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 COLUMN 1−D 800
                                    平成20年6月日6日

     絹さやエンドウの収穫が終わり

     夏野菜(キュウリ、トマト、ナス)の花咲く

 
 コラム1に掲載するか、コラム2にするか迷った。 だって花と言っても夏野菜の花。

    約2ヶ月間楽しませてくれたキヌサヤエンドウの収穫が終了しました。

         

 ご覧のようにスッカリ葉が枯れてしまっています。 というものの本日最後の収穫でした。
 大好きなグリーンピース(?)の炊き込みご飯の材料だったのです。
 近くの家庭菜園を覗くと、何処も出来栄えは素晴らしいです。 キット作り易いのでしょう。

 さて、この1週間ほど出かけることが多く、また家に居ても雨模様で庭に出ることもありませんでした。 いや上記のキヌサヤエンドウの向こう側に夏野菜の畝が有りましたので気がつかなかったのです。
 『本日キュウリの一番収穫がありました』と食卓に4本並んでいました。 頂く前に他の夏野菜がどうなっているのか気になり、虫除けを手、足に吹くつけて昨夜来の雨に濡れている一坪畑に入ると、それぞれに一気に成長していました。

    

        ナスの花                        トマトの花

 トマトは既に一番大きいものは直径2センチメートルにまでなっています。 添え木に縛り付けてないところは、グニャリと曲がっていました。

                 

                  本日一番どりをしたキュウリの花です。

          

       ジャガイモ(男爵?)                ジャガイモ(メークイーン?)

 意識して植え込んだのではないですが、今年も夏野菜の畝の間からジャガイモが伸びてきました。 チッソの栄養素が効いている為か葉の成長が凄いのです。
 そのためにその葉に遠慮するように、これは植え込みましたピーマンがヒョウロヒョロと伸びています。 花も付けていたようですが虫に食われていました。

 大嫌いな蚊に食われないように対策をして出かけたのですが、ヤッパリ左腕に数箇所やられていました。 どうも蚊ではなく他の虫のようでもあります。
 一坪畑ですが今年も夏野菜を楽しませていただけそうです。






 COLUMN 1−D 799
                                    平成20年6月日5日

        豊橋公園を散策する

 6月3日早朝、姉が白内障の手術をするので付き添いの為に豊橋に向かいました。
 岡崎インター前で岡崎I・C〜音羽・蒲群I.Cで事故発生との表示を見る。
 岡崎インター直前で既に渋滞していたので急遽岡崎インターで国道に回るも、ここも渋滞である。 姉に電話を入れて1時間遅れで病院へ。
 手術そのものは30分ともかからずに終了、病院で一晩泊ることになっているので、その間に他の要件を済ます為に豊橋の家に行く。

 午後3時過ぎに雨が上がったので、家から10分の豊橋公園の散策に出かける。
 豊橋公園に隣接してある豊城中学は母校でもあり、通学コースでもありました。

      

  写真の上の黒いところは国道一号線「吉田大橋」です。 城下から三河湾方面を眺めています。

           

 城下の朝倉川が豊川に注ぎ込むところ、この辺りは潮の満ち引きがあり、川幅と深さが変化します。 川岸の砂地がなくなっていました。 また、中央の緑の平地は大雨と満潮が重なると一面水面下になります。 今も変わらない様子でした。
 川幅は最大時、50メートル以上になります。川向こうの砂地で遊んでいて手首を骨折しましたが、その時は骨折しているとも知らずに、背泳ぎで渡ってきたことを思い出し、手首が何となくムズ痒くなってきました。

                  

     公園内の「戦災復興の像」です。青年の若々しい姿に暫し立ち止まりました。

                  

 中学校と家の中間にある豊橋ハリストス教会の大聖堂です。 県指定の有形文化財に指定されています。今年に入り国の指定する建物になったと新聞で読んだ記憶があります。 確か幼稚園を経営していたと思いましたが、当日は園児の姿は見当たりませんでした。

  
竣工 1913年(大正2年)12月
所在地 愛知県豊橋市八町通3-15
設計 河村伊蔵
構造 木造平屋建て、塔屋付、銅板葺
建築面積 177.7m2

    旧豊橋ハリストス正教昇天教会。

 この教会の聖堂は、「聖使徒福音者馬太(マトフェイ)聖堂」といい、 初代神父・マトフェイ影田(-1912)叙聖35周年を記念して建てられました。 
 設計は、白河ハリストス正教会や函館ハリストス正教会を手がけた副輔祭・河村伊蔵です。
 建物自体は、1913年(大正2年)に完成したものの、 バルカン戦争(1912-1913)や第一次世界大戦(1914-1918)の影響で、 ロシアに発注していた聖障(iconostasis)が黒海沿岸のオデッサ(Odessa)に足止めされたため、 成聖式は、仮の聖障を作成して1915年(大正4年)に行われました。 現在の聖障は1927年(昭和2年)に設置されました。 
 聖障とは、 聖堂内の至聖所と聖所を区切るイコン(聖像画)がはめ込まれた壁のことです。
 私の生まれは豊橋ですが、終戦後は豊根村で小学校卒業まで暮らしていましたので、豊橋は中学から大学卒業までの11年間のみです。
 お墓参り等で、時には豊橋に行くのですがほとんど自動車で要件を済ますと帰って来てしまい、今回のように歩いて時間を過ごすということはありませんでした。

 公園の隣の市役所も、母校の校舎も全く面影がありませんでした。 中学の校庭ですれ違った在校生にプールは何処にあるのというと訊ねると3階建ての校舎の屋上を指差しました。
 と言いますのは、確か昭和29年中学のプールを作る時穴を掘り、その土を運び出した思い出があるからです。 経費が少なく私達も借り出されたのです。

 その後、昭和31年には「最早戦後ではない」のタイトルで経済白書が出され、日本は高度経済成長を突っ走りました。 新幹線が走り、高速道路が建設され、太平洋ベルト地帯は大きく変貌をしてゆきます。 ここで風景も景観も一気に変わってゆきました。

 公害の発生、大学紛争、沖縄返還と続き、日本列島改造の田中内閣、三木〜福田〜大平〜中曽根と続いた自民政権、その自民党政権もバブルが生まれ、崩壊し連立政権時代となりましたが、ここに来て「ネジレ国会」という現象の中、国の方向性が見えません。

 高度経済成長の時代を夢見る人はいないことでしょうし、皆が一目散に同じ方向に向かって走ってゆくこともありえないことでしょう。一人ひとりが自分の責任で主体的・自主的に対処してゆく時代になったと思っているこの頃です。
 
 姉の白内障の手術は来週もう一回あります。 「今度は来なくてもよいからね」と元気な声が聞こえ、「今まで見えぬくかったところが見えるようになった」と喜びの声も聞きました。 
 安堵すると同時に人事ではないとも思いつつ、傘を手にシトシト降る梅雨空の散歩に出かけることとします。
 
 




 COLUMN 1−D 798
                                    平成20年6月日2日

 昭和28年度 豊根村黒川小学校
  昭和31年度 豊根中学校卒業同窓生会

 
             

   60数年ぶりにあった五郎さん             今年も元気な友里さん

                

      それぞれに披露される「健康体操」には皆さん真剣に取り組みました


           

   かっては訪れたことがあったかもしれませんが、記憶にはない新城桜淵公園が眼下に見える「「新城観光ホテル」にて開催されました。↑ ↓


           

             

 信長・徳川軍と武田軍の戦いで有名な設楽ガ原の古戦場跡”馬柵”が再現されていました。

              

 豊川稲荷も久しぶりに訪問。昼食は「稲荷弁当」かと思っていましたが、お任せ料理にしては豪華な食事をいただきました。

 今回は小学校2年生の時の先生(私の姉でもある)と同行しました。 約70年ぶりの再会でした。 事前にここ10年ほどの同窓会の写真を見せておいたのですが、後から訊ねますと、全く面影が消えていたそうです。
 毎年開催されている姉達の小学校の同窓会の方が疲れないといっていました。

 何時、誰の口から出るのかと思っていましたが、2年ごとに開催されている同窓会、遂に今回「これからは毎年開催しよう」と言うことになりました。
 
 中学卒業までに転校したもの4名を含めて総勢44名、既に物故者は6名です。 今回の出席者は先生2名を加えて17名でした。
 開催の前日、血圧が安定しないからと2名の方が急遽の欠席でした。
 健康第一で来年の再会を約し散会しました。





 COLUMN 1−D 797
                                    平成20年5月日31日

 小泉首相がやったこと、

  〜天木 直人さん のブログを読んで〜

 イラク戦争に反対し、外務省を解雇された天木 直人さんのブログを時々読んでいます。
 5月30日の内容は朝日新聞に5月30日に掲載された「変転経済」の最終回で小泉構造改革を取上げたものでした。

 その内容は”「小泉構造改革」という言葉で繰り返すマスメディアの罪”というタイトルでした。 前段でその記事の内容を以下のように紹介しています。

『「 ・・・バブル崩壊後、改革を進められない政府・与党に国民は失望していた。

 そこに登場したのが、「自民党をぶっ壊す」と宣言する小泉純一郎だった。

 その変人宰相を利用する形で学者や経済人らが、自らの思いである抜本的な政策転換を図ろうとした。

 集まった民間人には二つの流れがあった。一つは官僚主導の場当たり的な経済政策に失望していた経済学者ら、もう一つは米国型経営を志向する経営者らだ。

 前者の代表が竹中や八代尚宏(上智大教授)、後者の代表が牛尾治朗(ウシオ電機会長)や宮内義彦(オリックス会長)だ。

 両者に共通していたのは「時代に必要な抜本的な政策転換は、非官僚政権でやるしかない」という思いだった。

  彼らは小泉が首相になる前から勉強会を重ねて小泉氏に考えを吹き込んだ。

  郵政民営化に執念を燃やす小泉氏はそれに共鳴した。

  もっとも、郵政改革しか興味の無い小泉氏と財界・学者のチームとは目指すものは同じではなかったが。

 だから、皮肉にも、小泉改革は、郵政選挙の大勝を機に勢いを失った。小泉の熱が冷め、それが周囲にもわかったからだ。

 宮内は言う。「小泉さんは・・・規制改革や公務員改革ももっと徹底してやらなければいけなかった・・・」

「戦後体制」を変えようというエネルギーが充満するなかで、小泉改革は歴史的必然だった。だが、政権内にも国民にも、目指す社会像の幅広い合意があったわけではない。

 変人宰相の個性にたよった異端の政権の限界はそこにあった。

 日本はいま、「改革疲れ」と格差社会への不安で、再び漂流を始めたかに見える・・・」

 この朝日新聞の記事は一見もっともに見える。

 以上のように論じた後、以下のように続く。

 『しかし、意図的かどうかは不明だが、小泉政治の批判にはまるでなっていない。小泉改革のいかさまに何も触れていない。

 奥田碩という小泉政権の最強の後ろ盾についての言及もなければ、小泉政治の最大の特徴である、売国的な対米従属政策についても一言の言及も無い。

 それにもまして、この朝日の記事の最大の罪は、郵政改革しか中身のない小泉政権5年半を、いまだに「小泉構造改革」と呼んで誉めそやしている事だ。

 しかもその郵政改革でさえ、牛尾氏がこの朝日の記事の中で証言しているように、「田中角栄元首相以来の経世会の利権つぶし」でしかなかったのに、である。

 あの時、国民が求めていたのは本当の意味での改革だった。

 ところが小泉元首相は、5年半も政権をあずかりながら、国民が求めていた改革は何一つしなかった。

 小泉政権下でなされたことは、三流学者や利権目当ての財界人の、米国流新自由主義の導入でしかなかった。

 政策に興味のない無能な小泉首相が、それを放置したのだ。

 小泉政治の本性は、中央集権的な官僚支配を温存、強化する一方で、規制緩和、民営化の名の下に、格差を拡げ、弱者をいじめる政策の導入であったのだ。

 それを小泉構造改革と詐称することはもういい加減止めたほうがいい。

  今年2月上旬、小泉元首相の誘いで、郵政民営化をやった連中が都内のレストランに集まったという。その時の光景を、その朝日新聞が教えてくれている。

 話題はもっぱら改革や郵政選挙に集中したという。

 「民営化できたのは奇跡の塊だ。いや、面白かった。」

 小泉の、オペラを楽しむかのような声が響き渡ったという。

 ここにすべてが集約されている。その小泉が臆面もなく出てきて改革が足りないと叫んでいる。

 我々は失われた5年半を今こそ取り戻さなくてはならない。

 天木直人さんのこのブログを読んで、外務省を解雇されたことに対する腹いせから書かれた意見だとは思わない。 私自身小泉内閣登場時・約3ヶ月その言葉や態度そしてポーズに拍手を送ったことを記憶しています。
 友人・知人にも語っていますから言えますが、その3ヶ月経過した後、小泉内閣、あるいは小泉首相個人に対して疑問符を持ち、これは禍根を残すことになると考え警鐘を口にしたものでした。

 今更、時間軸が戻るものでもなく、これも日本が通過しなければならなかった必然であったのかと考えていますが、さて必然であったと考えるなら今の状況に対しどのように対処すべきかを私なりに考えを持たなければと日々を過ごしています。
 本日は天木さんのブロブを読み、改めて小泉政権の行なったことの本質(一部であるが、同時に核心でもある)について考えています。

 これから、小学校時代の同級会に出席です。 高齢者健康保健制度の適用にはまだ少し時間がある66〜67歳を過ぎた仲間がどんな思いや考え方を持っているのか訊ねてみようと思っています。






 COLUMN 1−D 796
                                     平成20年5月27日

小林多喜二の「蟹工船」が若者に読まれているという 
 〜中部大学でマルクス、エンゲルスを学んでます〜

 
 私は小説「蟹工船」を読んだことはない。 ただ、どのような内容のものかは知っている積りです。 
 今、若者の間で「蟹工船」が良く読まれていると聞く。日雇い派遣で働く若者達が、自分達の境遇・置かれた立場の悲惨さから、80年前の小林多喜二の小説を読ませているのであろうか。

 
 今年の春学期からマルクス・エンゲルスの登場する以前の空想的・ユートピア社会主義理論から始まり、ユートピア社会主義論を批判した、科学的社会主義論のマルクス・エンゲルス、そしてその後のレーニン、スターリンと連なる講義を受けています。
 この講義が始まる前から担当教授が入れ込んでいるのを感じていました。 毎回教授自身が録音テープを持ち込んでいる。 想像するに講義終了後にチュックをしているようです。 (講義録を使って著書を出版する計画かも知れない。)

 兎に角、「修士課程並みの講義となります」と言っておられたように、これまでの3年間の各種講義とはレベルが異なり、私の受講ノートも今までと比較して自信がありません。
 当初、3学年の学生が2〜3人受講していたが、その後、修士課程の研究生2人と、社会人の聴講生の十数人となってしまいました。

 昨日、いつも読んでいるブログに、「資本主義の歴史」について整理してあったものに出あいました。
 

 @自由放任・弱肉強食の政策が、階級社会化を進行させた。
 A階級社会を終わらせる為の政治路線として共産主義・社会主義が広がっ  た
 B恐慌と戦争の中、自由放任主義と共産主義の対立を止揚するものとして  修正資本主義(ケインズ主義)が資本主義を運営する基本となった。   30年前までは修正資本主義が主流であった。

 C1970年代(昭和50年代)後半から米国と英国で自由放任主義が支  配的となり、階級社会が進む。
 D1990年以降、自由放任主義のグローバル化が進行した。

 この自由放任主義・階級社会化の流れに抵抗する若者の間で共産主義・社会主義思想が広がり始めている。
 米国主導の自由放任・弱肉強食主義に基づくグローバリズムが資本主義社会を格差社会・階級社会に変えた。
 階級社会化が共産主義・社会主義を復興させつつある。

・(A)自由放任資本主義×共産主義の対立の時代が再び到来するのか
・(B)自由放任資本主義から修正資本主義への転換がすすめられるか。
・3つの潮流の闘争が始まった。

 ソ連邦が崩壊し冷戦が終結して約20年、アングロサクソン流の自由放任・競争社会のグローバリズムが世界を覆った。 格差社会・階級社会となった。
 日本社会も同様である。 多くの人がこのままではダメだと気づき、思っているが目の前の対応に終始して、根本的な考え方や方向付けはなされていない。

 毎度の結論であるが、人頼りは止めて、試行錯誤しながらも自主性・主体性を持って行動を起こし、進める時であると思っています。

 
  5月26日、何時もの散策コースの大谷川の遊歩道の土手に、近隣の少年達が植樹した幼木の下草刈がなされて、年々成長しているのを嬉しく眺めました。

          






 COLUMN 1−D 795
                                     平成20年5月26日

  三好町制施行50周年記念事業

   「第九演奏会」  文化センター・サンアートへ

 
 知人に誘われて「第九の演奏会」に行きました。 絵画、陶芸、音楽鑑賞は入場料を払ってまで行きたいと思うほうではありません。
 今回も友人が参加しているといことで足を運ぶことになりました。
 数年ぶりに三好町に行きましたが、三好インターチェンジを中心に開発が進められていました。 これも業績好調なトヨタ自動車の関連会社が多く進出し、同時に従業員が増加しているからでしょう。

 今回気がついたのですが、第2次産業ばかりでなく、第1次の農業関係も活発な様子でした。 正確な場所はわかりませんが、なだらかな丘陵地には果樹園(柿、梨、ブドウ等)が良く整備されて広がっていました。

 町制と言っても人口5万人を越えており、近く市制に転換するとの話も聞きました。
 近隣の町も加わって合併するのかと訊ねましたが、三好町は豊かであるがそれに比して例えば東郷町は貧しいから声がかからないとのことでした。

 格差社会とか、ワーキングプアーとかの言葉を毎日耳にしますが、富むものは富、貧しきものは更に貧しくという状況が日増しに顕著になっています。
 こんなことを続けているとそのうちに、弱者の反乱が起こりかねないと頭を横切りました。

 演奏会の方は、今回もやはり生で直接肌で感じると良いものだと改めて認識しました。
 第九は主に冬場に聞く機会が多く、またその時期のものとの思い込みがありましたが、雨上がりの五月の第九も素晴らしかったです。
 地元を中心に150名以上の大合唱団の歌声はまさに「歓喜の歌」そのものでした。

                 

 鍬持つ手に 歓喜の歌声が 流れてくる のではと思いました。






 COLUMN 1−D 794
                                     平成20年5月25日

  これは面白かった
    
      藤原事務所 長谷川 孝さんのブログより

 
 私が色々と勉強させていただいている藤原直哉さんの事務所のメンバーが様々な視点、分野から自由で活発な意見が発信されておられます。
 皆さん20代、30代ですので若い方と接する機会の少ない私としては”なるほど” ”そんなもんかな?” ”へ〜”と驚いたり、感心したりしています。

 その中で兄貴分的存在(と言ってもまだ30代半ば)の長谷川 孝さんの「見て、聞いて、嗅いで、触れて、感じたこと」と題したブログがあります。
 その5月24日に書かれていることに、ウフフと笑ってしまいました。 ”ウフフ”と目を細め、笑ってしまったのは久しぶりのことです。

 では、その内容とは
 
 『アヒルは?

   「犬は?」・・・「dog.」

   「猫は?」・・・「cat.」

   「ぞうは?」・・・「elephant.」

   などと、子供と英単語話をしていました。

      「じゃあ、アヒルは?」

        とわたしが聞いたところ、

           子供曰く・・・

              「Aflac!!」

                   爆笑。

  いくら関西人の血を引く我が子とは言え、

  まだボケることを知らない年齢。

  子供の無邪気さを微笑ましく思う一方、

  擦り込みのパワーも実感したひとときでした

 
 アヒルはデズニーの映画でも登場するドナルド・ダックの「DUCK」ですよね。
 では、「Aflac!!]との答えでウフフと笑ったのはどうしてでしょうか? 分りますよね。

 生命保険に限らず、自動車保険、医療保険など、うるさいほどのテレビ宣伝、そればかりでなく自宅にかかってくる電話にヘキヘキしている方も居られるのではないでしょうか。
 私の姉はそれが嫌で電話に出ないといっていました。 先月は何度電話しても通じませんので心配してしまいました。
 ガッチャンと切ってしまうことが出来ない年齢と性格なのでしょう。

 その姉、昭和23〜25年頃まで、豊根村で小学校の代用教員をしていました。
 今月の31日、その教え子達と70年ぶりに再会することになりました。 私も小学2年の時、教え子の一人なので姉を新城市の会場に同伴することにしました。
 どんな出会いが待っているのでしょうか?  どんな会話が飛び交うのでしょうか?






 COLUMN 1−D 793
                                     平成20年5月24日

  イノシシ君の食害前に収穫

           這いずる回って夏草を毟る

 
 5月23日の天気予報、24日は雨模様となっていたので急遽瑞浪に。
 到着と同時に校長の奥さんが「イノシシにやられる前日にイチゴを収穫しました」と言われる。 冷蔵庫を開けると結構それなりに評価できるイチゴがザルに一盛りありました。
 店頭価額で言うならば、大凡1000円と言うところでしょうか。

 収穫した翌日”本日も”と畑に行くと、まだ熟さない青い実まで全て食い尽くされていたとの報告です。 昼のデザートに頂きましたが3人分を越える量でした。
 写真に残すことを忘れてしまいました。

 当日の本番は前回と変わらず、大根、人参、チンゲンサイ、ホウレンソウ、牛蒡の抜き菜です。
 チンゲンサイ、ホウレンソウは食材になるまでに成長していました。

 ジャガイモは芽摘みをするまでに成長しています。 6月末には収穫です。
 一月遅れで植え込んだサトイモの畝はご覧のようです。

          

           何処にサトイモの芽が出ているか判別できますか?。

     

 アップにするとご覧のようです。背丈はまだ10センチメートルにもなっていません。
 右側は周囲20センチメートルの草を、這いずり回って手抜きしました。
 この後、畝幅100センチメートルになっています所を耕転し、施肥・土寄せしました。

 大根、人参、ホウレンソウ、チンゲンサイの抜き菜も同様に這いずり回りの作業の連続でした。 一人だけで作業をしていますと記録写真を撮影しているユトリがありません。

 本日も昼の休み時間は1時間弱で、タップリと4時間半の作業となりました。
 毎週なら3時間でユトリを持って出来る作業だとはおもいますが・・・。
 夏野菜の収穫時期になりますと、毎週出掛けることになりそうです。

 帰路、車の中で汗臭さを感じました。 持参の水筒が空になっており、途中で飲料水を購入しましたからかなりの発汗だったのでしょう。
 ここまでは終了したいと思っていましたので、夢中で作業をしたためでしょう。

 
 ところで、翌日(24日)、身体全体に少しばかり疲労感(筋肉疲労)を感じましたが、壁あて投球が30〜40球ほど出来ました。 
 日頃の投球練習と這いずり回りの作業の相乗効果のようです。






 COLUMN 1−D 792
                                     平成20年5月18日

 身体がシャキリせず、ボヤッと植物園に・・・

 
 ほとんど毎日、午前中はパソコン相手ですが寝不足でもないのに午前中から机の前でウトウトです。
 先週は車に乗る機会も多く、その上ガソリン漏れを発見して気をもんだことなど、気疲れが災いしたのでしょうか。

 カメラを持参して植物園に向かいましたが、気に入った写真は一枚も撮れませんでした。
          日曜日で晴天ということもあり駐車場は満車です。
            大久保池のラクショウの新芽も出揃いました。

        

        植物園の展示場では「春のバラ展」が開催されておりました。

             

                 

            

 ボヤッした感覚で大久保池の湖面の足漕ぎボートを眺め、餌を貰い過ぎて”メタポリック症候群”の鯉の姿を見ていましたら、今朝の計量で示した自分の体重が重ね合わされました。
 鯉の姿は掲載せず、香りイッパイのバラで終わりとします。





 COLUMN 1−D 791
                                     平成20年5月15日

 5月12日 百姓学校へ

            散策路にウツギがきました

 11日は雨模様であったので12日に百姓学校に行きました。 2週間ぶりです。
 まずはジャガイモの土寄せです。 以前は数人で馬鹿話をしながらの実施でしたので、それほど作業とも思いませんでしたが、一人で実施すると倍以上の時間がかかったように感じます。
              

 たったの10畝ですが、一気に土寄せばかりですと嫌になってしまいますので、隣の大根や人参の抜き菜と交互に実施しました。

              

 手前が人参、向こう側が大根。人参の畝のところには草がビッシリと生えていました。

     

 何もなしでの作業中にネギ坊主にカメムシが飛んできました。 俗称ヘクサムシとも呼ばれ、危害を加えられると猛烈な臭さを放出します。
 ソットしておけば何もありません。 薬味としてなくてはならない独特の食感のあるネギなどの花の密を吸うからあの臭いとなるのだろうかと思っていましたら、ミツバチも飛んできてカメムシと仲良く花の密を吸っています。

 右の写真の右下にはモンシロチョウまでが加わりました。 私の想像は間違っていたようです。


 5月13日の散策で
                 

               

     大谷川の川沿いに地元の子供達が近辺にある木々を植えたものです。


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