平成22年3月 9日 記
やっと、中欧に行くこと(来ること)ができました
中欧4カ国(オーストリア、チェコ、ソロバキア、
ハンガリー)の旅
第1日目 中部空港→ウイーンへ
3月9日 午前10時25分
セントレア 中部国際空港 「さくら」ラウンジにて
外は小雨が降っています。 昨日までの春到来の気温から冬に逆戻りの気温となりました。 3歩進んで2歩戻りながらの春の訪れです。
初めて、ラウンジでパソコン入力をしています。 黒ビール等をいただきながら・・・
本日の中日新聞の朝刊にヨーロッパへ最速の蒼い翼「フィンエアー」の全面広告が出ておりまっした。
私の搭乗する「AY080便」はセントレア開港5周年とこのファインエアーの協同での「ビジネス・クラスで行く中欧8日間の旅」の特別企画です。
ゲート前で出発前に待っているのも心うきうきするものですが、このようにラウンジで待っているのは、どこかリッチになったような気分してくれます。
このような旅の味を知ってしまうと、今後癖になってしまうのではないかと気がかりです。
中部大学で5年間、中欧を中心としてヨーロッパの歴史と宗教、社会思想史を学んできた修学旅行のようなものです。
ラウンジに「無線LANサービスエリア」と表示され、「NTTネオメイトグループ」と書かれ、{MZONE][フレッツ・スポット」「HOTSPOT」「モバイルポイント」「アクセス・メイト」と小さなPOPがありますが、私には何のことかわまかりません。
今から、000を引っ張り出して、接続してみます。
一つ、二つは狙ったことが通じましたが、全く思う良いにならない事柄もあり、それはそれで楽しいです。
この間、息子に電話して誘導してもらいましたが、ダメな事柄もあり、11時15分のボーディング・タイムとなりました。
さて、10時間の20分の空の旅です。
3月9日午後6時 。ロシアあるいは北極上空であろう、機内で入力
豊かな機内日本食をいただき3時間ほど眠った。 締め切られた窓の隙間から強烈な明かりが差し込んでいる。
ヘルシンキ到着は3月10日、午後5時半とアナウンスされていたから、多分現地時間(ロシア)では、真昼の時間帯であろう。
日本からロシアあるいは北極上空を飛んでヨーロッパに行けるようになったのは、何年前であったのだろうか。
昭和40年代後半までは、アンカレッジを経由してユーラシア大陸の西の果てに飛んで行ったものだった。
世界が狭くなったというか、冷戦構造時代は敵国の上空を飛び越してゆくなどとは考えられなかった。
危ういバランス構造の世界の中を旅しているということになる。
事実、1991年まで(ソ連崩壊)は、今回の旅の中欧などは、一般旅行者には考えられなかったコースです。
そんなことを考えていると、今回の旅の価値がますます上がってゆくように感じます。
斜め前の席には2歳くらいの御子さんを抱えた若い奥さんが子供をあやしています。 多分、ご主人がヨーロッパのどこかの国で働いていることでしょう。
グローバルかする世界、良いこともあれば、新たな課題も提起している。
そんな中で、揺れ動いている日本の状況は、7月の参議院選挙を前に、与党民主党も、筆頭野党の自民党も目先の混乱に揺れている。
さて、もう一杯ブランディーでもいただいて、二度目の御休みに入ろう。
中部空港→ヘルシンキで乗り継ぎ→ウイーンへ

↑↓ ヘルシンキ着陸20分前

・サンタクロースの国はどこでしたかね。 ノルウエー、それともフィンランドでしょうか。
空港に近付くと、白の世界に点々と家屋が見えます。 煙突は確認できませんが、トナカイの乗ったサンタクローズが現れてきそうな景色です。
・ (所要時間10時間20分、 ホテル到着予定20時)←事前書き込み
3月9日(現地時間)午後8時半です。(ヘルシンキより1時間戻しました。
日本時間は3月10日午前4時半です。 眠いです。これから湯船です。
今晩は気分良く眠れそうです。持参した日本酒、焼酎、ウイスキーもばっちりです。
まずは、順調な滑り出しです。
ウイーン宿泊
現地時間3月10日午前2時(日本時間は3月10日午前10時です。
時差の関係で起床しました。
お腹がすいています(添乗員さんの事前の予告通りに、持参の御菓子を食べています。
それにしても、私の肝臓君には感謝しなければなりません。
と言いますのも、合計12時間のフライト中に、赤ワインは700Ml、白ワイン200Ml、ブランディー300Ml、ブラディーマリーをいっぱいいただき、
ホテルでは持参の焼酎を150Mlいただきましたが、もう既に消化を終えたようで、オカキをいたただきながらウイスキーの水割りです。
今から、中欧の建築様式のこと、「ゴシック」だの「バロック」だの項目を再再度読み直すことにしますが、その都度スッカリ忘れてしまいます。
世界遺産である歴史ある建造物や聖堂を見学に行くのですが、ヤッパリどうなることだろうかと、この方面の知識、関心の薄さに我ながら呆れています。
1時間半ほど、うたた寝をした後に・再び
当地のガイドさんも言っておられました。「天気予報は当たらない。半分ぐらい」と。 どうしてでしょうか。地形が特に変化しているとも思われませんし、内陸部ですから海洋の影響も少ないと思うのですが・・・
かえって、それゆえに進歩しないのでしょうか。 進歩と言えば、ヨーロッパは10世紀ごろに現在の国の配置が決まりました。
とはいうものの、その後の歴史はご存じのように戦乱の繰り返しでした。
国境線も何度か変更になっています、取ったり取られたりの繰り返しでした。
ヨーロッパの大森林地帯にパラパラと住んでいた先住民のところへ、アルプスを超えてローマが乗りこんできました。 そして、東の地からフン族が侵入し、ゲルマン民族の大移動が始まる。
そこで終わらず、それに続いてさらにマジュール人等の遊牧民族が次々と侵入してきました。
民族と原始宗教、その後にローマとともに布教されたカソリック、ローマ教皇の堕落による宗教改革、更に東からイスラム教もバルカン半島、そして地中海を席巻してゆきました。
思いつくままに、記憶にあることを書きとめましたが、これでは争いが起こらないのが不思議です。
其の壮絶で愚かな戦いの歴史から、今日「EU」が生まれてきたのですが、そのEUも現在の世界恐慌の波に洗われています。
大きな歴史の転換期に、さまざまな歴史をくぐってきた中欧を訪問できました。 今日からが楽しみです
天気予報の話から横にそれてしまいました。
窓を開けますと零下5度と予測されていた冷気が流れ込んできました。
暗闇で判別できませんが、葉を落とした針葉樹の間から、ポツポツと明かりが灯っています。
午前6時になりました。(後から挿入です)

↑ポツポツと表現しました光景です。

↑ 東の空が色づき始めました。モーニングコールがなりました。
ウイーンの繁華街からは30分ほど離れたところのです。「アイロ・タワー・ホテル=AIRO/TOWER/HOTEL」は2つか3つ星のクラスのホテルです。
春休みに入ったのか、卒業記念旅行なのか日本の若いお嬢さんたちでイッパイです。 持参したカップ・ヌードルにバー・カウンターで熱湯を入れてもらいエレベーターににぎやかに入り込んできました。
室内の空調は快適で。 空気が吹き出てくる装置ではなく、壁に取り付けられたヒーター暖房です。

↑洗面所 と ↑メインルーム
現地時間午前5時になりました、モーニングコールまであと1時間です。
私も空腹を覚えています。 持参のオカキがドンドン減ってゆきました。
以下の記述は2月18日に書いています。
「やっと、中欧に行くこと(来ること)ができました」とのサブタイトルが付きましたのは、中部大学で10期・5年間聴講生として学んび、それなりの知識を持ってから訪問しようと考えていたからです。
その間、一番刺激を受けた教授は冷戦終結前の10年間、ハンガリーを中心に東欧(中欧)で暮しておられた教授です。
ハンガリーで博士号を取得されて居られます。 それゆえに、宗教(ユダヤ教とキリスト教)とマルクス主義に詳しいです。
ヨーロッパを知るためには宗教が分からないと理解できないと常々口にされて居られついつい5年間の時間を要しました。
東欧時代を肌で知っている、日本では数少ない学者です。
また、学者としては日本史の研究から入られており、ニューヨークへの留学体験もあり、其の上映画にも造詣が深く、温泉のことの著書もあり、まだそのほかにもさまざまなポケットがあるという実に勉強家で多方面にわたる博学の持ち主です。
そのような関係もあって、ある程度の予備知識を持ってからヨーロッパには出掛けたいものと我慢しておりました。
今回も、今少し後にしようかと思っていましたが、大学に行ってると2月、3月と、8月しか休みがとれません。
そこで今回、中欧は一度だけの訪問では済まされないだろうと考え、一番ポピュラーなコースを選ぶこととしました。
ヨーロッパはスペイン、ポルトガル、フランス、イタリア、ドイツ、イギリス、デンマークは30数年前に訪問して以来行っておりませんのでこれからの楽しみの国です。
オランダは何度も仕事で行かせていただきましたが、ほとんど記憶にはありません。
記憶に残っているのは提携先の会社の上層部との慣れない晩さん会で牡蠣にあたり、英語で診療を受けたことと、砂地のゴルフ上でダブリばかりをしていたことぐらいです。
北欧も行きたいし、ヨーロッパに蹂躙されたアフリカも南米も訪問したい国です。
さらに、このところの中国とその周辺国、および中央アジアも行かなければと思っていますが、年年体力が低下してゆきます。
いつまで、続けられることやらと思っていますが、行きたいところがある間は元気でいられることだろうと考えています。(資金の枯渇で断念と言う可能性が大です)
・これまで同様に出発する前に、訪問地の簡単な紹介を入力してゆきます。
そして、現地で其の時感じたこと、考え方ことを活字入力しようと思っています。多分、写真は整理して掲載できるのは帰国後になることでしょう。
今、入力している日時は2月18日です。 ニュージーランドの旅から帰って1週間です。 昨日ニュージーランドの旅日記をし終えましたので、こちらに移りました。
頭の中がぐちゃぐちゃにならなければよいのですが・・・
追記 平成22年2月20日
第1回目の資料の入力を終えましたが、こんなに多くの活字を入力したのは初めてです。
歴史があるというか、兎に角、複雑な歴史、戦争の歴史(宗教民族が入り混じり、国境線は何度も変更になっております。
古代史を除いても、中世以降近代の歴史に登場するのは、ロシア帝国、オスマントルコ帝国、ハプスブルグ帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)、それにフランス、ドイツ、その上に、モンゴルまで登場してきます。そこにイスラムが絡むのですから・・・
ギリシャ〜ローマから影響され・受け継いだ芸術・文化が花咲いているのですから、最低限の知識を持っていなくては、世界遺産の観光をしてもサッパリ理解できず、様々な建築物を見てきたというだけになりそうです。
そんなことも手伝って、一度目の訪問は何を勉強してゆかなければならなかったを教えてもらうこととなることが予測できます。
まず、訪問国の人口と密度から
人口 人口密度
チェコ 156万 130人/Km 15700ドルGDP一人当たり
(チェコ人、54%、スロバキア人31% モラビア人8・7%
ハンガリー人3・8% ロマ人0・7%)
スロバキア 540万 111人/Km 13300GDP一人当たり
ハンガリー 1000万 108/Km 13900ドル 一人当たりGDP
オーストリア 830万 98/Km 28000GDP 一人当たり
ポーランド 3900万 124/Km 11000ドル 一人当たり
ここで今回旅します中欧の世界遺産は建造物が多数です。
昨年、春期の講義において、チェコ、ハンガリー、オーストリアの建造物や文化についての解説がなされた講義がありましたので、掲載し参考にしたいと思います。
平成21年7月8日 講義
・プラハ、ウィーン、ブタペストの建築物の類似性、相違性の背景が語られた。
・中欧は国によって建築物などは異なるが、戦争で廃墟になっているから、土地の継続性は無い。
・それはユダヤ人のみでなく、現地人も同じことである。 人間の継続性はある。
・ボヘミア(チェコ)の建物を見ているとその様式はバイエルン、ミュンヘン(ドイツ)と同じである。
・ブタペストとウィーンを対比すると、人口はプタペストのほうが多いが、都市の規模はウィーンのほうが大きい。
・ミクロに見ると同じに見える。形、色=黄色〜中欧の特徴で、スエーデンの黄色とは異なる。
・中欧の100年の歴史は同じであるというのは嘘である。
・建築物、鉄道などの建築物はほとんどユダヤ人が作っている。
→ブラチスラバ、プラハ、ウィーンの大学は全て技術的には同じことを学んだ。
・近代の遺産といわれるものは、洋服のオートクチュールと同様にユダヤ人の遺産であり、共通性がある。
・世紀末から1920年代、革新的なアールヌーボーが起こり、遠近法を崩したものが現われた。
・それはウィーンが中心であった。
・ハンガリーの芸術家はドイツ語を学び、ウィーン大学に進む、そこでア―ルヌーボーを学んだ。→そのことによって、建築物はウィーンよりブタペストの方が一歩進んでいる。
・1902〜05年、中世の城壁の真似をして「夜の砦(?)」を作る。歴史的な事実はなし。20世紀のでっち上げ。
・ウォルト・デイズニーは子供の頃、ブタペストを訪れて、その光景を見、後にデイズニーランドを作る。
・仮面を取れば、ブタ城の半分は図書館である。
鎖橋は・・・
・ブタペストの美しい風景は20世紀にデッチ上げられたものである。
・ローマ帝国時代のものはボツボツある程度。
・ハプスブルグ帝国のものは、幾つかブタ城に残っている。以上が20世紀以前。
・その他は農村部に行くと、大邸宅のところにはボツボツある。
・ブタペスト市内には田舎町でところどころに散見される。以上が19世紀末まで。
・ポーランドにいたユダヤ人がロシアに追われ、ペスト(ドナウ川の東)に90%が移り住んだが、半数は殺され、他はアメリカに逃げた。 ペストに残っているには2万人のみである。→ウィーンのコピーとなった。
・ラッキーなことに資金が無かった。そこで、低い賃金で若い建築家をブタペストに呼び寄せて、街の設計から建築までを任せた。
・ウィーンの若きアールヌーボーの人材がハンガリーで先進的な建築物を作り、それが残った。→このことがウィーンよりハンガリーに良い建築物が残こっている理由。
・1848年以降、トランシルバニア風の建物を作った。
・ウィーンはパリに見られない独創性がある。全てユダヤ人が作った。
・ボヘミアはミュンヘン、バイエル風の建築物を持ち込んだ。
・ハンガリー・ブタペスト〜ペストは100%ユダヤ人。厚化粧の人造都市。
ハンガリー的なものはあとから作られたものである。
・中欧はユダヤ人が橋渡しをしている〜建築、美術、法律(フランスの法律を学んだ)
・あらゆる近代はユダヤ人によって作られた、よって中欧には共通項が多いというのは通説である。
・今、ポストユダヤ人世代は民族国際化。
・ハベル大統領曰く「中欧の1000年の歴史はロシアが壊した。」→1980年半場よりの運動である。
・ロシアを脱し、中欧を作ったという一貫性は嘘であり、ユダヤ人が作った。
・歴史学者(小島教授)としては批判的に見ずにはいられない。
続いて、以下の単語の意味を書き記します。
(内容は全てウイスベギアからのものです)
「ゴシック様式」
ゴシック様式(-ようしき Gothic Style)とは、中世、ヨーロッパの美術で用いられていた様式である。
ゴシック (Gothic) とは「ゴート人の」を意味する言葉で、ルネサンス期のイタリア人が、それ以前の美術に対して、洗練されていない、野暮ったいものとして蔑称で用いていた(実際にゴート人が用いていた美術様式、という訳ではない)。
やがて12世紀半ばから15世紀末にかけて建設された教会の建築様式を示すようになり、さらにはその当時の絵画や書体(ゴシック体)なども示す概念に変わっていった
「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する。(ゴート族の建築様式というわけではない)
ルネサンス以降、ゴシック建築は顧みられなくなっていたが(この時期をゴシック・サヴァイヴァルと呼ぶ)、その伝統は生き続け、18世紀になると、主として構造力学的観点から、合理的な構造であるとする再評価が始まった。
18世紀から19世紀のゴシック・リヴァイヴァルの際には、ゲーテ、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、フリードリヒ・シュレーゲルらによって、内部空間はヨーロッパの黒い森のイメージに例えられて賞賛され、ドイツ、フランス、イギリスでそれぞれが自らの民族的様式とする主張が挙がるなどした。
特徴
一般にゴシック芸術と呼ばれているものに一貫して用いられる形態的、図像学的な特徴はなく、実際にはゴシックとは、芸術史家たちによって慣習的に使用される概念である。
今日においても、ゴシック建築の定義づけが行われているが、その議論は多角的かつ複雑である。
客観的な、最も馴染み深い特徴は内部的な高さと細さの誇張であり、簡単に述べると、必要以上に細い柱、石造天井、およびそれらを為し得る構造的特徴の組み合わせとなる。
具体的に述べれば交差リブヴォールトとヴォールトの横への応力を支持するための側壁または控壁(バットレス)だが、これらはそれぞれ東方に起原を持っている。
尖頭アーチはササン朝ペルシャ帝国において既に用いられているし、控壁はビザンティン建築においても見られる主要構造である。
実際、ゴシック建築に特有とされる特徴は、ほとんどの場合、ゴシック建築において独自に発明されたものではない。ゴシック建築において重要なのは、これら技術的特徴ではなく、それぞれを組み合わせた独自の美的感覚や空間性にあると言えよう。
ゴシック建築の装飾
ゴシック建築の達成は、中世スコラ哲学の理念、つまり神を中心とした秩序を反映したことにあると言える。
中世の人々にとっては事物の全てに象徴的な意味があり、故に、ゴシック教会を彩る様々な装飾は、聖職者たちの世界に対する理解そのものであった。
彼らは、美を神の創造と同義であると考え、教会を装飾することを神への奉仕と捉えていた。従って、扉口のマリア像や聖ペテロ像、聖ニコラウス像、ステンドグラスに画かれたキリストの生涯といったものは、決して現代人の意味するところの「装飾」などではなく、石に刻まれた中世精神の表象なのである。
「ネオ・ゴシック様式」
ゴシック・リヴァイヴァル建築(Gothic Revival Architecture)とは18世紀後半から19世紀にかけて興ったゴシック建築の復興運動である。ネオ・ゴシック建築(Neo Gothic Architecture)とも呼ばれる。
イギリスを発祥とし、18世紀後半にはフランス、ドイツに、その後イタリア、ロシア、アメリカに広がった。
ゲーテやシュレーゲルなど、中世をキリスト教の理想世界とするロマン主義芸術家の間でゴシック芸術が崇拝され、
これが美術や建築に組み込まれて様々な作品を生み出したが、しばしばグリーク・リヴァイヴァルに代表される古典主義建築とはげしく対立した。
通常、ゴシック建築の伝統を無批判に墨守し、ロココ庭園において奇怪な建築を生み出した17世紀から18世紀頃のゴシック・サヴァイヴァル建築とは一線を画す
「バロック様式」
バロック(仏: 英: baroque, 独: Barock)とは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。
バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。
カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義へと移行した。
バロックという概念の誕生と発展
バロックという語は、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来ている。(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた[1]。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる。)
現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。
当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。 彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。
「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった[2]。
また、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のBarocoからきたともされる。
1694年(バロック期の最中)には、この語はアカデミー・フランセーズの辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」[3]と定義されていた。
1762年、バロック期の終結した頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」[4]という定義が加わった。19世紀には、アカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とした。
1855年になって初めて、スイスの美術史家ヤーコプ・ブルクハルトが『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き』[5]においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。
この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。
フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(「ルイ14世様式」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたのである。
さらに1世代後の1878年になってようやく「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いも薄まった[6]。皇后ウジェニーは 気取ったものやルイ15世様式を再び流行させ、今日ネオバロック(バロックリバイバル)と呼ばれる様式が生まれた[7]。
バロックの復権が始まり、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)はその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。
ヴェルフリンはバロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した[8]。ヴェルフリンは今日の著述家たちのようにはマニエリスムとバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花したロココという相も無視していた。フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。
始まり
バロックの萌芽となる着想は ミケランジェロの仕事に見出される。バロック様式は1580年頃に始まった。
(大抵はプロテスタントの)美術史家は伝統的に、バロック様式が新しい科学と新しい信仰の形――宗教改革――を生んださまざまな文化的運動にカトリック教会が抵抗していた時代に発展したという事実を強調している。建造物におけるバロックは教皇が、絶対王政がそうしたように、その威信を回復できるような表現手段を命じることでカトリックの対抗宗教改革の端緒の象徴となるほどまでに道具として使った様式であったと言われている[誰?]。いずれにせよ、ローマでは成功を収め、バロック建築は街の中心部を大きく塗り替えた。この時代の都市の更新としては最も重要なものであったろう。
バロック建築(Baroque Architecture)は、1590年頃から盛んになった建築様式。建築そのものだけではなく、彫刻や絵画を含めた様々な芸術活動によって空間を構成し、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。特に内部空間の複雑な構成は、他の建築様式とは際立った特色となっている。
バロックの語源はポルトガル語のBarocco(歪んだ真珠)といわれ、元々は一部に見られるグロテスクなまでに装飾過剰で大仰な建築に対する蔑称であったが、のちに広く17・18世紀の美術・建築に見られる傾向を指す様式概念として用いられるようになった。
19世紀の様式氾濫期になるとバロック様式が国家建築にふさわしい様式として復興した。
中央ヨーロッパの後期バロック建築
18世紀初頭になると、神聖ローマ帝国、特にオーストリアでは後期バロック建築が最盛期を迎え、後期バロック・ロココ建築が下火になったフランスに代わって、これを牽引するはたらきを担った。
1683年にオスマン帝国を退けたハプスブルク家はフランスのルイ14世様式に匹敵しうる国家建築の構築を目指しており、その中心にあって指導的な役割をはたしたのがヨハン・フィッシャー・フォン・エルラッハであった。
彼は様々な歴史的・世界的建築物とローマ建築特有の記念性を総合して国家様式を具現しようと試みた。彼の主要な空間構成は楕円である。
彼の傑作のひとつであるウィーンのカールスキルヘや王立図書館は、中心にこの楕円形平面を置き、これに様々な歴史建築物を引用することによって独創的な建築を創造した。ことに王立図書館はゴットフリート・ライプニッツも関心を寄せている。
このように、彼の建築的アプローチはフランスのそれとは全く異なり、むしろベルニーニやボッロミーニの手法を想起させる。
これは「オーストリアのヴェルサイユ」と呼ばれるシェーンブルン宮殿の景観において明確である。ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントのシュヴァルツェンベルク宮殿とシュタルヘムベルク・シェーンブルク宮殿の意匠も、同様にローマの初期バロック建築の影響が強い。
しかし、彼はベルヴェデーレ宮殿において、イタリア的でもフランス的でもない様々な工夫を凝らしており、オーストリアの後期バロック建築の到達点であると言える。彼らの意匠(特に都市型宮殿の構成)はボヘミアに広がり、プラハはその最も活動的な拠点となった。
オーストリア以外の地域では、フランスやイタリアの影響も受け、また、分割された政治機構のためにより複雑な様相を呈している。
「バーバリアン・バロック」とも呼ばれるドイツ語圏のバロックは、しばしば装飾過多であることで知られている。
内部空間は柱の垂直線以外は全て曲線・曲面で構成されていることが多いが、これはオーストリア西部でウォール・ピラー方式と呼ばれる構造方法が採用されたことによる。
ゴシック建築に見られるように、構造体としての控壁は建物の外側に配置されるのが一般的だが、ウォール・ピラー方式は建物内部に控え壁を突出させることによって複雑な内部空間を形成した。
この意匠とグァリーノ・グァリーニの意匠を融合したのがバルタザール・ノイマンやドミニク・ツィンマーマンである。彼らの複雑な空間の中に装飾が取り入れられ、中央ヨーロッパのバロック建築は劇的な空間を作り上げていくことになった。
「ルネッサンス様式」
ルネサンス建築(Renaissance Architecture)は、一義的にイタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式を指す。
古典古代を理想とするルネサンスの建築における表現といえる。
人体比例と音楽調和を宇宙の基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。
ルネサンス建築にはじまる古典主義建築の系譜は、後のバロック建築・新古典主義建築を通じて継承され、西欧建築の主流であったが、19世紀の歴史主義において相対化し、やがて解体した。
ルネサンス建築は、本質的な意味では15-16世紀のイタリアの一部の都市にのみ成立したといえるが、フランス、イギリス、ドイツなど、西欧諸国の建築活動にも影響を与えた。
当初これらの国々では、主にルネサンス建築の表層的な意匠が導入されたため、各国独自の嗜好が表れており、それぞれ特徴を持った建築になっている
東欧諸国のルネサンス建築
ハンガリー王国、モスクワ大公国、ポーランド王国、オーストリア公国などの東欧諸国は、西ヨーロッパの国々に比べるとルネサンス建築の導入はずっと早く、特に1458年から1490年にわたるマーチャーシュ1世治下のハンガリー王国では、豊かなルネサンス芸術が花開いた。
マーチャーシュは ブダの王宮にイリアから石工や彫刻家を招き、多くの仕事をさせたことが、ブダ城やヴィースグラード城の発掘により証明されている。
マーチャーシュの後を継いだ ボヘミア王 ウラースロー2世もまた、ルネサンス建築を取り入れ、 1506年に エステルゴム大聖堂のバコーツ礼拝堂を起工する。この建築は、平面も装飾においてもルネサンス建築として成立しているものであった。
彼は プラハの宮廷にもルネサンス建築を取り入れ、 プラハ城のウラディスラフ・ホールや、 クラクフの ヴァヴェル城の増築部分に古典的なモティーフをちりばめた。
ヴァヴェル大聖堂のジギスムンドの霊廟は、フィレンツェ出身の建築家が起用され、ルネサンス建築として建設されている。
しかし、マーチャーシュ、ウラースロー2世の死後、ハンガリー王国は急速に衰え、1526年のモハーチの戦いで決定的敗北を喫すると、その領土の大部分をオスマン帝国に奪われてしまった。この結果、ハンガリー王国でのルネサンス建築の活動も衰退する。
マーチャーシュに召還された技術者たちのひとりロドルフォ・ディ・フィオラヴァンティは、イヴァン3世に招かれてモスクワ大公国に赴き、モスクワにおいて1475年にウスペンスキー寺院を、1504年頃にサンクト・ミハエル大聖堂をそれぞれ起工した。
しかし、これらの建物の平面計画そのものには手をつけず、伝統的なビザンティン建築の要素は完全には放棄されなかった。クレムリンの造営には、マルコ・ルッフォやピエトロ・ソラーリ、アルヴィン・ヌヴォら他のイタリア人建築家も参画し、グラノヴィータヤ宮殿のほかアルハンゲリスキー寺院の建設が行われていたが、設計方法はよく似たものであった。
|