COLUMN 1−D 2154
平成25年2月13日・記
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ネパールの写真報告、第3弾
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2月9、この日の記録がむちゃくちゃです。
2月6日,カトマンズ到着と同時にスタート予定の観光と2月9日のカトマンズ市内の観光日程を一気に実行したからです。
全く自信が有りません。 何かのグラビアで調べていただいた方が確実です。
(同時に、帰宅3日後の本日も体調が十分ではありません。 出発前に効果あったと思われる「七度煎」をタップリと振り出して飲み始めました。)
さて、カトマンズ観光を掲載します。
カトマンズ郊外の職人の街と言われるパタンからです。

↑この街への入場料をここで支払いました。
かつて、ネパールの有力民族ネワール人の王朝のあった場所です。

↑ここでも狭い道路というよりは通路です。

↑見上げると電線がいたるところに張りまぐされています。
張り巡らされていると言うよりは、良くショートや電線切れがないものかと心配してしまいます。 ガイドさんに訊ねても十分な説明なし。

↑広場の中心地に建つクンペシュワール・シヴァ寺院

↑祈りを捧げる準備された状態 ↑それに火が灯されました

↑側で、子供に何か御呪いのような事がなされていました。

↑数多くのローソクも灯されています。

↑ダルバール広場とゴールデンテンプル

↑旧王宮=ハヌマンドカ(?)

↑水汲み場の近くで老婆が髪を洗っていました。
隣に、新車のオートバイが有ります。

↑洗濯をする女

↑ゴミの中をほじくっている野良犬
この街に限らず、ネパールはゴミは放りっぱなしです。 川にも流すのでしょう乾季の小さな川はいたるところで燃えないゴミが引っかかっています。
月に何度かの収集はあるようになったと聞きましたが、兎に角、街の至る所はゴミの散らかりと埃で、マスクを掛けている方が多いです。
但し、紙くずは燃やしているところをシバシバ目にしました。

↑仏教寺院・スワヤンブナート

↑丘の上からカトマンズ市内が一望できます。

↑カスタマんダブ寺院、 旅人の宿でもあった。

↑隣のカルスバール・ビールの看板と対照的で一枚。

↑旧王宮・ハヌマン・ドゥカ

↑その右に並んで欧風の宮殿

↑宮殿広場に顔を覗かせる・王と妃
↑厳めしくもない衛兵、背丈は平均ネパール人の30%増し。

↑生き神様の少女です。4歳の頃から初潮が始まるまでの役。
賢く・利発で・可愛く・綺麗な少女が選ばれると言うことです。

↑生き神様・クマリはこの館で生活し、勉強します。
この館を出る頃には世間一般人と異なり、その後のことは大変なようですが、家族・一族にとっては名誉なことで捧げると言うことです。
この建物の前、小さな広場に観客は集められます。
その間、写真撮影が禁じられます。幼い少女が目をクリクリさせ登場します。媚びることもなく・演技するでもなく自然体で1~2分間登場です。
一日に何回繰り返すのでしょうか。 時には直ぐに引きあげてしまう事もあるそうです。 私達の時はガイドさんが「長い長い」と言っていました。

↑ダルバール広場

↑観光客も購入している様子もなく、誰が購入するのでしょうか?

↑仏舎利が祀られていると言うボダナート

↑チベットから亡命して来られた方が多いと聞きました。
一周、400メートル(?)を私も歩いてみました。
最後に・今一度アルプスの山々を
2月9日・ポカラを離れる日の朝

↑ホテルノベランダから・陽の差す前

↑ホテル・ベランダから朝日が射し始めました。↓


↑ポカラ空港屋上から

↑2月10日、カトマンズ空港を飛び立って↓

COLUMN 1−D 2153
平成25年2月12日・記
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ネパールの写真報告、第2弾
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悲しいかな、現地での日程は大幅に変更されて、渡されたスケジュールを読み返しても前後がサッパリ分からない。
しかも、2台のカメラで写しているので、最後には何が何だか分からなくなりました。
多分、そうだろうと思われるモノを掲載します。
まずは、2月8日の午前からです。 アンナプルナの遊覧飛行





2月8日の午後
ビンドゥバシニ寺院で結婚式に出会いました。


↑楽隊が祝いの曲を流しています。

↑広場では親類縁者が踊っています。

↑少女に『何しに来た』と訊ねると、『結婚式』と答えてくれました。
少なくても100人単位、多い時には親類縁者の他に地域の方々も御招きするので200〜300人になることもあるそうです。
昼食はフェワ湖を渡りました。

↑4人以下は上記のボートの手こぎで

↑8人以上となりますと、足こぎのボートになります。


↑対岸のレストランへ

↑レストランからの眺め
2月8日、午後
カポラのオールド・バザールの見学から

↑かつてはチベットとの交流で栄えていた商店街であった。↓


大半は他の写真でも紹介しましたように、間口2間、2階から上が住居の商店街か、路上に敷き物をしての路上販売です。 80%、30%?
カトマンズで成功したインド人の経営者のショピングセンターがオープンしたと聞き、そこを訪ねました。

↑3階建てで全営業面積は1500坪弱でしょうか。

↑1Fの御勘定場

↑生鮮食品は果物中心で、他は殆どグロサリーです。

↑2Fは家庭雑貨と家電製品↓

↑ベビーカーもありました。

↑3Fは衣料品関連

↑各階には上記のような監視カメラの設置が表示されています。
その上に、各階の入り口には手荷物を預かるボックスが設置されており、
一切持ち込めません。その上の警備係も数人配置されていました。
日本からの援助で出来た「国際山岳博物館」へ

↑正面玄関前

↑登山者が捨てて行ったゴミを拾いあつめた野口さん(?)
の功績が称えられていました。この他にもボンベや金物多数。
COLUMN 1−D 2153
平成25年2月11日・記
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2月11日、帰国後に
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2月10日、午後10時に帰宅。 久しぶりに日本酒と味噌汁。
12時過ぎに寝床に入る。
本日、ネパールの写真記録だけでも整理しようと思っていましたが、朝から身体が思うように動きません。
書斎でパソコンを前にすれば、眠気が襲ってきます。 一日の内半分以上ウトウトしています。
その上に、旅行中は治まっていた風邪の症状と下痢が再発症です。
これでは体力の回復は覚束無きません。
本日は諦め、現地で入力の終わったところまで掲載することにします。
解説文もなし、誤字脱字の修正もなしです。
旅の間に感じたことを即入力しようと思っていましたが、それどころではなく、カメラにはまだ2・5日分の写真が残っています。
大した記録が残っているわけではありませんが、シャッターを押した本人は時間が経過しても記憶が甦ってくる事を知っていますので、明日以降にでも実行します。
忘れていけないので、@ネパールは発展途上国である。道路、電気水道等のインフラは日本の昭和20年代半ばでしょうか。
Aその代わり、首都カトマンズやポカラの街に初めて出来た、ショッピングセンターには家庭雑貨、電気製品、が並んでいます。
時折、極わずかですがスマート・フォンを手にしている方も見受けます。
昭和20年代から平成25年までが同位しています。
が、庶民のベースはあくまでも、昭和20年代後半でしょう。
B若者にとってはオートバイがシンボルなのでしょうか、狭い街中うるさくピー、ピーと警告音を発して、曲芸のような運転ですり抜けてゆきます。
Cポカラの町では空港からも、ホテル・ベランからも、もちろん丘の上からもヒマラヤ山脈、アンナプルの山々、そして聳えるエレベストが眺望出来ました。 これを眺めているだけでネパールに来た価値が有りました
2月6日、乾季としては珍しく小雨が降り、スモッグを一掃してくれ、ガイドさんによると年に数回あるかなしかの条件だったと言うことです。
毎日、毎時眺めていると当たり前になり、有難味が薄れてくるのですから困りものです。
姿・形は同じですが、この後、時間が異なったヒマラヤの峰々を紹介させていただきます。
本日はここまで、
NO2152 ↓ に2月6日~2月8日
COLUMN 1−D 2152
平成25年2月6〜10日・記
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ネパールの旅、2月6日から2月8日午前中まで
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2月6日
中部国際空港、前夜仮眠所となった東横イン・ホテルの外は雨が降っている。
集合時間がAM2時50分であったが、ネパール・カトマンズの天候が悪いと直前に電話を受け、集合がAM4時半となった。
定刻を1時間40分遅れAM6時の離陸。 直ぐに朝食となり、外は空の色明るくなってきた。
食後はブラインドを閉めて、皆さん眠りに就く。
本日カトマンズに到着と同時に市内観光をする予定でしたが、全て後日に廻り、昼食を頂き本日の宿に直行、PM4時に到着。

↑カトマンズ空港の御出迎え。
以下、カトマンズ空港からホテルまでに車中にて撮影したました。
カトマンズの現在の状況がお解りいただけるのではないでしょうか。
30数年前にネパール・カトマンズに行きたいと思ってから年月が立ちすぎました。
私のイメージにあるネパール・カトマンとはかけ離れているのではないかとおもっていましたが、車窓から捉えた以下の写真から分かるように、
昭和20年代の後半の日本よりもインフラは整っていませんし、人々の生活ぶりももっと物的には貧しいのではないかと思いました。






↑昼食を頂いたホテルの玄関先、大型のシャベルが頓挫している。

↑カトマン国内線の待合室の電灯。
待合室といっても狭く、埃っぽく、暗く、それでいて騒々しい。
40数年前、中国・上海、広州を訪れていますが、それと変わらないと思います。 いやそれ以下かもしれません。
10年前の中国に出会った時、物的・経済的な成長・変化には驚きました。今日はそれ以上のことを様々な報道で知ることが出来ます。
その中国の近未来の姿をあまり楽観的には感じていません。
今、ネパールが”それ行け、やれ行け”と走り回っている姿の一端を車上から見ることが出来ました。
過ぎ去った時代を振り返り、新たな道の模索の中にある先進国・日本・そして私、どうのこうのと言える立場ではありません。
一度体験してみないことには、良し悪し、善悪、好き嫌いを実感できないのが生ある人間の性なのでしょうか。
ネパーの人々の生活状況はもう一度取り上げたいと思います。
2月6日現地時間のPM7時半(日本時間PM10時45分)・記
ポカラのホテル(ポカラでは一級のホテルです)のバイキング夕食から帰り、明日の支度をしている時突如の停電。
あるとは聞いていたが、現実となると一瞬戸惑う。 明日の早朝、日の出前にサランコットの丘から朝日を観賞することになっていたので、持参した懐中電灯を探しだした後でした。
ところが、真っ暗になると何処に仕舞い込んだか忘れてしまっていた。
そこで思い出したのが、携帯電話でした。電波が届かないことは判っていたが使い道はあるものです。 懐中電灯代わりになりました。
(但し、首都カトマンズ国際電話が通じました)
数分後に回復していたようでしたが、その間に懐中電灯も見つかり、その間ウロウロと動き回っていました。
もう一つ、これまた事前に紹介はありましたが風呂の湯です。PM6時以降PM10時までした使用できないと言われていました。
食後、各部屋が使い始めると御湯も出ないだろうと、のんびりな動作をしていました。
電灯回復後、湯の蛇口を捻ってみましたが、一向に40数度の湯は出てきません。これでは風邪をひいてしまうと諦めパソコンを前にする。
電圧が異なり、簡易変電機持ち込んだこと。
地酒「ロキシー」のこと。
一口舌に乗せ、何処かで飲んだ記憶がる、「そうでした泡盛でした」
ちょっと鼻で嗅ぎ、口にすると40度以上はあろう強い酒である。
高級な飲み方と紹介されていたソーダ割で飲んでみようとソーダを注文する。
ガラス瓶が傷付いており見たからに古そうである。栓を抜いてもらうと案の定、キャップの部分が錆びている。
ガイドさんに依頼して交換してもらうが、次の物も変わりがない。
この地ではほとんど需要がないのであろう。そこでミネラルウオーターとする。
乾季というのにポカラは小雨で迎えてくれました。
空港写真
その雨でヌカルミ、貧弱な舗装故に穴ぼこの道を日本から輸入した中古の観光バスが車体を揺らして進みます。
日本なら10分も掛からないであろう距離を4〜50分かかって、別天地に連れて行ってくれました。
その日の内に、そのリゾート・ホテルを写真に収めてみました。
まだこの地が選ばれた理由は判らない。乾季には珍しい時折柔らかい雨が舗装なしの道路をヌカルミにしている。
(後日、解りましたが、王と組んだ政商ではないかと理解しました。
ゴルフ、スパ、カジノ(営業しているのか?の3つが売り物のようですが)
フルバリ・リゾート(ネパール・ポカラ)の写真。以下数枚。

↑到着玄関前


↑入り口正面のロビーです。

↑広大な敷地には、寝そべって語る人形が配置されていた。

↑全ての部屋から雪を冠った8000メートル級の峰が見える。

↑ポンセチアの大きな葉(花?)が印象的でした。
12歳の少年兄弟の英語の会話

↑ホテルは一段と高い丘陵地にあることが判ります。

↑ホテルの敷地とその外は金網で仕切られています。
ゴルフ場のところで兄弟に会いました。 兄の方が英語が話せ、私より達者な問いかけをしてきました。バックの中の飴を取りがして渡すと仲良く駆けだして行きました。
2月7日、AM4時20分・記
有難いことに春日井の家、2月5日の朝食時から日常の食欲に戻り(ポリフェノールも美味しく頂き)、沖縄から帰宅してから続いていた風邪気味と猛烈な下痢症状が治まっている。
2月6日、今度は便通がなく便秘にでもなったのではないかと心配する。
2月6日、フルバリ・レゾート・ホテルに到着と同時にそれも解消。
ポカラの街はネパールの首都・カトマンズより国内線で30分
ハイキング、トレッキング、登山の入り口の都市です。
1950年代までは「山」以外は何もない寂れた農村でした。
ハイキング、トレッキング、登山の街と人々が来るようになって、発展して行きました。 パック・パッカーの街、一時はヒッピーが住みつきやりたい放題だったそうです。
今は首都カトマンズや山から人々が降りてきて、埃っぽい・雑然とした街です。国際的な山岳リゾートの都市です。
本日はモーニングコール5時で「ラナンコットの丘」から朝日の鑑賞です。
昨晩、夕食時に飲んだ3杯ロキシーの為か、夜中に6回も尿意からトイレへ。
2年ぶりの海外旅行、旅の留意点のポイントを忘れていることと、6日間の内3連連泊という安心感からついつい舐めてしまったところあり。
その一番は背にするバックを置いてきてしまったこと。 両手は常に自由にしておくこと。
乾季のネパールと聞き、雨カッパを用意したが傘を置いてきてしまったこと。
反対に、貰いモノが続き御菓子、飴は余るほど、それが良かった。
2月7日 サランコットの丘へ 夜明け前のアンナプルナを・・

↑夜明け前、徐々に明るくなる

↑丘の隣の建物から見学する人々。

↑エレベストノの上に陽が射す






1時間程、2~300坪の丘でアンナプウルナを眺めていたのでしょう。
徐々に感動は治まり、丘の上の廻りも眺めるようになりました。

↑近くの集落の家々が眺められるようになった。

↑サランコットの丘の一角にあるみやげ物店

↑夜明け前の気温は低く、皆さんマフラーを買い求める。

↑そこで、機織りをしている方。しかしこれはデモンストレーション。
その織り上げるスピードからは、あれだけの製品は出来上がりません。↓


車中より撮影したポカラの町の様子を紹介します。

↑拡張工事が進む主要幹線、泥だらけです。

↑その道筋にバラックの御店が並びます。


↑その店の様子です。

↑ヒンズー教徒が80%、牛は神聖です。堂々と歩いています。
その他、野良犬も目に付きました。鶏も放し飼いです。

↑細い鉄筋の柱に、上物が乗せられてゆきます。

↑果物売りの少女。果物は豊富でした。

↑川で洗濯している。この川は大きい方です。小川にも満たないところでも選択をしていました。 雨季には増水して雨量がタップリと言います。

↑洗濯物を乾かしています。

↑家具屋さんです。作業場は路上です。

↑小さな校庭で、ボール遊び(サッカー?)をしている
2月8日、午後からは「ヒマラヤ大自然」を感じるハイキング
アンナプルナ連峰を一望する「ラムコットの丘」へ


↑ラムコットノ丘に向かう途中の集落。

↑洗濯物が乾かされています↓


↑一軒の家屋です。赤土の壁に、稲藁(?)ノ屋根。

↑途中の休憩所でお爺ちゃんとお孫さんか。
豊橋「鬼祭り」のタンキリ飴を渡す。

↑2キロ下の御店まで買い物行ったオジサンを一枚。

↑、休憩所で一休みしていた方に許可をもらい一枚。

↑ラムコットノ丘の上で、店開きしていた御二人さん

↑牛糞を運んでいたおばさん達。

↑水牛が今にも襲ってきそうな眼差しです。

↑喘ぎ喘ぎ登って来た定期バスでしょう。屋上には荷物が一杯。

↑ラムコットの頂上に建てられたヒンズー教の建物。

↑中には、その守り神が祀られていました。


この丘に来る間にも、ヒマラヤの大自然を満喫しています。
COLUMN 1−D 2151
平成25年2月5日・記
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本日から10日まで「ネパール」です。
〜30数年ぶりに、思いが叶えます〜
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1970年代後半、年齢で言いますと36歳の頃だったでしょうか、自分のことを「カトマンダーラ・だっちゃん」と自称していました。
その前後から「修行僧」(当時は「修業僧」)とも年賀状に書くようになりました。
当時から数えますと30数年前よりネパール・カトマンズには行きたいと考えておりました。
その理由は覚えていませんが、今考えるとヒマラヤ山脈という壁が有り、そこから流れ下ったところに、昔は湖から肥沃な小さな盆地に姿を変えたカトマンズがあり、ヒンズー教と仏教が混在し、神仏がすまう所に行ってみたいと考えたのでしょうか。
数度、計画したことが有りましたが、その都度中止となってしまいました。
まだ来るには早すぎるとの御示しだったのでしょうか。
行ってみたい海外計画のファイルには何年も前からブータン、中央アジアと同じファイルで何年も眠っておりました。
ようやく、念願かなって本日出発となりました。
30数年前のネパール、カトマンズを知っていれば、近時写真等で出会うネパールとは隔世の感でしょうが、許され現地を踏むチャンスです。
本日は中部国際空港前のホテルで仮眠し、出発は6日・AM2時50分に集合して、フライトはAM4時半のチャーター便で直行です。
所要時間は8時間20分となっていますので、カトマンズには現地時間のAM9時30分頃でしょう。
1月29日、沖縄から帰宅して以降、体調が100%でなく、いささか気にもなりますが、長い間望んできたこと今度ばかりはチャンスを失いたくありません。
殆ど夢など見ない体質ですが、昨日の朝、坂道で自動車ごと一回転・ひっくり返り、平気な顔して話し込んでいる自分の姿で夢から目覚めました。
十分注意し、心して出向きなさいと教えられたと認識しました。
現地にパソコンを持ち込み、その時、その場で感じたこと・考えたことを記録しようと思っていますが、何時ものように楽しく・美味しく地元の御酒を頂いて(ネパールにはチャン、ロキシー、トゥンバというお酒ある)、グッスリということになる可能性が高いのではと危惧しています。
なを、ネパールでは上記の御酒に比較してビールが税金の関係で、無茶に高いと言うので気をつけようと思っています。
では、帰国後、お会いしましょう。
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COLUMN 1−D 2147
平成25年1月30日・記
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沖縄訪問26日〜29日
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名古屋の最低気温が1度と報道されている中、着たオーバーコートが邪魔になる15度で出迎えてくれました。
それでも、沖縄の方は『寒い、寒い』と口にされていました。
確かに昨年は滞在期間中に25度の気温を体験しましたから、それと比較すると日本全体の気温が低いのと同じということになります。
今回は遠山郷から5名、遠山郷のスタッフ3名、それにお仕事で沖縄入りをされて居られた藤原先生でした。
1月26日
一番早い方は午前6時に出発されて、飯田インターの側のりんごの里で合流し、午前10時半には全員集合。
早くも中部国際空港の待合場所では遠山スタイルが始まっており、顔を見るなりコップ一杯の日本酒を渡されました。
時間どおりに沖縄到着、レンタカーの契約をしてホテルへ。
3日間でトータル14時間の藤原先生の講演会が有り、北谷商工会議所の会場に駈けつける。

↑沖縄初の経営を学ぶ学校の「日本人事」の社長(左)と木沢活性化会長の松下会長の御挨拶。

↑遠山郷からの参加者、スタッフの自己紹介

↑顔と名前は結びつきませんが、地元参加者50人強の6割はお会いしたことのある顔ぶれで、握手やら中にはハグハグの御挨拶です。

↑早くも歓迎の余興が始まりました。 荷物運搬車は舟に見立てている?

↑女性軍に負けじと、若い男性も登場しました。

↑このリズムとお囃子が聞こえなければ沖縄ムード盛り上がりません。

↑記念撮影の時間です。 が、なかなかスムースにカメラに収まりません

↑突如、山崎校長のエール交換の掛け声が響き渡りました。
1月27日
午後からは藤原先生の講演を聴きに行くグループと観光組に分かれましたが、首里城には全員参加。

↑ワザとレトロ調の写真にしたわけではありません、知らぬ間にセットされていました。
6年ほど前に訪問した時は、もっと朱色の鮮やかさを目にした記憶が有りましたが、今回は色あせた感じを受けました。
あちこちで修復作業が行われて居り、修学旅行生の姿が目に付きました。
中部大学で数時間沖縄の歴史を学んでいましたので、琉球の統一、その後の東シナでの歴史的立場や、戦後復帰と基地問題等、学ばなかった時よりはまた異なった視点から眺めている自分を自覚しました。

↑約280年前の代表的な沖縄の農家、国指定重要文化財「中村家住宅
沖縄は台風の襲来が多いことからでしょう、殆どの家はコンクリート造りです。 気温の高い夏場が長いことからでしょう、外壁の色は殆ど白色です。
高台に登り眺めると「白い街」と呼べると思います。
それ故でしょうか、この木造住宅がより一層美しく感じました。

↑1720年頃、この地方の地頭職(本土の庄屋の当たる役職)と言われていますから、上層農家の生活を感じさせる品々が多く展示されていました。↓



↑裏庭に上がると、赤茶色の瓦屋根で一層沖縄らしさを感じました。

↑2月1日よりプロ野球のキャンプが始まります。 北谷球場は中日ドラゴンズのキャンプ地、自主トレーニングの最後の調整を終えた、中日ドラゴンズの今やエース、「吉見投手」がインタビューを受けていた。
この夜、再び宴会で盛り上がりました。
100畳ほどの大広間の一角に陣取ったのですが、他のグループも一緒で、大声を上げなければ聴きとれない程です。
また、この地は基地の町であると同時に、混血の町であることも教えられました。 爺さん、婆さん、そしてその娘と旦那、その子供たちの顔立ちや皮膚の色が実に複雑でした。
1月28日
昨年は2泊3日でしたから、慌ただしく過ぎてしまい、沖縄が初めての方には行きたいところへ行けずじまいだったとの経験から今回は3泊4日としました。
そこで、沖縄本島の北に地にあたる海洋博公園(美ら海水族館)へ。

丸一日居てやっと全部を見学できるかどうかの広さです。

↑前日に沖縄の方から、水族館を既に体験しているなら、「熱帯ドリームセンター」を勧められました。 「ランの花が見ごろ」と教えていただきました。

↑大正解でした。



↑36メートルの遠見台にも上りました。

↑遠見台からは南国の海岸を一望できます。


↑水族館の方は諦めていましたが、「イルカのショー」も見られ、

↑ジンベイサメにも会うことが出来ました。

↑更に、桜前線が一番早い、沖縄サクラも見学。

↑最後に、藤原先生の講演会に来られていた「農業生産法人 (有)勝山シークヮサー」の現場に立ち寄りました。
40農家の落は農業では生計が成り立たなかったが、地元にあるシークヮーサーを原料として製品開発をされ10年目、前は60台・70台ばかりの人口であったが、今では若い方も戻りつつあると言うことでした。
沖縄には大企業はなく、藤原先生の講演を聴きに来られていた方々もみんな中小・零細企業のオーナーやそこの従業員の方々でした。
遠山郷に来られて時もそうですが、前日の夜遅くまで飲み・歌い・踊るのですが、翌朝からは勉強に取り組んでおられます。

↑シークヮーサーの原木はこのように岩だらけの山の斜面に自生しております。
荒れ果てた山の斜面の雑木を間伐して収獲に結び付けておられます。
(今は平地でも苗木の育成が始まったとのことです。接ぎ木も含めて)
『遠山郷・木沢を訪問した時にはなにも驚かなかったけど、”下栗の里”のあの急斜面で生活されて居られる方が居ることを目の当たりにして、この程度の斜面での作業で根を上げて居られない』と言っておられました。
年々、人のつながりとネットワークが拡がり、新製品が開発されている様子が垣間見られました。
遠山郷と沖縄がどうして結びつくのかと不思議でしたが、現地を踏み、お話を聞かせていただきその一端が理解できました。
1月29日・アクシデント
カーナビに誘導されレンタカーの返却場所に向かったはずなのが、那覇の国際通りに来てしまいました。
前日より、操作マニュアルを十分理解しておらず、数度行きつ戻りつを繰り返していました。
2台に分乗していましたので、今度は私の運転している車で再度設定し直しました。 動き出して1分、街中の中心街で「行き止まり」に出くわす。
やっとの思いで約束の時間を過ぎること10分で、到着ヤレヤでした。
フライトは順調で、中部国際空港でお別れ、高蔵寺に到着、さて、車のキーを取りだそうとするとありません。
今朝、ホテルを出発する時、改めてキーの存在を確認し、意識してコートのポケット奥に入れ込んだことは覚えています。
こんなこともあろうかと、常に予備を携帯していますので、自宅までは帰れたのですが、どうしても納得がいかず、ホテルに電話、レンタカーにも電話、「既に次の御客様が出発されたので、31日までは返ってこない」と。
中部国際空港の遺失物の電話、「まだ、届いていない。明日もう一度電話をください」という。
翌日1月30日、女房がJALのサービス・カウンターに電話、「届けた内容の物が有ります。本人から電話をください」と。
詳細を告げると「多分間違いなく、其の品が有ります」と。
着払いでお送り頂けるとのこと、昨日からモヤモヤしていたものが一気に消える。
JAL飛行機の棚からコートを降ろす時に、ポケットからズリ落ちたことによるのだろう。
このようなことが有ろうかと、登山用のポケットにチャックがついているスラックスを利用しているのだが、そこを利用しなかったことが間違いの元。
3年前の中国・九寒溝・黄龍の時も、同じスタイルで其の時はスリの被害にあっている、今回の最後はメデタシであったが、注意はしているものの、何処かに気の緩みが出ているのだろう。
ということで、色々学び、楽しませていただいた4日間でした。
COLUMN 1−D 2007 より
平成24年8月24日・記
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豊橋・旧吉田宿、市内の東海道を散策
〜とよはし〜湊町〜上伝馬町〜札木町〜呉服町〜
曲尺手町、 曲尺手門等〜
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↑豊川河口から約6キロ、上流から河口方面を眺める。橋は”とよはし”

↑ほぼ同じ地点から上流を眺める。 橋は”吉田大橋”

↑吉田大橋をズームアップしますと、霊山「石巻山」が見えます。
吉田大橋から「とよはし」の間は約700メートル、向こ岸は分かりませんが、城側=市街地側は綺麗に整備された散歩道となっています。

↑土手に登れば大木がありますが、川岸は直射日光でたまりません。

↑大木が創る日影は値千両です。 私の影が分かりますか?

↑「とよはし」の真下に到着しました。昔の船着き場でもあります。

↑「とよはし」の左岸の上に「東海道」の看板がありました。(湊町)

↑普通の家に上記の看板が掲げられていました。

↑西惣門
↑上伝馬町に出ました。 上伝馬町と坂下町の間に番所があった。

↑↓豊橋は手筒花火の発祥に地です。マンホールの蓋。

↑8月9日に紹介しました「吉田神社」の手筒花火の碑です。

↑左折して札木町に入りました。吉田宿の本陣のあったところです。
この札木町が私が知る中で一番吉田宿の名残を残しています。

↑「吉田宿本陣の碑」の後ろは、うなぎ屋の「丸よ」です。

↑そのお店の壁に掲げられた「べっぴん」語源発祥の地の看板です。
その他、私の知る限りでも札木町には、老舗のお店が多く、例えば「菜めし田楽の”きく宋”、 お菓子の老舗”若松園”、豊橋はうどん店の老舗が多いですが”篠島屋」(?)。名前は忘れましたが、近くに”団子屋”さんもありました。

↑札木町と呉服町の間には、市内を走る市電が名物です。(赤色)

↑市電をモチーフにしたマンホールの蓋です。
呉服町は昔は呉服店が軒を並べていたことでしょうが、今では一軒もありません。 ただ,一軒書道の道具の販売と小さな展示場が昔の面影でしょうか?
そこで東海道は直角に道が曲がります。曲尺手町です。(私の実家の町)
50年前までは家具屋さんが10軒近くありました、家具を作る時の「かねじゃく=曲尺」からの名前と思います。
また、直角に曲がるのは敵が攻めてきた時の為とも言われています。

↑「史蹟 曲尺手門跡」に碑が建立されています。
吉田城時代にはこの門から城内に入ったと言いますが、札木町に吉田城大手門があり、身分によって入場門が異なったのか?

↑向かい合って「吉田宿」の碑があり、江戸から74里とあります。
そこは、曲尺手町の本通り(東海道)と」クスノキ並木の4つ角。

↑『吉田宿」の碑が見える。 旧東海道が曲尺手通り。

↑自宅のまん前から、北に50メートルのところは現在の国道1号線。
東の二川宿までは6・1キロ、西の御油宿までは約10・5キロ、吉田宿の町並みは2・6キロです。
本日は約全長5キロを歩き、その内、東海道は1・5キロ程度だったでしょうか。
次回は東に向かって歩いてみようと思っています。
COLUMN 1−D 1992 より
平成24年8月7日・記
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8月3日、道の駅「じょんのびの村」 〜貞観堂
〜杜々(とど)の森・名水公園
〜8月2日〜4日、新潟・中越の旅 その2〜
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「じょんのび村・道の駅」

↑道の駅「じょんのび村」
毎度のことですが今回も宿泊は道の駅でキャンピングカーです。
8月2日、AM9時半自宅を出発して、柏崎ICを降りたのがPM3時。
そこから国道252号線を南下して柏崎市・高柳町の「荻ノ島かやぶきの里」を散策しました。
そこで、「ハンスケ」家のお婆ちゃんと出会い、じょんのび=(ユッタリ、ノンビリ)とお話しさせていただきました。
自宅からここまでの距離は約500Kmですが、久しぶりの車旅で疲れを覚えました。 2年前は自宅から会津若松の約600Kmでしたが、其の時より疲労感あり。
その後、この道の駅「じょんのび村」に入りました。 村と言っても「県立の子供村」が併設されており、広大な敷地です。
この道の駅には温泉も宿泊施設も、もちろんレストランもあり、足元が怪しくなるまで御酒を頂き、8月3日の朝迎えました。
上記の写真はその朝です。 釣り桟橋の向こう側が「じょうんのび村」です。

↑朝の散歩コースには見事に咲き揃った山ユリが辺り一面です。
球根を植えこんだのかと思いましたが、木々の下・アチコチに強い香りを発していましたから、自然に増えたのでしょう。

朝7時を過ぎたころから、地元の方が朝どりの野菜を持ち込みます。
販売所には多くのお客さんは見かけませんが、地元のお店屋さんでしょうか、あるいは食堂の御主人でしょうか、籠いっぱいに買い込んでゆかれます。
私も冷蔵庫に入るだけの新鮮野菜を買い込みました。
貞観堂

↑貞観堂は,貞観園の中心建物、豪農の館

↑ 自然木の姿の梁の間に神棚が鎮座していました。

↑,↓1784年「貞観堂」が建設されて、庭園も趣をなす。

16代目の当主が控え目に説明をしてくれました。
雪が深く、毎年12月から翌年の5月半ばまでは閉館しているとのこと。

↑↓開館前に到着しましたので、外観から眺めました。


杜々の森名水公園

↑名水の謂れと環境保全の案内が紹介されています。
長岡市内から車で30分ほどかかります。当日の花火の為に早くから交通規制と混雑が予測されると聞いていましたので、どうしようかと迷いましたが、「名水」と聞いて走りました。

↑↓冷たく・美味しかった名水ですが湧水の写真を撮り忘れ。
この碑文で想像してください。


↑これらの木立に囲まれています。

↑その清水がつくりだした池でしょうか?
COLUMN 1−D 1991 より
平成24年8月6日・記
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8月3日 長岡・大花火大会
〜8月2日〜4日、新潟・中越の旅 その3〜
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「その2」は8月3日の午前中に柏崎・高柳町の「名勝 貞観園」と長岡市の杜々の森・名水公園を訪ねました。
その3を先に、アップします。
長岡・大花火大会

↑2012年花火大会のポスター、翌日頂いてきました。
数年前、長岡の花火大会の予約を1か月程前にしたところ、「何を言っているのですか、予約はとっくの昔に締め切られました」との返事。
それ以降諦めていましたが、今回「日本再生プログラム推進フォーラム」の主催により、この長岡で開催に出会い直ぐに申し込みました。
当日、かつてこの大会の企画をされて居られた方も同席でしたので、色々とお話しを聞かせていただきました。
本年8月2日の初日に人出は43万人ということです。 日本野鳥の会の方が計算されたようです。

↑日本で一番長い川・信濃川の右岸、左岸の河口に観覧席が作られます。
10年ほど前から、多くの人出となり始めたと言うことです。 ここ数年、花火代金を除く経費は4億を切っていたそうですが、今年は4億3千万円ということです。
私達の特別観覧席が3000円です。10万人で3億円です。
赤字とはならないと言っておられました。

↑午後の5時ごろからゾロゾロと通りに足音がし始めました。
無料の観覧場所の陣獲りはどのようになっているのでしょうか。

↑午後7時15分、信濃川に夕日が沈みます。
メッセージ花火の開始です。
午後9時6分慰霊の花火が終了するまで、大型スターマイン、超大型スターマインの連続で、息つく暇がありません。
しかし、そこは花火、如何にに素晴らしくとも、次の瞬間には消えます。
だからこそ、桜と同様に人気があるのでしょう。
では、カメラに収められた作品の一部を紹介します。一気に行きます。









↑最後は観客席のペンライトと中州の花火師さんの打ち降る提灯の交流で終焉しました。
昨日も書きましたが長岡駅までゾロゾロと約30分ほど歩きます。
観光バスで関西から来られた方達は、宿がとれずで富山まで引き返して宿泊とのことです。 |
COLUMN 1−D 1990 より
平成24年8月5日・記
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新潟・柏崎・高柳町「荻ノ島・茅葺の里」
〜8月2日〜4日、新潟・中越の旅 その1〜
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↑姨捨サービスエリアから千曲川、長野方面を望む
中信・松本ICを過ぎ、更埴JCTの手前辺りから相方がうるさいなる。
ジャスト・姨捨山の看板を見つけ、うるさいと置いて行くぞと一発。
上信越自動車道から北陸自動車道、柏崎ICで降りて国道252号線を約30分で到着です。
荻ノ島・かやぶきの里


↑荻の島・松尾神社と二本杉

↑↓ 荻の島で一番手が入っている茅葺の風景
田圃を中心として囲むように環状集落となっています。


↑地元の方々による営業活動

↑↓ 2軒が営業しています。

↑クーラーもあり、快適です。

↑↓が、 住む人が居なくなれば、時間の問題で朽ちてゆきます。


↑下の方・隣村から嫁にきました。 おじいちゃんは今介護施設に。
20分ほど、この集落の事をお聞かせ下さった「はんすけ」家の婆ちゃん。
「昔は100軒ほどあったが、今は30軒になった。 息子たちは東京に行っており、今度のお盆には帰ってくるだろう。 冬は雪が多く帰ってこない、私らも町に下りて暮らす」と言っておられた。

↑婆ちゃん家のキキョウが殊の外、綺麗に見えた。

↑この荻の島集落に限らず、柏崎市周辺には芙蓉の花が目立った。

↑現役の茅葺の住まい

↑小さな土間に置かれたオートバイと長靴

↑この地方を走っていますと、どの家にもトタンづくり丸屋根の倉庫があります。 雪が深いことによるのでしょう。

↑もう一軒、別な家を見学させていただきました。

↑昔昔の看板です。

↑「分かりますか、この道具?」泥がついていましたので、代掻きの道具でしょうと言うと、正解でした。 現役なのでしょうか。

↑失礼して、縁側までパチリ

↑「助六寿司」のカンピョウです。白いのですね。

↑茅葺の家ばかりではありません、隣は宿屋、そして新建築の家。

↑最後にトイレをお借りした集落の集会所の看板です。
COLUMN 1−D 1835 より
平成24年1月31日・記
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遠山郷(地元、藤原学校)と沖縄の方々の交流会
〜1月28〜30日 IN 沖縄〜
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1月28日
昨年、沖縄から3回団体で遠山郷へお越しいただいた。延べ50人強。
遠山郷藤原学校も12月から2月までは例年遠山郷のスタッフが集まる程度で休校です。 その機会を利用して沖縄に訪問することとなりました。
今年は暖冬ならず寒冬と言われ、1月28日の遠山郷の朝はもちろん零下の気温でした。
曇りか悪くすると雨もあると予報が出ていましたが、この3日間は最高気温が25度で日中は暑いほど、全体としては爽やかで気持ちの良いお天気に恵まれた交流会となりました。

↑沖縄空港の出迎えのお花
中部空港でセーター、コートを車に置いてきましたが、更に遠山から着てきました上着を脱ぐこととなりました。

↑佐喜真美術館
この美術館の屋上から普天間基地が見渡せました。 美術館の敷地は基地との緩衝となった緑地の隣です。
が、、美術館屋上から見える小学校の窓からは訓練中の戦闘機の操縦兵士の姿が見えるとのことでした。当日は土曜日で訓練もないのか静かでしたが、普段はやましく会話もままならないということです。

↑初日の夜、遠山郷の酒豪を迎え、「酒豪酒楽」の悪酔い防止薬準備。
この夜、早寝の私はベットでしたが、繰り出した方々は午前1時を回っていました。
1月29日 平和文化村 読谷めぐり
「やちむんの里」

↑読谷村は県内でも有数な窯どころで50以上の窯元があります。
人間国宝、故・金城次郎さんの窯もあります。

ここで、ガイドさんから面白いお話しを聴きました。 故・金城次郎さんが作成された湯呑茶碗が村役場で使われていました。
人間国宝となったと報道されたとたん、その湯呑茶碗がみんな消えてしまったという事です。

↑登り窯
「世界遺産 座喜味城跡」

↑沖縄の大地はサンゴ礁でできています。それ故に強度がありません。
そこで、15世紀初めに読谷村按司・護佐丸により築城された、切り石積みの連郭式の城で、アーチ方になっており、土台の天井幅が大変広く、一番広いところは5メートルはありました。

「残波岬」


↑その岬に「泰期像」があります。 彼は進貢使として琉球からは初めて中国に渡った人物。大交易時代を切り開いた。中国を指差している。

↑昼食時間まで時間があり、近くの琉球一の焼き物の前にて。
写真は取りやめますが、昼食時間まで待てなくて、ビール缶が開けられたことをメモしておきます。

↑昼食場所・残波ゴルフクラブの表示モニュメント
ここで藤原先生が午前9時から午後の5時まで、講演をされておられました。
「チビチリガマ」 「シムクガマ」

沖縄戦に置いて米軍の残酷な仕打ちを教え込まれていた避難者約140名に内83名が集団自決をした洞窟(ガマ)

↑ガイドさんの説明・解説に聞き入りました。

↑一方、シククガマに避難していた約1000名は、ハワイに移住していた経験者がおり英語が話せ、米軍の呼びかけに応じて全員が助かりました。

↑シムクガマに徒歩で行く途中、「不発弾調査中」の看板です。
沖縄は今でも戦争の跡が消えたわけではないことを、ここでも教えられました。
「サトウキビ収獲体験」

↑サトウキビの植え込みから収獲までを説明していただく。

↑独特のサトウキビ専用の鎌、鞘を剥きやすくなっています。

↑一日、一人で収獲出来る面積は約100坪とのことでした。
収入は政府の補助がなければ到底生活できません。 ここでも若者が跡を継がず後継者に困っておられました。
「琉球武家屋敷””謝名亭”にて交流会 うちなぁー宴会

↑敷地内の一角に「謝名亭」があります。

↑正装でお迎えいただきました。

↑これまた、正式(?)なお手前で琉球茶を頂く

↑大きな茶筅で泡を立てます。
うちなぁー伝統芸能
かぎやで風

↑慶び事はまずこの舞いから始まるとのこと。
空手演舞

↑琉球武道も披露されました↓(沖縄尚学・高校生)

↑学校で必修になっているかと尋ねましたが、「NO」でした。
うちなぁー式 にーびちー余興

↑打って代わって、オリジナル沖縄ダンシングチームです。↓
今回交流会参加のメンバーの方の中から選ばれた様です。
当日ご夫婦で参加されて居られる方もあり、4組ほどが紹介されました。
ここでも、沖縄の方の明るさと大らかさを実感しました。


↑「参った、参った」と藤原先生もおおはしゃぎ。

↑山崎校長もついつい腰を浮かして仲間入り。

↑やんや、やんやの盛り上がり
エイサー カチャーシー

↑そして、締めくくりはこれです。↓

↑沖縄は日本本土に出て行っても、再び戻ってくる人が多いと聞きます。
今回、「沖縄の若者と遠山郷の若者の交流会もしましょう」との提案を受けました。
60歳になっても「若い衆」と呼ばれる遠山・木沢地区ですが、旧南信濃村ならば、何とか20人程の若者が集められるか?

↑私の推測では今回の交流会の企画・運営を担当された「日本人事」のスタッフの面々です。
今回の交流会の参加メンバーは約70人、遠山郷にお出でになり顔見知りの方が約25人程でした。
「今年は行くからね」、あるいは「今年も行くからね」という有難い声が多く聞かれました。
遠山郷の地元の方は「こんな歓待をされては参ったな。今度来られた時にはどうしたものか」と言っておられました。
「沖縄には沖縄の明るく・大らかで・元気で情感こもる歓迎があり、遠山には遠山の飾らない・人情あふれる素朴な受け入れがある」。
両者を体験した私にはそれぞれに捨てがたい良さがあると改めて感じると同時に、それ故両者に何処かに惹きあうものがあるのかなと思いました。
1月30日

↑琉球王国最高の聖地、「斎場御嶽」(せーふぁ うたき)世界文化遺産

↑鍾乳石から聖水が滴る。↓其れを受ける金の壺。



↑三庫理(サングーイ)この奥が拝所(パワースポット)

↑三庫理の東側に琉球開びゃく伝説の島・久高島が望める。
「神の島」と呼ばれる久高島から白砂を運び込み敷き詰められた。

↑沖縄空港のお花ともお別れして・・

↑気温22度の沖縄から9度の中部空港へ

お疲れさまでした。
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COLUMN 1−D 1706 より
平成23年8月23日・記
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長野・安曇野を楽しむ 8月22~23日
〜Yさんの価値観、生き方に感心するやら驚くやら〜
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多分、20年ぶりに安曇野を訪れました。

↑大王わさび農園の外側を流れる高瀬川の清流。

↑日除け幕が広大な敷地を埋め尽くしています。

↑その下で、育つワサビ。

↑なぜか、この像に関心を持ちました。
↓少し読み難いですが、魏石鬼ハ面大王の解説


↑農場の敷地内に現在NHKの朝ドラマ「おひさま」のロケ地があります。
と、観光から入りましたが今回安曇野訪問の最大の目的は遠山郷藤原学校のスタッフでもあるYさんをお訪ねすることでした。

↑このログハウス、約25年前、Yさんが長野で最初に居を構えることとなった北安曇群・美麻村(現在は合併して大町市)に、学生時代の友人と8年がかりで組みあげたログハウスです。↓

Yさん曰く、『もっと早く立ち上げることは出来たが、東京、大阪から約30人の友人と建ちあげることを楽しみにしようと約束したので、集まってくる友人がいない時には作業はしなかった』と言っておられた。
建て坪24、総床面積が40坪(?)ほどです。
長野オリンピックの道路拡張工事の土砂を敷地の埋め立て用に無料で頂く、道路建設で立退きする家の畳や廃材を活用すると言った智恵が詰まっています。
現在、多くの友人が集まるのは年に2~3回と言うことです。
贅沢というよりは価値観、友情、発想が生みだした羨ましい限りのハウスです。
自宅を建設する
上記のログ・ハウスを作られたYさん、美麻村の村営の住宅から南下した池田町に自宅を建設することを計画しました。
村営の住宅と言っても敷地100坪、建物は36坪(?)、しかも大阪からご両親を呼び寄せており2軒も借り上げていたのです。ただし雪多し。
今度は友人との共同作業は出来ないからと、2×4で建設することとしました。 美麻村とは異なり雪は少ないですが、冬の冷え込みは半端ではありません。
ここでも、アイディア一杯の断熱の智恵と其の作業方法、中古のソーラーハウスの活用、夏と冬との太陽光線を考慮した軒先の事等々、お話しを聞いて居ると尽きることなく、次つぎの着想、行動力に感心するやら楽しいやらです。
Yさん手作りの飴ビール(?)、ワイン(?)、持参のお酒が進みます。
生憎、小雨交じりの2日間で有ったこともあり、その家の写真を撮るのを忘れてしまいました。
現在、母屋の他に、旧美麻村からお母様を呼び寄せるためもう一棟増築して昨年から同居されています。
今一つ、不耕起農法について

↑不耕起農法の畑を見させていただきました。
ご覧のように草が生い茂っていますが、5年間で畑は見事に豊かになっています。

背の高いトウモロコシは初めに手を加えてやれば、放ったらかしで育つと言われ、それを頂いたのですが実入りも良く、甘さも十分美味しかった。
畑の広さは2カ所で300坪程でしょうか。
時折、帰ってくる娘と息子の手伝いはあるが、ほとんど一人で実行。
私の経験からは驚きです。不耕起農法でなくては出来ないことでしょう。
別な場所で苗から育てた田圃も不耕起で実施されている。
『今年の出来は一番良い』と言っておられた。
スイカも収穫された、夏野菜は食べ切れず近くの農協にも一部出荷した。
小学校2年生の二女がアイドル、ファッション・デザイナーを目指すという。
Yさんの考え方、価値観、生き方は既にスタートしている21世紀の生活のあり方の一つのモデルとして素晴らしい。
友人、知人から『加藤の言う21世紀の生き方のモデル、あるいはネットワークのモデルは何処にある』と常々問い詰められるが、今度からはYさん家族を一つのモデルとして紹介することが出来と確信した。
そんな事を思っていたら倉本 総さんの「北の国から」を思い出した。
追記
メモをするのでもなく、お酒はいつもに増して進む中、記憶に残っていたことを書きました。 Yさんからお伺いしたことと大違いを入力しているかもしれません。悪しからず。
COLUMN 1−D 1697 より
平成23年8月13日・記
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