このページ以前の
コラムはこちらへ

 COLUMN1-D NO 450 
                             平成18年2月4日 記

  何時もの散歩コースを逆周りして見ました
 〜節分の豆まき「福は内、福は内」と〜 


 雨模様の日が続き3日間ほど散歩に出かけませんでした。 身体がムズムズしてきます。 ポストに手紙を投函し、何時もとは逆周りのコースを取りました。
 昨秋の大雨のとき崩れた道路の修復で迂回路になっていたところの工事が終了しておりました。 今度は治水ダムから流れ落ちた水を誘導する水路が造られておりましたが、昨年と同様な大量の雨が降ったなら、またあふれ出すのではないかと思いましたが、それでも水抜きの大きなコンクリート管で流れるようになっていたから大丈夫なのでしょう。
 
 二股に分かれたところ、普段なら右手に曲がるところですが、もう少し歩いて見たい気持ちで左手にコースを取りました。
 我が家の書斎からは眺められない春日井3山の最高峰「弥勒山(437M)]が夕日に照らしだされていました。
        
   弥勒山は左、 右は大谷山(425M)      さらに南に下がり砕石場です。

 冬には珍しくビールを美味しく戴きましました。 日本酒に代わり気分が乗ってきた頃、和室の戸を開けて、「福は内、福は内」と「鬼は外」とは叫ばずに、明日の朝には鳩の餌になる豆まきをしました。
 
 2月4日「立春」です。 今冬はまだまだ寒気団がやってくるのでしょうか。 それでも日記帳に”冬と春の別れの日”の活字を見つけ、春日3山に浮かぶ雲に「春ですね」と目配せしました。





 COLUMN1-D NO 449 
                             平成18年2月1日 記

     ”我が家の床の間” 紹介  


 コラム1−D NO442 「ホームページ編集室紹介〜などと言いましただ書斎です」に何時以上の反応がありました。 
 「隣の夫婦喧嘩は面白い」というのでは比喩する言葉が的を得ていませんが、他人の家の見えないところのことは、誰しも興味があるのでしょうか。
 喜んでいただけるならと、今度は和室を紹介しましょう。
 
 このコラムのNO140、149・・・など、平成16年12月3日から平成17年3月20日の
 NO222まで、7回にわたって、私の家の近く高森台7丁目の住宅開発を紹介したことがあります。
 出来上がったところで見学に行きましたが、約30年前の我が家の建物とは大違いです。 特に、室内空間、間取りと配置、もちろん洋間ばかりで和室はありませんでした。 当たり前ですが、仏間も和室もありません。

 ところで、我が家には仏間はありませんが、和室は2間あります。 其の一つは納戸見たいになってしまっておりますが、いま一つは私の寝室兼客間ということになっており、そこには床の間がついています。 その床の間の状況と置物です。

      
   床の間全体です。左手前には梅酒の瓶もあります。
   (右) かって馬の置物を集めていた頃がありました、白の絵は知人が描いたもの

              
   高山の屋台です          姪の新築祝い     ジャワ〜香港〜日本
 
         
 2001年中国・杭州にて      『鑑定団』に一度出してみようかと、金1万円?

              
  (左)どこかで見かけたことがあるのではないでしょうか、長野県阿智村の”昇竜一筆書き「折山朝明」”さんのものです。 ただし、これは1998年香港にお招きしたときに戴いたものです。
 (右) 何という名前のものか忘れてしまいました。 私が香港から帰国するとき、現地の幹部社員達から送られたものです。 戴くとき聞かされました、みんなが加藤さんのことを影で呼んでいたアザナだったそうです。 
 



 COLUMN1-D NO 448 
                             平成18年2月1日 記

   節分前、連続3日間の雨の庭にて    


 1月30日から3日間連続の雨模様のお天気で、お日様が一度も顔を出しません。

             
 書斎からの春日井3山の眺めも、霧がかかってスッキリしません。
 雨が弱まったところで、庭に出てみました。 
        
         福寿草                         雪柳
 福寿草が頭を出しておりました。 昨年は”コラム1−DNO191” 平成17年2月9日「最高気温14度でソッと蕾をふくらませて」と掲載されています。 寒い・寒い今年の冬ですが、今にも第一花が咲き出しそうです。 雪に埋もれていた期間も長かったのですが、それにもめげずに頭をもたげ出しました。
 「雪柳」、花が咲くまでにはまだまだ時間がかかりそうですが、「花餅」みたいでしたので、掲載することにしました。

        
 例年、定番の「ロウバイ」です。 毎年書きますが家のそばの木は今が盛りです。 室内から逃げてゆく暖かい空気で早く咲くのでしょうか。 庭の中央にあるロウバイの木はやっと蕾を膨らませ始めました。

        
                    小梅の蕾に早春の雨です

  
 






      
                             平成18年1月30日 記

     お知らせ


 エッセイA 「日々の身の回り」に、「放送大学」学生、「中部大学」聴講生で
”何を、どのように学んだか。 歴史に何を教わったか”を掲載しました。
 宜しかったら目を通してください。


 COLUMN 1−D NO447      
                             平成18年1月30日 記

真冬の百姓学校、今年は例年以上に 1月28〜29
 〜国産・無農薬・有機栽培・手作り・うどん〜


 私は28日、「放送大学」の試験がありましたので29日朝からの参加となりました。
 どちらにしても1〜2月は農作業はありません。 例年裏山の枯れた松を切り倒したり、それを囲炉裏用の薪作りですが、それも中止としました。
 例年以上の寒さで1月29日の朝も零下10度であったとのことです。
 
         
 二つあります池も凍っていました。 厚さは1センチメートル位でしたが、投げ入れた石を弾き飛ばしました。
                 
          深沢川に沿った日陰のところでは、まだ雪が残っています。

       
   梅の木下では種芋が眠っています           麦踏をしました

 麦といえば「国産・無農薬・有機栽培・手作り・”うどん”がついにとでも言うのでしょうか、なかなかの出来栄えで仕上がりました。 簡単にはお褒めの言葉の出ない校長ですが、御代わりの追加注文がありました。 製粉機、購入資金を加えますと1人前今のところは数千円になりますが、設備投資分を引きますと、10人分1000円ほどの原材料費だと、何方かが計算しておられました。
 今月はカレーうどんでしたが、これでは麺の良さが隠れてしまう、来月は「釜揚げ」で参りましょうと言う事になりました。 
 冬の新鮮野菜も加えて、実に贅沢な食事でした。
            
           良く伸びて腰のある「そば」のような麺でした。








 COLUMN 1−D NO446      
                             平成18年1月29日 記

 「放送大学」試験が終了しました。
  〜この開放感がなんとも言えません〜


 1月28日の午後5時35分、平成17年度の後期の試験が終了しました。 
 本当のことを言いますと、この後8時限目にもう1教科あったのですが、ほとんど勉強をしていませんでしたので自信がなかったことと、其の日は朝から3教科を済ませておりましたので、疲れてしまいました。 
 お腹も空いてきました。(お酒が飲みたくなりました)
 ”自信の程はどうか?”などと聞きたいところでしょう。 
 返事は勉強方法を変えましたし、試験慣れもしてきましたの、前期の5教科受験、1教科のみ最低ライン(優,良、可、で言うならば60点の可というレベル)で合格した時よりは、マシだと感じているのですが、前期のときも試験終了時は2教科はパスしているだろう、うまくいけば3教科も夢でないと思っていましたら、1教科が何とかという情況でしたので、結果が判明(2月末)まではなんとも言えません。
 
 明日30日、今回の勉強方法を記録しておきます。 そして結果がついてきましたら其の内容を発表することにします。
 などといいつつ、其の日は朝の1時限目の試験が終了後、次の6時限目までに5時間半も時間がありましてので、名古屋国際センターで開催されている「ベトナムフェステイバル」のオープニング・セレモニーに参加してきました。 名古屋で開催されるのは初めてとのことでした。
                 
       
 名古屋の公・私立大学に留学されているが学生たちによるベトナムの民族舞踊でした。 白のアオザイに包まれ、ユックリしたテンポに乗って、柔らかな清清しいひと時でした。
 終わった後、直ぐに地下鉄で「八事」まで戻り、あまり暖房の効いていない場所を選び、必死に用意してきたノートで勉強しました。
 
            
 皆さん、こんな感じでギリギリまで教科書や六法全書とニラメッコです。
 右の写真は疲れて目を外にやると、ガラス窓を通して見える八事交差点の方向です。 ガラスにカメラを構えた私の姿が写っています。

 結果はどうでも、何ともいえない開放感でした。 





 COLUMN 1−D NO445      
                             平成18年1月26日 記

 本日から「放送大学」の期末試験が始まりました
 〜試験の間に、八事山を一回りしました〜


 私の試験科目は本日からです。 朝一番の9時15分から「アメリカの歴史」から始まりです。 次の科目が午後の2時25分からでしたので、八事山を一周してきました。
 
     
 春になれば十数メートルの木々でうっそうと茂っているのでしょうが、今はほとんど枯れ落ちていました。 ”鳩や猫に餌を与えないでください”と張り紙が、そこかしこの木々にぶら下がっています。 突然2匹の猫のケタタマシイ声がしたか思ったら、三毛と黒の猫が私の横を走り抜けて行きました。 捨て猫なのでしょう。
 「八事山を歩こう会コース」と中京大学の裏手の関係でしょうか、「学習の小路」の看板に沿って歩きました。

 本堂らしきものがチラリと見えた時、子どもたちの元気なはしゃぎ声がしました。
            
 雪ではありません、コンクリートで固めた富士の山でした。 ツルツル滑るのでなかなか、天辺に登りつきません。 一緒に来た親御さんが手を引っ張って挑戦していました。
 
           
 正面から門と五重塔をダブラせて      「八勝館」と高層住宅

 「八勝館」の看板が無かったら、この組み合わせは何だと悩んだことでしょう。
 八勝館の敷地の一部を、都市整備公団(今はなんていうのかな?)の高層マンションが建っていました。 八事付近は本当に変わってしまいました。

 「ところで、試験のほうはどうなんだ」とお訊ねでしょうか。 今回はそれなりに勉強の方法を考えて努力しているつもりですが、本日の2教科を終えたところでは、あまりハッピーな気持ちではありません。 明日の試験の教科書を持参しましたが、帰りは疲れて開くどころではありませんでした。
 といいつつ、帰ってからこんなことを入力しているのですから、現役受験生とはかなりの差があります。 楽しみながら勉強を続けます。





 COLUMN 1−D NO444      
                             平成18年1月25日 記

 職員住宅は跡形も無く、平地となりました。その3


 1月16日に、近くの職員住宅が撤去されることを掲載しました(コラム1−D NO438)
 続いて、NO440では、現代の恐竜が登場して、鉄筋とコンクリートを破壊してゆく情況をお伝えしました。 
 本日はほぼ完了した跡地の情況です。 建物が取り除かれると、こんなにも広かったのだろうかと、見違えてしまいました。 多分、垣根というよりは、剪定も無いまま伸び放題になっていた5〜6メートルに成長して歩道にまで達していたカイズカイブキが切り倒されたためでもあるのでしょう。

        

 さて、4〜500坪のこの敷地には何が建設されるのでしょうか。
 信号機はありませんが、車の通行が多い斜め前の敷地では、一昨年から開発された約70棟の新築住宅(平成16年12月3日、コラム1ーD NO144から、平成17年3月20日、コラム1−D NO222まで、7回に渡りその開発状況を紹介しました)が順調に販売済みの表示が増えています。 ほとんど30代の若い家庭です。
 
 更地は何になるのでしょうか。新しい住人が来られるのでしょうか。 
 この周辺も20数年前、新築された住宅と住民は一部改築・増築、建替えによって3世代になった家庭もありますが、ドンドンと退職後の二人家族が増え、中には連れ合いに先立たれ独り身の家庭もチラホラです。 
 更地になり、新たな地にどんな花が咲くのでしょうか。









 COLUMN 1−D NO443      
                             平成18年1月24日 記

 オーク・ヴィレッジのこと
        〜特別会員記念品の紹介〜


 昨日、「コラム1−D NO442」の最後で、オーク・ヴィレッジのことを書きました。
 オーク・ヴレッジのことはご存知の方も多いことと思います。 昨年、創設30周年を迎えられました。 オーク・ヴィレッジは出発の当初、ほとんどの人が念頭に無かった「循環型の持続可能モデル」を目指し、無謀と思える挑戦をされ、稲本 正さんをリーダーに当時まだ30代前後の方たちが、高山市の隣・清見村(今は高山市となる)に、第1次オイルショックで開発が中断した荒地を購入して、東京から本拠地を移されたのです。
 其の理念は「100年かけて育った木は100年使えるモノに」
        「お椀から建物まで」
        「子ども一人、ドングリ一粒」という合言葉でした。 今も変わっておられません。 そして、その考え方は近年ますます評価されております。

 正しい記憶ではありませんが、私が「シルヴァン・クラブ」に入会したのは香港勤務後の1991年と思います。 が、それ以前にも高山を訪れていたときには、訪問しておりましたので、荒地が植林によって緑の山に変わってゆくの見ておりました。 その後1996年に特別会員の制度ができ、そちらに入会しました。特別会員には毎年12月になりますと記念品が贈られてきます。 その記念品を写真でご覧戴きましょう。

   
 @97年度 オルゴール      A98年度春慶塗      B 99年度廃材の額

 Aの春慶塗は高山の伝統工芸品でもあります。 ハレーションできれいに撮れていません、年月と共に深みのある色合いに変化してきました。
 Bは北陸の(確か富山県?)の小学校が廃校で取り壊されることになった時、廊下に使われていた板を材料にして額が作られました。(写真の二宮尊徳翁は私の小学校時代の校庭にあったものです。今は豊根村の役場に敷地の一角に移転しております)

   
 C2000年度時計        D01年度楢(ナラ)      E02年度自然流
 
 Cはミズナラ材の置時計です。 仕上げは弁柄(酸化第二鉄。鉄分の多い土を焼成して得る橙色から赤茶色の無機顔料)を使用した着色オイルです。
 D楢の木の柾目を葉っぱの葉脈のように接合した『オークリーフ皿』、お料理、果物、お菓子などを載せたり、机の上のとれーや花台にも使える。
 Eサクラを生木のままで挽き、木の表面の形をそのまま生かしつつ、拭き漆で仕上げた『自然(じねん)流ミニボウル』。この年は『日本野鳥に会カレンダー」もありました。

     F03年度 朴の木       G04年度 朴の木      H05年度 カツラの木

 F朴(ほお)の木を使い朴葉を模した『朴リーフ皿』(拭き漆塗)
 G F同様に朴の木なのですが、3月の桃の節句に合わせて、『朴リーフ皿』(無塗装仕上げ)。清美村の木でもあるホオ。 この材の魅力は、特有の緑がかった色合いと木目の細やかさです。時間をかけて無塗装で仕上げてあります。
 H皿の中ほどに何かが見えます。これはカツラの枯れ葉が置いてあります。
 仕上げは古来より使われてきた天然クルミ油が使われています。 このクルミはオーク・ヴィレッジの谷で採取したクルミの殻を割り、取り出した実を木綿布に包み、一つ一つ丹念に摺りこんだと手紙に書いてありました。

 このような解説をしなければ、何のことも無い作品に見えてしまいますが、オーク・ヴィレッジの職人さんの思いがこめられた作品なんです。
 最後に
           
   I 12種類の木の組み合わせ寄木      J30周年記念のカッコー時計

 其の他にも数点あります。 雑然とした書斎に自然のやさしさを伝えてくれる棚や品々です。




 






 COLUMN 1−D NO442      
                             平成18年1月23日 記

    ホームページ編集部屋 紹介
  〜などと言いましたが、書斎ということです〜


 『昨年は貴殿の庭や周辺の自然、花木、花々を楽しませてもらった。 今年はどんな新企画があるか楽しみだ』 とのメールをいただきました。
 気にしていただき、時折開いていただいていることが分かり嬉しかった。 
 といっても、今年も昨年と同じことを継続し、季節の到来の違いとそれに応える草木の反応の違いを掲載するつもりでいましたので、期待に添えそうもありませんとは返信を差し上げておきました。 が、本来人様には『愛想のよきこと』を心がけていますので、何かないかと考えましたところ、身の回りのことはどうかと思い、本日はこのホームページを作成しております部屋を紹介することにしました。

 敷地と家全体は南向きの我が家ですが、子供たちの部屋を南側にしたために、私の部屋は東北の一番冷たいところとなりました。 しかし、『春日井3山』のうち道樹山と大谷山は真正面に見えるのが最高です。
 では、入室します。

           
      入室した左側が本棚です。 それに続いて洋服タンスです。

       
   入室右側も本棚となっております       入室正面が机とパソコンです
 
  窓の向こうに見えるのが道樹山です。その左に大谷山、弥勒山と続きます。
  机の左側に隅には、本棚からあふれた本がダンボールで積み込まれています。
            
    ダンボール箱と各種配線です       その隣に、印刷機や印刷用紙

   最後に、中央には切り抜き前の新聞と各種情報誌が積まれています。
              

 以上です。 8畳間ですが今のところ特に不便は感じておりません。 というものの本棚に入りきれなくなっており、2回ほど整理を始めましたが捨てきれずで、掃除の邪魔になることおびただしいです。 2枚重ね式の本棚を購入しようと候補は決まっているのですが、では何処に配置するのか思案しますと決断に至っておりません。
 息子に部屋の外にあるもう1本のスチール製の本棚をあげると言ったのですが、よき返事が無くこれまた先に進めません。

 ところで、本棚と洋服タンスは28年前(昭和53年ごろ)から購入を始めたユニット式のものです。 日本一、世界でも有数なヤマハ楽器のものでしたので、この会社なら倒産することも、製造を中止することも無いだろうと、当時の収入では少々無理をして、一番安価なシリーズのものを買い揃え始めました。  多分、15年〜20年前までは常時在庫がありましたが、その後は受注生産に切り替わってしまいました。 当時のパンフレットは残してあります、今も受注生産なら対応しているのでしょうか。
 時代は昭和から平成に、その平成も既に18年目です。 「100年かかって育った木は100年使える、使おう」という、オーク・ビッレジの会員になっています。
 この家具も100年は大丈夫、いや100年経って味が出てくると思って買い始めたことをここに記録しておこうと思います。 
 
 






 COLUMN1−D NO441
                             平成18年1月21日 記

 一昨日の講演にひっかかるものを感じて・・
  〜中国人留学生と駐日社会人の言葉〜


 エッセイ F 『文化・スポーツ、講演会』に、1月20日付けで入力した「2006 どうなる日本経済」と題した、黒岩 祐治さんの講演内容を書いているとき、以下のところで違和感というか、反論というか、一言何か言いたい気分になっていた。 その内容は↓

 『・当時、中国での反日の動きを分析していた。→中国政府が反日教育をしているからだ。との一つの結論もあった。 そのとき中国人の友人に会った。 そして、彼は言った。@     反日教育は昔からあった、が、僕たちは戦後ゼロから立ち上がった日本にあこがれていた→留学をした。 今の若い中国人にはその感情が無い。今の日本人の誇り、パワーに尊敬の念を抱いていない。
 
 そして、今朝目覚めのときに、枕もとにおいてあるメモ用紙に手が伸びた。 そして、こんなことがメモがなされていた。
 中国の若者は日本の何に、どんなところに尊敬の念を抱いたのだろうか? 
 中国の歴史を眺めると、いろんな側面が見える。 世界NO1の文明・文化を誇るときもあった。 その反面、”どのようにして数億満人の民が暴動・反乱にいたらず、食っていけるか”という課題も常に内包していた。 
 1950〜60年代の中国から日本を見れば、戦後復興と経済発展している姿は羨ましく、素晴らしく見えたことだろう。 
 その後の中国は1960年代の「文化革命」嵐の後は、1970年代に入り「 経済改革・解放」により、結果としていささかバランスを欠いた貧富の生まれた中国ではあるが、全体から見れば破竹の勢いで現在も、数字上は進軍している。
  それゆえに、食を求めることを脱し、物の豊さを手にした人から見たとき、日本は尊敬し、憧れる国で無くなったということであろう。

 今多くの日本人は一時の自信を失い、「不安・不満・不信」の日々の中にいるといえるだろう。    それはどんな価値観や生き方からの自信喪失なのであろうか。
 良くも悪くも私たちは明治以来積み上げられてきた、「近代西欧思想・価値観」の中でかなりの部分骨の奥深くまで刷り込まれてしまい今日に至った。 
 その模範としてきた欧米はどのような歴史過程の中から、「近代社会」を生み出し、今日にいたったのであろうか。 高が、1年ばかり歴史を学んだ程度では、学者先生の解説の一つ、二つを聞いた程度のことで自説などもてるわけがありません。 が、科学的・実証的ではないが直感と思いつき程度のことなら、ゼロというわけでもありません。
 ここで、勉強の一端を整理してみることの大切さを感じさせていただいています。が、ここの主題ではないので続けません。 (生半可なことでは到底まとめられないことぐらいは感じています)

 と言いつつ。→ メソポタミア・エジプトに端を発するオリエント文明から始まり、ギリシャ・ヘレニズム文明へと伝播し、やがて地中海全域から西アジアまでを包む、永遠に続くかと思われた古代ローマ社会に引き継がれていった。 
 そして、ある地域とある時代では平和と繁栄の時もあったが、それは一部の貴族やエリートの話で、多くの民衆にとっては「貧困と抑圧」、そして「混乱と抗争」の中、中世〜近世〜近代へと時は流れていったと私には思える。
 ヨーロッパの中心は中欧から西に移動し、「大航海時代」となった。
 ここで、今日に通じる「産業文明の成立」と「国民国家の形成」となって集約された。
 目的に向かって合理性を重要視し、人類社会の進歩の最先端を行くとの自負と使命を持った。 同時にそこには、ヨーヨッパ社会以外には侵略的・攻撃的な行動となった。(植民地経営、奴隷貿易などはその典型である)

 ここで、その近代ヨーロパ社会を非難の対象にするつもりはない。それどころか、人類の歴史を先進させたと考えます。ただ、進歩のみが強調されたのでは手落ちになるのではないでしょうか。 が、  いつの時代も、どんな場面でも、物事には裏表があることぐらいは体験し、知識として持ち合わせているつもりです。
 ただ、欧米社会が作り上げて来た思想、文明、社会システムは、今、行き詰まり、にっちもさっちもいかなくなっているのではないかと思い、感じるのです。
 「MORE AND MORE]と「物的豊かさを求める」思想と仕組です。
 米国を頂点とする覇権主義は時間の経過と共に急速に破局に向かっているのではないでしょうか。 
 
 わが日本の小泉大総理の最後の施政方針演説も、本日の3面に記載され、トップは「米穀牛肉再び全面禁輸」です。
 拾い読みした小泉演説は「改革を続行し、簡素で効率的な政府の実現」と言っています。 がこれは、競争社会=格差社会の出現ということなのではないでしょうか。
 20世紀社会のシステムが動脈硬化し、使い物にならなくなったから、改良・改善・改革をしようということでしょうが、果たしてそんなことで問題解決が図られるのでしょうか。
 今という時代は農業革命や産業革命時代のような大変革の中にあると考えます。 
 声高に、髪振り乱し、拳を振り上げているが的を得ているのでしょうか。
 20世紀の思想、理念、仕組みの延長線上では、時間の経過と共に地平線のかなたに消え行くだけなのではないでしょうか。
 しかも、それは直感的にそんな長い時間がかかるとは思えないのです。 だって、20世紀体質の私ですら受け入れることができそうな、『楽しく、好きになれ、納得できる事柄』が垣間見れるからです。

 最後に、今回で2回目となりますが、「国家の品格」藤原 正彦 著、本日の朝刊広告の一部を記載します。
 できることなら、多くの世界の国、人びとに注目され、尊敬される国となりたいものだと思うからです。 一人ひとりが自分を生かす生き方、それがネットワークとなり、地域の集合体となって、21世紀の一つのモデルとなればイイナア〜と考えています。

 『日本人は貧しい。 しかし高貴だ。 世界でただ一つ、どうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、それは日本人だ』 
                        (ポール・クローデル、1943年、パリにて)

 ~『聖ジュヌヴィエヴ』と題されたその詩集は、大正末期から昭和の初めにかけて、駐フランス大使を務めた詩人、ポール・クローデルの著作です。
 日本人の自然観や美的情緒に惹かれ、日本を「非常に古い文明を持ちながら、それを見事に近代文明に適応させた国」と賞賛した詩人大使は、戦争の帰趨定まった頃に、上に掲げたような言葉を遺していました。

 それから60余年ーーー。
 日本人は戦禍をを生き延び、奇跡の復興を遂げ、かってない繁栄を謳歌しています。しかし、それは詩人大使が敬愛してやまなかった「高貴な国」の姿でしょうか。
 日本をはじめ世界中の先進国で社会の荒廃が進んでいるのはなぜなのか。
 「論理と合理」という欧米型文明の基本思想が本来抱えている限界。 
 それに代わりうる価値としての「情緒と形」の可能性。
 藤原氏は、日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」であり、世界に誇るこの独自の国柄を今こそ取り戻すべきとである、と説きます。
 そして、稿を締めくくるに当たって紹介しているのが、この詩人の言葉なのです。』


前のページはこちらからどうぞ