「波動とは」について私が解説しますと、的が外れますし、一層意味不明になりそうなので割愛します。
ただし、私の理解はすべての事柄、物性は「波動」によって成り立っており、其れは「震動」であり、「エンルギー」です。
音声も、光りも、文字も、米粒も、味噌も細微の世界まで溯れば震動=波動=エネルギーということに成ると考えています。
思いは言葉となって発せられ人に伝わります。 明るく清い言葉は明るく清い波動=震動=エネルギーとなって相手に伝わります。
明るく・清い波動=震動=エネルギーを受信した人は明るく・清い波動=震動=エネルギーに触れて明るく・清いとなります。
その情報の媒体になるのが、私達になくてはならない「水」です。
故に、「水」は宇宙のすべてのことを知っているということになると思っています。
「水」なくして人間は、生命は生存できません。 その水の価値、存在に私はどれ程、意識と感謝をしているのでしょうか。 当たり前に口にしている毎日です。
其れにつけても、ペットボトルのお水しか口に出来なくなりつつある現状に反省です。
江本先生が約120分間語られたことは紹介できませんが、ご関心があれば連絡ください良くお話できる方や関係先を紹介します。

東海地区の波動インストラクターが前座の担当をしました。ハイポニカ農法で「トマト栽培」をしています、南知多の大美インストラクターです。

世界各地での講演活動の疲れから入院、2ヶ月ぶりの講演となった江本先生です。
私は口数が多く、直ぐに横道に入り余分なことを話すことを怖れて、以下の様な内容を活字にし読み上げさせていただきました。
「波動との出会いとその後」 平成19年12月16日
全国に幾つかあった「波動インストラクターの地区会」が、曲がりなりにも継続しているのは、この東海地区のみのようです。
多分、派手さもなく、特に行動力があるということもなく、この地のもつ辛抱強さや律儀さが今日まで続けてこられた背景にあるのではないでしょうか。 また、名古屋・榮・伏見という好立地にインストラクターの方が所有するマンションがあり、無料開放していただき、月に一度三々五々郊外から町の空気を吸いにくるという欲求も満たしてくれていることも継続している要因と思います。
今回は、江本会長のお声掛りで講演会を開催できる運びとなりました。 今や世界各地で注目され、期待され精力的な講演活動等を実施されている、江本会長の行動にまつわるお話やその後の研究成果をお聞きするとともに、いささか趣向を変えて、当地区のインストラクターが前座を仕るという集会にさせていただきました。
最初は「“波動時代への序幕”に魅せられて」と仮の題をつけました。
これは18年前、江本会長が出版された「波動時代への序幕」と言う、今現在も売れ続けていますこの本に出会い、それがキッカケで波動インストラクターに応募した者達が話をさせていただきます。
それぞれに異なるキャラクターと経歴の持ち主ばかりですが、私がトップバッターをしましょうとしゃしゃり出ましたので、お役を務めさせていただきます。
自慢話好きの性格、聞き苦しいところもありましょうが、お付き合いください。
・1973年(昭和48年)第1次オイルショック後、満33歳の昭和50年前半に「MORE&MOREの終焉」=“物的豊かさの追求の社会”は終わりを告げるという書物に出会いました。
・その後、昭和54年の第2次オイルショックを切り抜け、昭和50年代後半38歳のとき、組織の中で一定の地位につきました。 ヤレヤレと後ろを振り返りました。 階段を駆け上ってくる「団塊の世代」の人々の群れがひしめいていました。
このまま、走り続け・成長・発展を追及すると、世の中どうなるのかなと「疑いの念」も持ちましたが、目の前で繰広げられる勝ち負け、損得の展開にのめり込み、“物的豊かさの追求社会んの終焉”のことについてはそれ以上の考えは進展しませんでした。
・1986年(昭和61)年、香港へ転勤、3年後にはストレスからと自己診断しました頚椎症を発病、中国医治療を始め、あらゆる治療を試みながらも、時間の大半は新規事情を軌道に乗せるべき、神経をすり減らす毎日でした。
・香港滞在5年経過した1991年(平成3)、頚椎の負担を減らすために痛々しく包帯リンクを首に巻いて、帰国することになりました。
その後、2年間は休息に近い時間をすごし、再び第一線の責任者として就任しました。
・その事業は、正社員は全体の10%余りの70人、他は30代から50代を中心とした離婚経験を持つ生活をかけた方、と子供が手を離れたから何かして見たいという個性豊かで、オシャレ気も旺盛なご婦人方が主役の「叔母様向け、ファッション衣料」の専門店でした。
・出来高払いというか、成績によって給与が決まるという、良く言えば「実力主義」ですが、実体は「お客を取った、取られたの」、「あの人とは仕事は一種にやりたくない。辞める、辞めない」と隠れた、時には表面化した諍いの話が耳に入る連続の毎日でした。
しかも、健康に不安を持つ年代で、他人を意識しての神経を使う職場ですから体調の優れない方がひっきりなしという状況で、責任者としても常にプレシャーがかかるビジネスでした。
店内にヒーリング・ミュージックを流したり、直接のコミュニケーションをとる為に現場巡回を頻繁にしましたが、そんなことでは納まるような状況ではありませんでした。
・そんな折、平成7(1995)年、波動のMRAの機器による健康診断=「波動測定」が出来ることを知ることとなりました。
私がその操作をできるようになれば、健康のことでお客様にも、従業員にもお役に立てるのではないかと「波動インストラクター」に応募しました。
平成8(1996)年、5月に波動インストラクターの認定を受けました。
・研修会初日、私はこの機器の操作をすることには向いていないと分りました。が、「波動」の考え方そのものについては意識し、20年前の「MORE&MOREの終焉」と言う一語と何処かで絡み合って、関心を持ち続けていました。
・経営を引き継いだ会社はバブル時期の成功体験を引きずりジリ貧状態でした。そこで、思い切った減量経営に乗り出すことにしました。
一方、働く方々もこのままでは、会社がなくなるのではという危機感を背景に団結した行動と努力により経営数字は急速に上昇し軌道には乗ってきました。
が、狭い店舗内の競争をベースとした、人間を競わせるという仕組みまでには手が付けられず、その後、「空白の10年間」といわれますように、時間経過と共に厳しくなってゆく経済・社会変動の中、組織内に日ごと弊害が増してゆくのを感じないわけには行きませんでした。
そんな時、平成9(1997)年、冬場に差し掛かる頃より、納まっていた頚椎症の症状が表面化してきました。
その少し前頃より頃、東海地区の「波動の会」が開催されるようになり、思い出しますと、この会に出席した私は、自分の不満をぶちまける場と勘違いするほどの態度であったと思います。
会社では許される態度や発言ではなかったのですが、「波動」に関心を持っている仲間であるとの安心感と、見えないものの世界、あるいは「神」と言う単語を使用しても何等違和感を持たない仲間や会の雰囲気がさせたものだったと思い出します。
ところが、平成9(1997)年の年末に入り、頚椎症の痛みが除除に増し、平成10(1998)年の2月後半には、もう耐える気力も失せておりました。 かかりつけの医師に、入院させてほしいと依頼し、手術ではなくリハリビテーションを中心とする治療に専念することとなりました。
約3ヶ月弱の入院治療によって、痛みは和らぎましたが、職場復帰する条件は既に失われており、その年(平成10年)の5月末に退職となりました。
その翌年、平成11(1999)の春、再び前年と同じ病院で春の桜を病室から眺めることとなりました。
今度は大腸がんでした。 その原因は想定できました。 そこに至る数年間の内に積み上げられてきた、怨み(うらみ)、妬み(ねたみ)、嫉み(そねみ)、など負の感情が入り交ざり、精神の安定を欠いていたことが要因だったのです。
しかも、負けず嫌いの性格から、人様には感づかれないようにとの思いが、更にストレスとなって積み重なった結果であると容易に想定できたのです。
70日間後に退院、入院中にこれまで付き合ってきた組織や集団、そして人間関係をゼロに戻してスタートしようと考えていました。
愛知、岐阜などの低山に登る、JRの「さわやかウオーキング」にはほとんど参加しました。
地元の文化講演会や地域の文化活動に参加するなど、それまでとは全く異なった時間をすごすこととなりました。
この間も、月1回開催される「波動の会」には必ず参加しました。 その会に参加すると非常に心が落ち着きましたし、楽しい時間を過ごせました。
波動の会の仲間から紹介された岐阜県瑞浪市で開校されている「百姓学校」には平成12(2000)年から参加しましてので、今年で8年目です。
翌年、平成13年には「四国八十八箇所の遍路」も、38日間で打ち通ししました。
残念なことですが、この頃になりますと各地の「波動の会」の活動はほとんど聞くことがなくなりました。
これで「波動の会」も終わるのかと思っていました頃、平成11(1999)年、6月に初版発行された「水からの伝言」が、一般書店では発売されませんでしたが、発行と同時に各地で口から口へと伝わってゆきました。
翌年になると、国内はもとより海外からも関心がもたれるようになりました。 2001年には「水からの伝言 NO2」も発行され、国内はもとより海外でも関心が高まり、各国で、多言語での発行となったことは皆さんご存知の通りです。
1年前、私のホームページに、再び『スピチュアルな時代の波、到来』、あるいは『波動ブーム』、『見えない社会への関心』が高まると言う、一文を乗せたことを思い出します。
また、数年前から、「ロハス発想」=「健康で、持続可能な社会」、「循環可能な社会の到来、全てのモノが共生する社会の実現」ということに、多くの人々の関心が高まり始め、同時に活動が盛り上がりを見せております。
本年2〜6月、私は「ピースボート」で船旅世界一周をしてきました。 様々な国の実情をこの目にしてきました。 船上で十数カ国の人々の話も聞きましたし、討論もしてきました。
その前の約10年間、時代は変わる、天地がひっくり返る時代が目の前に来ているのだと、言い続けた結果、知人・友人からは「オマエはオオカミ爺」だとの名前を頂戴しましたが、やっと私が感じていたことが目の前に到来したと思っています。
もうこの流れは分水嶺を越えましたので、引き返すことは出来ないと考えます。
と同時に、これは暗く、厳しく、避けて通りたい道などではなく、間違いなく新たな考え方、価値観に基づく明るく・素晴らしい時代、世界到来のスタートが切られた、創造の時の始まりであると感じています。
一見、不透明で、先が見えない状況に感じますが、歴史を振り返って見ますと、何時の時代にも同じようなことが語られ、書かれています。 驚くことはないのです。逆にチャンスですらあります。
ただし、考え方も価値観も従来のまま、しかも人頼り、誰かがやってくれるという姿勢のところには新たな時代はやってきません。
自己責任、主体性・自主性のない姿勢のところには決して新たな時代は到来しないと思います。
許しあえる仲間と合い語り、様々な壁にぶち当たりながら試行錯誤の行動をとる人々の中から信頼と創造のネットワークが出来上がり、明るい未来=「自然とともに、静かで・心満たされた時間と空間」が実現されてくることと考えています。
以上のことは、「IHM」「波動の会」との出会いがあってこそ気づかせてくれたことと感謝せずにはおれません。
最後に蛇足です、私の父は死に際に「それでは皆さん、さようなら」と言って、私の腕の中で息を引き取りました。
その言葉の重みを意識したのは、最初が33歳、次が38歳、そして入院時の56歳の時でした。
それ以後、特に60歳を過ぎてからは(父は満58歳で死亡)、その頻度が高まり、今年65歳を越えて、「どのような死に際が出来るのか」と、毎朝の礼拝のときに自問しています。
その結果、「終末医療に関する意思表示書」、「遺言」、「葬儀の手順・あいさつ文」など、今年に入り書き終え署名捺印しました。
以上の話も「波動の会」の仲間にも話させてもらいました。聞いていただいた方の気持ちは分りませんが私の気持ちはスッキリしました。
が、同時に自己満足の話をしてしまったと反省もしている今日この頃です。
本日は、つたない話を聞いていただきありがとうございました。
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