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 COLUMN 1−D 820
                                     平成20年7月19日

     3連休で始まった夏休み

 
 昨日、百姓に行こうと現地のお天気を訊ねると、雨模様ですとの返事で中止としました。
 午後からは強い日差しとなりました。 

 本日の新聞を見ると太平洋側はほとんどお天気マークです。 今日あたり梅雨明け宣言が出ることでしょう。
 
 我が家の1.5坪畑には3メートル近くある黒竹のキュウリの支柱、その天辺近くになんと40センチメートル弱、800gのキュウリがぶら下がっていました。
 トマトも収穫の最盛期になりまして、拳の一回り小さいモノが連日順調に収穫です。
 完熟のトマトを冷やして口にしますと市販のものとは一味異なる美味しさです。


 話し変わって蝉のこと。
 一昨日初めて蝉をみかけました。 栗の木と桜の木の下の生垣に蝉ガラが4個ありました。 まだ、蝉の鳴き声は聞こえませんので、雌の蝉ばかりなのでしょうか。

              
 
 我が家から30メートル、かっての県の職員住宅が取り払われ、新築の家が6軒建てられました。 今年になって引っ越してこられた家族は小学生と幼稚園の子供達が多いです。 
 長い間、子供らの声が聞こえなかった隣の「こぶた公園」では、夕方になると子供を交えてお母さん達のおしゃべりタイムで賑やかです。
 女房がそれに加わり、蝶の幼虫を持って行ったりしているようです。 (ある日、サンショウの葉を採りに来られました)
 
 そこで出た話なのでしょう、女房が昨日暗くなってから懐中電灯をもって庭に出ておりました。  蚊に刺されてそそくさと戻ってきました。
 
 今朝、朝の水遣りをしながら「今夜は完全武装で見つけるぞ!」と言っていましたので、
 子供達、いやそのお母さん達にも地中から這い出し、蝉に脱皮する様子を見てもらうための夜間行動のようです。

 長い夏休み、こぶた公園で開催されていた朝のラジオ体操の音楽が開かれなくなって
10年近くになるでしょうか。 30年前には急増のプレハブ校舎で賑わった学校・1学年4〜5クラスあったのが、今では1かやっと2クラスと言うことのようです。

 その分、高齢者が目立つことととなりました。 まだ、後期高齢者は少ないですが時間の問題です。
 今年も厳しい暑さになりそうです。 元気に夏休みを過ごしたいものです。
 




 COLUMN 1−D 81
                                     平成20年7月17日

 7月16日、中部大学春期講座の最終日

           〜最終講義から〜

 
 毎回講義前に出来上がっていたレジメを読み直して添削し、講義の展開の中心点を確認して教室に来られる教授。 
 最初はA4版にビッシリの4ページであったが、後半になると5ページとなった。

 これまでこの教授の講義は東洋・西洋の思想史からユダヤ・キリスト教の比較文化研究、そしてヨーロッパの歴史(中心は中欧)と幅広く6講座を受講しており、そのうち2回は中欧を中心としたヨーロッパ史でした。

 ヨーロッパ史は2回ともその内容は異なるのですが、2回共に第1次世界大戦終了の頃で13回の講義が終了しておりました。
 今期は全15回でその後のヨーロッパ、特に社会主義の思想の展開と歴史を受講しました。

 その最終講義のレジメにこのようなことが書かれています。
 
 『社会主義は近代と共に成立し、近代史上に重要なファクターとして登場し、20世紀以降は世界を決する体制を作り、20世紀後半にその体制は崩壊して歴史上消え去った。

 ところが、社会主義に起源を有する社会制度は資本主義社会に中に取り入れられたし、思想的にも社会主義理論の諸形態は知の最前線を提起し続けてきた。

 社会主義理論は皮肉ながら資本主義社会の中で、ソ連の失敗を傍観しながら社会への視点が進化し続けてきた事実を否めないのである。
 こう見れば、ソ連ブロックの崩壊にもかかわらず社会主義は「勝利者」であったとの評価すら可能である。

 ただし、ソ連や中国の失敗は社会主義に内在する本質から切り離しては理解できないし、してもいけないと考える。
 凡俗を承知の上で幾つかの反省点を述べる。

 1、社会主義は所得や社会参加の機会均等を制度化する社会を創造する思想的方向軸であると広義に理解すれば、格差社会が生まれた場合、この思想は必ず古典的名形で復活する。
 現在の知識界を眺めてもそうした見方を補強することが出来る。

 反省点はまず持ってこの現在進行形の問題である。 「これまでの失敗や蹉跌・犠牲をまず見つめること」、「やはり社会主義は死んでいない」式の議論に留まらないこと、ここから再出発したい。

 以下略』
 

 
今期、この講義が始まる前に(2008年4月10日)私が記録したものがあります。
 
 『・・・・・冷戦終了後、アメリカ一極支配の下で展開されたグローバリズム、市場主義に基づく競争社会の終焉の様相が日増しに明確になる中、其れを打開する、あるいは取って代わる新たな思想、理念が求められているにもかかわらず理解・納得・共感できるものが提起されているとは言い難い。(既存の政治・権力構造には発想もエネルギーもない)
・このような時、19世紀後半の資本主義の矛盾を乗り越えようと打ち立てられた社会主義(共産主義)思想成立の背景とその経過、及びその後の歴史を学ぶことに大変興味を抱きます。・・・後略

 今年の4月10日から3ヶ月強の時間が経過しました。 昨年の夏から始まったアメリカのサブプライムローンの焦げ付き問題はここに来て恐慌の2ランドに入った様相です。
 格差社会容認の思想は弱者を食い物にしようと仕掛けた罠に、金持ちが足を救われたという状況です。

 アメリカは立ち直れるのでしょうか。 夏から秋にかけて死に物狂いで自分勝手な力任せの仕組みを仕掛けてくることでしょう。
 が、ここ至って、天のシナリオに反することは通用しないのではないでしょうか。
 勝った負けた、俺が天下の帝国だという発想を改めなければ世界が大混乱に至ります。
 もう既に、手遅れなおかもしれません。

 何事にも悠然と構えて全てを受け入れる信念と行動が貫かれる方には問題はありません。
 競争市場主義、グローバリゼーションが生み出した格差社会に対し、聞きかじった社会主義論を今一度読み直してみようかなと受講ノートをめくっています。

 
 注、上記の青色に変換してあるところは私が色付けしたものです。

 


 COLUMN 1−D 81
                                     平成20年7月15日

  名古屋は7月13日は熱帯夜であったという

 
 相撲ファンならご存知のことでしょうが、44年前(?)までは名古屋の金山体育館で大相撲名古屋場所が開催されていた頃、クーラー設備がなく館内に氷柱がアチコチに備えられていました。
 当時、京都か名古屋が夏になると蒸し暑く・気温が高く暮らしにくい都市との悪い評判が高かった。 最近は京都の事はあまりマスコミに取上げられていませんね。???
 
名古屋の近郊多治見が昨年39・9度(?)の国内最高気温を記録して一躍有名になった。
 私の住んでいる春日井市高蔵寺ニュータウンは多治見とは一山(内津峠)越えるて12〜3分のところですが、濃尾平野の最北東に位置するので最高気温と言われてもそんなに感じませんでした。 が、雷・落雷はその通り道か勇ましいというか激しいです。
 
 名古屋市内に住む息子に言わせると夜の気温が全く違うという。 7月13日の夜も最低気温が35度以上の熱帯夜と言うことでした。
 7月14日は1~2度は低かったでしょう。 
 昨夜の春日井の我が家は午後6時で32度でしたが、午後の9時過ぎには温度計は28度を示していました。 山・緑が多いので太陽が沈むと気温が早く低下するようです。
 
 蚊取り線香をともし、南北を網戸にして、弱風に扇風機を設定して眠りにつきました。
 午前0時に目が覚めました、時間設定した扇風機が止まったからでしょう。
 再度設定しなおすと、今度は寒く感じられ掛けフトンを引き寄せました。

 7月15日午前6時の室内の気温は26度でした。 午前9時には早くも29度です。
 本日も30どを越すことは間違いありません、35度を越えることも予想されます。
 
 夏野菜が一気に大きくなり、トマトは赤みを増してきました。
 苗床に蒔いた白菜、水采が芽を出しましたので、抜き菜して成長を待っています。

          

 20粒515円も支払った「よしなりキュウリ」は防網対策が一日遅れたために、スズメが全て引き抜いてしまいました。
 夏場の太陽は強いですがそれに負けないように気張っています。







 COLUMN 1−D 81
                                     平成20年7月15日

  名古屋は7月13日は熱帯夜であったという

 
 相撲ファンならご存知のことでしょうが、44年前(?)までは名古屋の金山体育館で大相撲名古屋場所が開催されていた頃、クーラー設備がなく館内に氷柱がアチコチに備えられていました。
 当時、京都か名古屋が夏になると蒸し暑く・気温が高く暮らしにくい都市との悪い評判が高かった。 最近は京都の事はあまりマスコミに取上げられていませんね。???
 
名古屋の近郊多治見が昨年39・9度(?)の国内最高気温を記録して一躍有名になった。
 私の住んでいる春日井市高蔵寺ニュータウンは多治見とは一山(内津峠)越えるて12〜3分のところですが、濃尾平野の最北東に位置するので最高気温と言われてもそんなに感じませんでした。 が、雷・落雷はその通り道か勇ましいというか激しいです。
 
 名古屋市内に住む息子に言わせると夜の気温が全く違うという。 7月13日の夜も最低気温が35度以上の熱帯夜と言うことでした。
 7月14日は1~2度は低かったでしょう。 
 昨夜の春日井の我が家は午後6時で32度でしたが、午後の9時過ぎには温度計は28度を示していました。 山・緑が多いので太陽が沈むと気温が早く低下するようです。
 
 蚊取り線香をともし、南北を網戸にして、弱風に扇風機を設定して眠りにつきました。
 午前0時に目が覚めました、時間設定した扇風機が止まったからでしょう。
 再度設定しなおすと、今度は寒く感じられ掛けフトンを引き寄せました。

 7月15日午前6時の室内の気温は26度でした。 午前9時には早くも29度です。
 本日も30どを越すことは間違いありません、35度を越えることも予想されます。
 
 夏野菜が一気に大きくなり、トマトは赤みを増してきました。
 苗床に蒔いた白菜、水采が芽を出しましたので、抜き菜して成長を待っています。

          

 20粒515円も支払った「よしなりキュウリ」は防網対策が一日遅れたために、スズメが全て引き抜いてしまいました。
 夏場の太陽は強いですがそれに負けないように気張っています。





 COLUMN 1−D 81
                                     平成20年7月14日

   遠山郷の皆さん IN 小田原 7月12~13日

 
 久しぶりに新幹線に乗りました。 名古屋から小田原まではノンストップの「ひかり」です。 眠ってしまうのでないかと心配しました。

              

              小田原駅の西口の北条早雲像です。

 何年ぶりに小田原には降り立ったのでしょうか。しかも西口はほとんど記憶にありません。 遠山郷からマイクロバスの方々は途中のバス内宴会の為でもありましょうが、道に迷い1時間以上遅れて到着しました。

            

 いきなり祭壇で驚かないでください。 藤原事務所は毎朝・晩「大本教」の祭祀に従って祭礼をしているとのことです。
 藤原先生が「今回はこの”遠山・小田原繁栄祈願祭”以外の勉強会はありません」からお付き合いくださいと約40分間の祭礼がありました。
 私にとっては久しぶりの神道の祭礼であり、心改まりました。

    

   藤原事務所の「観光農園」に視察に行きました。 4年間放置されていた田圃の回復は大変なことだろう思い出しました。
 岐阜県瑞浪で10年前に、これまた7年間手づかずの田圃の土木工事から始めたことを思い出したからです。

             

                    記念職種をしました


            
        
          市内の視察に参りました。 小田原名産「かまぼこ」屋さんです。

             
 
 明日も数件紹介しますが、小田原の歴史と文化を今に伝える街歩きスポット「街かど博物館」があります。 小田原に古くから栄えた産業文化を今に伝えるものです。
 「かまぼこ」「漬物」「お菓子」「塩辛」「木工製品」等です。

 鰹節屋さんの削り粉(一袋300円)が醤油をかけワサビで簡単に食べる、勿論出汁にも最高とのお話しに一気に包装していたものは売り切れて、あたらに袋詰めしていただきました。 お一人は5個10個とお買いになったのですから・・・

               

          

        湯河原街道の海岸に降りてバーベキューが始まりました。 

 その前に、当日は本年一番の気温上昇となりました。 藤原事務所のスタッフの方は遠山郷のお客様のことを良くご存知です。
 観光農園から小田原の市内にいち早く戻って、冷たいビールのサービスが待っていました。 そして、続いての海岸でのバーべキューですから、何処からか持参していた4リットル入りの量り売りの「麦焼酎」が紙コップに注がれて気炎が上がってきます。

            

    藤原事務所に戻りました。 歓迎会です。 ということはお酒が続きます。

    

  そして、15分の気分直しの散歩コースのあとは、カラオケタイムです。
 
 時間は10時半を回りました。 私にとってはオーバータイムです。 小田原の駅前のビジネスホテルまで送っていただきました。
  翌日、カラオケ会場は11時に終了したそうですが、その後4次会に繰り出した方も居られたようです。

 7月13日のこと
               
 
 本日の午前中は大半が徒歩で散策です。(マイクロバスの駐車場は市内には少ない)               小田原提灯のお店を見上げながら・・・・

             

                     小田原城に入ります

                

                    お城にのぼり、記念撮影

   朝から強い日差しです。 城内に入ると早くもビールのコップが配られました。
 マイクロバスに乗れば、ビールはダメだが焼酎ならと後部座席では盛り上がり始めます。

                  

              城内にある「報徳神社」(二宮尊徳にお参り

    

      梅干やさん。「う里んち」              外郎(ういろう)屋の城

               

      小田原宿「なりわい交流館」、ここが総合の案内所になっている


          
               「塗り物」と「うつわ屋」さんです。

 この入り口の緑の鉢物に感心してしまいました。 右手は住まいの入口になっています。
 写真に写っているところは全部で間口4間半です。
 右から左に樋伝いに伸びる約5〜6メートルの松、その先(左の隅)が黒竹で、それ以外はほとんど鉢物が置かれています。
 
 お店にはいりましたがどちらかといえば小さなお店です。 中庭には所狭しと鉢物が置かれています。季節季節に合わせて店先に登場してくるのでしょう。
 
 我が家の庭や玄関でも十分に出来る素材ばかりでした。(松は出来ないが・・・)
 長い間、続けられてきたことが店先に現れていました。
 店先には常に打ち水なされています。何処からが流れ出てくるように仕掛けてあるのでしょう。

             

 今回の小田原訪問最後の昼食会となりました。 小田原駅前のお土産やさんが並ぶ一角に今も鮮魚店を営んで居られるところが始めたレストランでしょう。
 そのお店の隅、入口は半間、狭い階段を登ってゆきます(エレベーターはありません)、しかも通されて所は4階です。

 ところが、その階は今風に改装されています。 「おまかせ お献立」という本日のコースメニューが各人に渡されました。
 ビールは生、しかもエビスビールです。 これはなかなかやるぞ!と思っていました。
 案の定、なるほどと嬉しくなってしまいました。

       

   お店の名前は「魚国商店 海席魚国」、聡料理長 木戸政城 板長 北郷 宏

 いつも楽しく気の置けない遠山郷と方々、藤原事務所のスタッフの方と最後にこのような時間とお料理がいただけるとは思っても居ませんでしたので大感激でした。
 新鮮でしかも美味しかったです。このように献立表に書いてありました。

 「海席魚国  理念
 
  私たちは、食の担い手として  小田原の魚、相模の食材を
  
  料理法、調味料にこだわり より多くの方々に 体に優しく美味しいお料理と、

 お客様の目的にあった接客と、心地良い時間を お届けします。」


 思いと理念の大切さを改めて教えられました。

 その後のこと、ここからは推測です。
   遠山郷のご一行様はこのあと箱根で温泉に入り、お帰りになるということでした。
 私の新幹線の出発時刻が14時09分でした。

 温泉に入り遠山郷に到着するのは早くて21時は過ぎることでしょう。 それにしてもお元気で・お酒大好きな方々です。 もちろん、御飲みにならない方々も居られますが、終始にこやかに参加されておられます。 この辺りが限界集落といわれる遠山郷ですが、新しいこれからの日本の再生のモデルとなりうるところなのでしょう。
 
  今回の視察に参加させていただき、誠にありがとうございました。





 COLUMN 1−D 81
                                     平成20年7月11日

   明日から1泊2日で小田原ロハス学校へ

 
 シンクタンク藤原事務所が小田原に移転してから様々な会が開催されています。
 ・思いつくままに「21世紀リーダー養成講座」、「小田原夜話の会」、「健康人養成講座」
「小田原ひなた観光農園」、そして「小田原ロハス学校」等です。
 この他実務に役立つ講座や学校も開講されています。

 明日から参加する「小田原ロハス学校」には初めての参加です。 健康で持続可能な社会の考え方や生き方、そしてその試行実践の勉強会が毎月開催されています。
 今回は遠山郷から有志の方が15名ほど参加されるということです。
 その方々と「小田原ひなた観光農園」や今年から始められた稲作の現場を案内してもらえることになっています。

 なんと言っても遠山郷の気の置けない方々との夜を徹しての交流会が魅力です。
 私も特別取り寄せてある甕で4年間熟成させた米焼酎を持参する予定です。

 山々に囲まれた遠山郷でお会いするのと、また違った味わいがあるのではないかと期待しています。
 何時もは車で参加していましたが、今回は公共交通機関で行く予定です。
 また、報告します。





 COLUMN 1−D 815
                                     平成20年7月9日

      本日で七夕飾りの事は終了です

 
 この一週間で何度か七夕飾りのことを掲載してきましたが、本日が本年最後です。
 昨日、子供達が学校に出かけた後から雨が降り始めました。
 地植えの竹に吊るした短冊はどうにもなりませんでしたが、プランターの竹に吊るした七夕飾りは駐車場に避難させなした。

 乾いてはいましたが、中には雨に濡れて滲んでしまったものもありましたが、全部収納しました。
         

 滲んで読みにくくなっている短冊を透かししたりして読み直し、裏側に書いてあったことを記録しておきました。
 何年か後まで(お嫁に行く頃かな?)残しておく積りです。

        

               ↑こちらが2000年からのものです。

              以上で終わりです。



 COLUMN 1−D 814
                                     平成20年7月8日

 昨夜は”天の川”を眺めることは出来ませんでした

〜が、更に子供達の願い事短冊が増えていました〜

 
 残念ながら7月7日の夜は天の川を眺めることは出来ませんでした。
 今朝、降り始めた雨の中外に出てみますと、「願い事短冊」の数が増えていました。

                   

              

 高校生の「める」チャンの短冊には
 @ 夏大(夏の大会か?)で金が取れますように  

 
 A O
星とデートができますように


 B ケーキバイキングに行けますように

 C ゆめみがおこりませんように  
ゆめみとは妹のことです)

 
では小学3年生の夢見チャンの書いたことは

 @ すきなひととけっこんできますように

 A おりひめとひこぼしが会えますように


 高校生めるチャンの友達でしょうか「ようこ」さんは

 
 @ でっかい地震が来ませんように

 A 夏コンクールで金とって、県大会に行くぞ


 
めるチャン家にホームステイしているメルサ・アレンさんは

 WHEN YOU WISH UPON A STAR・・・・

 
夢見チャンとめるチャンのお兄さん(介護師です)

 @ 人生ハッピー バンザイ

 
最後は夢見、める、お兄ちゃん、そして、名古屋に居る長女の4人のお母さんは

 「雨にも負けず、風にも負けず」

 
昨日も書きましたが、短冊をシュロの葉で吊るした為か雨に負けず落ちません。

 


 COLUMN 1−D 813
                                     平成20年7月7日

 今年の七夕飾りの短冊には横文字も加わりました

 
 7月6日日曜日、身体がシャキッとしません。 逆両方とばかりに壁あて投球を何度も試みますが同じことです。
 夕方の散歩を早めに実施しました。 大久保池のハンゲショウ盛りでした。

                

        

             『半夏生  稲妻走り  半化粧』   大喜

     7月7日七夕の朝、 家の前の子供達の短冊が吊るされてありました。

        

    ↑今夏、スイス留学の「める」チャン    ↑小学3年の夢実チャンの短冊

         

 ↑ 彼女達の家にホームステイしている、高校生のメルサ・アレンさんの願い事
     「I WANT TO BE HAPPIY !!」

 ゴミだしに行く御近所の方々も七夕飾りを見上げています。一年一度の行事です。

       





 COLUMN 1−D 812
                                     平成20年7月6日

      息子とその知人を百姓学校に案内

 
 7月4日、コラム1−D NO808で掲載しました「間違いなく世の中変化してきました」で紹介の息子とその知人を百姓学校に案内しました。

 「どうして百姓に興味を持たれましたか」と質問すると、「現在コンピューター間系の仕事をしているが、これから先のことを考えると・・・」とのニュアンスでした。
 約1時間の道すがら私の語ったことは以下のようなことでした。

 @今現在のレベルの生活を維持しようと思ったら百姓では無理です。
 A百姓をするにしても兼業を勧めます。
 B土と対面しながら考え方や生き方(価値観、哲学)の変化を自覚してから次に進む。
 C藤原直哉さんのこの3年間の小田原の実験(実践)を紹介し、若者が土と向かい合うことによって活動的に・前向きに変化していったことの紹介。

 この辺りまでお話ししたころに瑞浪の竜吟学校に到着しました。 圃場整備され一枚が2〜300坪の田圃が10数枚展開されています。
 一枚辺りの収穫は多分300Kgkから多くて400Kgであろう。 10Kgで2500円としても
7万円から10万円と言うところ解説しました。 (昨年はイノシシの被害もなくそれなりの収穫はあったようだが、米の質が悪く販売できるレベルのものではなかったようだ。<5〜7年草だらけの状態の田圃の3年目の収穫であった>

 瑞浪、深沢に行き小倉校長の話を聞いてもらうことにしました。 その間私は人参と秋インゲンの種を蒔く事にしましたので、どのようなお話しが聞けたかは分りません。

    

  ↑人参とインゲンの種まき                 石川さんと息子

 帰りの車中では「無農薬、有機栽培のこと」、「草対策や虫対策のこと」等の質問を受ける。
 D可能な限り自宅の近くで始めること。 一気に畑というよりは大型プランターで始めることも良いですよと付け加えました。
 E私なら最低30坪、最大で100坪から始めますと伝えました。
 100坪=330平方メートル。 畝間1メートルとして10メートルの畝が30本取れます。
 畝間が1メートルあれば小型の耕運機が入ることが出来、草取りが楽なこと。
 同時に30本の畝があれば、輪作を避けながら1年中作物を作ることが可能と言いました。
 F畝仕立てのことなど言葉では通じないことばかりでした。 

 関心があるならばまたお訪ねくださいと、とりたてのイボのついたキュウリをお土産にお渡ししました。






 COLUMN 1−D 811
                                     平成20年7月5日

 藤原先生は「日本再生」に立ち上がられました

 〜私は七夕飾りに、コピーして結び付けました〜


 藤原直哉先生は2007年という年を「流」との一字で示されました。
 そして、本年2008年を「怒」という一字を選択されました。 庶民大衆の怒りがはっきりと表面化すると読まれたからと考えます。

 特別に何も言わなくても、現在の世相を素直に見れば、当にアチコチで怒りの感情と行動が始まりました。
 と言って、誰から助けてくれるのでもなく、神風が吹いてくる様子もありません。 
 私自身一人ひとりが「怒り」を行動=創造力に切り替える時が来たと先生は立ち上がりました。 それは、「日本再生」の4文字です。

               
 

−怒りを創造力に−

 シンクタンク藤原事務所は、日本の再生に向けて活動しています。当事務所のすべての活動は、日本再生のために何が必要になるのかを考えて、先行的に試行錯誤しているものばかりです。

 シンクタンク藤原事務所の活動資金は、すべて当事務所および事務所のメンバーの売上からまかなっています。藤原直哉が100%株主で、顧客は多数の個人や企業であり、特定の大口支援者はいません。したがって、完全に独立したシンクタンクです。

どうぞみなさん、当事務所の活動をご覧いただいて、新しい21世紀の息吹を感じて下さい。

そして気に入ったプログラムにがあったら、ぜひご遠慮なく参加してみてください。そして21世紀の新しい友達を創ってください。

一人一人が21世紀の息吹を感じながら、怒りを創造力に変えて、共に新しい日本を再生してまいりましょう。


2008年6月吉日
シンクンタンク藤原事務所
所長 藤原直哉


         

          私はそれをコピーして七夕飾りに結び付けました。
 
 なお先生のホームページは右のアドレスです。http://www.fujiwaraoffice.co.jp/
 
    

  
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