エッセイD 旅日記
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                          平成19年4月3日 記

 ”世界一周,101日船旅日記 37日目” 4月3日
 
 〜地中海に入り一気に気温が下がりました〜


 北緯28度のスエズ運河を渡っている頃より、風も強かったが気温の低下を感じ出しました。 昨日のアレキサンドリアも異常気象とかで、数日前は最高が30度、最低でも20度と言っていたが、昨日は最高が22度、最低は15度くらいではなかっただろうか。

 昨夜(4月2日、23時)にポートサイドを出港し、現在地中海を北西に向かってギリシャを目指しているが、今朝のオープンデッキ・ウオーキングは体が温まるまでに15分ほどかかった。 瞑想のTさんも薄手のコートを羽織って登場したが、何時もより早めに「寒いですね」と言って引き上げていった。
 
 私は通常どうり約80分の朝の運動と礼拝を終えましたが、汗はなしでした。
 多分、今頃は北緯32度の辺りを航海していると思います。
 風もありプールの水が左右の壁にぶつかり、水しぶきを上げていました。

      

   

    


    



 
                          平成19年4月3日 記

 ”世界一周,101日船旅日記 36日目” 4月2日
 
    〜地中海の街・アレキサンドリアへ〜


       
                4月2日朝のポートサイド港

 4月2日は早朝5時半出発で、アレキサンドリアを目指しました。 片道3時間半の行程です。 昨年エジプトのカイロ、クレソール、アブシンベル宮殿などを訪問していますので、このコースを選びました。、
 
 アレクサンドリアはマケドニアのアレクサンドロス大王が、紀元前30年代、その遠征の途上で、オリエントの各地に自分の名前をつけて建設したギリシャ風の都市のそれぞれを指す。 最も有名なのがエジプトである。

  現地語であるアラビア語でも「アレクサンドロス(アラビア語で町)を意味する「アル=イスカンダリーヤの名が使われている。
 一時は人口100万人を越えた。そのために「世界の結び目」と呼ばれた。

 「地中海の花嫁」と呼ばれる港町=アレクサンドリアは、猥雑でアラブ色が濃く・香辛料の臭いがする典型的なイスラム都市カイロとは違う雰囲気を持っている。 歴史的経緯からも多文化の要素を持っており、開放的なコスモポリタン、欧米的な雰囲気の国際都市です。

 古代のアレクサンドリアは世界の七不思議のひとつ、巨大なファロス島の灯台(現カーイト・ベイの要塞)や、70万冊の蔵書を誇りながら忽然と消えた「アレクサンドリア図書館」。 1世紀には世界最大のデイアスポラ(パレスチナから他の世界に離散したユダヤ人)を擁した。

 4世紀以降は東ローマ帝国(ビサンテイン帝国)により支配された。 この時期、アレクサンドリア学派の神学者が活躍。 641年、アラブ人により陥落、イスラムの世界に組み込まれた。

 アラブ時代は当初東ローマ帝国から切り離され、経済的に停滞したが学芸の都としての性格は残り、アラビア科学揺籃の地の一つとなる。
 やがて、紅海からカイロを経てアレクサンドリアにもたらされるインドの香辛料を求めてヴェネツアなどイタリア半島の商人が訪れるようになり、再び繁栄。
 
 16世紀アフリカ周りのインド洋航路の開拓で、イタリア諸都市とともに再び衰え始めたが、19世紀、ムハンマド・アリーの近代化改革の一環、ナイルデルタで輸出用の綿花が大々的に栽培、エジプト積み荷の港隣、国際貿易都市として繁栄。

 では見学順に紹介しましょう。

               
                  
                   アレキサンドリア国立博物館

           

       

 価値が分かる人には物凄いものなのでしょうが、私にとってはフラッシュ禁止の中、これだけの写真が撮れた事を喜びました。 まだ他にもありますが・・・・

    

 この辺は高級マンション群ということです。 建物が西欧調です。 一軒が200平方メートルあるそうです。

              
      ミナレット                カイロに比べ非常に少ない馬車

    
     
  ポンペイの柱 、302年、ローマ皇帝デイオクレテイアヌス帝王が民に食糧を施したことにより、王様に贈り物として柱を贈った。  この柱が400本はあったろうと言われている図書館の柱のうちの一本。
 現在、建っている場所はもと浴場であった。 その燃料はゴミだった。

       

   今も発掘が続いています。     傍らに何気なく石のタブがころがっていました。

   
    庶民の買い物         路面電車            庶民の道路市場

       
          
      海岸線前の大通りです。この道を渡るのは至難の業でした。
   地元の人が渡るのに合わせて、向かい側に渡るのがヤットでした。

   
 
 この海岸線、夏になると山から砂を運んで来るそうです。 それでも3ヶ月経過すると全て元の状態になってしまうと言っていました。

 次は紀元前270年頃、建築家ソストラトスが設計し、高さが約120メートルの塔があった。 56Km先からも光りが見えたといいます。
 14世紀の大地震で倒壊、15世紀、マルクール朝スルタン・アシュラフ・カーイトウベイにより灯台跡に要塞が建てられた。 

          

    

      内部に入ってみましょう。

    

   
                 
                塔の上からの眺望です。

 プトレマイオス一世(前367頃〜前283)が文学・歴史・地理学・数学・天文学・医学など世界中のあらゆる分野の書物を集め、70万冊の蔵書を誇りながらも、歴史の闇に忽然と消えたアレクサンドリア図書館。
 古代最大の図書館は数年前、世界から資金と蔵書を集めて、ここの場所であったろうと思われるところに、現代のアレクサンドリア図書館が開設された。

          

      

 ムハンマド・アリー朝について
 
 19世紀初頭から約150年間、エジプトを支配した王朝(1805~1953年)。
 彼は現ギリシャ領北東部、マケドニア地方の港町カヴァラ生まれの商人。 ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がエジプトに侵攻をしたときに、対抗するためにオスマン帝国が徴募、派遣したアルバニア非正規軍の将校の一人、侵攻に伴う戦乱状態を制して、1805年エジプトの住民の推挙により総督になる。

 エジプトはオスマン帝国の支配下の州でありながら、長くマムクールら在地の有力者によって実効支配を受け半独立状態であったが、オスマン帝国の承諾を受けて正式に
総督に就任したムハンマドはマムルークを撃滅してエジプトの支配権を掌握。
 ムハンマド・アリー朝を実質的に成立させた。

 この王朝は昨日記載したように、第2次世界大戦後の1948年に起こった第1次中東戦争で惨敗、王制の支持は失われ、軍隊内部でもナセルを中心とする体制転覆を狙う秘密結社自由将校団が結成される。 

 エジプト国内の急進的な動きは1952年,反外国人暴動に発展したが、王制はこれを収拾する能力を持たず、この混乱の中、自由将校団はクーデターを起こし、無血革命に成功、1953年革命政権はムハンマド・アリー朝の廃絶を宣言し、エジプトは共和制に移行した。

 アレキサンドリアの往復の間に大きな湖では、こんな船を使って漁をしていました。 
 船腹がなく、上に乗って漕ぐようです・・・
 
   


 
                          平成19年4月1〜2日 記

 ”世界一周,101日船旅日記 35日目” 4月1日
 
       〜スエズ運河を渡る〜   


 3月31日の23時頃から4月1日の一時半頃の間に、ポートサイドの沖に錨がおろされた。
 4月1日、午前5時半に起床し、オープンデッキ・ウオーキングをしながら日の出を待つ。

   


   

     日の出時間が5時32分でしたが、太陽が見え始めたのは6時過ぎです。

     
  
  朝日に照らし出された大型船。 この船とコンボイで運河を北上するのでしょう。

 4月1日、午前9時過ぎに船が動き始め、運河に入る。 コンボイという船団を組んで北向船団の一隻としてトパーズ号も含まれた。 前方はパナマ国籍の旗を上げていますが、日本郵船の船とのアナウンスメントがありました。

         
              
               運河の入り口に向かっています。

   左舷側にポートスエズの町並みは続きます。

    

    

     それに比べて右舷側、シナイ半島側には何もありません。砂漠です。

     
     
                
               
                 左舷側に距離を示す標識があります

 運河の幅は180〜広いところで300メートル、深いところで30メートル。
 全長160〜171Km、速度は10〜12ノットというから(1ノット=1.8Km)約10時間ということになります。
 
  船の安全幅は500メートルと言われるから、この間船長は緊張します。 4名のパイロットが次々に乗船(担当地域がある)してくるが、指示は出すが責任は船長。
 また、アラブ人が19人乗り込んでくる。トラブルと夜間航行のためと言うが、仕事10%で、90%は土産物屋の開業となるそうです。
 
 景色の見所は運河に入って直ぐにスエズの町並みが見える、メッカ巡礼の基地の町。
 二つの湖とイズマリヤというリゾート地。 大陸側を鉄道が走り、運河の橋=ムバラク平和大橋=アフリカとユーラシア大陸を結ぶ巨大なつり橋(日本政府のODA援助、橋の高さはクフ(ケオプス)王のピラミッドの高さと同じ140メートル)にかかる頃、ポートサイドに近づき夕日が見れる。

 なを、この運河の通行料金はトパーズ号で約2000万円強とタバコ・”マルボロ”が数カートン必要となる。 別名マルボロ運河と言われるのは袖の下によって付けられた名。

 紅海と地中海を結ぶこの運河は1869年=日本の明治維新頃に建設された。
 フランス外交官が指揮した。 1859年の起工式。 劣悪な労働条件のもと、最大時は3万人のエジプト人が、朝の4時から夜の10時まで無給で働く。 工事中に12万人の死者がでた。
 完成した運河も、エジプト政府の困窮により、完成後6年で英国に売却。英国はその後、莫大な利益。 1914年、イギリスはエジプトを保護国化宣言。

 第2次世界大戦後、国連はパレスチナの地をアラブ地区とユダヤ地区、そして国際管理地区に分割する「パレスチナ分割決議」を採択。 この分割案を不服とするパレスチナ人、周辺のアラブ諸国がイスラエルに進軍し、第1次中東戦争が始まる。
 
 結果はアラブ諸国の敗北、国連案よりさらに広い領土をイスラエルは支配下に置く。
 この敗北の原因をアラブ支配層の腐敗に求めた青年将校の一人がナセル。
 1952年クーデターを強行、エジプト王制を崩壊させた。

 1956年その4年前にクーデターで政権を握り、エジプト共和国を成立したナセル大統領よって「スエズ運河の国有化」宣言。
 これに対し、英仏・イスラエルが派兵、第二次中東戦争が勃発。ナセルは船を沈めて運河運行の封鎖。
 軍事的には完全な敗北を期したナセルだが、米ソが三国を非難、撤兵実現。 結果的にエジプトの外交的勝利となる。

 1967年第三次中東戦争は6日間の戦いでイスラエルに大敗。ナセルの威信失墜。
 1970年ナセル死亡。 サダト大統領が就任。 ソ連の影響を排してアメリカに接近。
 イスラエルと単独国交を樹立。 「アラブ世界では「裏切り者」と孤立」。
 
 1981年、国内経済の混乱、貧富の差拡大。 失業率上昇。国民の不満爆発。
 抗議行動を激しく弾圧したサダトは、81年、反体制派によって暗殺。

 

 運河に入って約3時間リトル・ビター湖に入ってきました。 特に何があると言うわけでもないのですが、エジプト空軍の基地が遠くに霞んでいました。

   
 
 リトル・ビター湖、中央微かに塔がある  さらに↑、1時間経過、ビッグ・ビター湖です。ここでは南下船と北上船が交差します。


 運河通過中に「地球大学」の宿題”戦争が終わって、和解のために政府のできることと、民間・市民のできることは、何ですか?” をグループデスカッションしました。
 
              
       
        そのメンバーです。前列右と左は韓国の大学生です。

 運河に入って6時間半が過ぎました。 「中間点イスマイヤに近づいています」とブリッジよりアナウンスメント。 

             
          
        左側がイスマイヤの町、船は右の航路を取ります

           

               
          
         ↑左舷側に第2次世界大戦のときの戦没者の慰霊碑

   
            
             ↑右舷側には中東戦争の戦没者の慰霊塔

     
         
         WELCOME TO EGYPTの文字が見えます

      また、イスマイヤは避暑地としてでも有名と言うことです。↓

   

   

    

            対照的に右舷側は砂山です。↓

     

 それから1時間後、「ムバラク平和大橋」は11Km先にその姿を現し始めました。
 この橋は2001年10月9日に開通しました。 アフリカ・ポートサイドとシナイ半島を結ぶものです。 
 両岸を結んでいるのは、地下トンネルと橋がありましたが。日本政府の無償により、鹿島建設・日本航空・新日本製鉄によって建設されました。
 橋の部分が日本からの無償提供で、両岸にいたる道路はエジプトが実施しました。

 砂漠をバックに世界最大の高さ140メートルの橋です。 この高さは古代エジプトのクフ王のピラミッドと同じです。
 海面から橋のところまでは70メートルあります。 ちなみに横浜のべーブリッジは55メートルです。
      では、今から徐々に近づいてゆく様子をご覧に入れます。

   

      

               ここからは5Kmをきりました。

    

             この日の天候はこのような空模様でした。

      

   

   この橋を左側から       真ん中のところ           そして、右側

          

    トパーズ号は橋の真下に近づきました。 時速20Kmなのに早いです。

                

               
            エジプトと日本の国旗が掲げられています

                

               

                                 
      

 本日は大変忙しい一日でした。 宿題はやらなければならないし、その間にブリッジからの アナウンスメントのたびに、デッキに上がって撮影です。

 
この平和大橋を通過した後はしばらくキャビンで撮影した映像の処理をしていました。
 いつの間にか、ポートサイドに錨がおろされておりました。
 ポートサイドの夜景を紹介して今夜は御休みです。

 かなりの自信作があったのですが、何と消えているではありませんか。 
     がくがくがくがく・・・・・ガクガクガクガク・・・がくがくがくがく・・・
                
今夜は 寝ます。 プツンです。



 最後の望みをかけてカメラを操作してみました。残っていました。
                 「釣り落とした魚は大きい」と言う意味が分かります。

    

                     

    

         安らかに、眠れます。「ありがとうございました」
   




 
                          平成19年3月31日 記

 ”世界一周,101日船旅日記 34日目” 3月31日
 
    〜スエズ湾に入り北上を始めました〜 


 アフリカの角と言われるソマリア半島を回って紅海に入った昨日から、日の出の様子が違ってきました。
 それまでは海面が水蒸気の為でしょうか、雲間から差し込む日差しだったのですが、地平線上にポカリと浮んできます。北緯15度を越えた頃からと思います。
 
 時差が1時間出まして本日の日の出は5時22分です。(身体時計は6時22分)
 日の出前からオープンデッキ・ウオーキングが始まりました。

             

   

   

 上の3枚の写真は解説がないと、何がどのような意図で掲載されたかはご理解できないでしょう。 
 解説します。 3月31日午後2時ごろ(日本時間午後9時)にスエズ湾に船が入りました。 左舷側はアフリカ大陸、 右側がシナイ半島ということになります。
 アフリカ大陸に近いところを航行していますので、左舷には遠くに山並みが見えます。
 
 右舷側もよくよく見ると(意識すると)ボワ〜と大陸を感じるのではないでしょうか。
 アフリカ大陸とユーラシア大陸の間を北上しております。

 夜は「洋上お花見フェステイバル」が開催されました。 プールデッキで開催されたのでしたが、前線でも通過しているのか15メートル以上の強風です。
 屋台も出る予定でしたが取りやめられ、提灯も吹き飛ばされるので取りやめです。
 
                  
            
         苦労して作ったであろう紙でできた桜です

   

    この日は船内で行われています自主企画の発表会でもありました。


      もう一つのイヴェントは「サナア オークション」です。

    

 どんな品が出品されたのか、いくつかを紹介しましょう。
 @一日クルーズディレクター体験 A瑤子とサッコ&ウッシーのアシュラ・マサージ
 B出港の銅鑼鳴らし券 C出港の汽笛鳴らし券 DGETガールズとのデート
 E船長との食事券 Eトパーズ号最上級のキャビン宿泊券 Fマリアノの外国語レッスン2時間  G丸窓スーぺリア(窓あり、お風呂付)宿泊券 など

             
       
      華やかな司会進行係り     その裏では照明・音量の担当がいます   

   

 当日の最高価額は旅の全体を映像化しています担当のCDの全記録で、5万円の値がつきました。 若い方はどうしても小遣いに限度があるようで、私の隣に座っていた子が、それだけあればオプショナルツアーに一回行けると言っていました。
 500円から競り始めるのですが、人気のものは一気に5000円、1万円と跳ね上がります。
 1万円を越える頃から、誰が値をつけているのだろうかと、振り向いたり、立ち上がって確かめています。 
 
 美人のピースボートスタッフと「ワインで昼食券」も3万円の値がついていました。 おじ様が落札しました。
 これらの収益金はピースボートの行っている各地の支援金に使われると言うことです。
 全出品は36点でした。平均1万円として36万円となります。 もっと集まったでしょう。  



 
                          平成19年3月30日 記

 ”世界一周,101日船旅日記 33日目” 3月30日 
〜「地球大学」関係でイロイロな講座に出席〜   

 
 トパーズ号は紅海を北北東のスエズ運河を目指して進んでいます。

   

       ポカリと日の出の太陽はまるでピンポン玉のようです。

 本日「地球大学」関係のセッションに次々参加。
 イスラエル人とパレスチナ人双方から過去、現在、未来の話を聞く。
 チョットやソットの時間と双方の和解努力では、問題は解決されないことをますます実感します。
 私達はそのように言って片付けられるが、そこに住んでいる人たちのことを考えると、コメントも出来なくなってしまった。

 
今(午後8時)夕食から帰ってきました。 
 夕食時に同席した夫婦さんとの会話を記録しておきます。  お二人は年齢なら60歳後半でしょう。 お子さんがいません。
 
 大手建設会社に勤務されておられていました。
 話のポイントは「今の若い者はダメだ。 女の子の話し方はどうだ。男言葉で話している」、「これは団塊の世代が悪い」「団塊の世代の子供はいくら教えてもダメだ」 
 「それでも、時には生まれ育ちの良い方もいますよ」 と言いながら結論的には旦那様の意見に賛同されていました。 この夫婦、奥様が旦那様のことを心配されておられました。
 
 本来なら乗船を拒否されてもしたかがない診断が下されていたようです。その診断結果が出る前に契約を済まされていたようです。 一番の理由は知らぬ間にお酒飲んでいると・・・
 多分、建設会社のことでしょうからかなり旦那様は我儘な生活をしておられたのでしょう。 私の目から見ると年齢以上に老けて見えました。 髪はボサボサ、話しぶりも耳を近づけないと聞き取れません。

 さて、私は何時ものように言いました、「そのような子供や孫を育てなのは私達ではないか」と。
 このご夫婦、「悪いのは団塊の世代だ」と言って、私の言葉に耳を貸しませんでした。
 私がいい格好をしていているのかどうかは分かりませんが、このように「責任の一端は我々先輩にある」という発言に、驚いたと言うか、気がつかなかったと言うか地球大学の70歳代の方もおられました。

 自分達が作り出してきた社会に対し、他人事みたいに発言する方の多いことに驚いています。
 建設会社ほど、日本の高度成長に貢献すると同時に甘い汁をすすり、今もってその体質が残っているのでないか。 「それを作ってきたのは貴方の世代の責任ではないか」と言う前に席を離れられました。 口にせずに良かったと思いました。
 数日前、名古屋のことを偏見を持ってお話しておられた方と思い出したからです。

 キャビンに戻って30分間かけて、入力しました。 今から「ヘミングウエー・バー」に行って、飲み直しです。

 
 これまでに気づいたオプショナル・ツアーの選択のポイント

 
@自分の好み、希望、興味のあるものを選ぶこと。 費用で妥協しないこと。
   同行者に引っ張られないこと。
 A同じような内容・コースならば、必ずワンランク上のものを選ぶこと、価額以上の差が出る
 B宿泊は必ずしも一人部屋でなくとも良い。 時折、一人部屋も良い。
 C目的地までが2〜3時間、時には5時間というものもある、首枕を持参すると良い。
 D旅行会社は安全のため、少しオーバーな発言をする。 聞いておいた方がよいが・・
 



 
                          平成19年3月30日(金) 記

 ”世界一周,101日船旅日記 32日目” 3月29日 
    
    〜アスマラから機関車に乗って〜 


 エリトリア・マッサワに帰船しなければなりません。 モーニングコールは5時半です。
 6時半にはホテルを出て、アスマラの駅に向かいました。 駅と言っても何もありません。 かってはマッサワとアスマラ間で物資を運んでいましたが、戦争後、線路が復活した後も、庶民の足として活用されていない状況です。
 ピースボートが立ち寄るときに特別に走らせてくれているようです。

           
       よって、点検は慎重です            ボイラーの燃料は石炭です

              

   

 汽笛を誇らしげに大きく2度、しかも長々と鳴り響かせてくれました。出発です。

   

            
 
 二両の客室にはガイドさんを含めて60人。お天気は良く約2500メートルの高地ですので風も爽やかです。                ↑窓を引き上げて撮影しました

        

 出発後、興奮して周りの風景に見とれたり、撮影していますと機関車が止まり、その後少しばかりあともどりします。 どこか調子が悪そうです。直ぐに再出発しましたが・・・。
 小さな山を越えると景色がガラリと変わりました。

    

 
   

      その山肌や谷底に家々が張り付くように建てられています。

    

    
 
  厳しい生活をしていることが容易に想像できます。 山羊を飼っています。


       
 
                少年が手を振ってくれました

    

                 


         

           突如、立派な建物が視界に入ってきました。↓

          
                
               山の上の教会のようです。 

 同じような光景が続き車内も退屈してきました。外の風景よりも雑談が始まりました。
 時速20〜30Kmで車両を軋ませながら、ガタゴトとトンネルを抜け、橋を渡ってゆきます。 線路の横にこんなものを発見しました。

   

    ↑戦争時の軍用車でしょうか       ↑こちらは上から落ちてきたか?
 
 と言いますのも、概ね線路に沿って道路があります。 道路があって線路だったのでしょうか? 赤の乗用車は塗装がまだ剥げていませんから、転落したものでしょうか?

              山の感じが少し変化してきました。

   

   

    アスマラ駅を出発して約1時間半、エリトリアの国旗がハタメイテイマス。

               
       
       終着駅に近づきました。 線路はまだまだ続くのですか。
       バスの方が(と言っても20人乗り)早いからです。

    

    
  
    山の中で見かけていた建物より立派です    お出迎え、線路の側で

       
            
              機関車の前後が入れ替えられました。

    
                             
                              ↑廃車のまま捨てられています

     以上アスマラからの「自由と勇気の象徴=機関車」の旅でした。
 「ヤカン イレ」と覚えると良いと教えられた。「サンキュー」の意味で終わります。。
 
 


 
                          平成19年3月29 日(木) 記

 ”世界一周,101日船旅日記 31日目” 3月28日 
 
 〜エリトリア・マッサワ入り〜首都アスマラ観光〜


           
                 
             エリトリア・マッサワの朝は霧雨でした。
 
 兎に角、、何もないことが最大の見所の観光資源で、後から思い出の場所となる上位にランクされるところと聞いています。 それは灼熱の暑さゆえではないかと言われています。
 年間雨量20ミリの地・エリトリア・マッサワを霧雨で迎えたことは喜ばしいことではないかとも思っての入港です。 入港時も曇り空の様子です。 この分なら残念ながら灼熱の陽を体験できないのかと寂しい気持ちもありますが、体力的には喜ばしいことなのかとこの活字を入力しているのは、午前8時半(現地時間、日本時間午後の2時半です)
     
 エリトリアについて紹介しましょう。 
 
 もともとはエジプト領の一部でエチオピア領の一部でもありました。 主な先住民はエチオピアのアムハラ族とは文化を異にするテイグレ族。
 
 1869年 ヨーロッパとオリエントを結ぶスエズ運河が開通した。
 イタリアがエチオピアに介入を始めた。 1882年にイタリアが植民地宣言をし、1885年に占領した。1889年、エチオピアはイタリアとウッチャリ条約を結び、エリトリアのこの地をイタリアの支配に委ねた。 イタリアはこの地を「エリトリア」と名づけた。

 第2次世界大戦でイタリアが敗れると1952年にエチオピアが併合する。
しかし、解放勢力は独立運動を展開、1991年のエチオピアでの政変をキッカケに1993年5月24日に独立。 その後国連にも加盟した。

 が、1998年にエチオピアとの国境紛争が勃発。 この戦争で約19000人のエリトリア人と10万人のエチオピア人(ともに兵士。市民含む)が死亡している。
 紛争の直接的な火種は、エリトリアの通貨と港問題と言われる。
 
 97年にエチオピア通貨ブルが廃止された。 新しいエリトリア独自の通貨であるナクファを導入これがエチオピアにとって面白くなかった。
 エリトリアが独立したことによってエチオピアはマッサワとアッサブの二つの港を失った。外との窓口として取り戻したかったことが背景にあった。
 今も、国境付近では6万人の人が不自由な生活を強いられている。

 93年に独立した後、「他国からの援助に依存しない自分達の手による持続可能な国づくり」を目指した。 その強さの秘密は冷戦下での独立戦争であったが、米ソいずれの支援も受けないで戦った。
 エチオピアを支配したのはソ連の支援を受ける軍事政権だったが、EPLF=エリトリア人民解放戦線は「反帝国主義」を掲げて孤立無援で戦い続けた。
 
 民族、宗教も性別も越えて独立に向けて戦い、勝ちとった独立。
 この国には9つの民族(部族)があるが、どの民族も優位性を主張することなく、キリスト教とイスラム教の宗教的争いは起こっていない。 「共存」「自立」の精神の国である。

 エリトリア・マッサワのオプショナル・ツアーは11種の中から、なぜこのコースを選択したかと言いますと、新しい国づくりと再建のシンボルとなっているのが、人々の手で復旧が進められている機関車と聞いたからです。
 
 港町マッサワから首都アスマラまでは、独立戦争前、長い線路で結ばれていた。 が戦争で機関車は運行中止、線路の鉄は武器に変えられたり、放置されたままとなり、腐食し、枕木は燃料にされ、荒れ果てた状態になっていた。

 独立戦争後、復旧を目指し志願した作業員達。 海外からの援助の申し出もあったが、全て断わった。自分達の手で復興させた。誇りと勇気のシンボルでもある。
 技術不足、携わる人も少なく、鉄道が庶民の足となるまでには道のりは長いが、ピースボートが来た時には、技術者が張り切って運転してくれるとのことです。

     では、入港です。
  

    

 わざと、写真を暗く仕上げているわけではありません。 曇り空であることにもよります。  誰かの「何もないと言っていたが、結構あるじゃん」と言う声が聞こえましたが、間違いなくコンテナヤードの荷物>は少ないです。

  

  船上から目に入った建物は上記の二点のみです。 イタリア統治時代の香りが残るものがあるといわれていますが、街中ではどんな建物に出会えるのでしょうか。

 午前9時から下船が始まりました。 観光客と言えばピースボートの入港以外はないに等しいと言う状況です。 観光産業と言う言葉すらないようです。 もちろん観光バスなどありません。 現地バスガイドというのもありません。
 それでも、ご覧のように大歓迎です。
             

                  

   

       空港近くにも戦火の痕が残る建物がまだ残っています。

   
  
   砲撃の痕が残る         飛べない飛行機      この建物も砲弾の痕

 

 さて、マッサワから標高2450メートルの首都アスマラまでは、3つの気温の変化があります。 マッサワが一番熱く8月の最高気温が45度にもなり、アスマラは1度と言うことですから、44度の差があります。
 エリトリアは60%が山です、マッサワ周辺は緑が少なく、標高が上がると緑が増えてきます。
 
      
     
      マッサワ市内から20分位のところ   高度が上がると霧が出てきました。

 マッサワまで3時間強、その間トイレ休憩はありません。 どうしてもの時は、道路の端に止めます。 ご婦人も待ったなしです。 その間に、お花を・・・

   
       
        ダンデシル        お猿も飛び出して          グリー

   一つ目の峠で一休み、と言ってもここにもトイレはありません。

  
 
   マッサワを出発して半分のところです。 標高は1000メートルを越えました。
            風が、空気が肌に気持よいです。

       
   
      ここからは警察官の誘導です。        ウエルカムアスマラの看板
 
 警察官の誘導と言っても、誘導の必要を全く感じません。 年に3度訪れる「ピースボート」は国賓並のようです。 エリトリアの総人口は450万位で、アスマラの人口は5~60万人位、訊ねる人によって返事は異なります。(くらいという表現が実体を示しています)


 3時間半かかってアスマラ到着です。 まずは遅い昼食になりました。 
  

  エリトリア風のイタリアン料理です。


         
 
 右の写真は雨が降り出して、ほとんどの方が、屋根のある部屋に逃げ込んでしまいました。 レストランのオーナーが『皆さんが来てくれたお陰で、雨が降りました」とお礼の言葉です。 雷も鳴りなした。 
 こんなに客が入ることはないのでしょう、男女それぞれ一つしかトイレがなく大変。

         
                                    
     パンも美味しく、肉のような食感の魚は何か分からずじまい。
 ここのレストランの味は合いました、またビールも今までで一番ピッタリでした。

            
           
            雨の波紋               雨上がりに

 エリトリアの宗教はイスラム教が半分、であとは、正教系コプト教とロー、マ・カトリック、プロテスタントが50%と言うことです。
   正教系の中でも数少ないコプト教の寺院、

 「ンダ・マリアム・コプト大聖堂に行きました。
       

   
                   
  
                      聖堂の入り口の前で 

   

 
 アスマラ市内の何処にでも見かける「ジャカランダ」の花木です。 イタリアから入ってきた外来種のようです。 右の写真の石は叩いて時でも告げるのでしょうか?

 グランドモスク

        

 世界の何処に行っても同じですが、イスラム教徒でないとモスクの中に入ることが出来ません。 

 アスマラ中央市場です。 

 
エリトリアのお札には農民が刷り込まれています。 農業生産をする方が一番偉いのだそうです。
     生産物は自給できずに隣国スーダンからの輸入が多いです。

        
 
  一見立派な建物です。イタリア時代?    お馬さんが運んできたのでしょう
 と言うものの首都アスマラの中心地ですので、黄色いタクシーも走っています。

   

                   

         
 
 香辛料もそれほど多いとは思いませんでした。 青果物も青物・葉物は少なく、肉・野菜はサッパリ見かけませんでした。
 この国の方は大人は勿論のこと、子供もカメラを向けると顔を隠します。 中には撮ってくれと言うポーズの人もいますが、それは稀です。 上記の少女も私がカメラに取り込んである写真を見せた後、ヤット一枚OKが出ました。

 メデンベル市場に行きました

 イタリアが統治時代、エリトリア人を追いやった下町です。
 ここに移り住んだ人たちが何か始めようとしたことが始まりです。

    

   この市場を取り囲んでいるレンガ作りの壁は、中の様子を全く伝えていません。

   

   

 足を一歩踏み越しますと、ひん曲がったブリキの板を叩き伸ばす、、缶カラの底をぶち抜く音、トタン板を切り抜く、ドラム缶を切断している音、溶接をしている人もいます。
 何でも作ってしまうと思えました。 手先が器用です。
 自動車の錆付いた部品は全部財産です。 パソコンを分解したものもあります。

 
 アスマラ大聖堂   アールデコの建物です。
 
       
         

        

 1923年に建設、当時はイタリア人の教会でしたが、今では全ての方に解放されている。 丁度、この聖堂内に併設されている小学生の帰宅時間に出くわしました。
 お祖父さん、お祖母さん、お母さん、あるいは兄弟が迎えに来ました。

          
 
         大聖堂前がアスマラで一番の大通りと思います。↓

             

 戦車の墓場

 
独立戦争当時に破壊された戦車や軍用車、中には大砲もあるのでしょうか。
 目測で8~10万坪の今は鉄くずが積上げられています。

     

 エリトリアは海外からの援助なして国の復興をすると決めましたので、これらの鉄くずを溶解する技術も導入されていませんので、今もってこのような状態なのでしょう。
 ここに限らず、翌日のアスマラとマッサワを結ぶ鉄道の脇にも多分軍用車であったろうと思われるものを数台目にしました。

         

          
        
       錆付いた軍用車の前を、牛追いの少年が通り過ぎました。
 
 そして、道一つ隔てた道路の反対側には、戦後貿易商で一旗上げた方、あるいは戦争前にエリトリアを後にして欧米に移住した人たちが、お金を貯めて故郷に錦を飾ったのでしょう、豪邸が建ち並んでいました。

          
 
 エピオピアからの独立を果たして14年。 戦前の名残と戦後の姿を対照的に見せてくれています。 なお、この戦車の墓は政府が管理しているようです。
 
 と言って、何処にもそれらしい人影はないのですが、近くの年寄り住民が見回っているようです。 私がカメラを片手に鉄くずの山に近づくと、中に入っても良い許可書を政府から貰っているかとの質問を受けました。

 ホテル・チェックイン、そして「エリトリアの郷土料理”インジャラ”へ

 五つ星のマークのホテルと聞いておりました。 が「エリトリアの五つ星です」からと言われましたので、余り期待しておりませんでしたが、予測に反してシッカリとした五つ星級のホテルでした。 コンチネンタル・ホテルの看板を掲げているのですから、イイカゲンなことは出来ないでしょう。
 久しぶりにタブに並々と湯を入れて、疲れを取りました。

    

   ホテル内の絵画は、自立心旺盛な・若い国を感じさせるものがほとんどです。

              
            
              働く農民・青年が主役と言うことでしょうか

            
   
             181番目の国と書かれていました。

        翌朝のホテルの周りには、日本で見かける花ばかりでした。

     

 夕食の「インジャラ」の見本品の撮影を見逃してしまいました。 言葉で表現するのは大変難しいのですが、小麦粉とそば粉を混ぜたグレーのクレープのようなプレートにイロイロな具を乗せて、巻き込んで一緒に食べます。 皆さんホークを貰って食べておりましたが、私は正式マナーに基づき、右手で頂きました。
 
 クレープの味付けに酸味があり、これが好き嫌いを決めるようです。 その点、酒飲みは何でもOKと強みです。

        その前に、私達が到着すると伝統音楽でお出迎えでした。

     

 食事の後は、エリトリアのお手前です。 コーヒー豆を炒ります。 香道にも通じるのでしょうか、よき香りです。 一杯一杯注いでくれます。 本当に濃いコーヒーだそうです。
 コーヒー飲みでない私は、腹を壊すといけないと香りだけを楽しみました。

           
 


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