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 COLUMN 1−D 760
                                   平成20年2月13日 記

     今冬、初の積雪の3日後
               弥勒山に登る


 毎年この寒い時期には何時もより長めの散策になる。
 雪も融けたことだろうと登山用のステッキを持って愛岐三山の一つ弥勒山に足を延ばすことにした。 
 南側の斜面や道路はスッカリ融けているが、針葉樹に覆われた北側の道はまだ雪が残っていました。

            

 作業用の道路から登山道に入ると地道は滑りやすく、ステッキを持参したのは正解であった。 ジャンバーを脱ぎ、更に厚手のシャツも両腕を抜いて腰のところに縛り付ける。
 汗が帽子に留まらずにポタポタと落ち始めた。 

 弥勒山は南側から登る時には最後の150メートルが急激なのぼりになる。(この150メートルの約半分は安全の為、あるいは歩行を助ける為にロープが設置されている)
 足元も悪いから無理するのは止めようかとも思いながら登ってきたが、そこまでくると引き返すのは悔しくなった。
 不断は喉を潤す水など持ってこないが、昨日はペットボトルに「タヒボ茶」を入れてぶら下げていた。 アット言う間に半分を飲み干して一気に上りきった。

              

          

 春日井カントリーゴルフクラブの芝枯れコースが西日に照らされ、その向こうには「明治村」横の「入鹿池」が反射していました。
 
 437メートルの展望台から春日井・名古屋方面を眺めること3〜4分で身震い。 
 時折、薄日が差して来たが今年の春はマダマダだなと実感。 
 寒い季節は寒い方がいい。   
 
 




 COLUMN 1−D 759
                                   平成20年2月10日 記

        今冬、初の積雪



 今冬はもう雪はないかと思っていたら、昨日の午前中から降りだし5時間ほどで10センチ以上の積雪となった。 夕方には降り止みましたが今朝は真っ白です。
 1年に2、3度なら雪化粧もどこか心待ちです。

            

 今まで「春日井3山」と言っていましたが、通説は「愛岐3山」のようです。 愛知県と岐阜県の境になっている東海自然歩道のコースになっている山です。

          

         我が家の庭の松          と      ロウバイです

               

        ロウバイの花に積もった雪、小さなツララが朝日に光っていました。


 追伸 本日、久しぶりにコラム2−Nに「書き換えられる聖徳太子像」を掲載しました。
 




                                     平成20年2月8日

    沖縄で30数年ぶりに友人と会ってきました 

          エッセイーD 「旅日記」に掲載しました。


 



 COLUMN 1−D 758
                                     平成20年1月30日

    梅の花 開花近し
             福寿草 開花 

 
 1月5日、福寿草が芽を出しましたと掲載しました。 サツキの木の下・日陰の福寿草・Aは開花して良いものかどうか戸惑っているように午後の日差しの中、恐る恐る辺りの様子を探るように花弁を開きました。

                  

 昼前から日が当たり、上にも周りにも障害物がなく西陽もタップリもらえる場所の福寿草・Bは背筋を伸ばすように花弁を広げて、「私綺麗でしょう」と言っているようです。

                

    先程まで数羽のメジロがやって来て、輪切りのミカンが串刺しされていた梅。
 脚立に登って上から眺めてみると明日にでも開花しても可笑しくないほどに蕾が膨らんでいました。

            

  節分まであと4日、暦の上ではもう春はそこですが、春日三山にかかる雲は寒空です。
 
 昭和32年、山形県から豊橋に移住し、高校・大学と同級であった友人が定年退職後、琉球大学に入学、本年修士課程の論文を提出したとの便り。
 暖かい沖縄に来ませんかとの年賀状に誘われて2月4日から彼の案内で沖縄観光となりました。
 




 COLUMN 1−D 757
                                     平成20年1月26日

    太陽(太陽光線)は暖かいのですね 

   〜大寒の真っ只中、この時期のフトン干し〜 

 朝の目覚めは太陽の昇る時間と比例します。
 4~9月は日の出の時間が早くなる毎に目覚めが早まり、立秋を過ぎたあたりから徐々に遅くなります。 7,8月頃は午前5時前後が平均です。早ければ4時半です。

 冬はこれまた日の出の時間に比例しているのですが、日の出の時間ばかりでなく朝の気温とも関連しているかと思います。
 大寒のこの時期の目覚めは5~6時頃です。 時には4時半頃に朝刊配達のバイクの音を
耳にすることがありますが、その時間に新聞を受け取りに行くのはほとんどありません。

 さて、大寒のこの時期の室内の気温はどのくらいなのでしょうか。
 8畳和室に非温風の暖房機「デロンギヒーター」を使用しています。 大寒前までは最低の温度設定にしておりましたが、今は最高に設定しても朝方は13度までしか室内温度は上昇しません。
 
 起床と同時にスイッチを切り、トイレの後にストレッチに入ります。 ストレッチ10分後に南北のドアーと窓を開け放ち、その後20分のストレッチをます。 その頃には体温が上がり寒さはほとんど感じません。 和室の温度計は3度を示していました。
 掃除をして冷水摩擦です。 この時期に冷水摩擦を終えると勝ち誇った気分になります。

 神棚に礼拝後、ドアーと窓を閉めました。 南側のガラス窓の側、直接太陽光線が当たるところにに温度計を置き、朝食後に調べてみましたらなんと20度を示しておりました。
 今度はガラス戸と二重に成っている障子を閉めて20分後、15度です。
 太陽の暖かさを感じました。

 2Fの ベランダに出てみると微かに風が吹いています。
 体感温度は20度と言うわけには行きませんでしたが、それでも太陽の温かみを感じ、1Fに降りて障子を開け、ガラス戸から差し込む太陽に向かって和室の隅に積上げておいたフトンを思いっきりひろげました。
 今夜は暖かな太陽を感じて眠れることでしょう。






 COLUMN 1−D 756
                                     平成20年1月25日

  勉強はしなければと思うのですが・・・

  〜身の丈に合わない情報には騙される・・〜   

 あの船井幸雄先生が推薦する方なら間違いはなかろうと思い、増田 俊男氏の発信している情報(本やメール、ラジオ番組等)をマークしていました。

 ところが、こんな新聞記事を見ることとなりました。

 「 時事評論家・増田俊男氏、16億集め破たん…投資家告訴へ」

                       2008年1月24日03時08分 読売新聞

 「時事評論家」の肩書で多数の著書がある増田俊男氏が、パラオ共和国に設立した銀行で高利で運用するとうたって日本人投資家から約16億円の資金を集め、その大半が償還期限後も返済できない状態になっていることがわかった。

パラオの銀行は3年前に営業許可を取り消されていたが、増田氏は事実を公表せずに資金集めを続けていた。増田氏は、コーヒー園への投資名目などでも100億円を超える資金を募集。返金を求める計数十人の投資家とトラブルになっていた。うち数人が24日にも出資法違反容疑で増田氏を警視庁に告訴する。

投資家の代理人によると、増田氏は2000年5月、パラオ国内に自らを会長とする「サンラ国際信託銀行」を設立。知人女性が社長を務める投資顧問会社「サンラ・ワールド」(東京都中央区)を事務局とする会員制投資クラブ(約800人)の会員に対し、金利10%以上をうたった定期預金をするよう勧誘したほか、銀行への出資も募り、金利や配当を支払っていた。

しかし、サンラ国際信託銀行は05年1月に現地政府から許可を取り消されていた。また、同銀行からハワイの霊園管理会社に貸し付けられた約16億円が、回収困難になっていた。

増田氏は、こうした経緯を明かしてこなかったが、インターネットなどで知った投資家たちが満期を控えた06年末に返金を請求。増田氏は資金が不足していることを認め、返済を先延ばしにしている。増田氏はパラオのゴルフ場開発への出資も勧めていたが、計画は頓挫。ハワイのコーヒー園所有を名目とした投資も配当が止まっている。

投資家の代理人の弁護士は「増田氏は日本での銀行営業を認められておらず、不特定多数からの預かり金を禁じた出資法に違反する。不透明な資金集めを中止させるためにも警察に捜査してほしい」と告訴の理由を説明。増田氏の代理人弁護士は「銀行の件については事実確認をしないと答えられない」としている。増田氏は、「バブル再来」など20冊以上の著書がある。

 勉強のためにと投資案件の資料は取り寄せたことはありますが、私にとっては余りにも高額であったため直ぐに諦めるというよりは、関係ない情報と思いました。
 が、その後も増田氏についてはマスコミでは聞けない独自の考え方や価値観に基づいての見方、意見が語られるので注目し,その発信されるものには目を通していました。

 1月25日、上記の記事に出会い、告訴されている方々がどのようなことを言っているのか早速パソコン検索をしました。

 そして以下の記述に出会いました、庶民には関係ないことかもしれませんが。今の世の中、「振り込め詐欺」ではありませんが、不透明どころか物騒で何が起こっても不思議でない最近の社会情勢です。 何かの参考になればと掲載します。
 今後の展開が注目されます。 1週間前、船井先生が増田氏が書い本を紹介されておりましたが、今見るとその日の記事は消去されていました。
 
 私も一度か2度、増田氏のことをホームページに紹介した記憶がありますので、急遽取上げました。


 @会社の中枢もしくは周辺にカリスマ的・教祖的な存在の人物がいること、
 A裏の取りにくい海外での経歴などをうたうこと、
 B著名人との親交を盛んに誇示すること、
 Cムダに大金をかけた豪華な事務所を使うこと、
 D一流ホテルなどの高級施設を使い説明会・セミナー・パーティーを豪勢に開くこと
 E、単行本・雑誌・CDなどの著作物を自費で出版すること、
 F制作費やスポンサー料を自ら負担してマスメディアに登場すること、
 G「絶対に儲かる、安全で確実」などと繰り返し保証する儲け話をして出資などの勧誘をすること


 





 COLUMN 1−D 755
                                     平成20年1月23日

     素ロウバイが満開となりました

 〜サンシュの蕾に微かな色味が感じられます〜

 早春を告げる素ロウバイは毎年紹介しています。
        本年も既に昨年末に今冬の一番花を紹介しました。

    

         ↑昨年末 12月29日の掲載しましたロウバイです。 
 
 その一輪花を紹介のたびに、ロウバイのアップ写真ばかりですので満開になった時には全体を掲載しようと思っているのですが、背景との関係で思い通りの写真が撮れずにいつの間にか蜜蝋のような花が根元から色あせていっておりました。

 今朝は久々に大寒の雨が寒々と音のなく庭に、このロウバイなどに降り注いでいます。 庭に降り立つことも出来ず、和室から眺める内にシャッターを押しました。 

                

 もう一枚狙っている写真があるのです。 このロウバイと入れ替わるように咲き始めるサンシュの花、ロウバイとサンシュを同一画面に納めてみようと思っているのですが、これまたまだ一度もシャッターを押したことがありません。

 上記の写真の右側、右上の枝がサンシュの木です。 20数年前は背丈が2メートル程だったのですが、今では5メートルを越えました。
 ベランダから眺めるとサンシュの蕾に黄色味がさしているのが確認できます。
 ロウバイとサンシュで早春を表現できないかと毎朝眺めるのですが、私の画面想像力では構想が浮かび上がってきません。

 昨年に続き今年もサンシュの花つきは上々の感じです。 楽しみです。

 





 COLUMN 1−D 754
                                     平成20年1月21日

  久しぶりに政治に関する事を書いてみました

      〜通常国会が開幕しました〜

 ほとんど毎日目を通すホームページ情報の中に、森田実さんの「時代を切る」というコーナーがあります。
 この老ジャ−ナリスト(年齢だけでは決まらないが)の正義感に満ちたご意見を読んでいるうちに、自己反省をしつつ以下の文章を書きメールにて先生に送りました。

 
毎回森田先生の「時代を斬る」を読ませていただいている66歳の年金生活者です。
 政治家もジャ−ナリストもマスコミも学者も本音を語らないこの時期、森田先生の腹の据わった、また価値観がぶれないご意見を読ませていただき胸の痞えが下りると同時に、このような社会にしまった私達時代の責任の一端を反省しつつ、最後に何が出来るのかを自問しながら日々を過ごしています。
 
 実質官僚に牛耳られている自民党政治の役割は既に終わって久しいのですが、それに対する野党の不甲斐なさが今日までズルズルと自民党を生き残させています。(其れを許してきた国民自身の勉強不足と人任せ・人頼り・保守保身が根底にあることを自覚しなければならないと思っています)
 バブル崩壊後、旧態然とした利権政治の延長線で、そのたびに目先を変えた自民党の首相が何代にも渡り財政出動・公共投資のばら撒き続け、既に硬直した社会構造・制度・仕組みの中では生き金とはならず、血税の無駄遣いと国家借金の増大を膨らますだけでした。
 
 万策つき自民党の命脈が尽きようとしていたとき、先の見通しもなくヤケノヤンパチで「自民党をぶっ潰す」「改革なくして成長なし」「中央から地方へ、官から民へ」と言って登場した自称「改革内閣」小泉首相。
 将来に対する閉塞感と不透明感の中、不信、不満、不安を持っていた国民は”目眩まし”に合い、騙され何かが起こるのではと期待することとなった。
 その実体は、裏で小泉首相を操った米国とその意を受けたマスコミと財界の一部が仕掛けた”改革”と言う名の国家・将来ビジョンなし、グローバルスタンダート・市場原理主義・弱肉強食・゛アメリカ追随の「ポチ政権」に拍手を送ってしまった。
 その結果は7年後の今、大きな付けとなって表面化しているというよりは、アメリカの行き詰まりと相まって大変な状況=恐慌を呈しているといえます。
 
 此処にきて明確に小泉政治が何であったかを気づかされた国民です。 が、この間=バブル崩壊後、其れまでの考え方や価値観を変更した生き方、会社運営の方向を転換され、行動を始められた方々は大変なご苦労をされておられました。 が、今花が咲き始めている状況をアチコチに散見できる状況になっています。
 其れと同じように政治の世界でも民主党を代表とする野党への期待の風が吹き始めたのでした。 
 自民党ではダメだ、一度政権交代して新たな出直しをしようと・・・ その結果が、昨年の参議院選挙の結果であったと思います。
 
 次の衆議院選挙によって政権交代が可能になると期待しました。 仮に政権交代しても果たして民主党に政権担当能力があるのかとは心配はしましたが、少なくとも50数年続いた政官財癒着の構造に少しは変化が起こり、其れまでより少しはあらたな展開が期待できるのではないかと考えていました。
 仮に、民主党にも政権担当能力がないことが明白に成れば、其れはそれで本気で国民が目覚めると考えていました。 いや、其れを望んでいるといった方が正確な気持ちでした。 既存の政治家のほとんど(期待出来そうな政治家もいる)ではこれからの日本再建は出来ないと考えていたからです。
 
 小沢さんには細川政権発足の時も期待しました。が空しく消えました。
 しかし、自己の確固たる考え方、信念を持っているから多くの寄せ集め集団の中では力が発揮できなかったのか。あるいは、右から左まで無責任で我儘な意見が出るから、中央突破で豪腕を振るった結果だったのかと思ってもみました。 結果、政権党であることが目的のような自民に簡単に政権を渡してしまいました。
 
 その後、小渕政権で上手にあしらわれ、冷や飯を食わされました。 それでも小党・自由党の党首として何とか存在感を示していました。
 まだ何かあるのかなと思った時に、最後の賭けにでて民主党と合流し、棚ボタ式に党首となった。 選挙上手といわれる力量を示し、地方回りをし小泉ー安倍政権で疲弊した地方や人々の期待を票に結びつけ、自民党政治の終焉を演出してくれる可能性の参議院選挙の結果が出ました。
 
 が、そのように思い、期待していた時に、「大連立構想」問題です。
 腹が立つことこの上なしです。 そのときから少し時間が経過していますが、今もテレビで小沢党首の姿を見ると大声で「ばかやろう」と口に出てしまいます。
 数日前、10数年続いているある会でこの事が話題となりました。なんとそこに参加した者のほとんが同じ気持ちを持っているのではと感じました。 
 
 民主党の幹部(?)は小沢党首の言動に怯えているようですが、そんなことでは真に国民の期待には答えられないことは明白です。
 この状況で時間経過すれば、民主党への追い風の国民の意識が民主党離れへと変化するのでは思います。 なぜかといえば、自民党のオウンゴール=失点で得点してきただけだからです。  其れゆえに勝ち目のない自民党は今年どころか衆議院の次の任期まで選挙なしで行く腹積もりではないで思うからです。
 そんなことでは、この大変革の時代の日本は益々死体と成ってしまいます。 ”亡国老人国”(元気老人までもが・・)に成ってしまいます。
 
 今、国民は民主党に微かに期待をかけ、自民党政治の終焉と真の変革の道を求めていることを自覚すべきです。(自民政治家の方が強かです)
 民主党はチャンスを生かしきれずに消えてゆくことになるのでしょうか。
 昨日元三重県知事・北川氏らが「地域・生活者起点で日本をせんたく(選択)する国民連合」が発表されました。 これは中央の政府、自民党にも民主党にも期待できない、失望と危機感の現われでと考えます。 良い現象であると評価します。 
 
 今日の社会を作ってきたのは私達大人です、代表する政治家を選んできたのも私達大人です。このことから言い逃れることは出来ないと考えます。
 これからの若者に引き継いでいただきたいこともありますが、負の遺産も余りにも多く山積させてしまいました
。 
 老人がこれ以上に権利主張をすれば、そのうちに若者が反乱を起こすのではないでしょうか。 そんな情けない最後だけにはしたくありません。
 今は私に出来る事は可能な限り”国民健康保険”を使わないように、朝晩健康維持に務めることぐらいです。
 反省すべきは反省し、これからの若者に謝罪すべきは謝罪し、最後に出来る事を穏やかに・健やかに・爽やかに、そして陽気に実行したいと思っています。
 
 森田先生の日々のお言葉が大いに励みになったいます。 これからも健康に留意され益々活躍されますことを祈っています。
 
 追記
 今、衆議院本会議で民主党鳩山幹事長の代表質問と其れに対する福田総理の答弁を聞き終えました。
 この国会がどのように展開されてゆくのかシッカリを見つめて行きたいと思っています。
 
 








 COLUMN 1−D 753
                                     平成20年1月17日

  図々しくも担当教授に受講ノートの点検依頼

〜「東欧」と称されてきたヨーロッパを知る、講義〜

 
昨年の9月26日より本年の1月15日までの全15回にわたる「ヨーロッパを知る B」の講義が終了しました。
 今回も一度の欠席もなく受講することが出来ました。 これで担当教授の講義は6講座を終了したことになります。
 ヨーロッパと言いますと10年前までは西欧(イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、オランダ等)が中心となっておりました(今でも人気がありますが)。
が、 このところ中欧という単語が使われポーランド、チェコ、ハンガリーの観光が脚光を帯びています。
 15世紀までは西欧よりはその中欧のほうがヨーロッパでは中心地であったことは、この講座を受けるまでは知らなかったことでした。 これで、中欧を中心とした「ヨーロッパを知る B]講座は3回目ですが、毎回内容が異なりダンダン、マスマス興味が高まってきております。 現地観光に行きたくなっております。
 
 さて、この講座は2005年の秋期の時は、何の心配もなく小島教授の講座に参加できたのですが、昨年の春期講座から受講希望者が一層多くなり抽選で受講者が決められているようです。 (といいいますのは、学生と同一の講義ですので聴講生の数は限られているからです。 春期は船旅でしたのでパスしましたが、昨年の秋期はオープンカレッジ事務所から他の講座に変更できないかとの連絡まで入りました。運良く当選しました)

 ところで、ボケ防止を兼ねて可能な限り講義内容を書き取り、其れをワープロ化しております。 受講仲間にその纏めたものを貰っていただけることになり、毎回聞き間違いや誤字脱字、固有名詞の間違いがないか気になります。
 そこで、以前にも一度お願いしていたのですが今回も厚かましく第14回が終了したところで教授に点検を依頼することにしました。
 快く引き受けていただき、期末試験や入試直前のお忙しい時にもかかわらず、依頼一週間後に「ハイ、出来ました」と返却していただきました。

 昨日と本日で修正していただいた箇所の校正を終えました。
 固有名詞の間違いは多くありましたが、肝心な論点の解釈や聞き取りには大きな間違い指摘はなくヤレヤレでした。
 
 聴講生仲間の方が一部ほしいと言われておりましたので、今度は自信を持ってお渡しすることが出来ます。
 また、今まで毎週お渡ししていた方々には、どのようにして修正箇所をお渡ししようかと考え中です。
 なんと言っても、A3版で49ページありますので・・・



 COLUMN 1−D 752
                                     平成20年1月14日

    春日三山に登ってみたけれど・・
 
  寒中に咲く、色濃き西洋花が迎えしのみ

 「10年日記」を読み直してみると、ほとんど毎年正月開けの今頃は何時もよりは遠出の散歩に出かけている。
 13日はカメラを肩に東海自然歩道に足を運んだ。 
 昨年の秋、人気の山道をフルコース踏破したらその後数日、太ももにハリを感じたので半分のコースを選んだ。
 普段ならコースにたどり着く前に砕石場を出入りするダンプカーのエンジン音や排気に悩まされる林道ですが、日曜日の為に寂しいぐらいに何も通らない。
 イノシイか熊でも突然飛び出してくるのではないかと脳裏を走る。

 スタート地点から急な坂道階段が約300メートル、登りきると背筋に汗を感じた。
 落葉した木々の間の尾根を歩きながら何か、何処かにシャッターを押すポイントがないかと振り向いたり、見上げたり、透かしてみるがその気になるところがないまま、道樹山(429メートル)に到着。
 遠回りになるが、足元が危険でないなだらかな坂道を選ぶのが一般的であるが、疲れもないので、一気に下るコースを選んだ。 選んだのは良いが今度はカメラどころではない、狭い山道に沿って危険防止の為にロープが張ってあり、それを手にして滑るように下った。
         一枚のシャッターを押すこともなく1時間50分で自宅に。
       
                  

                   

 14日、午前10時、ここまで入力したら昨日歩いた道樹山の麓で煙が上がった。
 今日は秋葉神社の正月飾りを焼く「火祭り」のようだ。 昨日神棚から降ろした”しめ縄”を持って出掛けて見ることにする。

 




 COLUMN 1−D 751
                                     平成20年1月11日

 セルビア・「ベオグラード大学」の修士課程卒業

 〜言葉の勉強から初めて5年間単身滞在で〜

 
 世界の火薬庫といわれるバルカン半島。 
 1945年、第2次世界大戦後にユーゴスラビアは6つの共和国によって「ユーゴスラビア王国」として建国された。
 戦時に国土解放に活躍したチトー大統領によって纏められていたが、彼の死後、経済問題から民族問題へと拡大し、「ユーゴスラビア連邦」は1980年後半に統一国家としては崩壊した。
 その後、ユーゴスラビア内部で民族間紛争が次々に起こる。 スロヴェニアの戦争。クロアチアの民族問題。 そして最も激しかったボスニア・ヘルツエゴヴィナ紛争。

 報道でそれらの国名が聞かされていても内容はサッパリ分らなかった。
 昨年、ピースボートに乗船した折、地球大学講座「ユーゴスラビア紛争にみる”戦争のつくり方」に参加し、現地にも3泊4日の旅をしてきたので、其れまで疑問に思っていたことがかなり理解できるようになりました。
 帰国して7ヶ月資料を取り出せばなんとか思い出しますが、そのほとんどが記憶の中から消えておりました。

 中部大学の「中欧を知る」講座の新年最初の講義は、担当教授の教え子でセルビア共和国・ベオグラード大学の修士課程を卒業された方の特別講座となりました。
 セルビア語の習得から始まって5年間で修士課程を卒業された方でした。 付け加えば、外見からは特に逞しくあるいは厳しいイメージなど微塵もないどちらかと言うと控えめに感じる女性でした。
 「何でユーゴスラビアだったのですか?」との質問に、「西欧から出なく、ユーゴという地から西欧を眺めてみたかった」と言うお答えでした。

 講義終了後、受講仲間と昼食を取ります。 その会話の中から2月に教授を囲んでの会を予定しておりますのでそこに彼女を招待し、もう少しお話を聞かせてもらうことにしたらと話がまとまり、声をかけることにしました。
 果たしてそのときに日本に滞在しておられるでしょうか。また、参加していただけるのでしょうか。
 又、一つ楽しみが増えそうです。
 
  
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