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エッセイD−21 旅日記
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お知らせ

今回計画しています中欧は事前の準備で活字解説が多くなりましたので、画面を二部構成にしてあります。

具体的にはエッセイDー21とエッセイD−20です。

構成上エッセイD−21が先頭にきています。



                         平成22年3月 9日 記

  やっと、中欧に行くこと(来ること)ができました

 中欧4カ国(オーストリア、チェコ、ソロバキア、
            ハンガリー)の旅 

   第1日目 中部空港→ウイーンへ


  3月9日 午前10時25分  
 セントレア 中部国際空港  「さくら」ラウンジにて


 
外は小雨が降っています。 昨日までの春到来の気温から冬に逆戻りの気温となりました。 3歩進んで2歩戻りながらの春の訪れです。

 初めて、ラウンジでパソコン入力をしています。 黒ビール等をいただきながら・・・

 本日の中日新聞の朝刊にヨーロッパへ最速の蒼い翼「フィンエアー」の全面広告が出ておりまっした。

 私の搭乗する「AY080便」はセントレア開港5周年とこのファインエアーの協同での「ビジネス・クラスで行く中欧8日間の旅」の特別企画です。

 ゲート前で出発前に待っているのも心うきうきするものですが、このようにラウンジで待っているのは、どこかリッチになったような気分してくれます。

 このような旅の味を知ってしまうと、今後癖になってしまうのではないかと気がかりです。

 中部大学で5年間、中欧を中心としてヨーロッパの歴史と宗教、社会思想史を学んできた修学旅行のようなものです。

 ラウンジに「無線LANサービスエリア」と表示され、「NTTネオメイトグループ」と書かれ、{MZONE][フレッツ・スポット」「HOTSPOT」「モバイルポイント」「アクセス・メイト」と小さなPOPがありますが、私には何のことかわまかりません。

 今から、000を引っ張り出して、接続してみます。

 一つ、二つは狙ったことが通じましたが、全く思う良いにならない事柄もあり、それはそれで楽しいです。

 この間、息子に電話して誘導してもらいましたが、ダメな事柄もあり、11時15分のボーディング・タイムとなりました。

        さて、10時間の20分の空の旅です。


 3月9日午後6時 。ロシアあるいは北極上空であろう、機内で入力

 
豊かな機内日本食をいただき3時間ほど眠った。 締め切られた窓の隙間から強烈な明かりが差し込んでいる。 

 ヘルシンキ到着は3月10日、午後5時半とアナウンスされていたから、多分現地時間(ロシア)では、真昼の時間帯であろう。

 日本からロシアあるいは北極上空を飛んでヨーロッパに行けるようになったのは、何年前であったのだろうか。

 昭和40年代後半までは、アンカレッジを経由してユーラシア大陸の西の果てに飛んで行ったものだった。

 世界が狭くなったというか、冷戦構造時代は敵国の上空を飛び越してゆくなどとは考えられなかった。

 
危ういバランス構造の世界の中を旅しているということになる。

 事実、1991年まで(ソ連崩壊)は、今回の旅の中欧などは、一般旅行者には考えられなかったコースです。

 そんなことを考えていると、今回の旅の価値がますます上がってゆくように感じます。

 斜め前の席には2歳くらいの御子さんを抱えた若い奥さんが子供をあやしています。 多分、ご主人がヨーロッパのどこかの国で働いていることでしょう。

 グローバルかする世界、良いこともあれば、新たな課題も提起している。

 そんな中で、揺れ動いている日本の状況は、7月の参議院選挙を前に、与党民主党も、筆頭野党の自民党も目先の混乱に揺れている。

 さて、もう一杯ブランディーでもいただいて、二度目の御休みに入ろう。



   中部空港→ヘルシンキで乗り継ぎ→ウイーンへ

             

             ↑↓ ヘルシンキ着陸20分前
        

 ・サンタクロースの国はどこでしたかね。 ノルウエー、それともフィンランドでしょうか。 

 空港に近付くと、白の世界に点々と家屋が見えます。 煙突は確認できませんが、トナカイの乗ったサンタクローズが現れてきそうな景色です。

 
・ (所要時間10時間20分、  ホテル到着予定20時)←事前書き込み

 3月9日(現地時間)午後8時半です。(ヘルシンキより1時間戻しました。
 日本時間は3月10日午前4時半です。 眠いです。これから湯船です。


 今晩は気分良く眠れそうです。持参した日本酒、焼酎、ウイスキーもばっちりです。 

           まずは、順調な滑り出しです。

                               ウイーン宿泊

 現地時間3月10日午前2時(日本時間は3月10日午前10時です。
          
          時差の関係で起床しました。

 お腹がすいています(添乗員さんの事前の予告通りに、持参の御菓子を食べています。

    それにしても、私の肝臓君には感謝しなければなりません。

 と言いますのも、合計12時間のフライト中に、赤ワインは700Ml、白ワイン200Ml、ブランディー300Ml、ブラディーマリーをいっぱいいただき、
 ホテルでは持参の焼酎を150Mlいただきましたが、もう既に消化を終えたようで、オカキをいたただきながらウイスキーの水割りです。

 今から、中欧の建築様式のこと、「ゴシック」だの「バロック」だの項目を再再度読み直すことにしますが、その都度スッカリ忘れてしまいます。

 世界遺産である歴史ある建造物や聖堂を見学に行くのですが、ヤッパリどうなることだろうかと、この方面の知識、関心の薄さに我ながら呆れています。


     1時間半ほど、うたた寝をした後に再び

 当地のガイドさんも言っておられました。「天気予報は当たらない。半分ぐらい」と。 どうしてでしょうか。地形が特に変化しているとも思われませんし、内陸部ですから海洋の影響も少ないと思うのですが・・・

 かえって、それゆえに進歩しないのでしょうか。 進歩と言えば、ヨーロッパは10世紀ごろに現在の国の配置が決まりました。

 とはいうものの、その後の歴史はご存じのように戦乱の繰り返しでした。
 国境線も何度か変更になっています、取ったり取られたりの繰り返しでした。
 ヨーロッパの大森林地帯にパラパラと住んでいた先住民のところへ、アルプスを超えてローマが乗りこんできました。 そして、東の地からフン族が侵入し、ゲルマン民族の大移動が始まる。
 そこで終わらず、それに続いてさらにマジュール人等の遊牧民族が次々と侵入してきました。

 民族と原始宗教、その後にローマとともに布教されたカソリック、ローマ教皇の堕落による宗教改革、更に東からイスラム教もバルカン半島、そして地中海を席巻してゆきました。

 思いつくままに、記憶にあることを書きとめましたが、これでは争いが起こらないのが不思議です。

 其の壮絶で愚かな戦いの歴史から、今日「EU」が生まれてきたのですが、そのEUも現在の世界恐慌の波に洗われています。

 大きな歴史の転換期に、さまざまな歴史をくぐってきた中欧を訪問できました。 今日からが楽しみです

 天気予報の話から横にそれてしまいました。
 窓を開けますと零下5度と予測されていた冷気が流れ込んできました。

 暗闇で判別できませんが、葉を落とした針葉樹の間から、ポツポツと明かりが灯っています。

        午前6時になりました。(後から挿入です)

           

           ↑ポツポツと表現しました光景です。

           

     ↑ 東の空が色づき始めました。モーニングコールがなりました。
 
 ウイーンの繁華街からは30分ほど離れたところのです。「アイロ・タワー・ホテル=AIRO/TOWER/HOTEL」は2つか3つ星のクラスのホテルです。

 春休みに入ったのか、卒業記念旅行なのか日本の若いお嬢さんたちでイッパイです。 持参したカップ・ヌードルにバー・カウンターで熱湯を入れてもらいエレベーターににぎやかに入り込んできました。

 室内の空調は快適で。 空気が吹き出てくる装置ではなく、壁に取り付けられたヒーター暖房です。

   

       ↑洗面所          と     ↑メインルーム

 現地時間午前5時になりました、モーニングコールまであと1時間です。
 私も空腹を覚えています。 持参のオカキがドンドン減ってゆきました。


 

     
         以下の記述は2月18日に書いています。

 「やっと、中欧に行くこと(来ること)ができました」とのサブタイトルが付きましたのは、中部大学で10期・5年間聴講生として学んび、それなりの知識を持ってから訪問しようと考えていたからです。

 その間、一番刺激を受けた教授は冷戦終結前の10年間、ハンガリーを中心に東欧(中欧)で暮しておられた教授です。

 ハンガリーで博士号を取得されて居られます。 それゆえに、宗教(ユダヤ教とキリスト教)とマルクス主義に詳しいです。

 ヨーロッパを知るためには宗教が分からないと理解できないと常々口にされて居られついつい5年間の時間を要しました。

 東欧時代を肌で知っている、日本では数少ない学者です。

 また、学者としては日本史の研究から入られており、ニューヨークへの留学体験もあり、其の上映画にも造詣が深く、温泉のことの著書もあり、まだそのほかにもさまざまなポケットがあるという実に勉強家で多方面にわたる博学の持ち主です。

 そのような関係もあって、ある程度の予備知識を持ってからヨーロッパには出掛けたいものと我慢しておりました。

 今回も、今少し後にしようかと思っていましたが、大学に行ってると2月、3月と、8月しか休みがとれません。
 
 そこで今回、中欧は一度だけの訪問では済まされないだろうと考え、一番ポピュラーなコースを選ぶこととしました。

 ヨーロッパはスペイン、ポルトガル、フランス、イタリア、ドイツ、イギリス、デンマークは30数年前に訪問して以来行っておりませんのでこれからの楽しみの国です。
 
 オランダは何度も仕事で行かせていただきましたが、ほとんど記憶にはありません。

 記憶に残っているのは提携先の会社の上層部との慣れない晩さん会で牡蠣にあたり、英語で診療を受けたことと、砂地のゴルフ上でダブリばかりをしていたことぐらいです。

 北欧も行きたいし、ヨーロッパに蹂躙されたアフリカも南米も訪問したい国です。

 さらに、このところの中国とその周辺国、および中央アジアも行かなければと思っていますが、年年体力が低下してゆきます。

 いつまで、続けられることやらと思っていますが、行きたいところがある間は元気でいられることだろうと考えています。(資金の枯渇で断念と言う可能性が大です)

 ・これまで同様に出発する前に、訪問地の簡単な紹介を入力してゆきます。
 そして、現地で其の時感じたこと、考え方ことを活字入力しようと思っています。多分、写真は整理して掲載できるのは帰国後になることでしょう。

 今、入力している日時は2月18日です。 ニュージーランドの旅から帰って1週間です。 昨日ニュージーランドの旅日記をし終えましたので、こちらに移りました。

      頭の中がぐちゃぐちゃにならなければよいのですが・・・

 

   追記 平成22年2月20日

第1回目の資料の入力を終えましたが、こんなに多くの活字を入力したのは初めてです。

 歴史があるというか、兎に角、複雑な歴史、戦争の歴史(宗教民族が入り混じり、国境線は何度も変更になっております。

 古代史を除いても、中世以降近代の歴史に登場するのは、ロシア帝国、オスマントルコ帝国、ハプスブルグ帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)、それにフランス、ドイツ、その上に、モンゴルまで登場してきます。そこにイスラムが絡むのですから・・・

 ギリシャ〜ローマから影響され・受け継いだ芸術・文化が花咲いているのですから、最低限の知識を持っていなくては、世界遺産の観光をしてもサッパリ理解できず、様々な建築物を見てきたというだけになりそうです。

 そんなことも手伝って、一度目の訪問は何を勉強してゆかなければならなかったを教えてもらうこととなることが予測できます。

 
 
まず、訪問国の人口と密度から

 
     
   人口      人口密度 
 
チェコ   156万     130人/Km  15700ドルGDP一人当たり
     (チェコ人、54%、スロバキア人31% モラビア人8・7%
                 ハンガリー人3・8% ロマ人0・7%)

 スロバキア 540万  111人/Km 13300GDP一人当たり

 ハンガリー 1000万 108/Km  13900ドル 一人当たりGDP

 オーストリア 830万  98/Km 28000GDP 一人当たり

 ポーランド 3900万   124/Km  11000ドル 一人当たり

       
    
ここで今回旅します中欧の世界遺産は建造物が多数です。 

  昨年、春期の講義において、チェコ、ハンガリー、オーストリアの建造物や文化についての解説がなされた講義がありましたので、掲載し参考にしたいと思います。

  平成21年7月8日 講義

  ・プラハ、ウィーン、ブタペストの建築物の類似性、相違性の背景が語られた。

・中欧は国によって建築物などは異なるが、戦争で廃墟になっているから、土地の継続性は無い。

・それはユダヤ人のみでなく、現地人も同じことである。 人間の継続性はある。

・ボヘミア(チェコ)の建物を見ているとその様式はバイエルン、ミュンヘン(ドイツ)と同じである。

・ブタペストとウィーンを対比すると、人口はプタペストのほうが多いが、都市の規模はウィーンのほうが大きい。

・ミクロに見ると同じに見える。形、色=黄色〜中欧の特徴で、スエーデンの黄色とは異なる。

・中欧の100年の歴史は同じであるというのは嘘である。

・建築物、鉄道などの建築物はほとんどユダヤ人が作っている

→ブラチスラバ、プラハ、ウィーンの大学は全て技術的には同じことを学んだ。

・近代の遺産といわれるものは、洋服のオートクチュールと同様にユダヤ人の遺産であり、共通性がある。

・世紀末から1920年代、革新的なアールヌーボーが起こり、遠近法を崩したものが現われた。

・それはウィーンが中心であった。

・ハンガリーの芸術家はドイツ語を学び、ウィーン大学に進む、そこでア―ルヌーボーを学んだ。→そのことによって、建築物はウィーンよりブタペストの方が一歩進んでいる。

190205年、中世の城壁の真似をして「夜の砦(?)」を作る。歴史的な事実はなし。20世紀のでっち上げ。

・ウォルト・デイズニーは子供の頃、ブタペストを訪れて、その光景を見、後にデイズニーランドを作る。

・仮面を取れば、ブタ城の半分は図書館である。

       鎖橋は・・・

・ブタペストの美しい風景は20世紀にデッチ上げられたものである。

・ローマ帝国時代のものはボツボツある程度。

・ハプスブルグ帝国のものは、幾つかブタ城に残っている。以上が20世紀以前。

・その他は農村部に行くと、大邸宅のところにはボツボツある。

・ブタペスト市内には田舎町でところどころに散見される。以上が19世紀末まで。

・ポーランドにいたユダヤ人がロシアに追われ、ペスト(ドナウ川の東)に90%が移り住んだが、半数は殺され、他はアメリカに逃げた。 ペストに残っているには2万人のみである。→ウィーンのコピーとなった。

・ラッキーなことに資金が無かった。そこで、低い賃金で若い建築家をブタペストに呼び寄せて、街の設計から建築までを任せた。

・ウィーンの若きアールヌーボーの人材がハンガリーで先進的な建築物を作り、それが残った。→このことがウィーンよりハンガリーに良い建築物が残こっている理由。

1848年以降、トランシルバニア風の建物を作った。

・ウィーンはパリに見られない独創性がある。全てユダヤ人が作った。       
・ボヘミアはミュンヘン、バイエル風の建築物を持ち込んだ。

・ハンガリー・ブタペスト〜ペストは100%ユダヤ人。厚化粧の人造都市。

 ハンガリー的なものはあとから作られたものである。

・中欧はユダヤ人が橋渡しをしている〜建築、美術、法律(フランスの法律を学んだ)

・あらゆる近代はユダヤ人によって作られた、よって中欧には共通項が多いというのは通説である。

・今、ポストユダヤ人世代は民族国際化

・ハベル大統領曰く「中欧の1000年の歴史はロシアが壊した。」→1980年半場よりの運動である。

・ロシアを脱し、中欧を作ったという一貫性は嘘であり、ユダヤ人が作った。

・歴史学者(小島教授)としては批判的に見ずにはいられない。

       続いて、以下の単語の意味を書き記します。
          (内容は全てウイスベギアからのものです)

 「ゴシック様式」

 ゴシック様式(-ようしき Gothic Style)とは、中世ヨーロッパ美術で用いられていた様式である。

 ゴシック (Gothic) とは「ゴート人の」を意味する言葉で、ルネサンス期のイタリア人が、それ以前の美術に対して、洗練されていない、野暮ったいものとして蔑称で用いていた(実際にゴート人が用いていた美術様式、という訳ではない)。

 やがて12世紀半ばから15世紀末にかけて建設された教会の建築様式を示すようになり、さらにはその当時の絵画書体(ゴシック体)なども示す概念に変わっていった

 「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する。(ゴート族の建築様式というわけではない)

 ルネサンス以降、ゴシック建築は顧みられなくなっていたが(この時期をゴシック・サヴァイヴァルと呼ぶ)、その伝統は生き続け、18世紀になると、主として構造力学的観点から、合理的な構造であるとする再評価が始まった。
 18世紀から19世紀のゴシック・リヴァイヴァルの際には、ゲーテフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンフリードリヒ・シュレーゲルらによって、内部空間はヨーロッパの黒い森のイメージに例えられて賞賛され、ドイツ、フランス、イギリスでそれぞれが自らの民族的様式とする主張が挙がるなどした。

 特徴

 一般にゴシック芸術と呼ばれているものに一貫して用いられる形態的、図像学的な特徴はなく、実際にはゴシックとは、芸術史家たちによって慣習的に使用される概念である。
 今日においても、ゴシック建築の定義づけが行われているが、その議論は多角的かつ複雑である。

 客観的な、最も馴染み深い特徴は内部的な高さと細さの誇張であり、簡単に述べると、必要以上に細い柱、石造天井、およびそれらを為し得る構造的特徴の組み合わせとなる。 
 
 具体的に述べれば交差リブヴォールトとヴォールトの横への応力を支持するための側壁または控壁(バットレス)だが、これらはそれぞれ東方に起原を持っている。
 尖頭アーチはササン朝ペルシャ帝国において既に用いられているし、控壁はビザンティン建築においても見られる主要構造である。
 
 実際、ゴシック建築に特有とされる特徴は、ほとんどの場合、ゴシック建築において独自に発明されたものではない。ゴシック建築において重要なのは、これら技術的特徴ではなく、それぞれを組み合わせた独自の美的感覚や空間性にあると言えよう。

 ゴシック建築の装飾

 
 ゴシック建築の達成は、中世スコラ哲学の理念、つまり神を中心とした秩序を反映したことにあると言える。
 
 中世の人々にとっては事物の全てに象徴的な意味があり、故に、ゴシック教会を彩る様々な装飾は、聖職者たちの世界に対する理解そのものであった。
 彼らは、美を神の創造と同義であると考え、教会を装飾することを神への奉仕と捉えていた。従って、扉口のマリア像や聖ペテロ像、聖ニコラウス像、ステンドグラスに画かれたキリストの生涯といったものは、決して現代人の意味するところの「装飾」などではなく、石に刻まれた中世精神の表象なのである。



 「ネオ・ゴシック様式」

 ゴシック・リヴァイヴァル建築
(Gothic Revival Architecture)とは18世紀後半から19世紀にかけて興ったゴシック建築の復興運動である。ネオ・ゴシック建築(Neo Gothic Architecture)とも呼ばれる。
 イギリス
を発祥とし、18世紀後半にはフランスドイツに、その後イタリアロシアアメリカに広がった。

 ゲーテシュレーゲルなど、中世をキリスト教の理想世界とするロマン主義芸術家の間でゴシック芸術が崇拝され、
 これが美術や建築に組み込まれて様々な作品を生み出したが、しばしばグリーク・リヴァイヴァルに代表される古典主義建築とはげしく対立した。

 通常、ゴシック建築の伝統を無批判に墨守し、ロココ庭園において奇怪な建築を生み出した17世紀から18世紀頃のゴシック・サヴァイヴァル建築とは一線を画す



 「バロック様式」

 
バロック(: : baroque, : Barock)とは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアローママントヴァヴェネツィアフィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。

 バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。
 
 カトリック教会
対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻絵画文学建築音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義へと移行した。

 バロックという概念の誕生と発展

 バロックという語は、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語barrocoから来ている。(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた[1]。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる。)

 現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。

  当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。 彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。

 「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった[2]

 また、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のBarocoからきたともされる。

 1694年(バロック期の最中)には、この語はアカデミー・フランセーズの辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」[3]と定義されていた。
 
 1762年、バロック期の終結した頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」[4]という定義が加わった。19世紀には、アカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とした。
 
 1855年になって初めて、スイスの美術史家ヤーコプ・ブルクハルトが『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き』[5]においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。
 この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。
 
 フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(「ルイ14世様式」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたのである。

 さらに1世代後の1878年になってようやく「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いも薄まった[6]皇后ウジェニーは 気取ったものやルイ15世様式を再び流行させ、今日ネオバロック(バロックリバイバル)と呼ばれる様式が生まれた[7]
 
 バロックの復権が始まり、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)はその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。

 ヴェルフリンはバロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した[8]。ヴェルフリンは今日の著述家たちのようにはマニエリスムとバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花したロココという相も無視していた。フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。

  始まり

 バロックの萌芽となる着想はミケランジェロの仕事に見出される。バロック様式は1580年頃に始まった。

(大抵はプロテスタントの)美術史家は伝統的に、バロック様式が新しい科学と新しい信仰の形――宗教改革――を生んださまざまな文化的運動にカトリック教会が抵抗していた時代に発展したという事実を強調している。建造物におけるバロックは教皇が、絶対王政がそうしたように、その威信を回復できるような表現手段を命じることでカトリックの対抗宗教改革の端緒の象徴となるほどまでに道具として使った様式であったと言われている[誰?]。いずれにせよ、ローマでは成功を収め、バロック建築は街の中心部を大きく塗り替えた。この時代の都市の更新としては最も重要なものであったろう。

 

 バロック建築(Baroque Architecture)は、1590年頃から盛んになった建築様式。建築そのものだけではなく、彫刻や絵画を含めた様々な芸術活動によって空間を構成し、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。特に内部空間の複雑な構成は、他の建築様式とは際立った特色となっている。

バロックの語源はポルトガル語のBarocco(歪んだ真珠)といわれ、元々は一部に見られるグロテスクなまでに装飾過剰で大仰な建築に対する蔑称であったが、のちに広く17・18世紀の美術・建築に見られる傾向を指す様式概念として用いられるようになった。

19世紀の様式氾濫期になるとバロック様式が国家建築にふさわしい様式として復興した。

 中央ヨーロッパの後期バロック建築

 18世紀初頭になると、神聖ローマ帝国、特にオーストリアでは後期バロック建築が最盛期を迎え、後期バロック・ロココ建築が下火になったフランスに代わって、これを牽引するはたらきを担った。

 1683年オスマン帝国を退けたハプスブルク家はフランスのルイ14世様式に匹敵しうる国家建築の構築を目指しており、その中心にあって指導的な役割をはたしたのがヨハン・フィッシャー・フォン・エルラッハであった。
 
 彼は様々な歴史的・世界的建築物とローマ建築特有の記念性を総合して国家様式を具現しようと試みた。彼の主要な空間構成は楕円である。
 彼の傑作のひとつであるウィーンのカールスキルヘや王立図書館は、中心にこの楕円形平面を置き、これに様々な歴史建築物を引用することによって独創的な建築を創造した。ことに王立図書館はゴットフリート・ライプニッツも関心を寄せている。

 このように、彼の建築的アプローチはフランスのそれとは全く異なり、むしろベルニーニやボッロミーニの手法を想起させる。

 これは「オーストリアのヴェルサイユ」と呼ばれるシェーンブルン宮殿の景観において明確である。ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントシュヴァルツェンベルク宮殿シュタルヘムベルク・シェーンブルク宮殿の意匠も、同様にローマの初期バロック建築の影響が強い。

 しかし、彼はベルヴェデーレ宮殿において、イタリア的でもフランス的でもない様々な工夫を凝らしており、オーストリアの後期バロック建築の到達点であると言える。彼らの意匠(特に都市型宮殿の構成)はボヘミアに広がり、プラハはその最も活動的な拠点となった。

 オーストリア以外の地域では、フランスやイタリアの影響も受け、また、分割された政治機構のためにより複雑な様相を呈している。
 「バーバリアン・バロック」とも呼ばれるドイツ語圏のバロックは、しばしば装飾過多であることで知られている。
 内部空間は柱の垂直線以外は全て曲線・曲面で構成されていることが多いが、これはオーストリア西部でウォール・ピラー方式と呼ばれる構造方法が採用されたことによる。
 
 ゴシック建築に見られるように、構造体としての控壁は建物の外側に配置されるのが一般的だが、ウォール・ピラー方式は建物内部に控え壁を突出させることによって複雑な内部空間を形成した。
 この意匠とグァリーノ・グァリーニの意匠を融合したのがバルタザール・ノイマンドミニク・ツィンマーマンである。彼らの複雑な空間の中に装飾が取り入れられ、中央ヨーロッパのバロック建築は劇的な空間を作り上げていくことになった。

 「ルネッサンス様式」

 ルネサンス建築Renaissance Architecture)は、一義的にイタリアフィレンツェ1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式を指す。
 古典古代を理想とするルネサンスの建築における表現といえる。
 人体
比例音楽調和宇宙基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。
 
 ルネサンス建築にはじまる古典主義建築の系譜は、後のバロック建築新古典主義建築を通じて継承され、西欧建築の主流であったが、19世紀歴史主義において相対化し、やがて解体した。

 ルネサンス建築は、本質的な意味では15-16世紀のイタリアの一部の都市にのみ成立したといえるが、フランスイギリスドイツなど、西欧諸国の建築活動にも影響を与えた。 
 当初これらの国々では、主にルネサンス建築の表層的な意匠が導入されたため、各国独自の嗜好が表れており、それぞれ特徴を持った建築になっている

 東欧諸国のルネサンス建築

 ハンガリー王国モスクワ大公国ポーランド王国オーストリア公国などの東欧諸国は、西ヨーロッパの国々に比べるとルネサンス建築の導入はずっと早く、特に1458年から1490年にわたるマーチャーシュ1世治下のハンガリー王国では、豊かなルネサンス芸術が花開いた。

 マーチャーシュはブダの王宮にイリアから石工や彫刻家を招き、多くの仕事をさせたことが、ブダ城やヴィースグラード城の発掘により証明されている。

 マーチャーシュの後を継いだボヘミアウラースロー2世もまた、ルネサンス建築を取り入れ、1506年エステルゴム大聖堂のバコーツ礼拝堂を起工する。この建築は、平面も装飾においてもルネサンス建築として成立しているものであった。

 彼はプラハの宮廷にもルネサンス建築を取り入れ、プラハ城のウラディスラフ・ホールや、クラクフヴァヴェル城の増築部分に古典的なモティーフをちりばめた。

 ヴァヴェル大聖堂のジギスムンドの霊廟は、フィレンツェ出身の建築家が起用され、ルネサンス建築として建設されている。

 しかし、マーチャーシュ、ウラースロー2世の死後、ハンガリー王国は急速に衰え、1526年モハーチの戦いで決定的敗北を喫すると、その領土の大部分をオスマン帝国に奪われてしまった。この結果、ハンガリー王国でのルネサンス建築の活動も衰退する。

 マーチャーシュに召還された技術者たちのひとりロドルフォ・ディ・フィオラヴァンティは、イヴァン3世に招かれてモスクワ大公国に赴き、モスクワにおいて1475年にウスペンスキー寺院を、1504年頃にサンクト・ミハエル大聖堂をそれぞれ起工した。

 しかし、これらの建物の平面計画そのものには手をつけず、伝統的なビザンティン建築の要素は完全には放棄されなかった。クレムリンの造営には、マルコ・ルッフォピエトロ・ソラーリアルヴィン・ヌヴォら他のイタリア人建築家も参画し、グラノヴィータヤ宮殿のほかアルハンゲリスキー寺院の建設が行われていたが、設計方法はよく似たものであった。



                       平成22年3月 10日 記

   やっと、中欧に行くこと(来ること)ができました

 中欧4カ国(オーストリア、チェコ、ソロバキア、
            ハンガリー)の旅 

 第2日目     ウイーン


     3月10日、午前7時半   
  
     零下5度の中、ホテルの周辺を歩いてみました。


   


   ↑ホテル横の景色です         ↑ホテルの裏の景色です。

            

               ↑遠くにこのような建物が

            

            ↑地下道にはどこの国も同じです

      

    ↑ホテルです。クリスマスには華やかなイルミネーションでしょう。

          

     ↑ホテルから1分のところが市電(?)の終着駅でした。
 世界遺産 ウィーン歴史地区観光 

 ・ハプスブルク家の夏の離宮 「シェーンブルン宮殿」

 「ハプスブルグ家」「鷹の城」の意味。 西アブスブルゴは、現在のスイス領内に発祥したヨーロッパのドイツ系貴族、王族、皇族。 

 カエサル一門と名乗り、政略結婚で領土拡大に成功。中世から20世紀初頭まで、1、オーストリア大公国、2、神聖ローマ帝国、3、スペイン王国、
 4、ナポリ王国、5、ベーメン(ボヘミア)王国、 6、ハンガリー王国 7、オーストリア帝国(のちのオーストリア・ハンガリー二重帝国んどの大公・国王・皇帝を代代輩出。ヨーロッパ王家の屈指の名門。

 シェーンブルン宮殿(シェーンブルンきゅうでん、ドイツ語:Schloss Schonbrunn)は、オーストリアの首都ウィーンにある宮殿ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した。]

 シェーンブルン宮殿は、ウィーンの中心部シュテファン大聖堂から西に直線で約5kmの位置にある。市内からは地下鉄U4号線に乗りシェーンブルン駅下車。庭園は東西約1.2km、南北約1kmの規模で、1779年頃から公開されている。

 建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、両翼の端から端まで180mあり、正面右側翼には宮廷劇場がある。

 また、広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上にはグロリエッテという見晴台のような建物があり、ここからは周囲が一望できる。

 オーストリアで一番重要な観光資源で、年間入場数150万人。更に公園と動物園や行事での集客数520万人を合計すると年間には670万人が訪れる。
 外壁は金を塗ろうとしたところ、マリア・テレジアが財政の状況を考慮し、黄金に近い黄色にした、これをテレジア・イエローと云うが、彼女が好んでいた色というわけではない。
 宮殿の名称
 神聖ローマ皇帝マティアス(在位:1612年 - 1619年)が狩猟時に美しいschonBrunn)を発見したためにシェーンブルンと命名したと伝えられている。
            

         ↑ハプスブルク家の象徴「鷲」の彫刻の塔

            

            ↑正面玄関に向かって進みます

   

     ↑正面扉を裏側から           ↑其の上の彫刻

        

             ↑宮殿を正面から見る

        

        ↑宮殿を裏側から、こちらの方が庭園あり美しい
 
             

  ↑ここから1441室ある宮殿の中に入ります(撮影禁止です)

   

  ↑宮殿の右側から迂回して裏側に向かう時の、バラのトンネル

     

    ↑庭は冬の様相です。       防寒ノカバーがしてあります

        

     ↑宮殿裏、広大な庭園の向こうにウィーン街一望です

          

  ↑丘に向かって進みました400メートル、丘の上の壁のところに
      宮殿をつくる計画だったと聞きました。

   

    ↑広大な庭園の中の一部の彫刻です。池は氷結しています。

        

          ↑↓再度、振り返るシェーンブルン宮殿

        

 ベルヴェデーレ宮殿(ベルヴェデーレきゅうでん、独Schloss Belvedere)とは、オーストリアウィーンにあるバロック建築宮殿

 もともとハプスブルク家に仕えたプリンツ・オイゲンが、当時の代表的な建築家であるヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントに、夏の離宮として造らせたものである。1714から1716年にかけて下宮(Unteres Belvedere)、1720から1723年にかけて上宮(Oberes Belvedere)が建設された。

 プリンツ・オイゲンの死後、1752年ハプスブルク家マリア・テレジアに売却された。

 現在はオーストリア絵画館になっており、オーストリアで2番目に大きな美術館である。

 また、この宮殿の構内に作曲家ブルックナーが晩年を過ごした邸宅がある。

        

 ↑ベルベデーレ宮殿の写真は全くないのです。 順番からすると唯つ上記の写真がベルベデーレ宮殿の扉なのですが、先程のシェーンブルンの扉の写真と同一です。

 この当たりで、既に建築物、建造物の峻別はできなくなっていました。
 予測していたこととはいえ、あまりにも早い反応に我ながら呆れています



    3月11日、現地時間午前4時に入力しています。
 シェーンブリン宮殿の写真までは整理しましたが、ベルベデール宮殿は終わっていません。

  ベルベデール宮殿を見学、この後「リング」というウイーンの旧市街地を一周する車窓ドライブをしました。
 
 ガイドさんの説明を聞いている間に、中部大学の講義で聞いた話を思い出しました。
 

 ガイドさんの話を聞きとれませんでしたし、講義内容も思い出せません。 帰宅後、調べるつもりです。

 思い出したのは、確か1800年代後半(?)、ウィーンの街が狭くなり、それまであった城壁を取り除きました。
 
 その外側に、王家は新しい建築物を建設することを奨励し、税金の免除等の恩典を与えました。

 結果、4つの公園と数々の歴史遺産ともなる建造物ができたのです。


        

 ↑リンクを一周している時のことです。 「建築物はここまできました」と言われます。

 何のことやらと聞き耳を立てますと、建物は初めから角度4度傾いているというのです。

    写真では一番奥の、最上部に四角い黒の看板があります。
   確かに、右に少し傾いているように感じます。 この建物に入居うすると、全てが傾いているということでしょうか。

   現代のアートは人類のこれからを感じしているのでしょうか。


 昼食後は4時間弱の自由行動です。

           


     ↑これは目印にはなりません、「黄色の郵便ポスト」です。

 中心市街地でクルントナー通りの角地に立ち、集合場所を決めました。

         

         ↑ウィーン・「国立オペラ座」の角地です

        ウィーン歴史地区観光

    ・クルントナー通りを中心として市街地の散策です。

             

      

  ↑街中は建築に対して規制が厳しく、結果、どこをとらえても調和の取れた街並みとなっています。

       

     ↑クルントナー通りでのパフォーマンス・ビジネスです。

           

   ↑旧市街地のほぼ中央にいちするモザイク模様のやねは5万枚ものタイルを使ったシェテファン寺院です。

 シュテファン大聖堂Stephansdom)はオーストリアウィーンにあるゴシック様式大聖堂。ウィーン大司教区の司教座聖堂である。シュテファン寺院とも呼ばれる。

 ウィーンのシンボル、観光名所のひとつでこの聖堂を含むリンク(Ring)と呼ばれるウィーン歴史地区2001年ユネスコ世界遺産に登録された。オーストリアの音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとその妻ウェーバー・コンスタンツェの結婚式と葬儀が行われた聖堂としても知られている。

 オーストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がかりで南塔が完成。107メートルの高さを持ち教会の塔としては世界で3番目の高さがある。

 外観はゴシック様式で、内部の祭壇はバロック様式である。12世紀から建造が始まったこの聖堂で最古のものは13世紀の後期ロマネスク正面入口の門である。第二次世界大戦では直接の爆撃は受けることはなかったが、延焼により南塔にあったプムメリンという大きな鐘が落下するなど大きなダメージを受け、戦後寄付などにより再建修復が行われている。

 建造当時、南塔にあった大きな鐘。1683年トルコ軍が敗退した際に残していった大砲などの武器を溶かし鋳造した。北塔のエレベータで上がると見ることが出来る。

 地下室。1679年ペストヨーロッパ中に蔓延した際、ウィーンでは約15万人の死者がでた。この地下室にはペストで死んだ人々約2,000体の遺骨と、ウイーンの司教、ハプスブルク家の心臓以外の内臓が保管されている。カタコンベの見学者のためのガイドツアーが一日数回行われている。

 残念ながら、現在は修復中でした。 写真撮影の気分が損なわれました。
 二つの高い尖塔の南塔は137メートル、1433年の完成す。
 高さ60メートル北塔は1579年の完成です。 南塔は343段の階段で上まで上ることができます。

 北塔はエレベーター登ることができます。(入場楼4.5ユーロです)

          

   ↑↓ ウイーンの市内を見下ろす絶好の写真スポーットです。

         

                

          ↑防御網の向こうの南塔を撮影しました。

              

   ↑登らなければ撮影できない、塔に施された彫刻のアップです。

          

             ↑下を見下ろします。 広場です。

      

  ↑この写真は後から撮影したものですが、広場の右側の隊列です

           

             ↑↓ 大聖堂の内部です。

      

   さて、再びクルントナー通りに出て、フリータイムの散策です。

 一番多いのがウイーンを代表する美術史博物館で、ヨーロッパでも五指に入るコレクションの質の高さと言われています。

           

             ↑マリヤ・テレジアの像と共に

             

              ↑博物館前の彫刻です。

          

   ↑せめて、マリアテレジア広場のテレジア像をシルエットで。

 躊躇なく選びましたというのではなく、絵画、音楽、建築物等の文化・芸術に対するセンスは全く欠如している私には、時間が持て余しかと思いましたが、以下のような場所を訪れました。


 時間を少し戻します。 北塔から降りたところから、話を進めましょう。
            
 
     ↑午後の2時でした。これから3時間の自由時間です。

        

    ↑午後の時間となって、一層賑わいを深めたクルントナー通り

             

    ↑地下鉄にも首を突っ込みました。 この日、同じ旅行者の方が数人、地下鉄とバスを乗り継いでホテルに帰ってこられました。 初心者でも安全な街ということです。 ただし、タクシーには悪い奴がいるそうです。

    

     ↑引退したとはいえ、やはり元流通に勤めていた者です。

 左の「BALLY]は閉鎖した店の看板文字の禿げ落ちた後です。普通は高級ブランド店はあとかたを残さないものです。閉鎖したばかりでしょうか。

 御隣の確かニューヨーク・ファッション{ZARA]は繁盛していました。


   ここで、女房と息子の嫁さんのことを思い出し、{SWAROVSKI]の店に立ち寄り、ネックレスの選択をしました。 直営店であるだけに、品数が豊富で、納得できた買い物ができました。
 

 なお、蛇足ですが、買い物レシート大切に保管。 最後にEUを出国する時に、消費税11%が帰ってくるからです。

 日本でも、財政逼迫、社会保障の今後を考えると、4年間は導入しないと言っている鳩山政権の約束はどのようになるのでしょうか。

 思い切った政治・行政改革、官僚組織の刷新をして福祉目的税の導入をすればよいのでしょうが。そんなことでは済まされない国家財政です。
 消費税に換算すれば4〜50%でしょうか。
 
 持論ですが、やはり一度創造の前の崩壊と破壊で目を覚まされなくては、夜明けの準備が出来ないということでしょうか。

 この地にあっても、日本の現状と今後に関して頭に持ち上がります。
 (次の日の夕食時間の時のことですが、3人の女性人と同じテーブルで食事をさせていただきました。 3人ともに昭和22~23年生まれと言っておられました。
 皆さん連れ合いはあります。御二人が過去の海外旅行で知り合い、1年に一度海外旅行をしている。 御一人の方もご主人の食事のことを十分に配慮されての参加でした。

 話が死生観、葬儀の方法、健康問題とその対策、等多岐にわたりましたが、大変に刺激的な食事をさせていただきました

 この旅の間にもう一度、同席させていただき御話をさせていただきたいと思っています)


 話が御土産、買い物から横道に逸れてしまいました。戻しましょう。

          

   ↑私には「猫に小判」の洋菓子店{OBERLAA]店の店頭です。
      クルントナー通りのチョット奥まったところです

            

    其の斜め横で、ご覧のような「物乞い」の御婆さんです。

 このような姿は私の体験上では、この街は非常に少ないと思います。
 もう1か所、地下鉄の入り口で男性の方がおられましたが、どこか修業をしているようにも感じ取れました。

 オーストリアの一人当たり年収は約28・000ドルですから、33〜35000ドルの日本と大きな違いがありません。

 日本も格差社会となりましたが、ヨーロッパは昔から格差社会でしたから何とも言えませんが、貧しい社会とは思いませんでした。

           

          ↑切り花店の花々に一息つきました。

 一度、オパラ座の戻り、反対方向に足を向けることにしました。

         

           ↑ブルクガルデン(王宮公園)です。

 ここでも外気温は7~8度と思われますが、公園を眺めながらパンやソーセージを食べている70代の女性二人、あるいは何を語っているのか老夫妻を見受け、写真を撮らせてくれと頼みましたが、それぞれに断られてしまいました。

 子供たちの声がします、公園に降りてゆきカメラを向けようとしましたら、先生に遮断されてしまいました。

   
  
      ↑仕方なく、隠し撮りしましたが、ご覧のようです。

            

            ↑仕方なく、王宮前の像を撮影

   

      ↑ 公園内にはモーツアルトの像もあります

              
       
              ↑ゲーテの像もあります。

   

 ↑一度、通り越してしまいましたが、ゲーテの像には哲学的な銅版画がはめ込まれているのを思い出して撮影しました。意味は分からない。

      

 ↑旧城壁を取り払ったときにできた時の建築物の一つ、ローマ・ルネッサンスを模した≪?≫建物を撮影していた時です。

          

            ↑馬車がきました。続いて・・

        

    ↑電車がきました。少ないシャッターチャンスのひとコマです。

 最後に、名古屋ではスッキリ、サッパリ、ザッサリ鉄橋されてしまった路面電車です。

          

 ↑一番古い駅舎が残され、其の横に同じデザインで現役の駅舎がありました。


          

           

    
 クラッシック・コンサートと夕食

          
         

   
 ↑音楽の街「ウイーン」です。私もコンサートの出掛けました。

          

 ↑
分からないなりに、生演奏の良さを感じました。 簡単なオペレッタにバレーが組み込まれた、1時間40分の時間でした。

          

 ↑
途中に20分の休憩タイムを挟みます。 皆さん客席後方で会話を楽しみながら一杯やっています。

 これなら、付きあえると思いました。 御客さんは観光客が多いように感じましたが、生まれた時から、演歌ではないのでしょうから、DNAの違いを感じることとなりました。




                 オーストリア、ウイーン宿泊


                       平成22年3月 11日 記

  やっと、中欧に行くこと(来ること)ができました

 中欧4カ国(オーストリア、チェコ、ソロバキア、
            ハンガリー)の旅 

 第3日目  ウイーン→チェスキークルムロフ
 →ホラショヴィツエ→プラハへ


 3月12日午後9時半入力

        

  ↑ウイーン出発の日、窓を開けるとご覧のように雪が舞っていました。

 ウイーンから3車線のアウトバーンを1時間半走ったところで第1回目の休憩。

        

               ↑ 外の風景です。

            

                ↑ この建物です。


          

           ↑外に配置された帆船です。


    

   ↑其の店内の陳列演出です。 ついつい、昔の感覚が戻りました。



 ・世界遺産・チェスキークロムロフ歴史地区散策

・旅行社から渡された資料にはこのように記載されている。

 
オーストリアとの国境に近いチェコ南部はボヘミア地方に属しており、ドナウ川の支流、ヴァルタヴァ川が流れている。

・大きく屈曲するスヴァルタヴァ川に抱かれた旧市街は、中世の雰囲気を其のままに残しており、世界遺産に登録されている。

 16世紀、ロジェンブルグ家の支配の下、ルネッサンス様式の都市として整備され、繁栄を極めた。

 旧市街地はスヴォルノスティ広場を中心にして細いろじが入り組んでいて、大小の美しい家屋がひしめき合う。

 旧市街を見下ろす崖の上に建つチェスキー・クルムロフ城は、13世紀にヴァィートコフ家の居城として建てられ、その後何度も増改築が繰り返されて現存となった。

・ゴシック、ルネッサンス、バロック建築が混ざりあった複合建築で、ボヘミア地方ではプラハ城に次ぐ規模。

 5つの中庭があり、4番目と5番目の城の間には、プラーシュティ端と結ばれている。


   
 3月13日午前3時です。
 3月11日の写真の整理に入りました。 

 上記の活字情報を読み直しました。 移転入力時には、実感がわきませんでしたが、見学を終えた今なら、何を言っているのか理解できます。

 「一見は100聞にしかず」の意味がよくわかります。 現場いないあなたに、少しは伝わるでしょうか。 写真情報です。



              

 
↑ウイーン市内から約200Km,3時間かけてチュエスキークルムロフへ

   

              

              

        ↑雪がきはしてありますが、城に向かって歩きます。

 チェスキー・クルムロフチェコ語?esky Krumlovドイツ語:Krumau (Krummau) an der Moldau、またはBohmisch Krumau (Krummau)、ラテン語表記:Crumlaw)は、チェコ南ボヘミア州の小さな都市。

 クルムロフ城を含む優れた建築物と歴史的文化財で知られる。クルムロフは「川の湾曲部の湿地帯」を意味し、ドイツ語のKrumme Aueをその語源とする。
 チェスキーは、チェコ語で「ボヘミアの」という意味であり、これによりモラヴィアにあるモラヴスキー・クルムロフ(Moravsky Krumlov)と区別される。
 
 1920年以前はクルマウ・アン・デア・モルダウという名称で知られ、古い地図には単にクルマウ(Krumau)と記載されていることが多い。

 (注) チェスキー・クルムロフの歴史が紹介される際には、現在、この町が属するチェコ共和国の立場が反映されるのが通常である。
 
そのため、この町の歴史的景観が形成されたほとんどの期間において、町が「クルマウ」と呼ばれていたことや、当時の多数派であったドイツ系住民が一斉に故郷を追われたため、町の人口構成が相当変化していることについては、言及しないことが通常となっている。

 また、この町が1945年以降「荒廃の危機」に直面したことについても、もっぱらナチス・ドイツ共産主義が責任を負うべきこととされ、ドイツ系住民の追放が影響が語られることはまずない

 (たとえば、NHKの世界遺産関連の番組のサイトは、クルムロフ城が荒廃した原因として「ナチスによる町の占領」と「共産党支配のもとでの伝統文化の否定」を挙げ、ドイツ系住民の存在と追放については特に指摘することなく「ドイツの占領と第二次世界大戦の終結を経て、一時期無人となった」と解説している。)

 現実には、ドイツ系住民を追放し、旧来のコミュニティーの大半を失ったことは、町の荒廃に決定的な影響を及ぼした。
 
 
さらに、オーストリアの画家エゴン・シーレが、すでに20世紀初頭の段階において、この町を「死の街」と形容していたことも無視できない。

 すなわち、産業革命の波に取り残され、城主からも見放されていたこの町は、民族主義、ナチズム、共産主義の到来のはるか以前から、打ち捨てられる運命にあったのである(それゆえ歴史的景観がそのまま残るのであるが)。
 
 いずれにせよ、町の歴史におけるドイツ的要素に言及せず、受難の歴史をナチズムと共産主義に帰責する説明は、史実のすべてを語っていない点で正確でない。


          

  ↑後から渡る新旧の城を結ぶ橋です。 高さは50メートル以上か?

 神聖ローマ帝国領邦ボヘミア王国の時代

 町と城の建設は、ボヘミアの重要な通商路であるモルダウ川(ヴルタヴァ川)沿いに13世紀後半に始まった。

 1302年、クルマウ(チェスキー・クルムロフ)の町と城は、ボヘミアの有力貴族であったローゼンベルク(ロジェンベルク)家のものとなる。

 14世紀以降、町では手工業と交易が盛んになった
 16世紀、特に領主ウィルヘルム・フォン・ローゼンベルクの時代には、ルネサンス様式の建物が数多く建築され、町は色彩鮮やかな華麗なるルネサンス都市へと変貌を遂げた。

 しかし、町の華やかな装いとは裏腹に、ローゼンベルク家の財政は次第に破綻を来たすようになり、ついに借金の抵当に入れられたクルマウ(チェスキー・クルムロフ)は、1601年、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の手に渡る

 その後、1622年、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、当時、神聖ローマ帝国全土を巻き込んでいた三十年戦争において、財政面を含む貢献のあったエッゲンベルク家にこの町を与えた。この時代に、町にはバロック様式の建築物が加わった。

 1719年、エッゲンベルク家は断絶し、有力貴族のシュヴァルツェンベルク家が町と城を相続する。
 領主ヨーゼフ・アダム・シュヴァルツェンベルクの時代に、城はバロック様式に改築され、後に有名となる城内劇場(バロック劇場)が完成した。

 クルマウ(チェスキー・クルムロフ)では、その地理的条件もあり、ドイツ語が有力な時代が長かったが、支配階級のドイツ系住民と被支配階級のチェコ系住民は生まれたときから決まった民族間のヒエラルキーのもとで共存しており、19世紀に至るまでは、民族意識が政治的緊張をもたらすことはなかった。
 
 (注) 中世のボヘミア王国における公用語は、第一公用語がチェコ語、第二公用語がドイツ語であった。
 その後、フスの宗教改革の時代に、ドイツ語及びドイツ人排斥の動きが強まるが、1618年の白山の戦いで新教勢力が破れ、チェコ人貴族が没落すると、ハプスブルグ家の支配の強化とともに、ドイツ語の影響力が強まった

 。現代のチェコでは、これ以降、19世紀の民族意識覚醒の時期までを「暗黒時代」と呼んでいる
 もっとも、ボヘミアの山岳地帯(チェスキー・クルムロフを含む)については、異なった背景もあった。
 すなわち、民族大移動の時代(4世紀〜8世紀)に東方から来たスラブ人(西スラブ族、のちのチェコ人)が山岳地帯にはあまり定住しなかったこと、中世になって、地元領主が町の開拓のため、多くのドイツ人移住者を招いていること、などから、歴史的にドイツ語及びドイツ人の影響が強かったのである

 オーストリア・ハンガリーからチェコスロバキアへ

 19世紀に入り、シュヴァルツェンベルク家は、新たに英国風のネオ・ゴシック様式に改築されたフルボカー城に居城を移した。
 また、産業革命期にあって、この町は、主要な鉄道網から外れ、大規模な工業化もみられなかった。町は緩やかな衰退へと向かう。

 1867年、クルマウ(チェスキー・クルムロフ)は、オーストリア=ハンガリー帝国の一部となった。
 次第に、民族主義が、帝国全土を揺るがすようになり、クルマウ(チェスキー・クルムロフ)もその例外ではなかった。

 神聖ローマ帝国の時代から続くドイツ系住民とチェコ系住民の共存の時代はこうして幕を閉じた。 学校教育や図書館などが、次第にドイツ系とチェコ系に分離するようになった。
 1910年時点における町の人口は8,662人であったが、そのうち、ドイツ系が7,367人、チェコ系が1,295人であった。

第一次世界大戦の敗戦に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、町はチェコスロバキア領となり、1920年4月、チェコスロバキア内務省令により、町の公式名称もクルマウからチェスキー・クルムロフとなった。

ドイツ系住民の追放

 戦間期のチェコスロバキアでは、民族自決が認められず、少数民族の立場におかれたドイツ系住民(約300万人)の政治的不満が高まっていたが、

 1938年、ナチス・ドイツは、これに乗じ、チェコスロバキア領内のドイツ系住民の権利が侵害されているとして、いわゆるズデーテン地方の併合を強行した。これにより、チェスキー・クルムロフを含むボヘミアのドイツ語圏地域はドイツ領となった。

 (注いわゆる「ズデーテン地方」は、ズデーテン山地の周辺の地方にとどまらず、ドイツ系住民の多いボヘミアの山岳地帯を指す言葉として用いられてきたが、チェスキー・クルムロフは、広義の意味に用いられる場合においても、それに含まれないとされてきた。
 しかし、1938年のズデーテン地方の併合の際に、アドルフ・ヒトラーは、ブルノ(ブリュン)など、言語島を構成している地域を除き、チェコスロバキアのドイツ語圏のほぼすべてをドイツへ併合した

 1945年、ドイツは第二次世界大戦に敗北し、チェスキー・クルムロフは、独立を回復したチェコスロバキアに復帰した。
 しかし、ドイツ系住民については、エドヴァルド・ベネシュ大統領の指令(ベネシュ布告)により、チェコスロバキアの市民権と私有財産を剥奪、没収することが決定された(無慈悲政策)。

 チェスキー・クルムロフの住民の多くはドイツ系であったため、ベネシュ布告により、多くの住民は市民権と私有財産を剥奪、没収され、故郷から追放する処分が下された。

荒廃の時代

 1945年以降、チェスキー・クルムロフは荒廃状態にあった。
 町の伝統的な住民の多くを追放したことは、チェスキー・クルムロフのコミュニティーにとって大きな打撃となっていた。

 町の住居の多くは、その主を失い、一時、無人となった。1948年の共産主義化により、城郭などの歴史的建造物が「封建時代の遺構」とみなされ、価値を否定されたことも、その荒廃に拍車をかけた。

 ようやく歴史的建造物が徐々に補修されるようになったのは、プラハの春が訪れた1960年代後半以降のことであった。

 なお、1945年以降、観光地化が急速に進んだ1990年代前半までのあいだ、チェスキー・クルムロフの中心部は、ロマの人々が多く居住する地区となっていた。
 近年はチェコ人との同化も進んでいるが、現在も激しい差別が根強く残り、民族浄化のためのロマへの強制断種政策が続いている
 
。チェスキー・クルムロフにおいて、ロマはチェコ人に次ぐ第二のエスニック・グループとなっている。

 (注))
 チェコスロバキア政府は、ドイツ系住民を250万人以上追放したことにより、ボヘミアの旧ドイツ語圏地域の人口が希薄化していたことに対し、地政学的観点から人口の回復を図ろうとしていた。

 その一環として、この地域にロマの定住を奨励する政策が採られ、チェスキー・クロムロフにもロマの人々が多数定住した(1947年時点で約150人、1990年時点で約1300人)。
 多くの場合、移住者には、無人となっていた旧ドイツ系住民の住居が提供された。なお、もともとボヘミアには多数のロマが生活していたが、その大半がナチス・ドイツの民族政策の犠牲となり、戦後、ボヘミアに定住したロマは、主にスロバキア東部方面からの移住者である

 1958年には、チェコスロバキア全土のロマの人々を対象に、馬車による移動生活を禁止する法律が制定され、以後、定住の強制が行われた。
   1945年以降のチェスキー・クルムロフへのロマの定住と現状については [6]を参照。
 ⇒いわゆる「ズデーテン地方」は、ズデーテン山地の周辺の地方にとどまらず、ドイツ系住民の多いボヘミアの山岳地帯を指す言葉として用いられてきたが、チェスキー・クルムロフは、広義の意味に用いられる場合においても、それに含まれないとされてきた。

 しかし、1938年のズデーテン地方の併合の際に、アドルフ・ヒトラーは、ブルノ(ブリュン)など、言語島を構成している地域を除き、チェコスロバキアのドイツ語圏のほぼすべてをドイツへ併合した

 歴史的景観の再評価

 1989年のビロード革命以降、町の景観の歴史的価値が再認識されるに至り、建造物の修復が急速に進められ、町はかつての美しさを取り戻した。
 1992年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。現在はドイツ・オーストリアを主とする観光客に人気のある観光地となっている。

 現在も、クルムロフ城の内部の修復などが進められている。1990年以降、毎年6月には、中世の領主であるロジェンベルク(ローゼンベルク)家の紋章にちなんだ「五弁のバラの祭典」が開催されるようになった。

 2002年8月、町はヴルタヴァ川の大氾濫に見舞われた。
 


 見どころ
 クルムロフ城 - 小さな町であるクルムロフの大きさに不釣り合いな大きさの城である。城内には1766年完成のバロック様式の劇場が保存されている。
 機械仕掛けの舞台装置を備える。こういった宮廷劇場が今も存在する[12] 。建設当時、劇場は年に三回だけ利用された(年に二度のみ、バロック音楽が一般公開されロウソク灯りの中でオペラが演じられた)。

 聖ヴィトゥス教会(Kostel Sv. Vita) - 15世紀のフレスコ画を持つ教会
  • かつて町に住んでいたことのある、20世紀初頭の表現主義の画家エゴン・シーレにちなんだ美術館がある。

 ボヘミアでも有数の古い修道院、ズラター・コルナ修道院がクルムロフから10キロの地点にある。クルムロフから30キロ離れた場所には12世紀に建てられたフルボカー城(後世にウィンザー城を真似て再建された)がある。

 クルムロフはチェコ最大の国立公園シュマヴァ国立公園に近い。シュマヴァ山地はオーストリア・ドイツ国境沿いにある。

                 

   

        ↑石畳の狭い路地をダラダラと登ってゆきます

             

               ↑街の中央広場です

               

         ↑今回のチェコの旅で数回・4回彼の話を聞きました。
            ヤン・ネポムツキーさんです。
 彼は聖職者です。おる日、王妃の懺悔の言葉を聞きました。 王は妃がどのようなことを懺悔したのか気になりました。

   しかし、ネポムツキーさんは最後まで口を割ませんでした。
          怒った王は彼を殺してしまいます。 

 橋の上から突き落とされたとき、5つの星が放ちました。 彼の頭には5つの星が輝いています。

 チェコで大人気のネオポルスキーさんです。 「カレル橋」で再び彼と会えます。


               

              ↑いよいよ、城内に入ります。

          

          


        

    ↑城の高みでチェスキークルムロフの景色を眺めました。

  中世のメルヘンの世界に迷い込んだような気持ちになりました。


  ・世界遺産・ホラショヴィツェ散策

 チェスキークルムフから約1時間半、主要道路から離れ田舎道に入りました。
 最後の30分は雪かきはしてありますが、地表が見えません(通行量が少なく、積ってしまうのでしょう)

 どこに道があるのかなと思うような村の道をバスは駆けあがってゆきます。

             

    ↑世界遺産登録のマークがなければ、何しに来たのだろうかと考えてしまうところです。

ホラショヴィツェチェコ語Hola?oviceドイツ語:Holaschowitz)は、チェコ南部の村。チェスケー・ブジェヨヴィツェ市から15キロ西にある。南方には景観保護区域であるブランスキーの森がある。村は第二次世界大戦中にも中世の村落構造や南部ボヘミアの民俗的・農村的なバロック様式建造物群が無傷で済んだものの、戦後に放棄された。1990年から修復されて再び人が住むようになり、1998年UNESCO世界遺産に登録された。

 歴史

 ホラショヴィツェが最初に歴史に登場したのは1263年である。1292年、ボヘミア王ヴァーツラフ2世が村とそれに付随する物をシトー会派ヴィシー・ブロト修道院に寄進した。1848年まで村は修道院の資産の一部であった。

 1520年から1525年、ホラショヴィツェはペストの大流行に見舞われ、生き残った住民はわずかに2人だった。村の北端にあるペスト死者墓地に立つ円柱は、この出来事を記念する物である。

 修道院は次第にバイエルンオーストリアからの移民を迎えて人口を増やした。1530年、修道院の記録によれば、村の人口は17人になり、チェコ語地域の中のドイツ語圏飛び地となっていった
 1895年、ドイツ系住民157人、チェコ人住民19人となっていた。

 第二次世界大戦後のドイツ人追放により、村の多くの農地は放棄され元通りにされなかった。ホラショヴィツェは冷戦時代のチェコスロバキアで荒れ果てなすがままにされていた。

 1990年より、村は華美に修復され、定住者がいるようになった。現在の人口は140人ほどである。

 建物

 ホラショヴィツェはボヘミアの典型的な村落である。23の煉瓦造りの農場中庭からなり、そこに120軒の建物が建っている。どれも村の共有緑地に面した切妻壁がある。共有緑地は、村落の中心にある広々としたもので、魚のいる池と礼拝堂がある。

 建物は18世紀から20世紀にかけて建てられたもので、ほとんどが19世紀後半のものである。他所から花嫁を呼び込む為に可愛らしい外見になった、と言われている。建築様式は南ボヘミア地方特有のバロック様式である。集落の中心部にあるネポムクの聖ヨハネ礼拝堂は、1755年に建てられたものである。

              


      ↑到着後、バスを降りて最初に目に飛び込んできたものです。

 雪の中を案内所を訪ねましたが、閉まっており人の気配はありません。
 簡易のトイレは開いていましたが、誰か使用したのでしょうか。


             

             


             

 ↑村全体は広いのですが、世界遺産となった建築物はこの一角、約5千坪のところに集約されています。

               

  
                  

              

            

 ↑久しぶりに雪景色の中に身を置きました。子供のころの感覚が戻ってきました、皆さん早々とバスに戻ってしまいましたが、当日ブーツを履いていったこともあり、誰一人踏み入れていない雪の上を堪能しました。


 →プラハへ
                          プラハ泊


 

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