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NO.140                                        
            平成17年5月25日 記

 米軍再編を考える  軍事アナリスト 小川和久
   「沖縄の未来構想 示せ」 5月25日・朝刊

 
 『米国にとって日本が重要な戦略的拠点であることが明確になり、それを米国が明言するようになった。  最先端のハイテク兵器をを持つ米国を支えられるのは、同じレベルの技術力があり、資金力もある日本だけだ。
 日本国内には、日本を事実上の母港とする米第七艦隊が六ヶ月間戦闘できる燃料も備蓄されている。
 日本は米国に守ってもらっていて、(米国に)文句を言うと、安保条約を破棄されるという人が居るが、逆だ。 日本に安保条約を解消されたら、米国は世界のレーダーでいられなくなる。
 住宅地に隣接する米軍
普天間飛行場(宣野湾市)の危険性を直ちに取り除かねばならない。
 もう一つは、沖縄の未来を切り開く大きな構想をあげる事。
 構想に必要な条件は三つ。
 米軍基地の整理・縮小、経済的自立を可能にする抜本的な振興策の立案、米軍のプレゼンス(存在)の維持だ。』

 〜この一年の間、憲法問題をいかに考えるべきか、雑誌、新聞報道・社説、識者の意見、各政党の考え方についてテレビ等の報道にも耳と目を向けているが、まだこう考えるという腹に収まった思いにいたっていないのが正直なところである。 同じように避けて通る事の出来ない国防・安保問題についても同様です。
 が、時間の経過と共に、「水と平和はタダであると思っているのが日本国民ではないか」と言われている事に対しては理解できるようになったと感じています。
 でも、どのように認識し、どのように対処してゆけばよいのかについての見識・見解は纏まらないままです。 

 そんなこともあり、人類の歴史の中からヒントが得られるのではないかと、今年から世界史をまなぶことにしました。
 現在8教科を受講している。 「古代地中海世界の歴史」『中央アジアの歴史・社会・文化」「近代ヨーロッパ史」「アメリカの歴史」「アフリカを知る」「ラテン・アメリカを知る」そして「近世日本の歴史」と「地域研究入門」
 時間の経過と共にそれぞれの時代や地域が様々に関わって変化、発展、時に消滅してゆく流れを知る事が出来ますが、記憶力の問題か、それとも事柄の本質を把握する認識・理解の問題か、何度も何度も読み返しても、聞きなおしても直ぐに忘れてしまい苦労しています。

  ただ、これまでに学んだところで時代をこえ、地域を越えて共通な事柄があります。
 それは「力や武力で押さえ込んだ統治は必ず短期間の内に崩壊する」ということです。
 寛容さを持って柔軟にその国・民族を統治する「従来の文化・伝統」を認める政治が長続きしています。
 それでもそれは対比の問題であり、近代から現代と時間が進むと共に、支配・統治するということ事態に無理が生じ、抵抗にあい、終焉してゆきます。。
 自らの利に元ずくことはもってのほか、たとえ善意からにせよ、押し付けた正義派やはり敬遠されます。
 同時に自立のためにリスクと勇気をなくした民族・国にも先が開かれてこない事も真実のようです。
 
 戦後60年。理論的には説明する事はできませんが、世界も日本も大きな転換期に来ていることは間違いないと考えます。
 この時、今日の損得、利害のことばかりにとらわれていないで、各自が憲法問題にせよ、軍事問題にせよ、あるいは教育問題など普段自分とは直接係わり合いの無い事などと思わず、身近な根本的な問題として考え、見解をもち、行動することが大切であると感じています。
 そうしなければ保身と問題回避、目の前の利に聡い一部の政治家や官僚によって、売国奴的な判断や決定がなされていってしまうのではないかと心配しているのですが・・・。






NO.139                                        
            平成17年5月17日 記

 『発言』欄、今月の川柳 「テーマ 今」
       5月17日 朝刊より

 まずは、今回の秀作10点を紹介します。
 『九条を守り抜くべき時は今
  今だから笑って話す君の罪
  いつまでも貴方と居たい今のまま
  跳ぶ時を夢見て今は助走中
  定年のいまからゼロに切り替える
  今が旬熟女が初夏へ走り出す
  狂わない時計で今を縛られる
  残照へ一会の影を重く抱く
  今まさに地球の割れる音を聞く
  行く先は無明の闇か今が花』      選者 浜口 鋼史

 
〜如何ですか。貴方はどの作品に目がとまりましたか。
 選者はキット様々な時、場面、状況を考えて選出した事でしょう。
 誰でも何か一つには感じるものがあるのではないでしょうか。
 私は「行く先は 無明の闇か 今が花」でした。
  そして「今も花 これから先も 無明花」と作ってみました。
  無明とは真理に暗い事。 一切の迷妄・煩悩の根源。
 無明世界。無明長夜。無明の酒。無明の眠り。無明の闇とありました。




NO.138                                         
            平成17年5月17日 記

 ”思うままに” 梅原 猛  5月16日 夕刊
  「歎異抄」のすすめ 自らの悪を悔いて再生せよ


 〜今週で3回目となる、梅原教授のJR西日本の今回の事故のことである。
 梅原教授もキット14年前に苦い思いをされ、それを心に納めていたが今回の事故のことで、「やはり」と思われたことなのでだろう、3週続いての取り上げである。

 『『歎異抄』に「往生のために千人殺せとはいはんに、すなわち殺すべし。 しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり」と親鸞の言葉がある。
 自分の心が良いから人を殺さないわけではなく、人を殺す因縁がないから殺さないだけであり、そういう因縁があれば百人でも千人でも殺したかも知れないというのである。
 親鸞のように本当に悪を犯していなくても、自分は極悪深長な人間であると自覚する人もあるが、逆に殺人を犯しながら全く罪の意識を持たない人のいる。
 宗教的妄想による麻輝彰晃のような人間には悪を犯したという自覚も反省もない。

 百七人の死者を出した今回のJRの鉄道事故の原因が、JR西日本がもっぱら利潤追求に走たり安全対策を怠ったことにあるならば、遺族が語っているように百七人の人々はJR西日本によって殺されたといわねばならない。 
 事故の二日後、現会長が関西経済連合会の副会長を続投する意向を示したり、実力者の前会長が当初は大企業の社外取締りを辞退しようとしなかったところを見ると、この人達には全く罪の意識が欠如しているといわなければならない。
 会長の顔色を見て態度を決する習慣が身についている社員達が、事故のことがテレビで報道されている最中に平気でボウリング大会や宴会にうつつを抜かしているのも無理からぬことである。
 JRの幹部は最高の学府をを出た超エリートで収入
も多く社会的地位も高い。 そういう超エリートが自分を悪人と思うはずがない。
 悪人とは学歴のない貧しく地位の低い人であると彼らは考えているのであろう。
 このように自分を悪人と思わず、罪の意識のない人間が日本人、特にエリートの日本人に多くなっているような気がして、日本の将来を憂えるものである。
 JR西日本の人々に『歎異抄』を読むことを勧めたい。
 JR西日本は、会社を挙げて自らの悪を深く反省して心から
懺悔することによってしか生まれ変わる事は出来ないと思う。』

 〜そんなに深く考えているわけではないが、梅原教授の言っておられることに賛意の気持ちが湧く。




NO.137                                          
            平成17年5月13日 記

 製鉄史 ”鍛え直し”  5月13日中日新聞朝刊
 トルコ出土の鉄片 最古の鋼だった 


 トルコのカマン・カレホユック遺跡から出土したアッシリア商人居留地時代(紀元前20〜18世紀)の鉄片が、最古の銅だったことが分かった。
 鉄より強靭な銅は高度な製鉄技術が必要。
 世界ではじめて技術を確立したのは、製鉄武器を背景にアナトリア(現トルコ)で強大な勢力を誇ったヒッタイト帝国(紀元前14〜12世紀)とされてきたが、更に4百〜6百年さかのぼり、製鉄の起源をめぐり議論となりそうである。

 
~今年から始めた世界・地域史の勉強がなかったら、一目もくれずにした記事であろう。
 「古代地中海世界の歴史」や「中央アジアの歴史・文化・社会」を学んでいるから、目にとまった。
 しかも、今から3千年〜4千年の昔・昔の話と思ってしまえばそれまでなのであるが、「古代地中海世界の歴史」の提出課題に、<メソポタミアやエジプトのオリエント文明がいかにギリシャの社会や文化に影響をおよぼしたのか答えなさい>との問いに答えるべく、教科書を何度も何度も読み返し、傍線を引き、更にポイントをパソコンに打ち出しているところです。

 昨夜床に就くとき、オリエント文明がギリシャに影響し、それが大ローマに繋がる。
 そのローマからキリスト教がヨーロッパ全土に波及し、14世紀後半のルネッサンスから大航海時代を経てアメリカ北・中・南へ、あるいはイスラムの支配していたインド洋にも進出し、世界は様々な形で結ばれ、影響してゆく。
 そして近代〜現代へと流れ着いてきた人類の歴史、ドラマ。 まだ到底それがどのように結びつき、どのように影響していったのか、いるのかの関係は到底知り・理解するところではないが、それでもキットそのうちにいくつかの点と点が線となって結びつき、その後何らかの思い、考え方、そしてこれからのあり方についての私なりの考え方の一端を持てるようになるのではないかと願っている。

 少なくとも、この2ヶ月弱の間でも、歴史が教える事実から少なからずヒントを与えられている。 これからが楽しみです。 




NO.136                                           
            平成17年5月12日 記

 けさのことば 岡井 隆  5月10日 

 『結婚はー如何なる羅針盤もかつて航路を発見したことがない荒海。
                   『
西洋金言集』 (堀 秀彦 訳編)

 掲出句は詩人ハイネの、すこぶるまっとうな感想。 「 『恋は結婚の曙、結婚は恋の落陽』というフランスの言葉がある」といった言い古された格言をはじめ結婚のついては百人百説。 「女はよき夫を作る天才でなければならない」(バルザック)はいささか無責任な放言ではないか。

 〜
皆さん如何ですか、洋の東西を問わず、この手の格言はなかなか味があるものであります。
 私が今記憶にあります中で忘れないものは、「ソクラテスのあの思索を成しえたのは妻の偉大なるOOによる」というものです。 
 ということは、比較・対象の比ではありませんが、私は非常に恵まれた相方であったということでしょうか。
 昨日、お隣のご主人が多分70才を前にお亡くなりになりました。 ひとつの会社を勤め上げられ、芝が敷き詰められた庭で、夏には良く芝を刈り取られ、そこでスポーツマンタイプの体型でゴルフのスイングやパターの練習もされておられたのをまだ見かけたのは数が月前のことと思っていましたが・・・
 本日葬儀です。 朝早くから奥様がいつもと変わらぬご様子で、洗濯物をその芝生の上に干しに出てこられました。 
 何も変わらぬ仕草なのです、これから葬儀所に向かわれるのでしょう。
 四つ子のお孫さんはこのところ見かけておりません。 
 賑やかな語らいがあった芝もまだ充分に夏の青さには生え変わっていません。
 「今日は晴れから曇り、夕方には所によって雨も降るでしょう」と報じています。

 
 
 
  

NO.135                                           
            平成17年5月10日 記

 ”思うままに” 梅原 猛  5月9日夕刊
   JR西日本のあきれた体質
    談合審査に呼ばれた揚げ句・・・

 〜NO133において、梅原 猛教授の「”思うままに”、JR福知山線大事故」を紹介しました。 そして、その1週間後に再び教授がその続きとも思われることを書かれておりますので紹介します。 約3分の1に短縮しています。

 『最近、テレビなどで死者107人の大事故を起したJR西日本の「あきれた体質」についていろいろ論じられている。 実は、私も、14年前に行われたJR京都駅の設計コンペの際JR西日本の「あきれた体質」を身に沁みて感じた。
 それは7人の建築家による作品の中から1作を選ぶコンペであり、その審査員として、イタリヤとオーストリアの著名な建築家も参加し、私にも依頼があった。
 私は、京都駅は京都にふさわしい作品を選ばねばならぬと思って審査員を引き受けた。
 A氏の作品は甚だ単純明快で、どこかに伊勢神宮のような素朴な味があり、古都京都にふさわしいと思い、A氏の作品を第一に推した。 二人の外国人建築家も同じ意見であった。
 採用されたのはH氏の作品については、新宿に建てられる駅ビルならば悪くはないが、京都にはふさわしくないと私は思った。
 3日目になってH氏の作品に決まった。 JR西日本は自社から出した2人の審査員をはじめ、意のままになる審査員を過半数選び、採用する作品をあらかじめ決めていたのである。 
 外国から来たイタリヤ人は「アイ アム アンハッピー」と言って退席、オーストリアの建築家は「なぜはるばる遠くからやってきた我々に意見を尊重しないのか」と怒った。
 私は、これは国辱であると激しく幹部たちに詰め寄ったが、彼らは「ふふん」とせせら笑うばかりであった。
 私はこのことをアチコチで語ったが、それを聞いた実力者のある幹部は、「このような大きな事業は談合によって決められるのがあたりまえだ。 せっかく審査員に選んでやったのに、梅原は世間知らずのばかだ」と言ったそうな。
 数日後に社員がコンペの謝礼金を持ってきたので、突き返したところ、社員は平気な顔でそれを持ち帰り、以後私には何の連絡もなかった。
 こういう、「あきれた体質」のJR西日本が今回のような大事故を起したのはきわめて当然であると私は思う。』


 〜このところ、JR西日本のことについては感情的とも思われる報道が続いているように思われるがどうであろうか? 本質を見失ってはいけないと言い聞かしているのだが・・・
 
 ところで、私もこのJR京都駅の駅舎が姿を現してきたときに、どこか京都にふさわしくないと感じたことを思い出します。 その後か、前後かは定かではありませんが、京都の神社・仏閣の拝観料に対して、税金をかけるかどうかの論議があり、京都観光に来られた方が見学、拝観できなかったことがあったと思います。
 今はどんな論議の末に収まったのかは知りませんが、JR西日本の今回の大きな出来事はウヤムヤの内に収められてはならないと思っています。

  といいますのは、日本に限らず何でも民営化が良いと進められていた世界の民営化論議・事業がこのところ軒並みに挫折しています。 民営化に反対するものではありませんし、どちらかというと民営化賛成論に肩入れしてきましたが、最近は何でも民営化さえすればよいという風潮になっているのではないでしょうか。 狙い、意義が忘れられて、好き嫌い、俺の言うことがと言うような感情的になっている。 政局を匂わすなど・・
 
 その上に、日本の民営化は旧国鉄では40数兆の赤字を隠すために、道路公団においても、本四国他大赤字の内容を隠蔽するためになされたとも言われています。 それは全て国民へのツケ回しとなっています。 
 私たちも尻馬に乗ってはしゃいだり、目の前の利に乗って政治家を選んだツケと言わねばなりません。 
 どうしたらよいのか、到底、対策を提示できるほどの知識も見識も持ち合わせませんが、ただ感じることは”ここらで一度ご破算で願いましては”としなければ、展望が開けてこないのではないか思っています。
 毎度の事ながら、その時泣きを見るのは弱者ですから、そのことだけは心得て心構えをしておかねばならないとおもっています。 
 が、同時に来たらきたで、柔軟に対応してゆくのが、わが国民かなとも楽観もしているのですが。 果たして私自身はどうでしょうか。
 
 梅原教授が今回の事でこのような形で、体験を発表してくださったことにより又一つ自分自身への問いかけとなりました。



NO.134                                           
            平成17年5月8日 記

 けさのことば  岡井 隆 

 『飛び去りしものが遺せしわれならむ   『水妖詩館』 中村苑子
 
 
戦後60年。 さまざまな人やものが飛び去って行き今の日本が「遺」された。
 もちろん、この句は個人の詠嘆であるから、この自分の今ある姿は「飛び去りし」過去ののこした<忘れもの>みたいなものだといっているのであろう。
 そういいながら国も人も今を生きなければならない、「今生を跳ぶや彼方の碧揚羽(あおあげは)」とうたわれた夏蝶のように。

 
〜何か気になり切り抜いて机の隅に置いておいた。 そのままゴミ箱に行くこともあるが、この切抜きは残されていた。
 どうでも良いようなスクラップブックやファイルが残されている。 その時にはきっと何か感じるもの、思いがあって、残そうとしたのだろうが今では何でだろうと首をかしげるものが多い。 一度整理したことがあったが、その中にその後惜しい事をしたとの気持ちに成った書き物があったので、今はそのままにしている。 その後一度も手にすることなく。

 私にも飛んでいった60数年がある、何がこの生身の体内に残っているのであろう。
 時に、活字や映像に刺激されて生き返り、再現して心の鏡に蘇る。
 喜怒哀楽の織り交ざった日々が・・・ 
 と入力しながら日本にかぎらず、世界のあらゆるところで今までの延長線上ではやっていけない時と場面が近づいてきているのではないかと感じ・思う日々でもある。


 上記の内容とは関係ない。 4月28日の日に切り抜いたもう一枚がある。
 <100年後展望を提言
 『中部地方整備局と中部運輸局の有識者懇談会「まんなか懇談会」(座長・須田寛JR東海相談役)は27日、あいち万博後の中部地方の長期的な社会基盤整備に関する緊急提言を発表、両局に提出した。 万博後に最終提言をまとめる。
 
「中部発、世界への提言〜テイクオフ2005」と題して、安全な国土形成、▽国土の健康回復と持続可能な発展、 ▽国際競争力強化、 ▽大交流時代における拠点機能発揮ーの4点に沿い、50〜100年後を展望して目指す方向を提言している。
 
 
〜ポスト万博、中部国際空港についての論議が聞こえないと思っていたが、どんな提言がなされているか、また今後してゆくのか大変に興味と関心がある。 ただ待っているだけではいけない。 これからは市民が参加して、自らの地域を皆して創り上げてゆく時代であると思うからです。
 飛び去りしものあれば、また来たりしモノもある、 そこに今あり。
  




NO.133                                           
            平成17年5月3日 記

 ”思うままに”  梅原 猛  5月2日夕刊
   JR福知山線大事故
     退廃極まった経営陣の無責任列車

 『今から14年前、平成3年に滋賀県信楽町で信楽高原鉄道事故が起こった。 信楽鉄道の列車とJR西日本の列車が正面衝突し、42人もの死者を出したものである。
 確かにこの事故はJR側よりは信楽高原鉄道側により多くの過失があった。
 しかしもともとその事故は、JR西日本が信楽高原鉄道を赤字路線として切り離しておきながら、世界陶芸祭に際して利益を上げようとして、臨時列車を増発した事によって起こったものである。
 一審公判では信楽鉄道とJRの双方に過失があると認定されたが、JR側はそれを認めず控訴し、社長をはじめ幹部は遺族に謝罪しようとしなかった。

 遺族はこのようなJR西日本の態度に甚だ憤激し、その声は私のところにまで聞こえてきた。
 それで私は公憤に駆られ、JR西日本を厳しく批判する文章をある新聞に書いた。
 このような事故を自己の責任として、2度と事故を起さないように対策をとらない限り、JR西日本はかならずまたこれ以上の大事故を起すに違いないと思ったからである。

 その直後、JR西日本の労働組合の幹部と名乗る人が訪れた。 彼は「JR西日本は最高の学歴をもつエリートがもっとも多くの役員を務める企業であり、秦始皇帝と言うあだ名で呼ばれている社長をはじめ、幹部達には労働者を思いやる心がまことに少ない。    したがって労使関係はうまくいかず、隠しているが小事故はしばしばあり、今に大事故が起こるに違いない」と言った。
 JR西日本が過失を認めないのは損害賠償金を払いたくないのではなく、(保険に入っているので損害はない)、ただ非を認めると社長が辞任せざるを得なくなるからだと語った。(中略)
 
 今回の事故後も、JR西日本の幹部はさも置石によって事故が発生したかのような言葉を巧みにかたり、自己の責任を逃れようとする様子が見られた。これでは信楽鉄道の事故のときと態度は全く変わっていないと思った。

 私は前々から、政治家や経営者の道徳の退廃を嘆いてきたが、その退廃は、このような大量殺人事件とも考えられる大事故を起しておきながら、形だけの謝罪の芝居はするが真の懺悔の心のないJR西日本の幹部に極まっていると思わざるを得なかった。』

 〜
さて、ココで今回の大事故の解説や論評をしようというのではありません。
 このコラム2−Nのタイトルは「新聞を読んで 眺めて 切り抜いて」です。 取り上げているのは新聞ばかりではありませんが、誰を、どのように取り上げたかは私自身の問題です。
 バブルの絶頂期に色々な経済学者、評論家が登場しました。 私の知る限り、その当時著名なと言うか持てはやされ、テレビ・新聞を初めとするマスコミに登場していた学者、評論家はその状況を異常とか、真ともでないと警告を発していた方はほとんどいなかったか、少なかったように記憶します。  (マトモナ人は隅に追いやられていた?)

 そして、バブルが弾けた。 その後すぐに立ち直りるとか、日本経済はそんなに弱いものではないなどと解説や希望を述べられていたが、1995年を境にそれまで言っておった事を何処かに忘れてしまったのか、訂正も謝罪もせずに知らぬ間に意見が変わったことを多く見聞ました。 
 その後、恥じたのかマスコミ登場しなくなった方はまだ正常なほうであった。
 近頃はどうであろうか。 基本的にはなんら変わっていないようにかんじているのだが。 今や、経済学や経営学によって夢や希望を持ちうる見識も学説も一向に聞かれない。(マスコミ以外では時に散見されるが)

 ところで、各言う私はどうか。 別に何をどのように取り上げようが、語ろうが何の責任もある立場でも、信用される地位にいるわけでもないが、それでも少なくとも自分自身との対話においての良心と言うものがある。
 それゆえに、ココで取り上げる人物、内容、言葉、には少なからず心しているつもりである。
 何を、どのように感じ、取り上げたかが私自身の価値観であるのですから・・・ 

 追記 (5月3日 21時)
 入力を終えて、そのままホームページに掲載する気になれないでいます。
 何か、どこか言い足りないと言うか、本心が語られていないように感じるのです。

 
 (5月5日 11時)
 修正しないまま掲載します。 その時に思い、感じたことなのですから・・


NO.131                                            
            平成17年4月26日 記

 けさのことば   岡井 隆 4月24日朝刊より

 悪念思惟(あくねんしゆい)の時は、声をあげて念仏すべし。
                   『一言芳談』 (小西甚一校注)
 
 
『悪い考えがおこったときは、声をあげて念仏せよ」。 全ての宗教の祈祷がそうだが「声をあげて」というのが大切。
 声は自分の耳にもとどき、隣で祈る人の耳にもとどきく。
 「心が純粋かどうかは問題ではない。 南無阿弥陀仏と唱える声そのものが大切」
 『一言芳談』は繰り返しこのことを説く。

 
〜朝、神棚に向かう時、ふとよそ事(たとえば、この後何をしようか、その手順は・・)がよぎると、たちまち般若心経の一節が何処かに言ってしまう。
 今はほとんどと言うより全くないというほうが正しいが、それでも年に数回は朝から気に食わぬことがあると、念仏が途絶えるか、何処かに行ってしまう。
 また、逆にスーとお経の中に入魂してゆく事もある。

 私の朝の10分間は大声での神棚との対面である。
 隣の奥さんがかって、「何か特別な宗教ですか?」と訊ねられたことがあったが、前にも書いたように、「自由宗教一神教」の礼拝作法からはじまり、神道、そして般若心経〜消災呪〜延命十句観音経と続き、先祖回向文から再び神道の作法で終わるという、八百万の神の登場である。
 『ナムタイシヘンジョウコンゴウ。南無大師遍照金剛。なむたいしへんじょうこんごう』と大声で3度繰り返す時は、既に4年前になる四国88箇所の遍路の道すがらが思い出される。 もう一度、巡っても良いかななんて思うときもあるが、生半可な気持ちでは歩き通せない事をしているつもりであるから、神棚に向かっての朝の礼拝を続けようと思う。  
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