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 COLUMN 1−D 980
                                   平成21年2月25日 記

 小学校時代の「雑記ノート」の内容に反応あります

 小学校4年生、私の筆による「俳句」を掲載します


 ついつい、少ない読者からの反応がありましから、次々掲載しています。。
 私も全く忘れていたと同時に記憶にもないことでしたので、活字化しました。

 表現やおくりがな、「て・に・を・は」に不自然なものもありますが、そのまま掲載します。
 途中で切れ切れの文章もありますが、同じことです。

 途中で、初恋の人(?)”慶子さん”が作られたと思う、俳句も登場します。
 そのページには、他の友達の俳句もありますので、自宅で作ったのでしょうか。

 なを、慶子さんのことは、1年前ほどにここに書きましたので、割愛します。
 平成15(2003)年、51年ぶりにお会いしました。 やっぱりきれいな方でした。

 

「自分史」 小学校4年生〜

 ・昭和26410日  大喜の歌える (父の筆で)

 山はしづかだ 山の中 学校ゆきの うぐいすの声

父がこれをなをす

 豊根村 山はしづかだ 山の中  学校ゆく道  うぐいすの声

・昭和261012日  (父の筆にて)

    父の歌

    山峡(やまかひ 木草のいぶき 朝ごとに 霧たちのぼり 雲となりゆく
     今朝もまた 霧たちこめて 晴れてゆく 秋の日和の 我が(やまかひ

 大喜のために 
     けさもまた きりが一パイ 山の村  秋の天気に 晴ればれてゆく

     父が新野峠にて

 三信の 山にまたがり 益良夫(ますらを)の 地球(くに)のはじめ (と)かりける

 ・昭和261028日   (父の筆にて)

    大喜の俳句
    座布団の 上にとまった 蠅一匹

     父が作りかえて
    こたつして  畳にねそぶ 大喜坊

      大喜のうた
      うたつくり  うまいとほめられ キャラメル二
      父はまた   こたつにあたり  何か書く

 (大喜の筆=えんぴつ にて)
     はつゆきや  こどもよろこぶ ゆきのなか
     はつゆきや 学校ゆくみち  ゆきがふる

・昭和2719日 (大喜の筆=エンピツにて)

    かれえだに ゆきがつもるよ つめたそう

    ささのはに  雪がつもるや  きれいだな   「久」とある、久君の作か

    いきをはき  子供ながめる 雪の 山     「久」とある、久君の作か

    初雪や    雪がつもよ  つめたそう   「大喜」とある。大喜の作か

    雪ふりや   やねの上のが とけてゆく    「孝」とある、孝君の作か

   ゆきふりに  はじめてつくる 雪俳句「けいこ」とある、けいこさんの作か

  かれえだに のったわた雪  まいおちる「けいこ」とある、けいこさんの作か

  はつゆきや  まどからのぞく 子どもたち「たくや」とある、卓也君の作か。(現豊根村村長)

     きょうもまた みんな元気に 学校に   

    きょうもまた おきるにつらい 大喜坊

・昭和27310日  (大喜の筆=えんぴつ にて)

    おふとんの中にはいり しをつくる 大喜かな。

    きょうのかぜ ぼくらをのせて とんでゆく 

    きょうのかぜ き をなぜながら とんでゆ

    こどもたち はいくつくるよ そとにでり

    ・かえるが いけの中に はいっていて はすのはのうえに とまった。
       いけの中に かえるが あたまを あげて はなを みつけて

      べんきょうしていると こおろぎの こえがきこえてきて なんとなく 
        こおろぎの なくほうにきを とられているとこを つくったはいく  

      勉強して しっと こうろぎ きいてい

 ・ここから、小学校5年生となる。

・昭和27424日  木曜日  (大喜の筆=えんぴつ にて)

    @おつきさま ぼくにしずかに ねなさいと やさしくいって くださった
       ぼくは ありがとうといって ねていった。

Aきょうもまた みんなげんきに がっこうに

Bゆうごはん みんなにこにこ たべている

Cおとうさん つくえのうえで なにかかく

Dひがくれた おつきさま にこにこ かおだして

Eゆうがたに かぜが そよそよ ふいている

Fしずかだ やまの中 学校ゆきの うぐいすのこえ

Gゆうやけに 空がいちめん 赤なあ

・昭和27425日 金曜日   (大喜の筆=ペン字にて)

    @つばめさん 春になったと とんでくる

    A  し  あめふり

    ぼくは 学校からかえって きたが ぼくは おともだちと あそべない

    たいくつで ねころんでおると こんな雨ふり とゆう し ができた。

    B雨ふりだ むこうのやまが みえないよ

    Cゆうがたに 雨が しわしわ ふっている

    Dべんきょうに ねっしんにすると ほめられる

 ・昭和27426日  土曜日  (大喜の筆=エンピツとペンにて)

    @きょうもまた みんなにこにこ 学校に

    A朝がきた おひさまにっこり かおだした。

    B青空に たかがいっぴき とんでいる

    Cゆうがたに しずかなかぜが ふいている

    D家の中 いろんなものが おいてある

    E夜が来 しんとおとなく さみしそう

 ・昭和27427日  日曜日  (大喜の筆=えんぴつ にて)

    @おひさまが きらきらきらと のぼりゆく

    Aはうもにか ふけばふくほど おとがでる

    Bどてみちに いろんなくさが さいている

    Cはなばたに たねをまくなり 花がさく
    Dおひさまが きらきらきらと ひかっている。

    Eおほしさま ぴんぴかぴんと よるをこす

 ・昭和2752日  金曜日   (大喜のエンピツ字)

    @あさごはん   「し」

 ぼくがねていると きょうは 学校だから おきなさいと おかあさんがよんだ。

   おひさまが 山の上から かおだした

    Aがっこうの 山の上から とりがなく

    Bおほしさま ぴかぴかぴかと ひかっている

    Cゆうがたに ぼうるのおとが きこえてる

    D山の中 とりのなくのが きこえてる

    E川ばたに とりのなくのが きこえてる

    Fまつのきに とりが春だと ないている

G山のうえ からすがいっぴき とまっている

Hでんせんに つばめが いっぴき

Iいえの中 でんきがついて あかるいな

Jわらびおり 山の上まで とりにゆく

    K大喜坊 はいくにねっしん えらそうだ

Lどてみちに きれいなはなが さいている

 

Mひがくれた 子どもが一人 あそんでる

Nおとうさん めがねをかけて なにかかく

    O春がきた きれいな花を とりにゆく

Pいもうとと きれいなはなを とりにゆく

   

Qとけいくん よるひるねずに ありがとう

Rおほしさま ぼくがねるころ ひかっている

  

S学校の かえりみちには 一年と 

52日はノートを4ページ分使用して、そのノートが終了している。
 この日は父親が在宅していたのだろう、書き終えて誉めてもらいたかったのではない だろうか。

 同時に、新しいノートが昭和27年5月2日金曜日付けで、新調されている。

また、表紙には「詩、はいく帳」 五年生と書かれている。





 COLUMN 1−D 979
                                   平成21年2月25日 記

 小学校時代の「雑記ノート」の内容に反応あります

 小学校2〜3年生、私の筆によるものを掲載します


 昭和24年5月15日と日付けが書かれています。 小学2年生の初夏です。

 
22、昭和24515日  「わたしのおかあさん」 (大喜に筆にて、万年筆)
 
 わたしには おかあさんが 二人あります。 なくなった おかあさんと いまのおかあさんです。

なくなった おかあさんは 生みのおかあさんといいます。

いまのおかあさんは そだてのおかあさんと いいます。
 
 生みのおかあさんは、わたくしがいくつのときに なくなったのか わたくしはしりません。

わかったのは 六つの年の一月でした。

みたまさまに ときどき 花をあげて おがんで おります。

いまのおかあさんからは 学校からかえってくると なにかを もらって たべております。おわり。

23、日付けなし   「おとうさん」  (大喜の筆にて 万年筆)
 ぼくのおとうさんは やくざいしです。 せんそうまえには とよはしに おりました。
 
 せんそうに まけてからは このとよねむらに きました。 
 それからは 山や川や くさや木がすきになって まい日 いろいろと なにかを かいたりしております。

らくえんは ちかしといって おります おわり。

24、  「山」    昭和24521日  (大喜の筆にて

わたくしのいえのまえは山です。 まえもうしろも みぎも ひだりも 山ばかりです。山にとりかこまれています。

 いまは春になったので 山の木はみんなみどりのはが でてうつくしく、いきいきとしてきました。

 そのみどりの中に 山ぶきの きないはながさき あかいつつじの花がさき、むらさきいろのふじのはながさき、うぐいすがないております。

わたしたちは まい日 このけしきを ながめながら くろがわ学校に かよっています。

24−2   「川」 (大喜の筆にて)

ぼくのいえのまえには 川がながれています。  この川に おともだちと、とびこんで、水およぎをしました。

まだつめたいから はいってはいけないと ちゅういをうけました。

 川はまい日、すこしも やすむことなく ながれています。

川の水は ざわざわと おとをたてながら 右にまがったり、左にまわったり、いわにぶつかったり 山にぶつかったり、

たかいところから とびおりたりして、どんどんとながれていきました。

うらがわ(注 浦川)というところで、てんりゅう川と いっしょになります。

どんどんながれて たいへいようにながれこみます。 そこは大きなうみです。あめりか までつづいています。

ぼくのまえに ながれている川は つぐ川とさかんば川とが あつまって ながれてゆきます。

いちどこの川の みなもとの山を みにゆきたいとおもいます。 おわり。

25、 「まゆ」  昭和24814日  (大喜の筆にて)

道に「おかいこ」が四ひき すててあったから ぼくはひろってきて、おとうさんにみせた。

「これを かいなさい」といって ノーシンのあきばこに いれてくれた。

それからぼくは まい日 まえのくはばたから くわのはを 二三まいづつ とってきては、はこの中へ いれてやった。

おかいこは うまそうに くわのはを むしむしとたべて だんだん大きくなって ぼくのこゆびよりも 大きくなって

白いまゆを 三つ つくりました。   あとの一ぴきは まだくわを たべています。

  
 〜この次からは昭和25年となっていますので、小学3年生です。〜

26、 昭和251227日 「雪の朝」 三年生 加藤大喜 と初めて自分の名を漢字で書いてある。
 きょうは朝から雪がふっています。 山のきのえだに たくさんの雪が つもってクリスマスツリーのようです。

  あさ お母さんが 雪がふっているよと いったので、とびおきて まどからのぞいてみたら たいへんな雪で みちはもうみえませんでした。

 ぼくはごはんをたべると すぐにそとにでて お友だちと あそびました。
 ゆきそりをひいている お友だちもいるし、雪の上をすべっている お友だちもおりました。

さむくなったので いえにかえり おこたつにあたりながら、まどごしに、どんどんふっている 雪げしきを ながめながら、

お正月がくるのを たのしんでいます。

27−2  「椎茸山行」と父の筆にて  内容は大喜の筆にて

21日から学き休みになったので、父がしいたけ山を 見につれていってくれました。

なかがわ(注 地名)の うらみちを とうって いくと、すいどうの たにみずが ちょろちょろと ながれていました。

わたしのいえのみずも このみずを わけてもらっています。
 そのきわにある、おおきなうめの木は、まっしろに さきそろっていました。
 みかみちを いかずに 本みちをいきました。

 いっぽんの木を ちちはゆびさして 「あれは“キハダ“の木だ。 ちょっとかわを むいてごらん」と いいましたから すこしむいてみると

まっきなかわで にがみがありました。 これがいろいろな くすりになるのだよと おしえてくれました。

それから 本みちを 左にそれて いままでとおおったことのない むかしの山みちを のぼっていきました。

 とうげに 「かぐ土のかみ」(注 釜戸の神?)をまつる やしろがありました。

それから山みちを くだってこだ(注、小田という地名)にでました。

こだがわは さらさらと おとをたてて 春がくるよと うたったかのように、 ながれておりました。

ももの木の つぼみも おおきくなって おりました。

しんせきの あさくさのいえに たちより おちゃを いただいて それから また 右のみちにでて どんどんと山みちを あがっていきました。

わたくしは あしが つかれてしまいました。 まだ しいたけ山には とおいのかと 父にききますと

ひゃくりのみちを ゆかんとするものは きゅうじゅうきゅうり をもって なかばとすべしという おしえがあるが 

いまから そんなことでは ならないと いいました。

だから ちょこちょこと つかれないように きょうつけなさい といわれました。

父が昨年の四月ごろ このへんを とおったときには うぐいすが たにいちめんに すぎばやし の中でないていたとのことです。

それからは山みちを のぼったり おりたり また たにがわを わたったり いっけんや にでたりして ようよう しいたけ山につきました。

その山にいくには 川をわたらなければ みにいけませんので わたしは づぼんをぬいで ぞうりをぬぎ はだしになって

さきにたっていた 父の手をとってもらって おおきな いしのうえを とんできしに つきました。

そこでかぜが強いので すぎば(注 杉の葉)をすこし たいて つめたくなった てやあしを あたためてから べんとうを たべました。

しいたけの木を みてまわりましたが、まだことしは はえておりませんでした。 それから・・・・・(ノートが失われている)


 突然ここまでで、雑記ノートは終わっています。 その後は、新しいノートに変更されています。

 その後は、昭和26410日 から始まる 小学校四年生 加藤 大喜とあります。 



 COLUMN 1−D 978
                                   平成21年2月24日 記

 小学校時代の「雑記ノート」の内容に反応あります

〜小学校1年生、父の筆によるものを掲載します〜


 NO975に掲載したものは、「父の筆」によるものでした。 よって、私が父が子供への思いを綴ったものだろうと推測しました。

 昭和23年、小学1年生の頃、父が書きとめたモノを続けます。

12、昭和231121日  「かぜひき」 (父の筆にて)

ぼくは よくかぜをひく。 また かぜをひいた。 ゆうべ ようたしに おきたとき あたまが いたいので

ふとんの なかで しくしく ないて しまった。

ぽとうさんが しんぱいしておきた。 おかあさんもおきて 二人で くすり のまして くださったり、しっぷうや ちゅうしゃや みずまくらや たいおんけいで はかったりして くださった。

今日は 一日 やすんで いて いろいろ くすりを いただいたり てあてをして いただいたので ゆうがたには だいぶん らくに なった。

ここでゆだんをしては いかないと ちゅういを うけている。

ひふが よわいから よく かぜを ひくと ゆうことだ。
  これから かぜを ひかぬように きをつけよう。


15、昭和231215日  「冬」  (父の筆にて)

きれいなもみじが ちってしまってから もう 一月になった。 今は さむい冬となった。

まいあさ おきると どこのいえや やねも 山も まっ白な しもである。

学校でも きょうしつに 火をいれてくださった。 お正月も ちかづいてきた。

ぼくは おもちを たべて 八つになって 花をおどり まいましょう。

(注釈、「花をおどり まいましょう」と言うのは、「花祭り」のことで、子供の「花の舞い」のことです。)

18、 日付なし   「先生」  (大喜の筆にて、万年筆で書いてある)

ぼくも 七つになって さくらの花の さいたころ くろ川学校に 入学しました。

うけもちの せんせいは わたづ先生 です。 

春がすんで なつに なって 一学き がすみました。
  あきになって 二学きが はじまりました。

二学きもすんで お正月に なりました。

ぼくは八つになり三学きが はじまりました。 
 まいにち まいにち べんとうをもって 学校に お友だちと かよい まい日 まい日 先生から

いろいろと おしえてもらいます。 さんすうも こくごも しょうかも たくさん おぼえました。

わたづ先生 ありがとうます。

19、日付なし   「ぼく」  (大喜に筆にて 、万年筆)

ぼくのなまえは かとう たいき。 としは八つ。 (注 数え年)
  くろ川学校1年生。 うちは くすりやです。 

べんきょうもするが あそぶほうが おもしろい。

おとうさんや おかあさんや おねいさんが いくらでも おしえてくれる のだから もっとせねばならんと いはれている。

げんきで おしゃべりで ちょうしもの だといわれる。

ぼくのなは かんじで おおよろこび とかくのだから そのつもりで はりきって べんきょうを することにしよう。

20、日付けなし   「一月」 (大喜の筆にて 万年筆)

しょうは二十四年 一月 一日 うちじゅうで おぞうにを いただいて 

学校にゆき 校長先生のはなしをききました。

一月七日には 花まつり があった。 ぼんやりとしているうちに 一月もすんで
  
きょうは二月一日となった。

21、昭和24313日  「大地の恵」 (父の筆にて)

私が六歳の、年の暮れのことです。 それは昭和22年12月です。

ゆうごはんの時、父は いつものように ごはんを たべながら いろいろと ごじまんの 話しをしていました。
 
 私はその時ふと 父に 「大地の恵か」と、なにげなく 言いました。
 すると、「おや 大喜はすばらしいことをいったな。これは大へんなことだ。 わすれてはいかんぞ。

このことさえ わかればえらいもんだ、わすれぬ中に ちょうめんに かいておいてあげよう」といって、あたらし ちょうめんに すみで 大きく かいてくれました。

そのうち 1年生になったときには ランドセル にまで 大地の恵とかいてくれました。
 ちちが、かくまでほめてくれ ちゅういしてくれる このことばは いったいどういう ことばでしょうか。

八才のわたしには、まだよく わかりませんが すこしく かんがえて見ましょう。

人は土の上にいきています。 土の上にすんでいます。
 その土から わたしたちの たべるもの こめも むぎも 豆も やさいも みなできるのです。

すまいの家を作る木も からだに きる着ものも みなつちから 生えてきます。

つちこそ 大地こそ あたしたちの 命の母で あります。

わたくしたちは 私達の すまっている 大地をわすれず よく見ねばなりません。

大地の恵に おれいをわすれては なりません。

 
 この年を境に、それ以降の筆は私の字となっています。 父が側についていて書かせたものと思われるものがありますが、私が一人でエンピツをとって書いたものがほとんどに成りました。

 小学2年生となった、昭和24年・春以降のものは次回に掲載します。


 COLUMN 1−D 977
                                   平成21年2月23日 記

 まずは、遠山郷より帰ってきました報告

 〜今回も、すこぶるハッピーな気分でご帰還です〜


 1、遠山郷の道の駅「かつらの湯」の状況から

 なんと言ってもお客様が激減です。 浜松や愛知(豊田方面)からのお客様が多かったのですが、年明けと同時にバッタリとのこと。

 自慢の露天風呂も土曜日だというのに、午後の5時にはシャットアウトです。
 食堂も全くお客さんがいないのです。 

 新聞やテレビでは視聴していましたが、現場を踏むと想像以上です。

 2、藤原事務所の越冬管理人さん=占い槇ちゃんのこと

 遠山郷・藤原学校・校長の高橋さんはかなりパソコンに詳しいとは知っていましたが、新たに加わった越冬管理人=槇ちゃんもなんとなくできるのではないかと、彼のブログから感じていました。

 時間があったら指導していただこうと、新たに購入した携帯用のパソコンを持参しました。
 予感がピッタリ当たりました、槇ちゃんは自信満々に「教えましょう」と答えてくれました。

 一応、ホームページビルダーの操作、作成したページをUSBメモリーに転記し、それをこれまで使用してきているベースパソコンに上書きするという想定のもと指導を受けました。

 細部にわたり、ワン動作ごとの手順を書き取ってきました。
 
 帰宅して、実行しようと思いましたら、持参したパソコンを忘れてきてしまいました。
 またまた、高橋さんに面倒な宅急便の仕事を依頼してしまいました。

 3、「遠山郷のこれからを語る会」に参加しました

 只今、このことを記録したメモ用紙が置き忘れ状況です。
 また、出てきましたら書きます。

 4、もちろん、夜の一席はありました。
  
 それよりは、2月22日の午後に帰ろうと思っていましたところ、地元のイサムさんといわれるお酒好きで、勧め上手な方が昼食時にあわられて、ついついその口上に乗ってしまいました。

 帰宅時間は遅れるやら、酒を冷やす為に車で1時間の睡眠と成りました。

 5、藤原先生との会話も弾みました

 近いうちに、日本の神話時代からのことを体系的にお話いただく要望をしてきました。
 今という時代はどのような時代なのかを知るためには、そこまで遡らなければならないと分らないいうことです。 それほどの変革期、転換期ということです。 

 6、地元の飯田市遠山郷商工会の青年部長の方と夜の一席の時、川遊びの話から「ラフティング?=川下り」の講習会のことに成りました。

 今年の夏は天竜川を下ることになるのでしょうか。



 COLUMN 1−D 976
                                   平成21年2月20日 記

  「”芋天屋 源” IN 高山」のアイディア浮かぶ


 兎に角、いろんなことが脳裏を横切り、飛び交う。

 これから展開される時代の変化は、30代半ばの息子達が失業するだろう可能性を思う。
 親としてというよりは先輩としてそのときに、具体的に何か提案できないかと考えていた。
 そこに飛び出てきたのが「芋天屋 源」のアイディアです。

 息子にそアイディアをメールで送った。 返事は「あの芋天麩羅を残さないことはない」の一行であった。 送った内容を添付する。

 

“芋天屋・源左エ門”IN 高山     平成21219日 記

 ・アイディアである。
 ・高山市 00町 1−1 の土地活用法です。
 (この土地に拘ることはない。高山市内には空き家がある)

 ・高山市 漆垣内 の0男 0女 の第0子に生まれた、源左エ門は00から奉公に出て、00年頃魚屋の店を持った。

 そして、妻・00と結婚した。(この間の、先祖の経歴は調査中である)

 ・魚屋であったと同時に、天麩羅もあげて販売していた。

 ・大喜が0子と結婚することなり、昭和43年に大喜は高山を訪問した。

 ・その時、食べた“芋天麩羅”が美味しかった。

 ・源左エ門はその時まで、30年近く?(戦前からか、0子は知らないと言った。)
 毎日芋の天麩羅をあげていたと思われる。毎日、サツマイモを切って揚げていた。

 ・その後のことであるが、源左エ門は毎日の天麩羅上げで、嗅覚はかなり失われてい たことが分った。

・源左エ門のあとを継ぐ、「0×」は現在、70歳と思われる。その息子「××」は岐阜県の000の00屋に勤めているが、高山の家の家業は継がないだろうと予測する。

・0×夫妻の今後のことも兼ねて、大喜のアイディアである。 “芋天や 源左エ門”である。

 ・「芋天」を売り物にして、他のてんぷらも揚げる。 可能な範囲で高山の山野草の自然産物を取り扱う。(源左エ門は山野草採集の名人でもあった)

・お持ち帰りとその場で気楽に食べられるカウンターと夜には一杯飲める店とする。

 ・このアイディアはもともと、大喜が夢としている「ま〜、一杯飲めや!」がベースとなっている。

  明日21日から「遠山郷」です。 数日お休みです。



 COLUMN 1−D 975
                                   平成21年2月19日 記

  昭和23年「雑記ノート」作成時のこと

   〜当時の父の心情を思いやって〜


 友人よりメールあり「大喜の文章より、父親の文章の方が分りやすい。 また、同時代のことを思い出して懐かしい、もっと紹介して欲しい」とありました。

 そこで、幾つかを拾い出してみました。
 

2、昭和231015日   「うんどうかい」   (父の筆にて)

 15日にうんどうかいがありました。おてんきで、みんながよろこびました。 おとうさんは、はじめからおはりまで、

 みておりました。 おひるには、いっしょにべんとうをたべました。 ほうびに、えんぴつを 三ぼんもらいました。

 ゆたかねいさんは、とんがりぼうしの、ゆうぎをやりました。 

 これから、だんだん てがみがくわしくなります。

 注釈 妹・みつ子への手紙形式で書かれている。

4、昭和231024日   「おへや」  (大喜の筆にて)

 けさおきたとき おとうさまが 「けさあなたはその目でなにをみましたか」と きかれましたから、

おへやのなかの もののなまえを つぎつぎといいました。 おへやのなかには たくさんのものがあります。

 そのなかで おもしろいのは、「らくえんはちかし」と「じんしゃ てきなし」のかけじくです。

 「たいせつなものは かみだなです」とおっしゃいました。

 5、昭和231025日 「みみ(耳)」 (父の筆にて)

 わたくしに、みみが、ふたつ あります。 うさぎのように ながくは ありません。 
 このみみで いろいろの ことをききます。 とりの なくこえも 川のながれのおとも 

 せんせいや おとうさんたちの ゆうことも みな この 二つの 耳でききます。

6、昭和281026日 「もみじ」  (父に筆にて)

 はる いろいろの はなが さいて、なつ あをばになって、 いまわ あきのもみじになって きました。

 やまやまの木が まっかなもみじになり さむい かぜに ちらり ちらりと ちって、

 雪のふる 冬となります。

10、昭和231111日 「つりばし」  (父の筆にて)

 おとうさんに じてんしゃに のせていただいて 川しもの つりばしを見にゆきました。

 ふかい 川の上に さびたはりがねで いたを ならべて つってありました。

 「この はしを わたり うるか」とおとうさんが いわれたので ぼくは どんどん わたりました。

 つりばしは ゆらゆらと ゆれましたが はしって もどって きました。

おとうさんは しんぱいして 「はしっては いかない」といいましたが ぼくは へいきでした。

川ぎしに さいていた 赤い まんじゅしゃげの はなを とってきて 

はしの上から 川みづの うえに 投げてやりました。

はなは ずんずん ながれてゆきました。 どこまで ながれて いったでしょう。

11、昭和231119日  「あめ」  (父の筆にて)

 きょうは あさから あめが ふりました。 学校にゆくときに かさを さしてゆきました。

 かえりも雨です。 そとで あそぶことが できないから おうちで まさみさんと えをかいて あそびました。

たいくつ していた ちちと すもう をとり ぼくが かちました。

 ははわ くすりを はかって おります。

 あねは みしんを かけています。 

もみじの山に 雨は ふりつづけています。

            

 ここまで読みなおして、父親がどのような気持ちで息子の雑記ノートを作成し、そのノートにまず父自身が書き始めたのか、父の心情を推測してみました。

 昭和23年、戦後の暗澹たる混乱期の中、食料もなく満5歳で母をなくした幼児を手元に置き、その妹は母の里に養女にやった。

 隣村は信州、その山奥・豊根村で細々と薬局を営み、日本復興を願って「楽園は近し」と口にしている48歳の男の心情は、今の私にも「こうだろう、こうだったろう」と納得できる答えを得ることは出来ない。

 
 ただ多分、父の作成したこのノートは、幼子に対する切ない胸の詩であり、強く逞しく育てとの願いであり、期待をもって書き綴ったのだろう。 いつかはこの子に届くと・・・

 その延長線上に日本復興の姿があり、戦場に散っていった知人、友人、はたまた敗戦と同時に腹掻ききって天皇にわびて自死を選んだ同志にたいする想いの詰まった雑記ノートでもあったのではないかと想像するのであるが、果たして、どれ程言い当てているか?

 今、平成21年、このペンを手にしているのは、そのときから既に60年の年月が経過している。 が、私には何処かで、時間を超越してダブッタ映像があります。

 現況、経済・金融を語るとき枕言葉のように「百年に一度」といわれる。
 昭和20年代前半と今、その状況は物質的には比べらものにならない。

 戦争は、敗戦は全ての工業生産手段が破壊し、海外の市場は失われ、その上に海外からの引揚者と軍人らを抱えた日本の惨状は、子供の頃に空腹を満たす為に口にした”あの苦い芋の粉の饅頭”を直ぐに思いおこさせる。 

 ヒモジサが脳裏を横切りと同時に、編み直しのセーターを着、つぎはぎだらけの半ズボンを連想し、藁ぞうり姿で走り回る映像が途絶えることなく連綿と続きます。

 そんな中でも、春・遅き4月には梅の花に迎えられ片道3Kmの山の上の小学校に通い、夏、肌を刺す清流大入川に身を浸し、秋、全山の紅葉に包まれた思いや、直ぐに冬が来て白銀の山道を駆け巡り、正月の歌を歌っていた。
 
 逞しく、屈託ない日々の思い出も同時に映像として浮かび上がります。

          

     :*         *        *       *       *

  40年前、若い世代の受け皿として入居が始まったこの高蔵寺ニュータウンも、今では春日井市で、高齢者比率が平均を上回るジジ・ババタウンとなった。

 
 近くの「子豚公園」の向かいには、元愛知県教職員住宅が取り壊されて、十軒の新住宅が建てられ、想像していたより早く完売となった。

 その住宅に入居してこられた家族は、最高で今年小学1年生と聞いており、後は2〜4歳児がほとんどです。

 親子で遊んでいる姿を見かける時、今の世界、日本の環境は、社会情勢は日々の暮らし向きにどのような影響を与えているのだろうか。 

 そして将来にわたる夢や希望はいかなるもかとと考える。。
 孫を持たない私には、かの親子の気持ちは分らない。
 
 その親子への想いよりは、林住期・真っ只中67歳の自分の身のことと、今年夏には80歳になる独り身の姉のこと、これまた独り身の78歳になる義姉(女房の姉)のことを思い巡らす時間の方が圧倒的です。

 と言って、決して、後ろ向きでも・暗くもないのです。 「人生修行の一つの締めくくりの今、どのようにして、もう一山、二山を登ろうか」と意気込んでいる毎日です。

 この気持ちにさせてくれている要因の一つが、中部大学の聴講生であることです。
 その4年間が経過し、昨日、今半期の修了証書と共に、4年間の皆勤賞もあわせ受賞しました。

 そればかりでなく、来春開校するオーピンカレッジの開校式でスピーチをさせていただく時間をいただき、そのことから発展して「自分史」を3年後には作ろうと決意するにいたりました。

 書棚にあった記録やアルバムの整理に毎日追われています。

 ここまで、書いてきまして書こうと思っていた、昭和23年の頃と、平成21年を対比して語ることはヤメとしました。 いや、横道に入ってしまいました。

 昭和23年6歳児の私と平成21年67歳の今の私は、「人生修行なり」の一線上にいます。
 この間、私自身がこの修行道を自ら引き寄せ、選び、歩んできたのは疑いの余地ないのことなのです。

 「満足か。満ち足りた人生であったか」と問われれば、「素直に満足しています」とは答えられませんし、納得のいかないことも多々ありますが、決して悔いはありません。
 
 この道を歩ませていただいたことにい大いなる感謝を申し上げる毎日です。

 話が横道どころか、全く異なったところへ行き着きました。


 COLUMN 1−D 974
                                   平成21年2月18日 記

  本日は「中部大学の終了式」でした


 長い間、関心は持っていたのですが、5年前ころからは特に「これからの世界はどうなるのだろうか」とその思いが一層募り、4年前にNHKの放送大学の学生と中部大学の聴講生になりました。

 NHKのラジオとテレビによる視聴よりは、生で現役の学生に混ざり、また同年代の仲間と学ぶことの方が楽しく中部大学の聴講は今日まで続いてきました。

 そして、本日は4年間の励みに対して「皆勤賞」を頂きました。

         

 長い間と言うよりは、”賞”などには中学以来縁がありませんでしたので、少しばかりこころが弾みました。

 この1ヶ月間、自分史のことをこのコラムに書いてきました。 「自分史」を書こうと決心したのも、中部大学のエクステンションセンターより声がかかったことが切欠ですので、色々と感謝です。

 本日もその「自分史」を読まれた友人から便りが入りました。
 此のあと、その返事を兼ねてこのコラムで返信を書こうと思っています。

 


 COLUMN 1−D 973
                                   平成21年2月17日 記

  「大地の恵み」と言った時の父の記録

 〜「自分史・学生期・小学校時代のノートより〜


 小学校当時のノートを読み直し、一部活字化しています。
 
 このコラム 1−D NO969に掲載しましたノートです。 昭和23年当時のノートですので、紙筆が悪く、手荒に扱うと直ぐにでも破れそうです。

 私は感情移入が強いですから、文面を読んでいますと、次々に想像がふくらみ、ついウルウルとこみ上げるものがあります。

 前にも書きましたが、33歳のころ、人様に指摘されて初めて父の考え方、生き方、存在に気付かされた私です。

 今、このような形で残しておいてくれた父の思いや願いに素直に感謝をしています。

 その中から、私が満5歳の暮に、ふと口にした「大地の恵」のことばを耳にした父が、どんなに喜びと期待をもって、そのときの気持ちを書いている記録に出会いましたので、紹介します。

 大変くどいようですが、このコラム NO971でも書きましたように、私のDNAの一端に気付かされてところですので、あしからず。

 (なを、日付け等はそのままなのですが、年齢は当時はまだ「数え」で表現しています)

  21、昭和24年3月13日  「大地の恵」 (父の筆にて)

 私が六歳の、年の暮れのことです。 それは昭和22年12月です。
 ゆうごはんの時、父は いつものように ごはんを たべながら いろいろと ごじまんの  話しをしていました。

 私はその時ふと 父に 「大地の恵か」と、なにげなく 言いました。
すると、「おや 大喜はすばらしいことをいったな。これは大へんなことだ。 わすれてはいかんぞ。

 このことさえ わかればえらいもんだ、わすれぬ中に ちょうめんに かいておいてあげよう」といって、あたらし
 ちょうめんに すみで 大きく かいてくれました。

 そのうち 1年生になったときには ランドセル にまで 大地の恵とかいてくれました。
ちちが、かくまでほめてくれ ちゅういしてくれる このことばは いったいどういう ことばでしょうか。

 八才のわたしには、まだよく わかりませんが すこしく かんがえて見ましょう。
 
 人は土の上にいきています。 土の上にすんでいます。
 その土から わたしたちの たべるもの こめも むぎも 豆も やさいも みなできるのです。

 すまいの家を作る木も からだに きる着ものも みなつちから 生えてきます。
つちこそ 大地こそ あたしたちの 命の母で あります。

 わたくしたちは 私達の すまっている 大地をわすれず よく見ねばなりません。
大地の恵に おれいをわすれては なりません。


 この1冊目のノートにはこの他にも28篇の記録が書かれています。

 初めはほとんど、父の筆によるものですが、後半に成りますと、万年筆でなぞった私に書いた記録の残っています。





 COLUMN 1−D 972
                                   平成21年2月16日 記

  日本国政府への米国政府からの要望書

 〜本日、クリントン・おばさんが訪日


 友人が2007年度版と2008年度版の「日本国政府への米国政府要望書」というコピーがメールで送られてきました。

 その存在は聞いては居りましたが、目にするのは初めてでした。 
 「ありがとう」と返信メールを書いていましたら、本日のコラム 1ーD NO972となりました。  

 「ありがとうございます。
 
 少し読みましたが、腹が立ってきて止めました。 
 
 米国の属国であることを証明したような内容です。 が、実体はこれをよしとして受け入れてきたわが国なのですから、 自分達に非があるのですね。

 これまで、米国に指図されてそのまま受け入れてきた、特に金融と外交問題。
 (米国も上手に日本、日本人を操りました。思い込ませました)

 アメリカが今回のことで悶え・苦しんでいる中、日本への指示が中途半端になっていると、日本の政治、財界、マスコミ、学会も右往左往です。

 今日からクリントン・オバサンがやってきて、何を言い出し、指示してゆくのでしょうか。
 彼女は日本が大嫌いだそうですが、それでもアメリカの現状からの回復・再生・復活には、日本の力(金)と自衛隊の働きが欲しいようで、「猫なで声」と隠した爪をもって来日です。

 私は米国の権威はかってのようには戻らないと思います。 アメリカ人のライフ・スタリルが最早世界の人々の憧れではなくなりました。 
 また、借金まるけの生活など続けられるわけがないと考えるからです。草原からやり直しです。

 我が国のリーダーたちは保身に明け暮れ(気概などないのだから当たり前)、国民に現状を正しく知らせず(公開せず)、人頼りで・自主性と主体性なく、腹(胆)が座っていない中、このトンネルをどのように抜け出すのでしょうか。

 当分何もしなく、静かに、穏やかに、ウロウロと世界の動向を眺めていると、アインシュタインの言葉ではありませんが、『世界は闘争に疲れたその時、真の平和を求めて、世界の盟主として日本に戻る』と言われたようにお呼びがかかるのかもと考えないでもありませんが・・・。

 私はポジティブにこの状況を捉えています。 

 いつか(当面2〜3年、本格的には10年の年月が必要でしょうが・・)出口に出ます。
 
 その間トンネルの中で、弥が上にも培われる自主性、主体性。 そこにあって考え方、生き方、行動が形成される。
 このトンネルの中は修行ですね。又とない修行の場であり、時です。

 トンネルの向こうに展開される風景は一変していると考えます。 明るい陽の光を見るか、地獄の閻魔様との出会いかは自分で決めること。

 何時も言っていますが、約10年前前後に、倒産、閉鎖、業種転換、首切り、リストラ、転職等の憂き目に会ったかたがたの中に、今、意気揚々と明るく、楽しげに日々を過ごされている方々を見かけます。 こんな時ですから更に目立ちます。

 試行錯誤の中から積み上げられてこられてきた彼らの考え方、生き方、行動がモデルです。  
  いつの間にか、本日のホームページの掲載する形式の文章となってしまいました。

    ありがとうございました。


 



 COLUMN 1−D 971
                                   平成21年2月15日 記

 何故自然や土に拘るのかの一端が分りました

 〜”心に生きている言葉”を活字化して〜

 
 本日は「これからの「自分史」」ではありません。
 過去、しかも小学校時代のものです。 「父からの教え」の項を作成しました。

 「心に生きている言葉」と題が書かれた和紙8枚の綴りノートをパソコンで活字化してみた過程でその事に気付きました。

 昭和22年12月の暮、私が数え6歳の暮から書き始められたそのノートは、昭和29年3月5日、黒川小学校を卒業するところで終わっています。

 其の年の暮、私が「大地の恵」と口走ったところから、このノートは作成されたようです。

      

 その後、「人は植物と共に在り」、「大喜君は何が化けたのか」の問いに、「大地」と答えり、「俺は芋が在るから良い」、「帰る所は 大地の恵みに帰る」等と書かれております。

 二宮尊徳先生の「無尽蔵」と題されて、

 「天つ日の 恵みつみをし 無尽蔵 鍬で掘り出せ 鎌でかりとれ」
                                   の短歌も書かれています。

 父の言葉と記されて随所に、山奥(豊根村)に隠遁したような生活に「これでよいのか、いやこれでよいのだ」と煩悶している短歌が幾首も書かれています。

 そして、最終ページの言葉は
 
 「土ニ親シム者は滅ビズ
       土ヲ愛スル者ハ衰ヘズ
            土ヲ貴フ者ハ後レス
                
ヲ信スル者ハ 無限ノ生命ヲ有ツ   我農生」

      

 とあります。

 離職して11年が経過、百姓学校に入って今年で10年目。 色々なことに手を出しておりますが、土との関係は継続しなければと思っています。

 理屈で考えているところもありますが、元々が百姓の出であったことにもよるのでしょうが、父の教えと私の血の中=DNAに大地の恵みに感謝する素が存在していたのではと気付かされました。


  
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