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 COLUMU 1−D NO710
             
                             平成19年9月5日  記

  何をどのように準備すれば良いのか

  〜脳死状態の日本のリーダー達〜


 滅多に「夢」を見る体質ではない。 例え見ても、起き掛けにはほとんど中身は覚えていない。
 今朝の目覚めの時も中身は分らないが、何か問い詰められたというか、問われていることにシドロモドロのわたしの姿があった。

 何を問い詰められていたのだろうか。 
 「時代は変革の流れの中にある、これまでの古いものが消え去って、新しいものが芽生え始めている。
 時代の進展をただ待っているだけではだめで、自己責任、自主性・主体性を以って試行錯誤しながら道を創造して行く、その過程こそ大切と言っているが、君=大喜自身はどのように具体的に変化の内容を捉えて、予測し、どのような準備をしているのか?」と訊ねられている私が額に汗してシドロモドロという状況であった。

 目覚めた後に、その残影が残っており、眠気眼で枕もとにメモした。
 @変化の内容はどのようなものか。 大きな流れは何か、瞬間的、一時的には何が起こるのか。
 Aライフラインはどのようになるのか。 水、電気、ガス、電話、FAX,メール、自動車等は
 Bようは、エネルギー問題と食糧問題です。

 このコラムでも政治家、経営者、官僚等のリーダー達が「想定外」と言う言葉を使って頭を下げている姿を毎日見ていますが、「想定外」と言う言葉を使うことは想像力が足りないなのだと非難していました。 
 が、かく言う私自身も夢の中で問われたことに対し、答えを出し切れずにいる姿を見るにつけ、全く想像力の欠如をおもい知らされています。

 このようなときに決まった起こるのが世界的な戦争、天変地異です。
 また、グローバルな市場原理・競争経済が作り出した世界的な格差社会。
 日本においてもますます格差が進展している。 このまま行くと中・高齢者にあらゆる国の借財を押し付けられ、就職もまともにできず、夢と希望が持てない若者達が暴動を起こすのではないか。

 ここまで入力して、私はヤッパリ「オオカミ爺」かと考えてしまうが、「オオカミ爺」になれば結構な事だ思わずにはいられない。

  いくら、遠吠えしても始まらず。 国民の半数以上がこの事態を真正面から捉え、異常と認識しなければ、新しい進展はないと考えます。
  だって、これまでの政治・経済などあらゆる分野のリーダーたちには今のところ、問題認識と、解決に向かっての未来ビジョン、提言やそれを実行する具体的施策を提示することが出来ない、金縛りと言うか体が硬直して、頭の働きが停止=脳死状態に見えますから・・・。(永田町も霞ヶ関も脳死状態に見える。肝(腹)を据えた発言聞こえない。

 ここは、再び元に戻って、自分の足元のできることからはじめようという結論になりました。 「穏やかに・明るく・元気に・陽気に・前向きに・・・」




 COLUMU 1−D 
             
                             平成19年9月4日  記
 本日の『コラム 2−N NO264」は、少し面白いではないかと思うのですが・・       



 COLUMU 1−D NO709
             
                             平成19年9月3日  記

       やっと、咲きました”朝顔”


 毎年、和室の前に日よけを兼ねて朝顔が植えられます。
 順調に成長しベランダから吊るされた紐に沿って、もうここまでというところに達しました。
 なのに、蕾もつけないのですから、花が咲く訳がありません。

                

 今年の夏は7月から異常な気候ですし、8月に入ると高温です。 これでは朝顔も花をつけるユトリなどないのだろうと、インド旅行に出かけました。
 帰国2日目の朝、雨戸を開けると一輪の淡い紫(青と言うできでしょうか)の朝顔が咲いているではありませんか。 嬉しかったです。

 それ以来、毎朝掃除をする時には、この雨戸を開けるのが楽しみです。
 昨日は6輪の朝顔が「おはようございます」と言って、かすかに朝の風に揺れていました。 
 本日はたった2輪でしたが、カメラを向けると照れたように「シナを作って」納まってくれました。
       

 


 COLUMN 1−D 
                               
                                   平成19年8月31日 記

  お知らせ

 「ゴールデン・トライアングル、北インドの旅」掲載
 
 やっと、インド・デリーを飛び立ちシンガポールへ

        〜掲載は<エッセイ旅日記>です。


  早く書けの掲載請求・応援ありがとうございます。

 何とか、只今インド・デリー空港を飛び立ちました。 校正はしておりませんので、よろしくお読み取りください。

 追記
 
9月1日、 本日を持ちまして「インド7日間の旅」全て掲載を終了しました。
 前日同様に、校正はしておりません。 後日する予定です。
 




 COLUMU 1−D NO708
             
                             平成19年8月31日  記

  私がインターネットに掲載を始めたころ

 〜原稿を活字化していただいた方が退職〜


 以下の文章を読んでいただければお分かりいただけます。
 
 『長い間ご苦労様でした。 大変寂しく・悲しい気持ちです。
 私がパソコンに触れることもない頃からのお付き合いでした、いや先生でした。
 
 今、ホームページに掲載されている初稿を取り出してみましたら、「2000年 残暑厳しい8月」とありますので、既に丸7年になるのですね。
 原稿用紙に書いたものをFAXして、それをOOさんがタイプアップし、FAXで送り返して貰い、それを校正と言うことを繰り返しました。
 時には数度やり取りしてやっと出来上がりということもありました。
 
 翌年の5月からは「四国88箇所遍路の記録」です。 旅には原稿用紙をリュックに入れてゆきました。
 書いたものを女房に送る。 女房が私の癖字と女房の分る範囲で誤字を校正し、それをOOさんにFAX(?)し、活字化したものを再びFAX返信してもらい、女房が校正し、再送信という手間・隙のかかる掲載でした。
 (帰宅後、私が読み直すと、沢山の誤字、脱字、変換間違い、とテニオハの間違いを発見しましたが、あえて今もそのままにしております。
 
 その後、ボツボツとパソコンに触るようになって、何度お伺いしたことでしょう。
 キャンピングカーでの日本一周(北海道・東北地方が2回、九州一周、山陰・山陽の旅など)のときは、当初は各地の郵便局から投函したことを、つい昨日のように思い出されます。 後半はパソコン持参となり、ご迷惑は少なくなったのでしょうか。
 
 3年目の後半(平成15=2003年?)から、何とか全て私が直接入力するようになったのでしたか?。 (当時はまだ、<地域ホームページ ・高蔵寺>の中の、投稿記事として確か”修行僧の日記”(?)と言うタイトルだったでしょうか。忘れてしまいました。
 
 平成16(2004)年4月16日から、「好い加減 修行僧のホームページ」として、独立しました。
 その年の11月より、デジカメの写真を掲載するようになりました。 当時の写真やその配置を見ると、今は少しばかり進歩したと自己評価しております。
 
 国内の旅日記を初め、昨年の「エジプト旅日記」、今年の「世界一周101日の船旅」を楽しく・関心を持って読んでいただいている聴き、どれ程続けることの重要さを感じさせていただいたことでしょう。
 
 これからも、旅日記を初め、コラムなどその都度気づいて事、感じた事を書いてゆきますので、どうぞ覗いてやってください。
 
   長い間、本当にありがとうございました。 また、近くですので、お目にかかれると思います。楽しくお話させてください。
    改めて、沢山、沢山ありがとうございました。
 




 COLUMN 1−D 
                               
                                   平成19年8月29日 記

  お知らせ

 「ゴールデン・トライアングル、北インドの旅」掲載

 8月21日「その2」
 8月21日「その3」〜デリー市内観光を掲載

 〜掲載は<エッセイ旅日記>です。


 掲載請求ありがとうございます。
 
 昨日、今回のインドの旅のまとめ的なことを書きましたら、何か報告が終了したような気分になりまして、その後の作業が捗りません。

 本日、8月21日「その2」と、8月21日「その3」〜デリー市内観光〜を掲載しました。
 
 なお、8月22日の文字情報は入力しましたが、写真の整理が出来ておりません。

 8月23日は訪問地のみの掲載になっております。

 8月24日はジャイプールの市内観光で、その夜23時10分にデリーを出発し、シンガポールへのフライトでした。

 8月25日はシンガポールでは半日ほど観光できました。
 今までに、何度かシンガポールには来たことはあるのですが、観光は初めてでした。

 8月26日セントレアに朝8時半に到着ですから、4日間分の内容が残っています。 
 日ごとに記憶が薄れてゆきますので、少々慌てています。
 
 かなりの数で勘違いを掲載することになると思います。
 本当に船旅の時とは入力に対し時間的ユトリが大違いですので、ご指摘いただければありがたいです。 
 何分、またインド訪問をしたいと今のところ考えていますので、間違った知識、情報は可能な限り除去したいと考えておりますので、よろしくお願いします。




 COLUMN 1−D 707
                               
                                   平成19年8月28日 記

  「ゴールデン・トライアングル、北インドの旅」

〜インドの旅、
    大ちゃんが感じ、見て、聞いて、学んだこと〜
              (妹へのメールより)


 帰国後、妹に別件でメールの入力していましたら、いつの間にか今回の「インドの旅」の感想や印象を綴る事になりました。

 まだ、写真の掲載が2日目までしか進んでおりませんが、”見て”の方は、後日「エッセイ D 旅日記」に掲載します。

 取りあえず、今回のインドの旅のまとめ的なものになりましたので、ここに掲載します。

 

「インドの旅〜大ちゃんの感じ・見て・聴いて・学んだこと」

       (帰国後、妹に知らせた内容より)   平成19(2007)年8月20〜26

 ・訪問したい国であったインド

  昨日早朝、インドから34時間、機内泊2日(途中シンガポールで18時間待ち合わせ)で帰国しました。
 昨日は一日中ウトウトとグッスリの繰り返しでした。

 旅日記はまだ書き終わっていませんが、長い間、訪問したい国と思っていましたが、ほぼその期待した通りの印象と感想をもって帰りました。

 訪問したいと思い出した頃から、20年近くの月日が経過しておりましたが、私の考え方、価値の変化・向上(?)、体験や精神的な成長(?)も含めて、この時・この場を自然と選んだ(それまでは行くことが出来なかった)と、何かの必然性もあるようにも思えるのです。

 多分、このタイミングでなかったら、異なる印象と感想をもってのインド訪問だったでしょう。 全ては必然であるということでしょう。

  ・思い違いもあったインド

 ・身贔屓と好みでインドを評価していたところも多々ありました。 
 それは私の知識・認識・あるいは評価・分析から一方的に歴史、宗教を想像し・思い込み、インド社会やインド人が持つているだろう倫理観や哲学からくるインド社会や人々の生活、価値観でした。

 例えば、中国と対比して偽物が少ない、食物に関しての安全問題は少ないだろう、その他のものに関しても危険度や毒物の使用はなされていないと言うこと等です。

 偽物の卵まであるというか作っているインドでした。 ホテルで食べた卵は問題ないとは思いますが・・・(黄身の色が薄かったと後になって感じたり・・?)

 ・一言で言えば、資本主義社会のMORE&MORE=物と金の追求には、世界の国、人々よりも節度がある、「足るを知る心や生活」が残っているという思い込みでした。  しかし、人間の欲望は何処でも誰でも同じと言うことの再認識です。

 結局は、「自制心」ということになります。 「満たされて知るのか、知って自制できるのか」 あるいは「満たされれば、満たされるほどに、手にすれば手にするだけ、更に欲は膨らむのか」、どこも大なり小なりです。

 ・確かに、貧しいインド社会は開放経済によって豊かさを求めての経済活動や人々の営みは活発化されてきましたが、それでも宗教観やカースト制と絡んで何処かに自制心が働いているように思いました。(思いたいのかもしれません)

 それは27歳の男性ガイド・アメンドさんによってそのように感じさせてもらえたところが多かったと思います。 

 勿論、彼も物・金の豊かさを目指していますが、言葉の端々に歴史、伝統、宗教観、倫理観を持っていると感じさせてくれました。

 彼の意見には歴史・伝統・宗教観・倫理観がべースにあり、それで現実社会を観察し、分析し、発言していると感じさせてくれました。感心するやら、教えられるやらでした。

 

 ・ロハスな生き方?・ 共生社会の実体

  ・次に脳裏を走ったことは「ロハスの生き方」です。 「健康で持続可能な社会の生き方」という言葉が流行(?)し始めて約3年(?)、一気にロハス・ロハスと言う事を口にする方が多くなりましたが、では日本の日常の生活でどれ程「ロハスな生活をしているのか」と言うと、私も含めて恥ずかしい状況と考えます。

 インドの実体は意識された「ロハスな生き方・生活」をしているとはお世辞にもいえませんが、表面的な貧しさを見たからでしょうか、私たちよりロハスな生活に近いところにあるのではと思ったりしました。

  ・また、私たちの周りで「共生社会」という言葉も氾濫していますが、では現実に共生社会とはどのような社会で、実体はどのようなものか、そのモデルを見つけることは出来るのかと言いますと、指し示すことが出来る人や実体を伴った事柄が何処にあるのでしょうか。また、会ったとしても少ないのではないでしょうか。

 ・「歴史、伝統、文化」と言うキー言葉が思い起こされます。 (歴史遺産、伝統芸能・技術・技能、文化遺産、宗教)

 長い歴史に裏打ちされた生き方〜ファースト・ネーション=先住住民の考え方、生き方、生活もそのひとつとして注目されています。

  ・また、都会とは遠く、文明的な恩恵には少ししか浴していませんが、そこの住民達が助け合い、共同し、自分達の生き方、価値観に自信を持って楽しく・信頼しあって暮らしている、一言で言うと田舎(これは世界の各国にモデルがあるようだ)に見出せるのではないかと、気づき始めた先進的(?、21世紀のあり方を問うている、探している、創造している)人々が行動を始めていることに気づかされている近頃です。

  ・人口11億の民の国を観光すれば・・

  ・現在日本で生活している方が、今回私が訪問した地を観光すれば、間違いなく「美しい、素晴らしい、豪華だ、珍しい、美味しい」との感嘆語を発することでしょうし、満足されることでしょう。

 ところが、それを求めてインドを訪問した観光旅行者は、もう半分、いや時間的・空間的にはその何十倍も見せ付けられるインドの一般的光景には、目を閉ざしていなければならないでしょう。

  ・そこに11億に民がいます。 大きく区分して30%と70%という比率、即ち3.3億人と7.7億人の階層が存在しております。

 それは現在日本で言われているような格差社会などとは、全くかけ離れた比較対象にならない実体を目にすることになります。

 30%の方たちは、私たちと同様な考え方や価値観に近いところで経済活動や日常生活を営まれているようです。

 為政者はこの間、大局にたってインド社会の将来像を描き、人心を掌握し、時間的な計算のもと、政治・経済・社会の運営をされてこられたことでしょう。

 それが、今日"BRIC,"(ブラジル、ロシア、インド、中国)と言われる、経済成長著しく、注目されている国の一つになっていることに現れています。

  同時に、自然災害、環境問題、エネルギー問題、国内での格差社会、保健衛生、など負の側面も大きく顕在化しております。

どのように、今後対処するかによって、全体として成長してきた「BRIC,s国家、社会」も一気に崩れ去るのではないかとも考えない訳でもありません。

 が、ことインドに関しては、これまた私の身贔屓、エコヒイキかもしれませんが、やはり歴史、宗教、に裏打ちされた倫理観あるリーダーたちの下、将来に禍根を残すことが少ない国づくりをしてゆくのではないかと期待と予測をしています。

 今、世界が経済恐慌などに襲われた時、(可能性はあると思っています)元気と言うか、悠然と暮らしてゆくことが出来る国の一つではないかと思うのです。

  再訪問してみたい国インド

  ・最後に、ガイドのアメンドさんから、来年3月に再度インドを訪問し、その時は彼の家にホームステイすることを勧められました。

 旅の間に彼と交わしたインドや世界のことに関しての会話に対し、彼が言うには「インドに関しての関心の示し方、質問・疑問、カメラの向けられる先がこれまで経験した観光客とは全く違う。 こんなガイドをしたのは初めてだ」と、言ってまんざらお世辞のみではないようでした。

  しかし、多分私には、空調もなく、窓もない、床に敷かれた粗末な布団の部屋では、2日以上彼の家に滞在=ホームステイすることは出来ないだろうと思います。

 が、彼が「本当にインドを知るためには、一般の家庭に入り、ジックリ話を聴くことだ」という意見には、同感です。

 「ロハスな生き方」、「全ての生物との共生」、「循環型社会」、「持続可能な社会」について、考え、行動するとは何か、具体的にはどのような事か、物かのヒントや実体を体験できるのではないかと考え、気持ちは半分再度インド訪問に傾いています。

 





 COLUMN 1−D 
                               
                                   平成19年8月27日 記

  お知らせ

 「ゴールデン・トライアングル、北インドの旅」掲載

 〜掲載は<エッセイ旅日記>です。


 8月20日に中部国際空港「セントレア」を発ち、7日間のインドの旅から帰りました。

 帰路はインド・ニューデリーから途中シンガポールで18時間ほどの待ち合わせ時間があり、2度の機内泊を含めて34時間でセントレアに到着です。

 欧米人なら5日ないし6日の北インド旅の内容を(確かにそれだけの価値があると思いました)、3日間で見学するというスピード観光に、健康には自信がありましたが、昨日の日中から今朝まで、ほとんどウトウト、時にはグッスリと寝てばかりいました。

 パソコン持参の旅でしたが、現地での入力はやっと1日と半程度で、後は記録として回った観光地のことを忘れないために入力した程度です。
 船旅で、毎日5〜6時間入力していたのとは大違いで、8月20日分を今読み直しましたが、何時ものように、いやそれに増しての誤字脱字、変換間違いで修正・校正をするのが嫌になってしまいました。

 「早いのが取り得の大ちゃん」を気取っていますので、取りあえず1日と三分の一日分を掲載しました。

 この後、家を空けた7日間分の通信・郵便物の整理、新聞を読み、メール等の返信をしてから、8月21日以降の「旅日記」を入力しますので、続きは明日以降になります。

  





 COLUMU 1−D NO706
             
                             平成19年8月19日  記

  昨日は「東海地区・波動の会」で名古屋へ

 そして、明日・8月20日から「インド旅行」です・


 
 このコラムNo705で「父の死に際のことを思い出しながら」の一文を書きました。
 かなり、長いものになってしまいました。
 波動の会でそのことが話題に上りました。 が、この一文はこのホームーページには今のところ掲載する積りはありません。
 しかし、昨日友人達と話している間に、彼らには送信することを約束しましたので、他の2本と共に昨夜の内に送信しました。

 本日改めて、その一文を読むと、誤字脱字、変換間違いのみでなく、言い回しや表現方法に不備があるというか、気に入らないところがありまして、修正しました。
 友人たちには既に送信した後ですし、差して修正版として送るほどのこともなかろうと、そのままにしてあります。

 友人達がどんな反応と言うか、感想を言われるのか少しばかりの関心があります。
 また、当日、今年の12月に、波動の会=I・H・Mの会長である江本さんが名古屋にこられ、忘年会を兼ねて集会(講演会)を開催すことも決めました。

 江本会長が世界を股に駆けた自慢話(失礼)ばかりを聞くのでは面白くもないから、この波動に会・東海地区が誕生した頃からのメンバーに「波動インストラクターになった頃とその後。 その他何でもあり」の話の時間を前座として設けようと話合いました。

 私がトップバッターをやりましょうと言った手前、明日インドに飛び立つ前に、初稿を書いておかねば、(どうせ見直しなどしないが・・・)忘れてしまうと、今書き上げました。
 船旅帰国後、このところ毎日パソコン相手に入力はしていますので、ほとんど苦労せずに入力を終えましたが、内容はどうなのか本人は判定できずです。

 ということで、現在使用していますパソコンは今回も持参しますので、梱包するか(肩に下げてゆくか、手荷物のバックに入れるか)思案しています。

 明日は朝が早いので、いつもの時間に床に就けば十分間に合いますが、朝飯までは食べている時間はありませんので、どうしようかとこれまた思案。
 その前に、冷蔵庫を空にしておかなければと、買い物していないので今晩の酒のつまみが不足しています。
 運転手代わりに息子を呼んで、外食しようかとこれまた思案です。

 簡単なことなのに「思案」などと大げさだなと思いつつ、荷造りとします。
 では次回、お目にかかるのは、早くて8月27日となります。 では、それまで。




 COLUMU 1−D NO705
             
                             平成19年8月15日  記

    第62回の終戦記念日のこと

 〜親父の死に際のことを思い出しながら・・〜


 特別のことは何もありません。
 女房が今朝早く、24日まで「南遊の会」主催による、”マングローブの植林”に出かけました。 正確に言うならば、昨年までで50ヘクタールの植林が終わり、今年からは下草刈りなどの整備作業になるといっていました。 高蔵寺駅まで送る。

 途中までだった二階の掃除を継続していたら、玄関でガサゴソと音がした。 
 長男が洗濯物を取りにきた。 私が「美味しい北海道産のトウモロコシはいらないか」と言うと、 人様に頂いたと「長野産のウモロコシ」を持ってきたところだといって差し出された。 
 2~3日そのままにしておいたのだろう、皮の水分が抜けている。 新聞紙に包み冷蔵庫へ。 次男に電話して取りに来るようにしました。

 遠山郷へ車旅に行っている間に溜まった通常作業がなかなか終わらない。
 特に「新聞を読んで、眺めて、切り抜いて」が遅々として進まない。 記事に触発されて横道に入っていくからです。
 書斎のレイアウトを変更したこともあり、なかなか思うように取り出したいものが取り出せないでいます。

 @ 8月10日の夕刊より「あの人に迫る」で、漫画家の水木 しげるさんの”玉砕した連中が描かせるのかな”
 A8月15日朝刊、「揺れ続ける”8・15”」政暦は、1963年戦後18年、初の追悼式、
 1985年、中曽根首相が公式参拝、 1995年、「村山談話」を閣議決定の太文字記事。
 B社説「極限からのメッセージ」と題し、”人間の尊厳”をつづり、戦後62年の特別対談、の紹介が最後で触れられていた。
 Cその対談、「戦争体験に今こそ学ぶ」とのタイトルで、経済同友会終身顧問の品川 正治さんと、新右翼「一水会」顧問の鈴木 邦男さんの対談です。

 以上を時間をかけて読みました。


 今から書こうかどうか迷っていることがあります。
 昨日から気に留まっていたことで、妹へのメールに少しばかり書いたのですが、どうしたことか途中でまたもや入力したものが飛んで消えました。
 ということは、書くなということかと思いましたが、今朝、再びその一部が脳裏を走り、幾ばくかのメモを取ることになりました。
 
 仮の題は、”加藤丸喜の死亡時のこと「それでは皆さん、さようなら」の一言が効いてきた歳になって”です。

 加藤丸喜とは私の父親です。 親父が「それでは皆さん、さようなら」の一言を残して、私の腕の中で死去してから、早49年が経過しております。私が16歳の時です。
 満58歳で死去した父親より、私は7年も長生きしていることになります。
 歳を重ねるたびに、あの言葉が効いて来るのです。 私はあのように言って、この世とおさらばできるのかと・・・。

 33才の頃、初めて親父の生き様をそれまでは否定的で嫌いな親父でしたが、肯定的に捉えることが出来るようになりました。
  38歳の時にはハッキリとこれはなかなか出来ることではないと意識し始めました。
 その後は、年月の経過と共に、重荷とも感じるようになってきました。 少なくともあの死に際だけはクリアーしなければと・・・

 各種のクリアー・ファイル・ブックの一つに「生きるとは、死ぬとは、病とは、老とは」があります。 その中身は様々なことがファイルされています。
 書棚には、@「死に方、辞め方、別れ方」、A「生き方と死に方」、B「いかに生き、いかに往くか」、C「死ぬまでになすべきこと」等の書籍もあります。

 七転八倒し俺は死にたくないと、泣き叫びながらの<その時>でも良いのではないか。 
 いや、出来ることなら冷静に、最後まで自己を見つめて息を引き取りたいものだ、その前に「それでは皆さんありがとう、さようなら」と言ってと思ったりしています。

 単に親父の追憶に浸るのではなく、この8月15日に机の前に座ったのですから、「戦争はなぜ起こったのか」、「誰が、どのように起こしたのか」、「結果はどのようになったのか」を、親父の死に絡めて考えてみたいと思っていますが、さてどうなりましょうや?

 今夜は自炊をしなければ、楽しい晩酌もいただけません。 今から散歩に出かけ、汗流し、シャワーを浴びて冷えたビールから始めることにします。
 又も、何時ものパターンで日が暮れてゆきます。 楽しく生きることが死と繋がって往くのでしょうか。
 
 



 COLUMU 1−D NO704
             
                             平成19年8月12〜13日  記

信州・南信濃・遠山郷 「遠山藤原学校}(1日目)から

〜大鹿村〜諏訪大社本宮〜霧が峰〜長門・道の駅

〜3日目は松本〜安房トンネル経由〜飛騨古川へ

4日目(8月13日)は清見・オークヴレッジから自宅


 今回の車旅は2日目から持参カメラの「タイマー・シャッター」が解除されず、シャッターを押した後、10秒後にシャッターが切れるという状況に気が殺がれてしまいました。
 その間、ジーとファインダーを覗いているのですが、10秒という時間は結構な時間でして、焦れてきた1〜2秒後にシャッターが下ります。 セミプロ以下ですが、それでも出来上がりを見てみますと普段より数段出来が悪いことは明白です。

 気が乗らないというのでしょうか、”早くシャッター下りてくれよ、何しているのだ”、あるいは”いらつくなあ〜、どうなっているのだこのカメラは”と思っている気持ちが画面にでているように感じます。
 普段なら、同じ場面を少し角度を変えて数枚撮り、その中から気に入ったモノを選んでいたのですから、苛立った気持ちの上に、一枚しか撮影していないのですから、結果は当然と言うことでしょう。 

 途中でカメラの分かる方に依頼してみましたが、回復せずに家まで持ち帰ることになりました。
 早速、解説書を取り出して、操作してみましたら、簡単に回復です。 
 20日からのインド旅行には、デジカメも持ってゆこうと改めて思いました。
 性能がよく、実に様々な機能も装備されていますが、正に”ネコに小判です”。 
 持っている機能の何百分の一ぐらいしか活用していないことでしょう。

 と、言い訳とも、愚痴とも言えることを先に書いてしまいました。
 写真が少ないので、紹介するすることもほとんどありません。

 では、8月12日は、前夜の「道の駅・マルメロながと」から、松本市に向かうのですが、通常の国道は選びません。 国道152号線を北上し、武石沖で県道62号線に入り、武石峠を越えてからは、更に「美ヶ原林道」に道をとり、美鈴湖から松本市に入りました。

 その間、県道62号線の巣栗地区を走っていた時に「巣栗渓谷観光」の看板を見つけて下車しました。 数億円は投下しただろう渓谷に沿って遊歩道が整備されていましたが、ほとんど利用されていない為でしょう、散策路は草ボウボウです。

    

  人間様の思惑は別として、渓谷の流れは清く、手を浸すと嬉しくなる冷たさでした

 これが公共投資の実体であると腹立たしくなリました。 が、駐車したところに戻りました時に、その上流に小さなダムを目にしました。 
 多分、このダム建設の時に、地元対策の為の「渓谷開発」であり、建設業者への還元投資であったろうと思わずにはいられませんでした。

 ただし、その額も減り続けて、今回の参議院選挙の結果だったのでしょう。 元のやり方に戻すことは不可能ですし、許されもしません。
 こんなことを思いながらの「浮遊旅、修行僧」だなと脳裏を掠めていましたら、浮遊=富裕と繋がり、心豊かな浮遊旅人であらねばと思いました。
 一億総中流富裕層は夢の夢だったのでしょう。 物的には貧しくとも、心豊かな浮遊僧にならなければと思いました。

 松本市内で「シェル石油」で満タンにしました。 前日、遠山郷ではハイオク・ガソリンは1L・171円でした。 春日井では148円です。 その中間の160円前後かなと思っていましたら、なんと151円ではありませんか。 配送料がかかるのに比較して安いのではないかと思いました。
 国道278号線を西に向かいます。 中央高速道路の松本ICを過ぎたところで、中央分離帯の反対側にチョット良さげなお店の看板が目に入りました。 
 行過ぎること約500メートル、引き返すことにしました。 正解でした。店の名前は「榑木野・分館、(TEL 0263−47−8552)」。 蕎麦とテナント入店・「水城」の薄皮で具たくさんの「おやき」がグッドでした。

 野麦街道をドンドン進み、初めて中部縦貫自動車道の安房峠のトンネルを通過しました。 かって、トンネルが出来る前、2度この道では大渋滞を経験していますので、トンネルの威力をまざまざと感じました。
 上高地・大正池、乗鞍岳への乗用車の乗り入れ制限・禁止は良いことだと思います。
 渋滞ということはありませんでしたが、この間上り、下りとも車の絶えることはなく、さすがに人気の観光地であると思いました。

 昼の食事が重かったので(大変美味しく、追加で食べすぎ)、本日の宿「道の駅・アルプ飛騨古川」の近くの、「宇津江四十八滝」を、初めて頂上まで上りました。
 10秒後にシャッターの落ちるカメラが捉えた滝の様子を紹介しましょう。

       

          

     「銚子滝」と名づけられた滝、流れ落ち口が銚子の様。その銚子口の真上。

       
          
 その後、滝の近くの”遊湯館”でお風呂に入り、その近くの八光苑”(TEL/0577−72−3065)で夕食としました。
 ここの三代目料理長は高校卒業と同時に18年間修行に行っておられたと、穏やかな物腰で語ってくれました。
 初代がこの地に隠れ宿的に店を構え、2代目が今日の基礎を築いてのではないかと感じました。
 と言いますのも、ここの建物は鉄道の枕木で建築されています。 所々に枕木が使用されているというのではなく、枕木を大小に切り刻んで組み上げるようにして立ち上がっています。
 大工さんと言うよりは、構造設計・計算がかなり出来る方により建築されたものと、素人ながらに感じました。

 隠れ宿が今では、この地の観光と相まって一見客も多くなっているようです。「創作料理」と銘打った料理も、地元のお酒も美味しく堪能の夕食となりました。


 8月13日は、前夜の宿・「道の駅・飛騨古川」から今回の旅の最後に予定していました”オークヴレッジ”に立ち寄り、「小箱=KOBAKO」を購入してきました。
 遠山藤原学校に書棚からはみ出していた書物を持参し、貰っていただいたことと、この小箱によって幾らかは書斎が広くなったような感じがしています。

              

                北側に6個のBOXを配置

                    

               本箱の横、入り口・旧来の棚の上に2個

 が、まだ旧来の配置のほうに馴染みがあり、まだシックリしていません。
 小箱ですので組み合わせが自由です。数週間後には落ち着くことでしょう。

 とい事で、8月10日から13日までの4日間、夏の浮遊・修行僧の車旅でした。
 


 COLUMU 1−D NO703
             
                             平成19年8月11日  記

 信州・南信濃・遠山郷 「遠山藤原学校}から

 大鹿村〜諏訪大社本宮〜霧が峰〜長門道の駅


 


 「遠山藤原学校」で図書館の整理の手伝いを本日はしようと思っていたが、お客さんが多く来ておりお邪魔になりそうなので、立ち寄るのは控えました。

 国道152号線を三遠南信自動車道をハズトンネルのところまで戻り、その先で国道152が途絶えてしまうので、蛇洞林道の迂回路に入り空気のひんやりした山道をクネクネと快走?し地蔵峠の北側で再び国道152号線の本線に戻る。

       

       遠山郷から長谷村に下る道に「信州遠山郷」の地図がありました

 4年目に訪問したことがある大鹿村・鹿塩にある、「山村体験館・たかやす」に立ち寄る。 お名前は忘れてしまったがここの女主人さん(伊東和美さん)は、村役場で働いていた(保母さ?)頃、山村の活性化を考えられた。
 いつの間にか、体が不自由なお母様の看病をしている間に、対人関係が薄れてよくことに寂しさを感じられていた時、お母様が「ここに呼んだらよいではないですか」の言葉に触発されて、敷地内にある全てを解放した形で「山村体験館」の運営を始められた。

 内容は場所の提供をするだけで、後は自分達で何もかもしてくださいという方式です。
 かって牛小屋であったところ、蔵、母屋に離れ屋敷とそれぞれ大きくはないがバラエティーがあります。
 畑の野菜を自由に収穫したり、囲炉裏を囲んでの語らい。
 
 そのほかにもトイレとお風呂(ここにはこの地方の子供言葉で”おびっちょ”と看板がかかっている)、また小さな離れの一室はマンガ本とお客さんが持ち込んだ立派なカラオケセットも配置されている。(この部屋の名前が、”すごいに”で、命名の由来はお客さんがここには何があるのかと訊ねるので”すごいモノ”いうところからかと名づけたというユーモアがあり、背は小柄で、余分な脂肪は全くなく、但し歯だけ悪い70歳には到底見れない爽やかでヒョウヒョウとした姉様であります。

 簡易屋根の青空食堂兼喫茶からは山々や段々畑が眺められ、数十メートル下には鹿塩川の清流が流れている。 ここでは子供達が水遊びが出来るようになっています。
 場所の提供をしているというだけなので、参加する大人や子供達が毎年様々な計画を持ち込んでくる。 と同時に自宅で不要になったものを持ち込むのでリサイクル・センターになってしまったと笑っておられた。

 残念ながら本日は持参のカメラの調子が悪く写真でお見せすることが出来ません。
 チョット立ち寄る積りがダンダンとは話題が弾み、1時間以上もお邪魔することになってしまいました。
 その間に、私が「浮遊旅」をしていますといったら、「木地師のようですね」という話になりました。 これからは「浮遊木地師・修行僧」変名しようかと思ったりしました。

 この「木地師」のことはたかやすさんも詳しくはご存じなく、勿論私も知りませんし、手元に資料もありませんので紹介することが出来ませんが、日本の南北朝時代に溯るようです。
 どちらの陣営の方かは存じ上げませんが、追われた(?)側の皇子とその取り巻きの方々のその後の生活のありようがこの「木地師」と関係あるようです。
 一箇所に長く留まるのではなく、数週間、時には数ヶ月間留まり、次の地に移って行くという生活スタイルのようです。

 次々と話は尽きなかったのですが、突然の訪問ですので失礼することにしました。
 が、以下のことを教え、紹介していただきました。
 ・中央構造線の断層が見える鹿塩川の場所。

               

             左右の色の異なるところが断層なのでしょう

 ・国道152号線、分杭峠の「ゼロ磁場」。
 ・分杭峠を越し、中沢峠を下り降りたところに、このような山奥で良くぞこの味と大満足しました「韓国料理店(焼肉も山肉も、激辛いラーメンなど各種あり)の"平家の里”店)

 長谷村から高遠町の高遠城址を右に見て、一路茅野市の「諏訪大社上社本宮」へ。
 初めてのお参りです。 新ためて日本の神社の神木の木立の中、静寂にして簡素、それでいて心洗われ、素直な気持ちで両手を合わせることが出来る雰囲気に嬉しくなるやら、感心するやら、有り難味が一層増すのを感じないわけには居られませんでした。

 一度は来たことがある「霧が峰」、いや隣村の和田村から武石村(両村とも昨年来の市町村合併で名前が変更になっているかもしれません)の「美ケ原」かも知れません。
 どちらにしても、そのときは濃い霧に包まれて、なにも見えなかったことだけが記憶にあります。
 
 本日は高原を走る「ビーナスライン」に入るまでは、山間で早い夕暮れのような暗さを感じましたが、高原に出るとパッと明るさが増し、快適な高原を空中ドライブで快走をしました。
         

                   霧が峰高原・展望台から

 陽が落ち、気温も下がり車内エアコンも切ったまま、本日の宿「道の駅・マルメロの駅ながと(長門)」に到着しました。

 注〜カメラの調子が悪く、シャッターをお好きにならず、残したい記録が撮る事が出来ませんでした。




 COLUMU 1−D NO702
             
                             平成19年8月10日  記

 信州・南信濃・遠山郷 「遠山藤原学校}へ

 〜閉校して16年目の旧木澤小学校を訪ねる〜


 信州・南信濃・遠山郷・木沢に、16年前に閉校となり、今は木沢活性化推進協議会の方々の活動の拠点ともなっている旧木澤小学校に、今年の8月2日「遠山藤原学校」が開校された。
 神奈川県小田原・藤原事務所から高橋さんと言う23歳の青年が事務長として、学校の隣に居を構えた。 

 その「遠山藤原学校」で予定されている図書館で、私の書籍を引き取っていただけるというので、車に書籍と14年前から開校されている藤原直哉さんの「藤原学校」の録音テープなどを積み込んで出発した。

 春日井から高速中央自動車道・飯田ICで降り、飯田と遠山を30分近く近づけた「三遠南信濃自動車失筈(やはず)トンネル」を通過して南アルプス麓の集落・遠山郷へと入った。

 浜松市から諏訪市へと北上する国道152号線は、遠山郷の南の青崩峠と北の地蔵峠では国道が途絶えおり、それぞれ大回りする迂回路を通過しなければなりません。
 主要国道が途中で途絶えているということは、他にも例があるのだろうか。
 私がこの地を訪れるようになってから既に20年近くなる、そのとき以来、この国道は今と同じ状態である。

 (この地には有力利益誘導国会議員が不のようである。長野冬期オリンピックのと時に、信濃の中央から北への投資が集中され、この地には回ってかなかった。 そのとき20億円もあったら出来たことだと話に聞いことがある。

 資金が回ってこなかったことが、ヒョットすると、この地の素晴らしさ守ったことになるのかもしれない。
 その後、長野は田中知事に変わり”ダム建設凍結”という、日本全国に情報を発信することになった。 
 時代の進展・変化は、目先の人間の思惑とは異なったところで動いている。)

 
 
 この地で生活されている方達の悲願と聞いている「三遠南信濃自動車道」の全線開通ですが、工事は20年前を思い出しても一向に進展しているようには思えません。。
 其れゆえに、唯一(?)開通した「失筈トンネル」は待望の開通であったろう。
 そのトンネルと利用して春日井から約3時間で、遠山郷にはいった。

 昼を過ぎていた。 ”手打ちそば”と看板が掲げられた「梨元ていしゃば」に車を止めた。   駐車場の一角で、”あまごか”か”アユ”の塩焼きを炭火で良い香りをあげていた。
 そこに立ち寄ろうと思ったがやめました。 山の中とは言え今年はこの時期が一番気温が高く、車内の冷房も十分に効かない時刻で、外にでた時は一瞬にして汗が吹き出る感じ、そこで店内に逃げ込みました。誘導
 
 ここでお店の話を書いたのは、食事中にご主人が声を掛けてこられ、お話している間に、「この店に隣接して宿泊施設を設置したいと思っている。 自己資金がない」と言って屈託なく笑って話されたから事によります。
 このご主人はこの地においてリーダー=有力者のお一人だと思ったからです。(名刺を頂いてきました。今後、この地を訪れた時の楽しみがもう一つ出来ました)

 余分なことを長々と書いてしまいました。まずは国道152号線に「木造の旧小学校校舎」の手作り看板に誘導されてわき道に入り、旧木澤小学校に到着しました。

       

    

    

          渡り廊下                     階段

           

    

    

                     

    

    

       懐かしいストーブ              旧図書室は誇りにまみれて

                

       平成3年に閉校したのですから、パソコンはありました。現役??

 夏が一番都会からのお客さんが多いのです。 当日も既に1週間前から早稲田大学の「映像クラブ?」の学生による、1時間モノの映画作成の撮影が行われていました。

 木沢地区活性化推進協議会の会長・松下さんや校長の・山崎さんの話を伺いましたが、その間も、お客さんの対応で出入りで席が暖まる暇がありません。
 昨年、この地区は飯田市と合併しました。飯田市の広報担当者が高橋さんへのインタビューもその間に行われました。

 その中で、記憶に残る一言は「この地の良さは、都会から閉ざされていることだ。」
 「これからの時代それが誇りとなりうる。国道152号線の開通も考え物だ。飯田線・平岡駅から昔あった林鉄のトロッコを復活させて、この遠山郷を訪れる」が、私の夢だと語っておられたことです。

 4時過ぎになると、撮影隊の夕食の準備をされる為でしょう、地元の奥さん達もタマネギなどを手にして三々五々集まってこられました。
 皆さん、明るく、元気でこの地で生活されていることに誇りを持っておられるように感じたのは、私の勘違いであっただろうか。
 
 今後、今までに増してこの地を訪問することになるだろう。
 どのようにして遠山郷に行くのかと質問されていました。 自動車で来ることしか頭になかったので、その他の公共交通機関のことは知りませんでしたが、調べてみました。

 東京は新宿駅から中央線で塩尻まで、その後飯田線に乗り換えて、飯田市まで、そこから信南交通株式会社(TEL お260−34−2031)のバスで木沢へ。所要時間1時間15分。
 飯田市駅から更に普通電車で約1時間南下すると平岡駅です。
 その平岡駅からも木沢に信南交通のバスがあります。こちらも1時間程度。
 どちらも一日に午前、午後に各1本です。
 新幹線・豊橋駅から飯田線に乗り換えて平岡駅と言うコースもあります。
 ”ワイドビュー飯田”と言う列車が走っていると記憶していますが・・・

      詳しくは調べてください。自信はありませン。



 COLUMU 1−D NO701
             
                             平成19年8月9日  記

 眼鏡を変える度に、世の中のことが見えるか?

 〜己を自省する眼が養われているのだろうか?〜


 数日前のこのコラムに本日は長野県・飯田市・上村・遠山郷の「遠山藤原学校」を訪問する計画と書いた。 が、昨夜(8月8日)名古屋ドームから帰宅したのは、普段の寝床に入る時間を越えていた。
 明日は何時ものように起きれるだろうかと思いつつ歯を磨いていたら、明日は(8月9日)
 「北海道から”生もの”が届くことになっている」ことを思い出した。
 それで決まった、出発は8月10日にしようと・・・。

  それに本日は新調した眼鏡が出来上がり、引渡し日でもあった。
 朝、歯を磨きながら脳裏を走ったことは、「眼鏡を変える度に、世の中のことがよく見えるようになっているのだろうか?」ということと、、「己を自省する眼が養われているのだろうか?」と言う、疑問符つきの自問であった。

 今、手元に残っている眼鏡を並べてみたら9個ある、古いパスポートの写真を見れば、そのほかにも3個は別なものが存在していたことがわかる。

          

 眼鏡屋さんの立場からすれば、3年に一回ぐらいは買い換えて貰いたいと言っていたが、何でも物持ちのよい私は50年で、12個と言うことになる。 今回で13個目とすると平均で3・8年ということになる。

 眼鏡をかけるようになったのは、中学の3年の時からです。
 夜、試験勉強の時、火の気がなく寒いので、照明が悪い裸電球の下、フトンの中で寝転んで教科書を開いていたことによって仮性近視の状態になっていたのだろう。
 少々ぼやけていたが、そのとき少し気配りすれば眼鏡など必要なかったと思う。

 少し色気についてきた頃で、眼鏡をかけると勉強し、賢く見られるのではないかとのそんな思いがあったのだろうと想像できる。

 顔が大きい私の眼鏡がほとんど幅広で、レンズが大きくその分重かった。
 前々回は勧められて、当時の流行であったレンズの小さいのを選んだ(写真、左上から3個目)
 前回は4年前、軽い硬化プラスティックレンズのモノを選んだ。 それまでと比べて実に軽いと感じた。 
 今回、検眼の結果はほとんど視力には変化がなかったが、1年前酒を飲んでいて車から降りる時に足を踏み外して、顔から突っ込んだ時の跡が、眼鏡の右隅に今も残っている。 薄い色のコーティングがしてあったが、それも全て消えてしまっている。
 余り迷わずに、今回もほぼ同様なものを選んだ。(レンズを小さめにした)

 このところ、世の中の流れがハッキリと変化してきていることを感じている。
 頭で考えたり、思っているだけではだめだ、試行錯誤でもよい行動すべき時だとの声が聞こえてくるが、腰が重たくなっていることを感じないわけにはいかない。

 いくら眼鏡を変えても、世の中のことがよく見えるようになったわけではないし、自省し
知恵ある眼が養われた訳でもないことをいやがうえにも知らされる毎日です。

 
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