平成22年3月 12日 記
やっと、中欧に行くこと(来ること)ができました
中欧4カ国(オーストリア、チェコ、ソロバキア、
ハンガリー)の旅
第4日目 ウイーン→チェスキークルムロフ
→ホラショヴィツエ→プラハへ
チェコ・プラハの朝。パークホテル10f、窓から

↑昨日はほとんど雪景色ばかりでした、そして雪化粧の畑の丘陵を見続けていましたので、市内の煙突からの煙は奇異です。
知識としてのチェコは先進的な工業であった(今もか?)、さもありなんと納得しております。


↑あさの出勤時間になったのでしょう、町に活気が出てきました。
気温はマイナスです。 寒さには強い方なので何ともありませんでしたが、同行者は携帯カイロをアチコチに貼り付けています。
添乗員さんは「低温火傷に注意してください」と呼びかけます。
地元のガイドさんも今年は異常だ、一度温かくなって、その後取り戻すかのように冬に舞い戻ってしまいましたと、彼女も何度か鼻が紙を取り出していました。
世界遺産・プラハ歴史地区観光
プラハ市街中心部、ヴルタヴァ川の東岸に位置する旧市街から南の新市街まで、西岸のフラッチャニ地区およびマラー・ストラナ地区、計866ha
が登録対象地域となっており、11世紀から18世紀にかけてのさまざまな時代様式の建築物が残る。
プラハ城
・聖ヴィート大聖堂 (チェコ語:Katedrala svateho Vita)はチェコのプラハにある大聖堂で、プラハ大司教の主座である。
大聖堂の正式名称は「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイテフ(Vojt?ch)大聖堂」である。 プラハ城の内側に位置し、多くのボヘミア王の墓を有する。この大聖堂はゴシック建築の代表例であり、チェコで最も大きくて重要な教会である。

↑裏口から入場しました

↑ こちらが正です。


。 ↑午前9時。衛兵の交代時間でした
起源
大聖堂が現在ある場所に最初の教会(これもまた聖ヴィートに捧げられていた)が建てられたのは925年のことで、ボヘミア公のヴァーツラフ1世(聖ヴァーツラフ)によって初期ロマネスク様式のロトンダ(円形建築)が建設された。聖ヴィートが守護聖人として選ばれたのは、ヴァーツラフがドイツ王ハインリヒ1世から聖遺物、すなわち「聖ヴィートの腕」を与えられたからである。
また同時にヴァーツラフは、民衆がキリスト教への改宗に抵抗を感じないよう、スラブの太陽神スヴァンテヴィト(Svantevit)によく似た響きを持つ名前の聖人を選んだともいう。二つの宗教人口は、キリスト教徒が増加し、土着の宗教人口は減少したが、少なくとも11世紀まではプラハ城内に共存していた。
1060年にはプラハに司教区が置かれた。小さなロトンダでは熱心な信者に対応しきれなくなり、スピチフニェフ2世は大規模な教会の建築に乗り出した。典型的ロマネスク様式のかなり大きなバシリカが、同じ場所に建設された。
まだ完全には解明されてはいないが、側廊が3本のバシリカとクワイアが2つ、西の翼廊につながる塔が1対という規模だと多くの専門家は考えている。大聖堂のデザインは神聖ローマ帝国のロマネスク様式であり、ヒルデスハイムの聖ミカエル教会やシュパイアー大聖堂に似ている。
ロトンダの南アプスが新しい教会の東翼廊に取り込まれたのは、そこに聖ヴァーツラフ、すなわち聖ヴァーツラフの墓があったためで、彼はこのときからチェコの王子の守護聖人となった。司教の邸宅もまた新しい教会の南に建てられ、12世紀中ごろにはかなり広げられて大きなものとなった。
大聖堂のゴシック様式
現在のゴシック様式の大聖堂は1344年の11月21日に設立され、これよりプラハ司教区は大司教区に上げられた
その後援者には、大聖堂の首席司祭をリーダーとする参事会、パルドゥビツェのアルノスト大司教、とりわけボヘミア王で神聖ローマ帝国皇帝にもなったカレル1世が挙げられる。彼は新しい大聖堂を、即位式を行う教会、一族の地下納骨堂、王国で最も貴重な遺物の保管庫、そして守護聖人ヴァーツラフの最後の休息地であり巡礼地となるよう取り計らった。
最初の建築家として、フランス人アラスのマティアがアヴィニョンの教皇庁宮殿から召喚された。マティアは、フレンチ・ゴシック様式を取り入れて、建物のレイアウト全般をデザインした。例えば身廊が3本のバシリカとフライング・バットレス(飛び梁)、短い翼廊、ベイが5つのクワイヤ、回廊のある十角形のアプス、放射状の礼拝室である。しかし彼の生前に建設されたのは、クワイヤの東端の部分、アーケードと回廊だけであった。後期フレンチゴシックに特有な垂直性の乏しさ、頑ななまでの大きさへの傾倒が彼の功績を今日に伝えている。
マティアが1352年に世を去ると、新しい建築家が大聖堂の仕事を引き継いだ。これがペトル・パルレーシュで当時わずか23歳、シュヴァーベンのグミュントにあるハイリゲン・クロイツ教会の建築家の息子だった。
パルレーシュは最初、前任者の残した計画通りに動いて、クワイヤの北に聖器保管室を、南に教会堂を作った。マティアが未完のまま残した部分を完成させると、自分自身のアイデアにしたがって仕事を続けた。パルレーシュの大胆で革新的なデザインは、建築にゴシック要素に新しい独特な風合いをもたらした。これが顕著に表れているのが、クワイヤに彼がデザインしたヴォールトである。
いわゆるパルレーシュのヴォールト、もしくはネット・ヴォールトでは、クワイヤのベイを斜めに横切るリブが、古典的なゴシック様式の交差ヴォールトのように1本ではなく、2本ある。網目状にリブが交差するためネット・ヴォールトと呼ばれ、ヴォールトをかなり補強することができる。それらのリブが天井装飾にリズム感を生み、ヴォールトのベイとあいまって、大聖堂の長辺にダイナミックなジグザグパターンを生み出す。
アラスのマティアが幾何学者として学問を修め、上記のように厳密な均衡を強調して数学的で明快な配置をデザインしたのに対し、パルレーシュは彫刻家兼木彫師として修行した。彼は建築を彫刻とみなし、まるで石の造形を楽しんでいるかのようだった。かなり大胆に作ったヴォールト以外にも、彼の作品の特異性は様々な箇所に見られる。ピラーのデザインは古典的な釣鐘型の柱で、盛期ゴシックではほぼ忘れ去られたものである。
また新しい聖ヴァーツラフ礼拝堂の巧妙な丸天井のヴォールト、クリアストーリの壁の波型、バットレスの隠れたトレサリーのパネルの特異性も挙げられる。独自のトレサリーには常に異なった装飾が施されて二つとして同じものがない。パルレーシュが建設を担当している間は、コーベルや通路の窓の横木のように建築彫刻が重要視され、特にトリフォリウムの胸像には、王族や聖人、プラハの司教、パルレーシュ自身を含む二人の建築家の顔が彫られている。
しかし大聖堂の作業の進行はかなり遅かった。皇帝はパルレーシュに、他の多くのプロジェクトを大聖堂と同時期に課しており、プラハに新しくカレル橋を架けたり、チェコ全域に多くの教会を建設したりしていたからである。
1397年にペトル・パルレーシュが逝去したときには、クワイヤと翼廊部分だけが完成していた。
ペトル・パルレーシュの死後、彼の息子のヴェンツェル・パルレーシュとヨハン・パルレーシュが作業を引き継いだ。彼らの後は、名工ペトリルクが引き継いだが、彼はパルレーシュの工房の職人でもあったというのが衆目の一致するところである。彼ら三人の名匠の下、翼廊と南側の大塔が完成した。そして塔と南の翼廊をつなぐ破風も完成した。通称ゴールデン・ゲート、上部に「最後の審判」の金色のモザイクがあるためそう呼ばれるこの門は、王が即位式に臨むため大聖堂へと通り抜ける入り口である。
建築過程すべては15世紀前半に起きたフス戦争の開始により停止した。ほぼ一世紀に渡って確実な作業を続けてきた工房は戦争により活動を止め、多くの絵や彫刻などの大聖堂の内装はフス派の聖像破壊運動によってかなり被害を受けた。さらに、1541年の大火が大聖堂にひどい損壊を与えた。
↑ ↓ 大聖堂

↓↑大聖堂内、後に、カルル王となる少年時代の画

↑カルル王は水色で表現されています。
ルネサンスとバロック
次の世紀の間ずっと、大聖堂は作りかけの状態で建っていた。翼廊と大塔は完成したが、暫定的に壁でふさがれていた。 側廊3本の身廊が建つはずの場所は木材屋根の建物になっていて、礼拝はクワイヤの内側からそこで別に開かれた。
大聖堂の建設を続けようといくつかの試みがなされたが、ほとんどは失敗した。
15世紀後半になると、ウラースロー2世は偉大なルネサンス・ゴシックの建築家ベネディクト・リードに大聖堂の建設を引き継ぐよう依頼した
しかし始まってすぐに、資金不足のため作業は打ち切られた。大聖堂を完成させようとするその後の試みは、ルネサンスとバロックの要素をゴシックの建築に持ち込むばかりであった。
もっとも顕著な例は南塔の尖塔と、北の翼廊にある大きなオルガンで、明らかにバロック様式を示している。


19世紀〜20世紀における完成
1844年プラハで開かれたドイツ人建築家の集会で、ヴァーツラフ・ペシーナは、ネオ・ゴシック建築家のヨゼフ・クランナーと共に、大聖堂の改築と完成の目指すプログラムを発表した。
同じ年、「プラハの聖ヴィート大聖堂を完成させる連合」が結成され、「すべてが台無しになってスタイルが不調和な」状態からなんとか脱却することをめざした。
ヨゼフ・クランナーは1861年から1866年にかけて修復作業のほとんどを指揮し、不必要なバロックの装飾を取り除いて内装を補修していた。
1870年にはついに身廊の土台が新しく作られ、1873年にクランナーが世を去ると、建築家のヨセフ・モッカーが再建を引き継いだ。
彼は西のファサードに、典型的な盛期ゴシックの様式で2つの塔を設計し、彼の死後もそのデザインは、3人目にして修復に携わった最後の建築家カミル・ヒルベルトによって引き継がれた。
ゼツェッシオンのチェコの有名画家アルフォンス・ミュシャが、身廊の北部の窓を新しく装飾した。バラ窓は1925年から1927年にかけて、フランティセク・キセラによってデザインされた。
この入り口上部のバラ窓は、聖書の創世記のシーンを表している。聖ヴァーツラフの没後1000年に当たる1929年までに、聖ヴィート大聖堂はついに完成した。完成までには約600年が費やされたのであった。
大聖堂の西半分全体がネオ・ゴシック時代に追加されたにもかかわらず、ほとんどの修復にはペトル・パルレーシュが開発したデザイン要素を踏襲したため、大聖堂によく調和した統一感がもたらされた。

↑ ここでもまた、「王妃の懺悔」の秘守密義務を守り、王によって殺されたヤソ・ネポルムスキー司教(神父?)です。

↑、橋に上から落とされようとしているところです(中央)

↑プラザ城から市街地を見下ろします。
この階段を下りてゆきますと、高級住宅街であり、同時に各国の大使館が点在します。

↑英国首相であったチャーチルの彫刻です。

↑城からの景色です。
↑↓城の下に降りました。 この風景をどのように感じますか。

次に訪問したした都市・ブラチラバスもそしてブタペストにも電車が走っています。車と共存しています。 駐車場がなく車は路上駐車されています(規制・許可制であるとは思いますが・・・)
文句なしの西欧(中欧)の習慣・文化の賛同にはついていけませんが、私たちが(たとえば、名古屋の市電)スッパと切り捨てた公共機関・市電、
そして車社会(それ故に、それなりの豊かさを享受したことは否定できませんが。それ故に失ったものを今反省せざるをえません)
ここ中欧の人々は戦いの歴史(?)、の中から残すものと切りかえるもの、そして捨てる物の選択をジックリしてきたことの表れなのでしょうか。
ヒョッとしたら、財政的に困難なる故にそうせざるを得なかったかもしれません。
とするならば、今日の日本全国、都府県・市町村の財政難は、頭を切り替え・知恵を絞るチャンスではないかと改めて考えます。
今回の旅の同行者と会話する中で、上記のような視点での意見に対しては、会話が成り立つのは10%です。
かなり旅慣れた方々(ご夫妻が多い、あるいは退職後2か月に一度の一人旅の方も)も含めて、私の意見は少しばかり飛んでいるようです。
最後はやはり「創造の前の崩壊と破壊」がないと、理解されない(傲慢な言い方か)と、思わざるを得ない気持ちになります。
狼爺の見解は今少し、封印しておくべきか、あるいはご縁のあった方に伝えるべきか、思案のしどころと思っています。
影響
聖ヴィート大聖堂は、中欧の後期ゴシック様式の発展に大きな影響を及ぼした。パルレーシュの一族と工房のメンバーは、聖ヴィート大聖堂の建設過程で集団として確立され、中欧全体でたいへん多くの教会や建物を設計した
顕著な例としては、ウィーンのシュテファン大聖堂、ストラスブールのノートルダム大聖堂、ザグレブの聖マルコ教会、またチェコ国内でもクトナー・ホラの聖バルバラ教会が挙げられる。スロヴェニア、北クロアチア、オーストリア、チェコ、ポーランド、南ドイツ地域のゴシック・スタイルは、すべてパルレーシュの設計に大きな影響を受けた。
特に興味を引くのは、パルレーシュのネット・ヴォールトである。中欧の後期ゴシックは装飾的で風変わりなヴォールトで特徴付けられるが、これはパルレーシュ自身が聖ヴィート大聖堂のクワイヤで開発したヴォールトが始まりである。
別の地域で広まったゴシック様式も、英国ゴシックで垂直様式といい、ヴォールトの設計にすばらしい工夫と装飾が施される。
残る疑問は、何によって影響を受けたかである。英国の芸術家と歴史建築家の幾人かは、ペトル・パルレーシュが人生のどの時点かで英国を訪れ、
英国の大聖堂のゴシック建築を学んだ後、聖ヴィートの建築に携わったのかもしれないと考えている。しかし、英国で垂直様式の利点が取り入れられ、
たいへん贅沢にヴォールトが使用されるようになったのは14世紀のほぼ終わりごろからのことであり、プラハの聖ヴィート大聖堂の方こそが英国ゴシックの発展に影響したということも、充分に考えられるのである。
3月14日、午前5時です・
記録が1日半遅れています。 もう完全に教会等の関係はどこがどこやら区別が付いていません。 早く、仕上げなければと焦っています。
そこに何度か、話に聞くかれる7橋となりました。傍らのウイスキーを飲んで気合いを入れ替えです。 残り少なくなった、「おかき」と「北海道のコガネするめ」の香りが漂い、シャッキとしました。
プラハの後半を飛び越して、入力していましたので、再び「カレル橋」に戻ります。
なぜ、カレル橋から、スロバキアに来てしまったのでしょうか。
・プラハ最古の石橋 カレル橋
カレル橋(カレルばし、チェコ語:Karl?v most,
英語:Charles Bridge )はチェコ共和国の首都、プラハを流れるヴルタヴァ川(モルダウ)に架かっている橋である。
ヨーロッパに現存する最古の石橋。神聖ローマ皇帝カール4世の治世下1357年に建設が始まり1400年に完成した
1841年までプラハ旧市街とその周囲をつなぐ唯一の橋であった。また、西欧と東欧の交易ルートとしてプラハが重要な地位を占めるようになった。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていたが1870年よりカレル橋と呼ばれるようになった。
橋の長さは516mで幅は10m。16連のアーチから構成されている。また橋を守るために3つの塔が建てられておりとくに旧市街側の塔はゴシック様式の建築として名高い。橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいる。
その多くはバロック様式である。カトリックの聖人ヤン・ネポムツキー像の基部にあるネポムツキーのレリーフに触れると幸運が訪れるといわれ多くの人に触られたためつるつるになっている。

↑カレル橋の西(?)の塔です。

↑↑臍曲がりですね。カレル橋からの眺めの一つです。

↑ 水車が回っていました。

↑ やはり、これがオーソッドクスは撮影です。
橋からプラハ城を眺めます。

↑反対側のドナウの流れを撮影しました。

↑橋の両側には三十数この彫刻があります。

↑橋の上のベスト・ポジションの一つからです。

↑ここでも忘れていけないのが「ヤン・ネポムツキー」です。
弁護士の秘守義務のシンボルとなるヤンさんですが、今の弁護士に対する信頼度は如何なものでしょうか。 止めます・・・・・

↑突き落とされる瞬間、その上の部分を ↑アップしました・。

↑ カレル橋を渡った東には「カレル王」の像

↑今回の旅、2枚目の記念写真・背景はプラハ城(カルル像の前)

↑何とか大学の前を通過。歴史のある町・学問も盛んです。

↑新市庁舎です。それでも150年前です。木の文化との違いを感じます。
わが国も木の文化の向こう側で、素晴らしい市庁舎がこの数十年に建てられましたが、どれほどの風雪にや人々の象徴として生き延びられるのでしょうか。
失業門問題の中、建物の破壊作業の「逆公共投資」によって、働く場所の提供という存在価値を示すのでしょうか。

↑其の市庁舎の前で、チェコ産(ノックダウンか)の車「SKODA]の解説を聞きました。 確かにSKODAのマークの車が」多く駐車していました。

↑多分、これが旧市庁舎でしょう。説明を聞いていませんでした。

↑注目の「からくり時計台」です。

↑アナログの雰囲気に共感を「覚えました。

↑時計の上の窓に20秒間のカラクリ(?)人形が登場します。
日本の各地にあるカラクリ人形と比べると、見劣りは否めません。
たった、20秒間に観光客は体を揺すって待っていました。
写真画面のツブツブは雪が舞っているんです。
・ボヘミアン・グラス店
事前に書き込んでおいて書き込んでおいて思い出しました。
女房さまと息子の嫁に2個目の御土産を購入しました。
それよりも、時間をかけて「木製品」の孫の乗り物と動物の人形の選択に楽しみました。
3月14日 午前7時になりました。 まだ、チェコの整理が終わっていません。 本日ハンガリー・ブラタペスト見学は」午前出発です。
なんとか、出発前にはチェコを終了したいものだと思っています。
まずは朝食に行ってきます。 その後、其のままです。
3月15日・午前4時となりました。帰国の日です。
出発前には、チェコの入力は終えておきたいものです。
・世界遺産クトナーホラ市内観光
クトナー・ホラの聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂(クトナー・ホラのせいバルボラきょうかいのあるれきしちくとセドレツのせいぼマリアだいせいどう)はチェコ、中央ボヘミア州のクトナー・ホラおよびセドレツにあるユネスコ世界遺産。1995年に登録された。(注)⇒^
日本ユネスコ協会連盟による登録名称訳は「クトナー・ホラ:聖バルバラ教会とセドレツの聖母マリア大聖堂のある歴史都市」である。
概要
13世紀に銀鉱が発見されたクトナー・ホラは、中世においてプラハに次ぐボヘミア王国第2の都市として栄えた
鉱山労働者の守護聖人である聖バルボラを記念した聖バルボラ教会は、ドイツ出身の建築家ペトル・パルレーシュの設計による後期ゴシック様式の大聖堂である。イタリア宮(イタリアン・コート)と呼ばれている旧王宮、ヴラシュスキー宮にはかつて王国造幣局がおかれ、クトナー・ホラ産出の銀を銀貨(プラハ・グロシュ)に鋳造していた
これらクトナー・ホラの歴史的建造物が集まる歴史地区から北東1.5km の郊外には、シトー会の修道院に併設されたセドレツの聖母マリア大聖堂がある。
おもな登録建築物
クトナー・ホラ
- 聖バルボラ教会
- イタリア宮(ヴラシュスキー宮)
- 聖ヤクプ教会
- 聖ヤン・ネポムツキー教会
- 聖ウルスラ女子修道院教会
- ペスト柱
- ナームニェーチの聖母マリア教会
- 石の家
- 石の泉


↑・聖バルバラ(英語ではバーバラ)教会(消防士の守護聖母神)
1385年建設が始まった。
1989年、(長野オリンピックの年)プラハの春の時には戦車が入ってきた。

↑聖堂内・当初の計画は現在の2倍であった。 宗教戦争、建設資金不足で今の姿。

↑バルバラはもともとは中近東イスラムの出身者であった。 非常な美人でったために父親はしんぱいして閉じ込めてみ待った。
閉じ込められたバルバラはそこでキリスト教にであった。 父親は改宗をせまるが、バルバラは改修せず。
そこで父親は彼女を殺してしまった。

↑この工夫に姿に魅せられました

↑↓ 教会からバラッキー広場に降りてゆく道は、カレル橋を意識して、彫刻が配置されています。
世界遺産とはいえ、プラハ城やカレル橋の観光客の数は比べ物になりません。 どこが遺産かは、説明を聞いたが記憶にない。
プラ大聖堂に対抗して建設計画された。
10世紀〜12世紀のロマネスク様式。プラハの大聖堂、カレル橋はゴシック様式。15世紀に入りルネッサンス様式
1526年〜400年間はハプスブルグ家による支配時代はバロック様式
プロテスタントからカトリックへ
1618年、プロテスタントとカソリックの衝突により、ヨーロッパ全土は30年戦争にとなる。
イエスズ会が再度カソリック化。宗教戦争に負けてバロック様式となる。

↑この建物の下500メートルには坑道ありました。 クローズされていましたが、観光入場できるとのことです。 坑道博物館。
一時はヨーロッパの銀の生産量の三分の一を算出していたこともあった。
この地区の観光施設は10時〜午後5時と言うのに、4時になりましたら、
一斉にシャッターが下ろされました。
人口2万にの街は今は観光地としての収入。

↑建築家 ペルト・パルレーシュの関係した建物

・パラッキー広場の一角の建物で女子修道院
(小此木さんと言う現地ガイドさんは、日本では日本史の勉強をされており、12年間の当地滞在でチェコの歴史を学ばれたということでした。大変にハッキリとしてシャープな解説をされる方でした)
帰りのバスの中で、「チェコは住みやすいですか」とお尋ねすると、ほとんど即座に・でも言いにくそうに「住みづらい」と答えられました。
「価値観ですか」と、追い打ちをかけると、曖昧に「エ〜、ウ〜ン」で終わりました。
複雑な歴史の国の中にいれば、いろいろな方々が居られことでしょう。
地図的には西欧に近いチェコ・プラハがソ連圏・東欧に属し、東にあるオーストリア・ウイーンが西側陣営に組み込まれたのかとの問いに、長々としかし簡潔にチェコの近現代史を語ってくれました。
聡明な方だと思いました。 このような方が世界で活躍しているのだなと感じました。同時に海外青年協力隊に若者をドンドン送り出すことの価値・意味を認識しました。
これからの日本再生を考えたならば、少なくとも50年計画くらいで、青年を海外に送り出す支援制度を充実することが早道の一つではと思いました。
一丁上がりが、自分の年金のことばかり口にしているのは反省しなければと改めて思いました。
・ プラハに戻る
プラハ宿
平成22年3月 13日 記
やっと、中欧に行くこと(来ること)ができました
中欧4カ国(オーストリア、チェコ、スロバキア、
ハンガリー)の旅
第5日目 ウイーン→チェスキークルムロフ
→ホラショヴィツエ→プラハへ
バスにて4時間半
・プラハからスロバキアの首都ブラチスラバへ
3月14日午前5時半に入力しています。↓
以下の入力は出発前に書きこんだものであり、内容について記憶がありません。 が、駆け足であってもプラチスラバの市内の見学をしておりますので、写真を見れば「そういえば・・・」、と記憶を取り戻せるかもしれません。
活字入力と写真を注意深くセットしますと、良いのですがここはエイヤーと進めます。 活字と写真はよろしく組み合わせてください。
・ブラチスラバ市内観光
ブラチスラヴァ(スロバキア語:
Bratislava)は、スロバキアの首都で国内最大の都市である。旧称はドイツ語 :
プレスブルグ(Pressburg)、マジャル(ハンガリー)語 :
ポジョニ(Pozsony)、スロバキア語 :
プレシュポロク(Pre?porok/Pre?porek)、チェコ語 :
プレシュプルク(Pre?purk)で、チェコスロバキア第一共和国建国後の1919年に現名称に改称した。
ブラチスラヴァ県(Bratislavsky kraj)の南西端に位置し、ドナウ川に面した都市で、スロバキアの政治、文化、経済の中心都市。
コシツェとともに特別市に指定されている。
主権国家の首都としては珍しく市域がハンガリーおよびオーストリアの2か国の国境に接している。
2008年末の人口は42万8791人。市内はブラチスラヴァ1区からブラチスラヴァ5区(Bratislara
I - Bratisrlava V)までの5地区(Okres)17街区に分けられている。
市の歴史は有史以来、スロバキア人のほかケルト人、ローマ人、アヴァール人、ドイツ人、ハンガリー人、ユダヤ人などのさまざまな民族が関与した。
モラヴィア王国、ハンガリー王国、オーストリア=ハンガリー帝国、チェコスロバキアにおいて経済的・政治的な重要都市とされ、ハンガリー王国首都(1536年 - 1783年)、スロバキア第一共和国首都(1939年 - 1945年)、
チェコスロバキア社会主義共和国におけるスロバキア社会主義共和国首都(1969年 - 1990年)、チェコスロバキア連邦共和国におけるスロバキア共和国首都(1990年 - 1992年)となった。
1997年から国際連合開発計画(UNDP)欧州・CIS諸国局本部、2009年から国際連合人口基金(UNFPA)東欧・中央アジア地域事務所本部の各国際機関本部が置かれているほか、
ヴィシェグラード4カ国による国際ヴィシェグラード基金(Medzinarodny
vy?ehradsky fond)本部、万国郵便連合(UPU)欧州委員会が置かれている。
第二次世界大戦まではスロバキア語のほか、ドイツ語、ハンガリー語が一般的に用いられていた。
旧市街を中心にブラチスラヴァ城、スロバキア共和国国民議会、聖マルティン教会周辺に多数の旧跡がある。
またドナウ川にかかる新橋(Novy most、旧称SNP橋)は、斜張橋の先駆けの一つで1972年に完成。2001年に世界タワー連盟に加盟している。
オーストリア、ハンガリー国境に接し、チェコとも近い。市域はドナウ川とモラヴァ川の合流地点に近い小カルパチア山地の麓のドナウ平原に、ドナウ川の両岸に沿って広がっている。
市域面積は367.58平方キロメートルで、スロバキア国内の市・町(mesto)ではヴィソケー・タトリ町(Vysoke Tatry)に次ぐ2番目の広さである。
市北部の小カルパチア山地一帯を自然保護区(Chranene krajinne oblasti)として森林公園として整備しているほか、ドナウ川沿いの河畔林地帯なども公園として保護しており、自然面積は46.8平方キロメートルである。
市域の中心を貫くドナウ川は、西から南東方向に向けて流れており、市域の西にあるモラヴァ川との合流地点「デヴィーン水門」(Devinska brana)を経て市街中心部でドナウ平原に入り、大きく南に蛇行している。
市の東部郊外では、ドナウ川本流から支流の小ドナウ川(Maly Dunaj、延長128キロメートル)が分流し、再びドナウ川に合流するコマールノまでの間に「ジトニー島」(ライ麦島、?itny
ostrov)と呼ばれるヨーロッパ最大の大中州地帯(面積1,886平方キロメートル)を形成している。
国境を挟んでハンガリーのライカ村(Rajka)、オーストリアのドイッチュ・ヤールンドルフ村(Deutsch Jahrndorf)、キッツェー村(Kittsee)、ベルグ村(Berg)、ヴォルフシュタル村(Wolfsthal)、ハインブルグ・アン・デル・ドナウ町(Hainburg
an der Donau)とも接している。
オーストリア・ウィーンとの距離は欧州の首都間距離としては最も近い約60キロメートルで、中央ヨーロッパの中心の「双子都市」となるとして注目されており、両都市を結ぶ高速道路網などの整備が進んでいる。
オーストリア国境に接する市域南西部はかつて鉄条網による「鉄のカーテン」で遮断されていたが、シェンゲン協定に基づく2007年の出入国審査の撤廃以降、ブラチスラヴァ市内に比べ地価が安いオーストリア側近郊町村部のベッドタウン化が進みつつあり[1]、将来的には国境を越えた一体的な市街化が進むと見られている。
ブラチスラヴァ(スロバキア語:
Bratislava)は、スロバキアの首都で国内最大の都市である。旧称はドイツ語 :
プレスブルグ(Pressburg)、マジャル(ハンガリー)語 :
ポジョニ(Pozsony)、スロバキア語 :
プレシュポロク(Pre?porok/Pre?porek)、チェコ語 :
プレシュプルク(Pre?purk)で、チェコスロバキア第一共和国建国後の1919年に現名称に改称した。
概要
ブラチスラ Bratislavsky kraj)の南西端に位置し、 ドナウ川に面した都市で、スロバキアの政治、文化、経済の中心都市。
コシツェとともに特別市に指定されている。主権国家の首都としては珍しく市域が ハンガリーおよび オーストリアの2か国の国境に接している。
2008年末の人口は42万8791人。市内はブラチスラヴァ1区からブラチスラヴァ5区(Bratislara
I - Bratisrlava V)までの5地区(Okres)17街区に分けられている。
市の歴史は有史以来、スロバキア人のほかケルト人、ローマ人、アヴァール人、ドイツ人、ハンガリー人、ユダヤ人などのさまざまな民族が関与した。
モラヴィア王国、ハンガリー王国、オーストリア=ハンガリー帝国、チェコスロバキアにおいて経済的・政治的な重要都市とされ、
ハンガリー王国首都(1536年 - 1783年)、スロバキア第一共和国首都(1939年 - 1945年)、チェコスロバキア社会主義共和国におけるスロバキア社会主義共和国首都(1969年 - 1990年)、チェコスロバキア連邦共和国におけるスロバキア共和国首都(1990年 - 1992年)となった。
1997年から国際連合開発計画(UNDP)欧州・CIS諸国局本部、2009年から国際連合人口基金(UNFPA)東欧・中央アジア地域事務所本部の各国際機関本部が置かれているほか、
ヴィシェグラード4カ国による国際ヴィシェグラード基金(Medzinarodny
vy?ehradsky fond)本部、万国郵便連合(UPU)欧州委員会が置かれている。
第二次世界大戦まではスロバキア語のほか、ドイツ語、ハンガリー語が一般的に用いられていた。
旧市街を中心にブラチスラヴァ城、スロバキア共和国国民議会、聖マルティン教会周辺に多数の旧跡がある。またドナウ川にかかる新橋(Novy
most、旧称SNP橋)は、斜張橋の先駆けの一つで1972年に完成。2001年に世界タワー連盟に加盟している。
地理
中央ヨーロッパの北緯48度9分、東経17度7分に位置する。オーストリア、ハンガリー国境に接し、チェコとも近い。
市域はドナウ川とモラヴァ川の合流地点に近い小カルパチア山地の麓のドナウ平原に、ドナウ川の両岸に沿って広がっている。
市域面積は367.58平方キロメートルで、スロバキア国内の市・町(mesto)ではヴィソケー・タトリ町(Vysoke Tatry)に次ぐ2番目の広さである。
市北部の小カルパチア山地一帯を自然保護区(Chranene krajinne oblasti)として森林公園として整備しているほか、ドナウ川沿いの河畔林地帯なども公園として保護しており、自然面積は46.8平方キロメートルである。
市域の中心を貫くドナウ川は、西から南東方向に向けて流れており、市域の西にあるモラヴァ川との合流地点「デヴィーン水門」(Devinska brana)を経て市街中心部でドナウ平原に入り、大きく南に蛇行している。
市の東部郊外では、ドナウ川本流から支流の小ドナウ川(Maly Dunaj、延長128キロメートル)が分流し、再びドナウ川に合流するコマールノまでの間に「ジトニー島」(ライ麦島、?itny
ostrov)と呼ばれるヨーロッパ最大の大中州地帯(面積1,886平方キロメートル)を形成している。
市域の北西側、4分の1は山地で、標高439メートルのカムジーク山にはカムジークテレビ塔があって街のランドマークにもなっている。
市域の最低地点はブラチスラヴァ5区チュノヴォ街区のドナウ川河畔(標高126メートル)、最高地点は4区デヴィーン街区とドゥーブラフカ街区にまたがるデヴィーンスカ・コビラ山(Devinska
Kobyla)山頂(標高514メートル)である。
北はマラツキ郡(Okres Malacky)のマリアンカ村(Marianka)、ボリンカ村(Borinka)、ストゥパヴァ町(Stupava)およびスヴェティー・ユル町(Svaty
Jur)と、東はセネツ郡(Okres Senec)のモスト・プリ・ブラチスラヴェ村(Most pri Bratislave)、 ホルヴァートスキ・グロブ村(Chorvatsky
Grob)およびイヴァンカ・プリ・ドゥナイ村(Ivanka pri Dunaji)と、南東はセネツ郡ロヴィンカ村(Rovinka)、ドゥナイスカー・ルジナー村(Dunajska
Lu?na)、カリンコヴォ村(Kalinkovo)、ハムリアコヴォ村(Hamuliakovo)およびドゥナイスカー・ストレダ郡(Okres Dunajska
Streda)のシャモリーン町(?amorin)と接している。
また国境を挟んでハンガリーのライカ村(Rajka)、オーストリアのドイッチュ・ヤールンドルフ村(Deutsch Jahrndorf)、キッツェー村(Kittsee)、ベルグ村(Berg)、ヴォルフシュタル村(Wolfsthal)、ハインブルグ・アン・デル・ドナウ町(Hainburg
an der Donau)とも接している。
オーストリア・ウィーンとの距離は欧州の首都間距離としては最も近い約60キロメートルで、中央ヨーロッパの中心の「双子都市」となるとして注目されており、両都市を結ぶ高速道路網などの整備が進んでいる。

↑チェコとスロヴァキアの国境をバスがノンストップで通り過ぎました。
国境がないということは少なくとも観光客にとっては最高です。
何か、大きな国際的な事件でも起こらない限り、国境はいつもこのようにオープンです。
オーストリア国境に接する市域南西部はかつて鉄条網による「鉄のカーテン」で遮断されていたが、シェンゲン協定に基づく2007年の出入国審査の撤廃以降、
ブラチスラヴァ市内に比べ地価が安いオーストリア側近郊町村部のベッドタウン化が進みつつあり[1]、将来的には国境を越えた一体的な市街化が進むと見られている。
歴史
新石器時代にこの地域で人類が定住を始め、紀元前400年にはケルト人が生活していた。紀元前125年ごろ、ケルト人が城塞都市(オッピドゥム)をブラチスラヴァの丘陵地帯に設け、ドナウ川一帯のケルト人の中心地の一つになった。
1世紀にはローマ帝国の影響下に入ってローマ軍の駐屯地となり、防塁(リーメス)やデヴィーン城(Devinsky
hrad)が建設され、ブドウの栽培が始まった。
5世紀から6世紀にかけての民族移動時代にスラブ人が定住し、アヴァール人との衝突を経て、スラブ人によるサモ王国(623年-658年)の一部となる。
8世紀後半にニトラ公国の一部となったが、のち公国を併合したモラヴィア王国の一部となった。
907年にはハンガリー王国の国境城塞として初めて文献に登場し、王国の国境の要として戦略上の重要拠点として成長した。
11世紀にはスラブ人住民によってオーストリアとハンガリーの商業中継地としての地位を確立。
13世紀にはドイツ人が多く入植し、1291年に都市法を獲得して中世都市の形を整えた。ハンガリー王マーチャーシュ1世の時代に文化・経済の中心地として栄え、大学も設置された。
その後オスマン帝国の侵攻でブダが支配されたため、1536年から1784年までハンガリー王国の首都となり、1542年にはハンガリー議会も移転した。
1563年から1830年まではハンガリー国王・女王の戴冠式が聖マルティン大聖堂で行なわれた。ナポレオン戦争中の1805年には、プレスブルクの和約が締結されるが、1809年にはフランス軍が侵攻して占領され、ブラチスラヴァ城は1811年に駐屯フランス軍の失火による大火災が発生して荒廃する。
一方でこのころから開花したスロバキア人文化の中心地として発展し、スラブ語による文学講座などが行われた。
1828年にはのちにスロバキア民族運動の指導的役割を果たす「スロバキア学生協会」が発足。1843年には詩人で言語学者のリュドヴィート・シュトゥール(?udovit ?tur)が中部スロバキア方言をもとにスロバキア語の文語を完成させ、民族の啓蒙にあたる。
また1840年には馬車鉄道が、1848年には鉄道が開業。19世紀末から20世紀にかけて路面電車、トロリーバスの運行も始まり、近代化が進められた。
第一次世界大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国の解体にともない1918年、チェコスロバキア第一共和国が誕生すると、ブラチスラヴァとその周辺都市による「スロバキア国民議会」(Slovenskej narodnej rady)が発足した。
同年12月31日には第1チェコスロバキア軍団とドイツ・ハンガリー勢力の間で争奪戦が起きるが、1919年にチェコスロバキアの一部となり、同年2月都市名をブラチスラヴァに改称した。
1939年にスロバキア人によるナチス・ドイツ傀儡政権が誕生し、ブラチスラヴァはスロバキア第一共和国の首都となったが、1945年にソビエト赤軍の侵攻によって政権は崩壊し、チェコスロバキア第三共和国の一部に復帰した。
1969年にチェコスロバキア社会主義共和国の連邦制移行にともない、連邦を構成するスロバキア社会主義共和国の首都となった。民主化後の 1990年に国名から「社会主義」を除いたスロバキア共和国の首都となり、 1993年1月1日の連邦制解消にともなって主権国家スロバキア共和国の首都となった。
街区
ブラチスラヴァ市はコシツェ市とともに法律に基づく特別市として、通常Mesto(市・町)の上位にある地区(Okres)が市の下位に設けられており、市域に合わせて5区が設置されている。
各区はさらに街区(Mestske ?asti)に分かれており、現在17街区が設置されている。各街区には自治組織として住民の直接選挙によって選出された区長(Starosta)と区議会が置かれている
↑この門から旧市街地に入ってゆきました。

↑旧市街の目抜き通り、ミハルスカー通りの北の端にある門で、ブラチスラヴァの中心地点(ゼロキロメートル地点】かっては旧市街地を取り囲んでいた城門の一つ。

↑そのゼロ地点を示す、マークです。

↑このような建物囲まれた中を散策します

↑ナポレオン軍が使用したという砲、 中世の騎士が並びます。

↑スロヴァキアの作曲家「リスト」の銅板

↑一歩横道に入れば、このような路地も
・フラヴァー広場

↑旧市庁舎

↑新市庁舎

↑やはり私には建物よりも、広場の自然にシャッターが向かいます

↑そして、龍退治の物語の方が聞き耳を立てます

↑そして、この街には遊び心があります「パパロッチ」です

↑マンホーからスカート姿の女性を眺めています

↑ナポレオンと肩組んで。

↑ハビコストサターフ広場、スロバキアオペラ座

↑こんなに素晴らしい広場の中央付近に

」

↑金網の中に閉じ漏れれたアメリカ大使館
撮影のために近ずく、身長2メートルを超す大男が目を光らせて、近付くるではありませんか。ご苦労さまです。

↑マリア・テレジアの戴冠式も行われた00
国境を越えてハンガリーの首都ブタペストへ(3時間半)
・ 
スロヴァキアからハンガリーの国境越えをバスは減速することなく一気に通過しました。
ハンガリーに入ってからも所要時間は少なく、夕食の時間までにはユトリがあるということで、ブタペストが一望できるという小高い山(ハンガリー市内では最高峰か?)から夜景を楽しみました。
翌日のドナウ川「イルミネーション・クルーズ」も感動でしたが、思いがけない突然のキラメキの声をあげました。



↑夕食「Kaltenberg Eltrem]レストランの楽士さん(専属流し?)
チップを弾んだら、目ざとく見つけ素早くポケットへ
ブタペスト宿泊
平成22年3月 14日 記
やっと、中欧に行くこと(来ること)ができました
中欧4カ国(オーストリア、チェコ、ソロバキア、
ハンガリー)の旅
第6日目 ウイーン→チェスキークルムロフ
→ホラショヴィツエ→プラハへ
日本時間3月16日午後4時半です。
先に旅の7日目に、偶然にハンガリーのヒルトンホテルで、中部大学の小島先生にお会いしたことを記録して、今からブタペストの写真の整理をします。
3月17日、午前3時です。
昨夜は写真の整理をしないまま、散歩に出かけ一杯飲んだら、其のままでした。
午前1時に目が覚め、寝付かれず起きだして写真の整理をしようと思いましたが、サッパリダメです。
意欲が失われているというか、撮影した写真がどうも順番になっておらず、どこがどこやらグチャグチャです。
事前に入力していった記録を読み直して、そうだったかなと思いだしているところです。
他の国もそうですが、特にハンガリーについての記述と写真の一致には自信がありません。
・世界遺産ブタペスト市内観光
ブダペスト/ブダペシュト(Budapest)は、ハンガリー共和国の首都で、産業、商業、交通におけるハンガリー第一の中心都市。
日本語では「ブダペスト」と表記されることが多いが、これはドイツ語などの発音に基づいた表記で、マジャル語(ハンガリー語)の発音に即した表記が「ブダペシュト」である。なお本来のアクセントは「ブ」にある。
人口は1980年代半ばの207万人が最高で、それから若干減少し現在は180万人である
ドナウ川の両岸に広がった都市で、右岸(西側)のブダとオーブダ、左岸(東側)のペシュト(ペスト)の3地区からなる。
これらの地区はもともと別々の町であり、1873年に合併されてブダペスト市が形成された。両岸の地区を結ぶ代表的な橋がセーチェニ鎖橋である。北緯47度29分57秒、東経19度2分38秒。
歴史
記録の残されている限りでは、ブダペストの歴史は 89年頃 ローマ帝国が、もともと ケルト族が定住していた現在のオーブダ地区の近くに建設した都市アクインクムに始まり、
アクインクムは 106年から 4世紀の終わりまで、ローマ帝国の パンノニア州の州都であった。
ドナウ川の対岸にあたる現在のペシュト地区は、コントラ・アクインクム(「アクインクムの反対側」という意味)と呼ばれていた。
900年に今日のハンガリーの主要民族であるマジャル人がアールパードに率いられ、パンノニアと都市を占領し、1世紀後にハンガリー王国を形成した。
ハンガリー王国における重要都市となったペシュトは、1241年にモンゴル帝国のバトゥの征西軍の侵入を受ける。
ベーラ4世の下で、すぐに復旧されたが、1361年にハンガリーの首都となったのはオーブダの少し南に位置し、1247年以来王宮所在地であったブダであった。
16世紀に入ると、オスマン帝国がハンガリーのほとんどを征服すると、首都の座を失ったブダペストの発展は一時停滞した。
ペシュトはモハーチの戦いによってハンガリー王国がほぼ壊滅した
1526年にオスマン帝国によって侵略された。1541年にはブダが占領され、ハンガリー中央部を支配するオスマン帝国属領としてブダ州が設置されて、ブダがオスマン帝国の総督の駐留地となった。
一方のペシュト地区はこの時期ほとんど見捨てられていた。
1526年以降、名目だけにはなっていたが、オーストリア大公のハプスブルク家がハンガリー王を兼ねていた。
ハプスブルク家は1686年に王国領を奪回した。
1723年、王国の行政組織が置かれたペシュトは、18世紀から19世紀に急速な成長を遂げ、ブダペスト全体の発展の大部分に貢献するようになった。
ブダとオーブダの合計より多かったペシュト地区の人口は、この世紀の間に20倍の600,000人に増え、ブダとオーブダの5倍になった。
3つの地区を単一の行政に統合する試みは、1849年のハンガリー革命政府によって最初に一時的に行われたが、これを鎮圧したハプスブルク帝国によって撤回され、
1867年のアウスグライヒによって成立したオーストリア・ハンガリー帝国下でオーストリアから自治を獲得したハンガリー王国政府によって最終的に実現された。合併して成立したブダペスト市の総人口は、1840年から1900年に7倍となる73万人に増加した。
20世紀の人口の増加は、主に郊外で起きた。
工業化による都市の発展により、ウーイペシュト(Ujpest, 新ペシュト)は、
1890年から1910年の間に人口が2倍以上になり、キシュペシュトは、1900年から1920年の間に5倍以上になった。
第一次世界大戦の敗戦による多くの国民と国土の喪失は首都にも一時的な打撃を与えたが、オーストリアとの分離により主権国家となったハンガリーの首都になった。1930年までには、都市の人口が100万を超え、さらに郊外には40万人が住んでいた。
第二次世界大戦中の1944年のドイツ軍による占領以来、ブダペストで3番目に多いユダヤ人のうち200,000人が、ナチス・ドイツの虐殺によって死亡した。
それに続くソ連軍の占領によって、さらに人口は減少し、1950年代から1960年代になるまで回復しなかった。
共産主義政権(1947年 - 1989年)によって、1960年代から実用的な目的のためにいくらか都市が拡張された。1980年代からは、ハンガリー全体と同様に、移住による人口増加と人口の自然減少の釣り合いが取れている状況である。
世界遺産
1987年、「ブダペスト、ドナウ河岸とブダ城」の名の下で、世界遺産(世界文化遺産)に登録された。2002年にアンドラーシ通りとその地下(ブダペスト地下鉄)が登録対象に加えられ、2003年には登録名称が「ドナウ河岸、ブダ城地区、アンドラーシ通りを含むブダペスト」に変更された。
主な登録物件
↑これは漁夫の砦です
。
↑これが漁夫の砦のものかどうか判断できず。重症です。
・クサリ橋
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- ・オプション センテンドレとエステムゴム半日観光
エルテムゴム
- 初代国王イシュトヴァーンT世が王宮と大聖堂を築いたハンガリーの古都。
ブタペストの北側、ドナウ川と支流キシュドナウの合流点にある町。
大きなドームが印象的なハンガリー・カトリックの総本山。
内部は荘厳な雰囲気が満ちており、祭壇を飾る聖母被昇天の画は必見。

↑1万人が収容可能という

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- ↑1600年代の大理石祭壇 ↑パイプオルガン
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↑ ドナウ川や対岸のスロヴァキアを望める。
センテンドレ
通商の要地として古くから栄えてきたドナウ川沿いの町。
中央広場を中心に中世の街並みが広がり、セルビア風の教会、小さなギャラリーも点在する。

↑ガイドさんは宗教の町とも表現されました。数枚、異なる教会の写真を撮っていますが、もう関心はどこかに行ってしまっています。

↑コバーチ・マーキットという女性陶芸家のレプリカです。
写真撮影は禁止でした。「聖書の物語」と「農民の生活」がテーマでした。
心安らぎ、温かみのある作品ばかりでした。

↑古都の街並みよりは、その外側の風景に目が奪われました。
ここから数枚、街中で見かけた写真を

- ↑東ドイツで製造されていた「トラバント」車です。
- 何度も講義の中で登場しました。 かって、評判の悪い名前の代名詞のように言われていましたが、そんな風には受けてれませんでした。

↑ブタペストの市内にはローマ時代の遺跡もあります。その一つ水道橋

↑遊園地の入り口ではありません。スーパーマーケットだそうです。
中に入ったわけではなく、車窓からの撮影です。中に入ってみたいものです。
・夕食後
・ドナウ川イルミネーションクルーズ




やっと、中欧に行くこと(来ること)ができました
中欧4カ国(オーストリア、チェコ、ソロバキア、
ハンガリー)の旅
第7・8日目 ウイーン→チェスキークルムロフ
→ホラショヴィツエ→プラハへ
essayd20.htm へのリンク
3月16日 午後3時半です。(帰宅してから約4時間が過ぎました)
この日の出来事。
なんと、この日記の冒頭で冒頭で紹介と言うか、書きました、私に中・東欧のことに関心を向けさせていただいた小島教授にハンガリーのヒルトンホテルで偶然お会いしました。
先生曰く「どこかで聞いたことのある声がする。 振り向いてみると良く似た顔の人がいる。 やはり加藤さんでした」が第一声でした。
先生は今月の初めからハンガリーに来ておられ、友人の家に宿泊しているのですが、その友人の家の御風呂の改修ということで、その間ホテルで過ごしているということです。
声の大きいもの時には良いことがあるものです。 当日は観光客も少なく食堂は閑散としていました
前日までは日本からの観光客を中心として満員ということ、すれ違っていたかもしれませんがお会いすることはできなかった。
先生は窓際の予約席に座られていました。 「ここからの眺めを楽しみながら、20年前の思い出に浸っているのですよ」と言われ、ドナウ川が流れる窓の下の建物を指差し、かって講義でも語られた「ハンガリー動乱」の時、ここでも学生が放棄したところですよと指差し示してくれました。
突然先生に「来年は、ハンガリーの現地で特別講義をしていただけませんか」と提案しますと「それは面白いですね。そしたら色々なところを案内できますよ。普通の人では行けないようなところにも・・」と言われました。
3月15日はハンガリーの独立戦争記念日、この戦争は1848年ハプスブルグ帝国からの独立戦争。 この日は特にハンガリー人が愛国心が強くなる日と言うことです。
先生も何か今年起こるのではないかと、期待とは言いませんが、どこか先生自体が少し興奮しているのではないかと感じました。
出発の時間が近づき、御話はそこまででした。
今回の旅の同行者の中に、愛知県田原市出身で愛知大学の教授が居られ、中部大学の教授とも交流があり、小島先生ことも名前は聞いておりますと言われて居られましたが、両先生をご紹介することもできました。
ご縁はどこで、どのように起こり・繋がり、そして新しい関係が生まれてゆくものです。
そのようなことも旅の味わいの面白さの一つです。
ブタペスト空港よりフィンランド航空にて、ヘルシンキへ
〜乗り継ぎ、所要時間9時間40分で、中部国際空港到着
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