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 COLUMN 1−D 950

                                   平成21年1月25日 記

 中部大学 平成21年春期・オープンカレッジの
    「開校式」にお話する内容の1次草案できる

      〜「離職して11年間の歩み」〜


 昨年末から整理しておりました、「昭和40年代・前半はどんな世の中だったのだろうか」でした。
 同じ資料を使って中部大学での話をしようと思いましたので、話は少し飛んでしまいすが、そのまま続ける事とします。

 昨日書きました順番に従うと、本日は「離職してから11年間の修行内容」と言うことになります。 では、それを掲載します。

 「離職して11年間の歩み」 〜大喜の10年間の歩みから〜

 ・この11年間の修行内容〜時間経過と共に話します〜修行の一環として取り上げる
〜簡単な内容紹介で終わらすこと、自慢話になる
  
 (イ)春日井市、演劇ワークショップ参加、春日井市児童合唱団ミュージカル参加

  地域興し、地域を盛り上げる、地域の連帯と言うなら、まず自分が参加せよと・・
  春日井文化フォーラムにて 平成12(2000)年、「宮沢賢治の旅」 
   平成13(2001)年「春の情景」(オリジナル作品)
   平成14(2002)年「私の青空」  1年休んで
   平成16(2006)年、春日井児童合唱団・ミュージカル「ガランピーの祭り」

 (ロ)瑞浪百姓学校入学~今年で10年目 平成12(2000)年5月〜今年も継続しています。10年目です。

 何を一番感じたか。学んだか。
 @種は自ら成長する力を内在している、人間はそのお手伝いをするだけである
 A何も見えない「微生物」の力を借りて、成長し、実を結んでいる。
 B理想は毎日3時間で十分、できれば1週間に1回は会いに行きたい。2週間が限界。
 C捨てるもの、不要なものは何もないことを教えてくれた「自然循環多毛農業」牛と鯉
 D土は、自然は全てを受け入れて(腐らせて)、そして再び命を育む。(人間再生にうっ  てつけ)
 E雨も良し、風も良し、日照りも直良し、霜降りも・雪も良し。全てがあって繋がっている。
 F「額に汗すれば心配なし、心は配れ」

 (ハ)新城・鳳来「森作り」に参加

 平成13(2001)年〜、 ベトナム・カンザーの森植樹参加、平成13(2001)年〜

 新城市鳳来町まで車で片道2時間、作業の後の楽しいお酒が飲めず、今は休止。
 鳳来は「棚田」の復活活動も続けられている。
 ・ベトナムはNGO立ち上げの5年間参加、4年前より女房が若い娘さん達のお世話で、看護係として参加している。

 (ニ)「四国 88箇所遍路」 
 平成13(2001)年5月9日〜6月14日、翌年はキャンピングカーで10日間で一周。
 
 遍路の体験を百姓仲間に報告したら、こんな風に私の話を纏めてくれましたました。(百姓学校レポートから抜粋)
 
『大喜さんは、四国八十八箇所霊場巡り(遍路)、総延長約1250Km。 これを38日間、一日平均32・9Km、最大45Kmのペースで踏破した。

 ・「何故歩こうとしたのか? 歩いてどうであったか?

 彼はそれに答えて長年勤務していた流通業界のこと、その出来事、当時の人生観、そして病に得て辞職したこと、その際の思いがいかに痛切なものであったか。 
 
 その後の「波動」のこと、「藤原学校」のこと、「WE・100(ウイークエンド百姓)」との出会い、地域文化活動との出会い、鳳来町の植林や黄柳野高校「オールナイトウォーク」への参加など・・。

 彼は言う。こんな話をしても誰も理解してくれるとは思えなかった。 しかし、今回、彼はそれを自ら語った。
 だが、それで皆が自ら「歩んできた道」を理解してもらえたとは考えていないだろう。

 その通りだ。分りっこないのだ。が、分かろうとする人はいる。 そのことに意味があることに彼は気付いたのだ。 大喜氏は想う「そうだ、俺は言うべきなのだ」と。

 
 歩いてみてどうだったのか・・二つ目の疑問の答えは実にここにある。筆者の独断だけどね。
 さて、大喜氏は「歩き終わって、特段の感慨などなかった」とも言っている。 この「感慨」こそ、凄い、と筆者は思う。
 
 彼は歩き通そうと心に決め、皆に言い、そしてその通りに歩き抜いた。
 途中で実は様々なことがあり、挫けそうになったことも多々あったろう。

 宿泊を申しでた宿屋の女将に「あんたはまだここに来るべきではない、もっと先に行け」といわれたそうな。

 その一言が勇気(意地?)となったか。とにかく彼はやり抜いた。
 
 「俺はやる、と決めて、やった。 だから当然のことだ」と大喜氏は言おうとしている。
 歩き通したことに感慨はない。 何も来なかったし、何も変わらなかった・・・それでいいんじゃないか。「解脱」などしなかった大喜氏が、この場合最高なのだから。

 
 次に「行ったり、来たり」ということを大喜氏は言う。

 物事が直線的に推移することはない。 彼が歩き続けた過程においても、一日33Kmペースで順調に積み重ねられたわけではない。
 
 歩けなかったこともあるだろう、止めようと思ってまた歩いたこと、歩き続けるうちにガクッときたこと、諦めかかったこと、自分への止める言い訳を考えてみたり・・・・色々あったはずだ。 要するに迷い、迷い、行ったり、来たりの繰り返しである。

 しかも・・・ある時、思いがけない時(例えば自分としては順調にいっていると思っているとき)に、ドーンと、一気に谷底にお落ち込んでしまうことがある。と大喜氏は言う。
 この谷底、ドン底で、何を考えるか、だ、と。
 
 たいてい、ドン底に落ち込んだ時に人間でてくるのは、まずは絶望そしてイヤ気、愚痴、不平、不満、他人への責任転嫁や犯人探し、攻撃、シット。 
 まぁ、何でもありだが、一つだけ確かなことは「自分に責任あり」とは決して考えない、ということである。

 落ち込んだのは自分の行動によることは自明だ。 だったら自分の肉体(手と足)によってそこから這い出すしかない。
「這い出す」というのは不適切。 これは一気にジャンプして、以前いた地点よりはるかに  上に飛び出す、ということだ。(次元、時空を変える)

 そのためには、全ての結果を「自分にしたことの帰結」として見よと、と大喜氏は言う。こいつは一体なんだ。

 バブルの崩壊などは分りやすい例かもしれない。
 バブルの時代、日本は資本主義の究極とも言うべき繁栄に浮き立った。 日本人ほぼすべてが、それにシンクロし、自からに浮き立った。
そして、その崩壊とドン底への転落。誰がそのことを「自分の責任」だと思うだろう。

 金融経済政策のせい、銀行のせい、不良債権のせい、国債乱発のせい、そして景気回復を、規制緩和を、グローバル化を、構造改革を、・・・という。
 
 これで一体何が解決すだろう?
 誰にもドン底はやってくる。 そこから自力で飛び上がれ、と大喜氏は言う。
 そうすれば、ドン底は、またとない節目になるのだ、と』



 〜余談〜というか、今日の時にも当てはめることが出来ます。

 今回は20年前の「日本のバブル崩壊」とは、規模も、内容も全く異なります。世界レベルです。世界秩序の崩壊です。新たな世界の枠組みの創設が待たれています。 オバマ新政権が世界の注目を集めています。

 昨年の9〜11月ころ状況、世界の人々がオロオロ、ウロウロした状況から少しは落ち着いたかと感じられますが、事態の根本的な認識と理解がされていない方々がまだいます。 
 しかも、自己保身と今にも無くなろうとしえいる既得権益にしがみ付こうとしているこれまでの指導者の姿勢と行動には、怒りを覚えるよりは、あきれてしまいます。

 まずは、最初に歴史的大転換のこの時代認識をすることです。 この先の道筋は当分(1~2年)見えてこないでしょう。

 オバマ大統領も試行錯誤の連続でしょう。 上手くいかないといって彼を責めても仕方ありません。人頼りはダメなのです。

 このようになったのは自からのこれまでの考え方、生き方の結果によってもたらされたものと、「自己選択の責任と認識」をすべきです。

 そうしなければ、愚痴や言い訳ばかりでなんら前に進みません。 「自分の蒔いた種の結果」と腹に収めることによって、次に進めます。

 既に、試行錯誤から明るく暖かな日差しの中で悠々と歩まれている方を散見します。
 その方々の共通項は、10年前、前後に、「会社の倒産」、「会社でリストラ、失業」、「就職できずフリーターであった」、「全く新しい事業を始めた」
という、ゼロベース、あるいはマイナス・ベースから試行錯誤の中から立ち上がってこられた方々です。

 彼らこそモデルです。 新しい道筋のモデルです。 彼らには泣き言など言っている暇がなかったのです。 いや、シットや愚痴、怒りや不安の中で試行錯誤したのです。

 今、私達は皆、公平に、そして平等に『新たな時代へ向けてのステージのスタート地点』に立っているのではないかと思うのです。



 (ホ)キャンピングカーで日本一周 
 平成14年5月13日〜平成16年4月18日まで、5回述べ80日間
  
 キャンピング・カーの購入は平成14(2002)年の4月。 前年の38日間で四国八十八箇所遍路のコースを、プラス小豆島を10日間で一周。
 その年の、7月2日〜15日の14日間、道南から道東を廻る
    
 平成15(2003)年、4月1日〜23日、23日間で九州一周。九州の水百選を全て周る。
  同じ年に7月1日〜18日、18日間で前年回りきれなかった、道北と礼文島と東北を南下
    
 平成16(2004)年 4月3日〜18日、15日間で山陰から、それまで行っていない山陽路を回る
   
  女房への約束を果たす。 これも修行の一環と決めていたから出来た(寝泊りは全て車の中)
 
 2畳一間で2週間も一緒に生活をするということは、修行以外の何もでもありません。
 
 しかも、事前計画、その日その日の宿=道の駅、お風呂か温泉(かんぽの湯、地元の温泉、大衆風呂)、夕食場所を探すことは私。 その後に、旅日記を車内書く。

 これは修行でした。 それでも約束は果たしました。

 (ヘ)ピースボート・101日で間世界一周に船旅

  正直何を選んでお話すればよいか、困っています。 タイトルだけでも拾ってみます。
  また、私のことを自分で言うのもなんですが、この旅の参加している方々の内容と、目 的は色々でしたが、私はかなり勉強した組に入ると思います。

 参加者は述べ1200人、中途で下船する方、逆に乗船してくる方がいます。
 男性は60%、女性は40%。 10代〜30代までの若者が50%、後は60歳前後50%。
 
 1)「必読図書」を読み、感想や意見を書きなさい。
 2)韓国の学生と何を学びたいか、あなたの考え方を書きなさい。
 3)地球大学、「ユーゴスラビア」のプログラムの中で、一番力を入れたいことは・・。
 4)まとめ「101日の船旅を終えるに当たって」 2007年5月28日 記

  A)人間は大きな責任を持つ、ちっぽけな存在。地球環境、地球温暖化について
  B)掌中にある「輝ける宝石」=日本国憲法の価値を知らなかった
   〜挿入〜「平和と発展は9条のおかげ」 中日新聞 6月17日 朝刊
  C)世界は多様性と多文化社会に向かっている。 様々な人々・文化を認め合う。

  D)食の安全(遺伝子組み換え)と貧困問題(世界的な格差問題)
  E「貴方が隣人を殺すとき!!」 旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツゴビナ、サラエボ、モスタル)に学ぶ。戦争のつくられ方
  F)ボスニアで何を学んできたか? (参加者の報告を加藤がまとめた)

 5)ピースボート船旅で感じたこと、聞いたこと、考えたこと、学んだこと。
  A)食べる・飲む    B)住むこと    C)着ること   D)健康管理  E)つき合い・企画参加
F)クルーたちとの関係 G)遊ぶ、ツアー  H)学ぶ
  
 (ト)中部大学、オープン・カレッジの聴講生に 平成16年4月〜

   ・世界の歴史、社会思想史から学んだこと




 COLUMN 1−D 949

                                   平成21年1月24日 記

 中部大学 平成21年春期・オープンカレッジの
    「開校式」にお話する内容の1次草案できる

 〜仮タイトル 「離職して11年の歩み」


 昨日1月23日にも書きましたように、「昭和40年代・前半とは、どのような世の中であったか」を整理して、これからの時代はどうなるのか、いかに考え、生きてゆくつもりなのかを一度整理してみようと、書き始めました。
 
 そこに、本日のタイトルにもありますように、、聴講生である私に、中部大学のエクステンションセンターから、平成21年春期の「開校式」に、1時間ほど話をしてくれないかとのお尋ねがありました。

 1教科、1万円で受講させていただけることに感謝していましたので、「私で良ければ、チャレンジしてみましょう」とお答えしました。

 何を話そうかと思っていましたら、4回に渡って連載した、私が社会人としてスタートした「昭和40年代はどんな世の中であったか」、その後の変遷と、離職後のことを話してみようと
思い至りました。

 そして、本日「仮のタイトル」と、第1次内容が纏まりました。 以下のようです。

  平成21年1月20日 初稿 1月21日追加修正 1月24日修正
       「中部大学オープン・カレッジ第15期聴講 開校式」 
                  日時  平成21年 4月 7日(火)
                    場所   中部大学内

 仮タイトル 『離職後、11年のこと』 〜参照 大喜の10年間の歩みリスト〜

 1、はじめに (お断りと弁解)
 ・ヒラメキ型の人間、気づいたこと、感じたことを口にする。原稿から遺脱する。
 ・自惚れ型、自慢話好きで聞きにくいこと多いことのお許しを・・
 
 2、私の生い立ちと父
 ・DNAからの判定は分りませんが、人間の生い立ち・環境はその人の考え方、見方、生き方、価値観
  に影響すると考えていますので、私の「生い立ち」を簡単に触れます。
 
 3、修行僧と言った背景

  〜20代から離職までの修行内容は、業種・業態変っても、皆内容は同じ「MORE&M ORE」カネと地位。
  〜ストレスに苦しめられ・疲れ、→過労死か自殺。痛みに耐えかねて入院で救われた
 
 4、この11年間の修行内容〜時間経過と共に話します
     〜修行の一環として取り上げる

 〜簡単な内容紹介で終わらすこと、自慢話になる
  (イ)春日井市、演劇ワークショップ参加、春日井市児童合唱団ミュージカル参加
   地域興し、地域を盛り上げると言うなら、まず自分が参加せよと・・
  (ロ)瑞浪百姓学校入学~今年で10年目 平成12年5月〜
 何を一番感じたか。学んだか。→「額に汗すれば心配なし、心は配れ」
  (ニ)新城・鳳来「森作り」に参加、 ベトナム・カンザーの森植樹参加
  (ホ)「四国 88箇所遍路」 平成13年5月9日〜6月14日
    百姓仲間はこんな風に私の話を纏めました。(百姓学校レポート参照)
  (へ)キャンピングカーで日本一周 平成14年5月13日〜平成16年4月18日まで、5   回述べ80日間
   女房への約束を果たす。 これも修行の一環(寝泊りは全て車の中)
  (ト)ピースボート・101日で間世界一周
   別途纏めたものより抜粋のこと
  (チ)中部大学、オープン・カレッジの聴講生に 平成16年4月〜
   ・世界の歴史、社会思想史から学んだこと
  5、そして、今考えていること。これから世界はどうなるか?
   ・共産主義は既に崩壊し、今、崩壊の危機にある資本主義。どちらの「MORE&MO  RE」であった。
   ・では、どのような新しい世界秩序が、どのようにして出来上がってゆくのか?
    →「歴史の教訓」はどのようか。(加藤のまとめた歴史の教訓から取り上げる)
   〜余談〜
  ・歴史の教訓があるのに、なぜ人類は同じ過ちを繰り返すのか。〜この項、別途書いた  。保存済み
  ・昭和40年代・前半の社会と生活「LOHASな生活  健康で持続可能・静かな・低エ  ネルギー生活」
   
 過去に遡っての生活をすると言うのではない。あるいは、ノスタルジアとしての40年代で はない。イメージとして「LOHASな生活」とは、物質的にはどのくらいだろうかと考えた時、 40年代前半と感覚的に考えた。50年代と言う方もある。

 ・それよりも、どう生きるかが本質と考えた=修行は続く→そのキーワードが、「夢と勇気とサムマネー」であった。

 6、では、「夢と勇気とサムマネー」の中身は、考え方は・・・

 ・大きなことではなく、全て「覚悟と決心」の問題。
 ・考え方、生き方のポイントとして、「豊かな老後を過ごす為に」のメモノートに書き綴ったことから・・・
 「泣いて、笑って、怒って、修行はつづく」

 7、終わりに
   ・ご清聴へのお礼


 〜既に、1月22日には「私の生い立ちと父」は掲載しました。その後、一部修正はしていますが、大きな変化はありません。

 本日は「”修行僧”といった背景」を掲載します。

 
      修行僧と言った背景          平成21年1月21日

 ・私は昭和54(1979)年の年賀状より、修行僧と書き始めました。
また、「イイカゲン 修行僧日記」と言う、知人・友人しか読んでいないホームページのタイトルにも使っています。
なぜ、修行僧などと自分のことを言うようになったのでしょう。

 正確な記憶がありませんが、多分私が33歳の誕生日を過ぎた頃と思います。
お寺生まれの上司に、私が父親の死に際の話をしたときのことです。 「君の父親はなかなか凄い人だったぞ」と言われました。 それまでの父親に対する私の評価は早く死んでくれてよかったとの思いでしたから、何を行っているのか正直分りませんでした。

 そして、続いてこのような話をしてくれました。
 『加藤君は母親も父親も早く亡くなられたことによって、君はそれだけ早く修行の道に入ったのだよ。
 修行には「山の修行」と「里の修行」がある。
 「山の修行」と言うのは、山深い山中に入り、あるいは滝に当たり、時には飲まず食わず の座禅を組むと言う、肉体的にも、精神的にも命を懸けた修行である。

 一方、「里の修行」とは、日々の生活の中にある。あるいは仕事の中にある。 泣いたり、笑ったり、怒ったり、
得をしたの、損をしたの、裏切ったの、騙されたの、ケンカしたり、仲直りしたりと、これまた山の修行と異なって、一筋縄ではいかないものだ。

 今、君は「里の修行」の時にある。 逃げ出したいことも、面白くないこともあろうが、それも修行の一環として甘んじて受け入れなければ、君は成長しないし、イッパシの人間にはなれない。
 『君は並ではない「死に際の父親」の子供なのだから、修行次第では有為な人物になれる』と言われました。

 その年昭和54(1979)年の年賀状に「修業僧」と書きましたが、そのときは「しゅぎょうの“ぎょう”は「行為」の“行”ではなく、業=わざの「ぎょう」でしたが、5年経過後の1984年から「修行僧」と「行為」の“行”に意識して換える事にしました。(“行為する者は、つねに傍観者によって責められる”という言葉にであったから)
 
 「修業」は、学問・技芸などを習い修めること。例えば「板前の修業」「花嫁修業」
 一方、「修行」は、悟りを求めて仏の教えを実践すること。托鉢をして巡礼すること。
精神をきたえ、学問・技芸などを修め磨くこと。そのために諸国をへめぐること。「武者修行」と広辞苑にあります。

 その後、どんな年賀状を書いていたのでしょうか。

 ・昭和63(1988)年の年賀状は香港から投函されています。

「過ぎ行く年に感謝 &あけましておめでとうございます
  百万ドルの夜景の香港
  ひとつ、一つの窓から それぞれの想いが語られて 輝いている   修行僧

 ・平成2(1990)年

 「現実主義で、功利的な人々が、愛の10セント(日本円で1・9円)店頭募金に、
  1年半で280万ドル(日本円532万円)も参加してくれました。
  あの天安門事件は、記憶から遠ざかりつつありますか?
  香港では、表面平穏に、中堅人材の移民が続いています。
   一方、目標を共有し、行動を共にする仲間も出来つつあります。 修行僧

 平成7(1995)年

 何が起こっても不思議でないと言い聞かし 何も起こらなかったことに感謝する日々
 眼前に展開する何事も 必然 必要と肯定し受け入れる
“あるがままに、なるがままに”と誓って95年がスタートです。  修行僧

 ・平成11(1999)年

 時折、車で走り抜ける道を リュックを背負って横切りました。
ススキ、セイダカアワダチソウの根元に 空瓶、空き缶、もう一歩横道にそれると
 冷蔵庫、洗濯機、マットレス・・・
蝉しぐれの木蔭、紅葉の山道 薄雪化粧の自然歩道を歩いています。  修行僧

 ・平成14(2002)年

 修行僧と称して24年、昨夏「四国88箇所遍路のたび」人生イベントの一つとして
 通し打ちにて完歩 結願。
 毎晩、疲労と洗濯、酔いの中。 修行と言い聞かせ 日記を綴る。
 何のことはと思っていましたが、ちかごろ何処かに 何かが効いている感じ
 2回目の青春(修行人生・還暦)面白く・楽しくなる予感があります。  修行僧

 ・平成19(2007)年

 地に鍬入れ7年目 昨秋の野菜は最高 種自身がもつ生命力と自然の力の仲介役が
  少しは出来たかなと思っています。

 2年間の座学を一時中断(中部大学の聴講生のこと)、目・耳・肌そして手足で直接 感じたくなり
 2月より3ヶ月間船旅に出発する予定です。   修行僧

 ・平成21(2009)年

・・・・・あけまして・・・・
 昨年賀状に「ミロクのよ」近しと記した。
 MORE&MOREの潮流 転換中
   夜明け前は暗く・冷たいと聞く 
     明るく・暖かな曙近し。  修行僧




 COLUMN 1−D 
                                   平成21年1月23日 記

 昭和40年代前半とは、どのような世の中であったか

 本日は青春時代「愛知大学」のことを書く予定


 だったのですが、全然入力の手が進まないのです。 気が乗らないのです。

 大学の次に書こうと思っていた「夢と勇気とサムマネー」が、中部大学のオープンカレッジの開校式で話をしようと考えたことと一緒になり、そのことに気が移ってしまいました。

 よって、そちらを先に書き上げてみようと思います。

 本日(1月23日)は既に眠気が追ってきましたので、お先に「オヤスミナサイ」



 COLUMN 1−D 948
                                   平成21年1月22日 記

 昭和40年代前半とは、どのような世の中であったか

  〜この時代の向こうに、展開する世界は?〜
    過去の資料を並べてみる 其のC


 ここまで3回に渡り、昭和40年代前半はどのような時代であったかを、思い出すために手元にある資料を紹介してきました。

 このコラム NO944でも書きましたように、LOHASな生活=健康で持続可能な「低エネルギー」生活の、物質的なレベルとして昭和40年代・前半とイメージしたからです。

 其の時代をイメージしつつ、ではどのような考え方や生き方で、具体的な生活を語ろうとした時、そのような考えを持つに至った私自身の「生い立ち、環境」をお話しておかねばならないのではと気づきました。

 そこで、今回は「私の生い立ちと父」と題して、短くまとめた見ました。 一般的なら子供に大きな影響を与えるのは母親でしょうが、私の場合は父親であったと今感じています。
 その理由は、「生い立ち」をお読みいただければ、お分かりいただけると思います。

 なお、其の後に青春時代の私に知らないうちに影響していました、愛知大学のことを紹介する予定です。 

 人生を4つの時期に分けるという考え方、「学生期」、「家住期」、「林住期」、そして「遊行期」があります。 その「学生期」に置ける大ちゃんの人間形成の内容は、「生い立ち」と「愛知大学」の紹介内容で40〜50%はご理解願えるのではないでしょうか。

 
 話が変わりますが、この「昭和40年代、前半はどのような世の中であったか」を整理している時に、中部大学からこんな話が持ち込まれました。

 来期・春期のオープンカレッジが4月7日から始まります。 その開校式の日に1時間ほど話をしてくれないか。  「内容は一切任せます」と。

 結論はOKしました。 4年間もお世話になっている。 私で良ければ・・・
 同時に、自分の思っていること、考えていることの頭の整理になるのではと自分自身に期待したからです。

 帰宅して浮かんだタイトルは「離職して、11年のこと」〜大喜の10年間の歩み〜でした。

 今、このコラムで掲載をしていることが、ほとんどそのまま活用できそうです。
 時間はまだ充分ありますが、気づいた時に書かないと気が萎んでしまいますので、ここ数日の内に素原稿は書き上げてしまう予定です。

 また、このコラムにその一部が登場するかもしれません。

 昨日はオバマ米国大統領の誕生。 世界が歴史的転換期の中、米国大統領の発言に注目し、世界のリーダー国アメリカがどのような世界観を持って、今後の新しい世界秩序の形成を進めるのかに大いに関心があり、「オバマ・スクラップ」を作ったところです。

 本当に修行僧としては、適ってもない時代にめぐり合われたものだと感謝しています。

 さて、時代の世界の大転換期とは全くかけ離れた大ちゃんの生い立ちを掲載します。


 『1、私の生い立ちと父    「昭和40年代・前半はどんな時代だった」より抜粋・修正   

 『私の父は明治33年現在の豊橋市、旧は三河の国、八名郡・萩平村で農家の5男3女の4男として誕生した。

分けてもらえる土地などはなかったが、愛知県弁護士会の会長で、愛知県県会議長のやり手の長兄に助けられ、東京の夜間薬学部を卒業していました。
 
 父は生涯に3度結婚をしている。 最初の結婚相手は、長兄の学友であった方の妹と昭和元年に結婚し、3人の女の子をもうけた。 が、18歳で嫁いできた妻は27歳の若さで死去。

 父は豊橋市内で薬局を経営していたが商売には身が入らなかった。長兄にならい豊橋市会議員に立候補し借金を作っていた。 

 父の2度目の結婚は昭和10年、相手が私の生みの母薬剤師でした。 長い間子供は出来ず、最初の子供の私は真珠湾攻撃のあった翌年、昭和17年誕生です。2つ違いの妹がいましたが、昭和22年生みの母の死去と同時に母の在所に養女に行きました。
 子供のことであるから詳しいことは分りませんが、後日知人の話や私が目にした父の姿、スタイルから判断して、戦前の父は“皇国日本”と旗振る右翼思想の持ち主であったろうと思われます。

 と言いますのも、戦争に負けた時、天皇に申し訳ないと同志の幾人かは、切腹をしてお詫びをしたと聞いている。
 3歳児の私を持つ父は、同志の方々と行動を共に出来なかった。 其のことがその後の父の行動に結びついていたのだろうと想像します。 

 日本全国の都市は次々と戦災にあってゆくなか、昭和20年8月7日に、現在は豊橋市(当時は八名郡、萩平、父の在所)の疎開先から、大八車に家財道具を乗せて、北設楽郡 豊根村の山奥に引っ越した。其の途中に豊川海軍工廠が爆撃に合い、一番下の姉が死去して下ります。

 当時の疎開先、北設楽郡は2町と12〜3村から構成されていたが、郡の中で薬剤師の免許を持って開業していたのは2店舗のみと聞いていました。
 病弱であった母は昭和22年、38歳、私の5歳のとき死去。
 
 その翌年に父は3度目の結婚をしました。豊根村の隣村の旧家の出で、生みの母と同じ東京の大学を卒業し薬剤師の免許を持っておりました。

 田舎とはいえ当時の山村は戦後の復興景気で木材関係の仕事は多く、またそれに従事する方たちの収入もよかった。

 我が家も現金収入はそれなりにあったのでしょうが、ある一定の金額が蓄えられると、父は「楽園は近し」とか、「財団、植物研究会」とかの看板を掲げ、本人としては戦後の日本復興の一翼を担い、かっての同志への償い・申し開きとしていたと考えられる行動(運動)をして、結果散財してしまった。

 それ故に、我が家は世間様と比較すると、どう見ても数段低い生活レベルであったと記憶している。
 私は昭和29年3月、豊根村黒川小学校を卒業と同時に、再び生まれた地・豊橋に戻りました。
 豊橋でも薬局を開業していましたが、父は相変わらず商売には身が入らず、私とは15歳も年上の姉に店を任せて、かっての同志を訪ねたり、新たな仲間を集めて、自己満足の行動を取っていた。

 私は昭和32年中学卒業、其の年、其の中学の校舎を共同活用していた夜間定時制の豊橋高校に入学した。 2

 継母は豊根村から時おり、薬の仕入れを兼ねて豊橋を訪れた。東京暮らしの体験のある継母は、決して派手ではなかったが、旧家の出のお嬢様育ちで贅沢は知っていた。 

 田舎暮らしの継母は豊橋に出てくると、豊橋・魚町辺りに開業した掘っ立てを小屋が並ぶお店で、かなり豊富に生活物資が出揃いはじめたスーパーで大量の買い物をしていた。  昭和35年前後のことです。

 昭和32年9月、大阪・千林駅前に誕生した「主婦の店 ダイエー」が日の出の勢いで「良い品をどんどん安く売る」とのダイエー憲法を制定してうなぎのぼりの業績を上げていた。
ダイエーに引きずられように全国各地に「スーパー」が誕生したのです。

 元気良く出店はするが、資金繰りに行き詰まり直ぐに消えるが、又生まれるところから、「スー」と生まれて、「パー」と消えるところから、「スーパー」と言うと、もっともらしく言われていました。

 豊橋にも薬屋のスーパーが出来た、ただでも業績不振な我が家は、たちまち売り上げがダウンしました。 何とか、豊根村の薬局が順調であったので食いつないでいました。 

 昭和33年、私が高校1年の3月、満58歳で父死亡。
この時は、本当にやれやれ、これで自分の時代が来たと内心喜んだものだった。

 豊橋の薬局は父死亡後、姉が薬種商の免許を取り“薬店”と名を替えて、実質19歳の私が切り盛りし、豊根の店の商品を仕入れては流すことをしていました。(未成年者の私は薬種商の試験を受ける資格なし)

 昭和40年3月、愛知大学・豊橋校舎を卒業し、名古屋の「西川屋チェーン」に入社しました。

 以上のような「生い立ち」で、私の昭和40年代(20歳代)が始まったのです。
ここで、私の生い立ちに関して父のことと絡めてお話してきたかは、私が33歳過ぎた頃より、父の死に際のことや、父の考え方や生き方が少しづつ理解できるようになったからです。

 特に死に際のことです。
 
 其の日は何時もと変わらなく朝食、そこには豊橋の郊外で農業を営んでいた父の妹が週に3度ほどリヤカーに野菜を乗せて売りながら我が家まで来て一緒に弁当を食べるのでした。
 食後、薬局の調剤室に行った父が戻ってきて、一言「それでは皆さん、サヨウナラ」と口にすると、そのまま心臓狭心症で亡くなったのです。 私は揺り動かしましたが、そのままでした。

 この最後の言葉「それでは、皆さんサヨウナラ」が、その後年月が経過し、私の齢が進むごとに、「果たして、私は父と同じように“それでは、皆さんサヨウナラ」と言って最後を締めくくることが出来るかどうかが大きなテーマとなったのです。

 
 その後のこと

 ・昭和30年代の後半、「スーと出て、パーと消えるからスーパーという」と本気で口にしていた。 我が家の薬局経営に負の影響を与えたスーパーには何処かで憎んでいた。

 そのスーパーに昭和40年に就職することになりなした。 だから、庶民の生活レベルのことは詳しいと思っている。
・昭和40年代、50年代、そして昭和の元号が平成と変わっても猛烈サラリーマンが続きました。

 ・昭和40年代、50年代、そして昭和の元号が平成と変わっても猛烈サラリーマンが続きました。
・業種・業態が変わろうとも、昭和40年代からバブルの弾けた昭和63年までは、どなたも多かれ少なかれ、{MORE&MORE}もっと豊かに、もっと豊かにとストレスで神経をすり減らし、サービス残業で肉体を酷使していたことは、どなたも大きな違いはなかったのではないでしょうか。

・平成10年3月 頚椎症再悪化、80日間入院。同年5月退社。  翌年3月大腸がんで60日入院です。


 離職しましたのは、56歳の時でしたが、私の「家住期(26〜50歳を指す)」=社会人の時期。就職し、結婚し、家庭を作り、子供を育てる時期のことは割愛です。

 また、何処かで書くこともあるかもし得ませんが、今は過去を思い起こしているより、これからのことのほうに関心があります。

 50歳を一つの区切りとして25年間、75歳までは「林住期」。この25年間が人生のクライマックスと五木寛之さんも著書・「林住期」の中で書いておられます。

 過日紹介しましたがフランス人対象の調査で「人生で”一番幸福感”を感じるときはいつですか」の質問の答えは、”65〜70歳”でした。

        私は今年67歳、真っ只中です。

 


 COLUMN 1−D 947
                                   平成21年1月21日 記

 昭和40年代前半とは、どのような世の中であったか

  〜この時代の向こうに、展開する世界は?〜
    過去の資料を並べてみる 其のB


 只今1月21日 午前11時半です。 今、中部大学から帰宅しました。 

 本日が今期の最終講義でした。 このような時代背景からでしょうか、あるいは教授がこのような時代背景の下、それに関するテーマを取り上げるからでしょうか、益々大変興味が増してくる講義内容でした。

 そのためでは何のですが、本日は「昭和40年代・前半とはどのような世の中であったか」の学問的な側面から取り上げたいと思います。
 昭和43年と言うよりは、西暦1968年と表現したほうが適切でしょう。 その1968年を取り上げた講義内容の一部と中日新聞に掲載されていました「書評」を掲載します。


 中部大学・国際関係学部 小島亮教授の「世界経済史」の受講ノートより

1968(昭和43)年はまだ学問的には十分に研究されていないと、中部大学の国際関係学部の小島教授は語っています。 が、同時に間違いなく戦後の世界の歴史の転換期であったとも語られました。
 小島教授の「世界経済史」の私の受講ノートから引用します。

「・昭和43(1968)年はどんな年だったのでしょうか。」
 小島教授の「世界経済史」の講座“ベトナム”から引用しましょう。
『・本日はかって、立命館大学で戦後・冷戦史後の日本をテーマにしたことがある。実証的な歴史を語る。
・ベトナム、冷戦、戦後の世界というテーマはどこに焦点を当てるかが難しい。
・焦点を@戦後の世界史=1960年代の研究の書物は多い。 其の中の一人「? 秀実」スガ ヒデミを紹介します。30歳という若さでデビューした、学習院大学出身。彼の書物の中に「小島」が良く登場する。
 1、「1968年」   筑摩新書  〜<1968年>という年はスガ氏によって市民権を得た。
 2、 同じ     作品社 〜スガ氏が編集した論文集。 この中に小島「チェコ事件」の一文がある。
 3、 同じ     作品社 〜サガ氏の一般書

・1968年どのような年であったか?
@ベトナムでテト攻勢のあった年(2月)〜米軍が勝てないことが分かった戦いとなった。
 →米軍は一方的に負け続けたわけではない。士気が落ちた。それを世界が知ることとなった。
A中国で「文化大革命」〜1966年からスタートし1968年が最高潮に。
B「チェコ事件」(小島論文あり)〜小島にはテレビに映し出された、真っ赤な風景とオーバーラップする。
                                                 5 
→「ハンガリー動乱」とは異なる。→チェコ共産党の主導による自己改革であった。それがソ連によって蹂躙された。チェコ国民、全世界の人々はソ連型社会主義がありえないと分かった。
Cアメリカ反戦運動、ニューレフトがアメリカの学生だったが、根本的にアメリカが変わった。(このことは米国の項で語る)
D東京大学の入試中止。 その後、大学紛争高まる。
Eフランスの5月革命でドコール失脚
・以上のように「1968年は“1968年革命”=同時革命」と呼ばれ、民衆が路上に出た「民衆革命」
・其のことが冷戦構造をも変革させることとなった。ベトナムとの関連を語ることも出来る。

・国際経済史の観点に切り替えて話を進める。(かって、社会思想史で語ったことがある)<注・加藤 資料あり>
 →アメリカの革新主義と共和主義について。
・其の前にアメリはどのようにしてベトナムに関わって言ったか。
・教科書の121ページから132ページに詳しく記載されている。
・ホー・チ・ミンについて〜ホー・チ・ミンは社会主義者ではなかった。民主主義者、農業改革者という穏健な人物。→毛沢東、カストロの影響を受けて、パラドックスとして社会主義者となった。

・1968年を含めて、ベトナム戦争は世界史を変革した。
@ベトナム戦争は冷戦構造が作り出した
A冷戦構造はベトナム戦争によって変わった。 60年代の世界構造を作り変えた。

・1975年、ベトナム戦争終結に関わった「ウオーター事件」ニクソン。(ロッキードの田中首相)
・1975年は共和党が大躍進した。
・1978年、アフガニスタンへソ連侵攻。それまでのソ連はイスラム問題には不干渉政策だった。
・なぜ、ソ連はアフガニスタンに侵攻したか?→共産主義への風が吹いているとの状況判断をした。そこで、アメリカ的な行動をとった。結果、ソ連の崩壊へと続く。
・11年間のベトナム戦争が冷戦構造を作り、その冷戦構造が世界を作り変えた。→21世紀に間接的に影響。』



 「高度成長の幻影」 テーマで読み解く『現代』戦後史A 
            粕谷 一希 中日新聞 平成21年1月18日より

『戦後の吉田茂政権、岸信介政権と問題の多い内閣後、池田隼人内閣と言う異質な政権が誕生した。
 寛容と忍耐、低姿勢、所得倍増計画、ニューライトとニューレフトいずれも抵抗の少ないアイデアが提出され、当時の日本人は飛びついた。

 それは社会の緊張を緩める為にも、生活の未来の希望を持ちためにも有効な観念であった。
 その中心には「下村一」という理論家がおり、旧経済企画庁周辺のエコノミストたちが存在した。
 全体の演出は官房長官であった「大平正芳」であった。 素朴で正直な池田首相はその演出に素直に乗った。

 ケインズ流の財政政策が唱えられ、J・K・ガルブレイスの『豊かな社会』(鈴木哲太郎訳・岩波現代文庫)が敗戦時の首相の鈴木貫太郎の孫によって翻訳されたことも面白い。

                                              6 
そうした考えが、W・W・ロストウの近代化論と結びつき、工業化を基準とする先進国理論が形成され、マルクス主義に取って代わった。
 経済白書と経済安定本部(旧経済企画庁の前身)が新鮮なイメージを提出した。この池田内閣は多角評価された。
 ただ今日考えると、当時の成長政策はいくつかの問題点を含んでいた。
 それは豊かな社会が来れば人間は幸せになれると言う錯覚を与えたこと、高度成長はいつまでも続かず、成長の次には成熟、そして崩壊が来ることに無為自覚であった。
 日本の場合、成熟と崩壊はほとんど同時進行的となった。

 急激な変化は社会に新しい緊張をもたらし、人間関係をかえていった。
 企業が高度成長したとき、大学が全国規模で学生騒乱を惹き起こし、日大の大衆団交、東大の安田講堂攻防戦が社会問題となり、当時の佐藤栄作首相は東大を視察した。

 国会が無事であり、大阪万博が催されたため、人々は学生騒乱を深く考えなかった。
 しかし、日本社会は家族、学校、地域といった基礎的な共同体を失い、日本人は職業倫理を失った。

 バブル崩壊は社会にフリーターと称する新階層を生み、引きこもりの若者を大量生産した。
 経済が社会を変え、社会問題は精神医学の対象となった。

内ゲバとリンチ事件、連合赤軍の国際化は21世紀の国際テロリズムに繋がって行くことを忘れてはなるまい。』


 以上の資料を読みつつ思い出したこと

 ここで昭和40年代のことを書こうと思っていますが、主観的な観点や意見になるので、其の前に私の「生い立ち」を簡単に述べておくことが必要でないかと気づきました。
 (「私の生い立ちは次回掲載予定です)

 もう一点、「高度成長の幻影」テーマで読み解く「現代」戦後史Aを読んでいまして、W・W・ロストウ教授のことが紹介されています。 

 このロストウ教授の理論は、マルクス共産主義の学者が半数以上を占めていたであろう「愛知大学」で4年間学び(?)ました。

 遊びに忙しく、学費稼ぎのアルバイトにほとんどの時間を費やしていた貧乏学生でしたが、どうしたことか最後の1年になったとき、タイトルは忘れてしまいましたが、教科書以外で初めて自ら購入した一ヶ月に1冊づつ発刊される「現代の政治、経済、社会関係の解説書」のその中の一冊にW・W・ロストウ教授の書かれた書物でありました。

 (このシリーズの書籍は、平成19年に長野県飯田市・南信州・遠山郷「旧木沢小
学校」内に開設された「藤原直哉氏の寄贈された図書館」内の片隅に置かれています。)

 遊びと授業料稼ぎで全く勉強などする時間のなかった私に唯一、身銭を切って「近代経済学」の一端を学ぶこととなったシリーズ書籍の中のロストウ先生であった。と同時に、20代の私に大きな刺激を与えられた書籍でした。

 私が昭和36年から昭和40年まで4年間、正に遊学した愛知大学のことも次回に記録します。
 


 

 COLUMN 1−D 946
                                   平成21年1月20日 記

 昭和40年代前半とは、どのような世の中であったか

  〜この時代の向こうに、展開する世界は?〜
    過去の資料を並べてみる 其のA


 調べたり、入力したりに時間が取られて、ここに掲載する時間を忘れてしまいそうです。

 昨日も書きましたが、来月9日に「伊勢神宮」への参詣までは、このような精神状況と日々がが続きそうです。

 と言って、何処かに篭り「座禅」をしたり、「お祈り」をしている訳ではありません。
 朝のストレッチも、掃除も、礼拝も何時もの通りですし、夕方になればカメラとラジオを首から提げて、大相撲を聞きながら1時間ほど散歩をしています。

 と、余分なことを入力していますと、また別なところに行ってしまいそうなので、「昭和40年代・前半は、どんな世の中であったのか。資料其のAを掲載します。

・高度経済成長期を象徴するように、私の成長する「所得、お金」で表現しましたが、その他のことではどうでしょうか。 手元にある、資料から拾ってみましょう。

 2、「JAFと車について」

 昭和34年ブルーバード発売       昭和40年 運転免許者2000万人突破    
    36年トヨタ・パブリカ発売         41年 交通事故死者1.4万人             37年JAF 創立             42年 中央高速 調布〜八王子開通     
    38年名神尼崎〜栗東開通       44年 東名全線開通          
    39年首都高速、阪神高速開始     47年 初心者マーク義務付け・        
      名神全線開通              ホンダシビック発売          
                            48年 オイルショック          
                               運転免許者3000万人突破    

  
        昭和50年 シートベルト着用6・3%
            トヨタ・カローラ世界一の量産
           51年 日本初 F1レース
          53年 成田空港開港
          54年 第2次オイルショック
             運転免許者 4000万人突破
          55年 日本の自動車生産世界一
          57年 中央自動車道路全線開通

 
3、「暮らしの商品の移り変わり」消費者物価指数を見る

〜「経済の体温計」と言われる消費者物価指数は、家庭が購入する主要な商品の値動きを総合して調査し、示します。 調査品目は生活実態に合わせて見直されており、これまでに登場し、消えていった品目をたどると、私達のくらしの変化が垣間見えてきます。 ここには全品目は取り上げていません。私が選びました。

昭和35年        昭和40年          昭和45年        昭和50年 
    
テレビカラー本放送   いざなぎ景気始まる   大阪万博開催      山陽新幹線・博                                              多まで     
テレビ白黒4.9万円  珠算月謝 680円・月   扇風機・14万円     電機コタツ 9500円   
自動炊飯器0・4万円  マヨネーズ 44円    ボーリングゲーム250円   ステレオセット                                                  19.8万円
冷蔵庫  3・4万円  腕時計   8800円   カラーテレビ  16.5万円  カセットテープ 420円 
ミシン  2・7万円  インスタントコーヒー255円  バレーボール 2155円  テープレコーダー3.7万円
コロッケ400G38円  電気掃除機 1・45万円  即席カレー  61円  ブルージーンズ3100円 
             昭和40年代                  昭和50年代

            湯銭 大人 26円                湯銭 大人 68円                            
            郵便    10円                郵便    20円
            バナナ   264円               バナナ177円
       国立大学授業料 1.2万円               国立大学授業料 3.6万円
       大学卒初任給  2.3万円               大学卒初任給  6.8万円   
         背広     1.35万円               背広     3.5万円
        大工手間賃   1960円               大工手間賃   7090円
          理髪      352円                理髪      1170円
     新橋^大阪普通運賃 1730円             新橋〜大阪普通運賃 2810円
       タバコゴールデンバット  30円             タバコゴールデンバット  30円

 4、「NHKの大河ドラマ」と「NHKの朝ドラ」

・NHKの「大河ドラマ」と「朝ドラ」を調べてみますと、時代背景がなんとなく分りまし、時代を反映していると何時も感じます。又、時代を反映するような演出が成されています。特に女性が主人公に選ばれる時です。

昭和38年「花の生涯」 昭和40年 「太閤記」  昭和45年「樅の木は残った」 昭和50年                                               「元禄太平記」
  39年「赤穂浪士」   41年 「源義経」    46年 「春の坂道」     51年 「風と                                                雲と虹」
               42年 「三姉妹」    47年 「新・平家物語」   52年  「花神」
               43年 「竜馬が行く」  48年 「国取り物語」    53年  「黄金                                                  の日々」
               44年 「天と地と」   49年 「勝海舟」      54年   「草燃                                                    える」
「NHKの朝ドラ」

昭和36年 「娘と私」  昭和40年 「たまゆら」  昭和45年「虹」      昭和50年前半                                                「水色の時」
昭和37年 「あしたの風」昭和41年 「おはなはん」 昭和46年 「繭子ひとり」   後半                                               「おはようさん」
昭和38年 「あかつき」 昭和42年 「旅路」   昭和47年 「藍より青く」昭和 51年前半                                             「雲のじゅうたん」
昭和39年 「うず潮」  昭和43年 「あしたこそ」 昭和48年 「北の家族」      後半                                                 「火の国に」
             昭和44年 「信子とおばあちゃん」49年「鳩子の海」

 参考。「おしん」は昭和58年で、この年は大人気となり、1年間の放送となった。

 5、「女性のファッション」

昭和32年「グラマー」の言葉生まれる 昭和40年「アイビールック、パンスト」  昭和45年「ジーンズ、                                              ウーマンリブ」、
昭和33年「ロッカビリー、フラフープ  昭和42年「ミニスカート、グループサウンズ」昭和46年「アンノン                             族、女性用カツラ」  トレーニングウエアー」
昭和34年「ミッチーブーム」   昭和43年「タートルネック、パンタロン、カラーシャツ」昭和47年「                                             ボーリング、ホットパンツ」
昭和35年「ダッコちゃん」    昭和44年「ユニセックス、シースルー、マキシコート」 昭和48年「バレ                                ンタインデー」  タンクトップ、ダウンジャケット」
昭和36年「シームレスストッキング」                      昭和49年「つなぎ服、                                               ロングスカート、
昭和37年「ツイスト」                                   毛皮コート」
昭和38年「バカンスルック」

      昭和52年「カラオケ
      昭和53年「ディスコ、

 6、20世紀の中の1960年代と1970年代を拾い上げました。

 6−1、1960(昭和35〜44)年代は何があったか 『成長の功罪』

・皆が「追いつけ追い越せ」と夢を追った。 半面、公害や交通事故などの歪も
・60年(昭和35年)1月、新日米安保  1~10月、三井三池争議 9月、カラー放送 
12月、池田首相の「国民所得倍増計画」
・61年(昭和36年)5月、資本取引の自由化
・62年 (昭和37年)              キューバ危機、
・63年(昭和38年)7月、ケネディ教書で株価暴落(ケネデイショック)ケネディ暗殺
・64年(昭和39年)4月、経済開発機構(OESD)に加盟 10月、東海道新幹線開通と東京五輪    4
・65年(昭和40年)4月、国産旅客機YS11初就航 5月、山一證券に日銀特融 7月、名神高速開通
・66年(昭和41年)1月、戦後は角赤字国債発行   中国文化大革命
・67年(昭和42年)8月、公害対策基本法
・68年(昭和43年)3月、人口1億人突破 6月、小笠原諸島復帰 12月、3億円事件
・69年(昭和44年)      1月、東大紛争、安田講堂占拠の学生排除

 6−2、1970(昭和45〜54)年代は何があった。『大国の誇り』

・ドルショック、石油ショックを経て、米国に次経済大国の地位を固める。
・70年(昭和45年) 3〜9月大阪万博 3月、日航よど号乗っ取り事件
・71年(昭和46年) 8月、ドルショック 10月、第一勧行が誕生 12月、308円に、スミソニアン体制
            浅間山荘事件 
・72年(昭和47年) 2月、札幌冬季五輪 5月、沖縄復帰 6月、田中角栄・日本列島改造計画  9月、日中国交正常化
・73年(昭和48年) 2月、変動相場制 8月、金大中氏の拉致事件 10月、第1次石油ショ                                                     ック
・74年(昭和49年) 戦後初のマイナス成長
・75年(昭和50年) 7月〜翌年1月沖縄海洋博    ベトナム戦争終結
・76年(昭和51年) 2月、ロッキード事件 7月、田中角栄首相を逮捕
・78年(昭和53年) 5月、新東京国際空港(成田)開港
・79年(昭和54年) 1月、ダグラス・グラマン事件 1月、国公立大学の共通1次試験    
           1月、第2次石油危機 6月、初の東京サミット
・80年(昭和55年)                    ソ連軍アフガニスタンへ侵攻


 〜如何ですか、少しは昭和40年代を思い出していただけましたか。
 私の印象は、漠然と想像していた社会環境や生活実態は決して貧しくも惨めでもなかった。それよりは活力があったと言う感じです。

 と言うことは、ある時代、ある時点の物質面を切り取って豊かであったとか、満足していたと言うことではなく、精神面も含めたもっとトータルな社会環境であったり、人間関係だったと言うことに思い至ります。


 COLUMN 1−D 945
                                   平成21年1月19日 記

 昭和40年代前半とは、どのような世の中であったか

  〜修行僧”大ちゃん”の、今朝の日記より〜


 昨日、このコラムで第1回目を取り上げたばかりは、「昭和40年代前半とは、どのような世の中であったか 〜この時代の向こうに、展開する世界は?〜
    過去の資料を並べてみる 其の@」
でした。

 その後、掲載すると面白そうな、あるいは昭和40年代・前半が具体的に思い出せるような資料を探して、昨夜は床に就きました。

 沢山の資料はありませんが、そちらは追々掲載することにします。
 
 半分夢うつつの中で 「大ちゃん、そんな資料を取り出して、何の意味があるのだ。 何か役に立つのか。 それより君は今後をどのように考え、生きてゆくのかを、提示すべきではないか」との声が聞こえました。

 そのためでしょうこれまた夢うつつの中で大ちゃんの弁解が始まりました。

 「過去を洗い出す、思い出す。それは懐かしみ、ノスタルジアに浸るためではありません。
 どんな生活レベルをしていたかを思い出すためです。

 そして、其の生活レベルにどれ程満足していたのか、その後どうしようとしていたのかを思い出すためです」と。

 (イ)過去の資料も、(ロ)其の資料を見つつ思い出したことも今後掲載しますが、慌て者の大ちゃんは、其の資料を参考にして今と言う時代をどのような”キーワード”で生きてゆこうとしているか、その後の世界の展開を考えているのかと自問しています。

 結果、浮かびました言葉は、(ハ)「夢と勇気とサムマネー」でした。 確かチャップリンの映画のタイトルのあったかと思います。 

 では、どのような夢か、勇気はあるのか、そしてサムマネーの考え方は、と言うことになりますが、まだ手元の昭和40年代前半の資料すら提示していませんの、今しばらくお待ちください。 順に従ってみたいと思います。

 ただし、本日は「夢と勇気とサムマネー」に続いて、(ニ)脳裏を駆けていったことがありますので、本日は、大ちゃんのこれからの生き方と考え方の一端として書き記すこととします。

 『一つの魂を与えられた生命体がこの地上に送り出された。(送り出していただいた)
 其の生命体は「加藤大喜」名づけられ、「大ちゃん」と呼ばれた。

 大ちゃんは地上の様々な生命体のエネルギーを頂いき、食し、消化し、排泄し成長していった。

 30数年前、大ちゃんは自分のことを「修行僧」と自ら名づけた。
 喜怒哀楽=喜び、泣き、笑って、その後も変わりまく、同じ繰り返しの日々が続き、また30数年が過ぎ、67歳となった。

 30数年前のある日、「MORE&MOREの終焉」と言う言葉が大ちゃんの脳裏の片隅から離れず、其のことから「狼爺」と言われながらも、近いうちにこの社会に大きな変革の時が来ると言い続けていた。

 そのときは2008年9月15日、突如として海の向こうを震源地として津波のように押し寄せてきた。 それは海の向こうの話ではなく、全てが地続きとなっら”グローバル大地”であって、世界・地球全体を覆った。

 大ちゃんはこの大変革期・大転換期において新たな修行をする為の67年間の修行であったと自覚し始めている。 そして、其のことを当然・必然として受け止め、前向きに修行しようと考えている。

 その自覚が薄れないように、あるいは素晴らしい修行の記録を残しておこうと、毎日パソコンの前に座り、キーボードを打たせていると感じている。

 どれだけ入力しても気が治まらない。 入力すればするほど、水切れした体のように、次々と手当たり次第に更に水を求めている。

 地上に生命体として送り出されて67年間の修行の集大成、あるいは感じ取った、学んだ知識や体験の核心(確信)を書き記そうとするのだが、到底それは適わぬことと感じ始めている。

 これこそが修行だと楽しみ始めている。 今朝も修行が始まる。』


 以上、床の中で脳裏を走ったことをメモしました。 午前4時でした。 
 
 2月9日「伊勢神宮」にお参りの計画をしています。 多分、この日を境に今の気持ち、気分が変化するのではないかと予感しているのですが・・・



 COLUMN 1−D 944
                                   平成21年1月18日 記

 昭和40年代前半とは、どのような世の中であったか

  〜この時代の向こうに、展開する世界は?〜
    過去の資料を並べてみる 其の@



 ・人様に「加藤は静かな時代に戻ればよいと言うが、君の言うところの静かな時代とは、いつごろの時代か」と尋ねられるとき、其の答えは「昭和40年代前半」と答えています。

 ・何の根拠も無く、何時ものように感覚的なものです。 強いて言えば、私が社会に出たのが昭和40(1965)年ですので、其のころのことを思い出して話しています。 自家用車、ほとんどの方は持っていません。

 「私の給与明細を見る」

(A)手元に昭和41年10月27日付けの私の給与明細があります。
 基本給  役付手当 職務手当 精皆手当  支給総額 社会保険 他控除(食費等) 
 21680円 1000円   5752円  1734円   30166円  2010円   5660円 
    
   差し引き支給 
      22496円

・以下は昭和42年11月27日付けの女房の給与明細です。
 基本給  残業手当      精皆勤手当 支給総額  社会保険  他控除
 21740円  4116円      1739円    27695円   1722円    7889円 

      差し引き支給
       18084円
 
・昭和38年高卒入社の女子と昭和40年大卒入社の男子の基本給は80円女房の方が上です。

 ・昭和42年に私も昇給があったでしょうから、実態は少しちがっていたでしょう。(私の昭和42年の明細なし)

 ・私には役付手当(主任手当?)と職務手当があり、女房は残業手当となっています。 
 両者に精皆勤手当てが付いているところをみますと両者共に管理職ではなく、日給月給で欠勤すると給与から引かれることが分ります。

・社会保険の内訳は私の分で、健康保険料975円、厚生年金825円、失業保険210円です。
・所得税が690円、市民税が320円、会社の交友会費150円。食費が4500円でした。

(B)2年ほど下った昭和44年3月の給与明細を表示しましょう。前年の11月に結婚しました。
 上段が私で、下段が女房です。年齢差は1・3歳です。
基本給 職務手当 精皆勤 支給総額 社会保険 所得税 その他控除  差し引き総額
28400 5680   2272   37352   2511   1470     3000       30171円
    残業手当
24900 5208   1992   33950   1872   980      2650       27098円

・昭和44年4月からは昇給後で、大喜が基本給41700円、役職手当が8000円となり
               女房は基本給29620円、残業・精皆勤手当が7500円でした。
 其の年、昭和44年の11月になりますと大喜の基本給ガ44700円、女房も31950円となっています。

(C)昭和45年の昇給後は大喜基本給58750円、役職手当12000円。女房も43000円に役職手当6000円です。
 この年は大阪万博が開催されており、女房は7月に退職、8月に長男誕生です。

・昭和46年の昇給後は基本給が76010円、役職手当16160円。
・昭和47年は基本給の内訳が変更、本人給と職務給で109100円、管理専門職手当12000円。住宅12000円。
・昭和48年は本人給と職務給で132000円、管理専門職手当20000円、住宅手当15000円。
・昭和48年12月に第1次オイルショックが発生、物価が30%近く上昇したことにより臨時賃金改定で
          基本給が143500円、管理専門職手当23000円になっております。
・昭和49年は     基本給が193400円、管理専門職手当25700円、世帯主手当と変更されて15000円。

 以上のように、昭和44年以降、高度経済成長の波に乗って、給与は上昇してゆきました。

 ・同時に、社員の中でも自家用車を購入する人たちが現われ始めました。他人の目を気にして会社までは乗り付けず、近くに路上駐車して出勤してくる姿が見受けられました。

 ・私の車購入は昭和48年12月でした。それまでは同僚の運転する車に同乗して仕事をしていましたが、豊川の店がオープンしますと、電車で帰宅すると2時間半もかかります。 
 
 高速道路を利用すれば70分と言うことで、ニッサン・ブルーバードの明るいグリーンの中古車を購入しました。
 多分、半数以上の方は自家用車を購入しておられたと思います。

 ・高度経済成長期を象徴するように「所得、お金」で表現しましたが、その他のことではどうでしょうか。
 手元にある、資料から拾ってみましょう。

 と言うことで、手元にある資料から何を取り上げるか思案中です。と言って、数枚の切抜きがあるだけです。

 おいおい、掲載します。

 なお、昭和50年代(1970年代後半)というお考えの方もあるようですので、昭和40年代と50年代の両方を取り上げて見ます。





 COLUMN 1−D 943
                                   平成21年1月17日 記

  2001年小泉ー竹中ラインに騙された私

    〜オバマ新大統領の変質に留意〜

   「額に汗すれば心配なし、心は配れ」




 
 このところ「腹下り(腸内一掃)」のことと言い、歴史に学んだことを中心に書いています。

 今朝は1月20日に迫った米国オバマ大統領の就任式のことを思い浮かべると同時に、オバマ新大統領の選挙戦の時の発言がハッキリと変質してきたのではないかと気になっています。

 私の平成20年11月7日の「中日新聞 」を読んでの感想です。

  COLUMN 2-N  NO281
                                  

                                 平成20年11月7日 記

 「変革」に託す @  オバマの米国

   〜中日新聞 11月7日 朝刊より 


「世界を破滅させようとする者は打倒する。 平和と安全を求める者には手を差し伸べる。
 米国のリーダーシップの新たな幕開けだ」
 と、7万人の支持者の前で勝利宣言は、米国民だけでなく、全世界に向けられたものだった。

 中略
 イラク戦争、アフガニスタンの混乱、中東和平の停滞、北朝鮮やイランの核開発問題、クルジア問題を発端にしたロシアとの「新冷戦」・・・・。米外交は、解決の道筋が見えない「八方ふさがり」のまま、新政権に引き継がれる。
 中略
 ブッシュ大統領の「有志連合」による軍事行動に踏み切ったイラク戦争は、力に任せた「一国主義」と批判を浴びた。 
 中略
 米国流の自由や民主主義を押し付けるやり方は通用しない。
 中略
 「一国主義に陥らない米国の指導者とは」という問いに、どのように答えるか。」

 上記の斜線太字
文字は中日新聞の抜書きで、以下の斜線文が私の感想です。

このところのサブプライム問題に端を発した「金融恐慌」、それが「産業恐慌」から「生活恐慌」へと進むことだろうと予測し、このコラムにも書いた。

 100年に一度あるかないか、いや数百年の出来事だと、インターネットを通じて様々な意見やこの4年間大学で学んだ歴史と社会思想史等から感じ・予測していたことが株価に現れて、日々乱高下を繰り返しながら間違いなく進行している。

 と言うのに、日本の政治は目の前の政局や選挙で勝てるかどうかを心配した調査結果に目を奪われてモタモタ、ウロウロどころかフラフラの状態を見るに付け嫌気がさして、このコラム 2−Nにも、コラム 1ーDにもそれらに関することは意識して書かないことにしてきました。

 が、予測どおりオバマ大統領の登場です。 この大統領のことを取り上げない訳にも行かず、入力しています。

 まず、選挙戦を通じての彼の選挙戦略グループに乱れがなかったこと=統率力に、素晴らしい力を持っていることを感じました。

 また、英語のスピーチを直接理解できませんので、何とも言えませんが、観衆のあの興奮振りと、彼の冷静な態度から人々を引き寄せ、魅了する何かが備わっているのだと考えざるを得ません。

 期待するところ大なのですが、1861年のリンカーン大統領、大恐慌あとの1933年からのF・ルーズベルト大統領のような劇的な変革を成し遂げることが出来る大統領になれるのでしょうか。

 もちろん時代環境はまったく異なるのですが、一国の問題ではなく世界全体(地球全体)の大変革の時と認識する私としては、オバマ大統領がこの時に選ばれたと言うことは、彼にそれだけの天命があって選ばれたことだろうと考えます。

 これ以上のことは今は申しません。 
 誰かに課題の解決を任す、依頼すると言う姿勢はとりたくありません。私の納得できる考え方、価値観、生き方で進んで行く思いです。
 
 アメリカへの従属した国のあり方には批判的です。 主体性・自主性を持った生き方が求められていると考えています。 
以上です。
 

  *       *         *        *        *        *

 続いて、このコラム 1−D NO927 2008年12月24日でこのように書きました。
 
 「 アメリカの次期大統領オバマ氏に大きな期待が込められていますが、結論的に私の意見を言うならば、彼が言うほどの「チェンジ」はできないであろうと予測しています。

 彼の背後で蠢いている権力や団体は、これまでの時代を根本的に変更するべきとは考えていず(環境問題、エネルギー問題等)、目先を変えて、方法論を変えて、対象を変えて生き残り、自己満足の度合いを更に上げ、権力を維持し続けるための仕掛けを次々していると感じるからです。

 其の反対の勢力の存在も感じないわけではありませんが、当分(3〜5年、長ければ5
10年)、無益な、彼らにとっては死活問題の戦いと妥協の調整でしょうから・・・

 資本主義と社会主義(共産主義)、個人と社会、私有と公有、等々、産業革命以来の
MORE&MOREのを追求を超える、新たな思想、理念、価値観、生き方は見えない。

 人頼りはダメということだけは確かなようだ。 時間の経過とともに、各自がそれぞれの個性を生かした、自分らしさというか、自分自身が納得し・創り出してゆく生き方の時代ということになると考えます。」
と。

    *       *        *        *        *      *

  本日中日新聞平成21年1月17日の「2009 アメリカの再起動、オバマの時代 D」を読んでいまして、上記に感覚的に感じた私の予感が当たりつつあるのではないかと思っています。 

 その記事の内容は「不人気ブッシュ大統領の右寄り路線をたたくだけで喝采を浴びた戦況戦は終わって3ヶ月。 オバマ氏は就任式を前に、公約した方針や施策を左寄りから中道路線へ次次に転換し、「変節」ぶりが露呈している。

 人事面では「ワシントン政治を変える。利益誘導のロビイストを排除する」と大見得を切りながら、ロビー会社顧問ダシュル氏オロビイストを厚生長官に、トマホーク巡航ミサイルを製造する軍需大手企業のだった副社長を国防長官に指名した。

 イラク駐留米軍の「就任式後16ヶ月以内」の撤退期限も、「現地情勢を見て判断する」と修正。

 経済政策も、勤労者夫婦で千ドルの減税案を発表しながら、公約した富裕層増税には触れず、減税の財源も明らかにしない。

 テキサスA&M大学のジョージ・エドワード教授は「変革とは空虚な言葉だ。 漠然とした言葉に人々は多大な期待を抱く。
 オバマ氏は現実主義者として対処すればするほど、失望が広がるだろう」と予測する。


 〜さて、長々と引用しましたが、なぜなのだろうか。
 それは2001年4月26日に誕生し、2006年9月26日まで続いた「小泉政権」の誕生初期に私は大きな判断間違いをしたからです。

 1989年バブルが崩壊しました。その後の自民党の景気対策は、従来のままの公共投資一辺倒とでも言うべきバラマキ行政でした。その間に到底返済不能な額の赤字国債(財政)に益々悩まされているわが国の状況です。

 そんな折、「自民党をぶっ潰す」と言って、登場した小泉氏は思いがけなくも当選しました。 私も応援した一人でした。 
 多分多くの日本国民が不透明感と閉塞感に包まれていた心理の中で、劇場役者のごときポーズに魅了(?)・騙されて、突如押し上げられた首相だったと考えます。

 何が、どのようことかは書くことは止めますが、小泉政権誕生して3ヶ月経過した時に、突如私は自分がこの総理に拍手を送っていることは、間違いであったと気づきました。 其のところの経過は「波動の会」の仲間にも何度も語ったところです。
 
 当初、波動の仲間も面と向かっては反論しませんでしたが、眉唾と聞いていたことでしょう。信じてもれえていなかったと思っています。

 当時を振り返って、自分に一番情けなかったことは、私自身の主体性・自主性ある判断基準、価値観が曖昧であったということです。

 私自身の性格を考えますと、「変化大好き人間です」、同じ状況が続くことに飽きてしまうのです。
 たとえ、其のことが順調に進んでいたとしても時間の経過と共に、もろ足らなくなり、更なる転換と変化を求める思いが湧いてくるのです。

 と言う、性格ですから当時の小泉さんの登場は正に私の心情に火をつけたのでしょう。
 が、タダ単に閉塞感の中で、変化を求めたのであって、基準や価値観があった訳でなく、同時に政治に、あるいは小泉首相に頼ったと言うことだったと考えます。

 自分を諌めていることの中に「人頼りだダメ」と言う、数少ない行動原則を横に置いて、政治に、小泉さんに求めたと言うことだった。

 少しの時間(約3ヶ月)経過と共に、自分を取り戻し、小泉〜竹中ラインの行なっていることは、どうも対米従属ではないか。 主体性・自主性が無いのではないかと気づいたところから次々に彼らの施策に疑問符を持ち始めたのでした。

 過ぎ去ったことは水に流し忘れ、次に向かうのは日本人の美徳の一つかもしれませんが、反省し・記録し後日に生かすことをしなければ、同じレベルの繰り返しになってしまいます。 (他人に犯した罪は忘れず、自分にかけられたことは水に流す精神は持ちたい)

 未曾有の出来事・状況が世界レベルで進展しています。 まだまだ入り口でしょう。

 たった10年にも満たない過去に、判断され実行された日本での新自由主義、新保守主義、グローバルスタンダード、競争原理の社会・経済体制は、負の遺産などと言うものではなく、今正に現実となって社会のあらゆる側面で燎原の火のごとく悲鳴が上がっています。

 オバマ大統領のことを書くつもりが、ドンドン横道にそれてしまいました。

 ここで、私が自戒したいことは、主体性・自主性をもって自ら道を切り開いてゆくこと。
 人頼り=アメリカ頼り=オバマ待ちは、決して明るい未来を創り出す事とはならない。

     「額に汗すれば心配なし、心は配れ」と年頭の一文に戻りました。





 COLUMN 1−D 942
                                   平成21年1月16日 記

 「歴史からどのような教訓を与えられましたか」

 〜「世界歴史を学んで」 平成17年との対比〜

 このコラム 1−D No940にて、私は書いた「世界歴史を学んで」と言う、平成17年の11月に書いたものを掲載しました。

 今週「世界史概説」の教授から、宿題で「歴史からどのような教訓をまなびましたか」でした。
 平成17年時の時の同じ視点=教訓から、今の思いや考え方を書きましたので、ここに掲載します。

 このところ、自分でもかなり活字が多く、しかも理屈っぽいことを書いているなと思っていますが、こんな精神状態は長くは続きませんので、お付き合いください。


  宿題「私は歴史からどのような教訓を与えられたか。」

・ 上記(省略)のように4年前にメモしたことに対し、私自身少しは変化し、進歩しているのだろうか。
 この歳になっても感覚人間としての資質は変化なく、深く考えることなくその場でひらめいたことを書くことになります。

 同じ書くにしても、「100年に一度の出来事」と表現されているほどの、時代の転換期であるのだから、この転換期に役に立つだろう学んだ歴史の教訓にスポットを当ててみたい。(4年前と同じ視点から眺める)

@繰り返すサイクル(誕生、発展成長、成熟、衰退、消滅)があり、長いスパンもあれば、短いスパンあり。
A栄枯盛衰(外部要因もあるが、決定的なことは内部から崩壊する) 
B最後は大衆が決める。
C歴史は必然(必要な時に、必要な人現われる)
D歴史は忘れた頃にやってくる。記録の大切さ。日本は失敗の遺産の積み重ねがないという。
   (以上が4年前の視点)
                                              
 @「繰り返される歴史、今回の歴史は長いスパンの終焉である」

 ・中世から近代へ。宗教改革、大航海時代から産業革命を経て資本主義社会の形成と成熟、その社会の矛盾を乗り超えようと登場したマルクスの共産主義思想とロシア革命。

 ・冷戦体制も含めて戦争の世紀の20世紀の終焉は、共産主義社会の崩壊と21世紀入り一極支配のアメリカン・グローバル、自由、競争、市場資本主義の破綻となった。

・このスパンは神が支配した時代(中世)の終わり、すなわち近代の始まりから500年間続いた「MORE&MORE」(物的豊かさの追求、カネに替わっても同じこと)の時代の終わりを意味する。

・世界の強国あるいは帝国の歴史には短いスパンと長いスパンの関連性や法則性は見られないが、今回は長いスパンが続いた、あるいは支配した価値観、思想、理念の下の社会=「MORE&MORE社会」であった。(資本主義であろうが共産主義であろうが物的豊かさを求めた)

 ・次の時代は「短いスパン」の社会の到来と歴史は示しては居ないが、「ローマ帝国」、「ビザンツ帝国」、「イスラーム帝国」に時代に続いて登場した「神聖ローマ帝国」、「オスマン帝国」の崩壊した後は、短いスパンのしかも分裂した国家の誕生となった。

 ・それに引き換え、アジア地域を眺めてみると、其の代表は中国であるが、長・短スパンの繰り返しの国家形成になっている。多民族国家であることが背景にあるのだろうか。中央アジア、モンゴル、東北中国、そして南の各種民族。 

 ・なんらの法則性もないが、今回の時代の流れは統合から分散へと更に進展すると考えます。

 ・私が生を受けた20世紀、「戦争の時代」とも表現されるふたつの戦争とロシアと中国革命、それにヒットラー、日本、イタリアのファッシズムが思い起こされる。

 その20世紀も1968年が示す数字は、1913年(第1次世界大戦前年)に痕跡は残っていない。

 戦後の経済発展は急速であった。だが、それは第1次世界大戦に産業によるものだった。(ドッラガー『断絶の時代』より)

 が、20世紀の三分の二経過したころより、先進諸国を激震が襲い始めた。 

 『・P・F・ドラッガーはこの地殻変動を、「グローバル化の時代」「多元化時代」、「知識の時代」「企業家の時代」として捉えた。

 ・また、P・F・ドラッガーは著・『断絶の時代』で、「今や経済も技術も断絶の時代に入っている。われわれは、この時代を更に偉大な発展の時代にすることが出来る。
 ここで明らかなことは、技術、経済、産業、ガバナンス、マネジメントの全てが、断絶の時代に入るということである。
 
 つまり、偉大な19世紀の経済的構造物の完成に精を出している間に、正にその土台そのものが変化し始めたのである』と語っている。


・ドラッガーは『断絶の時代』の20年後の1989年、『新しい現実』において、歴史には峠があると書き、更に4年後の93年には、『ポスト資本主義』において、この転換期は2020年まで続くと言った。

・が、今日の世界情勢は、2020年を超えても、今の大転換期は終わらないかもしれない。     4
われわれ自身が転換できないでいるから、地球規模で課題が山積し、最後は現人類がかけがえのない地球遺産を食い潰し、再び数億年の眠りの中に入り込むよりないのか。 そのような我儘は許されない。

 A栄枯盛衰(外部要因もあるが、決定的なことは内部から崩壊する)

 ・外的要因(環境、気象状況、競合関係)により社会の崩壊はあるが、決定的なことは内部から崩壊する。

 ・では今回の世界レベルの破綻は、どのような外部要因が決め手であったのか、あるいは決定的な崩壊要因を内部に指摘することが出来るのだろうか。

 ・と考えた時、誰が栄枯盛衰の主役なのかと考えてみました。
 →最後の場面では一極支配の頂点に居た米国帝国ということになるのだと考えます。その尻馬に乗ったイギリス、日本、オーストラリアが目立つ存在ですが、アメリカの意向を受けたリーダーによって国家運営していた国(グルジア、ポーランド、アイスランド等)も同じことでしょう。

・日本は1930年代後、世界で一番初めにバブル崩壊した先進国(?)で、「羹に懲りて、ナマスを吹く」の態度で、リスクから遠ざかっていたことが今のところ「痛手は軽微といわれていますが・・」果たして・・。
 本質的に「従米路線」に体の芯から染め抜かれ、抜け出せないでいると言わざるを得ない。

・決定的要因は内部の崩壊ということになりますと、ここから始まると考えます。
前回の大恐慌に学び、今のところは自国のみを考えた「内向き政策=保護貿易」にはなっていません。
・中国と米国はまるで「鵺」のように、米国の過剰消費と財政赤字、中国の貿易黒字と米国債への投資という関係がどこまで我慢できるのでしょうか。争いは起こらないのでしょうか。

 ・国内問題(米国内失業とドル暴落、中国は格差拡大で軍部の台頭)がいつ火を噴出すか分らない状況下にあると考えます。
 ・それは、たちどころに幾重にも関連付けられた世界経済の全てに飛び火してゆくことでしょう。
 意図した輩による世界戦争への危険は孕んでいます。

〜余談〜 B“最後は大衆が決める”

 ・日本のリーダーたちには気楽なものというか、現状を正しく認識しているのか、又、問題の本質が本当に分っているのかと疑いを超えて、呆れてしまいそうです。

 ・「羹に懲りて、ナマスを吹く」と書きました。また「従米路線」の思考しかないとも書きました。
 自主性・主体性のない個人、集団、国家は、行き詰まります。這い出すすべを知りません。体が動きません。

 ・遠くない時間内に「国家破綻」に至らなければ、戦前から続く官僚制度は崩壊しないでしょう。
 国家に支払う金がなくなった時、初めて高級官僚は逃げ出すことでしょうから、国民は多くの要らざる犠牲を蒙りましょうが、長いスパンで見た場合はプラスということになるという解決策というか、事態に追い込まれてゆくのではと考えます。 
 正に国民大衆のレベルが最後に問われていると思っています。

C歴史は必然(必要な時に、必要な人現われる)
D歴史は忘れた頃にやってくる。記録の大切さ。日本は失敗の遺産の積み重ねがない。
        5

 ・私自身人頼りを一番諌めているところです。 「必要な時に、必要な人が現われる」というのは、人頼りを意味するのではなく、身に降りかかったことは、何事も必然であり、肯定して受け入れたいとの前向きな思いを持って言い聞かせているところです。

 ・個人も、家族も、職場も、国家も天の意に添っているならば、破綻、崩壊、消滅することないということ。
逆結果がでた時は、それも必然なこととして受け入れるべしとの思いです。

 いささか、宗教めいて来ましたが、日々起こることが修行であり、自分自身を「修行僧」と言って約30年、
 その日その日でオロオロ、ウロウロしているのですが、それでも何とか立ち直っています。

 ・最後に、「歴史は忘れた頃にやってくる」。これも歴史は繰り返すという言葉と同義語です。
 
 私も可能な限り記録を残して、反省材料にしています。 「忘れっぽい日本人」「全てを水に流す日本人」などといわれますが、他人にかけた行為は忘れないように、自分にかけられた嫌なことは、水に流せる人間になりたいと思う修行僧です。

 ・再び、ドラッガーの著書を取り上げます。
 「21世紀の諸問題は近代合理主義では解決できず、全体を見て本質を把握すること」
「生まれ育った世界から別な世界へ移り住んできたかのような感じさえする。
 17世紀の半ば以降350年にわたって、西洋はモダンといわれる時代を生きてきた。
 19世紀にはその西洋のモダンが、全世界の哲学、政治、価額、経済の規範となり、秩序となった。
 だが、今日、モダンは最早現実的ではない」(『テクノロジストの条件』より


 ・モダンとは、近代合理主義のこと。 正に、世の全ての事象は論理の力によって解明できるとしたことから、近代は始まった。その近代が、まず西洋を支配し、やがて世界を支配した。

 ・ところが、そのモダンが世界を覆いつくしたと思われた20世紀の半ば、論理だけでは説明できない問題が急増し始めた。
 今や、環境問題、途上国問題、人口問題、教育問題など、20世紀が直面する問題は多 く、論理だけでは理解不能であり、解決不可能である。

 ・分解し解析するという作業に加えて、知覚の力によって、全体を全体として把握しなければならなくなった。
  命あるものとして見なければならなくなった。

 ・ドッラガーはこの変化に気づいたのは1950年代半ばのことであった。
『われわれは、一つの大きな転換期に生きている。 昨日のものとなったモダンが、無力ながらも表現手段として、期待の基準、処理の道具として機能している。
 他方、新たなポストモモダンが、手段と道具を持ち合わせることなく、われわれの行動を事実上支配しつつある』 (『テクノロジストの条件』より)


・宿題の「まとめ」というよりは、自己反省の「まとめ」になってしまいましたが、これを提出します。

・蛇足ですが、前回提出しました「資本主義の矛盾とは何か」の末尾に、「自然に学ぶ」、「土に学ぶ」と言うことを書きました、今年の年賀状には「額に汗すれば心配ない、心は配れ」と一文を添えました。


 




 COLUMN 1−D 941
                                   平成21年1月15日 記

       完全に足を取られました
 〜「JR中央線沿線会」に、20年ぶりに参加〜

 昨日は「JR中央線沿線会」(正式な会の名前失念)とかの会に出席しました。
 この会はかって勤務していた会社でJR中央線で通勤していた仲間の会です。

 30年前頃には「草野球チーム」の仲間で構成されていました。 私の家が新築されたばかりの頃で、野球が終わった後で祝賀会とか言って、バーベキューをしていました。

 その後、私は香港へ赴任し、忘れていましたが野球や会は続けていたようです。
 今でも1年に一回ほど開催されているようです。 野球は出来る年齢ではなくなりました。

 散歩の折、その中のメンバーに昨年・秋にお会いして会が継続されていることを聞き、次回開催の時には声をかけてくださいと依頼していたところ今回となり、私は20年ぶりに参加しました。

 当日は高蔵寺北口の居酒屋でした。 家から通常の散歩がてら歩きましたがジャスト1時間でした。

 飲み放題だから頑張って飲んだわけではありませんが、飲み放題にしては高価な普段飲んでいるウイスキーがありましたので、喉が渇いていたこともあり「生ビール」のあと、ダブルのオンザロックで飲み始めました。

 途中から面倒になり隣の方の分と言うことにして2杯づつ注文、8杯までは記憶にありますが、その後は分りません。

 頭はハッキリしているのですが、トイレに行くとヘナヘナ・ドスンと転んでしまいました。
 何度立ち上がっても同じ状態です。

 タクシーを呼んで帰ろうとしましたら、隣の団地に住んでいる方の奥様がお迎えしてくれました。

 フトンまでたどり着けず、女房が引きずって体半分は何とかしたようです。後は寒かったのでしょう「モソモソ」と枕までは自分で芋虫のように這ってまでたどり着いたと、今朝教えられました。

 普段飲んでいるウイスキーだったためでしょうか、足が取られるほど飲んだのに、今朝は6時半までグッスリ眠り、しかも二日酔いの症状は全くなく、朝御飯も美味しく頂ました。

 途中から記憶が途絶え、しかも足が取られるほどの「楽しいお酒」は久しぶりでした。
  
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