このページ以前の
コラムはこちら



 COLUMN 2−N NO201
                                平成18年8月8日 記

"時のおもり” 「二つの中央銀行物語」
 洋の東西でこうも違うのか  中日新聞8月8日
  浜 同志社大ビジネススクール教授


 加藤の抜書き
 
 『・ポーランドの中銀の総裁は名物男である。 その名をバルセロビッチという。
 ・ポーランドが脱社会主義化する中で、経済改革の基本設計を主導した人物である。
 ・総裁就任後は、通貨の番人としての姿勢が徹底していた。インフレ退治と為替安定。
 ・厳格な金融政策で、高金利政策の下でいかに失業があろうと微動だにしなかった。
 ・権力に屈しないバルセロビッチ氏は歴代の政府と衝突した。
 誕生間もない、現政権=国粋主義的ポピュリズム政権とは対峙構図が鮮明である。
 ・大統領と総理大臣のカチンスキー兄弟とは大宿敵である。
 ・宿敵の牙を抜かんと、今回の金融権限体制変更処置=権限縮小である。
 ・ポーランドは2004年5月他の9カ国とともにEUに加盟した。次の目標がヨーロ導入である。 このようなときに金融システムの政治史はにのりさすとなると、ECB(欧州中央銀行)のみならず、国際通貨基金(IMF)も今回の処置の妥当性を疑問視している。
 ・窮地に立たされたバルセロビッチ氏の命運やいかに。忽然といなくなることはないだろうが、気がかりである。
 ・中央銀行の総裁とはそういう職務だ。 独立性とはこういう形で機器にさらされる。だからこそ、命がけで守らなければいけないものなのだ。
 ・この職務は、決して政治家にその去就をとやかく言われてはいけない。
・いわんや、利殖問題で物議をかもし、時の首相にかばってもらうなどの、借りを作ってしまえば、いくさ制度的に独立が保障されている中央銀行でも、その金融政策の自律性は信用できない。 』

 
〜このコラムNO193で中日新聞6月15日と16日の社説を引用し、福井総裁の辞任問題を取り上げた。 
 あれから、2ヶ月も経過していないと言うのに、この問題は忘れ去られているようだ。
 5年ぶりのゼロ金利解除をして、総裁辞任をするのではないかとの憶測も流れていたが、そんな話は何処にあったのかと思われるほどである。
 バブル崩壊後の日銀の不祥事事件の時も、当時副総裁であった現福井総裁は、辞任はしたものの、どこかウヤムヤのままで、責任逃れをしたように感じていた。 
 それ故にか、様々な利害や思惑が絡んで再び日銀総裁としてで戻ってきた。
 小泉政権時代のゼロ金利、ジャブジャブの金融緩和は何処かで糸が結ばれていた、いるのではないだろうか。
 弱者が生活保障を減額され、社会負担を増額され、ゼロ金利でいじめられている時に、最高のインサイダー情報を持ち、権力を持っている立場の人間が、濡れ手に粟の大金を手にする。 
 
このような状況にあったも庶民は怒りを表さないどうなっているのだろうか。
 
マスコミも尻切れトンボ。 わが愛読新聞、中日新聞もどうなっているのだろうかといささか怒りを覚えると同時に、情けなくなってくる。
 こんなに庶民を馬鹿したような状態を放置しておいて、このまますんなりと世の中が収まるとは思えない。 
 ここで、憤懣を書き記して終わりと言うのでは情けない。
 天道様は見ているのだろうか。 知っているのであろうか。 
 きっと、全てお見通しのことと思わずにはいられない。





 COLUMN 2−N NO200
                                平成18年8月6日 記

 "座視”考える・論じる 中日新聞8月6日
〜「変わる日本外交」 ジェラルド・カーチス〜


 このコラムNO199で「ミサイルより怖い話」を掲載し、感想を述べた。
 本日は、清水 美和編集委員とは異なる視点の見解を読むことになったので、取り上げることにしました。

 「国際政治の舞台で戦後60年間も続いた低姿勢で控えめな日本外交が終わろうとしていると先々月、このコラムで書いた。
 それを裏付ける象徴的な事件が起きた。 北朝鮮の弾道ミサイル発射と、それに対する日本の政策である。 (中略)
 日本の強硬姿勢もあって、安保理は満場一致で北朝鮮を批判、警告する決議案を採択した。 当初、中国は議長声明にとどめようとしたが、最終的には厳しい決議案に賛成した。
 
 中国の変わり身は、北朝鮮にとっては想定外だったに違いない。
 が、日本ではこの結果を評価していない人が多い。 中国が支持できる決議案で妥協したことは、日本の敗北で中国の勝利だと見ている。この解釈に対し驚きである。(中略)
 日本にとって最大の目的は北朝鮮の核兵器開発を止めさせることだ。 日本単独で経済制裁をしても、他国が歩調を合わさなければ、北朝鮮の政策を変更できない。
 「中国が拒否権を発動してもかまわない」との、発言した外務大臣の政治的な意図が分からない。。
 米国が日本案支持、中国拒否すれば、日米関係がより強固になり、一方中国を孤立させる狙いがあったと思われても仕方ない。
 米国が中国を無視して、日本と一緒に当初案を投票に持ち込むと期待するほうが非現実的である。
 
 安保理は北朝鮮に厳しいメッセージを採択した。 なぜ、中国は賛成したか。
 「北朝鮮はミサイルは発射しない」と言い切った中国政府がメンツを失って、金正日総書記への怒りと米国への配慮で、対北戦略を変えたと言うことだ。
 中国の外交はしたたかとか、北朝鮮は中国の植民地になっているとか、と言う見方をする日本の評論家と政治家。
 そして、米国のネオコンの一部は対北朝鮮で日米中の合意ではなく、日米と中国の対決を望んでいたわけである。
 米国は北朝鮮との二国間交渉に応じて、核兵器の放棄、ミサイル実験の中止の変わりに経済援助、米国と日本の国交正常化というパッケージの交渉を追及すべきだ。
 が、残念ながら日本の世論と自民党の流れは非生産的な方向に傾いている。

 
〜ジャラルド・カーテイスさんの分析、評価を何度か読み直して、その意味するところは理解できたが、果たしてその分析、評価は正しいのか、適切なのかの判断は残念ながら出来ない。
 また、提案されている事柄にしても、特段に反対意見も賛同するモノでもない。
 正直言えば、分からないというのが本音である。 が、NO199でも書いたように、これまで続いてきた世界秩序の変換、転換の時にあることだけは、間違いないと感じずのはいられない。 
 急に天地がひっくり返って転換するとは思えないが、昨日エッセイFに掲載したように、「ロハス」「グレイド・コラボレーション」「カルチュアル・ケリエイチブス」と言うような、次の時代の展望が見える考え方や生き方、行動が水面下で、あるいは小さく・目立たないところで表面化していることは事実である。
 どうやら、時代を引っ張ってゆくリーダーや政治(家)は、これらの後から付いてくる流れになっているように思える。
 主役は気づいた一人ひとりであったり、チームワークであったり、そのネットワークであったり、地方であったりとこれまでの社会の仕組み(システム)や組織とは異なる、離れたところから進んでいるようである。
 と言って
、現実の政治・経済・社会の動向から目を離さず、背かず、冷静に眺め、冷静に対処する勉強と行動力は持ち続けたいものであると思っています。
 




 COLUMN 2−N NO19
                                平成18年8月3日 記

 アジア観望  「ミサイルより怖い話」 
   中日新聞7月18日 編集委員 清水 美和


 『北朝鮮のミサイル発射から始まった外交劇で、日本はある意味でミサイルより恐ろしい悪夢を垣間見た。
 それは、米国と中国が表向き対立を繰り広げながら、裏ではあうんの呼吸で意を通じ、北朝鮮など東アジアの重大問題の解決の方向性を決め、日本を蚊帳の外に置く形で決着させることだ。
 小泉政権の下で進んできた「対米一辺倒」外交とは一体、何だっただろうか。

 
(以下は、私の抜書きです)
 ・首相官邸は極秘チームまで組んで、対北制裁に踏み切り、国際安保理の制裁決議を示した。 日米タッグが形成されたように見えた。
 ・中国は制裁決議を通すわけには行かない。 拒否権行使は、国際孤立を招く。
 ・米国は北朝鮮を6各国協議に復帰させ、北朝鮮が非核化に同意したこと思い出させることを優先したかった。
→そのためには、中国の立場を失うことは米国にとっては避けたかった。
・今年1月、コキントウ国家主席は、北朝鮮に大規模な援助を約束、中朝関係は「確固不動の戦略方針」と言い切った。
 →これは、「東北の戦略的な盾」(共産党党内文書)と見る伝統的発想に加えて、北への影響力がギクシャクする対米外国の有力カードになる。
・政権発足当時、中国を「戦力的ライバル」と呼んで台湾への兵器輸出を強化したブッシュ政権が台湾独立の動きを『支持しない』と明言するようになるのは北朝鮮の核問題での中国の協力に対する見返りだった。
・米国にとって先行きの見えないイラク「民主化」やイランの核問題など北朝鮮より差し迫った危機をかかえ、今後、国連安保理で中国の協力は不可欠。
・米中二大国の利害が暗黙のうちに一致したのが今回の外交劇の本質で、北朝鮮はまさにそれを見越して、ミサイル発射に踏み切ったのではないか。
・日本には、自らの安全を大国のエゴに振り回されない複眼的な外交が問われている。


 ~長々と取り上げた、中日新聞・編集委員の清水さんは、香港駐在から中国の本土で20年前後、ジャーナリスト、あるいはウオッチャーとして活躍されておられた。
 私の香港在住当時、すこしばかり顔見知りであったこともあり、その後も彼の書く記事には注目している。 今回のこの見方と解説、そして日本政府関係者、日本人に対する警告と私たち自身への戒め、心構えとして重要と考えて取り上げた。

 小泉首相の外交は対米関係一辺倒の危惧と批判を受けながら、自衛隊の海外派兵までに及んでしまった。 これで本当に良かったのだろうか。
 最近の米国の対応を見ていると、世界の警察国家と言うよりは、その場その場の行き当たりばったりで一貫性がなく、国益重視と言えばそれまでだが、独善的なところが多く見られる。 本当に日米安保体制でゆるぎない安全が確保されるのだろうか。
 都合が悪くなれば、ハイサヨウナラと引き上げてしまはないとも限らないようにも思えるのだが・・・
 複眼的とか、戦略的とか、権謀術数とかはどうも日本人には欠けているように思える。
 基本的に備わっていないものを何とかしようと思い、考え、実行しても結局、的外れのこととなるように思えて仕方がない。
 私たちの自然をベースとした歴史・伝統・文化に立ち返り、いち早く新しい時代の世界秩序作りの一つのモデルとして、新たな日本創設の歩みを始めるべき時にあるように思えるのです。
 といって、それを国家の理念とし、戦略をくみ、実行してゆくと言う共通意識を共有できるような考えを示し、組織作りが出来るリーダーを望むことは、ないものねだりのように思える。 ここは個々人が、互いに認め合い、許しあえ共有できる考え方や生き方の人々が繋がって、小さくとも歩み始めることなのだろうと思っているこのごろです。
 





 COLUMN 2−N NO198
                                平成18年8月3日 記

 ”けさのことば”   岡井 隆 中日新聞8月2日


 『さまざまな植物。 そのそれぞれにみられる人間の性格。
  バラ、ツタ、シバ、カシ、リンゴ、穀物、ヤシ。
          「反哲学的断章」 (丘澤静也・訳) ウイトゲンシュタイン

 植物の名から人間を想像するのはごく普通のこと。
 花の名が名前になっている例も多い。 ここにあげられたシバとかツタとかはどんな人を思わせるのか。
 いつも踏みつけられている人か、ツタのようにまつわりつく人か。
 この哲学者は、謎かけをしているようにもみえる』


 〜昨日、新聞を読んでいてこの「今朝の言葉」は、切り抜き対象となると直ぐに思った。
 特に何か思い当たるとか、気になると言うのではなくて、もう一度読み直してみようと思った程度ですが・・・
 本日3日午後3時過ぎ、改めて新聞を開いて切り抜きました。 ファイルしてしまっておくことはありません。 何が切り抜き対象と感じさせたのでしょうか。
 @植物、花々、木々、秋の木の実などを眺めていると、個性があり人間にたとえるとどんな人かなと、岡井さん同様に考えることがありますので、そのためだったのでしょう。
 A読み終わった時に、直ぐに「葛=クズ」を思い出しました。
 お分かりにならない方も居られましょうから写真を出してみます。 
 少々お待ちください。昨年の確か9月ごろに、このコラム1−Dに掲載したはずだから・・
 やっと、出てきました。

     
     @                         A
        
     B                          C

 お分かりになられたことでしょう、この時期何処にでも、被い茂るように道端に元気よく蔓を伸ばしております。 @は歩道にはみ出し。A土手を這い上がっています。
 散歩の時は、別に迷惑でも・憎いわけではありませんが、踏み込むと軽く「プッシュ」と音を立てます。 翌日、同じ道を歩くと先が枯れていますが、数日後訪れると横から次の芽を伸ばし始めています。
 残念ながら、冬の「クズ」の写真は、見つかりませんでした。 あのモリモリと盛りあげた元気さは何処に行ったのだろうかと、疑いたくなるほどに枯れて小さく縮こまり、やがて消えてしまいます。 人間にたとえると、どんな人柄、性格の人なのでしょう。

 このクズの根は肥大すると、生薬の葛根(カッコン)となり、解熱剤の葛根湯となります。
 葛粉はお菓子の材料となりますし、葛の繊維は葛布を織ります。
 今ではほとんど見受けなくなりましたが、葛の行李が戦後の我が家の押入れに、長い間あったことを思い出します。
 身近にある葛、今では見捨てられて見向かれもされていませんが、何時かまた注目される時が来るのでしょうか。
 9月に入ると、上記のような上品な色で散歩道で楽しませてくれます。



 COLUMN 2−N NO197           
                                平成18年7月19日 記

 ”時のおもり”  <風景健忘症」に気づいて>
 〜池内 了  7月18日 中日新聞 朝刊

 〜イキイキ、ルンルン、ユウユウで行きたい〜


 抜き書きしても長くなりそうなので、私が文意を要約してみます。

 『パシコンを使った後、視野が小さくなった気がした。 痛くもなく、充血もしていないのでほかっていた。 が、心配になって診察を受ける。老眼鏡が目にあっていないと判明。
 目はユックリと老化して行くので、老眼鏡の性能とズレが生じてゆく。
 私たちは、ごく小さな変化かについては柔軟に対応していて、変わっていることに気が付かない。 が、時間が経ってみると大きな変化をしており、ようやく異常な状態になっている
ことに気づく。 これを「風景健忘症」という。 日々心新たに生きねば、自分や世界が異様な状態にまで変化していることを忘れてしまう。
  
 技術の進歩はめまぐるしいが、容易にそれに乗っていると異常を正常と思いかねない。
 「改革」が風潮で保守主義が悪いように言われるが、健全な保守主義は大事にされるべきである。 過去の記憶を鮮明に保ち、それと比較して現在を批判的に見る目は貴重である。
 風景健忘症を克服する1つの手立ては、過去と現在を厳しく堆肥する習慣なのではないか。 眼鏡を新調してクッキリ見えるようになったが、単に見える風景だけで判断してはいけない。 その背後に隠れている、見えない情景を見抜く眼力を持つこと。
 目の不自由なほうが、鋭い眼力をそなえているのかも知れないから』


 〜以後の話は上記とまったく関係ありません。
 子育てを終わり、40代になって再び会社勤めをされ、昨年、60歳定年で退職された方から暑中見舞いが届いた。 文面に車の免許証を取得したと書かれていました。
 早速、返事を書いた『私が免許証を取得した時は、家ごと移動しているように思えた。 多分行動半径や毎日の生活パターンが変化したのではないでしょうか。
 次はパソコンに挑戦して下さい、これまた世界が広がり、新たな発見をしますよ。
 かって、あまり考えもせずに、50代、60代になったら、イキイキ50代、ルンルン60代、70代になったらユウユウ70といいましたが、私自身今になってその意味を感じています」と。

 このところ新聞、雑誌の広告を見ていると、40代・50代から準備を初め、60代、70代が本当に人生が充実してくる時、楽しむ時、価値ある時などと書かれ、著名な俳優等が登場してきています。 
 これから数年長ければ10年、大きく時代、社会が変革してゆく時と考えています。 その変化過程の中に存在できることに幸運を感じないわけにはいられません。
 「風景健忘症」などにはならず、可能な限り他人の世話にならずに、イキイキ、ルンルン、ユウユウと生きてゆきたいと願っています。





 COLUMN 2−N NO196           
                                平成18年7月9日 記

 ”コーランの世界” 連載を終えて
 〜中日新聞  愛知大学院・鈴木則夫教授〜


 このコラムでも”コーランの世界”を19回取り上げたと思います。 が鈴木教授の連載は全部で147回であったそうです。
 現在、世界は新たな時代を迎えようとしていると感じずにはいられません。  それなのに軍事力で、資金力(金融力)で、政治力に物言わせて、自らの主張を押し通うとしている既存権力の横暴が目立ちます。 その先の行き詰まりが見えてきたが故に(あるいは盲目的に)、一層激しい行動をとろうとしているように感じてなりません。
 この1年半、世界の歴史や文化、社会をそれなりに勉強させていただき、世界には様々な信仰や生き方があり、それぞれに敬意が払わなくてはならないと考えるようになりました。

 以下、鈴木教授の論文よりの抜書きです。
 『連載の始まった昨年11月、フランスでは普段でもかなりの数の自動車放火事件があるが、「イスラム主義過激派が組織的に暴動をあおっている」と言う<文明の衝突>様式の絵を描きたがっていたようだ。
 しかし、実に皮肉なことに「コーラン」の地獄イメージの多くはキルスト教徒のそれが基礎になっている。(中略)
 イスラム世界とは、経典を共有するキリスト教徒やユダヤ教徒などと共存共生した多様多層の空間にほかならない。
 キリスト教(西欧近代)対イスラム世界と言う認識構図は、それぞれのルーツをよく探れば奇妙な議論である。
 中世史家の言うように、かって「十字軍」は西欧キリスト教世界に置ける「異教徒」幻想から始まった。 現在でも、「集団ヒステリー状況」とも言えるその虚構や幻想の対立図式が不断に生産構成されることによって、世界政治は動いている。(中略)

 今年2月に「ムハンマド戯画事件」が報道された。 ムハンマドの戯画がムスリムにとって不快であるのは、ムハンマドは崇拝の対象ではなく、敬意を持って語られるべき人間である。 偶像崇拝の禁止は、「コーラン」」で多く言及されているが、ユダヤ教、キリスト教の教義においても共通している。

 様々に起こった出来事を見ると、現代社会の趨勢をなるべくゆがみなく考えてゆくには、『コーラン』や『ハデイース』など、イスラムに関するコモンセンス(教養と常識)を身につけておいたほうが良い。  以下略


 
〜昨年から始まった世界史の勉強で、それまでに刷り込まれていた認識が大きく変化した一つに、「キリスト教」「イスラム教」があります。
 特にイスラム=ムスリムの世界のことについて言えば、私は一般的に意図を持って報道されていた情報によって、操作されていたともいえると考えるようになった。
 それ自体がまた、教鞭をとった教授や参考文献の取り上げ方や価値観、情報に操作されていないとも限らないが、少なくとも、それらの考え方、意見、歴史的事実を知ってうえでか、知らなかったかの後に、現在の私の感じ方なのであるから以前よりはレベルアップしていると思いたい。
 ムスリムの世界のことで言うならば、平等主義である。。特に神の前では貧富、身分の差はない。日常生活時はさて置き、メッカ巡礼時においてはなおさらのように思う。
 
また、他の宗教への容認度を考えても、その歴史はキリスト教のそれよりも高い容認度の歴史であったと考えられる。
 決して、キリスト教を非難して、ムスリムを評価すると言うわけではない。
 今まで、私に刷り込まれていた認識が変化したと言うことです。
 それより大切なことは、世界には様々な信仰や価値観がある、それらを客観的に認識することができる教養と常識が必要であると、痛感させられる近頃です。





 COLUMN 2−N NO195           
                                平成18年7月2日 記

 ”今週のことば” 青山俊董  中日新聞7月2日 


       「生涯修行  臨終定年」     松原 泰道

 99歳の泰道老師の手紙に中に、生涯修行。臨終定年の一句が入っていた。
 <還暦の峠を越えて あらたなる  また旅立ちを するぞうれしき>
 
 人生に退職はない。 最後まで本番。 最後ほど本番。
 人類の先達が遺してくれたすばらしい教えを学ぶのに時間が足りない。
 よし、やるぞ! そんな思いで13年前に詠じた私の歌である。
 一度目の人生の暦の旅は、主人公という、または主婦と言う配役で忙しく。それなりに生き甲斐もあろうが、忙しさにかまけて足も心も宙に浮きかねない。
 二度目の暦の旅は、一応第一線から退いて、自分自身と向かい合う時間が多くなる。
 その代わり、人生を「生老病死」の一言であらわすなら、「老病死」という景色も多く現れるようになろう。
 積極的に老病死を見据えて人生を深める、そんな一歩一歩でありたいと思う。

 〜
毎朝の礼拝時に唱える「延命十句観音経」の中に「常楽我浄」という一行がある。
 常徳、楽徳、我徳、浄徳のことである。
 「楽徳」には、人生は苦の連続と知るべし、生老病死なり。
 不動の忍耐心を持ち、正しい道を歩む  ならぬ堪忍、するが堪忍
 安禅必ずしも山水を用いず、心頭を滅すれば 火も自ずから涼し。 と、どこかの本から抜き出してきた解説を紙に書き出し、それを読み上げている。

 読み・読経はするものの、不動の忍耐心は養われず、まして何が正しいのかも迷い迷いである。  堪忍に至っては記憶のかなたのどこかに置き忘れたままである。
 
安禅(安らかなさま、落ち着いたさま)を求めるて、心頭を滅するどころか、慌てふためき火の中に飛び込んでしまってきた、そして今もアチチと水をかけている状況である。
 それでも、これが臨終までイイカゲンな修行僧のひとつの見本である。と今週の言葉を切り抜いた。



 COLUMN 2−N NO194
                           平成18年6月23日 記

   けさのことば     岡井 隆
           中日新聞6月23日朝刊  


 してしまったことを悔やむより、したかったのにしなかったことのほうが、悔やみが大きい。  
         ユダヤの格言集   (トケイヤー編著、助川 明 訳)

 
高齢になって振り返ってみると、この思いは特に痛切だと言われる。
 
確かに「失敗は成功の土壌づくりに役に立つが、しなかったということは、可能性という土壌そのものを失っていまうこと」である。
 しかし、するかしないか、この選択は常に微妙である。
 ・・・・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・:*・・・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・・

 今朝、この言葉に出会った時、即座にこのコラムに取り上げようとおもった。
 特別の意味がある訳ではないし、今思えば大した事ではなっかたが、私にも何度か「止めようか、進もうか」迷ったことがあった。 
 
そして、ほとんどの場合「進む・やる」という選択をした。
 それが後から見ると、よかった事もあったし、あの時止めて置けば良かったのにと思うこともたびたびであった。
 しかし、それは全て結果であって、今日あるのはその連続の結果であるのだから、良いも悪いもない。 全て必要必然であったと受け入れるほうが、精神衛生上にはベターであると思うことにしているから、 近頃はそれだから今日があるとプラス発想である。 

 
この歳になっても「言おうか、言うのを止めようか」と躊躇することがある。
 大半の場合は口にしている。が、 躊躇する時の自己評価をすると、「こんなことを言ったら後が面倒になる。 嫌われることを言わずに置いたほうが楽だ」というような、その場の打算で過ごしていることが多い。 そして、その後に口にしなかった自分に嫌気をさしてしまう。
 自己弁護や利益ばかりを思っての行動には、どうも体質に合わないようだ。
 と言いつつ、その場の自己満足のために、あるいは自己弁護で他人を傷つけていることが多々あるのではないかとも思い至りることもあり、GO&STOPのバランスは難しい。

 岡井さんは「するしないか、この選択は微妙である」と、上手に逃げている。
 岡井さんの本音や、これまでの処世対応を聞いてみたいものである。







 COLUMN 2−N NO193
                           平成18年6月16日 記

 福井日銀総裁「日本の信頼に傷がつく」 6月16日
          「これは辞任に値する」  6月15日
     中日新聞 朝刊 より 


 6月15日 朝刊中日新聞社説より
 「日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドに一千万円を投資していた問題が波紋を広げている。 金融市場は日銀の独立性に疑問を投げかけた。
 信認を失った以上、速やかに総裁を辞任するほかない。

 
同日の経済面には・道義的責任ある/辞める必要ない 批判と擁護交錯
              利益は億単位? 憶測飛び交う

 6月16日 朝刊中日新聞社説より
 「福井俊彦日銀総裁の村上ファンド出資問題は異様さを通り越して、どこか醜悪な様相を呈してきた。  
 このままでは、福井氏や日銀だけでなく、日本経済と金融政策への信頼が傷つく。

 そして、1面トップに
 
             「日銀総裁 辞任を否定  複数企業の株も保有」とある。


 〜中部地方を中心の新聞とはいえ、全国紙にも引けをとらないと見ている中日新聞が、2日間に渡って「社説」に取り上げるのはめったにないことである。
 このこととは、直接関係はないが「コラム2−N NO189で「ヤッパリ、世界バブルが弾けたか?」の項で、2001年10月9日の前日銀総裁速水氏の発言を取り上げた。
 福井総裁は少なくとも前・日銀速水総裁とはまったく反対の金融政策をとった。
 ゼロ金利に、ジャブジャブとお金を世界にばら撒いた。 日銀総裁になるのに政府に借りがあったとかで、そのような金融政策をとったとか、あるいは小泉政権の次の政権になるまでに、これまでの政策転換をしておき、フリーハンドになっておきたかったとかの情報があるが、私には遠くの話である。

 が、どうもここきて人気絶頂であった小泉政権も昨年末よりヨレヨレになってきたようだ。
 国会の延長もなく、早々と終了するのは、これ以上やっていると化けの皮が剥がれるか、全ての献金が森派(小泉政権に通じる人々)に流れていたが、流れが変わって検察の動きも変化きたという。(押さえ込まれていた人々が、米国の小泉離れの変化を読み取って)
 小泉政権が誰に変わろうと、政権交代しようが、もっと大きな時代の流れの中では大したことはなさそうである。 と言って、金融の総元締めの日銀総裁問題がこのまま玉虫色の決着に終わるのであるならば、やはり問題である。
 それを許している、マスコミ、評論家、政治家、そして私たち庶民も如何なものだと感じ、考えているのだが、年寄りの冷や水であろうか。
 
 リーダーや責任ある立場の人間が、イイカゲンであるから世の中乱れるのである。





 COLUMN 2−N NO192
                           平成18年6月 8日 記

 今、元気で・明るく・前向きに生きている人々の特徴
    藤原直哉のワールドレポートNO520より 


 この怒涛の混乱期に苦労しながら21世紀の生き方、仕事の基礎を創られた方々を「ロハスなジャパンの研修」の一環として、全国各地を訪問し、お会いした方々の共通した特徴をまとめておられたので紹介します。 一部加藤が文意を損なわない程度に変更しております。
 
 『今、「元気で・明るく・前向きに生きている人々」の特徴 
              藤原直哉のワールドレポートNO520より

 1、天と地の両方につながっている=“片手に神仏、片手に科学”
 ・天とつながる→天のシナリオ、自分の使命を感じ取る能力をもち、理屈や体面にとらわれずに行動する意思を持っている。
 ・地とつながる→世の中の因果関係を理解、非常に困難なことでも具体的に実行できる技術、忍耐力、熟練の力を持っている。
 ・その逆は(天とのつながりなし)→何をなすべきかの判断、なにを幸せと思うかの価値観の範囲がせまくて自己中心的、部屋の中に閉じこめられた蜂のようで、外に出ようと明るい窓ガラスに突進する生き方。
 (地とのつながりなし)→思いは前に進むが現実社会における行動力が十分身についていず、結果を出せない。
・両方につながっている人は、何故これをしないのかの意思決定が爽快かつ確信に満ちていて、目先の利害損得にとらわれず、しかも行動する力があるので、人が困難という仕事を楽しそうにこなしている。
・現在、相場を張っている人たちのブログを見ると→暴落→阿鼻叫喚の地獄

2、中途半端なものを大きくするのでなく、小さなものでも良いものを創ることに精力的。  全部自分で納得がゆくものを、小さくても良いから最高のものを作るべく精進している。

3、諦めるものを見事に諦めている。 今の時代はまだ理想の時代から距離がある。よって天地につながり、良いものを創ろうとすると諦めなければならない。
 お金、規模、評価、スピード等々の制約条件で、中途半端な仕事になりやすい。
が、ほんもの一流の人は、諦めるものは諦め、小さくても中身の濃い意義のある仕事をしている。→一人ですべてを傘下に収めるよりは、一人ひとりが強みを生かして、後は横に連帯して仕事をしている。
4、良い人には良い友達がいる。

・以上のような人たちが相対的に元気よく、影響力が高まってきている。
時代の回り舞台はすでに相当回っているのではないか。


 〜以上です。 読めばそれなりに理解は出来ているつもりですが、それをバブル崩壊後の大変な時代に、やり遂げられてきたと言うことに及ぶと、感心はするものの自分に置き換えるっと寂しくなってします。
 6月7日の朝刊、経済面の下段にこんな記事だ掲載されていた。

 『スローライフ学会 旗揚げパーテイー
 
「ゆっくり、ゆったり、ゆたかに」が合言葉。 「速く、大きく、便利に」の大量生産型高度成長社会からの転換の道を探ろうと発足。 環境にやさしく、自然を体感できるなどの特徴がる「スローライフ」や「地域の商店街お越し」などのテーマで分科会や交流会を進める。』

 〜この記事の通りなら、かなりせわしく生きてきた数年前と異なり、体も動かなくなり、頭の回転も鈍ってきているので、勝って気ままでOKというなら、付いてゆけるかなと思っている。

 もう一つ、これを追加しておきます。 
 この記事は、前回紹介しました、熊谷弘さんブログからの転載です。
 
 『ロハスの理論の元祖ともいうべきポール・レイ(Paul H,Ray)博士はLOHASは、人類が近代から次の時代に移行していく過程だと述べている。

近代とは人類が都市化され、工業化された世界に到達した段階のことをいう。今我々人類は、どのように生活し、働くかについて根本的な、構造的な変化のさ中にある、というのである。それは自分たち自身のあり方についての考え、あるいは又政治や経済や技術の動かし方について変化(transformation)を求める。
この道をうまく進むことができれば、人類は環境を破壊することなしにこの地球で暮らしつづけることができるようになるし、我々の子孫たちに生きる価値のある未来を残すことができるようになるだろう、というのである。

近代主義(Modernism)という港を出発して次の港へ向けて出発する船はLOHASの海を航行することになる、というのだ。


 
『TV各局で放映されるLOHAS関連の番組をみていると、確かに日本ではLOHASは一種のファッションと受け止められているようだ。
坂本龍一や、役所広司のしゃべっていることは、軽いタッチで気難しくない表現を使っているだけに、オキラクさんの生き方ぐらいに思えてくるのだ。よく考えてみると実はなかなか深味のある、けっこうガンコな生き方の表明なのだが、それがそうとはみえないところがミソである。

そもそも米国ではLOHASというコンセプトは思想的、マーケッティング的アプローチから作られたものであり、米国自体ではLOHASという言葉そのものは一般市民までに浸透していない。

一方日本では芸能人やモデルなどが牽引力となって、消費者を中心に、ファッション的にまずLOHASという言葉が広まってしまったという事らしい。

LOHASCLUBによると、「明確なロードマップがなく、かといって昔の暮らしや貧乏な感じ、攻撃的な環境運動もイヤだなと思っていて一番オシャレな自分らしい生き方を考えるとLOHAS的な生き方になってしまう。そんな人たちが拡大しているというのが、ちょうど今なのである。」のだそうだ。









 COLUMN 2−N NO191
                           平成18年6月 8日 記

  ”ひもとく” 「コーランの世界」  Q R
 〜中日新聞6月5、7日朝刊から 鈴木 則夫〜 


 「コーランの世界」は6月7日をもって最終回となった。
 多分200回以上の連載であったろうが、そのうち本日も含めて19回掲載することになりました。  ではQ回目の切り抜きから掲載します。

 「まこと、アッラーは(天上の)楽園と引き換えで、信徒たちから彼ら自身とその財産とをそっくり買い取り給うた。 
 アッラーの道に奪戦し、殺し、殺されておる彼らじゃ。 これは律法(トーラー)、福音、およびクルアーン(コーラン)にも(明記されておる通り)アッラーも必ず必ずまもらねばならぬお約束。・・・・(9章「改悛」112節)
       *        *          *        *
 
啓示は一方的に天から下される。 だが、アッラーと個々人の魂との「契約」として、相互性が底に担保されている点が意義深い。
 

 
続いてRから
 「アリフ・ラーム・ミーム。(2章「牝牛」1節)
        *        *        *        *
 
全体のうち29章の各冒頭部には、これと同様に単なるアルファベットの羅列の複数、単独の文字列が記されている。
 コーランの言葉(カラーム)を正しく認識する努力や議論が、後々イスラーム神学(イルム・ル・カラーム)を形成させるのだが、文字列の意味に諸説あり、未解明で謎のまま。
 逆に、「謎」を秘めるからこそ魅力ある啓示テキストが維持継続されてきたのかもしれない。
 
〜私はキリスト教徒でもなければ、イスラム教徒でもない。 
 昨年からヨーロッパの歴史を学んでいると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を勉強しないと、ヨーロッパのことは理解出来ないということは少しわかってきました。
 今年の夏休み前までには、ユダヤ教とキリスト教の関係、そして7世紀になり同じ地より生まれたイスラム教についても学ぶことになっています。
 3宗教ともに、聖書の預言者アブラハムの宗教的伝統を受け継ぐと称している。
 これらの宗教をさして砂漠の一神教と呼ぶこともある。
 神の言葉をまとめたものであるとされる聖典(聖書やクルアーン(コーラン)を重んじ、イスラム教による伝統的呼び方では啓典の民という。

 神学的な意味の理解は到底理解できるものではないが、3宗教の生い立ちというか、生まれた背景や3教の関係は今までよりは、かなり知識を得る事になった。
 それにしても、平和と安寧を願う宗教が、この時代に”文明の危機”ともいえる、戦いを繰り広げているのは何故なのであろうか。
  
 「アッラーのほかに神なし」(ラー・イラーハ・イッラッラー)
 「ムハンマドはアッラーの使徒なり」(ムハンマド・ラスールッラー)
 この2つの言葉からなるのがイスラームの根本原理。
 前者は唯一の神と信徒との垂直軸の関係を示し、後者の言葉はムハンマドを指導者としてムスムリの共同体を形成してゆくということを意味するという。

 唯一神なるが故に、強い絆で結ばれているのだろうが、同時にこの神は他を許さぬ愚痴深い神でもあろうか。
 自然神、八百万の神々の下で暮らし、血を引く者にはなかなか受け入れずらい神である。
 と言って、逃げてばかりではいけないと、この”ひもとく”を読ませていただき、勉強してきたが、分かりましたと言うには程遠いことです。

 6月7日からの「ひもとく」は「万葉のこころ」と題して連載されることになりました。
 「万葉集」は現存する最古の歌集で、全20巻。 いまから約1300年前、7世紀後半から8世紀半ばまでの長歌や短歌など約4500首を収録しているとあります。
 季節歌、相聞歌(恋歌)、旅の歌、挽歌、宴席歌、戯笑歌などが紹介されると言う。
 イスラームよりは理解可能かと思っているが、MORE&MOREに漬け込まれたこの心根では、古代の人々の大らかで、優雅な世界などは理解の外になるのだろうか。




前のページはこちらからどうぞ