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 COLUMN 1−D 
                                 平成20年1月31日  記

 本日は「コラム2−N                      ”新聞を読んで 眺めて 切り抜いて” 
       の NO290 に書きました。






 COLUMN 1−D 955
                                 平成20年1月30日  記

  中部大学・オープンカレッジの話の最後

    〜今のところは、こんな締めくくりを予定〜


 昨日は「自分史」の整理と入力に8時間を使いました。

 前回申し上げましたように、2月9日の「伊勢参り」までは、この熱は冷めそうにありません。 特に、誰にも今のところ迷惑がかかっていないようですので、ま〜いいか。

   中部大学 OP用 終わりに当たって

 『・さあ〜皆さん、私の思っていること、考えていることを率直に話したつもりです。
 ・本日、私は一方的にお話させていただきました。
 ・次回は何処かで皆さんの体験談や考え方や生き方を聞かせてください。

  どのような場所がよいのでしょうか

 @6月第3週ころならば、木曽川に注ぐ、百姓学校横を流れる小さな川・深沢川ではホタルが舞っています。
 6月ならスキマ風は通り抜けますが、百姓学校の宿舎に宿泊し、囲炉裏端の「ちゃぶ台バー」を楽しむことも出来ます。

 A中部大学のケヤキの緑が芽吹き、力強い緑の葉に変わるころ、その木蔭で車座になって一杯飲みませんか。

 B神領の居酒屋、高蔵寺の赤ちょうちん屋で盛り上がりましょうか。

 前期のことです、ある講義で教授が設問を出し、聴講生全員の意見や考え方を聞かれたことがありました。
 
 その答えの素晴らしさに驚くやら嬉しくなりました。 50年、60年と道を歩んでこられた方は、経験・体験に裏打ちされた信念を持っておられると深く認識させられました。

 教授の研究の成果の話もよいですが、同じ聴講生の方のお話をお聞きしなければと思いました。

 こんな仲間が・友が・直ぐ隣りに居るのですから、自己満足に浸っていてはダメだと反省し、御提案します。

 本日はつたない内容の、自慢話ばかりでお時間を無駄にしたことをお詫びして終わりとします。』

 



 COLUMN 1−D 954
                                 平成20年1月29日  記

 「自分史」の資料を整理し始めました

〜「私の生い立ちと父」の項で書いたこと思い出す〜

   ”軍歌「桜井の決別」” 楠木正成親子の別れ


 中部大学のオープンカレッジの話のことから、「自分史」の方に頭が切り替わっています。
 またまた、本日は午前2時半の目覚めました。 その脳裏に流れた旋律がありました。
 小学生の私に聞かせるように父が歌っていた「楠木正成」の歌・歌詞です。

 途切れ途切れの歌詞が、床の中で時間の経過と共に繋がって行きました。
 起床後、インターネットで調べると、正確に判明することが出来ました。

 「私の生い立ちと父」の中では、父のことを「戦前の右翼系」ではないかと書きました。  そして、戦後は同志の方の幾人かが「天皇陛下に申し訳ない」と言って、腹を切りお詫びをしましたが、3歳児を持つ父は同志の方々と行動を共にすることが出来なかったとも書きました。

 想像するに、そのことがあったために、父が口ずさんだ歌がこの歌であり、背景であったと、今ハッキリとこの歳になって理解できた積りです。

 この項を読まれている方にとっては、ほとんど知らない軍歌『桜井の決別』です。
 私も今回調べて、初めて正確な題名と歌詞に出会いました。

 参考のために、その歌詞を掲載しましょう。 なお、楠木 正成のことについては、インターネットで検索すれば簡単に到着します。

 

★ 桜井の決別(さくらいのけつべつ) 明治32年(1899)の曲です。
 別名は【青葉繁れる桜井の(あおばしげれるさくらいの)】
 楠正成公、父子に別れを歌ったものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1 青葉繁(あおばしげ)れる 桜井の 里のわたりの 夕まぐれ
  木(こ)の下かげに 駒(こま)とめて 世の行く末(すえ)を つくづくと 
  しのぶ鎧(よろい)の 袖(そで)の上(え)に 散るは涙(なみだ)か はた露(つゆ)か
 
 2 正成(まさしげ)涙を 打払い わが子正行(まさつら)呼び寄せて
  父は兵庫(ひょうご)に おもむかん かなたの浦にて 討死(うちじに)せん
  汝(いまし)はここまで 来つれども とくとく帰れ ふるさとへ

 3 父上いかに のたもうも 見捨てまつりて われひとり
  いかで帰らん 帰られん この正行(まさつら)は 年こそは
  いまだ若けれ もろともに 御供(おとも)仕(つか)えん 死出の旅

 4 汝(いまし)をここより 帰さんは わが私(わたくし)の ためならず
  おのれ討死(うちじに) なさんには 世は尊氏(たかうじ)の ままならん
  早く生い立ち 大君(おおきみ)に 仕えまつれよ 国のため

 5 このひとふりは 去(い)にし年 君の賜(たま)いし ものなるぞ
  この世の別れの かたみにと 汝(いまし)にこれを 贈りてん
  行けよ正行(まさつら) ふるさとへ 老いたる母の 待ちまさん

 6 共に見送り 見かえりて 別れを惜しむ おりからに
  またも降り来る 五月雨(さみだれ)の 空にきこゆる ほととぎす
  誰か哀れと 聞かざらん 哀れ血に泣く その声を

 〜この軍歌の背景・精神とは全く異なりますが、20世紀の「MORE&MOREの時代が終焉」した今、新たな時代21世紀の新たな考え方、生き方、価値観の試行錯誤が始まっています。

 崩壊してしまったといっていい、親子関係、地域のコミュニティー、国やそのリーダーへの信頼感など、ゼロから創出しなければならないところに立っていると思います。

 「自分史」で振り返ると同時に、反省と感謝を込めて新たな時代へ、何か一つでもお役に立つことをと思っています。



 COLUMN 1−D 953
                                 平成20年1月29日  記

中部大学 平成21年春期・オープンカレッジの
    「開校式」にお話する内容の1次草案できる

    
〜離職して11年間の歩みの中からA〜

   「夢と勇気とサム・マネー」・後半を掲載します


 昨日も書きましたが、思いつくままにアチコチに飛んで入力していますので、何がなにやら分からなくなりました。 

 本日で「昭和40年代・前半はどんな世の中だったでしょうか」から始まり、それを書いている間に、中部大学のオープンカレッジ・開校式でお話しすることが決まり、そこで、その二つが重なり合って、アチコチに飛び火しました。 とにも・かくにも本日で以って、最終日とさせていただきます。

 その前に、久しぶりに写真を掲載します。 前回(1月12日)、登場しました福寿草がパクリと口をあけました。 

                


                  
 
        一番大きく口を開けていました福寿草を「万華鏡仕立て」にしました。

    

 ↑その隣では、クリスマス・ローズの花芽が伸びてきました。 今年はピンク、白、青、紫、赤、その他忘れてしまいましたが、それ以上の球根を植え込んでありますので、これからが楽しみです。

 それにしても、3〜5月に花を咲かせるのに、なぜ「クリスマス・ローズ」と名づけられたのでしょうか。


  さて、さて、「夢と勇気とサムマネー」の「夢」と「勇気」を取り急ぎ、掲載します。

 ・次に「夢です」

 これまでに何度か(38歳頃から)、人生後半の生き方をぼんやり考えている時、浮かぶ映像があります。

 @小さなスナックのカウンター・バー 
 A静かな山間の農家の囲炉裏端のバー 
 B野外の広々とした青空の下に白い華奢な丸テーブルに置かれたお酒の数々=野外バーでしょう。

 @小さなカウンターバーは最初、名古屋の錦3丁目のビルの一角でしたが、その後は高蔵寺北口や神領駅の南口の赤提灯の店と変化してゆきました。

 A静かな山間の農家の囲炉裏端バーは百姓学校での9年間の姿がそのままの映像です。その一角だけは、スポットライトに照らされた、洒落た雰囲気でもありますが・・

 B野外の広々とした青空の下の白いテーブルのイメージは、時にネコの額の我が家の庭となることもあります。

 又、時には、広大な原野に聳え立つ高級レストランやゴージャスなホテルを間違って夢見ることはありますが、直ぐに消えてしまいます。

  ただ、どのようなSITUATION=位置、場所に居ても、私の発する言葉は同じなのです
「ま〜、いいから一杯飲め」なのです。
 相手は学生だったり、若い、あるいは中年のサラリーマンだったり、定年後の年金暮らしの方も居ますが、全て「ま〜、一杯飲め」です。
 
 その後に続くのは、恋に破れた話、仕事にあぶれた話、左遷にあった話、体が不調な話、何でもありです。

 そのようなカウンター・バーに立ち、そこで私はシエーカーを振り、オンザロックや水割りを作っています。
 
 簡単な「きゅうりもみ漬物」「ジャコおろし」「焼き茄子」「トマトスライス」「オニオンスライス」も出てきます。
 これが私の「夢」なのです。酒飲みの夢と言ってもよいでしょう。

・ 最後が「勇気」です

 ・このことについては自分に、何度か「覚悟と決心」と言い聞かせてきました。

 何度も、幾度も失敗してきました。懲りずに同じような過ちを繰り返しています。
時には再び立ち上がるのが恐ろしくなって、ひるんだ心情にもなったことは数度もあります。 
 どこの山の麓かも知らないところを一日中グルグルと車を走らせていたこともありました。

 そんな時必ず、「MORE & MOREの終焉」と教えただろうとの声が聞こえました。
 同時に「先輩、このままではダメです。次の新しい手立てを考えてください」の声も聞こえました。

 何度か繰り返しているうちに、最後は「覚悟と決心」の言葉に行き着きました。

 「覚悟」とは失敗あることを腹に収める。すると「決心」がつくということでした。


  近頃は「覚悟だ!決心だ!」と騒がなくなりました。

 年金にも健康にも自信がなくなったら、「アキラメル」ことでしょうか。それもよいでしょう。

 @自分に降りかかる一切のもの・ことは最善と思え。必要、必然のことである。境遇に不足を言わず、今を足場とする。

 A逆境にある時は、メグリのチャンス。拘(こだわ)るな、心配するな、前向きにプラス発想で進め。

 B行動せよ。よいと思ったら直ちに行動、悪い・間違ったと思ったら直ちに止める。

 C常に整理整頓をして、感謝と反省を忘れない。人の話を聞ける人間になる。

 D心静かに、穏やかに、楽しく、神に、太陽に、山川草木に手を合わせて暮らす。

     これが、現在の私の「夢と勇気とサムマネー」です。


 突然ですが、今朝のことです。 よし、「自分史」を書こうと決めました。

 これまで、このホームページに勝手気ままなことを書いてきました、知人・友人から「何時かは自分史を書くのだろう」と言われていましたが、全くその気はありませんでした。

 一度なんかは、「四国88箇所遍路の日記」を本にしないかとのお話も受けましたが、その気がなく、その後そのままです。

 それが、突然3年以内に「自分史」としてまとめてみようと今朝、思い至りました。

 何で3年かとお尋ねされることと思います。 それは、過去のことばかりを記録にするのは私の気持ちが許さないのです。

 この歴史的な大変革の時に、預りし魂の修行が、今、正に始まったと感じるからです。

 同時に、私が70歳になるまでの3年間で、此の後の世の中の方向性が見えてくるだろうと予感がしているからです。

 その3年間の私=修行僧の修行内容も記録したいと思っているからです。
 そこまでは精神的にも、肉体的にも現役で行ける自信があるからです。

 昨日、中部大学のオープンカレッジの開校式に予定している内容を話した場合の時間を計ってみました、なんと4時間分ありました。

 余程、迷い迷いの人生だったのでしょう、フラフラと時間だけが費やしたようです。

 では、本日で以って、「昭和40年代・前半はどんな世の中だった」から始まった、修行僧の振り返り日記をひとまず、打ち止めといたします。

 長い間のお付き合い、ありがとうございました。








 COLUMN 1−D 952
                                 平成20年1月28日  記

中部大学 平成21年春期・オープンカレッジの
    「開校式」にお話する内容の1次草案できる

    
〜離職して11年間の歩みの中からA〜

     「夢と勇気とサム・マネー」・前半


 「離職して11年の歩みの中からA」としましたが、Aとして掲載するものはありません。

 同時並行的に、アチコチと思いつくまま入力していますので、本人もどこがどうなっているのか分らなくなってきました。

 昨日、掲載した中で、「四国88箇所遍路」が長々と取り上げましたのは、私が書いた文章ではないので、自慢話の表現がないのではと考え重点的に取り上げました。

 その他の項目は出来る限りアッサリと何をしたかを書いたつもりです。
 それぞれの項目(=出来事)について、語れば1時間でもすまないことばかりです。

 思いつくままメモしていますので、また何時か掲載することもあろうかと思っています。

 
 今朝と言うよりは、午前2時半に目が覚めまして、かって取り組み始めた「自分史」の中の「青春時代・大学生活」の小項目が次々と浮かんできましてメモをとりました。

 それで眠れるのかなと思っていましたら、今度は「修行僧と言い始めた前後」の事柄の小項目が湧き出てきまして、メモを取るのに苦労しました。

 以上、この間の状況を書きました。


 さて、一気に最終版の「夢と勇気とサムマネー」と参ります。

   「夢と勇気とサム・マネー」

 このタイトルはチャップリンの名作「ライムライト」の中のセリフから出てきたものです。
「夢と希望とサムマネー」、「愛と勇気と少しのお金」、「勇気と夢と少しばかりのお金」といろいろに約されていますが、「夢と勇気とサムマネー」としました。

 さて、私にとっての「サムマネー」は如何程だったのでしょうか。

 まず、10代までは「1000万円」でした。1000万円あれば、働かずに食べていける金額でした。

 1000万円×年率6%=利息が年間60万円。 60万円÷12ヶ月=月5万円です。
 私が就職した昭和40年前後の大卒初任給は2万円前後でした。 昭和43年、結婚した当時は共稼ぎで手取り5万円です。これでお分かりいただけるでしょう。

 そこから高度成長です。 
 長男が生まれた昭和45年になると私ひとりの稼ぎが、月8万円になっております。
46年が9.2万年。 47年が13万円 。48年が17万円、12月にオイルショックがあり物価高騰で18万円と臨時昇給もあり、49年はなんと24万円となっています。 正に、高度成長でした。
 努力すれば豊かな生活が出来る、「夢も希望もそしてサムマネーも」獲得できると思っていました。

 そんな思いを持ち始めていた昭和51年に、難波田 春夫先生の著書「危機の哲学」と出会いました。そのときから「MORE&MOREの終焉」と言う警告が脳裏を離れなくなりました。

 毎年発刊される先生の警告書の内容は、「資本主義も社会主義(共産主義)も、資本家も経営者も、労働組合も、労働者も“物的豊かさを求めている”。 有限な資源を無尽蔵に使い、自然を再生不可能までに収奪し破壊する生産と消費活動の行き着く先は、「MORE&MOREの終焉」でしかないと・・・。

 昭和50年代、私は入社10年を経過しそれなりの地位についていました。また5〜7年後輩の、いわゆる団塊の世代が、もっと豊かに、もっと豊かにと正に「MORE&MORE」と地位とカネを求めて競争しています。

 それは社内の競争だけにと留まりません。 小売業界は特に拡大一辺倒の出店を繰り返し、売り上げと利益の競争です、このまま行くと誰が生き残るのだろうと疑問を持っていました。

 売り上げと利益を上げなければならない現実と脳裏から離れない「MORE&MOREの終焉、危機の哲学」との板ばさみに会いながらも、立ち止まったら負け、敗北との恐怖感に捕らわれての戦いはその後・昭和60代・前半(1985〜1989)も続きました。
 昭和と呼ばれた最後の4〜5年間は、バブルです。

 元号が平成と変わり(1989)今度はバブル後不況です。

 バブル期、香港で勤務していました私は、バブルの波に乗って、「今月は500万、いや1000万儲かった」と言って、豪華な食事に招待してくれる同僚や友人を羨ましく眺めると同時に、何処かおかしい、何か間違っていると感じずにはいられませんでした。


 平成元年(1989)年バブルは崩壊しました。

 その後、自民党の常道手段の公共投資をして景気をもちあげる。 財政悪化と財政規律と言って締める。 再び景気が悪化、そこで赤字国債の発行で見せかけの景気の下支え。 

 その繰り返しでは通用しなくなり、社会に閉塞感と不透明感、「不安と不信と不満」が満ち溢れたなかで、「自民党をぶっ潰す」と言って、小泉・竹中ラインが登場しました。 多くに国民が拍手を送り・期待しました。
 
 結果は誰もがご存知の有様です。 その間、私は「狼爺」と揶揄されました。 小泉政権を売国奴だといい、主体性・自主性のない属国精神の何者でもない、そのうちに「ドスン」と落ちる時が来ると言い続けたからです。

過ぎ去ったことをシタリ顔で言いたくありません。また、分析し、評価し、記録し、歴史に残さねばなりませんが、私は学者ではありませんので、そのことはその専門家に任すこととします。

 が、一人の庶民として、また修行僧と名乗る者としても、この事態にどのように捉え、どのようにサムマネーを考えて、対処しようとしているかをお話します。

 「年金暮らしです」 今、夫婦で年間300万円です。 

 これからの余命を考えた時、少しばかりの預貯金と合わせて何とかなるのでしょうか。 計算もしてみましたが、現状の世界の政治・経済・金融・社会情勢、そして日本の国家財政と社会福祉制度の可能性を考えて見ますと、金銭的には全く安心と言う答えは返ってきません。

 @まず、年金300万円事態が減額されることがありうる。
 A減額などすれば高齢者の暴動が起こる。 しかし、支える働き手は持ちこたえられないと言う。
 300万円という金額はそのままにして、インフレ経済となり、貨幣価値は三分の一か。
さすれば300万円は現在の貨幣価値で100万円。
 Bもっと怖いのが、ハイパーインフレです。 この状況に追い込まれたらもう数値計算は出来ません。

 では、株式投資、土地投資、商品相場を張って稼ぐほどの知恵も勇気もないし、第一元手がない。

 そこで、私の場合はここに行き着きました。「ロハス=LOHASな生活」=健康で持続可能な「少」エネルギー生活です。

 額に汗して百姓仕事から得られる食物も含めて計算しますと、月に現金が7〜8万円あれが、夫婦で暮らせる。
それですら、余命をどれ程と計算するかによりますが、年100万円×20年=2000万円です。
 さて、その金額はどこにあるか。 経済は、金融は、病気をした時はどうする・・・・

 最後の最後の結論は、サムマネーは計算不能となりました。サムマネーは行き詰まりました。
 そんな計算をするよりは、「健康第一」で、いかに「ピンピンコロリ」とお迎えに来ていただくかに関心が益々重心移動してゆきます。

 愛知県がんセンター病院長が書かれた「リビング・ウイルのすすめ」の中にあった、「終末治療の中止をもとめる意思表明書」をコピーして、毎年9月の「敬老の日」に、署名・捺印をしております。

 ここまできて、58歳でなくなった親父の年齢を超えて、「それでは皆さん、サヨウナラ」が益々効いてきたのです。
 言葉は決めました、一言追加です、『ありがとう、それでは皆さん、サヨウナラ』です。』

 本日はここまで。

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 COLUMN 1−D 951
                                  平成20年1月27日  記

中部大学 平成21年春期・オープンカレッジの
    「開校式」にお話する内容の1次草案できる

    
〜離職して11年間の歩みの中から@〜

 
  昨日掲載しました「離職してから11年間の歩み」の内容は、更に細部を書き込んだものがありますが、ここでは割愛します。

 ただ、多分中部大学でのお話の時に取り上げるだろう項目については、取り上げてみたいと思います。

 では、「終盤の”夢と勇気とサムマネー”の前に、掲載します。
 1月24日、掲載のものとダブルところがありますことを、ご了承ください。


    離職して11年間の歩み」 〜大喜の10年間の歩みから〜

 ・この11年間の修行内容〜時間経過と共に話します〜修行の一環として取り上げる
〜簡単な内容紹介で終わらすこと、自慢話になる
  
 (イ)春日井市、演劇ワークショップ参加、春日井市児童合唱団ミュージカル参加

   地域興し、地域を盛り上げる、地域の連帯と言うなら、まず自分が参加せよと・・
  ・春日井文化フォーラムにて 平成12(2000)年、「宮沢賢治の旅」 平成13(2001)年「春の情景」(オリジナル作品)
           平成14(2002)年「私の青空」   平成16(2006)年、春日井児童合唱団・ミュージカル「ガランピーの祭り」

 
(ロ)瑞浪百姓学校入学~今年で10年目
 

 平成12(2000)年5月〜今年も継続しています。10年目です。
 何を一番感じたか。学んだか。
 @種は自ら成長する力を内在している、人間はそのお手伝いをするだけである
 A何も見えない「微生物」の力を借りて、成長し、実を結んでいる。
 B理想は毎日3時間で十分、できれば1週間に1回は会いに行きたい。2週間が限界。
 C捨てるもの、不要なものは何もないことを教えてくれた「自然循環多毛農業」牛と鯉。
 D土は、自然は全てを受け入れて(腐らせて)、そして再び命を育む。(人間再生にうってつけ)
 E雨も良し、風も良し、日照りも直良し、霜降りも・雪も良し。全てがあって繋がっている。
 F「額に汗すれば心配なし、心は配れ」

 (ハ)新城・鳳来「森作り」に参加、平成13(2001)年、 
    ベトナム・カンザーの森植樹参加
、平成13(2001)年〜

 ・鳳来までは車で片道2時間、作業の後の楽しいお酒が飲めず、今は中断。
 ・鳳来は「棚田」の復活活動も続けられている。
 ・ベトナム・カンザーの森植林NGOは立ち上げの5年間参加、4年前より女房が若い娘さん達のお世話で、看護係として参加している。

 (ニ)「四国 88箇所遍路」 
 
 平成13(2001)年5月9日〜6月14日、翌年はキャンピングカーで10日間一周。
  百姓仲間の仲間に報告したら、こんな風に私の話を纏めてくらました。(百姓学校レポートから抜粋・参照)

 『大喜さんは、四国八十八箇所霊場巡り(遍路)、総延長約1250Km。 これを38日間、一日平均32・9Km、最大45Kmのペースで踏破した。
 ・
 「何故歩こうとしたのか? 歩いてどうであったか?

 彼はそれに答えて長年勤務していた流通業界のこと、その出来事、当時の人生観、そして病に得て辞職したこと、その際の思いがいかに痛切なものであったか。 その後の「波動」のこと、「藤原学校」のこと、「WE/100(ウイークエンド・百姓学校)」との出会い、地域文化活動との出会い、鳳来町の植林や黄柳野高校「オールナイトウォーク」への参加など・・。

 彼は言う。こんな話をしても誰も理解してくれるとは思えなかった。 しかし、今回、彼はそれを自ら語った。だが、それで皆が自ら「歩んできた道」を理解してもらえたとは考えていないだろう。 
 その通りだ。分りっこないのだ。が、分かろうとする人はいる。 そのことに意味があることに彼は気付いたのだ。 大喜氏は想う「そうだ、俺は言うべきなのだ」と。


 歩いてみてどうだったのか・・二つ目の疑問の答えは実にここにある。筆者の独断だけどね。
 さて、大喜氏は「歩き終わって、特段の感慨などなかった」とも言っている。 この「感慨」こそ、凄い、と筆者は思う

 彼は歩き通そうと心に決め、皆に言い、そしてその通りに歩き抜いた。
途中で実は様々なことがあり、挫けそうになったことも多々あったろう。
宿泊を申しでた宿屋の女将に「あんたはまだここに来るべきではない、もっと先に行け」といわれたそうな。
 
 その一言が勇気(意地?)となったか。ともわれ彼はやり抜いた。
「俺はやる、と決めて、やった。 だから当然のことだ」と大喜氏は言おうとしている。
歩き通したことに感慨はない。 何も来なかったし、何も変わらなかった・・・それでいいんじゃないか。「解脱」などしなかった大喜氏こそが、この場合最高なのだから。

・ 次に「行ったり、来たり」ということを大喜氏は言う。

 物事が直線的に推移することはない。 彼が歩き続けた過程においても、一日33Kmペースで順調に積み重ねられたわけではない。
 
 歩けなかったこともあるだろう、止めようと思ってまた歩いたこと、歩き続けるうちにガクッときたこと、諦めかかったこと、自分への止める言い訳を考えてみたり・・・・色々あったはずだ。 要するに迷い、迷い、行ったり、来たりの繰り返しである。

 しかも・・・ある時、思いがけない時(例えば自分としては順調にいっていると思っているとき)に、ドーンと、一気に谷底にお落ち込んでしまうことがある。と大喜氏は言う。
 この谷底、ドン底で、何を考えるか、だ、と。

 たいてい、ドン底に落ち込んだ時に人間でてくるのは、まずは絶望、そしてイヤ気、愚痴、不平、不満、他人への責任転嫁や犯人探し、攻撃、シット。  まぁ、何でもありだが、一つだけ確かなことは「自分に責任あり」とは決して考えない、ということである。

 落ち込んだのは自分の行動によることは自明だ。 だったら自分の肉体(手と足)によってそこから這い出すしかない。

 「這い出す」というのは不適切。 これは一気にジャンプして、以前いた地点よりはるかに上に飛び出す、ということだ。(次元、時空を変える)
 そのためには、全ての結果を「自分にしたことの帰結」として見よと、と大喜氏は言う。こいつは一体なんだ。

 バブルの崩壊などは分りやすい例かもしれない。

 バブルの時代、日本は資本主義の究極とも言うべき繁栄に浮き立った。 日本人のほぼすべてが、それにシンクロし、自からに浮き立った。
そして、その崩壊とドン底への転落。誰がそのことを「自分の責任」だと思うだろう。

 金融経済政策のせい、銀行のせい、不良債権のせい、国債乱発のせい、そして景気回復を、規制緩和を、グローバル化を、構造改革を、・・・という。
 
 これで一体何が解決すだろう?
誰にもドン底はやってくる。 そこから自力で飛び上がれ、と大喜氏は言う。
 そうすれば、ドン底は、またとない節目になるのだ、と』


〜余談〜というか、今日に当てはめることが同じように出来ます。
今回は20年前の「日本のバブル崩壊」とは、規模も、内容も全く異なります。世界レベルです。世界秩序の崩壊です。新たな世界の枠組みの創設が待たれています。 オバマ新政権が世界の注目を集めています。

 昨年の9~11月ころの、世界の人々がオロオロ、ウロウロした状況から少しは落ち着いたかとは感じられますが、事態の根本的・本質的な認識と理解がされていない方々がいます。 しかも、自己保身と今にも無くなろうとしえいる既得権益にしがみ付こうとしているこれまでの指導者の姿勢と行動には、怒りを覚えるよりは、あきれてしまいます。

 まずは、最初に歴史的大転換のこの時代認識をすることです。 この先の道筋は当分(1~2年)見えてこないでしょう。
オバマ大統領も試行錯誤の連続でしょう。 上手くいかないといって彼を責めても仕方ありません。人頼りはダメなのです。

 このようになったのは、自からこれまでの考え方、生き方の結果もたらされたものと、「自己選択の責任と認識」をすべきです。
そうしなければ、愚痴や言い訳ばかりでなんら前に進みません。 「自分の蒔いた種の結果」と腹に収めることによって、次に進めます。

 既に、試行錯誤から明るく暖かな日差しの中で悠々と歩まれている方を散見します。
その方々の共通項は、10年前、前後に、「会社の倒産」、「会社でリストラ、失業」、「就職できずフリーターであった」、「全く新しい事業を始めた」
という、ゼロベース、あるいはマイナス・ベースから試行錯誤の中から立ち上がってこられた方々です。

 彼らこそモデルです。 新しい道筋のモデルです。 泣き言など言っている暇がなかったのです。

今、私達は皆、公平に、そして平等に『新たな時代へ向けてのステージのスタート地点』に立っているのではないかと思うのです。



 (ホ)キャンピングカーで日本一周 

 平成14年5月13日〜平成16年4月18日まで、5回述べ80日間
  ・キャンピング・カーの購入は平成14(2002)年の4月。 
   前年の38日間、四国八十八箇所遍路と小豆島を10日間で一周。
  その年の、7月2日〜15日の14日間、道南から道東を廻る
  平成15(2003)年、4月1日〜23日、23日間で九州一周。九州の水百選を全て周る。
  同じ年に      7月1日〜18日、18日間で前年回りきれなかった、道北と礼文島と東北を南下
    
  平成16(2004)年 4月3日〜18日、15日間で山陰から、それまで行っていない山陽   路を回る
   
  女房への約束を果たす。 これも修行の一環と決めていたから出来た(寝泊りは全て  車の中)

 2畳一間で2週間も一緒に生活をするということは、修行以外の何もでもない。
 しかも、事前計画、その日その日の宿=道の駅、お風呂か温泉(かんぽの湯、地元の温泉、大衆風呂)、夕食場所を探すことは私。 その後に、旅日記を車内で書く。


 (ヘ)ピースボート・101日で間世界一周に船旅

  正直何を選んでお話すればよいか、困っています。 タイトルだけでも拾ってみます。
  また、私のことを自分で言うのもなんですが、この旅の参加している方々の内容と、目 的は色々でしたが、私はかなり勉強した組に入ると思います。

 参加者は述べ1200人、中途で下船する方、逆に乗船してくる方がいます。
男性は60%、女性は40%。 10代〜30代までの若者が50%、後は60歳前後50%。
 
 1)「必読図書」を読み、感想や意見を書きなさい。
 2)韓国の学生と何を学びたいか、あなたの考え方を書きなさい。
 3)地球大学、「ユーゴスラビア」のプログラムの中で、一番力を入れたいことは・・。
 4)まとめ「101日の船旅を終えるに当たって」 2007年5月28日 記
  A)人間は大きな責任を持つ、ちっぽけな存在。地球環境、地球温暖化について
  B)掌中にある「輝ける宝石」=日本国憲法を知らなかった
   〜挿入〜「平和と発展は9条のおかげ」 中日新聞 6月17日 朝刊
  C)世界は多様性と多分か社会に向かっている。 様々な人々・文化を認め合う。
  D)食の安全(遺伝子組み換え)と貧困問題(世界的な格差問題)
  E「貴女が隣人をころすとき!!」 旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツゴビナ、サラエボ、モスタル)に学ぶ。戦争のつくられ方
  F)ボスニアで何を学んできたか? (参加者の報告を加藤がまとめた)

 5)ピースボート船旅で感じたこと、聞いたこと、考えたこと、学んだこと。
  A)食べる・飲む    B)住むこと    C)着ること   D)健康管理  E)つき合い・企画参加
F)クルーたちとの関係 G)遊ぶ、ツアー  H)学ぶ
  
 (ト)中部大学、オープン・カレッジの聴講生に 平成16年4月〜
   ・世界の歴史、社会思想史から学んだこと

  
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