COLUMN 2−N NO174 平成18年3月19日 記
『今 いのちが あなたを生きている 「同朋新聞」 この標語は私たちの日常的感覚からは、とても発想できない。 せいぜい”私が今、いのちを生きている”程度か。 私がこのことばから想起したものは、星野富弘氏の次の詩句であった。 「いのちが一番大切だと思っていたころ/生きるのが苦しかった/いのちより大切なのもがあることを知った日/生きているのがうれしかった」 「いのち」と言えば、この心臓の鼓動に象徴される現前のいのちだ。 彼は「いのちより大切なもの」が、という。 とんでもない、と言いたいところだが、事実は、現前のいのちが何より大切であればこそ、このいのちを真に生き生きとさせるもの、それとの出遭いが人生最要の課題だと告げているのではないか。 5年間、ありがとうございました。
COLUMN 2−N NO173 平成18年3月17日 記
『朝起きると、部屋がきれいに片付いていた。 夫に「昨日の夜、部屋を片付けてくれとたの? ありがとう」というと、「我慢比べに負けたんや」と言う。 「我慢比べって?」 と私が聞くと、「汚さに耐える我慢比べや」「お前や子どもたちはどうしてそんなに汚いのが好きなんや」と言う。 (中略) 私が綺麗にするコツを尋ねると、「元あった場所に戻せばいいだけや」というのだが、何故か私にはまねが出来ない。 これはもう、片付けのセンスの差ではないかと思っている。 残業で疲れて遅く帰ってきたのに、散らかった部屋と、子どもと一緒に熟睡している妻を横目に黙々と片づている夫の姿を想像すると、感謝の気持ちでいっぱいである。 「綺麗な部屋は気持ちいいね」と私。 夫は「今日は我慢比べに負けないぞ」と、半分笑いながら朝食を食べた。』 〜いや、この文章は共働きの奥さんが書いておられるので、大分我が家と条件が異なるが、”我慢比べに負けた”との一言は、実感できる。 会社を辞めて数ヵ月後から私の掃除場所が知らないうちに確定した。 しかも時間の経過と共に拡大し、現在は家全体の約60%が私の受け持ちになっている。 なお、私の担当場所はほとんど毎日、置物を移動して手が入っているので、不意のお客さんが来られても大丈夫である。 時折、見かねて手を出そうとすると、実に嫌な顔をするので、このごろは見ないことにしている。 と言っても洗濯場所と同じ所にある洗面所は水がスムーズに流れないと困ってしまう。 もちろん、その前に流し口に引っかかったり、詰まった髪の毛や塵を取り除けば良いのだが、私には髪の毛がほとんど無いので原因発生の責任は薄いと思っている。 そこで我慢比べとなる。 多分以前は3勝7敗くらいで負けが込んでいたが、このところの我慢比べでは3連勝していると思う。 以前、綺麗好きと思われる奥さんの知人に訊ねたことがるが、以外にも「それがどうして、どうして」との返答であった。 他の人にも訊ねてみたが、同じような意見が聞かれることのほうが多かった。 それ以来、女性は姿、形、化粧、身なりには気を使うが、実のところは整理整頓は不向きというか、性格的に上手ではないと理解し、我が相方の日頃の行動の基準を少し下げました。 下げた結果、「我慢比べで優位な情況を生むようになった」と思われる。 ちなみに、私の整理整頓のコツは「整理とは使わないものは捨てること、整頓とは使ったら元の位置に戻すこと」である。 と言いつつ、”整理”=捨てるがなかなか出来ない(貧乏性かモッタイナイか)。 書斎の本棚の整理を始めて、本日で10日ほど経過したが、思ったほど進行していない。 基準を作って棚から下ろして、いつでも資源ごみに出せる状態にはしてあるのだが、紐で括られたまま、まだ片隅に積み上げられている。
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