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 NO.330                                                                        平成17年8月日19日 記

 高鷲村”大日ケ岳”(1708.9M)に登る 
 〜ベビーフードでは〜       8月16日


東海北陸自動車道を利用しする時には高鷲サービスエリアをいつも休憩場所にしていた。 その時、眼前に見える大日ケ岳にはいつか登って見たいものだと思っていました。   
8月18日には後ほど紹介するように、乗鞍山麓の五色ケ原トレッキングの予約をしていたので、それとセットで登ってみようと出発しました。 山に登るには朝早くが鉄則でしょうが、午前9時にスタートというおおちゃく振りである。                         

大日ケ岳に登るには白鳥、高鷲、庄川の3ルートが紹介されていましたが、時間的に一番短かいダイナランドスキー場からのコースを選びました。 後から反省してみますと確かに時間的には短いのですが、その分急坂と言うことになります。 18日の五色ケ原が一番の目的と言う事もあり相方は三分の一のところでリタイアーしてしまいました。        
               写真左 スキー場の作業用道路でもあり、ゲレンデでもあります。 足元は石ころで、しかもなかなかの急坂です。 全コースの約五分の2を占めます。                
写真右 スキーゴンドラの終点地(1320M)から高鷲方面(白鳥方面?)を眺めたところです。     この地まで、ゴンドラで運んでくれれば楽なのですが、それでは山登りをした感激が薄まってしまう事でしょう。                                         
さて、相方がリタイヤーしましたのでマイペースで歩き始めましたが、登山道に入りキツイ登りが何度かあり水筒の水はドンドン減っていきます。 出発前に登山登録したホテルで、「連日雷雨がきておりますのでパラッときたら無理しないように」と言われていましたことが脳裏を横切る雲行きでしたが、ここで引き返す訳には行かないと3度の大きな登り下りを繰り返してやっと「前大日」に到着しました。                             
 

前大日から大日ケ岳を望む

ここまでに、単独の男性、二人連れの若いカップルと3人連れ(男2人と女一人)とすれ違いました。 と言う事は私より1時間半前には登山口を出た事になります。         
ここで問題が一つありました、弁当を持参していないのです。 沢山買い込んで来た御菓子類はリュックにイッパイ詰め込んでありますが、やはりお米が求められました。 一気に登ってしまおうと先を急ぎ頂上です。                           

       
三脚は持ってきていませんので、方位盤の上にタオルを於いてシャターを押しました。
                                                    蝶がご挨拶にやってきました。      360度の眺望は残念ながら快晴とは行かず今ひとつでしたが、雷雨に見舞われるかも知れないという危惧はなく”大日如来”様と記念写真でした。                

往路の時はシャッターを押すユトリもありませんでしたが、復路では登山道の真ん中に根を張り通せんぼしている写真や急坂の場所のロープを振り返って撮ってきました。
                         
  帰路は1時間半と紹介されていましたが、往路は紹介の85%で来ましたので、1時間もあればと思っていましたが、最後になって弁当のなかったことがひびきました。 エネルギー切れです。 水も(1リットル)底をついてしまいました。 次々とゼリーや飴、スナックを食べていましたので空腹感はないのですが、身体に力が入らないのです。 フラフラということはないのですが、重い足取りでした。  後から分かりました。 口にした物はベビーフードということで低カロリーのものだったのです。 一袋食べても98〜200カロリーでした。                 
 
 NO.329                                                                         平成17年8月日15日 記

 南遊の会 ”日越青少年交流の森づくり”が出発
  〜戦後60年 テレビ・新聞社説で勉強〜



 
39人(内、現地参加2人)の団体となるとさすがに目立つ。 出発ロビーの一角に集まったのであるが、通路にはみ出して他の乗客の邪魔になる。 昨日で国内線はお盆休みのピークを過ぎたようであるが、国際線は賑わっていた。 どれほどの学生が海外旅行が初めてかは知らないが、なんとなく会話の声が一段とトーンが上がっているように感じる。    
皆元気で帰ってきてくれればよいが、空港で旅行中の国内側の窓口を仰せつかった。  私もツアー参加者であると思っていた学生が「あれ、行かないのですか」と言うから、私に連絡が入るような旅にならないようにと話していると、隣で正露丸(クレオソール)の匂いがする、「もう、腹の調子が悪いのか」と言うと、「朝の食パンの賞味期限が切れていたようだ。 内のお袋は平気で1週間くらいなら、賞味期限切れを冷蔵庫に入れている」などと、自慢げに話している。                                                  
「行く国は社会主義の国と言う事を頭に入れておくこと」と言うと、「あ〜、ソウなんですか。何処がどのように違いますか」と言うので「、それを肌で感じ、ベトナムの学生と接する事の意義があるんだ」と言っておいたが、戦後60年、日本がかって米英と戦争をしたと言う事すら知らない若者がいると紹介されていた。                           
 60年と言う歳月は時間の経過による「展望」の変化によって、目に見える情景もそのイメージも質的な変化をもたらすのであろうか。                            過去の出来事が忘れ去られ、反省や自戒がおざなりに成って、再び同じような過ちを繰り返してきているのが私たちの歴史であるとすれば、技術や文明をいくら発展させたと言っても、万物の霊長などと言う資格はない。                             

 空港から高速道路〜都市高速を乗り継げば1時間半で自宅である。 これは確かに時間的には便利である。 高校野球から切り替えて、昨夜録画しておいたNHKスペシャル「戦後60年、靖国問題を考える」を視聴した。  そして今夜(8月15日)3部構成に成っているNHK番組、日本のこれから「アジアの中の日本」戦後アジアの対日感情、「じっくり話そうアジアの中の日本」の録画をセットした。 中日新聞を含む全国紙6紙の本日の社説をコピーした。                                                
 これらを参考に戦後60年を振り返り、これからの日本は如何あるべきか、残りの人生を如何に生きるのかを考えてみたい。                                  良いときに、小泉さんは衆議院を解散させてくれたものである。               
いや、これは天の配剤なのかも知れない。 このチャンスを生かそう。         
 





 NO.328                                                                         平成17年8月日14日 記

 シラサギが舞い降りました


  『混乱の時代に入った。 〜不安、不信、不満は自己解決よりなし』とのタイトルでと入力しましたのが8月10日、停滞とか沈黙とか静かに見守ると言う事が嫌いと言うか、、できないと言うか、兎に角変化の中にいる、動きを感じると言う事が好きな体質ですので、知らぬ間に政治、選挙に気がいっております。
 本日・日曜日、朝からテレビで政治討論に見入っています。 自民党内の嵐は第1ランドが吹き荒れています。 小泉首相は意気盛んです、亀井静香さんは思惑が外れたと言うか、こんな状況にまで追い込まれるとは予測していなかったようで腹が座っていない様子です。 それでも強気な発言です。 現役のリーダーは大変です。
 どちらにしても、混乱の始まりでしてどのように展開してゆくのかまだまだ検討がつきません。 天は答えを知っているのでしょうが、自分勝手な言い分や行動をどのように諌めるのでしょうか。

 昨日、築水池を一周しましたら、サギソウが咲いていました。 守る会の方による簡単な保護ですが、今年は少し多目の花の数と感じました。 政界にはシラサギは舞い降りない事でしょう。 
                    
          
             

 シラサギソウの頭上ではこんな花が咲いていました。 名は知りません。
 
        

 この時期、アチコチの家の庭で高砂ユリが背の高さを競うようにスーと茎を伸ばして咲いています。 これも白色です。 立秋が過ぎましたが暑さは最高調です。 皆さん健康に留意されますように・・      



 NO.327                                                                         平成17年8月日10日 記

 お知らせ


  『混乱の時代に入った。 〜不安、不信、不満は自己解決よりなし』とのタイトルで、久しぶりに政治関連、「今回の衆議院解散と総選挙」の事を取り上げました。
 長くなりなりましたので、エッセイB「政治・経済・社会」に掲載しました。

 ご興味のある方はそちらをクリックください。
 なを、選挙結果が出るまで気が向いたらり、気になる記事・発言がありましたら取り上げてみたいと思っています。 「コラム2−N」か「エッセイB」どちらかに
 誰か身近な人が何かを発信しないと昨日の続きが今日となり、今日の次が明日と成って流されてしまい、いつの間にか置いてきぼりという事にならないために。
 という事は発信者の私自身が置いてきぼりとなり、ボケ老人に成って、下の世話をかけてしまいますから。 可能な限り「ピンコロ」を目指します。
 との成果と結果を期待して・・・・


 NO.326                                                                         平成17年8月日8日 記

 ”日越青少年交流の森”づくり
   2005年スタデイーツアーが出発する


  今年が第4回目となる「南遊の会」主催、ベトナム・カンザーの地でマングローブの植樹を通じて、日越青少年交流の森づくりのケーススタデイーが8月15日から10日間の日程で出発する。
 その最後の研修会が8月8日名古屋・栄の「教育館」で開催された。
         

 過去計画中に「サーズ問題」や「鳥インフルエンザ問題」が発生、中止直前までに追い込まれたこともあったが、何とか続けられてきた。
 それに引き換え今年は当初計画を大幅に上回る日本側だけで40人近くになると言う、大ツアー団になった。 学生31人、社会人2人、スタッフ6名である。
 これにベトナム側の学生が25〜30人、現地関係者が加わるから70人以上の規模になる。
 既に3回の研修会と5回に亘りベトナム留学生によるベトナム語講座も実施されている。
 
 慣れてきている会のスタッフではあるが参加者の学生の中には海外が初めてという方も多く、スタッフの気の緩みも無きにしも非ずと、学生が解散後も南遊の会のメンバーにて運営、役割分担等の打ち合わせをした。
 再度、8月11日に参加スタッフによる最後のチェックをする事にした。

           
        手袋                       地下旅
 写真では分かり難いと思いますが、当日参加者に配布された地下旅とゴム手袋です。
 自分のものの他に現地参加者の分も持参します。
 若い学生=お嬢さんに「これが今、名古屋の一番新しいお嬢さんルックだ」と言って、地下旅を履いて今から栄えの街を行進してみたら如何だと言ったら、「いやーだ」と即座に言われた。  
 ベトナムの学生との意見交換のテーマとして、家族関係、職業観、国際関係などが挙げられていた。
 元気に、楽しく、思い出になり、地球環境のことを考え、異なる歴史・価値観を含む多面にわたる交流をしてきてほしい。
 




 NO.325                                                                         平成17年8月日6日 記

 古代東山道を歩く
 〜ヘブンスそのはら・富士見台高原〜


          
 この写真は「富士見台高原ヘブンス・そのはら」のロープイェイ・ゴンドラの中から撮影したものです。 
 中央高速道路の園原IC当たりの全景です。 中津川・神坂から最初の恵那トンネルを出たところにありあす。 車で走れば後1分で再びトンネルの中です。
 写真でもお分かりのように山間に地にあるICでして、名古屋方面から飯田に向かう、あるいはこの園原ICから名古屋方面に向かう車しか利用できません。 それだけの平地がないということでしょうか。 
 何故こんな僻地にICを作ったのでしょうか、正しい事は知りませんが、推測するに昭和30年代、国鉄時代に中津川線が計画され、その後昭和47年に神坂トンネルの試掘に着手しました。 ボーリング調査中に昼神・湯の瀬地籍で温泉が湧出しました。
 その後、今日の昼神温泉へと発展して行くのですが、昭和55年に国鉄中津川線の工事は中止になりました。 そこで名古屋方面からのお客さんを見込んでICの建設が成されたのでしょうか。
 そのことと、中央高速道路建設の時、この恵那山トンネルは大変な難工事でした。
 何も無い(失礼)下伊那郡阿智村の方たちを中心として様々な工事への協力が成された事に対しての反対給付でもあったのでしょうか。
 なお、昼神温泉郷ばかりでなく、月川温泉郷もあり年々賑わいを増しているようです。
 
 また、時代を遡ると歴史浪漫の地でもあるのです。
 大宝元年(701)、朝廷は近江の国(滋賀県)を起点として「東山道」という道路を作りました。 道は美濃国(岐阜県)を経て、神坂峠(信濃坂)信濃国府を経て、碓氷峠を超えて上毛野(群馬県)・下毛野(栃木県)より陸奥・出羽国(東北地方)へ通じていました。 長さ約1000KMの道のりでした。
 東山道は大和政権が地方を服従させるための「支配・軍事の道」であったと同時に、九州北辺の防備に徴用された「防人の道」、税物を背負って歩いた「納税の道」、されに信濃の国で生産された馬を都に運ぶ「貢馬(くめ)の道」として、利用されていました。

 東山道の中でも、美濃・信濃両国は険しい山道が多く、最大の難関は神坂峠越えであった。 気候の変化が激しく濃霧がかかりやすく、雷鳴が近いところでもありました。
 都でも通行困難な場所と知られ、古事記・日本書紀や古文学に地名や歌枕として取り上げられてきました。

 長々と紹介しましたが、本当はまだ昼神の地の由来なども書きたいですがやめます。  かって中津川から神坂峠までクネクネと100曲がりの細い道を車で行ったことがありました。 また、その時とは別に神坂峠からされに九十九折の山道を信濃側の月川温泉郷に下った事もありました。(今は数年前の台風で土砂崩れで通行禁止に成っています)
 当時、神坂峠から富士見台高原で登るルート(往路約40分)を見上げただけで帰ってきました。 次に、10年前に富士見台高原ロープウエイが出来たその折に1600メートルの展望台までは行ったのですが、物凄い濃霧で景色はおろかトレッキングどころではなく帰ってきてしまいました。
 今回は再度の挑戦と言う事です。

          
 標高800Mの山麓駅から山頂駅(標高1400M)、更に冬にはスキーリフトともなる展望台リフトで標高1600Mの展望台に到着。 そこから約1時間かけて神坂峠(1576M),一度下って1739Mの富士見台高原に到着です。

          

 深田久弥『日本百名山』で紹介された二十三座が360度のパノラマで見られるとの事ですが、時折陽ざしは差し込むものの、うす曇でご覧のような状況でした。
 また、元は山伏岳と呼ばれていたが、明治時代に富士教信者が富士参拝所をここに設けた事から「富士見台」と名がついたと言う事で、富士山がみえるわけではありません。

 再び同じ道を下りますと、ここは恵那山を初め「東山道」などの登山ルートの起点になっており山小屋「萬岳荘」があります。
          
 今は村営で山小屋は初代より数えて三代目です。
 萬岳荘は、昭和8年放牧場の牧夫小屋兼登山者宿泊所として創建された。 昭和35年4月21日『日本百名山』の著者・深田久弥も恵那山に入山、恵那山頂より南アルプスの眺望を楽しんだ後に、神坂峠へと下り、当時の「萬岳荘」に宿泊した。  
 なを、ここのお水は美味しかった。湧き水との事でした。
 

 往路は横目で眺めただけで通り過ぎた山頂駅に降り立つと、10周年記念で「空・花・緑・光に包まれた天空の園」とのうたい文句の花のジュータンを眺めました。
 夜はイルミネーションが点灯されてますが、4時間も時間をつぶすところはなく下山しました。 それが正解でした。 2時間後この地方が激しい落雷だったのです。
         
                             キテイーちゃんです

 山頂ではアキアカネ(トンボ)が湧き上がるように舞っていました。 何度かカメラに収めようとしましたが全てが点に成っているばかりでした。
 それに反し、フジバカマの周りを飛び交っていた蝶(名前?)は静かに近づけばカメラに収まってくれました。
         
 
  




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 富士登山を打診されて
 〜春日井三山を踏破するつもりが・・〜


 ベトナムの留学生に「一度は登ってみるべき山、日本一の富士山」と話しておられたOさんに、どうですかと打診されて、一度は登ってみたい山とは思っていましたので、「いいですね〜」とは言ってしまったので、翌日インターネットで調べてみました。
 ”後悔しない富士登山”を開きました。  「富士山に一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿といわれるが」とのサブタイトルで詳しく初心者向けの解説がなされていました。
 
 これは大変なことになるぞと思っていると、なんと相方も登ってみたいというではないですか、更にこれは困った事になったものだと思い、昨日どれほどの体力があるのか調べてみようと誘ってみました。
 其の前日にも誘って1時間ほどの散策をしましたが、「今日は体力を温存にします」と出てきませんでした。 
 そこで、富士登山の装備のチャック・リストに従い1泊2日の内容をリュックに詰め込みました。 約10Kgでしょうか、四国88ヶ所の時と同じ程度か、それよりは若干軽く感じました。
 山に入るので水だけは充分にと1リットルのキャンテイーンにしました。
 一人ですので予定していたコースより長めにしてみました。

 結論です。全工程の4分の3、3時間半の間に予測より多目の休憩を4回取ることになりました。
 私が春日井3山と呼んでいる”道樹山”で休憩していると、同じ年頃の方が別ルートで登って来られました。 そして、「今日は大変な日だ。普段はここまで来るのに1回休むか、休まないかで登って来るが、今日は3回も休んだし、500ミリリットルの水を飲み干してしまった」と言われ、「今日は余分にもう1本持ってきた」のは正解であったと言われるのでした。(なお、このを方は40代の頃、富士登山をされ、高山病にかかり、2度と登る気がしないと話しておられました)
 その方と暫しお話していると、今日は特別の気温と湿度かなとも思ってみましたが、最後に残しておいた水筒のタヒボ茶を飲み干して、帰路につくことにしました。

 真っ直ぐ帰ればよいものを、更に大谷山まで足を伸ばして下山しました。
 喉はカラカラです、唾が粘ってきました。 良く健康雑誌のサブ・タイトルにある”ドロドロの血液」に成っていることだったでしょう。 
 後10分で家に到着と言うところの植物園から携帯で電話しました。 「スイカはあるか。 冷やしたトマトはあるか。 キュウリも用意すること」と告げて、それが玄関先に並んでいる事を想像して、4時間半の行程をフィニッシュしました。
 
 ところで、玄関にはそれらのモノが並んでいたでしょうか? 
 「何時になるか分からなかったので」との言葉を聞きながら、いつもなら食べ残すスイカの白いところまでも貪り食べてしまいました。
 トマトも平らげ、ジュースは500ミリリトルを一気に空けてしまい、その後もラムネと続きました。 更に水浴びして軽くジンジャーエールで割ったウイスキーをいただき、一眠りです。 極楽とはこのことでしょうか。

 4時間半の行程でした。 写真を撮るところもあったのでしょうが、帰ってきてみたらリュックの底に隠れていました。
 春日井3山は弥勒山を残して、登らずに帰ってきたということです。 これでは空気の薄い富士登山など到底だめでしょうが、途中で引き返すことも覚悟の上で出掛けるのでしょうか。 ここは思案のしどころです。
 乗鞍山麓”五色が原”のコースも気になっていますので・・・
 中高年の登山が盛んと報道されていますが、ひと様に迷惑のかかることは避けなければと考えています。
  

   




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 ベトナムからの留学生 愛・地球博を案内
 〜デジカメ片手に大ちゃんが行く その18〜


 30日、大阪外語大学と大阪大学に留学中の二人のベトナム留学生を案内しました。
 彼らは日本語は話せますので会話の苦労はありません。
 名古屋駅まで迎えに行った南遊の会のメンバーに案内されて、午前11時にベトナム館の前で落ち合いました。
 開口一番私が「万博会場の第一印象は?」と訊ねると二人とも「凄い、広い、人がイッパイ、暑い」でした。 「何処に行きたいか」と訊ねると、「企業パビリオン」との返事ですが、事前に入場して調べると、既に70分以上の待ち時間がほとんどでしたので、「時間がないからやめたほうが良い」と伝えました。
 30日の夜は歓迎夕食会の席が予定されていますし、翌日は福祉大学に行って、マングローブの植樹についての報告が組まれていますので時間のゆとりはほとんどありません。
 メインの一つはやはりグローバル・ハウスしようと降りてゆきますと入場整理券の配布中でした。 午後2時からの券を渡されましたので、まずは腹ごしらえとレストラン街に向かいました。  名古屋の”あんかけスパゲテイー”はまずまずの好評でした。

 グローバル・コモン5・アフリカ館を見学して、コモン・4ヨーロッパはパビリオンの建物だけの見学で、”キッコロ・ゴンドラ”で北駅に、そしてブルー・コースで縦10メートル横50メートルの巨大な映像と冷凍マンモスを見学。

                   ”キッコロ・ゴンドラ”の中で        疲れて地球広場のヨシズの下で

         
     5万枚の七夕短冊のタワー             地球市民広場のドングリ君

 疲れた様子だったので足の伸ばせる休憩室を当たりましたが、何処も満員です。
 では、「自然の叡智」をテーマとする、会場に案内しましょうと”地球市民広場”に案内しました。 空気で膨らませたドングリ君も休憩にやってきました。 中からこれもボランテイアでしょうか、若い女性の方が出てきました。
 室外の休憩室で一休みと竹で出来た椅子に腰掛けている間に皆一眠りしました。
 そこに豊田市でギター教室を開かれている方がお見えになり、オカリナを聞かせましょうと声をかけて来られました。
 そのオカリナはこの万博会場の中の土を使って作られたものとの事です。 6種のオカリナがあり、音色の異なる音階のモノで3曲聞かせてくれました。
 聞き終わって記念写真をお願いすると、「私が有名人になると記念になるのですがね・・」と言って、気楽にご一緒していただきました。
       
  右がオカリナを聞かせてくれた方             夕食会

 お名前も聞かずに別れましたが、その後直ぐに地球市民広場で演奏の準備されていました。
 若い二人はロボット館のロボットたちに興味を持って眺めておりましたが、残念ながら時間です。 名古屋・栄に戻り歓迎夕食会となりました。
 本日31日はどんな報告をしているのでしょうか。 
 8月15日からは日本から35名の団体でベトナムのマングローブ植樹に向かいます。
 彼ら二人は8月下旬に帰国との事です。 日越の若い人の交流のお手伝いをさせていただきました。






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今年こそはと暑い中、蜂屋柿の摘果に行ってきました
   〜努力は報われるでしょうか〜


 確か5年前に肥料不足で収穫がゼロと成ってしまいました。 その後、施肥したところ年毎に樹力が回復して、一昨年は約600個の収穫がありました。(現地価額で一個100〜150円、街のスーパーでは200〜250円のもの)
 収穫の多さには感激したのですが、皮を剥く段になりくたびれました。 同時にその年は暖冬で半分近くにカビが発生しました。 青かびですので食べるには問題はないのですがやはり見栄えがいけませんでした。

 そこで昨年は数よりは質を追及しようと御礼肥もたっぷりと施し、春肥もキチンと与えました。 裏年でしたので、実の付きはそれほどでもありませんでしたが、それでも充分に期待できるスタートでした。 
 が、昨年は台風の当たり年とでも言うのでしょうか、4〜5度襲われまして、結局収穫はゼロと成ってしまいました。 自然の脅威を改めて教えられました。

 今年の6月、梅の収穫に行きましたときの状況は驚くばかりの実の数でした。。
 その時摘果しても良かったのですが梅の収穫だけで帰ってきました。
 そして7月までに摘果しなさいと本を読み、知っていましたので本日となりました。

             

 摘果前の状態を写真に撮っておくと良かったのですが、気がついたのは摘果後でした。
 写真の丁度倍の数があったと想像してください。 高いところの物は脚立の低いものしかありませんでしたので摘果出来ませんでした。 柿は日当たりの良い枝に特に実を付けるようです。 
 それでも、約250個前後を摘果しました。 参考書では摘果の方法は見当たりませんでしたので、誰にも聞かずにまさに適当に自分流です。

           

 ご覧のように既に親指の倍程度の大きさに成長していますので、それに鋏を入れるのは少し躊躇いがちになりますが、600個も収穫した時の事を思い出して思い切りました。
 同行の相方は何もせずただ「台風が来れば落ちるのだから、そのままでも良いのでは」と気軽なものです。
 確かに台風が来れば落果するでしょうが、落ちて欲しいものが落ちると言う保障はありません、やはりここは人間の手が必要なのではないでしょうか。
 と言うものの、6月末の時の状況を思い起こすと、柿自身の自然摘果は的を得たものであると言えます。 よく出来たものです。

 これで後は収穫を待つばかりとなります。 9月末から10月初旬は同じ場所に栗がありますので収穫に行きます。  そして例年11月の上旬〜中旬に蜂屋柿の収穫をしていましたが今年は中旬から下旬にしてみようと考えています。 早めの収穫したものよりは柿色に色付いたものがやはり美味しいと感じていますので。

  さて、人の世はテロ騒ぎ、六カ国協議、安保理改革、更にシャトル打ち上げ成功との報道です。
 日本の政界も8月13日までに郵政民営化法案がどうなるか、成立か否決か、解散総選挙か小泉辞任かと暑い夏に更に暑くなっている方たちもいるようですが、一歩下がって眺めていると権力欲しさと保身の裏表で息巻いているように見えます。 
 鋏で何処のどれを切り取ればスッキリするのかは検討もつきませんが、たまには蜂屋柿のように自分で自然摘果出来る政治家が居ってもよいのでは思うのですが、望むらくもないようです。 ただ鋏は持っています、適正に摘家しますとソッと一言言いましょうか。
 



 NO.321                                                                         平成17年7月27日 記

 兎に角、終了しました。
 〜放送大学の単位認定試験〜


 久しぶりに軽い解放感を味わいました。
 初日の26日は台風7号で東海地方に警戒警報が発令されていましたので、午前中は試験は中止になったようですが、私は午後からでしたので影響なく行われました。
 十何年ぶりに地下鉄鶴舞線で八事まで行きました。 街が変わってしまい迷うのではないかと早めに出発しました。
 八事駅では名城線と交差しており長い地下通路を300メートル近くを歩いたでしょうか。
 5番出口が目指す放送大学・愛知学習センター(中京大学センタービル4F)でした。             
             左のビルです。

 まず事務所に立ち寄り学生証の正式発行・登録をしました。(これがありませんと受験できません)  窓口に放送大学のバッジが販売されていましたので、記念にと購入しました。 試験会場を一当たりしておきましょうとちょっと迷路のような通路と橋を渡りました。

              

 自習室はもとより廊下に並べられた椅子には学生が最後の勉強とばかりに教科書を開いていました。 若い方が多いのですが私と同年齢の方も1〜2割はいます。

              
      ガレリアでも教科書を開いています       

 私は更にアチコチと廻り格好な場所を見つけました。
 試験会場の外の回廊です。 3階くらいまで成長した緑の大きな木々が目の前にあり、遠くは名古屋駅のツインビルも眺められました。

           
 ほぼ同じ角度ですがこちらは26日雨の日    翌日台風一過で気温グングン上昇中

 2日間で5教科の試験を受けましたが、休憩時間の度にこの眺めを楽しみました。
 ところで試験の出来はどうか?
 60点以上が単位取得のラインですが、良くて1教科、間違って2教科がラインを超えたでしょうか。 逆に1教科もパスせずということもありかと自己判断しています。
 試験問題は持ち帰りができませんので、大半は忘れてしまいチェックが出来ません。
 
 なんと言っても世界各地の歴史・社会・文化です。 教科書の持込O.Kもありますが、何処に其の事が記載されているかを探し当てるのに苦労します。 まして持ち込みNOの場合はさらに大変です。
 大体の時代の流れや経緯は理解しているつもりでも、細かい年代、人物の名前、場所、
事柄、その名前となると、択一方式ですが最後はエイヤーとなってしまいました。
 
 時間不足のもの、ギリギリで書き終えたもの、とありましたが、最後は疲れてしまい終了時間前に提出して引き上げました。
 昼の学食が少なかったのか、空腹感を覚えました。 
 今帰宅して一番にパソコンに向かい入力をしました。
 この後、散歩して汗を流し美味しいビールで一人乾杯します。
 
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