エッセイD 旅日記
このページ以前の
エッセイはこちらへ



                              平成19年4月22日 記

 ”世界一周101日船旅日記”56日目 4月22日

 〜4月21日、”マスカレード(仮装)パーテイー

 
   

 時差が発生していたが、体内時計は午前5時だったので、そのまま起床しました。
 しかし、それは4時半であり、朝の定番を75分実施し終えても、日の出の時間とはならなかった。
 

 昨夜、開催されたマスカレード(仮装)パーテイーの様子を紹介しましょう。

                 
  通路に出たら、おめかしした4人組に会いましたので、、一枚お願いしました。

   

           当初はこのように大変固い表情でした。

   

                 少し盛り上がってきました。

     
    
 始まって1時間、最高潮に盛り上がりました。カメラのバッテリー切れで早々と切り上げ。

   

   

   


 本当の「ラテンアメリカの歴史」を知る

 
南米の統合を目指すベネズエラのテレビ局、テレスールに勤務する、水先案内人のエドウワルド・ロテさんの講座に出席。
 15世紀にコロンブスが『発見』したと言うアメリカ大陸。 これは征服者側からの歴史描写に過ぎない。 様々な人種が混在するラテンアメリカ。
 紀元前からの文明であるマヤ、インカに代表される古代文明以前に始まり、ヨーロッパ人による征服の時代、各地の独立運動・革命を経て現代にいたる。

 その過程で、壮絶な権力争いと人間の自由への希求が脈打っている。
 米国の資本家たちからの間接的支配を抜け出し南米の統合を目指すベネズエラは、今世界の注目を受けている。


 上記の講座とは別に、アルゼンチンのロサリオ市の中流家庭に生まれたエルネスト・ゲバラは、大学医学部を卒業したものの、若い頃に南米を旅して、各地で社会的不平等がはびこっていることを知る。それを改善出来るのは革命のみと確信する。
 1950年代末期、カストロと組みキューバ革命を実現、国立銀行総裁・工業相に就任し、革命理念及び彼の経済政策を記した著作も発表。
 ボリビアで殺害される最後期まで、革命の意志を貫いた彼の波乱万丈の人生を、エドウワルドさんが熱弁した。
 
 彼が8歳の時、両親につれられてガテマラを米軍が空爆するのを見ていた。ゲバラもそれを見ていて、その後、反撃軍を作る。
 1時間の講座が15分もオーバーしても話が終わりそうにもないほどの熱の入れようであった。
 
 




                              平成19年4月21日 記

 ”世界一周101日船旅日記”55日目 4月21日

 〜洋上からの5回目のメール内容は?〜

 

    

     

 4月21日送信予定のメールの内容
 
 『スペイン本土から南西1000Km離れた、避暑地カナリア諸島・グラン・カナリア島・ラスパルマスを出航した船は、西へ西へと6日間のクルーズで大西洋を渡り、カリブ海の東・バルバドス・ブリッジタウンに向かっています。

 4月23日に報告会となる”地球大学”の「ユーゴスラビア紛争と和解への道のり」(特に、ボスニア・ヘルツエゴビナを中心)の準備が最終の追い込みに入っています。
 出航前、数冊の指定図書は読んできました若者20人でした。(他にシニア・メンバーが6人)
 彼らにとっては、日本で戦争が起こるなど夢々思いよらぬ日々の中にありました。

 ボスニアの人々も同様に日常生活を送っていました。 そんなある日突然に、小さな誤解と誤報から始まって、次第にエスカレートし、殺しあうまでになりました。
 (この間、権力者や戦争で得をする方達は計画的に仕組み、メデイア操作もしていました)市民の不勉強、無関心、他人頼り(誰かが止めてくれる)が基となって拡大して行きました。

 この船上大学で学び、現地に入り人々の声を聞き、現場を自分の目で見・感じました。
 結果、報告会のタイトルは多くの候補の中から、ほぼ満場一致で「貴方が、隣人を殺すとき!!」が選択されました。

 若者達は憲法9条改正問題、国連常任理事国入りを目差す日本、あるいはイラク戦争で海外派兵が現実となった日本の自衛隊に対し、自分たちのこととして語り始めました。
”忍び寄る危機=戦争”、それは起こりうることだと話し合い始めました。

 そして、選挙に行き、権力者やマスメデイアの発言・報道に関心を持って、日常生活をしてゆかなければならない。友人、知人にも声を掛けようと口にし、劇あり、映像あり、音楽ありの90分間が演出されることになりました。

  明日と明後日の2回リハーサルをして本番です。

           4月21日 現地時間午前9時、大西洋を西に向かう洋上にて』

 
 

 報告会の内容は素晴らしいものになると思う、後どれ程、具体的に落とし込み、全体としての繋がり出来るかにかかってきている。
 さすがに、この辺のことについては若者の感性、感覚、パソコン周辺の使いこなす技術はたいしたものだ。 脱帽である。 分かっている方にはそれほどでもないかもしれないが・・ ストーリーの出来上がってゆく段階で、かなり角度の異なった意見が出されたのもよいことだと思った。
 しかし、全てのメンバーが発言しているのではなく、どちらかと言うと出しゃばり屋がいることは、何処の世界でも変わらない。

 パワーポイントと表現していた、画面に文字情報を挿入するテクニックは習得すべきと感じている。  一段落終わった後で、ご教授をお願いするつもりである。




                              平成19年4月20日 記

 ”世界一周101日船旅日記”54日目 4月20日

 〜地球大学〈報告会〉に向けて、集中です〜


 昨夜はトレッキングの疲れからでしょうか、早々と床に着きました。
 今朝は5時半起床、太陽が上がる前に朝のお勤めが終わりました。

   
 
 執事役さんは大変

  旅も半分を過ぎるとハッキリとグループの姿が見えてくる。
 若い人とシニアーが別れるのは仕方がないことですが、若い人のグループに参加しているシニアーは、踊りとかスポーツ関係です。
 おじさんグループに入り込んでくる若い人はほとんどいませんが、食事の時に隣り合わせになる、オプショナルツアーで同じ体験をした人たちのその後の会話はあるようです。、
 
 常に一定のメンバーで食事をしているメンバー、バー・カフェにいり込んでいる顔ぶれ、オシャレ・ファッションに関心のあるグループ。
 チョット知的で教養のありそうなグループは長続きしていないようだ。
 カラオケをやっている、マージャンをしている、囲碁・将棋のグループも顔ぶれが決まってきた。

  男性の中に執事のように小まめに面倒を見ている方を見かける、なかなか出来ないことを生真面目にやっている。 数週間前、確か「ギリシャの文化・ヨーロッパの文化」の講演に対して、執事係が何を間違えたのか、一番前の席を確保していた。
 その後、登場した奥方達座ったまではよかったが、話が進むにしたがって、コクリコクリと体が揺れだした。 大あくびをするやらで話をする人には大変迷惑な光景を後ろから眺めていた。
 途中で席を立つには余りにも中央過ぎた。 講演が終わるやいなや、執事さんはあたふたと席を立っていった。
 翌日のセリフは「逃げるにしかず」であった。


 
 4月20日、午後8時45分ごろ、船内に緊急情報がながれた。 
 「船内の乗務員が体調を崩した。 一時、進路を変更してカナリア諸島の病院施設のある島に向かう
」と。
 
 カナリア諸島、グラン・カナリア島・ラスパルマスを出発して、既に20時間以上経過している。  大西洋に乗り出しバルバドス・ブリッジタウンに向かっていたトパーズ号は、多分引き返しているのだろう。
 

 追記、4月21日午前9時、船内放送より
 「昨日の深夜、緊急入院の必要な状況にあった乗務員は、ヘリコプターに収容された」

 と、アナウンスがありました。
 これによる、計画の遅れはないとのことです。

 



                           平成19年4月19〜20日 記

 ”世界一周101日船旅日記”53日目 4月19日

 〜カナリア諸島(スペイン)・ラスパルマス〜

 
      

 日の出約1時間前に、デッキ・ウオーキングをしていましたら、バタバタという羽音がします。 目を凝らし、薄明かりの中に動くものを見つけました。 フラッシュ・モードにして、この辺にいるだろうと思われるところを数枚カメラに納めました。その一枚です。
 鳩のようです、船のどこかに衝突でもしたもでしょうか。 ヤット、白々してきた時には、飛び立ったようでもありましたが、海に落下してしまったのでしょうか、姿を見つけることは出来ませんでした。

 スペインは急遽、寄港地となったジブラルタルからは、歩いて渡ることが出来ます。
 タクシーで1時間半かけてスペインを楽しんできた方の話も聞きました。

 スペインとカナリア諸島のこと

 そのスペインというのは、国の正式な名称は「エスパーニャ王国」。そんなわけで、三重県にある”志摩スペイン村」は「エスパーニャ王国」と言う。
 面積は日本の1・3倍、人口は三分の一。
 スペインの特徴は、同じ国でも地方によって文化・風土が異なる。 
 ラ・マンチャの男で知られるドン・キ・ホーテの舞台となった風車の町がある。
 カステイーリテ・ラマンチャ地方。 ピカソやガウデイーが活躍した芸術の都バルセロナがあるカタルーニャ地方。
 オレンジで有名なバレンシア地方、太陽、闘牛、フラメンコなどスペインのイメージが詰まっているアンダルシア地方。

 今回訪れるカナリア諸島は、アフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋上にあります。 
 火山の噴火によって生まれた7つの島からなる群島です。 最も近い島で、沿岸から108Kmのところにあります。
 スペイン領と言っても本土から1000km以上も離れている。 かっては、緑に覆われ、南の楽園であったことからカナリア諸島は「幸福の島々」という呼び名もあった。

 現在は砂漠化が進み、乾燥した気候になっている。ヨーロッパ人のリゾート地。
 グランカナリア島は、北側にある都市ラスパルマスは朝から晩まで何時も曇り、(これを「ロバの腹」と地元の人は言う)島の南は何時も晴れのビーチが広がる。

 雨がほとんど降らないカナリアでは、水は貴重。 生活用水は、海から汲み上げた海水をろ過しているために飲料には使えない。
 歯磨きの時に蛇口の水を含むと塩分を感じる。
  
@地理的に大陸から隔絶された大洋島。Aヨーロッパ大陸全土、アフリカ北端を覆った氷河期の影響を受けなかった、と言う理由で、これらの諸島には固有の生物種が多いため、環境保全上、非常に重要な地域とされている。
 
 カナリア諸島は、ギリシャ神話に登場した、黄金のリンゴがあるというヘスペリデス島のモデルだと考えられる。 古代の学者大プリニウスが、島に多くの野犬がうろついていたのを最初に伝えたために、ラテン語で犬を意味するCANISがカナリア諸島(Canaria)の名前の由来となった。英語ではCanary Islands.
カナリアという鳥の名前もこの諸島にちなんで名づけられた。

 カナリアには、先住民、アフリカから来た人、スペインからの移住者の3つの源を持つ人がいる。 スペイン本土とは言葉(方言)や文化、習慣の違いがあり、カナリア人と直ぐに分かるという。
 最初はアラブ人やノルマン人、ポルトガル人などが所有していたが、15世紀末、原住民であったベルベル人と共にカステイーリャ王国が征服している。 後に家系の断絶や移住者の流入によって人数は減少した。
 このカナリア諸島には現在、極貧のアフリカ諸国から毎日約500人の不法移民が到着しているという。

 経済基盤は、観光と熱帯農業で収穫のバナナやタバコの輸出(ヨーロッパ・アメリカ
 年間約1000万人の観光客。)

 ラスパルマス・デ・グラン・カナリア市、ここに在ラスパルマス日本領事館がある。
 日本漁船とラスパルマス港との長い歴史に関係している。 
 現在、ラスパルマス港に年間約200隻の日本マグロ漁船が入港、船本体の検査・修理・食糧などの物資・燃料の補給を行っている。

 カナリア諸島の中心であるカナリア市は、国際性豊かな都市、スペインの中でも大都市と言え、演劇、クラシック音楽会、オペラ国際フェスチバル等文化活動も盛ん。
 ここでは日本への関心度は高い。

 グランカナリア島のテルデ市にはヒロシマ・ナガサキ広場があります。 その小さな広場には日本の憲法9条の全文を刻んだ碑が置かれています。
 グランカナリア島は大西洋の軍事的要衝として位置づけられている島ですが、スペインがNATO(北大西洋条約機構)に加盟した時、テルデ市だけは異議を唱え、市議会で「非核地帯」を宣言しました。。
そのシンボルとしてヒロシマ・ナガサキ広場と憲法9条の碑が建設された。
 日本では現在、日本国憲法9条に対し様々な意見が出ていますが、テルデ市では「戦争放棄を定めた立派な憲法」として評価されているようです。

 午前7時半、入港します
 
 朝日に照らし出された遠くからの眺めは綺麗な町という印象でした。

              

              

    

                   
             港で一番高いビルです。ホテルのようです

      


 ここでは、「ロケ・ヌブロ周辺のトレッキング(本格コース)に参加する
 「雲の上を行く」気分が味わえるというが、さて如何な報告となりましょうか。
 標高は約1240M〜1660M、距離にして約5Kmです。

             
  
 海岸線の道路から離れ山に向かいます。麓の町は「カナリア相撲」が盛んです。 日本へも親善試合に来たことがあるそうです。
 
         
   
    この辺は砂漠と同じような環境で、雨もほとんど降らず、緑も砂漠の植物と同じ。

             
             
              グランドキャニオンのような岩山です

             
            

             標高1000メートルくらいのところにある村です。

 段々畑では、かっては麦を栽培していましたが、商売にならないと今はやめてしまいました。 
この付近には15世紀、スペイン人に攻められて山に逃げ込んだ人たちが、洞窟で生活していました。 彼らの武器は棒と石しかなく、最後は追い詰められて、岩山から投身自殺に追い込まれたそうです。
              
               
               飛び降りたといわれる、岩山です。

          車で1時間走ったところ、「サンタルシア」でトイレ休憩。
    

      


   


                 
               トレッキングのスタート標識です

       

   

こんな瓦礫が続きます。スタートから急勾配。1953年に建てられた標識がありました。
 
    

 先頭と最後尾では300メートル以上の差が出ました。この松林で休憩、大きな松ボックリ

 休憩後はなだらかな登りとなりましたので、隊列の長さは最初の頃よりは小さなものでした。 日本でトレッキングというと、オゾンイッパイの緑の中を散策するというイメージを持ちますが、ここでは空気こそ乾いていましたが、潤いの感じられない山歩きです。

      
       
       これが「ロケ・ヌブロ」です、ほぼ標高の同じ山の頂上からの眺め
 左の岩山は先住民が「神の岩」と呼んでいたところです。 右は「カエル」岩。

      

               
        
         火山溶岩で出来た岩山にはこんな姿のものもありました。
            下り始めると一気に自動車道にでました。

               


 山登り中に「オヤツの時間」があり。昼飯は午後の3時になりました。 ジャガイモが年に3回収穫出来るという、段々畑のジャガイモは小粒でしたが、ソースの味とよくマッチしタップリ頂きました。

 
 帰りの休憩場所は、思いも寄らない静かな落ち着いた村でした。 宗教心があついカトリックの村と言うことです。

   
            
            実に閑静な町並みと人々の足取りでした。
            豊な年金暮らしの老人達の町のようです。

    

                     

 
 ラスパルマスの市内に帰ってきました。
 避暑地としても人気のあるグラン・カナリア島の海岸に出て見ました。

      

    


    

         公園では若者がスケートボードをしていました。

   

          近くのショッピング・モールにも行って見ました。

         


 
 

 


                              平成19年4月18日 記

 ”世界一周101日船旅日記”52日目 4月18日

〜カサブランカからラスパルマス(スペイン)へ〜


 
4月18日は日の出のない、夜明けでした。

   
               →                 →

     

 カサブランカを出航した後は、南西に向かっています。 上記のような夜明けでしたが、午前10時を回った頃から、花曇の状態になりました。
 北緯30度当たりです。 気持ち地中海の頃よりは気温が上がってきました。



 
3月21日、ケニア・モンバサから乗船してきた国際奨学生(IS)の4人が、こんなメーセージを残して下船しました。
 彼女達は紛争の地で敵味方の関係にあった、今もその関係は続いています。
 皆さん高等教育を終了された方ばかりで、国に帰ればNGOに勤務している方もいますし、教育者(先生)も居ます、働きながらボランテイア活動をしている方もいます。

 では、イスラエルのナタリーさんのメッセージから
 「ピースボート、それはとても驚きに満ちた体験でした。 この1ヶ月がどれ程自分にとって意味があったのかを言い表すことが出来ません。 この機会を下さってありがとう。
 皆素晴らしい人ばかりで、私のハートの中に生きています。」


 次に、パレスチナのサマールさん
 「紛争と危機がはびこるこの世の中で、ピースボートは平和と安全を創り出していると思います。 平和な世界の構築のための惜しみない努力をありがとう。
 パレスチナはあなた方の連帯を必要としています。」

 
ボスニアのサビーナさん
 
「ピースボートは良い方に、私を変えてくれました」

 
セルビアのマヤさん
 「ピースボートに乗っている人たちは自分達の活動と使命がどれほど影響力を持っているかを知るべきだと思います。 私はその力を出来る限りサポートしたいと思っています。
 ピースボートが存在していることは素晴らしい。 ありがとう。」

     
  ナタリー         サマール      サビーナ        マヤ
                             

  地球大学報告会に向かって内容の検討が続きます。 4日後です

  
  



 

                              平成19年4月17日 記

 ”世界一周101日船旅日記”51日目 4月17日

〜ジブラルタルからモロッコ・カサブランカへ〜

 
 昨夜21時にジブラルタルを出航したトパーズ号は暗闇の中で両岸の様子はうかがい知る事は出来ませんでした。
 今朝は5時15分に起床しましたが、目覚める直前まで夢を見ていました。 その内容は写した写真、パソコンに取り入れたのですが見当たらないのです。
 事実、4月1日から15日までのものが、いくら探しても出てきません。 USBの取り扱いは充分注意したつもりですが、残念です。

 が、この日記に採用した写真は、日記自体消えていませんので、今のところ全て揃っています。
 
 どのくらいシャッターを押すか、見当がつきますか。
 兎に角、気に留まったものは次々にシャッターを押すことにしています。
 そして、その場で第1次のふるいわけをします。 このとき大体半分になるでしょうか。
 観光の途中にバスに乗り込みますと、更にふるいにかけます。 
 パソコンに取り入れるときに、拡大してより分けますので、シャッターを押した分の2〜30%になっていると思います。
 最後に、この日記に登場するものはその中の半分以下です。
 ということは、シャッターを押した数の2〜3%と言うところでしょうか。
 デジタルカメラなるが故に出来ることです。

 さて、今朝の日の出です。

   
        
       海面の上にあります山並みのような感じの物は雲です。 

 
地球大学「報告会に向けて

 モロッコ・カサブランカのオプショナル・ツアーが無くなりましたので、船上の「地球大学」が開催されます。 4月23日に予定されています報告会のまとめです。
 様々な全体タイトルが提案されました。 列挙してみましょう。

@大切な人を殺せますか。 大切な人を殺されたらどうしますか?
A貴方が友達を殺す時。 明日友達に殺されるかも・・・
B他人事ではない、明日貴方もころされるかも・・
C貴方が隣人を殺す時!!
D日本は再び戦争を起こすのか? 日本でまた、戦争をしますか。
Eマジで戦争5分前。
F明日、第3次世界大戦。
G関西人対関東人、第1次日本大戦勃発。
H貴方が教科書に載るとき。

 以上のように、若い人たちは戦争を大変身近に起こりうるものだと感じ、安穏とした日々を送っていて良いものかと考えています。
 
 上記の中から、様々な意見が出て絞られてゆきました。
 
 「大切な人」と「隣人」「友人」の内、どれが適切かについては、「大切な人」というと、親や子供、兄弟を思い浮かべる。その大切な人を殺せるかと問うには適切ではないということになりました。 友人、友達もそれに近く、近くに居て他人と言うところから「隣人」が選ばれました。
 「マジで戦争5分前」というのは、「マジ」でなかったら、どうなのかとなって消されました。
 FGHも早々と候補から脱落しました。
 結果、語呂もよく、訴えるのにパンチもあるということで、「貴方が隣人を殺す時!」に決まりました。

 報告書は3グループに分かれて以下のストーリー〈T〉、紛争(戦争) に至る経緯
 〈U〉、現状のボスニア・ヘルツェゴビナ、 サラエボ、モスタルなど、私達が見て・聞いて・感じ・学んだことの報告、また私達が現地で行ったこと。
 〈V〉、まとめ、私達の身近に起こっていること、その意味するもの。それに対してどうするのか。どうすべきか。 どのように関わってゆくのか。細部をまとめる事になりました。

 〈T〉では第二次世界大戦の後始末、反省が充分に行われないまま、問題を伏せ・先送りしてユーゴスラビアという国が出来た。 それはチトーという政治感覚とバランス感覚の優れた大統領がいたことによってなしえたことであったが、彼の死後、共和国内の経済格差、公平性が損なわれていたことによる、不満が吹き出ることになる。

 そして、戦争(紛争)は権力者によって、造られてゆく。 メデイア操作もなされる。
 人間の愚かさ、弱さ、恐ろしさ。 戦争は身近なものとして語られることになろう。

〈U〉では、モスタルで見たこと、世界遺産の橋がその後どうなったか。街の現状。
       モスタル高校で始まった民族合同の教育の現状、と課題
       アブラセビッチ(モスタル)の若者の取り組み(センターの活動状況)
       クリロでのサッカー体験(セルビア人の村で、モスリムとセルビアの子供達)
       サラエボの街の復興状況。
       紛争中サラエボ市民の生活を支えたトンネルの状況。
       スレブレニッツァ(8000人の虐殺があった)の女性たちの活動状況
       サラエボのOIAの活動状況(ボランテイア活動の高校生たち)
       ピース・ボートの若者の路上パフォーマンスにサラエボ市民の反応

 〈V〉では、日本で、韓国で(この大学には韓国の学生が4人参加している)、今起こっていること。
 憲法改正の動き。 従軍慰安婦の問題。 国連安保理事国入りを目差す日本、その意味するもの。理事国になったなら何が求められるのか。 経済支援のみでは済まされない。
 戦犯裁判の状況、どう向き合うか。
 渋谷通りのあの華やかな色とりどりのファッションと飽食の中の若者
 不信・不満・不安を口にしながら、何をしてきたのかシニアー世代、何が出来るのか。

 どのようにまとめられ、報告会になるのか楽しみである。 少なくともこの大学に参加した若者全員の口から程度の差こそあれ「如何に今まで、不勉強、無関心、人頼りであったかを思い知らされた」と聞けたことが驚きであった。



  4月17日、午後5時半にモロッコ・カサブランカに入港

            歓迎の横断幕と                      音楽

    

 何処にもある港の重機ですが、これまでで一番大型で、数があったように感じました。

 その、港の壊れた倉庫の上に鳩がとまっていました。 一斉に飛び立ってくれたらよいなと思った瞬間、飛び立ちました。
   
               →                  →
    
            まさか、思いが通じたわけでもないでしょうが・・・


 




                              平成19年4月16日 記

 ”世界一周101日船旅日記”50日目 4月16日

 〜急遽、イギリス領・ジブラルタルに上陸となる〜



 事前にモロッコのことを入力しておりましたので、そのまま掲載します。

 モロッコ王国(通称モロッコ)は、アフリカの国。首都はラバト。 アルジェリアと西サハラに接し、大西洋と地中海に面している。 アフリカで唯一のアフリカ連合に未加盟国。
 古代にはフェニキア、ローマなどの支配を受けた。
7世紀、アラブ人がモロッコ、イベリア半島まで達し、イスラム教が浸透した。
 8世紀末、勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドイースを支えて、イスラム化したベルンベル人は、イドリース朝を建国。
 その後、チュニジアから興ったファーテイマの支配を経て、11世紀から15世紀にかけてムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝が興亡。
 15世紀末、スペイン、ポルトガルが北アフリカに侵攻。
 サアド朝(サーデイ朝)はこれを撃退。
 16世紀にはソンガイ帝国を攻略し、オスマン帝国、キリスト教勢力を退ける。
 1660年、アラウイー朝成立。現在まで続く。

 1904年英仏協商で、フランスがモロッコにおける優越権を獲得。 これに反対するドイツが1905年、1911年の2度に渡りフランスを威嚇(モロッコ事件)、が、最終的にドイツ妥協。
 1912年フェス条約で国土の大部分がフランスの保護領となった。
 また、仏西条約で北部リフ地域はスペイン領となった。
 1956年フランスから独立。スペインはセウタ、メリリャ、イフニの「飛び地領」とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いて領有権を放棄。
 1957年にスルターン・ムハンマド5世が国王となる。
 1958年、スペインタルファヤ地方をモロッコへ返還。
 1961年、ハッサン皇太子が父の死亡に伴い国王に即位。
 1967年、イスラエルとの6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰。
 1969年、スペインが飛び地領のイフニを返還。
 1975年、西サハラを非武装で越境大行進「緑の行進」を行う。
 1989年、アラブ・マグレブ連合条約調印。
 1991年、西サハラ停戦成立。
 1992年、憲法改正
 1999年、ハッサン2世国王死去、シデイ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世即位。
 立憲君主制の政治体制。 議会は二院制で、国家元首を置くことにしたが、それも、今はムハンマド6世が兼務することになった。

 人口は世界35位(2004年)で330万人。GNPは世界57位、545億ドル。
 アフリカ北西端にあって、対岸のスペインとはジブラルタル海峡を挟んで、狭いところは幅14Km。 モロッコの南西に分布するカナリア諸島はスペイン領で、本土以外には国土を持たない。
 国土の北部、地中海沿岸のセウタとメリリヤは、スペイン領土(飛び地)。
 陸続きの西サハラを実行支配しているものの、国際社会で占領行為の正当性が認められているわけではない。
 西サハラはスペインの植民地であった。

 住民は三分の二がアラブ人、三分の一がベルベル人か、その混血。 ユダヤ人はイスラエルやカナダに移住して減少、1990年時点で約1万人。

 1961年にイスラム教が国教となり、イスラム教スンニ派が99%。キリスト教とユダヤ教も禁止はされていない。

 性転換について
 モロッコというと「性転換」手術をイメージする人たち、特に40代以上に結構いる。
 これは男性型→女性型の性転換手術の技法がモロッコの第二の都市(人口約70万人)マラケシュに在住のフランス人医師ジョウジュル・ブローにより開発されたためで、フランスのキャバレー「カーセル」に所属した多くの「性転換ダンサー」たちがブローの手術をうけたことから有名になり、一時は世界中から、女性に生まれかわりたい男性達が大量にマラケシュに押し寄せた。
 
 日本のカルーセル麻紀や光岡優も受けている。 1973年以降のカルーセル麻紀に関する報道の影響が大きい。
 また、マラケシュが「魔羅消し」に通じるという語呂あわせも随分言われた。

 私はカサブランカから車で片道5時間かけて、東の「フェズで世界最大の迷路探索」に行くので、カサブランカから南に位置するマラケシュ(カサブランカから、これまた車で片道5時間)には行かない。

 ジブラルタルに入港の朝です

   

    


              
 
 その後、ケーブルカーで登り、歩いて下った英語で「THE ROCK」と言われる、「ターリク山」標高426Mの石灰岩の岩山です。

 車で観光すれば半日で終わってしまうほどに小さな町です。 国境を越えてスペイン領にも入れましが、ターリク山に登ることにしました。
 船から歩いて約10分、ウオーターゲートの城門をくぐります。
              

   
 
  ケース・メイクスクエアーです。其処から500メートルがメインストリートです。
 
      
       
         イギリス領を感じさせるものがストリートに並んでいます

                

                  ケーブルカーで頂上に向かいます

         
 
  大西洋側から400メートル吹き上がってきた霧です。 地中海側は晴れています。

              
 
 大変悪さをするサルが居ます。9世紀にアラブ人が持ち込みました。 「岩山にサルが居るかぎりイギリスの統治が続く」という謂れがあり、第2次世界大戦中、当時の首相チャーチルが「ジブラルタルのサルを増やせ」と命令した話は有名だそうです。
 現在も定期的に北アフリカから補充しているという。
 私のリュックの上に飛び乗って、チャックを開けて中に手を入れ込みました。

       
                     
                     頂上からの眺め   

              
   
     滑走路を横切ると(発着の時は通行を止める)、向こう側はスペイン領です。

 下山は歩いて帰ることにしました。 ジグザグですので、また途中でトンネルの見学などもしたため、2時間以上歩くことになりました。

   
    
    中腹にはコテージが              歩きでないと、撮れない写真です

      

               
   
   通行のためのトンネルではありません。海峡に向かって大砲が向けられています。

   

   

        トンネルの中では、人形で建設当時の模様が見られます

                
     
       第二次世界大戦時のトンネルのこと、その宣伝ポスターです

               
           
         城跡ですが、クローズしていました「Moorish Castle」


 



                              平成19年4月15日 記

 ”世界一周101日船旅日記”49日目 4月15日

    〜モロッコ・カサブランカ下船できず〜


   

 ジブラルタル海峡を10時間後には通過するのでしょうか?(現地時間4月15日8時)
 4月13日から始まり、約24時間2・4〜2・6メートルの波で揺れ体調を崩された方が多くいました。 
 今朝(15日)、波は治まりましたが、ご覧のようにお日様は出ず、今も海上はどんよりとしています。
 
 ヴェネツィアを出港して4日目のクルージングで、公開講座も興味のあるもんが少なく、溜め込んでいたものの整理が大分進みました。
 昨日は久しぶりに日本の知人・友人にメールを発信しました。 受信メールもあり開けるのが楽しみです。

 モロッコ・カサブランカのその後の情報は入っておらず、16日の入港予定を前に、本日(15日)、午後2時から説明会が開催されます。 どのような決定になっているのでしょう。


 『国旗の色は歴史をつくる』 (参考文献 なるほど世界知図帳より)
 
 各国の寄港地で見られる国旗。 その色と歴史についての豆知識。
 世界の国旗で一番使われている色は『赤』で、140カ国です。

 ところで、幾つかの国で共通して使われている色の組み合わせがあります。
 黄、緑、赤は「汎アフリカ色」と呼ばれています。 アフリカ最古の独立国エチオピアの旗がこの3色で、アフリカ諸国が競って国旗に取り入れたためです。
 アラブ諸国では黒、赤、白、緑の組み合わせが多いので、この4色を「アラブ色」と呼んでいる。
 アラブ独立の指導者フセイン・イブン・アリーが使って以来、これらの色はアラブ解放のシンボルカラーとなりました。
 このように、国旗の色にはその国の歴史が表れています。

 モロッコ・カサブランカには入港するも、下船できず

 結局、モロッコ・カサブランカには入港はするが上陸はしないことになった。
 入港はするというのは、モロッコで下船する方と、乗船してくる方、それにイタリアからオーバーランデイングして、モロッコで再乗船する方をピックアップするためです。
 行けなくなると、なお一層行って見たくなるものです。

 ジブラルタルについて

 ということで、急遽英国領、ジブラルタルに入港する事になりました。
 説明を受けた内容から、ジブラルタルを紹介しましょう。

 「ジブラルタルは、イギリスの海外領土の一つであり、イベリア半島の南端に位置します。
 領域は半島になっており、地中海の入り口に面し、陸地側はスペインの国境に接しています。 対岸のアフリカ大陸とは16Kmしか離れていません。
 ジョン・レノンとオノ・ヨーコが1969年に結婚式を挙げたことで知られている。(知らなかった)

 戦略的拠点。軍事的要塞
 15世紀にスペイン領となるが、1704年以降はイギリス領となり、今日に至る。
 かってスペインはユダヤ人を追放したことから、ジブラルタルには独特なユダヤ人コミュニテイーが成立しており、またモロッコなどからアラビア語を母語とする多くの商人や労働者が渡来し、居住している。
 土地はほとんど石灰岩で占められており、大西洋と地中海をつなぐ要衝であるジブラルタル海峡を望める良港であるために、軍事的にきわめて需要な岩山の要塞都市である。
 現在もスペインがジブラルタルを自国領として主張、領土問題となっている。



                              平成19年4月14日 記

 ”世界一周101日船旅日記”48日目 4月14日

〜モロッコ・カサブランカで自爆テロ発生の情報〜

 
 昨日から始まったシケ状況が今朝も続いている。 8Fデッキでウオーキングを始めたが1周したところで、7Fに降りました。
 朝、6時前ということもあって、数人の方が眠ったり、書き物をしておられるだけなので、通常どうり4Kmのウオーキングとストレッチをする。
 神戸を出港して外洋に出るとき以来の荒れ方である。 階段や通路のアチコチに嘔吐のための袋が配置されています。
 船酔いに効果のある「シーバンド」をしたまま、昨夜は眠った。効果ありです。

 
 なるほど THE モロッコ (参考文献・アフリカのことマンガで3時間で分かるより)

 昨日、本日、余り興味のある講座もないので、ボスニアの旅の写真の整理です。
 4月16日に上陸するアフリカ最後の国、寄港地であるモロッコを紹介しましょう。

 @「大阪の食のシンボル「たこ焼き」。 そのタコ、日本で流通している7割はアフリカ北西岸が原産。 近年、タコ漁は不作気味、過去30年間に渡り毎年10万トン以上のタコが日本の食卓に届いている。 値段もさることながら身が柔らかいため、「たこ焼き」に向いている。
 モロッコ近海はかって日本の漁船の好漁場だったが、排他的経済水域200海里の時代で、撤退を迫られた。 その後、日本の技術指導で始めたのが「タコ漁」。
 長い海岸線を持つモロッコの零細漁民には、労働集約型の蛸壺漁は最適。
 日本の援助で作られた漁業専門学校では「漁業日本語」も学ばれている。
 海外援助の模範の一つといわれています。

 Aモロッコはアフリカ大陸の北西部。 この国の南に広がるサハラ砂漠は、長らく大陸の南北移動を妨げ、民族・社会・文化に大きな違いを生み出した。
 イスラム教徒のアラブ系が多いサハラ以北は「北アフリカ」「マグレブ諸国」「地中海沿岸国」などと呼ばれ、黒色人種が多い以南は「サブサハラ」「ブラックアフリカ」と呼ばれる。
 
 マグレブとはチュニジア、アルジェリア、モロッコの3国を指し、アラビア語では「日の没するところ」と言う意味。
 7世紀以降のアラブ人侵攻により、マグレブ地域はアラブ世界の西の果てとなった。
 第2次世界大戦後、 モロッコはスペイン、フランスの保護領時代にも支配を維持したアラウイー朝の首長による君主国となった。
 現在は観光収入と出稼ぎ労働者からの送金が国庫を支えている。



 4月14日午後3時です。
 モロッコ・カサブランカの上陸説明会に出かけると、こんな説明で5分間で終わってしまった。
 「カサブランカで自爆テロが発生した。状況は現在把握中。
 よって、カサブランカをパスするか、別の港に入港するか今のところ決定していない。
 改めて、明日(15日)にお知らせします」
と。

 毎日 、昼、夜、美味しいお酒を頂いて、興味のある講座やセッションに参加して眠る。
 向かっているジブラルダル海峡を渡り、大西洋に面した「カサブランカ」では、予測もしていなかった事態が発生している。

 追記(4月18日)
 4月14日に2回目の自爆テロが発生したカサブランカを抜港(ばっこう)した。
 4月18日に日本政府は渡航情報を発表、それまでの「注意」から、一段階アップして「充分注意」となった。
 

前のページはこちらからどうぞ