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エッセイD 旅日記
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                           平成19年4月7と11日 記
 

 ”世界一周,101日船旅日記 41日目” 4月7日

〜クロアチア・ドブロブニクに着岸〜市内見学から
 
  地球大学・ボスニア紛争・和解への道のり〜


 4月7日未明にイオニア海からオトランド海峡を越え、島影などの姿は見えませんが左舷にイタりア半島を控えるアドリア海に入りました。 現在は4月7日午前8時(日本時間、午後の3時)、あと5〜6時間でドブロブニク入港です。
 その前に、今朝の日の出を掲載します。時差が1時間出て暗いうちからの起床です。

   

 今朝は日の出に出会えないかと、西に傾くお月様を撮影しました。その数分後

   

 
 クロアチアは「愛・地球博覧会」の時に、パビリオンの中で注目した国でした。
 それ故に親近感を持って訪れる国の一つです。
 バルカン半島に位置するクロアチアはご他聞にもれず、複雑な歴史を持っています。
 
 クロアチアの歴史
 
 ローマ帝国時代、クロアチアはその属州パンノニアの一部だったが、6世紀にアバール人によって征服される。 
 7世紀にアバール人を撃退してクロアチア人が住み着いた。 このあと一時フランク大国に征服されたが、925年に独立の王国を形成した。
 
 政治的空白期にハンガリーの侵入を許して以来、1102〜1848年まで、基本的にハンガリーの支配下の自治王国をなす。
 1848年~49年にハプスブルグ帝国からの独立に失敗した後、クロアチア・スロベニアはオーストリア領に組み込まれた。
  
 67年にオーストリア・ハンガリー帝国が成立すると、ハンガリー側に編入される。
 クロアチアの自治を獲得したが、クロアチアに対するハンガリーの同化政策は両者間の対立を生み、第1次世界大戦の誘因となった。
 
 その後のユーゴスラビア時代

 1918年「セルビア人、クロアチア人、スロベニア人王国」が成立。 29年国名も「ユーゴスラビア王国」に改称。
 1941年、第二次世界大戦へ参戦したのちユーゴスラビアが枢軸国によって解体されると、民族主義グループ「ウスタシャ」がクロアチアの大部分とボスニアを合わせた地域にイタリア、及びドイツの傀儡国家を樹立。
 
 大戦中、ウスタシャとチトー率いる共産主義者は激しい戦いを繰広げる。
 大戦末期、全ての勢力がチトーの下に結集してユーゴスラビア連邦を形成、クロアチアも共和国となった。

  アドリア海の観光資源はユーゴスラビアの経済に大いに貢献。 がクロアチアは次第に自立の傾向を強める、80年のチトーの死後、セルビア主導の連邦政府との間に緊張が高まる。

 独立から内戦

 このところは良く知られる「、ユーゴスラビア内紛」へと繋がる。

 では、クロアチア・ドブロブニク港への入港から

   

   
   港から大型船が出航してゆきました     そして、トパーズ号は港に向かいます

    

              

         ↑現在、私のパソコンのトップ画面に採用しています

              

  ドブロブニク市街地を見学にあと、この橋を渡って(右から左へ)ボスニアに向かいます

 ドブロブニクについて(一部、ダブッた解説になります)

 ・最初の「クロアチア王国」の成立は924年。 ハンガリーやオーストリアの支配下に置かれたあと、1918年に「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(後のユーゴスラビア王国」として独立した。 
 第二次世界大戦中は、ドイツやイタリアの分割統治下に入り、ナチスの後押しを受けて民族主義が台頭する。 
 その中でチトー率いるパルチザン(抵抗運動)が、全民族の平等と協力による統合を訴えて民意を獲得。 戦後、チトーを大統領とする「ユーゴスラビア連邦人民共和国」が成立した。

 が、内部に6つの共和国を抱える「多民族国家」は、チトーの死をきっかけに崩壊。
 91年スロベニア、クロアチアが旧ユーゴスラビアからの独立を宣言したのを皮切りに、アチコチで民族紛争が泥沼化する。
 
 クロアチアでも、人口の2割を占めていたセルビア系住民との間で戦いが続いた。
 ドブロブニクは、内戦前は「アドリア海の真珠」と呼ばれていた観光地で、中世の雰囲気をそのままに残すところで、旧市街地が世界遺産に指定されている。

 以下は、松岡絵里さんが書かれた文の中から、抜粋です。
 
 『これまで乗ったバス/列車の中で、「輝ける!世界一美しいルート」をきめるならば、私は迷わずにクロアチア第2の都市スプリットからドブロブニクに向かうバスを挙げる。
 
 アドリア海沿岸に沿った小さな島々と可愛いビーチがいくつも並ぶ風景は、めまいがするほど美しい。 車窓から眺めていると、「ここで、このままこの国にひっそりと暮らしたい」なんて一人で妄想してみたりして・・・・

 あと、10年〜 20年経てば、日本人にとって、イタリアやフランスと肩を並べるほどにの人気渡航国になる気がしてならない。青田買いなら、クロアチアへ。
 
 この町が美しいのは、紛争後市民の努力があったからだ。 市民は数多くの専門家を海外から呼び寄せ、古い文献を調べ、以前と同じ建材をかき集め、この町を元どうりに復元した。 その努力の甲斐があって、98年に危機を脱し、「世界遺産」指定された・


 では、そのドブロブニクの旧市街を紹介しましょう

    

             
             城壁

    

      

            

 本日は入港が3時間近く遅れましたので、私達は駆け足でドブロブニクを見学しました。
 
 ドブロブニクはセルビア軍によって砲撃を受けましたが、見事に昔のままの資材を使って復旧しました。 
 それ故に、ここの人々は海沿いで、健康的な生活をしています。また鼻が高いと言うか、少しばかり威張っていると言うことです。
 
  旧市街地に住むと言うことは、坪当たり約200万円の土地購入ということです。
 社会主義国だったのですが、今は私有地の所有となり、別荘も建ち、島ごと購入する方もいるとのことです。
 
 戦後、この地に観光客がほとんど訪れなくなった時、ピースボートは大型船としては二番目に寄港したので、地元の方に今も歓迎されています。
 

             その後、ボスニアに向かいました。 

            
        
         簡単にパスポートを車内でチェックして国境を越える

            
             
           川を渡るとモスタルの市内に入りました
           (モスタルについては、別途まとめてある)

            
 
 暗くなって、NGOアブラセビッチの若者との交流となりました。その建物です↑
 その外壁にはこんな絵が書かれていました。 なお、この建物には砲弾のあとが残っています。
    
                   
                  オサマ・ビン・ラディンの顔のようです

           
                  
                 こちらは建物の中です。

          
                    
                   歓迎立食パーテイー

     
 
       クロアチアから呼んだ若者によるパフォーマンスが行われました。               テーマは「愛と平和の共有、命は価値あるものだ」と訴えています。
 
 『それは何処にもある日常的な日々を過ごしていた人たちが、ある日権力者の囁きから戦いとなり、銃を持って殺し合う。 戦いの後には空虚な退廃的な生活。(麻薬、売春、ダンスに興じる、あるいは、ヨガ瞑想、ユッタリした日々)
 が、やがて助け合って立ち上がり、希望の日が灯る。というストーリーと私は解釈しました。』

        
        
      意識して撮影したわけではありませんが、こんな映像がありました。

   

 交流、意見交換会。夜11時近くになってしまいました。 その後、このメンバーの家にホームステイさせてもらいました。     長い長い一日でした。

 
 
               
 



 
                              平成19年4月 6日 記
 

 ”世界一周,101日船旅日記 40日目” 4月6日


 昨夜午後10時に出港したトパーズ号はキーテーラ島を回りこんで、地中海を北上しイオニア諸島に(イオニア海)に向かっています。 明日はアドリア海ということになります。

 今朝は日の出がありませんでした。 しかし、昨日よりは暖かくオープン・デッキ・ウオーキングで軽く汗をかきました。

   

              
                    笑っちゃいました。

                  
  
 
地中海に入り涼しくなりましたので、日本出発時の衣装を引っ張り出しました。
 上記のものはパッチです。 この船内のクリーニングに出すと、ほつれてくる、縮んでくるとは聞いていましたが、 このパッチも通常時の半分の姿に変身しました。 
 
 引っ張ってみたり、伸ばしてみたりで足を通しましたが、お尻まで持ち上がりません。 苦笑してしまいました。 特にウール関係のものの変化が激しいです。
 それに、白いものは旅の終わりにはグレーに変色しているのではないかと
想像します。


 地中海に入ってからは気温が下がり、朝のオ^プン・デッキ・ウオーキングも軽く汗をかく程度になっています。 船室に戻る頃には汗も引きますので、シャワーを浴びる必要性もない程です。 部屋のエアコンは締め切っていて丁度です。




 
                              平成19年4月5 日 記
 

 ”世界一周,101日船旅日記 39日目” 4月5日

 〜ギリシャ入港とアクアポリスとプラカ散策〜


 ギリシャは西洋文明の発祥地であり、複数の文明の接点に位置する国としてヨーロッパ、アフリカ、アジアの歴史に大きな影響を与えました。
 
 メソポタミヤ文明は木を切る文明」であり、それがギリシャに渡り、ヨーロッパに繋がっているとエジプト・ポートサイドから乗船した水先案内人服部英二さん(日本ユネスコ協会連盟事務局長を務め、ユネスコ・パリ本部勤務、シルクロード総合調査10年計画を実行。麗澤大学客員教授など)が語っていました。 
 
                 

 本日の講座はそこがメインとなりますが、昨夜は文明の誕生〜エジプト文明〜で、メソポタミア文明の木を切る文明とは異なり、木を守る文明・自然と人間が共生した文明と表現された。

 それはメソポタミヤ・チグリスユーララテイスの流れは急で川と共に生活することはかなわない、それに比してナイルはユッタリと流れ肥沃な大地を作ったことによると。
 
 そのエジプト文明は石の文明であるから日本の木の文明とはかけ離れているように思えるが、実は良く類似していると類似側面を指摘した。 自然との共存、神宿る、一体渾然などと・・

 そのギリシャへの入港はどのようであったのでしょうか。 入港風景

  
 
 午前5時に起床しました。真っ暗な中に客船が・・↑薄明かりの中に浮かび上がる

  
          夜明け前                曳航船がやってきました

      
                    東の空には日が昇り

      
 西の空にはお月様があります。 島影が朝日に照らされています。左上に月あり。

 ギリシャの歴史を眺めてみよう。

 古代ギリシャ・ローマ時代・・・古代のギリシャはアテナイ、スパルタ、テーバイなどの都市国家(ポリス)が並び立ち、言語・文化・宗教などを通じた穏やかな集合体であった。
 政治的に独立していた各ポリスは絶え間なく戦争を繰り返した。
 紀元前5世紀にペルシャ帝国が地中海世界に進出すると、各ポリスは同盟を結び、勝利した(ペルシャ戦争)
 が、その後アテナイ盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟とでペロポネス戦争が勃発、ギリシャ全体が荒廃し、勢力を失う。

 紀元前4世紀、ギリシャ北部に起こったマケドニア王国の支配を受け、紀元前2世紀にはローマの属州とされる。古代ギリシャは民主主義の原点。
 現在のギリシャ人は後世に主にバルカン半島北部から南下した人々と混血がすすみ、当時とは人種的構成が異なって言われることもある。
 ヨーロッパは民族移動が激しく古代から純粋な血統を保持している民族などいない。
 
 中世:東ローマ帝国時代とオスマン帝国の支配時代
 ローマ帝国が東西に分裂、東ローマ帝国(ビザンテイン帝国)に属した。東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部である。
 なお、東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシャ人のローマ帝国ヴェネツイアなどが」と言う研究者もいる。
 1204年に第4回十字軍がコンスタンテインノポリスを占領して東ローマ帝国が崩壊すると、現在のギリシャの地には東ローマの亡命政権であるエピロス専制侯国やブルガリア帝国、セルビア王国、アテネ公国などの十字軍に参加した西欧人諸国、また都市国家が割拠するようになった。

 1261年東ローマ帝国は復活したが、国力弱体化していて、ギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態続く、その隙を突いて14世紀以降はイスラム王朝のオスマン帝国が勢力を伸張させていった。
 東ローマ帝国はオスマン帝国に滅ぼされ、他の諸国もオスマン帝国の統治が続く。

 近現代:独立回復から現代
 1821年オスマン帝国に秘密組織フィルキ・エテリアを中心として反乱。 ギリシャ独立戦争が始まる。 エジプトの助けを受けて鎮圧しようとしたが、英・仏・露が介入、1829年「アドリアノーブル条約」によって、独立承認。
 バイエルン王国の王子オットーをオソン一世として国王に据え、ギリシャ王国として独立。 東ローマ帝国滅亡以来約380年ぶりにギリシャ人の国家が復活。

 1897年ギリシャトルコ戦争、1912年〜1913年にはバルカン戦争。 1919年〜1922年再度ギリシャトルコ戦争。
 1924年にクーデターで共和制、1935年に王制復活。
 第2次世界大戦ではドイツ、イタリアの侵攻に会い1945年まで占領。
 戦後は保守派政府と共産ゲリラとの間で1949年まで内戦。
 1952年NATO加盟。 1967年、アメリカ合衆国の支援の下に軍事独裁政権が成立、国王亡命。
 1974年ギリシャの支援によるキプロスでのクーデターが失敗、その余波で軍事政権崩壊、国民投票により君主制は廃止され共和制に。
 1981年欧州共同体(EC)の10番目の加盟国となった。


 ピレウス
 古代のポリス時代以来、アテネの外港とし都市として発展した都市。 今日ではエーゲ海の島々への船がピレウス港から出ている。エーゲ・クルーズの拠点。
 古代ではピレウス港を拠点とする海上貿易を生命線とするポリスであるアテネを防衛する軍事戦略として、都市アテネと、都市ピレウスの間の街道が両都市を囲む胸壁から延長された2枚の城壁で防衛され、一種の双子都市として防御されていた。
 現在はアテネと連続した市街地を形成している。

 地中海のクルーズの拠点ですから、本日は大型船が5隻入港しています。
 
  
 
 大型船の停泊できる港の他にも2港あり、そこには大小さまざまなヨットが停泊しています。

      
             この光景を眺めながらの昼食でした


 
 ギリシャといえばアクロポリスです。 私の目に留まった視点を切り取ってみました。

  
                            ↑ローマの円形舞台の原型

  

  

   
         城壁とも言えます               見下ろした町並み

  
              遠くの山の上の修道院です。

 以上の石の構造物は大切なところは皆レプリカです。 大理石は酸性雨によって、年々はかいされているとのこと。 アクロポリスの丘にある博物館に本物は保管されています。 そのうちの幾つかをご覧に入れましょう。

   

    

 市内のことを書きますと、ピレウスからアテネまでの市街地は途切れることなく続いています。 人口1100万人のうち、約一割が暮らしています。
 オリンピックで主要道路は広くなりましたが、生活道路は昔のままです。 道の両側に車がビッシリです。 大型の観光バスの運転手の腕前はたいしたものです。
 車ナンバーの下一桁の奇数、偶数によって曜日ごとに市内への規制をしているそうですが、ほとんどが小型自家用車ですが、それでも限界に来ております。
 下の写真は横に拡大していますので広く見えますが、大型バスがイッパイ・イッパイです。

     

           

 車中で撮りました。ガラスで出来た像            トロリーバスです

             

 プラカ地区にやってきました。ローマ時代の広場です。今はお土産屋さんとレストラン街
       買い物をしない私には退屈な1時間半でした。

   
     ハナズオウ          藤の花             ???

   
  プラカのハト           柑橘類です、香りが良いですが実は食べられない

                 
         その一角に、「フォーク アート ミュジアム」の看板あり

             
         悠然とアコーデイオンを弾く       似顔絵を描いています

   

                
                  酒屋さんの瓶の陳列です

                     
                      なぜか目に留まって

            本日の昼食はシーフードでした。 満足でした。



 
                              平成19年4月4日 記
 

 ”世界一周,101日船旅日記 38日目” 4月4日

  〜本日はギリシャ・デイー〜

 
 今未明、時差が発生、時計を1時間はやめました。 西に向かっているのに時間を早めるとはサマータイムなのでしょうか。
 そのために本日の日の出は6時55分でした。 5時45分にデッキにでましたので、西の空には満月が残っておりました。

   
   満月が残っています                  →
   


  トパーズ号の船長はギリシャ人、また翌日はギリシャ・ピレウスに入港予定であるところから「グリークナイト」(ギリシャの夜)が、デッキ開催された。
               
   

    

                
               

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