COLUMN 1−D NO530
平成18年5月25日 記
他文化体験論 番外編のパネルデスカッションから
〜中部大学・国際文化学科〜 5月24日
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今年の中部大学の授業は水曜日に集中しました。 午前1番の講義の時、午後3時半より
「他文化体験論・番外編」として、クリムゾンという国際関係学部の学生が編集・発行している「クリムゾン」(深紅色、濃紅色という意味と思います)の編集委員による、パネルデスカッションがあるから、興味のある方は参してくださいと紹介があった。
この教授が編集指導顧問で、私の知る範囲では中部大学で一番ユニークな体験と発想、そして授業や学生指導をされておるのではないかと思っている。
午後の講義を受けた後、会場に足を運んだ。 午後3時からの講義があるためか、参加者が少なかったが、4時半を過ぎると参加者が増えだした。
最初に5人のパネラーが自分の体験を発表を聞いた、そこで私は初めて中部大学生にも、こんなシッカリした意見や考え方をもった学生が居ることを知ることになって嬉しくなった。 パネラーのみでなく参加した学生も発言をしたが、これまたなかなかである。
最後に、私にもマイクが回ってきた。 ついつい、感じたこと、中部大学、および若い学生さんに期待することを早口で沢山話すことになった。

昨年末、単位取得のため学生には義務づけられているレポートを提出する自信がなかったのでパスした。
メールで質問すると、何でも直ぐに回答を戴ける教授から、「中部大学に対する提言、意見を書いて送ってください」とありましたので、昨年1年間学んで感じたことを、気軽に書いて教授にメールで送っておきました。 すると「本年(2006年)の”クリムソン”に掲載しても良いか」とのメールを戴いた。 既にないを書いたのかも記憶が薄くなっていたが、どのように扱っていただいても結構ですと返事をしました。
今回が3号となる「クリムソン」に、若い方々のどのような考え方、見方、行動したことに接することが出来るか楽しみである。
校舎の中にはでは、6月にある「スポーツ大会」に出場するチームが練習をしていた。
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COLUMN 1−D NO529
平成18年5月25日 記
知らぬ間に、庭の様子が変化しています
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「パスポートの申請へ」のことから始まって、10冊のパスポートを括って、思い出しながら写真を整理していましたら、アッというまに1週間が過ぎてしまいました。
また、5月の清々しいお天気は続かず、部屋でパソコン相手に予習、復習をしておりました
。 久しぶりに庭に出てみましたら、木々の葉はスッカリ力強い色に変わっておりましたし、
 
花々も入れ替わっておりました。

バラ 日本オダマキ

??? 沖縄月見草


通学路も「サクラソウ」から「西洋オミナエシ」に変わりました。

退治はしましたが、今年も「シデコブシ」に虫がつきました。花が綺麗なので美味しいか? |
平成18年5月25日 記
おしらせ
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5月28日に春日井市長選挙と同時に、春日井市の市議補選の投票が実施される。
その補選に関して”定数”のミスがありました。 現在選挙はそのまま続行されていますが、納得がいかず、またこのようなことをウヤムヤに済ませてよいものかと、新聞社や春日市市選管に意見を申し述べたりしています。
今朝は日の出前より目が覚めて、5月23日の夕刊から掲載されている新聞の切抜きをしました。 頭の整理をしましたので、本日は市議団、あるいは各政党会派に基本的な見解と
対応について電話を入れて訊ねてみようと考えています。
どのような記事が掲載されたか、コラム2−N NO128−1およびNO128−2に掲載しておりますので、お知らせしました。 |
COLUMN 1−D NO528−7
平成18年5月22日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜8冊目から9冊目(1991年)発行、1996年有効〜
〜10冊目は1996年から2006年の10年間〜
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「11冊目のパスポートの申請へ」が、7回目となりました。 此処まで来ると限の良いところまで行かないと、収まらない性格です。
8冊目の発行地は「CONSULATE GENERAL OF JAPAN AT HONG KONG]です。 殆ど毎月、日本と香港を往復しておりましたので、、パスポートの余白がなくなり、9冊目が1991年7月19日に発行となっております。 この年の6月に帰国しておりますので、発行は東京・外務省です。
前回の香港の思い出のところに入れておくべきであったでしょうが、1987年の11月に香港から中国に直接入国しております。 香港を窓口としての輸出入の可能性はないかとの検討も兼ねて、日本からの担当者と合流しました。

万里の長城です。
この時、写真がなくて残念ですが上海でのことです。 案内してくれた女性の実に洗練された身のこなしと、服装でした。 それまで経験していた他の中国の地域とは比べようがありませんでした。 戦前から国際都市として栄えたところという意味を実感しました。
近時、中国、とりわけ上海の急成長経済のことが様々に取上げられていますが、改めて20年前の光景を思い出し、別に驚くべきことではないなと思っています。
この項を読んでいてくださる方からメールを戴きました。『君が香港に滞在しているというのに、家族のことが全然登場してこないが、どうなっているのだ』と。
1987年12月30日、名古屋から12時間かけて延着した家族を迎えました。

翌日はマカオとジュハイを案内しました。
その後も、1988年は女房の父親を連れて「桂林の船くだり」、1989年は家族でタイランド・パタヤへ。 1990年は再びお80何歳?の爺ちゃんと同伴で台湾へ、1991年は家族をマレーシア・コタキナバルへと案内しております。 そして、その年に帰国辞令がでましたので、インドネシア・バリ島へ女房と行ってきました。(ご心配をおかけしました、以上です)
1993年からは、サラリーマン最後のお勤めとなる”ミセス・ファッション専門店”への勤務となりました。 「髪結い亭主のビジネス」と名づけましたので、サービス精神旺盛な口八丁手八丁の日々で、オーストラリア、ハワイの優待ツアーや優秀社員ツアーの補助係を勤めました。

寅さんになったり モデルになったり サンタになったり
10冊目になってからは、2000年の上海、2002年のベトナム、2004年の船旅での上海、杭洲と隔年の海外旅行です。
その間2001年には歩きで43日かけて「四国88箇所遍路」。その年、高野山と紀伊半島
2002年,春には車旅で四国88箇所を回り、夏には北海道。
2003年の春は、九州を40数日かけて一周し、夏には東北と残っていた北海道を回る。
2004年の春は、山陰からまだ行ったことのない山陽路を回り、これで概ね日本一周を終えました。
昨年から放送大学と中部大学で世界各地の歴史・文化・社会を勉強中。
来年からは、再び世界遺産の旅に出掛けてみたいものだと考えているのですが・・・
歯の検査と修理。 高指血症・高血圧、腹回りが88センチメートルとシンボリック症候群の予備軍どころか、そのものであります。
11冊目のパスポートには何処の国の名が、どのように記載されるのでしょうか。
そして、何を体験し、発見し、感動し、イキイキ・ウキウキ・ワクワクの時となるのでしょうか。
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COLUMN 1−D NO528−6
平成18年5月22日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜第7冊目(1983(S58)年発行から、
第8冊目(1988(S63)年発行〜
<1986年から1991年の5年間、在香港>
香港での思い出の数々
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ついに、”11冊目のパスポートの申請へ”の項が、NO6になりました。 今回は「香港での思い出の数々」と題して、年月日は前後しますが、掲載します。
まず、私の住居はかって造船所のあったところで、そこに「太古城=CITY PLAZA ショッピング・プラザ」として開発がされた所です。 半径200メートルのところに、29階層のビルが50棟以上はあったでしょうか。 その29階に居ましたので、香港島と九龍半島を結ぶ第2海底トンネルの工事現場のほぼ真上で毎日見下ろしておりました。

1987年5月 1988年5月

1989年5月
予断ですが、かって海峡に「啓徳空港(カイタック空港)」がありました。 発着、離陸する飛行機を時に、いささかセンチな気持ちで眺めていたことを思い出します。
さて、この第二海底トンネルの完成を祝して、「東区海隊百萬行」(チャリテイー・ウオーク)が1989年8月27日に開催されることになりました。
可能な限り地域の行事には参加することを心がけていましたし、香港の従業員にとっても一生に一度のことであろうと声をかけてみましたら、参加するという声が聞こえてきました。
チャリテイー・ウオークというのは、自分が変わりに歩くから寄付をしてくださいと知人、友人に声をかけるのです。 集まった浄財は25273・50香港ドル(日本円に換算して約50万円)、彼らから揃いのユニファームを会社のほうで出して欲しいとの要望で、約18500香港ドルを出費しました。 休日ではありませんので、早番・遅番の調整をして約100人の参加者でした。


右は29階から、撮影したものです。
年に1度の行楽が実施されました。

1988年 9月4日
名前は忘れました。島に海水浴です。 日本人のスタッフの奥さん方も参加しました。

1989年7月、全員香港スタッフに囲まれて
社員表彰も心がけました。

地元の部長推薦、日本人スタッフが承認するという仕組みで選びました。
年に一度の棚卸の後の「船上パーテイー」は特に、盛り上がりました。

無料ではいけないとの意見があって、参加費10セント=約190円、これに刷り込まれたNOで、ラッキープレゼントがあり、これがまた盛り上がるでした。

日本人スタッフの出し物は喜ばれました

私も何のパフオーマンスだったのでしょうか。 思い出せません。 右の写真は普段警備担当者でしたが、当日、変装して私の真似をしました、大受けでした。

自宅にも呼んで、屋上でバーベキューをしたり、日本食を提供しておりました

販促関係の集まり

日本人と地元の幹部が集まりました

結婚式にも招待され、マージャンをしてシッカリ負けました
営業活動も兎に角、様々なことを実施しました。 これは他の日系企業と異なり、日本人スタッフが23人居たということで事で可能なことであったと思います。

タイ・FOODフェアー ドイツ FOOD フェアー

カナダ FOOD フェアー 韓国 FOOD フェアーの方々と

こんなイヴェントもありました
もちろん、「JAPANESE ウイークも開催した。


節句飾り
今は、今年から「日本昭和村」に寄贈し、展示されています。
「ジャパニズ・フェアー」として、日本の神輿と法被を取り寄せ、日本人スタッフのお子さんや、太古城に在住の日本人の方々と共にイベントを行ないました。 沢山写真を撮った覚えがありますし、皆さんに思い出として配った記憶もありますが、私の手元には一枚も写真がないのです。 何方かお手元にありましたなら教えてください。
子ども向けには、地元の絵画の先生にお願いして、「子どもの日絵画展」を開催。

「ミニレ−シング・カー大会」も開催、日本人の子どもと香港人が仲良く


三和銀行の自動現金引き出し機の設置もいち早く受け入れることにしました。
香港には当時日系の百貨店を初め、スーパーもあわせて、8社が出店しておりました。 「日本百貨店会?」という名称で、毎月ゴルフ大会が実施されておりました。

、
年に1度の東南アジアの商業視察ツアーも実施されていました。

確か、1989年のマレーシア・タイへのツアーのことでした。 左足・膝下の神経が鈍い感じです。 その時、疲れも手伝って車椅子で休んでいたのですが、帰国後も直らず、それから約1年半、様々な治療をすることになりました。

車い椅子で休む かって、上海で皇帝医であった子孫という方にも
結論から申し上げますと、病名的には頚椎症です。 左半身の神経が鈍く、常に痺れていました。
香港の中国医は「病気だということを忘れなさい、そうしないと貴方の神経がまいってしまいます」といい、日本の医者は「ま〜、しばらく様子を見ましょう」ということでした。
帰国後、”忘れることにしなさい”というアドバイスを受けいれました。 疲れや感冒などにかからなければ、日常生活には特に支障がない程度でしたが、1988年堪えきれない程の激痛に見舞われる毎日となり、80日の入院となりました。 この年に退職しております。
年代は忘れてしまいましたが、多分1987か88年のことだと思います。 私がマンションから出かける時、トイレの自動閉鎖の蛇口が上手に閉まらなかったのでしょう。 帰ってきたら部屋中が水浸しです。

日本人の家族総出で対応してもらいました。 その後の休息
そんな中でも、香港在住の中日ドラゴンズのファンによる「香港ドラゴンズ会」が発足。 
中央、前中日監督の星野さん
旧正月には閉店後、日本人スタッフで「直営の桜レストラン」で一杯のお祝いです。

また、1988年も後半になりますと、店舗の営業も軌道に乗ってきました。
私は韓国クラブのピアニストに勧められて、デイスカバリー・ベイ・ゴルフ場の会員権を4年分割支払いで購入しており、時折フェリーに乗ってゴルフに行っておりました。 というよりは喧騒な香港の街中から逃げ出したかったのです。
特に何もすることのない香港です。 社員福祉の一環として同じクラブの法人会員権を購入しました。

時には、これまたフェリーで1時間、それからバスで1時間、パスポート持参で国境を超えて中国・シンセンのゴルフにも出かけておりました。

1990年代になると、この地でゴルフの腕を上げられた方も居られると聞いております。
次に紹介しますことは、結構、香港社会の中で注目されました。
オリジナルではないのです。 1979(昭和54)年から日本の親会社で始まったと記憶しています。 買い物したあとのつり銭、1円を恵まれない方に寄付してくださいという「1円で愛の募金活動」です。 これを香港ドル10セントに見立てて「愛の10セント募金」として募りました。 それが思いがけなくも多額の募金額になったのです。
私が1990年1月1日、香港から出した年賀状には、このように書きました。
『現実主義で、功利的な人びとが、愛の10セント(日本円1・9円)店頭募金に、1年半で280万j(日本円550万円)も参加してくれました。
あの天安門事件は、記憶から遠ざかりつつありますか?
香港では、表面平穏に、中堅人材の移民が続いています。
一方、目標を共有し、行動を共にする、そんな仲間も出来つつあります。』と


手元で確認できる資料から見ると、その後も10万香港ドル、続いて88800香港ドルと寄付することが出来、1991年2月8日の「THE COMMUMITY CHEST SPECIAL EVENTS]で特別表彰を戴いています。
最後に、開店後1年経過したところで帰国という方も居られましたが、大半は2〜3年経過したところから、帰る方と新たに赴任してこられる方との入れ替えが始まりました。


上記の写真の方は、地元の方を除いてもちろん全員日本へ帰国されております。
当初は1987年から1997年まで、香港が中国に返還されるまでの10年間が契約期間でした。 詳しいことは知りませんが、その後も、1997年に契約更新がなされ、2006年5月現在、大半の日系流通関係の会社が香港の会社・店舗を閉鎖されましたが、「生活創庫 UNY]は順調に営業を継続されておられます。
また、一度訪問してみたいものだと思っています。 |
COLUMN 1−D NO528−5
平成18年5月22日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜第7冊目(1983(S58)年発行から、
第8冊目(1988(S63)年発行〜
<1986年から1991年の5年間、在香港>
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”パスポート申請へ”のNO528が、5回目となりました。 こうなるとこの”コラム 1−D”の範疇を外れていますが、これまでの経緯上、このまま此処に掲載し、「エッセイ・その他」項目と、<エッセイ 身近な日々のこと>(これも外れていますが・・)にも重複掲載することにします。
香港から帰ってきた頃は頻繁に、最近でも時々香港の話を聞かせてくださいと言われる方が居られます。 が、話すにしても何を話せば興味を持っていただけるのか、分からず次の機会にと言ってその場を過ごすのが殆どです。
丁度良い機会ですので、香港当時のアルバムを引っ張り出して見ることにしました。
沢山の写真が殆ど整理もされずに積み上げられていますので、話が前後したり、重複したり、勘違いをしているかもしれませんが、可能な限り写真で紹介してみたいと思います。
1985年の11月に正式な契約調印が成されたと記憶しています。 年が明けて、最初に赴任された方は、多分1986年4月頃、総務人事関係のHさんでした。 その後、8月までには辞令発令の20数人の方たちが市場調査も兼ねて、殆どの8月末には赴任されたと思います。
私は8月に辞令を出て、数度調査のために香港に渡り、正式赴任したのが11月ごろと思います。
年が明けて1987年4月3日に「プレス・コンファレンス(新聞発表)」は行なわれました。
このような準備をしたことは初めての事ですし、日本とは異なる仕来りというかルールみたいなものがあると教えられ、これらのことに詳しい方に教えを請いに行きました。
どれだけの数の報道機関が来るのか、そのこと自身が企業間の競争の一つで、本音のところは教えて貰えなかったと記憶しています。 それでもやっとこぎ着けました。

一方、採用面接が始まっていました。 当時は流通業を初め、各種の業界が香港への進出を計画していましたので採用難です。 しかも、地元の方は少しでも条件の良いところに、サッサと移動するという状況でしたので、先発出店企業としては自社で教育した社員を引き抜かれることを大変警戒しておりました。 採用条件についてもいろいろと注文がつきました。
2交代制の勤務で、総数650人を採用するのですから、影響が出ないわけにはいきません。 まず、幹部級(部長)の採用から始まり、彼らの意見を聞きながら、課長級、係長級、一般社員の採用と進みます。

1986年9月の上級幹部の面接風景です 地元取引先への説明会で
1987年2月から内装工事が始まりました。

1987年3月には日本からの第1陣の商品が到着しました。別に借りた商品保管用の倉庫への搬入です。

左の写真の彼は、役員用自家用車の運転手です。 もともとは洋服の仕立て職人であったようですが、小金を貯め、自己所有のタクシー・ドライバーになりました。 その自動車と権利を友人に貸与して毎月幾ばくかの収入を上げ、自分はお抱え運転手となりました。 タクシー運転手は競争が激しく、疲れるから収入は低くなってもこのほうが良いといっていました。 私は彼に株のことも指南を受けて、少しは儲かったと記憶しています。

スーパーバイザー(係長)級の教育が始まり、 地元仕入れも検討されました

そんなある日、スプリンクーラーの破損で水漏れです。 この他にも私は知らされずに夜を過ごしたのですが、地下売り場に水道が破裂して水浸しになったこともありました。
オーナーに弁償を掛け合ったのですが、「だから、保険をかけておきなさい」と言ったでしょうと、まったく取り合ってくれません。 契約書の意味を教えられました。
オープンの日が近づいてきました。 隣の中華レストランのオープニング風景です。


ショッピングセンターのソフト・オープンの中央センターの様子です。
このように香港では「ソフトオープン」といって、全体のグランドオープンとは別に、出来上がった店舗から順にオープンしてゆきます。
私たちのお店も6月2日オープンを目指して、商品搬入・陳列が始まりました。
日本では取引先の応援も受けて集中的に準備がされて、早ければ2〜3日で準備完了となりますが、そんな訳にはいきません。多分1週間以上かかったと思います。

最後の看板架け と言っている間にも、天上に穴が開きました

6月1日「竣工パーテイーが開催されました

右の写真左から2番目の方が、直接的な契約交渉相手でした。 あたりが柔らかく、いつもにこやかで、それでいてネゴシエーターのイギリス紳士でした。

眼鏡の方が内装全体を指導していただいた内田繁さん。 右が日本においても”アピタ店舗”開発推進の最高責任者であった安井さんです。
店舗コンセプト、内装設計等を指導いただいた方々が、オープン5月29~30日に来香港し、祝いとお礼の席を設けました。


高級な中華レストランでは、当日の料理の最高責任者が席に呼ばれて、当日のメニューの説明をし、記念にメニューをその場で書いていただけます。 それが又達筆なのです。
オープン当日の開店前です。

当日の私はこのオープニング・セレモニーの責任者でしたので、記念の写真は一枚も撮っておりません。 数日前のレストランの開店風景と変わりません。
開店前には朝礼を行ないました。


年齢16〜18歳の若くて、賢そうな社員が揃いました。 その後が大変なことになることを、その時には気がついていないのです。
それは香港では新学期が9月です。 5月末、日本で言うならば中学・高校を卒業しております。 新学期が始まる8月末までは、就職して稼ぎ、そのお金で旅行を楽しむと言うのです。 確か8月になると100人近い退職者が発生しました。

一番客の入場です。 その後、終日のお客さんが続きました。

オープン後、直ぐにこの広場で爆発騒ぎがありました。 日系企業オープンへの嫌がらせとの報道もありました。 その後も2回、爆破予告の電話が入り、一時閉鎖することになりました。 上記の写真はオープン後、3回目の日曜日、父の日のショッピングセンター中央の様子です。
ソフトオープンが6月2日、グランドオープンが6月12日でした。
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COLUMN 1−D NO528−4
平成18年5月21日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜第6冊目(1978(S53)年発行から、
第7冊目(1983(S58)年発行〜
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こんなに続けるつもりはなかったのだが、此処まで書いたのならと続けることにしました。
しかし、昭和53年の第6冊目以降、第7冊目の有効期間1988(S63)年までは、写真が殆どありません。 今、思うに写真どころではなかったことが一つ、そのくせ家族との国内旅行の写真はソコソコあります。
なを、途中に1986(S61)年からは、香港に在住となりますので、そこからの記録は沢山ありますが、今回のNO528−4では、昭和60(1985)年までのことを書くことにします。
さて、1976(昭和51)年から本格的に始まった最後の企業合併の作業は1978(昭和53)年の春の組織改正、人事異動で一応の決着を見ました。(実態はまだまだ続くのですが・・・)
そこで、それまで異なる組織に所属していたリーダーが打ち揃って、現在は世界NO1の流通企業アメリカの”ワルマート”を訪問、視察することになりました。(その当時、アメリカでは成長が著しいと言うことで、注目はされたいましたが、売り上げは上位10に入っていたのでしょうか?) 旧知のベテラン・コンサルタントを先生として出かけました。

歓迎看板の前での記念撮影です。
同じ年には、アイセック(ISEC)の国際留学生の受け入れをしており、我が家でも宿泊しました。 
1980(昭和55)年、勤務する会社はこの年、企業戦略として・高度化・多角化・国際化を掲げました。 これはオランダの流通グループV/D社が勤務する会社の株式の5%を購入したことにより関係が生まれ、その企業の戦略と同じものを掲げることになったからです。
その年の5月、オランダを訪問しました。

左はナポレオン、ワーテルロー ゴルフ場の入場券
トップ同士の会談が続いておりましたので、随行員はゴルフをすることになりました。
ゼロメーターの国です。 ゴルフ場は砂地ばかりでした。 芝の上で打つことの方が少なかったと記憶しています。(マットをしてショットしました) その上、日本のように設備の整ったお風呂などはありません、冷たいシャワーのみでした。
連日、奥様方を加えた歓迎晩餐会が続いたのですが、高級なフランス料理ばかりで胃は疲労しておりました。 そこに冷たいシャワーときましたので、その晩の食事中に吐き気と発熱です。 この時初めて、英語で診断を受けました。
1981(昭和56)年、商品関係の担当になり、10年ぶりに東南アジアの工場視察です。
韓国、台湾、香港の時代は既にピークを過ぎ、シンガポール、マレーシアの工場を中心に新規の取引先の開発です。

マレーシアの街中です。
同じ年の秋には、自主参加(企業から一定の補助はある)の研修が、アメリカ西海岸とハワイというコースで行われました。

ハワイの休日です。
前年までに、新しい企業調査、マーケット分析を終えて、新しい店舗コンセプトの試案が出来上がっておりました。 そのことの検証と実行部隊の意識あわせをかねた
「GUP=GMS(総合大型スーパーの総称),アップ、グレード、プロジェクト」ツアーです。
これが第1陣となって、翌年も3班ほどアメリカに送り出しました。
1984(昭和59)年5月には、なかなか共同開発の事業が進展せず、再びオランダを訪問しました。
8月には、インドネシアのスラバヤの小売企業との合弁話が持ち上がり、訪問。
9月には、アメリカへ
10月には、香港へ
11月には、再びアメリカへ行っております。 「高度化・多角化・国際化」との戦略標榜が、このような行動に結びついていたのです。
1985(昭和60)年には、何があったのか定かではありませんが、香港へ4回。アメリカに1回の渡航が記録されています。
そして、1986(昭和61)年、4月韓国へ商談。6月には中国・上海・北京を訪れています。
その年の8月、香港への赴任の辞令がでて、その年の12月には、香港・タイクーシン(太古城)の住人となりました。
その翌年には、新店舗がオープンし、オープン初日から爆発騒ぎから始まり、朝10時から夜10時までの一直勤務が続き、心身共に疲労困憊してゆきます。 |
COLUMN 1−D NO528−3
平成18年5月20日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜第5冊目(有効期間昭和47年から・53年まで)〜
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NO528−1で、第4冊目は中国の交易会に行った時、1回限り有効のパスポートと紹介しました。 そこで、第5冊目は同じ年の6月5日に発行されております。
この年からは、アジアではなく欧米に行き先が変わっております。
NO528−2でも紹介しましたように、担当が婦人衣料品からスポーツ・レジャーに代わっております。 その年はそのための視察・見学を目的にアメリカの東海岸の旅となりました。
ショッピングセンターの見学や企業訪問もありました。 当時アメリカNO1(と言うことは世界1と言うことでしょう。 Kマートを訪問しています。翌々年はそのKマートの社長が日本を逆訪問しております)
企業訪問や店舗視察より面白く、興味があったのはフロリダのデズニーワールドでしたし、ヒューストンはケープカナベラルの宇宙センターの見学でした。

デズニーワールドにて OO湖?前、シアーズタワーを背景として

今では、驚きも感激もしませんが、デズニーワールド内で、タンクトップ姿を隠し撮りです。

ケープカネベラル・ヒューストンです
当時、莫大な宇宙開発費が必要で、アメリカ市民に理解してもらうために、公開しているのだとの説明を聞いたことを思い出します。
(イラクの戦費について公開はあまり聞きませんが、1日当たり日本円で1・5兆円と聞きました。秘密にしているところを見るとアメリカ財政はかなり困窮なのでしょう)
翌年はヨーロッパの7カ国を視察しました。 理由は何とでもつきます。 此処ではその中の休日ばかりを紹介しましょう。
ドイツはデユセルドルフです。

私だけが裸ではありません、モンブランの展望台での日光浴です。

イギリスでの休日です
この年は確か2週間でヨーロッパ7カ国を回りました。 デンマーク〜スエーデン〜ドイツ〜フランス〜スイス〜スペイン〜イギリスです。
この年も会計係で、国が変わるたびに両替に走り回っていました。
翌年1949年8月には、再びアメリカとカナダを視察しております。 オイルショックの翌年です。 計画をしていたので、そのまま決行したのでしょうが、帰国した頃より経済事情が更に悪化しておりました。
1975(昭和50)年は、勤務する企業が大変な苦境の中にありました。 合併会社でありながら、中途半端な内部競争と見かけだけの企業合同でしたので、コスト削減のために本格的な合併作業に入らなくてはならない状況に追い込まれたのです。
その最後の合併作業の真っ只中に席を置くことになりました。
海外旅行などと言うことは、考える暇も、ユトリもなく、パスポートの有効期間は1979(昭和52)年までありましたが、どこにも渡航暦の印はありません。
そして、第6冊目が1978(昭和53)年、5月2日に発行されています。
再びとでも言うのでしょうか、その後のアメリカ流通業界の変化の視察と研修が始まりました。、 |
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COLUMN 1−D NO528−2
平成18年5月19日 記
11冊目のパスポートの申請へ
〜第1から第3冊目までのパスポートをめくって〜
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昨日、第11冊目のパスポートのことを此処に入力したためでしょう、19日午前2時ごろに目が覚め、枕もとのメモ用紙にこんな事を記入することになりました。
『1969(昭和44)年、初めての海外旅行は韓国。婦人衣料ニット製品の仕入れの勉強でした。 当時の韓国の編みたてニット業界について。
アメリカ向けの機械設備による大量生産で、輸出が全盛期であった。
1品種1アイテム(1型、1サイズ、1色)の最低発注数は1000枚であった。(1型、2サイズ、5色とすると、2×5×1000=1万枚)と言うことになる。
その年は見送ったが翌年発注することになった。 5型で5万枚であった。
1980年代(昭和46年以降)になると婦人ファッションは徐々に多様化・個性化の方向も現れはじめており、同一品種のものを大量生産、大量販売する時代の最後のころでした。
それでも利幅を最小にして、1枚あたりの販売価額を495円として、価額の力で売り切ったと記憶しています。 当時の私の手取り給与が月額30000円前後であったろう。
今、ユニクロでその同じレベルの商品(色合いや品質は現在のものの方が上であるが・・)を販売するとなったら、1500円程度であろうか?
染色がアメリカ向けの感覚で、なんとなく肌になじまない感じであった。(技術も低かった)
当時、それらの製品を製造していた裕林産業(株)?は輸出の優良企業として国から表彰されていた。 ご褒美として米国車の輸入が許可されており、自動車メーカーは記憶にないが超大型の黒塗りの乗用車で、出張中に一日お抱え運転手つきで観光案内をしてもらった。
当時は入国ビザの必要な時代でした。

1969年韓国 1970年からは台湾(中華民国) と香港へも

1969年外貨の持ち出し額が記入されている。 こちらは日本円15000円携帯証明
一方、大量生産の商品とは別に付加価値を求めての商品の開発も始まった。
日本から中古の手編み機を韓国に持ち込んでの少量生産で、これは相手先が零細企業であった事もあり、また糸や染色が思うようにならず、全て日本から輸出をして、出来上がった全品を輸入をするという、リスク100%の手編みニットの仕組みであった。
それでも、大もうけはなかったが、損もしない程度の成績で取引高は増加してゆき、1970(昭和45)年からは台湾(中華民国)と香港にも同時期、年に2回出張することになった。
軌道に乗り始め面白くなった頃、昭和47年には、今後成長が期待されるスポーツ・レジャー部門の強化策と言うことで移籍することになった。
スポーツ・レジャー部門においても繊維製品は取り扱われており、知識や体験は活かされることになった。 が、この部門も1年弱で異動となる。
当時毎年、物価上昇が続き、同時に会社の運営コストも上昇、昭和40年代前半のような低価額路線のスーパーの経営路線が出来なくなっていた。
そこで、ゼロからの業態開発をすべきだとの顧問コンサルタントのアドバイスなどがあって、新設部門が設立スタートした。翌年、昭和48年にはオイルショックにみまわれ、新設業態の発想は消費者に受け入れられて、開発当初から好業績をあげた。
そこで、取り入れられたノウハウの中で、特に忘れられないものとして主婦パートの活用があった。 当時、店頭の従業者の割合は、正社員が85〜90%で、パートタイマーは食品部門の一部にしか導入されていなかった。
が、頭数で70〜75%、時間換算にして65%強を一気にパートタイマーによる運営とした。(現在は何処の店頭も70〜80%ぐらいはパートタイマーであろう)
人件費、労務費と入力したところで、その後のことを思い出しました。
1970年代後半になると、韓国、台湾、香港からの製品輸入(関税が30%ぐらいと記憶)も、まず香港の人件費が上がりだし、価額が折り合わなくなった。(欧米輸出に傾いていたこともあったし、付加価値の高いブランド品を製造していた)つづいて台湾、そして韓国と連なった。 その後のことは詳しくは知らないが、今日、世界の工場といわれる中国の躍進であり、店頭では「MADE IN VIETNAM、INDIA」等のタグが多く見られるようになった。
今では、スーパーの店頭での繊維製品の80%は海外からの輸入品で、その内の7〜80%は中国製品であろう。
快進撃の中国も此処に来て、元切り上げが求められ、超スピードの発展も不動産を初めとするバブル崩壊の様相が表面化してきている。 また資源、エネルギー不足に、効率の悪さが加わって、環境問題は避けて通れなくなっている。
更に、国内問題として沿岸部の経済成長に比して、内陸部・農業分野との格差は、力でも押さえつけられなくなる程の暴発寸前の様子が垣間見られる。
第11冊目のパスポートの申請にゆき、古いパスポートを眺めていたら、アッと言う間の40年が走馬灯のように流れていった。
いよいよ数百年続いてきた「MORE AND MOREの時代」も終焉が見えてきた。
滝に近づくにつれて流れはます。 まだまだと思っている間に、消え去ってゆく時代と共に生きながらえてきたものが、気づかない間に近辺からその姿を消している・ゆくと言うことになるのだろう。
どんな展開となるのだろう。 その中で何が出来るのだろう。 何を成さねばならないのだろう。 今のところは緊張感、恐怖感、不安感もはないが、この精神状態で何時までもいられるのだろうか。
楽しく・納得の行く事柄と時間のなかで過ごしたいものだと思っている。
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COLUMN 1−D NO528−1
平成18年5月18日 記
11冊目のパスポートの申請へ
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5月17日、11冊目になるパスポートの申請に名古屋駅の愛知県旅券センターに行ってきました。

既に今年の2月に期限切れをしていたのですが、3月中旬から新しい”ICパスポート”に変更になると聞いたためと、直ぐに必要としていなかったので少し遅らすことにしました。
受付から終了までに約1時間でした。 待合所の椅子席が100強でしたが、昨日は最大で30人程でしたので、混み合う時は2時間以上の待ち時間になることでしょう。
ところで、私の一番最初のパスポートは1969(昭和44)年です。 韓国のビザが記されている1度限りのもので、渡航費用に関する証明として、US$200と記されています。
同時に携帯輸出金額15000円ともあります。 持ち出しドルが規制されていた頃なのでしょう。
3冊目は1970年8月6日発行です。 数次のパスポートになっておりますが、渡航先は韓国、中華民国、香港、フィリッピン、タイ、マレーシア、シンガポールと限定されています。 有効期限は2年です。
左上から右に、そして下段へ。と発行順です。
第4冊目は1972(昭和47)年3月28日発行で、渡航先は香港、マカオ、中華人民共和国に限定されています。 しかも発効日から帰国するまで有効と書かれていますので、中国・広州交易会に参加した時のパスポートです。 パスポーートに挟まってこんなものが出てきました。

交易会の入場許可証として(来賓)リボン、深洲から広州に行く汽車?のキップ等です。
5冊目は1972(昭和47)年7月5日発行からは有効期限が5年となり、渡航先は以下の国を除いて全ての国と記されたいます。 除外国は北朝鮮、中国(MAINLAND CHINAと書かれています)、北ベトナムそして東ドイツです。
6冊目が1978(昭和53)年で、渡航先の制限は北朝鮮のみとなっています。
7冊目が1983(昭和58)年、8冊目が1988(昭和63)年で、渡航先の制限には、北朝鮮が記されています。 9冊目は香港滞在時の頃ですので、パスポートが満杯になっており、1996年に新しいパスポートに変更になっています。
10冊目は小型のパスポートに変更になっており、発行は1996年2月5日で2006年2月5日までの有効期間でした。 渡航先は「valid
for all coutries ando areas unless otherwise endorsed] とありますので、特別に記載されたところがなければ、全ての国・地域と訳せると思います。 北朝鮮とは特に記載されていません。が、どうなのでしょう?
そして、今回が11冊目のパスポートということになります。
10冊目は出国が8回です。 今回は10年間有効期間にする予定ですが、果たして元気に、何処へ、何回渡航することが出来るでしょうか。
女房の親父さんが80代の時、2度ほど香港、中国(桂林)、台湾に連れて行ったことがあります。 初めての海外旅行でした。 パスポートの発行申請に行ったとき、窓口の方が驚いていましたが、本人は元気しゃくしゃく、大変意欲的に興味を持っての出発でした。
そのことを思えば、まだまだと言うことになります。 さて、どうなりますか? |
COLUMN 1−D NO
平成18年5月18日 記
食べられるのか調べてみましたが・・
〜その次の日に、マツオウジと判明〜
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5月16日、少年自然の家で、「キノコ図鑑」で調べていた時に、声をかけてこられた方(小学校か中学校の校長を定年退職された方と思われる。”先生”と呼ばれていたから・・)が、帰り際に「多分マツオウジというキノコだと思う」と言っておられました。
ごご、植物園にキノコ持参で行き、Kさんとお会いをしたところ、「これはマツオウジである」と言われ、「松の匂いがして美味しくないよ」との言われた。
図鑑を借りて再度知れべて見ると、『サッと湯がく、サケの水煮の缶詰を使い、フキと一緒にごま油で炒めれば季節感が味わえる。 時に、人によっては吐き気をも要すことあり』とありました。
再び、昨日採取した所に行って見ました。

水煮のサバ缶を購入してきたつもりが、味噌煮込みのサバでした。
5月18日朝の段階では、マツオウジは玄関に置きっぱなしです。 香りは少しマツタケのように感じますが、タイミングがずれてしまったようです。
このキノコを持っている私に声をかけてきた方が3人「気をつけてくださいよ」「大丈夫ですか」でした。
私の返事は「いつもこの辺を歩いています。見かけなくなたっら、・・・・」でした。」
さて、どうしましょうか。 |
COLUMN 1−D NO
平成18年5月16日 記
食べられるのか調べてみましたが・・
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5月15日は月曜日「植物園」は休園です。 かって知ったる所ですので、どこからでも入れますが、隣の叔母さんが作っている小さな畑の様子を見てみようと、外回りで行くことにしました。
赤土の畑には多分ホウズキとおもわれる芽が伸びていました。 そこを通り越して植物園の外周を回る散策路を進んでゆきましたら、松の切り株や切り倒した幹から「きのこ」が顔を覗かせています。 休園日のことですので、歩く人もなく残されていたのでしょう。
一度通り越してから引き返し採集してきました。 私の知る経験と知識からで自信はありませんが、決して毒キノコとはおもわれない形状と色艶と匂いです。

5月16日、朝一番でキノコのことに詳しい方(専門課程・試験をパスされた数少ない先生)が在籍されていた事を知っていましたので植物園を訪ねてみました。
すると「その方は本庁へ転勤になりました」とのお答えです。(「本庁」という単語を久しぶりに耳にしました。 まだ使用しているのですね。) また「少年自然の家にキノコのことにくわしいAさんが居られる」と教えていただいたので、伺ってみたのですが、お休みでした。
図鑑を貸し出していただき、Aさんが作成されたと言う手引書も戴いたのですが、結局は分かりませんでした。
午後から植物園にもう一人詳しい方が来られると言うことなので、伺って見ようとおもっています。
植物園といい、少年自然の家といい、身近にすばらしい施設があることに改めて感謝。
隣の家の芍薬が咲き始めました。 我が家はあと3〜4日でしょうか?
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COLUMN 1−D NO527
平成18年5月15日 記
5月14日「母の日」と言っても・・・
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「母の日」と言っても我が家では、特別なことはありません。 もう数年前から「自分で祝うのが間違いない」と、今年も数日前からカーネーションを購入してきておりましたが、私には好みでない”ショッキング・ピンク”のカーネーションでした。 が、昨日追加されていたカーネーションは赤と淡いピンクでした。 こちらの方が好みにあっています。
夕刻、長男から電話です。 「今回も有難いプレゼントが届くぞ」と言っておりましたところ、 予想どうり大きな袋にイッパイの洗濯物です。 食卓の花瓶にタップリと差し込まれたカーネションを見て、ニャッと笑っていましたが、それ以上の反応はありませんでした。
本日は次男が婚約者を連れて奈良からやってくることになっております。 こちらの方は毎年何がしの事はしているようです。 さてどうなりますか?
昨日は午前中に散歩に出かけました。 お天気も良く日曜日でしたので、植物園の人出は多かったです。 管理棟で母の日の生け花教室が実施されていました。
見学者は皆お母さんたちでした。
カーネーション以外の花を探してみなした。

桐の木、今が満開です アップで一枚

いつも通る道筋なのですが、岩船神社がなぜか気になり、シャッターを押しました。
神社前の家の前の畑に咲いていたイチハツとクレマチス

イチハツ イチハツ ケレマチス

(左) 築水池から溢れた水が、砂防ダムから激しい水音を立てて流れ落ちています。
(右) その後、50メートルのところでは、静かなせせらぎとなって田植え間近の用水路に注いでゆきます。(野草園の横) |
COLUMN 1−D NO526
平成18年5月13日 記
ヒトツバタゴ(なんじゃモンジャ)もビックリグミも
タニウツギもみんな、みんな・・・
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名古屋の街中で、ヒトツバタゴ街路樹が咲いたと朝刊の一面に載っておりました。 ならば、気温が数度低いとはいえ、春日井も開花したことだろうと植物園に出かけました。
本日咲いたばかりという感じで、雪が降り積もったと言う状態にはみえません。


多分若木ですので、花の数が少ないのではないのでしょか?
それに比べると、背丈は大きくなく、たった一本だけなのですが、こちらの方が・・・・

西高森山のタニウツギも咲いていることだろうと、登ってみることにしました。 
昨年はタニウツギのトンネルを紹介しましたが、トンネルになるほど密集して茂っているところでは、花が全て空に向かっており、見上げると葉っぱばかりしか見えませんでしたので・・

グリーンピア内の欅はスッカリ力強い新緑になりました。 (新緑前の状態は コラム1−DNO490に戻ってご覧ください)
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COLUMN 1−D NO525
平成18年5月13日 記
今、注目のメタボリック(内臓脂肪症候群)である
〜本年度の健康診断の結果が出る〜
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今月の9日、新聞一面に「メタボリック1,300万人」、中高年男子は二人に1人とトップ記事があった。 それによるとメタボリック症候群とは、内臓に蓄積した脂肪が一因となって高脂血症、高血圧、高血糖値などを重複して発症した状態を指すあたらしい疾患概念。 放置すると脳卒中、心筋梗塞、糖尿病などに進行する危険性が高まる。
国内では昨年4月、日本肥満学会が中心となって、腹囲と血中脂質、血圧、血糖値の診断基準が示されたと解説されており、成人の有病者は約1300万人と推計され、一歩手前の”予備軍”も約1400万人で、両方あわせると約2700万人。
中年になるほど増加傾向を示している。 腹囲(へそ周り)が「男子は85センチメートル、女子90センチメートル」の基準値以上の人で、@高脂血症A高血圧B高血糖ーの二つ以上に該当する場合は有病者、一つに該当する場合は予備軍と定義している。
原因となる不健康な生活習慣を改善するには適度な運動とバランスの良い食事、禁煙が大切と紹介してあった。
ところで、私の健康診断の結果であるが、中性脂肪の数値が233(基準値30〜149)、
総コレストロールが243(基準値130〜219)、r−GTP184(基準値0〜40)であるから、間違いなくメタボリック症候群であると診断される。 なを、血圧はもう既に10年前以上から、降圧剤のお世話になっている。
今回、退職後7年、お世話になっていた街医者の先生が、高齢のこともあり現在入院されておられるので診療所を変更したため、初めての診断でもある医師はあまり厳しいことを言われなかった。 「お酒を控えめにして、運動をしてください。」私は、食事が美味しくて・美味しくて食べ過ぎます」と言えば、「適量にしてください」との返事のみでした。
大きな声で答えるのに反して、先生の返事はボソボソと聞こえた。 付き添いの看護婦が言葉を添えてきた。 「体重を68Kgまでに減らすことをしてください」と言うので、(現在74Kg),「再び四国88ヶ所の遍路をしてこなければいけませんね」(5年前の四国遍路の時、最低の体重65Kgを少し切った)と、話題を持ち出したが、そのままで終わり。
元気な爺さんの相談とも、会話には乗っていられないと言うことなのでしょうか。
診療所を出ての帰りに考えました、毎日パソコンの前にいる時間が長いのかな、減らすために、水泳教室にでも通おうかなと・・・
今、パソコンに入力しながら、小学生の頃、いや中学生の頃(昭和32前後)は間違いなく、でっぷりと豊かに迫出した腹の人を見た時には、美味しいものをたらふく食べているのだろうと、羨ましいと言うか、ヤキモチに似た思いを持ったものだが、今日では病気を診断される時代。 豊かさを感じる物差しがハッキリと変わった。
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COLUMN 1−D NO524
平成18年5月11日 記
立夏すぎ、庭の草花、木々が成長盛ん
〜夏の間、嫌われ者の蚊が2日前に登場〜
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走りの梅雨でしょうか、良く雨が降ります。 久しぶりの洗濯日和です。

藤棚も サンシュもスッカリ葉が茂りました

南側は正面の家が良く見えていたのに、ご覧のとおりです。
その木々の足元で咲いている花は

アイリス こでまり シラー

初物サヤエンドウを収穫していましたら、新小学1年の遠足の一行が登ってきました。

足の進みより、おしゃべりの方が盛んです。 ツバメがスーと横切りました。
ジャスミンの香りが漂ってきました。 |
COLUMN 1−D NO523
平成18年5月9日 記
やはり気になる、金価額の上昇
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私と10年前に会って、その後も付き合いが続いている方なら、また”オオカミ爺”が同じ事を話し始めた、これで何回目だと言われることでしょう。
が、メモ用紙を捨ててしまおうかと考えていたが、1週間過ぎても手元に残っていた以下の数字を見ていただきたい。
米ドル/1オンス平均 為替平均 田中平均/g金価額
1973年 97・22 269・25円 958円
1980年 612・13 227・07 4499
1987年 446・67 145・71 2133
1989年 381・00 139・01 1723
1995年 384・16 95・10 1209
2000年 279・16 108・00 1014
2001年 271・01 122・54 1105
2005年 444・12 111・23 1619
2006年1月 549・15 116・47 2074
2006年2月 555・20 118・97 2136
2006年3月 567・00 118・39 2128
2006年5月3日 668・50 5月8日 102・?? 5月8日 2605
5月7日、コラム2−N NO184「修行について」のところでも書きましたが、世界の各地で起こっている現象は、かなり怪しいと感じない訳にはいかない。
現物市況の石油高騰が生活を直接脅かすと言うことで注目されている。 石油の原油の生産量のピークは2005年で、10年ほどで石油不足は明確になると。
そして、1バーレルが90ドルになると、米国の国民は収入の増加分は全て石油に持っていかれ、90ドルを超えると家計が持たなくなるとの記事も読んだ。
3年後には米国社会の過剰消費と借金が米国を暴落させるとも語っている。
これまでの10年間で金利ゼロの世界が身についてしまった、これから金利が上がるとなれば、急速でしかも長期に続くのではないだろうか。
素人の勘である。 何度も「オオカミ爺」と言われてきたが、今度もそうならなければ結構なことであるが、そんな状況にはならない、なれない条件と環境が深く広がったと思う。
金を空売りして、力で持って金価額を押さえ込もうとしている人たちもいた。 日本で金貯蓄と言う名前で金投資を勧めていた会社があった。私のところにも電話が入ったことがある。 金預蓄をしていた人たちが、現物の金をほしいと言った時、果たして金は存在するのであろうか。
ここ数年、金の生産は環境問題や低く押さえつけられた価額で採算があわず、減産続きであると聞いている。 と言うことは、金現物はないと言うことになる。
そのことが分かっている人たちによって、金は買い集められて上昇しているのであろうか。 金がどうなろうと関係ないが、この動きを見ながら、「オオカミ爺」の予測していた時代が近づきつつあるのではないかと、思い此処に書いてみた。
有事の時には金といわれているが、真坂のマサカが起こらないとも限らないことをしめしているのでなければ良いのだが・・・・
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COLUMN 1−D
平成18年5月9日 記
散策路に蛇も出てくる気温になりました
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写真で見るだけでもダメだという方がおられるかもしれませんネ。
昨日、あまり歩かない散策路の脇道に入ってみました。 急な坂を登りきると、多分ヒヨドリと思われる鳥が飛び立ちました。
飛び立った所に、黒い紐が落ちているのかなと近づくとヤマカガシでした。

近づいても動かないので、ヒヨドリと喧嘩をしていて、どこか啄ばまれたかと目を凝らしてみましたが、そんな様子もありません。
更に近づいても動きませんので、既に息の根を止められているのかなと、小石を拾い軽く投げつけてみました。 すると、スルスルと雑木林の方に体をくねらせてユックリと消えてゆきました。
子どもの頃(小学生)の学校帰り(片道3Km)、2学年上級のガキ大将の命令で、蛇を見つけると、その尻尾を捕まえて振り回して捕まえたものでした。
初めは怖かったですが、それよりもガキ大将の方が恐ろしく、蛇を捕まえるほうが良かったのです。
昨年は百姓学校でマムシを見つけて、近くにあった棒切れで頭を叩くと、脳震盪を起こしたのでしょう静かになって、捕らえて2リットルのペットボトルに尻尾から入れ、その後焼酎付けになったようです。
大人になってからの方が、小学生の頃よりは苦手ですが、飛びのくほどではありません。
蛇君も陽気が良くなり、散歩に出かけてくるようになったのでしょうか。 |
COLUMN 1−D NO522
平成18年5月8日 記
一雨上がり、新緑増す。
〜お隣の、その又向こうのお庭には〜
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5月7日一日中降り続いた雨が上がりました。 我が家の庭の花々、コゴメ桜、八重山吹、藤棚は色変わりするやら、花を落としてしまいました。 ボタン、チューリップは花弁に雨水をためています。
今朝は早くから起きていましたが、時間が早くお腹が食事を要求していません。 葉書を出しに行きました。 お隣の真っ赤なツツジが陽の当たらない時間なのに輝いています。
二軒向こうの家の垣根からはクレマチスが「今日咲きました」というように顔を覗かせていました。
角を曲がったところで、同じ年頃の夫婦がいつも庭の手入れされています。 昨年まではカイズカイブキの垣根が邪魔して庭を拝見することが出来ませんでしたが、防犯(?)を兼ねて垣根の丈を短くしたために覗けます。 これまたツツジが満開です。 丁度ご主人が出てこられましたので、庭に入れていただき一枚撮らせてもらいました。

クレマチス 日が射す前で、春眠暁を覚えずでしょうか?まだ眠っているようでが・・・

植物園は大久保池まで足を運び、大好きなアングルの木橋の回廊で、「ラクウショウ」を撮影です。
「ラクウショウ」ってご存知ですか? いつも名前を忘れてしまいます。「落羽松」と書きます。 「ヌマスギ」との別称があります。「沼杉」と書きます。スギ科の落葉針葉樹。 アメリカ南東部産で高さが50メートルに達する。 原産地では湿地に生え、周囲の地表に地下から気根を出す。 葉は淡緑色線形で羽状につく。 材は軽く、鉄道の枕木・桶・屋根板などとするために輸入された。 公園などに植える。」と広辞苑にありました。
「気根」は今度撮影してきます。 この池は田んぼのためのため池でもあり、今は田植え時期で満水、水の下にあります。

私の大好きなスポットでして、今までに何度登場したか知れませんが、芽吹きを紹介するのは初めてではないかと思いますが・・以下かでしょう。
(実は一度撮ったのですが、曇っていて暗かったので、撮り直ししてきました)

最後はお隣の盆栽の職人御爺さんの鉢植えの藤です。


雨が空中のチリを全て洗い落としてくれたのでしょう、清清しいゴールデンウイーク開けの月曜日です。
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COLUMN 1−D NO521
平成18年5月7日 記
久しぶりのバーベーキュー
〜百姓学校の仲間がきました〜
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2ヶ月前から草取りを続け、昨年の枯葉を拾い、プランターや鉢も整理して何とか見れる庭になっておりました。 新聞にやっと記載されるようになった1週間前の天気予報では、良くて曇りか曇り時々雨、悪くすると雨の予報でしたが、3日前より晴れ時々曇りの予報に変わり「雨女」と自己認識している女房は「何とか大丈夫と」と朝・昼・晩と天気予報を気にしていました。
当日は午前10時には準備万端整いました。

庭の木々や花々のほうは、「コゴメ桜」と「八重のヤマブキ」は色変わりをして落下し続けています。 「ハナズオウ」も色あせておりました。
「ボタン」は半分は花落ちしていましたが、数厘が残っていました。
「藤棚」も何とか花は残っておりましたが、蜜が少なくなったのでしょうクマバチはもう来ておりません。 「コデマリ」と「スズラン」の白の二色が楚々と咲いています。

ジャスミンは開花前で香りを楽しんでいただけません。
風が少々強かったですが、昼過ぎには納まり、太陽も時折のぞく程度で丁度良かった。
昼の腹こなしに植物園までブラブラ散歩、

庭に積んであった枯れ枝を全て燃やし終えた午後5時過ぎに終了。

一夜明ければ、本格的な雨でした

バーベキューコンロにシートが被されていました。
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