊那地域で寝泊まりしたことを思い出しました)

      翌朝は今年の計画の打ち合わせをしました。

 一般の方を迎えるようになって4年目です。 そして、昨年は各種テレビや新聞、その他で頻繁に遠山郷が紹介されましたので、今年はお客様が増えることが予想されます。

 スタッフ・メンバーのうち一人の方が遠山郷へ移住を計画されていることを発表されました。 
 既に1年以上に渡り足繁くこの地を訪れていますので、勘違いなどはないだろうと安心したり、頼もしく思ったり、期待したりしています。

           

         ↑旧木沢小学校の校庭より西の空を眺める。

 それにしても、気温が下がり・雪が降った木沢集落の朝は静まり返り、何の気配もしません。 

 遅い朝日が山々を照らし出す時、「神々がお住まいになる国」と言われることを少しばかり感じることができました。



 COLUMN 1−D 1509
                           平成23年1月29日・記

      変貌してゆくニュータウン・高蔵寺


 
  私の住む高蔵寺ニュータウンは1966年に開発行為が始まった。

 約700ヘクタールの里山だった。 地元の方にお聞きすると松茸も豊富に取れたというなだらかな丘陵地であったという。。
 東京の多摩、大阪の千里ニュータウンと並ぶ黎明期のニュータウン。

      1968年に入居が始まった。私は1971年に移住しました。

 当初、道路は十分に整備されていず赤土の道もそこかしこであった。 
 最寄りの高蔵寺駅までのアクセスは悪く、住民がバスの増設を要請する運動や深夜バス、深夜タクシーも長い話し合いで実現していった。

 当初計画は人口81000人であったが、2005年では48500人とピーク時から既に減少し始めた。 若い町からオールド・タウンへとなっている。

 1982年には住宅専用地区から準工業地帯への用途変更のときには特に近接する住民の反対運動が繰り広げられた。

 其の地域も今は物流センターや社員寮、そして軽工業が進出しているが「雇用の創出」には結びついていない。

 そんな中、証券会社の社員寮、研修センターが取り壊され、戸建て住宅地へと造成が始まった。

 ’(周辺の県所有の土地が売却され、戸建て住宅に建て替えられ、好調に販売が終了している)。

           

       ↑↓ 4メートルの擁壁になると反対運動が起こった

           


           

         ↑許可された通りに工事は進んだようである。


           

  ↑来月中には造成が終了し、新たな住宅が建ち並ぶこととなろう。

 子供人口は減り続け、学区の子供たちは最高時の三分の一となってしまった。 元気な子供たちの声が聞こえるのが楽しみであるが、周辺住民の気持ちはどのようなものであろうか。

 限界集落と言われる地域とは異なりますが、ここはここでの課題に取り組まなければならない状況です。


 本日、午後から限界集落と言われている南信濃・木沢に行きます。

 再び寒波襲来で山は積雪が予想されています。 スノータイヤですがチェーンも持参しなければと物置を探します。



 COLUMN 1−D 1508
                           平成23年1月28日・記

       マンサク(満作)蕾膨らむ



           

          ↑夕陽が影をこんなに長くしています

 
 図鑑を開いてみるとマンサクは「山の早春3月に一番に花を咲かせる」とあります。
 が、体内カレンダー(記憶)では西高森山のマンサクがボツボツ膨らみ始めるころであろうと教えてくれます。

             

↑昨年の花柄(写真では黒い色をしています。左の一番外側のモノです)をつけたまま、其の横で今年の花芽が開き始めていました。

 咲いているというよりは、辺りの様子を窺うように目だけ覗かせたという感じでしょうか。

 マンサク〜春の初めに「まず・先に咲く」から、マンズサクから「マンサク」と名付けられたとも聞いていますが、真偽のほどは判りません。

     「豊年万作」と言いますから、縁起の良い花なのでしょう。

           

 冬の西高森山から春日井〜名古屋方面の景色は空気が澄んでいてよく見渡せるのですが、昨日は鈴鹿山系も伊吹山も黒い雲に覆われていました。

 ”暖冬”という常とう句が全く聞かれない今年ですが、マンサクはそのようなことは全く関係有りませんと教えてくれました。



 COLUMN 1−D 1507
                           平成23年1月27日・記

       節分豆を購入してきました



  一年で一番寒い時です。 一番春が待ちどおしい時でもあります。
 
               

              2月3日が節分の豆まき。 

  豊橋(吉田城)の城下町に残っていた風習でしょうか、節分の豆まきのときには近所の家に風呂敷や袋を持って家々を回りました。

 私の町内には大きな菓子問屋さんがあり、このお店は毎年大きな袋にミカンやお菓子を詰め込んだ物を皆に渡してくれました。

              中でもチョコレートが人気でした。

 中学の2年生になった時は、行くのを躊躇しましたが、それ以降も続いていたと思います。今は途絶えてしまったことでしょう。


             
    
 そして、2月11日には天下の奇祭と言われる国重要無形文化財に指定されている「鬼祭り」があり、こちらは年々盛んのようです。


 天狗と赤鬼の「からかい」があり、負けた(降参した)赤鬼が小麦粉をまぶしたタンキリ飴を撒き散らしながら町内を駆け巡ります。

        五穀豊穣、無病息災を願うお祭りです。

 昔は家の中まで踏み込んで撒き散らしていましたが、今はそんなことはないようです。でも、頭からスッポリと真っ白になる方があらわれます。

        この方は正に無病息災の1年となります。
    
       20年以上この祭りの時、豊橋には帰っていません。
           さて、今年は出掛けてみようかな。


 COLUMN 1−D 1506
                           平成23年1月26日・記

 昨日で中部大学オープンカレッジ・秋期の講義終了

     〜退任教授の最終講座は面白い〜



 現役学生の期末試験が実施されており、昨日最後の講義に出向くと駐車場が満車であった。 アルバイト熱心な学生も単位取得に登校してくるのであろう。
 
 担当教授の単位取得は、学生のうち80%は合格点のようだが、20%は赤点であったようだ。(真面目に通学しておれば、難しくないと思うが・・)

 最終講義が終了しても今期限りで退任する教授の最終講義が開催されます。 ほとんどの場合、入場自由で聴講することができます。

 50年前後の研究成果の最終講義であることと、送り出す同僚教授たちが意を込めて設定する場ですから何時も中身が濃い。
 (退任教授全てに公開された最終講義が開催されるのではない)

 今回は「歴史と論理」 −山本有造教授ーの最終講義です。

 頂いたパンフレットには「1960年代から始まる山本有造教授の営為は、孤軍奮闘のうちに敵将の首級を打ち取った戦いにも似ている。
 
 あくまでも韜晦を貫く精神を知的モラルとされた姿は、さらに学究の矜持のあり方としても、後学の範とすべきであろう。」
と書かれています。

 山本教授は大学院の教授であったので、面識はなく、同時に講義を拝聴したこともなかった。 それ故に、より一層興味が湧きます。

 今回の其調講演「私と経済史研究」のほかに、パネリストの参加があり、其の中には思想的には山本教授とは相反する立場にいる他の大学の教授も参加されると聞いています。
 
 最終講義の場に、立場を異にするお方をお呼びすることを企画した同僚教授陣、そして其の事を良しとした両教授の懐の深さなのか、あるいは同じ研究者としての立場を尊敬し合っているのかは定かではないが、聴講させていただく身としては益々興味が湧きます。

 時代は右だ、左だと言っているような情勢や状況ではなく、全ての英知の結集と同時に、これまでの論理や経緯に拘っている時ではないと感じています。

 新しい方向付けをして、試行錯誤の行動に打って出るべき時と考えています。 これは老若男女にかかわりなく、とわれていることと考えています。

  これまでに様な他人任せ・人頼りでは生きてゆけない時となった。

    この最終講義から何かを学びとり、行動の一助としたい。



 COLUMN 1−D 1505
                           平成23年1月25日・記

         高血圧症の治療



      香港在住の時からですから、既に20数年になります。

 1989年に頸椎症が発生し、中国医にも診てもらうことにしました。
 
 医師曰く「兎に角、日本に早く帰国し、降血圧剤で当面の処置をしてください。それ以降に中国療法を実施しましょう」と。

 確かなことは忘れてしまいましたが、最低が130〜140、最高が190以上であったと思います。 

 家系的には高血圧症ですので、一般的に言われる最低が85から最高が135の適正数値におさまったことはありません。

         それから20数年降圧剤を飲み続けています。

 一度かかりつけの医師から「生涯飲み続けることになります」と言われ、其の言葉に反発しそれ以後、様々な試みをしながらの今日です。

 この寒い冬場は夏に比べると血圧は上がります。 朝の冷水摩擦はプラスなのかマイナスなのかと考えながら実行しています。

      

        半年前から、40代前半の女医さんに代わりました。

     「加藤さん、その後の調子は如何ですか」が第一声です。
        「好調そのものです」と言うのが、私の返事です。

 女医さんだからといって特に診察の時に血圧が上がるということはありません。  
         本日もカルテに90〜142と記されました。

 名前を呼ばれてから、診察し、診察室を出るまでの時間は、まさに”3分診察”です。

 診察室の前に座っている方々の前を「はい、お先に」と勝ち誇った気持ちで通過、受付で処方箋をいただき終了です。

  2ヶ月に1回の診察は思い上がらないための点検と心得ています。

 


 COLUMN 1−D 1504
                           平成23年1月24日・記

        遠山郷へお越しください、

  心優しく・温かく・渋い役者が御持ちしています。



      タイトルは入力しましたが、写真はありません。
      千両役者の面々には以下で会うことができます。

  youtube  コージコナー pulsar で検索しますと観ることができます。
             
 昨年の10月頃撮影はしたとは聞いていましたが、どのようなタイトル、内容で誰が出演したとも知りませんでした。

 遠山郷・藤原学校スタッフ・メンバーは普段の役者の方々を知っていますので、大笑いしたと書かれていましたが、私はなぜは全然笑えませんでした。
        なぜ笑えなかったのか考えても判りません。

 きっと、何度かのリハーサルと撮り直しで深夜までかかったのではないかと想像したからでしょうか。

 それとも、この映像が世に出て遠山郷を紹介する。その気持ちが責任感となって、毎度迎えていただく時の会話や表情とは異なったものだったからでしょうか。

 60年前頃の北設楽郡豊根村での親父の面影を観たからでしょうか。

          それにしても、「笑顔」が最高です。

            一度、遠山郷へおこしください。


 COLUMN 1−D 1503
                           平成23年1月23日・記

         立春を迎える準備


              今朝は庭に霜が降りていました。
 それでも陽があがると気温が上がる、ベランダに出る、気持ちがよい。

 ベランダの手すりに昨年の11月末からから楽しませてくれたイルミネーションが巻きつかれています。

 数日前からボツボツ取り外さなければと思っていたので取りかかる。
 
 仕掛ける時よりは簡単だが、乱暴な取扱いをすると今年の年末には使い物になるから慎重に進める。

        

     ↑外し終えて一か所に集めてみると、結構な長さと嵩です。
 
 一番古いものは10年以上になりますが、大体数年で使い物にならなくなります。 立派な電飾のツリーもありましたが、既に消えてしまいました。

 作業の終了近く、道路を隔てた迎えのご主人がイルミネーションの取り外しにかかった。我が家の4〜5倍はあるだろうから大変なことだろう。


 生垣の中ほどのライラック(リラ)の木に引っかけていた電飾を取り外す時、花芽と葉芽が随分大きくなっていることに気づきました。。

  花を咲かせるまでにはマダマダですが、立春間近を感じました。



 COLUMN 1−D 1502
                           平成23年1月22日・記

     当地の寒桜はまだまだ先のことです



           

   ↑中日新聞、1月22日朝刊、三重県尾鷲市天満浦・日本屋敷「天満荘」の早咲きのカンザクラの報道です。

 この桜を管理する住民団体が今年「正月桜」と命名したと紹介されていました。

 黒潮(日本海流)が流れる熊野灘の尾鷲とは直線距離で約150Kmも離れている濃尾平野の北東の端・春日井とでは大きな気温差があるから比べるのは問題外とは思いつつ、春日井緑化公園に行きました。

           

 ↑1か月程前に、公園内「万葉苑」の竹垣の修理を計画したら100万円以上の経費と見積もられた。 そこで職員が園内の竹を切り出し・作り直したとの記事を見ていました。 見事に修復されていました。

  (どこの家庭も、市町村の財政も同じようなものです。自らです。)

           

    ↑園内のカンザクラはご覧のように、マダマダ固い蕾でした。

        焦点はボケていますが 蕾から秘めた力を感じました。

   

 COLUMN 1−D 1501
                           平成231月21日・記


   注目される愛知県知事、名古屋市長選挙

  〜名古屋市市議会・解散の是非を問う投票〜


            

          ↑ 愛知県知事選挙の広報ポスター看板

    このところ愛知県、名古屋市が全国的に注目されている。
      (全国放送のNHKや民放で連日取り上げられている)
 
 2月6日に愛知知事選挙と名古屋市市長選挙、更に名古屋市市議会の解散請求の是非を問う選挙・投票が行われる。

 私は春日井市民ですので、直接的には愛知県知事の投票権があるだけですが、その他の選挙・投票にも関心を持っています。


 以前にもこのコラムで書きましたが、自民党政権は早く下野すべきである。
 しかし、民主党が政権を奪取しても所詮大した改革も変革も起こらず、内紛で結局政局のみならず、日本全体が一度ゼロからやり直す状況にならなければ収まらない、新しい時代は来ない。と。

 以上の見解は私個人のものでなく」「波動の会」に参加しているメンバーのほとんど総意でもあった。

 案の定、鳩山政権は誕生したが、宇宙人とも揶揄された鳩山さんは、鳩山一郎首相から数えて3代目のお坊ちゃんであった。

      聞くところによるとフリーメーソンとかの一員のようだ。

 聞き及んだ知識からすると、18世紀から19世紀、絶対君主制の下の高級官僚とユダヤ系の大ブルジョアが参加した出身民族関係なしの特権階級、知識人、リベラル派の排他的な仲間集団ということらしい。

 現代において、其の流れをくむフリーメーソン・メンバーと言われる鳩山由紀夫さん、新しいことをする・社会を変化するという理想を持ってはいたが、チャランポランの政権運営で混乱し、退陣した。

 其の後を継いだ、「棚ぼた首相・管さん」もスッカラカンとか揶揄されている。

 さて、庶民が憂さ晴らしの政局や選挙評論をしていても、そのツケは間違いな巡り来る。

      まずは、自覚を持って愛知県知事選挙に望みたい。
   確信は持てないが、投票した自己責任は持ちたいと感じるために。

  
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