エッセイDー17 旅日記
このページ以前の
エッセイはこちらへ






 COLUMN 1−D 1045

                                  平成21年5月25日 記

     能登・氷見と輪島に行ってきました


 二日間で750Kmは久しぶりのキャンピングカーでの遠出で疲れました。


                

           

  ↑ 氷見大橋をバックに「かもめ」を撮影しました。上はカッパエビセンを食べに・・

               

     ↑↓ 輪島の曽々木海岸に向かいました。23日は風も穏やかでしたので、このような映像と成りましたが、上の写真のように、荒波に削られた状況が分ります。

          

 
                

    ↑ゴツゴツとした岩を見ていただければお分かりになることでしょう。
 写真の岬を回って向こう側に行くのには「難儀をされた」と言います。 何人もの犠牲者が出たと言うことです。 今もトンネルがありますが、ドンドン削られているからでしょうか、本年12月に開通するトンネルが山側に掘られていました。

                

          ↑「窓岩」のこの光景も、波が創った造形の一つでしょう。


            

                    ↑ ↓ 「千枚田」

           

 一枚、一枚の田圃は小さく、西に沈む夕日とのコントラストを撮影しようと多くのアマチア・カメラマンが待ち構えていましたが、当日は雲の切れ目の可能性はなく、早めに切り上げてきました。

          

                    ↑ 「キリコ会館」です。

 何時ゴロまでが、日本海側が大陸から文化、文明の入り口だったのでしょうか。
 その中心地のひとつでもありましょう、能登地方には夏秋の祭礼にはキリコと呼ぶ巨大な御神灯を担ぎ出す風習があります。
 奥能登のキリコが一堂に展示されておりました。

 ところで、輪島の朝市を最大の狙いが今回の旅だったのですが、パソコンかカメラ操作の間違いで、今のところ写真がどこかに言ってしまいました。

 出てきましたら、また紹介します。




 COLUMN 1−D 1027
                              平成21年4月23〜25日 記

     日本で一番大きな島”佐渡が島”へ

 第一日目 快晴の太平洋側から時折雨の日本海へ


 直江津港を小木港に向かってフェリーが出航しました。 2時間40分の船旅の間に新パソコンを前にしました。

 2等客船から、1等客船にランクアップしたことは正解のようです。 ジュータン敷きの船室ですが、寝そべることもできますし、何よりも13人分に5人しか乗船していません。

 ここまで、カメラに収めてある映像を引っ張り出してみます。

              

     ↑ 信州中野で「新 佐渡 グルメの旅」第1回目の昼食です。

         

       ↑ 牛と黒豚そして馬(馬刺し)の造形物、旗がひらいめいています。

 ところで、ここまで入力するのに1時間かかりました。
 まず、軽い船酔いというか気分がすぐれません。 直江津港を出港してしばらくすると、高波とは言えませんが、船がローリングしていました。

 同船の方が「船酔い止め」を購入に行きました。 皆さん。横になっています。
 私も小さな活字を相手にしているからでしょう。 目眩というか、吐き気までしてきましたので、そこで中止しました。


 午後8時、自室に戻り入力を始めました。 船の上よりは、快調に入力しています。
 とはいうものの、写真の掲載には苦労しています。

       

 小木港への入港です。 雨は上がりました。 時折、日差しが射しておりますが、風は冷たいです。 衣裳の選択を間違えました。少なくとも、スプリング・コートは必要でした。

                

          


         

 ↑本日から2連泊・湖畔の宿「吉田屋」から、佐渡で一番高い山「金北山(1172M)を望む。

        

     ↑ 加茂湖に点々と広がる筏は、牡蠣の養殖です。海に通じている湖です。

 「新 グルメの旅」とは,名付けられたが、少しばかり名前負けするツアー名称ではないかといいながら、写真紹介のイメージどおりの食事内容であったら体重がどれほど増えるか心配していましたが、そちらの心配はなさそうです。

 さて、夕食後、毎夜9時05分から始まる地元有志連(?)による「佐渡民謡」の開演となりました。 ”数撮ればなんとかなるさ”精神で、俄かカメラマンです。

               
         
           ↓↑  まずは、現代歌謡曲から始まりました。

                   

      

      ↑ 踊りは足さばきがポイントですの言葉を思い出しまして・・・

              

           ↑ いやいや、腰の備えこそ重要なのですと

            
          

   ↑ そんなこと、どうでもいいじゃんと、爺ちゃん、婆ちゃんと参加も00ちゃん

            

   

        ↑ やはり最後は「佐渡おけさ民謡」で終わりましょう。
 





 
                                   平成21年4月24日 記

   終日佐渡にて観光   第二日目 

 〜兎に角、乗り降りしました。 全部紹介します。  


              

             ↑ 佐渡と言ったらまずは、「朱鷺」でしょう

              

       ↑ 素晴らしく,飛び立つ姿をお見せしたかったので剥製です。

           

       ↑ おまけに、なんと骸です。でも、人間さまは灰となります。

              

  ↑ 妙見寺 順徳天皇に供奉した阿仏房日得とその妻千日尼開基と伝えられ、流された日蓮に篤く仕えたという。

                   
                        

                  ↑ 県内唯一という、五重塔

    

     ↑ 境内が城のように感じられる。かって、竹田本間氏の居城にためという。

                 

              ↑ 佐渡に現存する最古の能舞台へ

    

 ↑茅葺の能舞台、周囲の松と芝生の緑と相まって、建物を見るだけでも十分に鑑賞にたえていました。

  もちろん知りませんでした。 能舞台に太陽が輝いているのはこの舞台だけとは↑

               

   ↑ かって、佐渡には200軒程のの蔵元があったそうです。今は7軒の蔵元。
 「アルコール共和国」と名づけられ、なかなかの商売ぶりでした。

 佐渡は金山と流刑地ぐらいとしか、知識がありませんでしたが、対馬海流の関係で本島より夏・冬通じて気温が数度安定しており、果物はみかん、リンゴ、ブドウ、柿、梨などほとんど収穫でき、米も収穫の三分に二は出荷しているとのこと。

 新潟県の三大銘酒「越しの寒梅」、「久保田」、「八海山」に勝るとも、劣らない酒蔵地であることを知りました。

               

  ↑ここに、拉致事件の曽我ひとみさんの二女「ブリンダさん」が勤めていました。

               

            ↑ゴールド・パークで砂金採りの体験ができます。
 初心者コース、中級、上級とあります。 中級は人工の川で、上級はほんとに川に入る。

          

 ↑ はじめは渡っているが、そのうちに目が輝いてきます。 男性よりも女のほうが時間を過ぎても頑張っていました。 その場でペンダントなどに加工してくれます。

                    

     ↑ こんな「大黒天さま」の姿に魅せられて、集合時間オーバーとなりました。


        

                    ↑ 佐渡歴史伝承館へ
 ここでは拉致事件の曽我ひとみさんの旦那様が働いておられました。 かって、タラップを降りてきた時のような、痩せて電気のない表情とはまるで別人jでした。
 
 ふくよかで、ゆとりのある表情でしたが、記念撮影の対象となり、無表情に売り物の「焼きせんべい」の宣言マンとして活躍されていましたが、どこか違うなと感じない分けにはいきませんでした。 私は写真を撮らないことにしました。

               



   

    ↑一体が一番高価なものは4500万円という蝋人形で精密にできています

               

     ↑昔話をしている爺さん、婆さんの話を聞いている坊やは蝋人形
       お隣のお客さんは最後までそのことに気がつきませんでした。



         

             ↑願いの叶う「ご利益橋」を渡って終わりです。
               

 
    

                  ↑七浦海岸の「夫婦岩」

            


   

 ↑ 紺碧の海に屹立つ弾劾、波静かに見えますが、当日は1~1・5メートルのなみです。 絶壁の岩肌に船が近づいた時は、少しばかり緊張しました。

        
      
  ↑大崎灯台にかかる遊仙橋は、映画「君の名」の舞台となったところ、別名「真知子橋」とも名づけられている。
                    
      

      ↑最後は「佐渡金山」の見学です。
 乗り降りが多く、ここまで来た時にはいささか疲れてしまい、写真を撮る気にも成らなくなっていました。 それとも、流刑地の作業場を敬遠したのでしょうか。

 いや、決して犯罪人だけでなく、石川県能登の方面からも、賃金がよいので働きに来ていたようです.。 が、仕事はきつく長生きはしなかったようです。



 「新 佐渡グルメの旅」と名付けられていましたが、一度もご紹介されないお料理です。
 どこにでもある旅の料理といったら失礼でしょうか。

 「おけさ柿の柿酒、食後のシャーベットのデザート」、特にというわけではありません。
 「佐渡のエビ・カニ」海が荒れてカニは二日目に口にできました。 エビは豊漁なのでしょうか二日目の10数品の料理のうち6品エビが利用されていました。(甘エビでしょう)

 「佐渡産牛」「佐渡の牡蠣」塩が採取できるので、それをタップリとアジにまぶして焼き上げた料理と思い出せば、結構なものです。

 その他、海藻のエゴ草をトコロテンのように煮詰めて固めたソバのようにきざみ、ネギとワサビなどの薬味をつけ、醤油をかけて食べる「いねごり」。サッパリとした磯の風味。 
 佐渡の代表的な食品。

 忘れてはいけないのが、佐渡さんのコシヒカリです。これは佐渡の中央部に広がる国仲平野の穀倉地帯、山間部の棚田でも作付されており、銘柄米としても一級のおこめでした。 このお米に味噌をつけて食べたのが一番・・・



 
                                   平成21年4月25日 記

    佐渡の名物「たらい舟」に乗って

 〜第三日目 何とか大ぶりになる前に満喫〜  


 雨模様の朝が来ました。 「たらい舟」が終わるまでは何とか降らないでと願いましたが、乗船間近に降り出しました。

               

         


  小木港の湾内を半径20メートルで一周です。 大きく濡れることもなく下舟。
  小雨のために差した傘の色が黄色で、画面に色添えとなりました。

 帰りの2時間40分のフェリーは今回知り合った可児からの小形さんとおしゃべりです。
 小形さんも高血圧の薬を飲みながら、朝からいっぱいのご様子です。

     「傾聴」の勉強というか、私の心構えの進展を測るお話相手でした。

                 

   ↑ 乗船前に、お別れの「佐渡おけさ」をひと踊り見学しました。

 5年間で4回キャンピングカーでの佐渡旅行を計画しましたが、今回やっと行くことができました。 島の様子も分かりましたので、次回はやはりキャンピングカーで行動自由な旅をしてみたくなりました。

 旅行社の佐渡への旅行はほとんど2泊3日が定番のようですが、3泊4日ならもっと楽しめる事だろうと思いましたし、キャンピングカーならゆったりと5泊6日なら山登りなども楽しみ、釣り好きな方なら更にということになるのではないでしょうか。

 前にも書きましたが対馬暖流の関係で、ミカンとりんごの両方は収穫できる住みやすい島とのお話が理解できました。
 また、島で収穫できないものは「お茶」とのことです。 これには伝説のお話もあってのことです。 鮎の遡上もありアユ釣りも楽しめるとのことです。

 観光がメインの産業でしょうが、お米は島外移出していますし、島内で全てが自給できるのではないかと、お話から想像しました。

 永住のために島に渡ってこられる方の近年増えているとのことです。


 帰宅後、お風呂に入っていましたら、チャイムが鳴りました。 
 昨日注文、宅配便のお酒が届きました。 離島からの宅配便というのになんと速いことでしょう。 今夜は疲れましたのでお休み。明日にお楽しみとします。







                              平成20年10月15日 記


錦秋の秘境奥只見と
  紅葉大パノラマ安達太良山空中散策3日間               平成20年10月11日〜13日  


 
上記のように、タイトルが長い紅葉狩りに北関東に行ってきました。 今回はキャンピングカーではありません。

 第一日目 (10月11日)

              

 名古屋をたつ時には晴れていましたが、西の東京はまだ雨が残っていました。 
 皇居前を行く、2階建ての天井がないバスには雨合羽姿の観光客が乗っていました。

 関越自動車道路に出てから所沢から川越の間の事故で約予定時間をオーバーすること2時間です。 これだから連休の込み合う旅はダメだと改めて思いました。

    
                   
                       「吹割の滝」↑
 東洋のナイヤガラと呼ばれるそうですが、いささか、いやかなりオーバーな名付けです

 それでも本日の見学コースは吹割の滝↑、のみでしたので見学時間を縮めて、予定時間から遅れること1時間でホテルの到着。

 急ぎ、一風呂浴びて夕食です。 宿泊は猿ケ京ホテル(ここの朝御飯はメタボが気になる方には打ってつけ、カロリー計算がされている。 そういえば、夕食は豆腐三昧の料理でした。 日本のほか海外もツアーコンダクトされている添乗員さんが、年間150日行く旅の中でも10指に入るホテルと言っておられました)
   
      豆腐懐石の「猿ケ原ホテル」 源泉かけ流しの温泉でした。
        本日のバス走行距離は235Kmと記録してあります。


  第2日目 (10月12日)

 
奥只見ダムを建設した時の工事用トンネルを、その後、観光地にしようとトンネルを整備して観光バスが通過できるようになりました。といっても、大型観光バスがすれ違う時、運転手さんはほとんどスピードをゼロに落として慎重です。(福島県の地元の運転手さんです)

         

 奥只見湖の銀山平(昔、銀の産出でにぎわったところ)から遊覧船に乗って奥只見ダムまで下ります。

    

      両岸の紅葉はまだ早く、ところどころの紅葉をアップで撮影しました。

         

 360度ブナの森の奥只見は確かに日常では味わうことのない自然を感じさせてくれる別世界が展開されます。 新緑、紅葉、そして雪渓と四季折々の姿を想像できます。

             

   銀山平から40分で奥只見ダムの到着します。 ↑ダム堤防からの眺めです。

         

            振り返って、逆光の奥只見ダム湖を写しました。

 今回のバスツアーのコースは阪急交通社としても第1本目(初回)のツアーということで、スケジュールにゆとりがありません。時間の読みが十分でなかったと思います。
 
 復路も同じコースを引き返すのですが、それほどは大型バス同士のすれ違いはなかったと思うのですが、次の会津若松(福島)に到着し「鶴ヶ城」の見学となっていましたが、既に閉門していました。(当日は連休で、PM6時から、再度開門でしたが宿までにはまだまだ時間がかかりますので、出発です)

 案内状には公園内をタップリと散策と書かれていましたが、早々とバスに戻りました。

          

 表磐梯山に夕日が映えていました。 この山の中腹の岳温泉に到着したのはPM7時を過ぎており、温泉にも入らず夕食となりました。
 本日のバスの走行距離は約354Kmと案内されていましたが、時間的には500Kmを超えている感じでした。

 救われたのは本日もホテルの設備、サービスが行き届いています。 ワンランク上のツアーだとは聞いていましたが、そのとおりです。
     「陽日の郷 あづま館」 源泉かけ流し温泉はやはり気持ちいい


  第3日目 (10月13日)

 
当初の計画では朝の出発は8時30分でしたが、10分早くに修正されました。
 といいますのも、11日にテレビ中継がなされて連休の中日の昨日は大変なお客さんであり、大混雑ということの情報が入っていたからです。

   

 ↑安達太良山のゴンドラ山麓駅から         ↑長い列ができました

 10分の差は大きかったです。 観光バスの駐車場は何とかなりましたが、一般の乗用車は大変です。 遠くに止めてここまで歩いてこなければなりません。

 本日の入場登山客を列に並びながら計算してみました。
  6人乗りのゴンドラが約40個、片道10分かかると言っておりましたので、6(人)×40(個)×6(1時間に6回)×8時間=11520人で正しいでしょうか?

        頂上駅から10分上ったところが360度の展望台です。

         

              写真の出来映えが悪いのです。
 写真に気を取られていると、素晴らしい景色を心身で受け止めることができない言う。
      今も脳裏に残っている映像はこんなものではありません。

     その後に、川床が美しいといわれている中津川渓谷に参りました。

                   

                ↑中津川渓谷の駐車場の紅葉
   

    東北一とも日本一との言われるほど美しいという渓谷に下りてみました。 
 厳しい段差のある坂道と階段、高低差70〜80メートルを下ります。 汗をかき、翌日は足の筋肉に異常を感じた方が多かったのではないでしょうか。
 苦労が報われるという感動の景色とは言えませんでした。

         

             ↑昼食のホテルから裏磐梯を眺めました

  
   

    ↑  裏磐梯五色沼              ↑五色沼から裏磐梯を望む

 このように旅をまとめてしまいますと、簡単ですが本日もこの後、JR東北・新白河駅までのバスは走行距離150Kmです。

         

 新白川駅近くの田圃は今を盛りの稲刈りの時期でした。 バス運転手さんの家でも米作りをしているとのことですが、1俵(60Kg)で受け渡し価額12000円ではどうにもならないとのことです。

     農協に依頼すると、賃貸料はほとんどゼロとのことでした。
 それでも高速道路の両脇に続く黄金の田圃を眺めながら、2ヶ月前のトルコの100Kmも続く麦畑と比較してみました。 麦畑といってもそれ以外は砂漠といっても良い状況でした。

 同じような黄色の眺めですが、実り多き我が日本の豊かな自然に感謝しなければと感じた旅でした。
 
 


                              平成20年8月18日 記

 不思議の国 トルコ周遊 ハイライト9日間
  
       中部国際空港からドバイへ  
                    〜1日目〜                         8月16日のこと


 今、入力している時間はイスタンブールの現地時間8月18日午前6時です。 (日本時間では18日昼の正午です)。
 
 名古屋・セントレアを8月16日、午後10時45分定刻どおり飛び立ってから32~3時間後です。
 よって、8月16日のことは満席のエミレーツ航空315便の中ということになります。

 トルコミニデータ

 正式名称は トルコ共和国
 緯度 イスタンブールは北緯41度で、青森県とほぼ同じ

 面積は77.9万キロ平方メーター  、人口は7320万人 、言語はトルコ語
 宗教はイスラム教のスンニ派が99%、その他キリスト教とユダヤ教
 日本との貿易は輸出が革製衣料、敷物類、鉄・非合金関連製品
           輸入は乗用車、テレビ部品、ミシン、建設機械

  トルコ共和国(トルコきょうわこく)、通称トルコ(土耳古)は西アジアアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアヨーロッパ2つのにまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ

北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリアギリシアと、東でグルジアアルメニアイランイラクシリアと接する。

国土の大半の部分はアナトリア半島にあたり、国民99%スンナ派イスラム教信仰するため、日本の地域区分では地理的な位置と、欧州即ちキリスト教というステレオタイプから中東、西アジアに含めることがほとんどであるが、サッカー協会やオリンピック委員会などではヨーロッパの統一団体に属す。経済的、政治的にもヨーロッパの一員として扱われることがあり、現在欧州連合(EU)へ加盟申請中である。現在欧州でイスラム教徒が人口の過半数を占めている国家はトルコとアルバニアのみである。





 
                              平成20年8月18日 記

 不思議の国 トルコ周遊 ハイライト9日間
  
       中部国際空港からドバイへ  
                    〜1日目〜                         8月16日のこと


 今、入力している時間はイスタンブールの現地時間8月18日午前6時です。 (日本時間では18日昼の正午です)。
 
 名古屋・セントレアを8月16日、午後10時45分定刻どおり飛び立ってから32~3時間後です。
 よって、8月16日のことは満席のエミレーツ航空315便の中ということになります。

 トルコミニデータ

 正式名称は トルコ共和国
 緯度 イスタンブールは北緯41度で、青森県とほぼ同じ

 面積は77.9万キロ平方メーター  、人口は7320万人 、言語はトルコ語
 宗教はイスラム教のスンニ派が99%、その他キリスト教とユダヤ教
 日本との貿易は輸出が革製衣料、敷物類、鉄・非合金関連製品
           輸入は乗用車、テレビ部品、ミシン、建設機械

  トルコ共和国(トルコきょうわこく)、通称トルコ(土耳古)は西アジアアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアヨーロッパ2つのにまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ

北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリアギリシアと、東でグルジアアルメニアイランイラクシリアと接する。

国土の大半の部分はアナトリア半島にあたり、国民99%スンナ派イスラム教信仰するため、日本の地域区分では地理的な位置と、欧州即ちキリスト教というステレオタイプから中東、西アジアに含めることがほとんどであるが、サッカー協会やオリンピック委員会などではヨーロッパの統一団体に属す。経済的、政治的にもヨーロッパの一員として扱われることがあり、現在欧州連合(EU)へ加盟申請中である。現在欧州でイスラム教徒が人口の過半数を占めている国家はトルコとアルバニアのみである。




 
                              平成20年8月18日 記

 不思議の国 トルコ周遊 ハイライト9日間
  
 ドバイから   イスタンブールへ 
    (アラビアンリゾート・ドバイ)  
                   〜2日目〜
                   8月17日のこと      


 ドバイの現地時間8月17日、午前4時45分の定刻より少し早く到着しました。
 
 到着後は朝食の為にホテルに向かいました。 午前6時、朝食の用意ができました。
 バイキングは日本食とタイ、そして中華です。 
 当分食べれなくなるだろうと日本食にしました。 御飯に味噌汁、キムチ(韓国料理か)、梅干、沢庵でお代わりまでしました。

   

     ドバイの4星ホテル、ミラマです           ホテルの前の風景です

 ドバイの印象を単語で綴るとなんとなるかなバスの中で考えました。
   ”石油が作った高層ビルと建設ラッシュ・埃の街” では、その一部を

   

 バスの中からですので鮮明ではありませんが、雰囲気としてはこのように砂埃の街と言う感じです。
 人口は170万人との事でインド人が多いそうですが、外国人が82%とのことです。
 2年前もこのドバイでトランジットの時、エジプトから働きに来た方とお会いしましたが、建設ラッシュの街に出稼ぎなのでしょう。 

             

         フロート(海に浮んだ)ブリッジを渡り対岸にきました。

              
           

 1リットルの石油が日本円で30円の国ですが泣き所はあります。 飲み水は海水を真水にしています。 汚水は浄化して上の写真のように公園に配水管を敷設して水遣りをしています。

   

 所得税はなし病院も無料です。 病院が集約された地区を通りましたが、外気温(今の時期、最低30度、昼間40度、最高気温47度)に熱せられたようなコンクリートに安らぎは感じませんでした。
 
 何処かの国のように、国民保険は大赤字、社会保険制度の行く末が不安、不信、先が見えないとは異なるのでしょうが、住んでみたい国とは思えません。

 なお、外国人は所得税は聞き漏らしましたが、病院代は有料との事です。

 石油成金の国のイメージで紹介しましたがスエズ運河もなく、喜望峰航路が無い時代から、アラビアの国としてインド洋航路の重要な港街であった事でしょう。
 
 ドバイの博物館に行きましたが、館内写真撮影は禁止されており外観は以下↓。

   

 館内の撮影禁止の意味が良くわかりませんでした。 それほどの展示がなされているとは感じなかったからです。 蝋人形等で表現された昔(と言っても石油が発見される<1950年代>の頃まで続いていた生活と思いましたが)のドバイでした。

   

         ↑アゴラ船(水上タクシー)で対岸に渡りました。

   

  庶民の市場のです。店頭の香辛料(スパイススーク)はそれほどの品数とは思えません。 生ものは別のところで販売しているようです。

               

  ゴールドスーク(市場)では今回の旅のお客様はほとんど反応を示しません。

            

    ドバイには657のモスクがあります。 その一つジュメイラモスクです。
 兎に角、コンクリート道路が熱せられており、バスに直ぐかけもどります。

  

 ドバイ最後の紹介は左のビルが5坪星のホテル、右が7坪星のホテルです。
 7つ星のホテルは全てスイートとのこと、一番安価な部屋で一日25万円、最高は200万円とのことでした。

 勿論、専用のビーチもあり、船着場からショッピングモールへも出かけられるます。
 どのような物が陳列されているのでしょうか。
 屋上にはヘリコプター専用の駐機場も設置されているますが、熱せられた砂浜には人影はまばらでした。 

 以上、アラビアン・レイゾートとして有名な市内観光でしたが、常に湿度の高い熱風に押さえ込まれそうで、私には到底耐えられるリゾート地であるとは思えませんでした。


 

 COLUMN 1−D 844より
                                   平成20年9月5日 記

 トルコ旅行の時立ち寄った「ドバイ」について

 
 エッセイ旅日記のコーナーに8月16日から24日のトルコ旅行の初日と最終日にドバイのことに少し触れました。

 ”石油が作った高層ビルと建設ラッシュ・埃の街”と表現しました。

 本日朝、NHKの「朝一番ビジネス展望」で財団法人・日本総合研究所の所長・寺島実郎さんが出演しており「ドバイについて」語られていた。

 私の見当違いの見方もあったので記憶に残っている部分を掲載します。
 詳しくは来週の月曜日になると寺島さんの話はじかに聞けます。
     http://www.nhk.or.jp/radiodir/asa/business.html

 @ドバイはUAE連邦8カ国の一つであるが、ドバイには石油は算出しない。
  産油国でないから生き残りに様々な知恵を働かせている。

 A運輸・港湾への投資がなされ、現在世界第7位と言う(東京は第23位)
 Bドバイはロンドン〜ドバイ〜インド〜シンガポール〜オーストラリアと続く、英国連邦の一国であり、現在はシンガポールを目指すべき目標にしている。

 C7星のホテル、フリータックスの隣接する巨大なショッピング・モールには日本からも買いものに出かけている。

 D危ないところは中近東の地であるということだ。 地政学的に見ていつ何時何事が起こるかもしれない国である。 
 それは余りにも豊かさを追求すると、イスラム教の思想・行為(富者に貧者に対する貢献)で抵抗感が芽生える。

 これは寺島さんの話でありませんが、ドバイが世界のコンベンション・シティーを目指して空港(兎に角,大きい)、会議室やホテルの充実に投資していることはを聞いたことがあります。
 
 以上、私の現地で感じ、見たことに付け加えさせてもらいます。



 ドバイを14時30分に飛び立ったEK121便は4時間50分後にはイスタンブール到着。
 気温、風が変わりました。

   

 車窓から映しました。 当日は日曜日、数キロ続く海岸線にってバーベキューをしています。 人口1200万人の庶民がドッと繰り出したような光景です。

              

        夕食会場の近くの通り道です。 ドバイとは大違いです。

            

              ライトアップされたモスクでお休みなさい。



 
                              平成20年8月19日 記

 不思議の国 トルコ周遊 ハイライト9日間
 
 イスタンブール歴史地区、ボスボラ海峡クルーズ
 
        アンカラへ       〜3日目〜
                   8月18日のこと


 この記録は現地時間8月19日午後10時に入力しています。
 この時点で8月18日の記録は入力していません。

 出発前にトルコ・ツアーはバスに乗ってばかりとは聞いてはいましたが、今回のツアーもその通りです。 

 一昨日も本日も午前4時前後には起床しているのですが、前日の写真の選択をすることで時間イッパイです。

 そこで、忘れない内にと思い入力するのは、「ヘンザンナッツ」のことです。
 このナッツはチョコレートの凝固剤とでも言うのでしょうか、チョコレートを固める為の材料です。 チョコレートの中にナッツとしても包まれているそうです。

 取上げました理由は黒海に面したこのトルコ地方が世界生産の80%を占めると教えられたからです。 チョコレート好きな方はご存知であったかもしれませんが、私には初耳でここに記録することにしました。

 ところで、今=8月19日・午後の10時です(現地時間)。
 8月18日の記録も整理されていません。 勿論、8月19日のカッパドキアを中心とする記録も整理されていません。

 写真は溜まるばかりですし、記憶は薄れて行くばかりです。
 8月20日の出発が朝7時です。(モーニングコール5時半) もう睡眠時間です。 

 パソコンを持参したのは正解です(帰ってからでは記憶は半減以下です)
 ところが、現地でも整理できない状況が続いています。

 では、お休みなさい。

 
現地時間8月20日午前4時です。 兎に角、8月18日の整理した写真のみでも掲載することにします。

              

                     宿泊ホテルの朝

             

 1616年トルコが最大の勢力を誇っていた頃に建設されました。
 通称ブルーモスクと言われるのは、モスク内の地上10メートルのところにブルーのタイルが施されているところからきたと言います。

 ブルーモスクに横に旧の競馬場があります。 映画「ベンハー」のように車に乗っても競技がなされていたところです。

             

     左の塔は何処かで見かけたことがあるとの記憶がありました。 
 そのはずです、2年前に訪問したエジプトはルクソールから運んできた物です。
 
 この塔は約3500年前エジプトのラムセス王が作った物です。 
 エジプト征服のモニュメントとして切り倒して運んできた物です。 台座はトルコで制作しましたが、塔自身は船の大きさに合わせて短くなっています。

 右側はギリシャのアポロンから塔です。 2500年前に製作された物で、勝利の神・ヘビが絡みった青銅で出来ていましたが、頭部はありません。

 右の写真の奥まったところにあるのは10世紀に十字軍がやってきた頃の柱です。
 コンスタンテイン皇帝の時代と言うことになります。

 
 ボスボラス海峡のクルーズ

              

         

                    ガラタ橋(跳ね橋)

   

 地中海クルーズの豪華客船が停泊しています。 地元のガイドさんもこれほどの大きさの客船が入港することは珍しいと見えて、盛んに「ホテル級」と表現していました。

              

 地中海と黒海を結ぶ海峡は地震によって陥没して出来ました。 その海峡には様々な建物を見ることが出来ます。
 
 これもその一つで、ドーワシ(?)宮殿です。 本日の最後に紹介します宮殿が他のヨーロッパの王の宮殿と比較してみすぼらしく見えたところから、ここに14年の歳月と多額の費用が注ぎ込まれました。
 返済には20年の月日を要したと言いますから、見栄を張ることは大変です。

              

         チュラン宮殿。今は改装してホテルとして使用しています。

         

 海峡を結ぶ橋は二つあります。これは1973年に出来上がったアラルコ第一大橋です。
               
 
                橋の下にあるアルコラモスク

         

 第二のつり橋です。 左手に見える要塞は1342年、十字軍やってくるというので急遽海峡の一番狭いところにルメモの要塞として作り上げた物です。

 ヨーロッパ側とアジア側を結ぶ二本の橋では到底足りず、朝晩のラッシュ時間には1時間以上もかかってしまうと言っていました。

 では、ドウワシ(?)宮殿が出来る前の「トプカプ宮殿」を紹介しましょう。

            アヤソフィア

15世紀から19世紀までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。旧ビュザンティオン市のアクロポリスがあった旧市街の半島の先端の丘に位置する。かつては宮殿を取り囲む城壁の傍らにアヤソフィア・モスクがあり、この地区で帝国の政治と公的行事が執り行われていた。数百年にわたって増築を繰り返された宮殿建築が残る。


             

 約2万坪の敷地の中に宮殿はあります。 豪華(と言うよりは超大型?)客船の客3500人や日本のミキプルーンと言う会社の女性の団体180人等でごった返していました。
             

           宮殿見学よりも眠気の方が勝っているようです

           

 イスタンブールの市街地はご覧のように道幅が狭く、しかもウネウネと曲がっています。 所によっては電車も走っていますから更に混雑します。

        

 
 イスタンブルーからアンカラへ

 二度のトイレ休憩を挟んで7時間かかりました。(アンカラに入ると夕方のラッシュ)

   

       第一休憩所                    第二休憩所

   

 黒海に添って東に進んでいる間は緑はイッパイでしたが、第二休憩所を過ぎて南下を始めると景色が一変しました。

             

 8月20日午前5時半です。今、モーニングコールが鳴りました。
 今回の旅はどうもユトリが全くないようです。 本日(8月20日)も今回の旅で最大となる9時間を越えるバスの旅となります。

 兎に角、写真を整理するだけで時間が足りません。 8月19日も整理されていません。 こんなことばかりを入力する旅日記になりそうです。

 トルコの旅(史跡めぐり)に参加するならば「首枕」は必需品です。 「腰あて」もあったほうがベターです。 地中海、エーゲ海でリゾートならば必要ないのでしょうが・・・。




 
                              平成20年8月21日 記

 不思議の国 トルコ周遊 ハイライト9日間

 アンカラから塩湖(トゥス湖)〜カッパドキアへ
                      〜4日目〜
                    8月19日のこと


 入力している時間は8月21日午後9時です。 今回の旅で初めてホテルへの到着時間が午後のの6時でした。
 
 トルコ第3の都市イズミール(人口350万人)、本物温泉のリゾートタイプのホテルですのでプールで一泳ぎと海水パンツに着替えたまでは良かったのですが、試に部屋のシャワーをひねってみますと温水が出ません。

 結局、何度電話しても「蕎麦屋の配達」です。 何とかなったものの時間はなくなり、そのまま食事となりました。

 そして、今の時間にパソコンに向かっているという状況です。 愚痴を入力していても前には進みませんので、既に記憶が薄れ始めている8月19日のことを記録することにします。

              

            ↑ トルコ近代化の父のアタテュルク廟

 朝の4時半に起きていなければ撮影できない映像です。(ホテルの部屋からです)
 トルコの首都・アンカラは小さな地方都市でした。

 明日訪問しますコンヤには11世紀にセジューク朝は成立しました。
 
 その後、諸公国アミールの時代を経てセルジューク朝に属していたオスマン・トルコ族のオスマン1世が1299年に小アジア西部に建国したイスラム国家がセルージューク朝です。

 1453年にコンスタンチンノーブルをイスタンブールと改名して遷都。 16世紀にスレイマン1世の頃3大陸(アジア、アフリカ、バルカン半島)にまたがる大帝国を形成しましたのはオスマントルコ。

 そのオスマントルコ帝国も除々に衰退し、第1次世界大戦の結果、領土を大幅に削られれ、更にギリシャが小アジアへの侵入が始まった。

 トルコ国民党のマケル・オアシャは国民軍を指揮してギrシャと戦い破った。
 彼は国内の民主化を求める声を受けてスルタン制を廃止して、オスマントルコ時代は終わる。
 
 1923年、トルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル・パシャによって首都となったアンカラ。 政教分離、近代ヨーロッパ法の採用など近代化を進め、中心を担う都市として飛躍的な発展を遂げました。

 当時は50万都市を目指しドイツから都市計画家を呼び寄せました。 各国に大使館の建設を呼びかけましたが、「どうせ、直ぐにイスタンブールの移転するだろう」と大使館の建設はなかなか進まなかったと言います。

 今ではトルコの第2の都市として人口が500万人となり、更に発展しています。

 ところで、第1次世界大戦に敗北したトルコは、セーヴェル条約によって滅亡の危機にさらされました。
 そんなトルコを奇跡的に救った英雄がムスタファ・ケマル・パシャが眠る廟、「トルコの父」と言う意味の”アタテュルク廟が朝日照らされている一瞬です。

 現政権(イスラム原理主義)は親欧米はであったムスタファに批判的といわれていますが庶民には人気があります。

 トルコは冷戦の時代にアメリカの政策として左右の思想の両者とも守ると約束したところから原理主義が力を得てきました。
 
 トルコは第1次世界大戦で゙敗北、故に第2次世界大戦は中立を保ちました。朝鮮戦争に参加してNATOに加入しましたが、今もEUへの加盟問題は進展していません。
 朝鮮戦争への参加はNATOへの参加が目的でした。

 ところが、トルコ人へのアンケートをすると「一番悪い国=危ない国」との問に、米国と答える方が70%だそうです。

  EUとトルコ

外交面では欧州連合(EU)への加盟を長年の目標としてきた。2002に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。2004には一連の改革が一応の評価を受け、条件付ではあるものの欧州委員会によって200510月からのEUへの加盟交渉の開始が勧告された。しかし、その後のEU加盟交渉はさまざまな要因から停滞している。



   アンカラからカッパドキアへ

          


   アンカラから東へ100Km,ご覧のように延々と続くなだらかな丘陵地の左右は麦畑です。 今年は水不足で成長が悪く、収獲量も少なかったといいます。
 ほとんど真っ直ぐに続いく道路が禿げ坊主の山にぶつかり右折しますとトゥス湖。

 塩の湖(トゥス湖)

 
  

           

 湖と言っても、この時期ほとんど水がありませんでした。 雨の時期になっても水位は1メートル足らずとの事でした。

 トルコの結婚事情

 女性は16〜17歳が結婚適齢期、男性は18~19歳で1年間の徴兵制があるために
早くて20~21歳。 都市部はそれよりも遅くなっています。

 男性の母親が嫁さんを見定めます。トルコ風呂での観察は鋭いとの事です。
 男性の父親から、花嫁の父親に申し込まれます。

 女性が断りたい時には、男性の家に呼ばれた時に家族にお茶を出します。
 その時、断わりたいならば塩入の紅茶を出します。

 トルコも離婚が増加しています。 恋愛結婚が増えたからと言っていました。 

 今回の旅のメインの一つカッパドキア=美しい馬の街観光
    
  カイマルク地下都市

 
1964年に発見されました地下8階の巨大な地下都市。
 イスラム教徒の迫害から逃れる為にキリスト教徒が住んだ地下都市です。

 中にはキッチン、居間、教会、学校、ワイン製造などがあり通路で結ばれています。
 狭く、天井も低いので何度か頭をぶっつけ、天然草の帽子の天辺が少し傷つきました。
 約1万5000人が地上と同じような生活ができると推定されています。
 炊事の煙は如何するのかと訊ねると、「夜間は炊事をしなかった」との答えでした。

               

 
 なんでしょうか? 穴の向こう側がブドウを踏み潰すところ、穴からブドウの液が流れ落ちてきます。 それを受ける甕の役割をしています。

 これにヒントを得たのでしょうか、昼食のレストランは地下レストランでした。
 日差しの強いカッパドキアでは素晴らしいアイデイァです。

   

           

     
なを、この村にはギリシャ正教の廃墟の後があります。↓

         

 
第1次世界大戦後、ギリシャ正教の教徒達はギリシャへ、ギリシャに住でいたイスラム教徒達はトルコに交換で移住させられました。

 トルコからギリシャに渡ったギリシャ正教徒達は十分な土地が与えられずに、その後アメリカ、オーストラリアへと移住しました。 トルコの国籍のままの人たちも多いとのこと。
 

 
カッパドキア
 

 カッパドキアラテン語: Cappadocia)とはトルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。

 古代の地理においてCappadocia (「美しい馬の地」を意味するペルシア語:Katpatukに由来、トルコ語:Kapadokyaギリシア語:Καππαδοκ?α)は、小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指した。ヘロドトスの時代には、「カッパドキア人」がタウルス山脈から「ユークシン(Euxine、すなわち黒海)」までのすべての地域を支配した。この意味でのカッパドキアは、南ではタウルス山脈と、東ではユーフラテス川と、北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していた。だが、その境界を正確に定義することは不可能である。その国の多少とも詳細な記録を記したただ一人の古代の著述家ストラボンは、その大きさを非常に誇張したが、現在は長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられている。


 アナトリア高原の中心にあるギョレメ地方、かってはこの地にあった王国の名にちなんでカッパドキアと呼ばれています。
 エンジェス山の火山活動で堆積した溶岩や火山灰が寝食されて出来た奇岩群。

           

                  カッパドキアの遠景↑

   

           ラクダ岩                  キノコ岩
 
           

                  手前は本物のラクダです
    
 ギョレメ谷

 4世紀頃からキリスト教徒が住みはじめ、岩の中に数多くの洞窟教会を造って、信仰を守リ続けた。
 現在はそれらが野外博物館として公開されています。

 妖精の煙突"と呼ばれる岩の形成物の間に位置するギョレメ は、トルコの歴史地区カッパドキアの町である。それはアナトリア中央の ネヴシェヒル県 (Nev?ehir)にある。ギョレメ国立公園(トルコ語でGoreme Milli Parklar)は、1985ユネスコ世界遺産リストに加えられた。

この地域への初期の移住は キリスト教が伝播した頃の古代ローマ後期にさかのぼる。史跡の中にはギョレメのオルタハネ、ドゥムス・カディル、ユフス・コックとベジルハネの教会、岩から彫られた家々と縦抗がある。



    


   

         

 ギョレメの洞窟の今

 昔からここに住んでいた人たちは現在巨大な奇岩に洞窟を掘り、そこで快適に暮らしている。あるいは「洞窟ペンション」と変身している。

 ところで、私の印象はテレビやグラビアでこの地の光景を何度も目にしていた為でしょうか、それとも私の感動する心に陰りが出てきたのでしょうか。
 
 感動と言うか、驚きと言うか、何か心揺さぶられることが薄かった、低かったのです。
 NHKテレビの「世界遺産シリーズ」が上手に撮影され、紹介されているからなのでしょうか。




 
                              平成20年8月21日 記

 不思議の国 トルコ周遊 ハイライト9日間

     カッパドキアからコンヤ〜パムッカレへ
                     〜5日目〜
                  8月20日のこと


 各国の旅事情〜トルコから見ていて (現地ガイドさんの説明)

 ロシアとトルコの仲は悪い。 ドイツとトルコの仲もダメ。 三者三様にかって帝国=大国であり、互いに覇権を競い合っていたことによるのだろう。(これは加藤の意見)

 イタリア人は集合の時間を午前7時と言っても、何も言わないが集まってくるには1時間から1時間半遅くなる。

 アメリカ人の朝の出発は午前9時以降である。

 トルコには年間2300万人の外国からの観光客があり、その数は世界・第8位である。 その額はトルコのGNPの5%と言うことでです。先進国は2〜3%くらいと記憶する。

 2300万人と言ってもほとんどが地中海沿岸のリゾート地での滞在型であり、日本人のように「神風旅行」(ガイドさんは口にしなかったが)は他にないという。

 と言う事を書いた背景は、8月20日はカッパドキアから900Kmのバス移動をしました。
 東京から広島の距離。名古屋から熊本の南に相当するのでしょう。

                

 ホテル「NEVSEHIR」の朝。 空調の利きが弱く首周りに少し汗をかいていましたが、
 午前6時、ホテルの前の外気温は25度前後だったでしょう、湿度も低く気持よかった。

 トルコジュウタン工房に行く

 トルコといえば「トルコ絨毯」、モンゴルとの共通点は砂漠の民であったことから、ジュウタンは羊の毛から紡がれて世界に誇る輸出品。 その工房を訪ねました。

             

 羊毛を紡ぐと言いましたが絹の製品が最高だそうでして、繭から紡ぐところを見学できました。 
 小学生の1〜2年頃までは北設楽郡の豊根村の近くの農家でも写真よりも小さな釜で繭を煮立てて紡いでいたことを思い出し、懐かしかった。

        

 小柄な18歳の乙女が細い指でジュウタンを織っていました。 彼女達にとってはその出来栄えの評価がその後の人生に大きな影響を受けますので真剣そのものでした。

 その後の影響と言うのは結婚相手であり、大会で優秀な成績を受けると村での評価はたちまちに拡がり「ダメな娘だ」、「素晴らしい織リ手だ」となるからです。

 その後、次々に50枚ほどの製品の説明を受け、商品の見分け方のポイントを学びました。 羊毛は比較的太番手の糸ですので、お値段の方も安いのですが、絹となり、しかも細番手(1本の糸を縦横に400回織って1平方センチメートルの作品は商品とは言わず{作品」、もう芸術品です。

 フワフワしたものはお値段もお安い、ビッチリと織り込んだものが上級品です。
 4年がかりで出来上がったという敷物はそれは絶品でした。

 絹で細番手の糸の作品は表面と裏、左右から眺めると色変わりがします。

 日本の画家平山画伯も訪れているとの事でした。
 私も「馬」の壁掛けにのみに目が留まりました。縦30センチメートル、横40センチメートルで140万円との事でした。 写真だけでも撮ってくれば良かったと後で気づきました。

 これらの商品、作品のお値段はどれ程の時間を要したかをメインとして、織りの技術、出来栄えで決まります。 この地方(パッカドキア)の織リ手の月収を5万円、その他の費用を2割としますと6万円。 3ヶ月かかったと言うと3×6万円=18万円となります。

 実際はそんなに簡単ではないでしょうが、要した時間と言う計算方式が目安になるとの事。これが名古屋で展示販売される時は名古屋の平均月収が20万円とすると、2割り増しの24万に×3ヶ月で=72万円の価額表示がされているとの事です。

               

           

            紡ぎ織るのは女性達、販売は男達ばかり

 話しが変わりますが、ジュウタン工房だけでなく、農家においても大体が女性が働き者で、男達は年間で数ヶ月の農作業のほかは喫茶店に集まってミーテイング(おしゃべり)かマージャンをしているばかり。 そういえば点在する集落、村の道路沿いに男達の姿ばかりが目に付きました。

 それなのに、田舎のトルコ(農業の従事者)においても、平均寿命が男の方が低いのが理解できないとガイドのガンさんの言葉です。
 男女とも日本と比較すると10歳ほど低いとの事です。

 カッパドキアからコンヤへ

 
トルコ人は元々モンゴルを拠点としていたが、9世紀後半に中央アジアに移動、やがてイスラム教に改宗しました。 その中のセルジューク族は11世紀にセルジューク朝を開き、バクダットに入城して、マホメットの後継者カリフからスルタン(世俗専制君主)の称号を受けて、イスラム世界の実質的な支配者となった。

 その後、小アジアにも進出してビサンチン帝国と対峙し、200年間にわたる十字軍との戦いを繰広げた。

 セルジューク・トルコの首都が置かれたのはコンヤで、ここには東方から学者や芸術家が呼び集められ、イスラム文化の中心地として栄えた。

 今でもこの地にはその時代の神学校や遺跡を見ることが出来る。
、メブラーナ博物館は始祖メブラーナの霊廟があったところで、宗教活動の停止後博物館となっている。博物館内にはメブラーナをはじめ聖者たちの棺が置かれている。

 彼らはそこで神秘的な宗教とはいえない哲学的で、東洋の仏教ににも通じる瞑想などを取り入れ、グルグル旋回しながら踊ることによって神と一体になれるという教えを持ち、一風変わった修行をしていた。金銭的には実に禁欲的な生活をしていました。

 1925年にアタテュクルによる改革で活動は停止された、が施舞は残り、毎年コンヤ市内で12月に開催される。

 イスラム教とは異なる哲学的な生活をし、今も庶民の人気をはくしている。
 当日も多くの人々は訪れていた、イスラム原理主義者の姿もあれば、イスラム教には関心の少ない人々も訪れていました。

       

         ↑ メブラーナ博物館。館内は撮影禁止となっている。

 コンヤといえば中国の西安から続くシルクロードの西の端の都であった。


 突然ですがトルコ人気質の一つ

 ガイドのガンさん「トルコ人気質」を訊ねたが答えはなかった。 
 ただし、色々の話が続く中、これもトルコ人気質を思われる話しが登場しました。

 人口90万強のコンヤ市内の外れを通過していた時のことです、緑色のタイル(?)、ガラス(?)で覆われた30数階ビルを指差しながら、「このビルはまだ空き家です。 ホテルにするか、事務所にするか只今思案中」と言うのです。

 ここからトルコ人は”考えてから行動をするよりも、行動してから考える気質”。
 この気質からでしょうか、世界のお金持ちトップ500人の内、トルコ人が8人はいっている。
 
 倒産することも多いが、大きく稼ぐ人もいる。 トルコは格差社会で平均値で語ることは意味を持たないと言う話に通じました。


 トルコでの900Kmの距離は風景も農産物も大きく変化します。

 カッパドキアの郊外からは昨日と同じように刈り取られた麦畑が延々と続きます。
 カッパドキアから西に約500Kmのアキエシェは緑の地に変わりました。

   

 アメリカン・チェリーは世界一の生産量でヨーロッパに輸出されています。
 周りには2000メートル級の山々に囲まれており、周りには湖もあります。
 冬になると雪が降り寒いので、リンゴ、アンズ、チェリーが収獲でき、更に西に進むとイチジクの栽培も盛んです。

 約2時間走ってトイレ休憩となります。 休憩所にはほとんどは軽食レストラン、カフェー、と小さなショップが経営されています。 ガソリンスタンドが併設されているところもあります。
 
      バスが到着しますと無料サービスの洗車があります。↓
    ガイドさんと運転手さんにはお茶かジュースの提供があります。

         

 このことも付け加えておかねばなりません。 トイレは有料です。 日本円で50円です。 小銭がなくとも平気です、お釣りをくれます。

       

 3番目の休憩所・ディナールの手前で道路輸送の国で列車に初めて出会いました。
 客車ではありません、道路に敷き詰める小石のようでした。

 朝7時に出発し、ジュウタン工房とコンヤの博物館の見学の3時間を除き、ほとんどバスでの移動日でした。
 夕刻午後8時前に夕日が沈むパムッカレに到着しました。

          

             

          明日の訪問地、石灰棚に夕日が映えて居ました。
        



 
                              平成20年8月22日 記

 不思議の国 トルコ周遊 ハイライト9日間

 パムッカレ〜エーゲ海地方の遺跡群・エフェソス
     イズミールへ
                〜6日目〜 
               8月21日のこと


 今、8月22日、午前6時半です。 今朝4時に起床し8月19日の記録を整理しました。
 やっと、宿題がギリギリ間に合い始めたと言うところです。 (昨夜<8月21日>初めて午後の6時にホテル到着)も2時間パソコンの前でした)

 記録している時間が後先になっていますので、読んでいただいている方には少しばかり混乱するかもしれません。 記録している時間は間違いありません。

 そんな思いをしてまで書かねば良いとは思うのですが、一度やると決めると途中で棒を折る事は自分に負けたような気がして止められないのです。

 初めからパソコンなど持参しなければ良いのです。 2年前エジプト旅行の時、帰ってから数百枚いや千枚以上の写真を選択するのに大変な苦労をしてから、重い思いをしながら、そして毎日の時間的制約を感じながらも今回も続けています。

 が、事前に資料を整える・読む、現地ではガイドさんの話しを聞く、記録する。
 そして、可能な限りその日の内に写真を整理し、活字を入力しますとその国の事が少しづつですが記憶に残ってくると言う効果があります。
 
 本日はパムッカレを紹介から始まります。

 8月21日の朝

      

     ホテルノマーク          夾竹桃         ザクロ
   
 この地方はザクロの産地でもありました。 日本のザクロより甘いとのことで、ジャムにも加工されています。 
 
 最初にザクロを栽培された方は「お金にもならのに」と笑われたそうですが、その後ザクロの果汁にはエストロゲン含まれており、美容と健康に良いと評判となり、その方は大儲け、その後この地方での農家も栽培をはじめられた。
 日本でも2000年頃に一時ブームなったそうですが、私は知りませんでした。

              

               ホテルの玄関先、朝の水遣りです。 
  
  パムカッレのこと

 パムッカレとはトルコ語で「錦の城」と言う意味です。 有名な石灰棚の温泉が広がる景観は不思議な趣があり、魅力的でもあります。

 見所は温泉ばかりでなく、ベルガモ王国やローマ時代の遺跡も多くあります。
 石灰棚を望む岡の上に、ベルガモ王国やローマ時代の遺跡があります。 
 ヒエラポリスとはベルガモン王国がこの街を征服したときに名づけたものです。


 が、地震国家トルコの例に漏れず、地震で都市国家は崩壊しました。
 紀元前3世紀の建設され、紀元後仁地震で崩壊した。 ローマ時代の1〜5世紀のものが発掘された。

 温泉地であると言うことから、治療の為に訪れた方々の墓地も広大です。

 

   

   ↑ 遺跡の一部                  今も発掘が続けられています

 ヒエラポリス遺跡
 パムッカレの石灰棚の一番上にある遺跡。ローマ帝国の温泉保養地として栄えた。ローマ帝国時代にも地震で破壊されるがその後、復興。しかし1354の大地震で完全に廃墟と化す。ローマ劇場、ローマ浴場などが残る。
 
 石灰棚
 

 豊富なカルシュムと二酸化炭素を含んだ温泉が地表を流れ落ちる時、石灰質のみが崖に残り、一面が真っ白い石灰棚となった。

            

   

        お湯の量が減ってきたために水量をコントロールしていました。↓

              

                   コントロールの水路

   


  

    勿論、泳げるような深さもありませんが、ご覧のように水着姿です。

 
 トルコ風・紅茶「チャイ」について

 
「チャイ」は日本のお茶に当たる、何時でもどこでも飲まれる最もポピュラーな飲み物。 紅茶の葉を煮立てた物を湯で薄めてた「チャイ」は、好みで砂糖を入れて飲む。

 どんな小さな町や村にもこのチャイを飲める喫茶店があるが、そこで目にするのは男達ばかりである。 チャイをすすり、トルコ風のマージャンをしているのは男達ばかりです。  確か、エジプトでも同じような光景を何度か見かけた。 イスラムの世界は同じか。

 革製品のお店に立ち寄る
 
 
トルコはイタリー、フランスのブランドメーカーの革製品の製造をしています。
 そこで、立ち寄りました。

               

       同行のお客さん(岡田健さん)がモデルとして一役かいました。

   

   ファッションショウのフィナーレはトルコと日本の国旗をアレンジして終了です。
            流れるように商売に入ってゆきます。

 購入する気は全くありませんでした。 離職して10年、この間の衣料に費やした費用は肌着、靴下を含めて(トレッキング用のものは除く)10万円も掛かっていないでしょう。

 が、ふと17年前に購入した冬場のジャンバーの袖口が解れていたことを思い出した。 ジャンバー仕立ての製品を手にする内に、年寄りには皮ジャンバーは似合わないと思っていましたら、実に背丈も袖丈もがピッタリの物を羽織ることになりました。

 私の海外での購入スタイルは目にしたが”連れて行って”と呼び止められたと感じた時、あるいは”そこは空き家であった、無駄にはならない”だろうの2点です。

 流暢とは言えない日本語で「トルコと日本の友好の為」の一言に、指値をしたところ「こんな上手な買い物の日本人に会ったことがない」の殺し文句で購入することになりました。 果たして、不要な買い物にならなかったかどうかは秋以降のことになります。


 エフンソス

 エフンソスはセルチュクにある古代都市遺跡。 ギリシャ時代は小アジア最大の都市として君臨していた。 その当時を伝える遺跡を訪ねた。 当時を伝える遺跡が比較的綺麗に保存されていました。

 キリスト教の伝道も活発に行なわれたが、2世紀以降、港が土砂等で再興不能となり衰退していった。

 そのエフェンスの都市国家とはトルコでも指折りの古代遺跡群です。
 ローマ時代の体育館、共同便所、図書館、円形劇場、等数多い。

   

                

  エルメスのマークの象徴(00の象徴)    ナイキのマークの象徴(勝利の象徴)

          

       図書館の正面、 そこには4体の女神の彫刻があります。
           「正義」、「美徳」、「知恵」、「学問」の神です。

 時代が混乱し、先行き不透明になると人々は不満や不信そして不安になる。 そこで求められるのは「正義」「美徳」「知恵」「学問」ではないでしょうか。

  21世紀が始まって8年・今、当時と同じキーワードが当てはまります。
 崩壊が予兆される今、当時と何等変わらない状況ではないのでしょうか。

           

           当時、2万4千人が収容出来た円形球技場です。 
 
 剣闘士の戦い、猛獣との戦い、死をかけた見世物に酔いしれていた人々。人気を得る為にその費用を供給していた指導者。

              

 その競技場から港に向かって一直線に伸びた道路は夜もライトアップされていた華やかなメイン道路でした。 クレオパトラも歩いた街道です。
 
     
       その後、この港は土砂で埋められ繁栄のときは終わったのです。

 イズミールへ
 
 
エーゲ海に面する港町。 エフェンスや明日訪れるベルガマ観光の拠点。

                  

               

         

               人口350万人のトルコ第3位の都市。

 今回の旅で初めて、ホテルへの到着が午後・6時でした。 結果、遅れていた日記の整理も何とか半日遅れまで取り返しましたが、今・この時間は8月22日、午後10時です。
 と言うことは、本日分8月22日分は全く手が付けられていないこととなります。
 こんな思いまでしてパソコン持参しなければ思うのですが、写真の選択をし、少しばかりの聞きかじりの解説を付け加えていますと、少しはトルコの事が理解できるようになった気分になります。

 見て、聞いて、感じたことを写真や活字にすることによって、記憶に残ると同時に、この国への愛着も持てるようになってくるように感じます。

 本日でホテルでの宿泊は最終日となりました。 持参したブレザーを一度は着てみなければとロビーに出れば、カジュアルな装いばかりのメンバーがチラリと視線を流すのが感じられました。



 
                              平成20年8月25日 記

 不思議の国 トルコ周遊 ハイライト9日間

 イズミールからトロイ遺跡〜チャナッカレへ
               〜7日目〜 
                8月22日のこと


 只今8月25日、セイトレア空港に到着してから24時間も経過していませんが、既に8月22日の記録の写真が怪しいです。

         

 この写真を眺めながら、7目の21日のプリンセスホテル(イズミール)か、イズミールのコリンホテルか見分けがつかなくなっています。

 イズミナールはエーゲ海に面する港町、施設の整ったホテルがそれって居ます。
 ここもリゾート気分でユッタリと時間を過ごす各国からのお客様です。

 本日も320Km、約5時間のバスの旅から始まります。イズミナールからまず北上し、ベルガマ経由しエドレミット,そこからアジア大陸の西の果てチャナッカレに向かいます。

  

  クルミの青い実             ????          イチジク

              ↑途中休憩のときに撮影しました。
 
 海に面するほうに近付いたためでしょう、イチジクが目に出来ました。 このイチジク青かったのですが、他のバスのお客さんが食べていましたので私も一つ頂きました。
 
 日本の店頭にあるような色をしていませんでしたが、味はほとんど同じでした。

 トルコ石・宝石店とベルガモ市内をバスで通過

               

                     ベルガモ教会

 購入者が少なかった為か時間の余裕が出来たのでベルガモの家庭料理の昼食後、計画にはなかったベルガモの市内を観光。
 
  日本人の宝石の好みはシンプルでキラキラしていないものと言っていました。

 人口10万人の町です。 聖パウロが西暦1世紀に建設し、4世紀に改築されたベンガル教会です。

               

                ベンガルの市街地で、メロンです

               

     ベンガルは地熱を利用しての有機・水耕栽培でも有名だそうです。
 
  トルコの農業

 工業化が進んでいるのは北西部のマルマラ海沿岸地域がほとんどで、観光収入の多い地中海エーゲ海沿岸地域と、首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。とくに東部では、地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている。                            
               

 エドレミットからは西へ西へエーゲ海を時折眺めて進みますとオリーブの木々が見えてきます。写真の太いオリーブの木は20~30年ものです。

 オリーブの木の成長は遅く、2〜3年物を苗を移植します。 苗作りは挿し木です。
 25年ほどで成長はストップしますが、50年・70年と長生きします。

 世界的にオリーブ油の需要が拡大しており、農家は大儲けしています。 身なりは悪いのですが家庭に帰ればベンツを乗り回している。

 ガイドのガンさんも10年ほど前ならボーナスで畑を購入できたが、今では10倍となり手が出ないと言っていました。 彼の望みはノンビリと農業をしたいと言っていました。
 (奥さんが働いて、彼は茶を飲みながら??・・・いいえ、宝石店で後1週間後の奥様の誕生日プレゼントを購入していました。)

 トロイの遺跡

 
            

ダータネルス海峡の南に古のトロイの遺跡がある。
トロイは神話と伝説の霧の中にぼんやりと見え隠れするものだった。
吟遊詩人ホメロスがうたい、世界文学の古典として親しまれてきた「イーリアス」の舞台、トロイ。
その存在を信じて疑わず、その町の発掘に生涯をかけた男がいた。ハインリッヒ・シュリーマンである。
1870年、周囲の嘲笑と冷たい視線にも負けず、信念の人シュリーマンはここを発見した。
彼の死後も発掘は続けられ、ついに9つの層に渡る都市の跡が確認されたのである。
最初の居住地(トロイT市)は紀元前3000年頃まで遡る。
トロイY市の時代になると人口も増え、かなり繁栄した様子がうかがえるが、紀元前1300年頃の地震で滅亡している。
そしてまもなく再建されたトロイZa市こそがトロイ戦争の英雄達の舞台だった。
その後、紀元前700年頃には、遺跡の上に人々が住み着いて村ができている。
最後のトロイ\市はヘレニズム時代からローマ時代に及ぶが、ゆっくりと確実に衰退、廃墟と化して、5世紀には完全に忘れ去られてしまった。
現在も発掘、調査は続いている。

イーリアスとは?

紀元前800年頃に完成した、ホメロス作とされるギリシャ最古の英雄叙事詩。
そのなかに記されているトロイ戦争は、トロイの王子パリスが女神アフロディーテの助けをかり、スパルタ王メネラオスの妃である絶世の美女ヘレネを奪ったことから始まる。
ヘレネの夫メネラオスはギリシャ軍を組み、トロイへの攻撃を開始する。
10年にも及ぶ長い戦争の中で、不死身のアキレウス、オデュッセウスが中心となり活躍する。
しかし、トロイ軍・パリスの射た矢が、アキレウスの弱点であるかかとにあたり、アキレウスは死んでしまう。(アキレス腱の名はここから由来する。)
大きな戦力を失い、またどうしても陥落できないトロイ軍に対して秘策を考えたオデュッセウス。
彼の案とは、戦いを諦めたように見せかけ、生贄と木馬を置いて自国へ引き返すよにみせかけ、木馬の中にギリシャ兵が潜伏し、トロイが寝静まったところを落そうというものだった。
かくして、オデュッセウスの策略とは知らず、勝利に酔いしれるトロイ軍は、木馬を勝利の証として城内に引き入れる。
トロイ兵が寝静まった頃を見計らって、なかに潜んでいたギリシャ兵は城に火を放った。
不意の攻撃に面食らったトロイはあっけなく陥落し、10年に及ぶトロイ戦争は幕を閉じた。そしてヘレネは夫メネラオスの元に戻ることができたのだ。


 トロイといえば木馬を想像します。 写真のような木馬が遺跡公園の前にあります。
 しかし、遺跡自身はほとんど崩壊されており、考古学者でもなければその写真を見ても何の興味も湧かないことでしょう。

 上記には活字でトロイの神話や発見の経緯、背景を紹介しましたが、これまた現地を踏んでいない方には面白くも何もないことでしょう。

   

                     ご覧のようです。

   

 私が興味を持ったのは左の写真、ここがかっては海だったこと、ローマ時代の方は冬の暖房の為に木を切り倒しました。 よって土砂が流れ出し埋もれてしまったのです。
 
           右の写真は宮殿から港に下りてゆく坂道です。

           

 左上のグレーの色のところが一番初めの城壁、黄色、赤と大きくなってゆく城壁を示しています。

             

        最後のホテルとなったチャッカレのコリン・ホテルの全景です。

       






 
                              平成20年8月26日 記

 不思議の国 トルコ周遊 ハイライト9日間

 チャナッカレから再びイスタンブールへ
         そして、ドバイへ
                 〜8日目〜 
                8月23日のこと


                

            

                  チャナッカレの港の様子

 アジア側・チャナッカレの朝もモーニング・コールが午前5時10分です。 
 午前7時のフェリーでダルタネル海峡を渡ります。ヨーロッパ側には約30分です。

                

 長い夏休みを過ごしてきたのでしょうか、見かけた事がない形の車。 4人家族の荷物が後ろの荷物(?)入れにギッシリでした。

   

               エセッバル港に近付いてきました。
    アジア側、ヨーロッパ側と言っても景色が変わるわけではありません。

 ダルネダル海峡に沿って半島を北東に100Km、更にイスタンブールに向かって260Kmです。 両側の景色が変わってきました。

   

        

         ヒマワリの畑です。花が終わっていたのが残念です。
 咲きそろっていたならばどんなにか美しいことだろうと想像しました。 迷路の道を作ったならば間違いなくさ迷ってしまうことでしょう。
 ヒマワリの種は食用油にすると言っていました。種自身も食べるとの事です。

 再びイスタンブールへ

 人口1200万人の都市イスタンブールの郊外に近付くと土曜日の午後と言うことから、市内に買い物に行く車で込み合い始めました。

 最初に向かったのはオリエント・エクスプレスの駅舎を利用したレストランです。
 
           

                   

               

   

           
 
  国際寝台車会社のオリエント急行

             
 1872年、ベルギーの銀行家ジョルジュ・ナゲルマケールスは国際寝台車会社を設立した。彼は1868年にアメリカを旅行し、アメリカのプルマン社の寝台車に感銘を受け、ヨーロッパでの寝台車会社の設立を思い立ったといわれている。アメリカの大富豪、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社の設立を支援し、当時大陸ヨーロッパに進出しようとしていたプルマン社との参入競争に打ち勝ち、ヨーロッパ大陸の寝台車市場において独占的な地位を築きあげていた。

 この会社が1883年から、パリ-コンスタンティノープル(イスタンブール)間に走らせた列車が「オリエント急行」である。当初のルートは、パリ-シュトラスブルグ(現ストラスブール)-ミュンヘン-ウィーン-ブダペスト-ブカレスト-ヴァルナ-コンスタンティノープルで、ルーマニアブルガリアの国境のドナウ川と、ヴァルナ-イスタンブール間は船で連絡した。なおオスマン帝国では首都の市名を「イスタンブル」と称していたが、西ヨーロッパでは旧名の「コンスタンティノープル」が使われており、オリエント急行の行き先も旧名で表記されていた。

 一番列車は1883年10月4日夜にパリ・ストラスブール駅(パリ東駅)を発車し、6日かけてイスタンブルに到着した。各界の名士やジャーナリストが招待客として乗車し、ルーマニアでは国王カロル1世自ら離宮に招待するなど沿線各国で歓迎を受けた。

 当初運行便数は週1便であったが、1885年には途中ウィーンまでは毎日運行となった。また当初のルートのほかブダペストからベオグラードソフィアを経由する列車(一部馬車連絡)も運転された。1889年には念願のイスタンブールまでの列車の直通運転が実現した。

 オリエント急行は沿線各国の貴族や富豪、外交官らに愛用された。王族ですら、専用列車を利用するよりも自分の専用車をオリエント急行に連結することを好んだ。東ヨーロッパ各国はオリエント急行ができるだけ多く自国領内を通るよう、経路やダイヤをめぐって互いに争った。

 ただし、オリエント急行の走る東ヨーロッパの政情は不安定であり、インフラストラクチャーの整備も西ヨーロッパと比べ遅れていた。このため列車の運行にはさまざまな困難が伴った。1891年には盗賊団が列車を襲い、乗客を誘拐して身代金を要求する事件が起こった。1907年には吹雪のために列車が11日間にわたって立往生した。

 第一次世界大戦が勃発するとオリエント急行は運休を余儀なくされた。大戦中ドイツはフランスを起点とするオリエント急行に取って代わるべく、ベルリン-イスタンブル間に「バルカン列車」を走らせた。

 戦後すぐの1919年には、イタリア止まりだったシンプロン急行を延長する形で、シンプロントンネルを経由し、ローザンヌミラノベネチアベオグラードを経由する「シンプロン・オリエント急行」が登場している。これは敗戦国のドイツ・オーストリア領を避けたルートである。「オリエント急行」の全盛期は1930年代で、「オリエント急行」が週3便運行、「シンプロン・オリエント急行」が毎日運行、オリエントエクスプレスの補完列車として「アールベルク・オリエント急行」「オステンデ・ウィーン・オリエント急行」が週3-4便運行されていた。これらはいずれも国際寝台車会社の寝台車のみで編成され、その設備は人々の注目を集めたが、第二次世界大戦の戦火によりふたたび運行休止となった。

 第二次世界大戦後、これらの列車は座席車連結の夜行急行列車として徐々に復活する。しかし、かつての豪華さは失われ、またモータリゼーション時代の到来や飛行機の性能向上、東西冷戦の影響もあり、規模の縮小や列車名の改変なども行われた。最期まで残った「ダイレクト・オリエント急行」(「シンプロン・オリエント急行」を1962年に改名した列車)が1977年に廃止された事で、本来の意味でのオリエント急行の歴史は幕を閉じる事となった。

 多分3回は鑑賞しました、「オリエント急行殺人事件」。ストーリーは判っているのですが、名探偵ポワロの仕草や語りについつい引き込まれてゆきます。

 オリエント急行殺人事件

オリエント急行殺人事件』またはオリエント急行の殺人(英語名Murder on the Orient Express)はアガサ・クリスティによる推理小説1934年発表。

名探偵エルキュール・ポアロシリーズの一つ。あまりにも意外な犯人、意外なトリックにより数あるクリスティの著作の中でも評価が高く、ミステリー史上最高傑作ともいわれている。1974年シドニー・ルメット監督、アルバート・フィニー主演で映画化された。


 アソ・ソフィア

 360建設、537再建のキリスト教大聖堂15世紀からのオスマン帝国時代にはモスクに転用され、20世紀に無宗教の博物館に変えられた。再建時以来の直径31mの大ドームとモザイク画、モスク時代に付け加えられた4本のミナレットをはじめとするモスクとしての装飾が残る。

 かってギリシャ正教の本山。 イスタンブールの初日に見学したブルーモスクよりも1000年も前の建物です。 東ローマ皇帝が建設したものです。
 
 15世紀になり東ローマが崩壊するとその後、イスラム教が利用していたが、元々はギリシャ正教の建物であったので、近くに(隣に)「ブルーモスク」を建設しました。

         

         

 高さが50メートルと高く柱のない館内、建築技術の確かさに驚かされます。
 何とかその高さを表現しようと何枚もシャッターを押しましたが無理でした。

            

     かってはギリシャ正教の建物であったことが判る壁画があります。

   

 ↑ 修復中

               

     何の意味もなく「ネコ」です。 なぜかレンズを向けることになりました。

 グランド・バザールへ

   
      

 かっては庶民の買い物の場であったが、今は観光客用のバザールになってしまった。
            

 ↑このメインの屋根付商店街が200メートル続きます。 その両側に迷路のように狭い屋根なしの商店がビッシリと張り付いています。 ガイドから迷うからそこには立ち入らないようにとの注意です。

   

 ↑ 屋根なしの商店はビッシリです

                   ←ベリーダンス用か?

   

            ご覧のように「ビッシリ」が大好きのようです

          

        反対側の入口です。 中の感じとはおおきく異なります



 
                              平成20年8月26日 記

 不思議の国 トルコ周遊 ハイライト9日間

 ドバイから中部国際空港へ
                    〜9日目〜 
                    8月24日のこと


 イスタンブールを30分遅れで出発したEK122便はドバイ空港に24日午前1時過ぎに到着。
 ドバイの空港通路で

   

           

          インドネシアから働きに来ていた方々の一団でした

 私が「働き=WORKINGに来ていたのですか」話しかけると、ニコッと恥ずかしげに笑って「HOUSE KEEPING」と英語で答えてくれました。

           

     別な男性郡が持参のタオルケットに包まって眠りこけていました。

 ドバイを24日午前3時過ぎに飛び立ったEK314は約10時間後に、中部国際空港に到着。

 
    只今、26日午前11時半、何とか記憶を頼りに入力を終えました。
 「不思議の国 トルコ周遊の旅」の感想は後日にいたします。
 
 トルコ共和国の位置するバルカン半島アナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国成立の過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。

 トルコ共和国以前に存在した多民族国家のオスマン帝国では、このような地域事情を反映し、民族や出自に対する意識が希薄であった。代わりに各自の信奉するイスラム教キリスト教といった宗教こそが、永らく人々のアイデンティティ形成と維持に主導的な役割を果たしてきたといえる。

 このため、国民国家としてのトルコ共和国成立に伴い、国内における民族意識の醸成が急務となっていたが、国内最大多数派であるトルコ人ですら、何をもってトルコ人と定義するのかを画一的に判断することが非常に困難であった。

 このことは、1830年のギリシャ独立以降、トルコと隣国ギリシャ間でバルカン半島とアナトリア半島をめぐり領土紛争の勃発する要因となり、1922年に紛争の抜本的解決を目的に締結された住民交換協定では、トルコ国内に住む正教会信者のトルコ語話者は「ギリシャ人」、逆にギリシャ国内に住むイスラム教徒のギリシャ語話者は「トルコ人」と規定され、それぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余儀なくされている。

 こうした経緯もあり、長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず、トルコ政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべてトルコ語を母語とする均質な「トルコ人」であるという建前を取っていた。

 しかしながら、実際には共和国成立以前から東部を中心にクルド人をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを公式に認めている。


 以上のようにトルコ国民が紹介さるところから、不思議の国と言われるのか?

 農村部に行けばノンビリとした時間があり、都会では気ぜわしい喧騒な空間であった。
 ガイドのガンさんが「私の夢は農村で暮らすこと」といっていたが、今の日本人のサラリーマンの多くは何処かで同じような気持ちを持っているのではないだろうか。


 最後まで目を通していただきありがとうございました。
 文面中、斜活字で入力されている内容は各種文献から引用したものです。
 





前のページはこちらからどうぞ