平成19年4月13日 記
”世界一周,101日船旅日記 47日目” 4月13日
〜メッシナ海峡を通過して、ジブラルタル海峡に向かう〜
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日が昇ると船の両側に家並が見え始めました。 調べてみましたら、イタリア半島とシシリー島に挟まれたメッシナ海峡の一番狭まったところでした。
この海峡を挟んで、繁栄の基を築いたこともあったでしょうし、幾多の戦いも起こったことでしょう。
イタリア半島側の眺め


シシリー島側の眺め


現在、4月13日、21時半(日本時間4月14日午前4時半)である。
4時間前から船がローリングしている。 先ほど、食堂では何度か、割れ物の音がしていた。 神戸を出港して以来の揺れである。 平野さんから頂いた「船酔い止めの、シーバンド」の効果を実感している。
テレビ映画は「日本沈没」を繰り返し放映している。 何か、船のこの状態と似ているような気がしてならない。
前後に揺れて、唯でも怪しいパソコン入力の手元が更に怪しくなり、普段の3倍以上は時間を要しています。
画面に向かっていると、気分が悪くなりますので、これにて終了します。
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平成19年4月12日 記
”世界一周,101日船旅日記 46日目” 4月12日
〜本日はリフレッシュデーでした〜
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地球大学のボスニアへの旅の反省会以外は、終日「ボスニアへの旅の日記」の整理に時間を費やしました。
現在4月12日午後6時過ぎですが、まだ4月10日分と4月11日のヴェネツイアが残っています。
モロッコ・カサブランカまでには残り3日間のクルージングがありますので、追いつけることでしょう。
入力が済んでいないセッションもあり、当分パソコンの前になりそうです。


今朝の日の出は、今回の旅の日の出の美しさのトップ3に入ると思いました。
4月14日 ボスニアで何を学んできたか? (以下は4月15日午前1時半入力)
・歴史・事実を客観的に認識する必要性があるが、今回はボスニア・サラエボからの情報量が圧倒的で、セルビア人側からの立場の情報、意見を知ることが大切である。
・モザイク状に分布した民族の間に,国境や境界線を引くことは不可能である。
・そのような状況下にあって、“悪魔のささやき”、権力者の欲望(権力欲、領土欲)が発せられる。
それは実に巧妙に準備され、プロセス化されている。権力者はメデイアと繋がっている。
・戦争は作られてゆく、メデイアの恐ろしさ
・信じられないことが起こり、拡大してゆく。その戦争は誰が得するのか?
・人々が不勉強であったり、無関心であったり、人頼りが災いの基となっている。
・教育の重要さ、何をどのように事実を教えるか。 主体的に考える力、姿勢を持つことが大切。日本でも起こりうることだ。
・それは小さな誤解や誤報から始まり、憎悪が生まれ、そして、取り返しのつかない殺し合いに進展してゆく。
それが今まで、仲間であったり、隣人であったり、学校に仲良く通っていた子供の間で起こる。
・国連はただ見ているだけか? 平和の実現には動かないのか?
・国連とはなんであろうか? どうすべきか? 日本は安全保障理事国入りを望んでいるが、その意味するものをわたし達は充分に理解しているか。 口で平和を唱えているだけでよいのか。経済支援のみでよいのか? 若者は平和のために武器を手に戦場に行き役割を果すのか?
・議論が充分になされていないままに、事柄は進展している。
・戦争は人間を狂気に変え、残忍な行為をいとも簡単に出来るようにさせてしまう。
・同時に、戦火の中、弱者の「人間の絆」の強さが発揮される。互いに助け合い、文化活動が起こり、続けられる。
・破壊の後の傷跡は深い
・物の修復は出来るが心の傷は長く残る。 しかも弱者が最大の犠牲者となる。親が亡くなった子供達へ対応の遅れ。
・未来への夢は「遺体を捜し出して、埋葬すること」では、余りにも悲しく、寂しく、惨めだ。
・そんな中、立ち上がる人々がいる。 若者のパワーに期待したい。
・アブラセビッチの若者、OIAでボランテイア活動をする高校生達。
民族を超えて始まったサッカー少年達の姿に感動せずにはいられなかった。
・しかし、これはこれからも続く永い・永い「時」{時間}と言う漢方薬と共生し・調和していこうという努力・エネルギー、忍耐力などが根源的にもとめられる。
・戦争犯罪人の逮捕も、裁判も終わっていない。
・人類の歴史に学び、常に自分たちのこととして問いかけ続けなければならない。
・これらのことは「何処にでも、いつでも起こりうることだ」。 日本のこと、社会のことにもっと関心を持っていなければならない。
友人・知人にも語りかけよう。
人間は自然に学ぶべきだ。 人間も地球上の生命の一つでしかない。自然は語らず「無償の愛」を私達に与え続けている。
・ そんな自然・地球を私達は汚染し、破壊してしまっている。
過去から受け継いだ遺産を、私達の代で使い果たすことなく、次世代へ繋げ、継承してゆかねばならない。
時間軸は直線的でなく、スパイラルに回転・進化する円構造である。
人の一生は「魂の浄化」の修行道です。
「自然への愛と感謝」。「人への愛と感謝」、其処から心穏やかな・当たり前な日常生活の素晴らしさに気づき・平和な日々となる。
以上、戦争(紛争)の始まりから、終焉、そして戦後と言う流れに沿って、皆さんから出た意見・感想を私がまとめたものです。
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平成19年4月13日 記
”世界一周,101日船旅日記 45日目” 4月11日
〜サン・マルコ寺院、ドウッカーレ宮殿、ゴンドラ〜
”水の都、ヴェネツイアの運河は臭かった
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ヴェネツィアの朝は靄がかかっています。

ヴェネツィア共和国
ヴェネツィア共和国はヴェネツィアを中心にして発展した海洋国家で、強力な海軍力と交易による富を背景に「アドリア海の女王」として君臨した。
1000年もの歴史を誇ったが1797年にナポレオンのフランス帝国(第一帝政)により崩壊した。
1815年にナポレオンが失脚し、ヴェネツィアは解放されたが、大国主導のウイーン会議によってイタリア最古の都市国家は、独立を失った。
最盛期の領土は、現在のイタリア共和国のヴェネト州、フウリ=ヴェネツィア・ジュリア州、ベルガモをはじめイストリア半島やアドリア海沿岸の都市、キプロス島など地中海の広範囲に及んでいた。
何処を切り取っても絵になる風景が続き、目的地サンマルコに着くまでの水上船の上で・・


船着場ではナポレオン(?)像が迎えてくれます

このライオン強そうですが、実はジョセフィーヌ(?)の尻の下です

サンマルコ広場はかってナポレオンが世界一美しいと賞賛したという。この広場では総監督の就任式や罪人の処刑が行われた。
監督塔として使われた大鐘楼がある。


回廊 オメガの広告看板
サンマルコ寺院は街の守護聖人・聖マルコの遺体を祭るために立てられた寺院。
ビサンチン様式の丸屋根が見えます。
大聖堂の側面から大鐘楼を望む

大聖堂正面、ここからはカメラ、ビデオは禁止、男性は脱帽です

唯一撮影が許されている天上壁画、
60坪の油絵の大会議室もあれば、接見の間もあります。 政治犯の独房、拷問部屋もありました。 当時は一つの見世物でもあったのでしょう。

処刑場につれられてゆく時の「嘆きの窓」を盗み撮りしました。

影が13階段に見えました

大鐘楼

大鐘楼の一部をアップで

ガラス工房の職人さんはムッツリ顔 販売責任者は渥美 清ばりのジョークを
皆さん沢山お買い物をしておられましたが、その間カメラのシャッターを押していました。


ゴンドラは乗りましたが「水の都、ヴェネツイアは臭かった」

それでは、余りにも夢がありませんので、お口直しに

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平成19年4月12日 記
”世界一周,101日船旅日記 44日目” 4月10日
〜サラエボ、大聖堂前でパフォーマンス
自由時間の後、ハンガリー・ブダペスト経由でヴェネツイアへ(ベニス・マルコ・ポーロ空港へ)
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翌日、 韓国と日本の若者も頑張りました。
大聖堂の前でのパフォーマンスです。
「私達はピースボートに乗って、世界の方々と平和について語り合っています。皆さんの意見を聞かせてください」と訴えました。
質問内容は「戦争は何を教えてくれましたか?」 「将来への期待は何ですか?」「子供に何を託しますか?」と言うような、まだ生々しい体験をした方たちには、答えづらい質問でもありました。
当初は前日に実施する予定でしたが、予定が大幅に遅れて自由時間の本日になってしまいましたが、「是非やるべきだと」進言しました。
質問に答えれくれるのだろうか。そっぽを向かれるのではないだろうかと心配しておりましたが、結果は満足の行くものとなりました。





パフォーマンス終了後の記念撮影

近くの公園では路上チェスが行われていました。
ボスニア・サラエボとさようなら

真ん中がヤスナ サラエボ空港
3月22日から同行してくれた水先案内人のヤスナが当初計画では4月15日まで、ラスパルマスまで同行する予定でしたが、お母さんの健康状態が悪くなり、急遽同行不可能になりました。 サラエボ出身のジャーナリストで戦争体験者でした。
戦争を予測できる情報を持ちながら、阻止することが出来なかったことに強い反省と自戒を持っておられる、他人の気持ちを斟酌できる素晴らしい方でした。

トランジットのハンガリー・ブダペスト空港

イタリヤに到着、ターンテーブルの色からしてイタリアの雰囲気です。
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平成19年4月12日 記
”世界一周,101日船旅日記 43日目” 4月9日
〜紛争中、サラエボの人たちの命綱のトンネル
スレブレニッツァの女性達、
OIA(NGO,青少年情報局)
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トンネルを訪れる

水色のところが空港、横切って800Mのトンネル

サラエボの市街地(人口30万)を取り巻くようにセルビアの軍隊が包囲した最前線(赤線)
中央右上に、一箇所狭められたところがある(約2Kmの幅)。これが空港です。
更に右上の方向はクロアチアに通じるフリーゾーンである。
セルビアはサラエボを支配することを望んだが、サラエボは自己防衛軍を組織した。
1992年、ユーゴスラビア軍(セルビアの意向を汲んだ軍隊)から、国連軍に空港の管理が移管された。 セルビア側はその時、国連軍と秘密協定で空港に人が来ないように話し合っていた。 ボスニア人も空港を使うが、セルビアも同等に扱う協定であった。
ボスニア人は4ヶ月かけて800メートルのトンネルを掘った。幅1メートル、高さは1・6メートルである。 当時サラエボへの食糧、武器、薬等は全てこのトンネルで運ばれた。 2年間、外部と通じる唯一のトンネルである。
このトンネルには高電圧の電線があり、病院等に優先順位をつけて配分された。
また、石油のパイプラインもあり、人々の生き残りのための電気、石油であった。
一日3000人の人が行き来し、2年間で200万人、当時は混雑し、危険な場所であった。 周辺の住民で殺された人もいる。
このトンネルは一般人が半分、そして兵士が半分であった。
ボスニア軍は2万人、20%のムスリム以外の兵もいたが、大半はムスリム人。
このトンネルを管理しているエデイーさんが言うには「国連は中立の立場と言うが間違っている。 羊とオオカミの戦いの中、国連はただ見ているだけだった。人道支援も最小限であった)
国連軍はトンネルの存在を知っていたが、サラエボ市内の状況が分かっておりストップすることは出来なかった。
また、セルビア軍もこのトンネルの存在を知っており、砲撃したが地下5メートルのところのトンネルで破壊できなかった。 また、国連軍がいたことにもよる。
戦争終了後、軍は引き上げ、トンネルは崩れた。 トンネルの土地の所有者がトンネルを掘り返し、当時16歳で反抗軍に入隊していたエデイーさんとその家族で復活させ管理している。(経営している)周辺の住民は支援。
政府は援助もしない。(なぜ政府が乗り出さないのかヤスナやサビーナに聞いても、分からぬというし、資金が不足しているので、優先順位が低いのだろうとの返事)

この下にトンネルの入り口がある トンネル1. 下の穴は砲弾の痕

少しばかりの当時のものが展示されている

荷物を運んだ車 トンネルに下りる階段 トンネル内
トンネルの奥(山並みが見える)方向がサラエボ市街地

今はノンビリした農村風景 発着数が少ないサラエボ空港
スレブレニッツァの女性達を訪問
カダホッチさんとズムラさんが語ってくれた。

「スレブレニッツァの出身で、1995年まで其処にいた。
1992年、セルビアとモンテネグロ軍がボスニアに侵攻した。 ボスニア内にもセルビア人がおり、両者は結託した。セルビア勢力は旧ユーゴの政府からも援助を受け武器も強力であった。 政治的な意図はセルビア領土の拡大であった。 ボスニアの半分を狙った。 其処にはムスリム人が住んでおり、計画的に追い出した。それこそ民族浄化である。
92年、攻撃が始まり、93年に国連はスレブレニッツァを安全地域として指定した。
難民が押し寄せ、人口は一気に倍になった。食糧も水も不足した。薬もなし。
スレブレニッツァの住民のみでなく、避難集団も生活が困難となった。
武器もなく、反抗もできない。 まるで死刑宣告されたみたいであった。
93年、フランス人が司令官となった。その時、セルビア勢力の攻撃を受けた。多数の死者、飢え死もあった。
司令官に助けを求めた。 武装解除をして助けると約束したが、ムスリム人地域の武装解除で、セルビアは武器を保有したままだった。
人道支援物資は国連軍によって(様々な国からの支援物資)が空からばら撒かれた。
食糧、水、薬の不足は95年まで続いた。
当時国連を信頼していた。 しかし、95年7月11日、オランダの国連軍は撤退し、セルビア勢力が侵攻、国連の信頼は失われた。
その日から大虐殺が始まった。。
私は目撃者の一人で目の前で起こった、殺し、レイプ、恐怖で言葉もなかった。
今、分かっているだけで(この団体が公表)10701人が死亡あるいは行方不明。
殺されなかった男達は車で連行、スレブレニッツアには残った女達と子供、山に逃げおおせた男のみである。
このスレブレニッツァの大虐殺を公認したのは、@旧ユーゴ戦犯法廷とA国連国際裁判所・ボスニア政府がセルビア政府に訴えて2007年2月26日に公認した。
この団体は家族を失った人たちである。 行方不明者を探し出すために設立された。この団体は「アメリカ、ホワイトハウス」のボウドレスさんのお陰で出来た。 ボスニア政府の中にスレブレニッツァの未発見者を探す機関が出来た。
今までに見つかったのは8000体であるが、集団墓地のために4000体が身元不明である。 4000体の内、2500体は墓地を作った。 親族は遺体の全てが揃ってから墓を作りたいと思っている。
複雑にしているのは集団墓地を証拠隠しのために掘り起こしトラクターでバラバラにしたことによる。
政府の責任者カラジッチと、軍の司令官ムラジッチの二人が戦犯であるが、裁判にかけられていない。
政治的な解決が見つからず。 プルスカ共和国(セルビア人勢力の共和国)とボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のふたつが独立。
スレブレニッツァに戻ってくることは困難、セルビア人政府の下での生活となる
デイトン合意で45%がプルスカ共和国。 スレツレニッツァもその中に入ったのが問題。
息子の遺体が見つかっていない。将来の希望は遺体が見つかること。
集団墓地に立つと、恐怖にかられる。
@集団墓地で遺体を捜すことと A旧ユーゴ国際裁判で二人の戦犯が逮捕され、判決を受けることがポイントである。
精神的な支援は旧ユーゴ(セルビア)のNGOから受けている。 国際団体の支援を受けている。 セルビアの学生(マヤもその一人)ここに来る。 数は少ないがその存在は力強い。
私達もセルビアに出て行ってオープンに話している。 快く思わないひとも多いが、聞かざるを得なかった。
ズムラさんの発言

「戦争自体が信じられなかった。 スレブレニッツァは複数の民族が住み、職もあり、教育もあった、経済も発展、基本的には人々は良い生活をしていた。
それ故に、突然の戦争は信じられず、理由も分からなかった。単純にムスリムというだけで殺された。 町も家族も家も失った。
この体験の中でつらかったことは、同僚のセルビア人、子供の遊び仲間のセルビア人,共に学校に行き、互いの宗教の祝祭を共に祝った人々との争いであったこと。
民族間の結婚もあったが、突然イデオロギーを取り入れ、「民族浄化された国に。」
セルビアの権力者はセルビア人のみの共和国の設立を望んでいた。政治家は「セルビアの森、川、空気もセルビアのもの」と発言した。
私達の見解は国連も無実ではない。犯罪者と同じと思っている。
・セルビアは戦犯法廷のことになると感情的になる。 彼らは自分達の痛みを訴えて、私達の声を分かろうとしない。
心の支えは遺体を捜して埋葬すること。 私は子供達を助けられたのが救いである。

前回のピースボートで持参した鶴 スレブレニッツァのt−シャツ
重たい話を聞き、精神的に疲れました。 昼食はサラエボの街が一望できる素晴らしいところでした。


サラエボの市内見学

いきなり、墓地に案内されました。 埋葬する場所がなくかっての冬季オリンピックの会場が充てられました。 左の写真の塔はオリンピックのときの聖火台です。

丘の中腹の道路を隔てて、敵味方の殺し合いとなりました

岩の上からスナイパー(狙撃手)が狙います。 ↑狙われた街の十字路です

その傍らでは、桜も、土筆も春の訪れを告げていました

首都サラエボといえども、町並みの其処かしこに、戦争の傷跡は残っています。
OIA(NGO・青少年情報局)にて

4年間の活動実績があります。本やポスターを使って様々なキャンペーンをしています。
例えば、若者に『もっと社会に関心を持とう、選挙に参加しよう』と呼びかけるとか。
彼らのモットーは「実用的で、楽しみながら」が仕事文化であるといい、カフェ・カルチャーだと言って、オープンスペースでのコーヒーを飲みながらの交流となりました。
16歳から18歳までの高校生がボランテイア活動で、同じ年頃の高校生とのワークショップを通じての教育を行っているといっておりました。
戦争という修羅場を潜って生きたゆえでしょうか、日本の高校生とは比べ物にならない(?)発想をしておりました。
参加の動機はOIAの活動をテレビ見たり、友人に誘われたり、ワークショップに参加したりと様々でした。 高校生活と両立するのかとの質問には、自発的にしていることだし、両親と先生の了解を得ているということでした。
次週からマケドニアに行って、10カ国の青少年との交流をすることになっているといっていました。
この日の朝にこんなことをメモしました
モザイク状態になった民族の中に国境線や境界線を引くことは不可能である。
が、そこに政治的意図を持った指導者の意思が働き発言が繰り返され、それをメデイアが報道する。
最初は小さな誤解や誤報から生まれたものが、何時か噂となり広がって、小さな争いが起こる。 小さな争いは次の争いを生み、何時しか大きなものとなってゆく。
昨日まで同じ職場に働いていたもの同士、あるいは子供達は同じ学校で共に学び、遊んでいたのが嘘のような事態を呼び起こす。
其処から、更に憎悪の感情が盛り上がって、取り返しのつかない殺し合いの事態へと進展してゆく。 其処まで来るともう留まることなく戦争状態となってしまう。
それは物や財を失うのみでなく、人々の心をズタズタにしてしまう。
紛争(戦争)終結後の修復は戦いの時以上の時間とエネルギーを要する。
それでも、立ち上がる人々がいる。 それは若者が多い。
過去を反省し、再び過ちが繰り返されないようにと記録し、学ぶ。
命を懸けた教訓なのに、30年、60年と時間の経過と共に、世界のどこかで、あるいは身近な周辺で再び紛争が、戦争が起こる。
人間の本性は何なのであろう。 攻撃的な戦う魂なのだろうか。
人類の歴史に学ぶのみでなく、自然や土から学ぶことの方が良いのであろうか。
その自然に対しても人類は環境汚染・環境破壊という攻撃をしてきてしまった。
グローバル化が進む世界、物・資本・人が様々に行き交い、国境や垣根が低くなり、取り払われてゆく。 国境線や人々の心に垣根を築くことは不可能である。
無理に実行しようとすれば、間違いなく紛争となる。
今の地球はモザイク状になった状態である。 権力や覇権でもって事柄を解決することは出来ない。
自然に学び、自然と共生する。 神宿る自然との調和こそ基本である。 自然は私達に無償の愛を惜しげもなく与えてくれている。 愛と感謝の念で生きてゆきたい。
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平成19年4月12日 記
”世界一周,101日船旅日記 42日目” 4月8日
〜モスタルの市内見学〜サラエボへ・
ボイコビッチ村の「クリロ」サッカーチームと交流
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ホームステイさせていただいた家の前で
彼らは近い将来結婚するといていました。彼の方はサラエボの大学に通学している27歳と言っていました。 彼女の方の年齢は訊ねませんでした。 夜が遅かったのに、日本のことに興味を持っておられ次々に質問され、英語を聞き取る苦労に、返事する苦労がありました。 ホームステイと言っても、リビングのソファーがベットに代わり、常友さん(広島県・福山出身の方)とダブルベットで寝ることになりました。
翌朝は彼がパンを購入に行き、彼女がスクランブルエッグを作ってくれました。

再びアブラセビッチの若者とセンター前で記念撮影しました。

モスタルはこのように水の綺麗な町です。

が、しかし、一歩目を転じるとかくの如しです。


機関銃の開けた穴です 教会もご他聞にもれません

集合住宅の左半分はペンキで修復してありますが、右半分は穴がそのままです。

放置された壊れ便器

コデマリの花にシャッターを合わせておりました
さて、モスタルとは「モス」=橋のある美しい町ということで有名でした。
15~16世紀トルコ帝国が支配していた時に最初の橋が出来ました。 紛争前には7つの橋が架かっていたそうですが、一つを除いてみんな崩壊してしまいました。
川を挟んで、混在してイスラム、クロアチア、セルビア人が住んでいましたが、紛争後はセルビア人は郊外に追い出された。 市内はモスリムとクロアチア人がほとんどと言うことです。
だが、セルビア対クロアチア・ムスリムの戦いが、後にはクロアチアとムスリムの戦いとなり、クロアチア人が橋を壊したと言う。
戦後、トルコの援助によって橋は再建されました。



左の山(丘)の上から砲弾が打ち込まれました

橋の両側にはトルコの香りするお店や石畳が続いています。

橋の袂に「DON,T FORGET ,93」と書かれた石が置かれ、その上に砲弾の破片。
ほとんど、期待していなかったのですが、綺麗な流れの静かな町でした。
人々の表情が大変暗いのを強く感じました。 傷の深かったことを感じさせました。
後から紹介しますが、首都サラエボは表面上はほとんど修復されたように感じました。
所々に戦争のあったことを忘れないために、意識して残されていると思われる建築物は残っていますが、それに引き変えモスタルは何処を見ても、世界遺産の橋の周辺以外は戦争の爪あとが目を背けたくなるほどです。 が、時間の経過とともにそれにも慣れてくる自分を感じずにはいられませんでした。
モスタルからサラエボへ
約2時間の移動です。

隆起した岩山が続きます


芽吹き前の山々です 後2〜3週間で新緑の山となるのでしょう
サラエボに到着しました。
サラエボには約50時間程いました。 山々に囲まれた盆地の中の町ですので、同じところを何度か通りました。 が、一番初めにカメラを構えた映像を掲載します。

電車が走っています トロリーバスもあります

この高層ビルは共産党支配時代のアパート 近代的なビルも見えます

大学も綺麗に修復されています

黄色のビル「ホリデー・イン」は、戦争のときに海外の報道機関が宿泊していたところで、このビルには砲弾の痕がありません。
その右は2日間お世話になった二つ星クラスホテルです。 部屋に通され小さなベランダに出ると、ドアーのサッシに銃撃の痕が残っていました。
ホテルは繁華街の近くです。 メイン通りの一つ「チトー大通り」を東に行くと、何処を切り取っても絵になるアングルがいっぱいです。
18世紀から19世紀初頭まで、ハンガリ・オーストリア帝国の支配下にあった影響の建築物が続きます。


ローマカトリックの大聖堂
通りを300メートル歩くと突然町の様子が異なります

こちらは15世紀から16世紀、トルコ帝国の時代の街並みとなります。



このレストランで昼食を取りました。
ボイコビッチ村(クリロ・サッカーチームと交流)
ボイコビッチはセルビア人の村である。
クリロのサッカーチームは先生が中心となってモスリム人とセルビア人の混成チーム。 日本を訪れたこともあり、昨年は広島で交流試合をした。
1999年、日本の学生がこの村に来た。 そしてサッカーをすることを提案した。
2000年2月に設立された、それは日本人の森田太郎さんの支援によって(技術と金銭面)出来たチームである。 森田さんはボスニアについての本も出している。
当初、村人は日本人の森田さんに興味をもって集まった。
ムスリム人とセルビア人が交流するなどと言うことは当初、とても無理だと思った。 が、森田さんは大丈夫だといった。
集会に集まった両親で、チーム結成に同意の親を巻き込んだ。当時を思い出すと、現在のことは信じられない。
ヒンゾーさん(ムスリム・先生)と責任者のチェロさん(セルビア人)。両者ともに民主主義的な考えを持って前向きに取り組んだ結果可能になった。
当初、親達は反対したし、子供達自身も怖がったりして大変であった。 が、子供達が境界線を越えたことが最大の成果である。 境界線を越えてからは毎週土曜日にはムスリムで、日曜日にはセルビア側で交互にサッカーをしている。
子供の年齢は8~13歳、それを越えるとチームの指導者になっている。
今、全員で30人。
クリロ以外の地域のチームと試合をしたいと思っているし、女性も参加してもらえることを期待している。 サッカー以外のゲームを取り入れて女性を集めたい。
サッカーだけでなく、ピクニック、キャンプ、サラエボの市内見学なども実施している。
女性の社会進出は難しい、また、アラブの伝統も理解できるが、中東(アラブ)のイスラムとヨーロッパのイスラムは異なる文化と価値観をもっている。と少し感情的にヒンゾーさんが語った。
良かったことは、このプロジェクトをボスニア全体に広める活動が出来たことである。
目差す方向は民族間の緊張を緩和することと、リラックスした環境を作ることである。
子供達に日本のプロサッカー選手の名前を尋ねたら、中村、稲本、中田などヨーロッパのサッカーチームで活躍している名前がポンポンと飛び出した。
ピースボートとは3年目の交流となっている。 そして今度は何時来るのだと訊ねてきた。

サッカー場はボイコビッチの村が見渡せる小高い山の上にあった

白い桜が咲き、タンポポや名前を知らない花が咲いていた。 この周りには羊が放たれており、そこかしこに糞が転がっている。

ピースボートのメンバーが持ってきた太鼓を楽しげに叩く少女。その親。

突然のにわか雨で、一時中断

こんな”ゆで卵”も出てきました

バーベキューを作っていただきました 美味しく頂きました

楽しい時間はアットいうまに過ぎてしまいました

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