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  コラム2−N NO.170                                                        平成18年2月25日 記

 役目果たし活動終了 ”ドングリ作戦”
 〜中日新聞近郊版 2月19日〜


 昭和43年5月「緑と太陽のまち」をキャッチフレーズに入居が開始された春日井市の高蔵寺ニュータウン。 私たち家族は昭和46年春に入居しました。 雨が降ると道路がぬかるみになるところがイッパイでした。
 其の年1971(昭和46年)から、ニュータウンの中にある東高森山(終戦後の乱伐や山火事で中腹以上はススキが生えるだけの禿山だった) に、展望台や車道を建設する計画が持ち上がった。 当時、藤山台小学校の校長で、郷土史家の伊藤浩さんらは異を唱え、住民に山全体を緑でイッパイにして公園にしようと、緑化運動が呼びかけられ、翌年から(72年11月)児童やお年寄りら約500人が、拾い集めたコナラやアベマキなどのドングリの実を赤土に蒔いた。
 我が家の子どもらも何度か参加していると聞いていた。 今ではリスも確認できるという。
 ご覧のように今では15メートル前後の木々が頂上まで茂り、夏は緑に被われている。
                   
 あれから33年、今年もこれから一日一日と芽が吹き出し、新緑におおわれてゆく。
 山の下の公園では平日は犬の散歩の方々の集会場所でもあり、高森台中学生の部活の場所でもある、それを眺めながら今日は東高森山に登ってみよう。




  コラム2−N NO.169                                                        平成18年2月20日 記

”ひもとく” コーランの世界 そのHー鈴木 則夫 
 
  〜中日新聞 2月20日 朝刊より〜


 『マルヤム(マリア)の子イーサー(イエス)がこう言った時のこと、「これ、イスラエルの子らよ、わしはアッラーに遣わされてお前たちのもとに来たもの。
 わしより前に(啓示された)律法(トーラー)を確証し、かつわしの後に一人の使徒が現れるという嬉しい音信を伝えてきたもの。其の名はアフマド」と。
                   (61章「戦列」6節)

  *            *               *              *
 
アフマドとムハンマドとは同義の名である。 預言者ムハンマドの出現をキリストがあらかじめ伝えていたという有名な一節。 』

以前よりイスラムの世界のことは、何も知らないが(知識が無い)興味は持っていた。
 昨年から歴史の勉強をするようになって、オリエントの世界のことに触れる機会が増えた。 それでなくとも、連日新聞テレビで中近東のことは目に飛び込んでくる。
 ユダヤ教からの枝分かれのキリスト教、同じ地域から生まれでたイスラム教、(今もエルサレムで頭・肘・膝を突き合わせている)が、かくも互いを憎悪し、難し見合い戦い続けなければならないのだろうか?
 多神教とも、無節操とも言われる私の宗教観では、到底理解不可能なことなのだが・・。
 上記の「コーラン」の言葉を、彼らは如何に聞き、理解するのであろうか。

 同じ新聞の同じページ”時のおもり” 浜 同志社ビジネススクール教授、より
『これは不動の物体と抗いがたい力の衝突だ」。デンマーク発の預言者ムハンマドに関する風刺漫画問題について、耳に止まった。
 西欧流の言論の自由が不動の物体ならば、イスラム教の教義と信仰は抗いがたい力だというわけだ。
 「不動の物体と、抗いがたい力」の対峙問題は、いずれ劣らず譲れるはずの無いもの同士がぶつかり合う。 その時、何が起こるか。
 今回は流血の惨事をもたらし、一触即発の「文明の衝突」に一気に火に油を注ぐ結果となった。  (中 略)
 この問題の根は深い。 イスラム教世界とキリスト教世界の対立があるからではない。 そこに人間の知性と共感性を厳しく試すものであるからである。
 超えてはいけない一線を何処に引くのか。言論の自由の名の下にどこまで人びとの思想・信条にかかわる領域に風刺の矛先を向けてゆくのか。
 それが許されるのはいついかなる場合においてか。 誰にたいしてか。 風刺に対して、堪忍袋の緒を断ち切ることが正当づけられるのはどのような時なのか。 (中略)
 メデイアに懸命に冷静に洗練された対応を望みたい。 自ら、言論統制的風潮を招くような墓穴を掘らないでほしい。 (以下略)

〜教授の論文はまだ続くが、私の関心は異なるところにありました。キリスト教の世界とイスラム教の世界の衝突、「文明の衝突」は避けて通るだけの知恵、心のユトリ、他の主張を聞き、受け入れる懐の広さと深さが失われてしまった、持ち合わせていない。 行くところまで行かないとダメなのか、との思いになる。 
 その時、アインシュタインの言葉を思い出します。
 『世界は進むだけ進んだ。その間、幾度も闘争を繰り返され、最後に闘争に疲れるときがくるだろう。 そのとき、世界の人類は必ず真の平和を求めて世界の盟主をあげなければならぬ時が来るに違いない。
 その世界の盟主は武力や金力でなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、かつ、尊い家柄で無ければならぬ。
 世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰り、それはアジアの高峰・日本に立ち戻らねばならぬ。 われらは神に感謝する。
 天が我等人類に日本という国を作っておいてくれたことを』

 果たして、われらはアインシュタインの言葉に相応しいお国柄のレベルなのであろうか。

        *           





  コラム2−N NO.168                                                        平成18年2月8日 記

   ”けさのことば”  岡井 隆 中日2月8日朝刊 


 『小人の学問は、耳で聞いたことをすぐしゃべってしまう。
           『荀子』 (沢田多喜雄・小野四平訳)
        *           *           *           *
 
「小人」つまりわれら凡人のことだが、「口と耳との間はたった4寸(約13センチ)しかない」と皮肉を言っている。
 これにくらべて「君子の学問は耳で聞いた言葉が心にとどまり」身体中をめぐる。
 つまり耳で聞いたことをゆっくり考えよ。
 直ぐしゃべるなという主張である。」

 
耳が痛い「言葉」というよりは、まさに其のとおりと自分の耳と口の関係に納得してしまいます。 
 といいますのも、昨年1年間放送大学と中部大学の講義で、耳にしたことのうち何度か、「其のとおりだ」時に、「考えさせられる」「やはりなあ〜」などと思ったことをコラム等で紹介しました。 
 また、本日のように”けさのことば”や”ひもとく”、”週をひらく”なども掲載しました。
 其の度に、そのままを紹介するのでは知恵が無いと考え、自分の感じたことや考えた方を添えるようにはしましたが、所詮その時の思いつきや感覚でしかありませんので、もう少し暖めてから書けば良いのにと自分でも思わないわけではありませんでした。
 が、時間が経過すればどうでも良いことになり、何も残りませんのでその瞬間、感じるままのことを入力したということになります。
 本日も、まさにその延長線上でございます。 「小人の学問は・・・・」と、日ごろ思っていたことが、ズバリと出てきましたので、掲載することにしました。






  コラム2−N NO.167                                                        平成18年2月6日 記

 週をひらく  ”フオト歳時記  スイセン”
   〜中日新聞2月6日  岩木呂 卓巳〜

 
 『スイセンは帰化植物であるが、もはや日本の冬の風物詩ともいえる。 
 原産は地中海沿岸辺り。 この花の学名Narcissusは、ギリシャ神話に由来する。
 ナルキッソスという美少年が、泉に写る自分の姿に恋をしてしまい、一日中、泉に映る自分の姿ばかり見続けていたため、この花になってしまったという。
 それがナルシスト(自己陶酔型人間)という言葉の語源になっている。
 日本にはシルクロードを通り、中国経由で鎌倉時代ごろ入ってきた。
 水辺で清楚なイメージを”水の仙人”と見立てたことから。・・・・・・』

   
     
 写真は今、我が家の庭に今咲いている水仙です。 これは「房咲きスイセン」です。
 盃がオレンジの口紅スイセンと芳香のある房咲きスイセンの交配種でしょう。
 このほかにも花が白色のほか、黄色、橙色、や大型のラッパスイセンや大盃スイセンも春が進みますと咲いてきますが、最初に咲くこの種のものが一番スイセンらしく思われます。
 思い出しましたので紹介しましょう。 2001年12月15日付けの妹の「絵手紙」です。
 彼女の描いた第2番目の作品です。 「”へたがいい へたでいい”の言葉に勇気づけられて書いています」とあります。
 確かにそれから4年強、作品37番目は使用している紙質も代わり、進歩が感じられます。
 それにしても、兄妹でどうしてこうも筆跡に差があるのでしょうか。
 生来の悪筆に加えて、乱暴で乱筆な私、妹は母が方の血を引いたのでしょうか、筆も、万年筆も悔しいほど綺麗だと思います。
                
 こんなことホームページに載せてしまうと怒られるかな?
 このページをコピーして早速送っておきます。
 





  コラム2−N NO.166                                                        平成18年2月2日 記

 『日本大改革のポイント」「新しい国家の枠組み」
 1月31日日経新聞「一目均衡」に掲載
〜藤原事務所 リサーチ・アソシエイト園山英明氏〜

 
 私が勝手に師と仰ぐ藤原直哉さんの同志(年齢的にはかなり先輩)である園山英明氏がこれからの日本の構造改革のポイントと目指すべき新しい国家の枠組みを作るために必要な4つの基本原則を発表された。
 戦後日本の復興から始まりバブル崩壊後にいたる日本、その後の混迷する日本の社会・政治・経済・金融等の要因を分析されてこられたが、此処にいたってではどうするべきかの提案が成されることになった。 約10年間、その間の論文を読ませていただいてきたが、並以下の理解力の私であった。  今も変わりはありませんが、それでも何を言っておられるかの幾分なりとも理解できるつもりであります。
 コピーはしましたが、何処かにしまい忘れそうですので、此処にも保管することにします。
 atarasiikokkanowakugumi.pdf へのリンク

 
kouzoukaikakunopoint.pdf へのリンク

 プリントアウトのコピーは出来ましたが、ここに掲載するためにコピーをしようと試みましたが、コピーが不可能でした。
 やっと上記へリンクするところまでは、漕ぎ着けたのですが開きません。 ドキュメントに保管はしましたので、私は読めるのですが皆さんには読んでいただけないようです。 
 下記からお読みください。

 http://www.fujiwaraoffice.co.jp/top_jp.html
 
 
 



  コラム2−N NO.165                                                         平成18年1月30日 記

ひもとく〜コーランの世界 そのG〜 鈴木 則夫
      中日新聞1月 26日 朝刊
 〜パレステイナ評議会選挙に
     イスラム原理主義組織ハマスが勝利した〜 

 いや、またまた「コーランの世界」となりました。 特に拘っているわけではないのですが
 1月16日にBを取り上げて以来、Fまでは続き物のみたいでしたので、取り上げてきました。 続けて読んでおられるとしたら、失礼に当たると続けてもきました。 本日で「離婚、相続、女性の立場」に関する事柄は、一区切りのようですので掲載することにします。
 
 それにしても、今回のパレステイナの総選挙は私の思っていたことに反し、イスラム原理主義組織ハマスが過半数を占めるという意外な結果を示しました。 パレステイナ和平を推進してきた「ファタハ」は何ゆえに敗れたのでしょうか。
 パレステイナを20年間以上リードしてきた、アラファト前議長が尊命中は民衆はなんと言っても「アラファト」と支持していたようですが、其の死後を引き継いだアッパス自治政府議長の支持基盤ファタハは大きく後退しました。 アラファト時代の後半にも陰りが見え隠れしていましたが、此処にきて一気にファタハの腐敗体質に大衆がノーと言ったのでしょうか。
 
 イスラム原理主義組織は武装闘争を止めないといっていますが、果たしてどのような展開になって行くのでしょうか。 
 この中東情勢は単にイスラエルとパレステイナの問題に留まらず、イラク・イラン、サウジアラビアを含む中東情勢全般、その後ろに控える西欧の大国、アメリカとロシア、中国の利権と覇権が絡んでいますので、大変な情勢に変化してゆく可能性を秘めています。 
 
 此処にとりあげる度に、歴史を学ぶまで私の頭に刷り込まれていた「イスラーム、コーランの世界」は硬直した観念や教えの元に行動してきたと思っていましたが、実態はそれとは異なることを学んだと書いてもきました。
  きっと、ハマス組織もパレステイナ民衆の期待に応えた対応をとるのではないかと思うのですが、世界が、地球が大変化のレールに乗って走り始めていますので、目先や小手先の期待、希望のようになるとはなかなか思えない気もしています。
 では、本日の「ひもとく コーランの世界」を紹介します。

 「・・・・それから両親のほうは、(被相続人に)男の子がある場合は、どちらも遺産の六分の一ずつ。 子どもがいなくて、両親が相続人である場合には、母親に三分の一。
 ・・・兄弟があれば、母親は、彼が(他の誰かのために)遺言していた分とそれから負債とを引き去った残額の六分の一を貰う。・・・ (4章「女」12節)
       *          *           *
 
さらに、妻の遺産の夫の取り分(子が無い場合半分)やその逆など(同章13,14節)についても、配分法は細かく規定されている。













  コラム2−N NO.164                                                         平成18年1月25日 記

ひもとく〜コーランの世界 そのEF〜 鈴木 則夫
      中日新聞1月24日と25日 朝刊 

 コラム1ーN No155のその@ANDAに始まり、NO161〜NO163(そのBCDと続き「ひもとく 〜コーランの世界〜が、本日でそのEとFとなりました。
 特に、コーラン(イスラーム)の世界に傾注したという訳ではありません。 かえって逆でして、これまで私に刷り込まれていたイスラームの世界の観念と異なることが紹介されてくるのです。 
 それまで思っていた、閉ざされ、閉鎖的で偏屈な教えの世界というよりは、1400〜1500年前に男と女、強者と弱者に対して、こんなにも平等で思いやりのある教義が成文化されていたことに驚きと、この教えの背景にあるものに興味を抱いたのです。
 民主主義社会、資本主義国家の頂点に立つ覇権国アメリカの行動に疑問を超えて、憤りが日増しに高まると同時に、同盟国たる日本の対応に危惧を抱くだけでなく、危うさを通り越して危機迫る感じているこのごろです。
 では1月24日と25日を紹介しましょう。 なお、私のこのコラムに取り上げていますものは、全体の1〜2割も無いことをお知らせしておきます。

 『・・・汝らのうち誰かが死に臨んで、もし後に財産を残すときは、両親と親近たちの利益となるような立派な遺言をすること、神を畏れかしこむ人の義務として。
                       (2章「牝牛」176節)
         *          *          *
 
ムハンマドの時代のアラブ社会にも死後の財産処分を遺言としておく習慣があったようだが、ここではさらにそれが信徒の義務とされた。
 「遺言」である必要は無いが、通常遺言の証人には「どうぞくの公正な男を二人だけ」(第5章「食卓」105節)立てることになっている。



 
続いて、1月25日の朝刊には、以下のように書かれています。

 「・・・男の子には女の子の二人分を。 もし女が二人以上ある場合は、(彼女らは)遺産の三分の二を貰う。 女の子がひとりきりの場合は、彼女の貰い分は全体の半分・・・・
         *          *          *
 
コーランではこのように原則が規定されている遺産分与も、実際の適用は様々なケースがあり、法学派による意見の相違もある。 だが、長子の相続上の特権が無く、取り分が半分でも女の子にも男子同等の相続権、財産権がみとめられている歴史的意義は大きい。

 
〜前回も書きましたが、先入観や刷り込まれた記憶で事柄を判断することに注意をしなければならない。 と同時に、この「ひもとく」で知ったことが本当で、このように適用され、実行されていると思い込むことにも注意が必要であろう。










  コラム2−N NO.163                                                         平成18年1月23日 記

 こんな小さな記事の中に隠されている真実
 『上海の日系企業 代金回収に悩み』
      中日新聞 1月21日 朝刊より  

 大きな活字は黙っていても目に飛び込んでくる。 できるだけ紙面の下の小さな記事から目を通しすようにしている。 といっても新聞社の編集部が取り上げるのは、何百と送られてくる記事の内の、何分の一が掲載されるだけであろう。 私たちの目に触れない記事の中にこそ、真実や此れからを予測される事柄が破棄されていることだろう。 
 何を、どのように拾い、解説するところに各社の主張や姿勢が現れるのだろう。 また、そのうちのどれに反応するかが私たち個人の考え方や姿勢ということになる。
 さて、記事の内容です。
 
 『上海周辺に進出した日系企業の7割強が、現地企業の1ヶ月以上の支払い遅延に悩まされていることが20日、ジェトロ上海センターの調査で分かった。
 同センターの副所長は、この結果を受けて中国商務部に対し、日本並みの独占禁止法や不渡り手形制度など法整備を急ぐように要請したことを明らかにした
 調査は2004年に日系千社以上を対象に実施。 4割の企業が、代金未収の額が自社の売り上げ全体に占める比率が1割以上と回答した。 
 催促しても無反応のケースが7割に上るなど現地企業は「確信犯」的という。
  それでも最終的に法手段に訴えたのは2割強で、取引への影響や中国司法への不信感から泣き寝入りしているケースも多い。』

 〜1970年代のイギリス(その後サッチャー登場)、1985年のアメリカ、「プラザ合意}(ドルの切り下げ、日本円は倍の値上がりとなった。 不況を心配しての円の増刷、それがその後の日本のバブル崩壊の要因となり、1990年代のバブル崩壊後の日本。
 1978年「社会主義現代化建設」と決定した中国は、1982年「憲法」の改正をし、そこから始まる「経済改革・解放政策」の定着、その後の経済発展は破竹の勢いである。   昨年から色々ささやかれながら、北京オリンピック〜上海万博までは問題無くこの勢いは続くといわれる反面、株式、不動産のバブル崩壊によりこれからの中国経済・社会に懸念の目が注がれている。 此れで地球一回りの経済崩壊が実体化するのであろうか。

 コラム1−D NO441で書いたように、資本主義であろうが、社会主義であろうが、「MORE AND MORE]の”物的豊かさ”を追い求め、その追求が限度を超えた所にまで膨張し、自然は悲鳴を上げた。 いや自然は素直にそれに反応した(たとえば、異常気象、環境汚染など)、詰まるところが人間が悲鳴を上げるところとなった。 
 ナノに、まだその事実を認めず、自己の我を押し広めようとしている国があり、反発する国もあれば、目先しかみずに追随する国やリーダーもいる。 
 それを「選んだのは誰か」に行き着き、うな垂れてしまう。 
 いやいや、それではダメだと言い聞かす。 新聞を、テレビを、雑誌を、各種情報を、意見を、主張を入手し勉強し、発言、行動したいと思っています。
 「好きで、楽しく、面白く、納得行くことに時間をかけたい」





  コラム2−N NO.162                                                   平成18年1月19日 記

 ひもとく 〜コーランの世界D〜 鈴木 則夫
           中日新聞 1月19日 朝刊 

 No160に続いて、No161と2回連続になり、本日で3回目となります。
 特に、意図があるわけではありません。 歯を磨きながら「何でらだろう?」と思ったところ横切ったことは、「旧約聖書=ユダヤ教」、そして「新約聖書=キリスト教」(このように区分すること事態が間違いと指摘されそうですが)に続いて登場した(といっても時代は数百年下りますが・・・)「コーラン=イスラーム教」は当時の庶民の感覚、生活実態に即したものになっていたのではないのだろうか? という考えでした。 では紹介しましょう。

 『また汝らのうち誰か(神のみもとに)召されて後に妻を残した場合、女は4ヶ月と10日の間そのままじっと待っていること。  その期間が満ちたなら、彼女がどんなふうに身を処そうとも、道を踏み外さない限り・・・・何のお咎めもない。・・                   (第2章「牝牛」234節)

    *        *              *          *
 さらに「残された妻」が1年間家から追い出されずに十分扶養を受けられるよう遺言する必要性も説かれている(同241節)。
 結婚の規定ともなれば、その指示はさらに具体的になる。』



  〜新聞紙上のみでなく、あらゆる情報媒体において離婚のことが取り上げられています。 20代や30代の一時の感情や思い込みで結ばれる。 その後、幾多のすれ違い、価値観の違いを克服して継続する生活はまさに、双方にとって修行の何者でもないのではないだろうか。 
 結婚3回説などが語られていることに関心や同感を覚えるのは私だけであろうか?
 面倒さと我慢の綱比べで時が流れてゆく。 
 「修行」とはあらゆる時と場面に必然的決定論的として位置ずけられているのであろうか
。 それとも魂の純化、浄化のために自らが選んだ過程なのであろうか。







  コラム2−N NO.161                                                   平成18年1月17日

 ひもとく 〜コーランの世界C〜 鈴木 則夫 

 昨日に続いての「ひもとく 〜コーランの世界〜です。

 『さて離婚された女の方では、3回だけ月経をみるまでは独身のままで待たねばならぬ。 その際、アッラーが胎内に創造し給うたものを隠し立てしたりすることはゆるされない。・・・
                       (2章「牝牛」228節)
      *          *          *           *
 さらに、同じ女性と離婚してまた復縁できるのは2回まで、3回正式の離縁宣誓をしたらもはや復縁は許されない(同229節)。 
 コーランの具体的な離婚手続きの規定には、離婚後の女性の生活を保護する側面もある。』

 〜コーランが完成を見たのはいつごろのことであろうか?  多分、西暦6〜700年コロではないだろうか。 そのコロの世界は男たちの戦いの場であったように思えます。(昨年の歴史の勉強は西欧世界から見た歴史ばかりで、中近東、あるいはイスラームの世界のことは付け足し見たいに語られているだけです。 今年受講しようと思っています。)
 
 昨日も思い込み、先入観を戒めたが、どうしても刷り込ませた観念が邪魔をしてしまいます。 イスラムと言うと男性優位の「男尊女卑」をイメージしてしまいます。 昨年「愛・地球博」のときいただいてきた「相互理解をめざして イスラーム」のパンフレットの中には、こんな「人間観」が書かれています。
「 イスラームは、人間がすべて平等であること、人間には誰にも侵してはならない尊厳があり、その名誉は守られなくてはならないことを説いています。 
 生命、身体、財産,信条など不可侵とされ、ひとりひとりの人生が尊重されます。  
 また、男女が平等であることについて「男性でも女性でも、良い行いをするものが信仰者であり、かれらはみな楽園にはいり、誰一人不当に扱われることはない」 (女性章124節)
 一方、イスラームは人間と人間のつながりを非常に重視します。 人間は互いに結びつき、助け合って生きている存在である。 社会も単なる個人の集合ではなく、 ひとびとが共に生き、たがいの関係の中で自分を実現していく場なのです。」と

 書くだけなら立派なことは書けますが、要は実際行動です。  この国、個人が過去どのような言動と行動をとっていたのかで判定、判断されます。
 ここ数年の日本のリーダー、庶民の言動、行動をいかに分析、評価するのか、
 そして今後、どのように進んでゆくのか、冷静に客観的にと書き、当たり障りのないことで本日は終わります。
 
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