COLUMN 1−D 770
平成20年3月15日 記
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サンシュ・本日を満開日とする
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昨日が三分咲きで本日が満開日とはいささか早計な判断かと思いましたが、全ての蕾が開きました。 同時に昨日の雨が上がり、青空のもと線香花火がパチパチと火花を散らすように感じますので満開日としました。
(線香花火が飛び散るように見えるのはあと数日後のほうがより適切な状況になることでしょう)


芽吹き前の栗の木とナンキンハゼの間で



やはり線香花火のようになるには後数日かかるようです
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COLUMN 1−D 769
平成20年3月14日 記
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サンシュ・3分咲き(本年4回目の紹介)
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3月12日から3月14日、毎朝ベランダからサンシュを撮影しました。
暖かな日差しの中、一気に開花となりました。

3月12日

3月 13日です

3月14日、今朝は雨が降っています

昨夜、切干大根は室内に取り込みましたので、雨に当たらずに済みました。
2日間、太陽の光りを浴びてスッカリ水分が蒸発しました。 陽光が香りに転化したのでしょうか切干大根特有の香りが玄関イッパイに広がりました。

この香りは大好きといわれる方と大嫌いといわれる方に分かれることでしょう。
私にとっては空腹を抱えた子供の頃の故郷(豊根村)を思い出す懐かしい香りです。
思い出す故郷と懐かしい香りと味が大きな資産の時代がやってきました。
郷愁に浸るのではなく、次の一歩を踏み出さなければとけしかけるのですが、今朝はストレッチの後に腰にハリ薬をシップすることになりました。
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COLUMN 1−D 768
平成20年3月11日 記
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サンシュ色づく(本年3回目の紹介)
ダイコン切干の作成
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前回は2月27日、ロウバイからサンシュへと膨らみ始めましたサンシュを紹介しました。

写真ではお分かり憎いかもしれませんが、ここ数日の暖かさでベランダから眺めるとハッキリと黄色味がかってきた来たことが確認できます。


ご覧のようです

こちらは2月27日に撮影の為に手折り室内へ。 既に花柄が落ち始めました。

庭の隅の畑で、昨秋遅くに植えたダイコンが冬を越しました。 春のダイコン花を眺めるだけでは可哀想と三分の一収穫して干しておきました。 漬物にするには手間暇がかかりそうなので、暖かな日差しを受けて切り干し大根にすることにしました。
10日間ほど干してておいた関係でしょうか、包丁を入れますと柔らかな甘い香りが漂いました。
いつも思うのですがダイコンは本当に色々な食べ方があるばかりでなく、他の素材を生かす役割も果たし大変便利で役に立つ野菜だと感心します。
朝の味噌汁の実にタップリと刻み込んだダイコンを入れたものが好きです。
漬物にすればお茶漬けにしても最高ですし、お酒の御つまみにも、お茶とも愛想が合います。
関東煮の具にしてもOK,風呂吹き大根で柔らかく茹で、熱々の間に練り味噌で頂くのもサッパリしていて大好きです。
主役ではないのですが脇役として欠かせないお料理の材料です。
脇役といえば、お刺身のツマはお飾りの役ばかりでなく、消化剤の役割もします。
今回のように刻んで干して、ハンベンを入れて煮物にすれば大きな皿イッパイを平らげてしまいます。
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COLUMN 1−D 767
平成20年3月4日 記
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中部大学・オープンカレッジ・聴講生仲間と
「小島 亮先生を囲む会」を開催
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中欧ヨーロッパの歴史を中心とする小島先生の講義に参加している聴講生の会が3月3日春日井市勝川駅前の「水徳」で開催されました。
参加者は先生と教え子で中部大学卒業後セルビアに5年間留学し修士課程を卒業され、本年の4月より千葉県の大学院で博士コースに進まれるY子さん、聴講生仲間の男性5人と女性3人の合計10名です。
このような会の運営に慣れた方がおられ計画・準備から当日までスムーズに進展しました。 一層お互いをより良く知り合いましょうと自己紹介が行なわれました。
一人の持ち時間5分と言うことで始まりましたが、5分以内で纏められる方はほとんどありません。
誕生日から60年前後の人生体験を語ること、またその間に質問が飛び出したりし、慣れないこともあって進行係のストップが入りました。

皆さんそれぞれに多彩な体験をお持ちですので無理のないことです。
予定時間を1時間余り超過してしまいました。 その後勝川駅前のホテルの地下バーで軽くイッパイ飲んで帰宅。
このホテルは勝川駅前の大規模な整備事業の中心の一つで春日井市が出資している第三セクターのホテルです。 何処にもあるように大きな赤字経営でした。
大幅な出資金の援助により昨年度から黒字経営に転換したと市の広報誌で読んでいましたが、帰路の電車からホテルのガラス窓を照らす灯りを数えてみますと今後のことが思い遣られました。
冷戦構造終焉前の10年間、東欧の地で生活体験を持っておられる先生は私達とは大きく異なった視点から世界をそして日本を眺められておられます。
先生の専門外のこと=世界情勢(恐慌について)について訊ねますと、気楽に答えていただきました。 その答えは厳しくなることの可能性を示唆するものでした。
ここ2年前から学生の質の低下が顕著に見られると参加者の声ですが、自論の「そんな社会をつくり、若者を送り出したのは私達世代」と改めて自戒でした。
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COLUMN 1−D 766
平成20年3月3日 記
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遠山郷へ行ってきました 3月1日〜2日
〜観光農園開墾と旧木沢小学校の清掃ボランテイア
〜4月19日実施、「マラニック」コースの視察〜
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10数年前、中央高速道路の恵那山トンネルを越える前に雪が降り始めました。 アッと言う間(その間10分でしょうか)、たちまちノーマルタイヤの乗用車が横滑りを始めました。
私もその一人でしたがチェーンを持参していましたので、側道で装填し葬儀に少しは遅れましたが飯田に何とかたどり着いた経験を持っていました。
3月1日ほとんど同じところで雪が舞い始めた時には緊張しました。
飯田市内から矢筈トンネルを越え遠山郷・上村地区までは山道に残雪があり、道路の一部にはシャーベット状になった轍もあり、慎重に走りましたので予定時間をオーバーして旧木沢小学校に到着。

小学校裏手の茶畑と休耕畑をお借りしての「遠山郷・藤原学校・観光農園」の開墾です。
開墾と言っても枯れ草を刈り取り、その後耕転をしました。
今回は畑の面積約300坪の内約150坪を耕転し、小田原農園より持ち込んだ米ヌカと菜種の絞りカスに酵素を配合した有機肥料を散布し耕転しました。

遠山郷の名水「観音霊水」もタップリと散布しました。

最後に看板を立てて今回は終了しました。 3月末にジャガイモの植え付けが始まります。
一方、旧木沢小学校の掃除も並行して他のメンバーが実施しました。 展示物も日増しに充実してきましたが、なんと言っても人手が足りず埃だらけの状態でしたが、特に玄関入り口などは見違えるほどになりました。
その間、私は4月19日に実施される第2回目の「2008チャレンジマラニック
in 遠山郷」のコースの現地視察に便乗させていただきました。
遠山郷内を約60Kmを走る&歩くことから、マラソンの”マラ”と、ピクニックの”ニック”を組み合わせて「マラニック」と名づけられたものです。
午前7時にスタート最終は午後の5時で打ち切りと言うことです。
昨年はエントリーをされた方が約100人、当日参加が約80人とのこと。
本年は今のところ応募者が50人強とのことです。 お世話をされる方の数は90名です。
標高差は最大500メートルはあるのではないでしょうか。 最大傾斜地も30度以上の山道もありました。

国道沿い「ソバ処・信玄滝」〜 ここで遠山川を渡り〜「パレットゴルフ」の脇を通過

参加者に元気をつける狙いでしょうか「金精神」の祠には男神様と女神様が応援します。
「観音霊水」前で約11Km、旧木沢小学校に到着します。
先頭集団は約1時間強での到着を予測し、ここで食事の用意がされています。
上村地区に入りいよいよ下栗の山道に向かいます。

案内の軽トラックに乗っていても息が切れそうな急な坂道です。 選手はこの南アルプスの素晴らしい光景を眺めることになるのですが、ユトリはあるのでしょうか。
昨年参加された方に訊ねましたら、「次々に変化する景色に満足した」といわれました。
標高1091メートルのところにある「旧上村小学校・下栗分校」の跡地で、雪解けの後には宿泊できる施設になっています。 ここからまだ数百メートルのぼり引き返すことになると説明を受けましたが、ここで引き返すことになります。
旧校庭からからの眺めです。
登りも大変でしょうが、あの急坂を下って行くとしましたら、箱根駅伝でも時折見られる、足に負担が来て小田原中継点に届く前にギッブアップしてしまう姿が想定されました。
4月19日は私も旧木沢小学校でお手伝い参加をする予定です。
最後に、これが半分目的で遠山郷に来ているのかもしれません。
3月1日の夕食は賑やかに、気の置けない、人情厚い方々との交流です。


「霜月祭り」体験した町から来た若者が「エイサー、エイサー」と囃し立て盛り上がります

今年の遠山郷は例年になく雪が多く、零下の気温が続いていますが、旧木沢小学校の校庭の桜の葉を燃やした煙が春の陽光を促すようにスーと立ち上っていきました。
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COLUMN 1−D 765
平成20年2月29日 記
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認知症(アルツハイマー病)は100万人を越えた
〜閏年の2月29日に書きました〜
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何の関係もありませんが本日は2月29日。4年に一度しかないこの日に・・・
認知症は脳を構成している神経細胞が通常の老化より急速に、いわば病的に減っていくことによって正常な働きを除々に失っていき認知症(ボケ)になってゆく病気です。
国立長寿医療センターで使われているテストでチェックしてみました。
@同じことを言ったり聞いたりする。 A慣れた所で道に迷った。
B置き忘れやしまいわすれが目立ってきた C物の名前が出てこなくなった
D以前はあった関心や興味が失われた Eだらしなくなった
F日課をしなくなった G時間や場所の感覚が不確かになった
H些細なことで怒りっぽくなった I複雑なドラマが理解できない
J蛇口、ガス栓の締め忘れ、火の用心が出来ない K夜中に急に起きて騒いだ
3つ当てはまると要注意、それ以上は脳神経内科で見てもらいましょう、ということです。
今のところBが目立つということまではないが、年に何度かある。
Cは年に何度か自覚する。 その他は今のところ当てはまらないと思っています。
認知症は「診療までが医療で、その後は介護」と言う意識が高く、必要な医療が受けられずに見過ごされているのが現状のようです。
私は脳の働きを良くし、認知症の予防にもなるという「イチョウの葉エキス」を3年前から服用しております。
「イチョウの葉エキス」は医薬品としては認めとられていませんが、ヨーロッパのハーブ医薬品として薬局で販売されています。 私は通信販売で取り寄せています。 2年前からは姉にも送っています。
日本でのイチョウ葉エキス(健康補助食品)の市場は現在200億円の売り上げと言うが、4年後には500億円市場になると予想されています。
健康や国民健康保険の事になると、ワンパターンで書いていることですが、私が今出来ることの一つは”少しでも健康保険の厄介にならないこと”と戒めており、イチョウ葉エキスの常用もその一環思っています。
4年後の2月29日にはどのような状況になっているのでしょうか。
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COLUMN 1−D 764
平成20年2月27日 記
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ロウバイから小梅そしてサンシュへ
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春待ち遠しい今時、富山湾では吹き寄せる高波で大きな被害が出たと報じられている。
強風に煽られてゴミ回収日待ちの紙袋や発泡スチロールが庭に散乱しています。

蜜蝋のような黄色の花と甘い香りのロウバイが一つ二つと地面に還っていっております。
この辺りでは一番遅し我が家の小梅の花がやっと数輪咲き始めました。

これからの主役は私ですと”サンシュ”の蕾が顔を出し始めました。↓

水滴の中から顔を出したように(輪切りの杉板の上で)

今年は花付きが良いので見上げることが多いことでしょう。
昨年の今日は船旅の2日目、紀伊水道を抜けて太平洋上で最初の船酔いに襲われていました。 ということは、これから咲く花々とは2年ぶりとなります。
昨年は船旅前に済ませていた定期健康診断に本日行ってきました。
変わらぬ花々、眺める心身や如何に・・・
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COLUMN 1−D 763
平成20年2月25日 記
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冬の百姓学校・囲炉裏を囲んで
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旧中仙道の「細久手の宿」から左に折れて深沢地区の百姓学校へと降りてゆく七曲には今月9日に降った雪が日陰のところでは残っていた。 (25センチメ−トルの積雪だった)
2日前の名古屋の最高気温14度とは打って変わって小さな盆地の深沢の地でも巻き上げるような強風に身を縮めた。
8年前、休耕田の再利用に挑戦した深沢川沿いの田圃まで散歩がてらに足を伸ばした。 其処はバブル崩壊で木曽川を越えて八百津町に通じる橋の工事が中断、行き止まりの県道352線は通行止めの表示が朽ちかけている。
数百メートルの間に、数年前に空き家となった家、子供達が町にで80歳代の老婆のみの大きな屋敷、日に数度屎尿処理車しか通過しない民家の庭につながれた痩せた犬が吠え立てる。
少し身体が温まったところで囲炉裏のある部屋に戻ると校長が暖を取っていた。
「どうかね世の中は・・、 色々騒がしいようだが・・、」
「予測が少し早すぎたようですが、一つ時代が回転することは間違いなさそうですね。
団塊の方々が定年を迎えて、百姓に目を向けるかと思っていたが、大半の人たちは65歳までは働き続けることを選択しています。 ご苦労なことですね」
「金、金、金ということじゃろう」 「太陽は輝いているし、日本には土と水が豊富、こんなに恵まれている国は世界に数少ないというのに」
アメリカの大統領選挙のこと、中国・インドの成長とバブル、地球環境問題、食糧問題、
日本政治家の近視眼発想、其れを選んだ国民の資質、等次々に話題が展開した。
夕食の支度を始めた校長の奥さんが時折ニヤニヤと笑っておられるようであった。
後から一言、「地区の会合に言っても話し相手がいない。 今日は加藤さんを相手に日頃の欲求不満を吐き出したのではないか」と教えてくれた。
囲炉裏の火は隙間風で燃え上がる。 鉄瓶の口からは湯煙が立ち上がる。
粉雪がチラチラと舞い落ち始めた頃、2時間かけて50ccバイクで駆け付けた同僚が鼻水を啜り上げながら、アツアツのオデンを口に運んだ。
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COLUMN 1−D 762
平成20年2月22日 記
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わが街 「高蔵寺ニュ−タウン」
40周年目の再出発
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1968年(昭和43年)5月18日、春日井市の東の端に人造都市生まれました。
都市部の人口急増に伴う国家的プロジェクトとして始まった 東京の多摩ニュータウン、大阪の千里ニュータウン、そして中部圏最大の高蔵寺ニュータウンです。
私がこの地に移住してきましたのはニュータウン誕生後2年の昭和46年春でした。
今は藤山台、岩成台、高森台、中央台、石尾台、押沢台とありますが、当時はまだ藤山台のみでした。
当時、入居に当たっては一定以上の収入制約があり、条件をギリギリ満たす3DK・約60平米の5階建ての4階に入居しました。 買い物は日常生活を最低限満たすスーパーマーケットと薬局など数軒の小売店のみでした。勿論病院などはありません。 バス路線から一歩外れると雨の日には道がぬかるみの状態でした。
が、年々人口が数千人の単位で増加して、1995年(平成7)には52200人とピークになり、その後下降線をたどり、昨年10月1日の時点で48269人とのことです。
一方で、65才以上の人口割合は、80年には2・3%だったのが2007年には17%まで跳ね上がりました。 人口減少と高齢化が同時に進行する事態になっております。
購読している中日新聞の切抜きが手元にあります。
1988年(昭和63年)5月18日、満20歳となった高蔵寺ニュータウンの特集が組まれました。 そのタイトルは「高蔵寺ニュータウン20歳 人と街の詩」の連載企画です。
そして、それから10年後の1998年に再び、30歳のニュータウンの特集が組まれました。
タイトルは「ふるさと高蔵寺の光と影 30歳のニュータウン」です。
第1部は「緑と太陽のまちづくり」 人にやさしいまちへ,また一歩
第2部は「手と手を結び合って」 盛んなコミュニテイーづくり
第3部は「高齢社会への発信」とあり、”将来を見据えた講座エンジョイ” ”地域づくりになう老人クラブ模索” ”地域で支えあう在宅看護の充実” ”地域活動が担う世代越えた交流” ”子につけ回せぬ「分譲組」も備え” ”スーパーが撤退 お年寄り不安げ”などの活字を見ることができます。
そして、更に10年の月日が経過し、満40年目となった今年・2008年のタイトルは「40年目の再出発 高蔵寺ニュータウン」です。 第1部は「住民が育てた大規模団地」。
前例がなくゼロから始まった高蔵寺ニュータウン。 この地に長く居を構え続けている住民もいれば、仮の地と短期間で出入りする人々も多いニュータウンでもありました。
それぞれの立場ではあったが様々に行動を起こしながら「成熟した街」へと育て上げてきました。
今の日本、農山村の過疎地問題、地方都市におけるシャッター通り問題等とそれぞれの地で様々な問題が表面化して久しいです。
少子高齢化、社会福祉、若者の就業問題、教育・育児、さらには地球環境と数え上げたら切りがありません。
どうも、これまでの考え方や生き方、価値観の延長線では解決不可能なことが明確になってきました。ほとんどの方々がそのように感じ、考えて居られることではないでしょうか。
では、如何したらよいのか。 今のところ誰も答えを持ち合わせていないようです。
ということは、一人ひとりが自らの責任において行動をとらなければならないということでしょう。
「高蔵寺ニュータウン・40年目の再出発」と同様に、私も時代の実体をシッカリと認識し、肝を据えてこれからを過ごさなければと改めて戒めています。
今月から半年間続く、中日新聞・近郊版週2回の「40年目の再出発 高蔵寺ニュータウン」の連載を友として、行動を起こし始めるとき来ると言い聞かしております。
昨日雨水を過ぎ、春到来を感じる気温14度の陽光のベランダで背伸びをしつつ・・。
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COLUMN 1−D 761
平成20年2月20日 記
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